家畜-辞書でひくと、「人間が生活に役立てるために飼育する動物」とある。
野生動物でないため、飼いならされると自身で餌を確保することができなくなり、人間に依存してしまう。
同じ様に、会社に依存して生きる人間は「社畜」と呼ばれる。
勿論、同じサラリーマンでも会社に依存せず、毅然と自律して生きる人もいる。
イメージとしては、全体を100として、
(自律 20) --- (自律と社畜の中間 60) --- (社畜 20) だろうか。
次期米国大統領のオバマ、一滴でも黒人の血が混じっていれば黒人といわれる例にならえば、
少しでも社畜の匂いがすれば社畜 → 80%が社畜となる。
生産手段を持たないサラリーマンが、その生産手段を会社に依存するのは当然のこと。
そういう意味の依存ではなく、
「知恵+労働力」の研鑚を重ね、それを価値あるものとして会社内で顕在化できているかどうか、
または、そうすべく努力しているかどうかが問われる。つまりは、働く姿勢の問題。
それが出来ていれば「自律グループ」、そうでなければ「社畜」。
「自律」は、会社がどう転んでもそれなりに生きてゆけるだろうし → 自立、
「社畜」は、会社から見放されると生きてゆけなくなる。
勿論、殆どのサラリーマンは、上に書いた様なことなど先刻承知。
このままではイカンという問題意識もある(ない者もいるが..)。
けれど、いつの間にか、社畜になってしまう。
オレは違うゾ。会社なんぞ、利用すればいいんだよ。
自分中心にやれば良い。他人や会社のことなんぞ、知るもんか。
日系企業でもそうだが、より外資に多いね。この手の者が。
ああ、何という傲慢さ。ああ、何というプアな思考。不毛の砂漠を連想させるアタマ。
世の中が自分中心に回っていると錯覚している。というより、何も分かっていない。
めくらが蛇におじないのと同じで、余りにも知らなさすぎる。自分自身も、世の中のことも。
それこそが社畜なんだよ。
まあ。そんなヤカラは手をかける必要はない。放っておけば良い。
同様に、日系企業の中高年も同じ。
年功序列など、とっくの昔の話しなのに、その幻想・残像がアタマに残っている。
今の処遇を当たり前と思っている。
アタマを冷やして、今の働き(会社に対する貢献)と処遇を比べてみるが良い。
自分の能力と貢献が、組織に寄与しているかどうか。
勿論、数字だけでは計れないが、単純計算でおおよその見当がつく。
自分が、月次給与の3~5倍、或いはそれ以上の利益貢献をしているかかどうか。
利益を計数化しにくい業務もあるだろうが、その場合は、外注や派遣社員に切り換えた場合の費用を充てて代替する。
3~5倍を上回っていれば良い。そうでないならば、真剣に考えた方が良い。
何を? - 決まっているでしょう。アンタは社畜なんだから、社畜の運命を。
中高年の場合、別の角度でいうと、自分が他の者をはるかに凌駕している何らかの領域を持っているかどうかも重要。
つまりは、プロサラリーマンとして世の中を渡るに足る何かを持っているか否か。
タマにはいいけども、新橋辺りで酒を飲み、街頭インタビューでアホな答えをしているんじゃあ、あかんのですよ。
視聴者は、ごきげんのダメサラリーマンの一言、という目で見ているんだから。
若い女性だって同じ。
(日曜日の)「噂の東京マガジン」に出て、アホねえちゃんと笑われているんじゃあ、どうしようもない。
結婚をした後、子育てがしっかりできる基礎訓練を会社・社会でしておかないと、後悔するゾ。
チャラチャラ生きているだけじゃあ、どうしようもない。
ただ単に言われたことだけをやっているんじゃあ、上のアホねえちゃんと同じ。
少し横道にそれたが、どうして社畜になってしまうのか?
やっぱり、人間の弱さというか、流れてしまうから。
自分で必死になって餌を確保しないと飢える野生動物と、餌を与えられる家畜とでは、自ずから生き様も、鍛えられ方も違うということ。
多い少ないは別として、毎月給与という餌が手に入る訳だから、どうしても安住してしまう。危機感が薄い。
人間、窮地に追い込まれないと本気にならないが、窮地を脱する知恵と馬力がないと、いくら本気になっても同じこと。
「武士道」-いろいろな言い方があるが、
我欲の塊である「私」を捨て、「私なき奉公」(注)を生き方の中心におく、その精神、とも言うことができる。
(注)磯田道史氏(茨城大学准教授)の表現
勿論、全ての武士がそうであった訳ではない。
我欲そのものの武士もいただろうし、中途半端な者も多かっただろう。
しかし、それを追求した少数者もいたから、求めるべき道、精神として残った。
彼らは、世の中の変遷に右往左往せず、彼らなりの生き方を貫いたに違いない。
毅然と生きることを欲し、何かにすがったり、依存する人生を廃除する。
つまり、プアとは対極の生き方。
今の日本で「私を捨てる」といっても通用せず、そんなことを言う必要もない。
しかし、金や名誉などではない、人生のブレない軸を持つ、或いはそれを追求する重要性は、今も昔も同じ。
その軸の有無が、社畜であるか否かを分ける。
ワタシ?
う~ん #$%& 答えるに窮するが(←いい格好をしたいのだが、できないため)、
背筋をピシと張った生き方をしたいと願いつつ、いつも猫背になっているから、
上の基準では、ワタシも社畜か。
プアであるのもうなずける。
困ったもんです。
「人の振り見て我が振り直せ」 - ワタシの今日の教訓。
あなたは如何?
野生動物でないため、飼いならされると自身で餌を確保することができなくなり、人間に依存してしまう。
同じ様に、会社に依存して生きる人間は「社畜」と呼ばれる。
勿論、同じサラリーマンでも会社に依存せず、毅然と自律して生きる人もいる。
イメージとしては、全体を100として、
(自律 20) --- (自律と社畜の中間 60) --- (社畜 20) だろうか。
次期米国大統領のオバマ、一滴でも黒人の血が混じっていれば黒人といわれる例にならえば、
少しでも社畜の匂いがすれば社畜 → 80%が社畜となる。
生産手段を持たないサラリーマンが、その生産手段を会社に依存するのは当然のこと。
そういう意味の依存ではなく、
「知恵+労働力」の研鑚を重ね、それを価値あるものとして会社内で顕在化できているかどうか、
または、そうすべく努力しているかどうかが問われる。つまりは、働く姿勢の問題。
それが出来ていれば「自律グループ」、そうでなければ「社畜」。
「自律」は、会社がどう転んでもそれなりに生きてゆけるだろうし → 自立、
「社畜」は、会社から見放されると生きてゆけなくなる。
勿論、殆どのサラリーマンは、上に書いた様なことなど先刻承知。
このままではイカンという問題意識もある(ない者もいるが..)。
けれど、いつの間にか、社畜になってしまう。
オレは違うゾ。会社なんぞ、利用すればいいんだよ。
自分中心にやれば良い。他人や会社のことなんぞ、知るもんか。
日系企業でもそうだが、より外資に多いね。この手の者が。
ああ、何という傲慢さ。ああ、何というプアな思考。不毛の砂漠を連想させるアタマ。
世の中が自分中心に回っていると錯覚している。というより、何も分かっていない。
めくらが蛇におじないのと同じで、余りにも知らなさすぎる。自分自身も、世の中のことも。
それこそが社畜なんだよ。
まあ。そんなヤカラは手をかける必要はない。放っておけば良い。
同様に、日系企業の中高年も同じ。
年功序列など、とっくの昔の話しなのに、その幻想・残像がアタマに残っている。
今の処遇を当たり前と思っている。
アタマを冷やして、今の働き(会社に対する貢献)と処遇を比べてみるが良い。
自分の能力と貢献が、組織に寄与しているかどうか。
勿論、数字だけでは計れないが、単純計算でおおよその見当がつく。
自分が、月次給与の3~5倍、或いはそれ以上の利益貢献をしているかかどうか。
利益を計数化しにくい業務もあるだろうが、その場合は、外注や派遣社員に切り換えた場合の費用を充てて代替する。
3~5倍を上回っていれば良い。そうでないならば、真剣に考えた方が良い。
何を? - 決まっているでしょう。アンタは社畜なんだから、社畜の運命を。
中高年の場合、別の角度でいうと、自分が他の者をはるかに凌駕している何らかの領域を持っているかどうかも重要。
つまりは、プロサラリーマンとして世の中を渡るに足る何かを持っているか否か。
タマにはいいけども、新橋辺りで酒を飲み、街頭インタビューでアホな答えをしているんじゃあ、あかんのですよ。
視聴者は、ごきげんのダメサラリーマンの一言、という目で見ているんだから。
若い女性だって同じ。
(日曜日の)「噂の東京マガジン」に出て、アホねえちゃんと笑われているんじゃあ、どうしようもない。
結婚をした後、子育てがしっかりできる基礎訓練を会社・社会でしておかないと、後悔するゾ。
チャラチャラ生きているだけじゃあ、どうしようもない。
ただ単に言われたことだけをやっているんじゃあ、上のアホねえちゃんと同じ。
少し横道にそれたが、どうして社畜になってしまうのか?
やっぱり、人間の弱さというか、流れてしまうから。
自分で必死になって餌を確保しないと飢える野生動物と、餌を与えられる家畜とでは、自ずから生き様も、鍛えられ方も違うということ。
多い少ないは別として、毎月給与という餌が手に入る訳だから、どうしても安住してしまう。危機感が薄い。
人間、窮地に追い込まれないと本気にならないが、窮地を脱する知恵と馬力がないと、いくら本気になっても同じこと。
「武士道」-いろいろな言い方があるが、
我欲の塊である「私」を捨て、「私なき奉公」(注)を生き方の中心におく、その精神、とも言うことができる。
(注)磯田道史氏(茨城大学准教授)の表現
勿論、全ての武士がそうであった訳ではない。
我欲そのものの武士もいただろうし、中途半端な者も多かっただろう。
しかし、それを追求した少数者もいたから、求めるべき道、精神として残った。
彼らは、世の中の変遷に右往左往せず、彼らなりの生き方を貫いたに違いない。
毅然と生きることを欲し、何かにすがったり、依存する人生を廃除する。
つまり、プアとは対極の生き方。
今の日本で「私を捨てる」といっても通用せず、そんなことを言う必要もない。
しかし、金や名誉などではない、人生のブレない軸を持つ、或いはそれを追求する重要性は、今も昔も同じ。
その軸の有無が、社畜であるか否かを分ける。
ワタシ?
う~ん #$%& 答えるに窮するが(←いい格好をしたいのだが、できないため)、
背筋をピシと張った生き方をしたいと願いつつ、いつも猫背になっているから、
上の基準では、ワタシも社畜か。
プアであるのもうなずける。
困ったもんです。
「人の振り見て我が振り直せ」 - ワタシの今日の教訓。
あなたは如何?