陋巷にさまよう (野を拓く 第2部)

プアなわが道とこの世を嗤笑するブログ

プア2-(6) 士業者はプアである

2008-12-30 08:01:04 | Weblog
プア 第2章は、実は、この2-(6)を言いたくてここまで書いてきた。
士業を目指す人たちに年の瀬のメッセージを送る。

士業-弁護士、司法書士、行政書士、公認会計士、税理士、弁理士、社会保険労務士 など、
国家資格を得て、それぞれの業務に従事する「●●士」を士業という。
(本稿では、開業者を念頭において書く。)

弁護士や公認会計士が代表選手であるが、
一般的に、高度な専門知識・ノウハウを持ち、高収入を得ている人というイメージがある。
勿論、そういう人もいるが、そうでない人も多いという現実は、意外と知られていない。

どんな仕事であっても、プロとなるとその分野の高度な専門知識を身につけており、
「士業だから」と何か別世界かの様にみるのは間違っている。
また、高収入という面では、一部のサラリーマンが高収入であることをもって、
サラリーマン全員が高収入という訳ではない、というのと同じ。

つまり、特別な世界、特別な人種ではない、ということ。
大きい事務所や士業法人等に属している人はサラリーマンと似たようなものであり、
個人開業者は、何のバックボーンもない、零細個人事業主。
街の八百屋さん、魚屋さんと同じ。

特徴があるとすれば、個人や法人の権利義務や利益に直接関与する案件を扱う仕事であるため、
失敗や失態をしでかして「ごめんなさい」ではすまないという点。

一方、上のリスクを報酬に転化できている人がどれ程いるかとなると、
「どんなもんだろう?」と考えてしまうレベル。
一言でいうと『ワリの合わない職業』。

昔は、「三年我慢してやれば食える」といわれたが、
今では、五年やっても、十年やっても、食える人もいれば、食えない人もいるのが現実。
これからは、その差がもっと激しくなると、皆さん戦々恐々。
なんでこうなった? それを分析して考えてみると良い。

昔から「イソ弁」の言葉はあったが、最近は「ノキ弁」の言葉も生まれた。
【イソ弁】いそうろう弁護士の略。自身での開業までの間、他人の事務所でコキ使われる新人弁護士をいう
【ノキ弁】イソ弁にもなれず(ならず)、知り合い弁護士に頼み込んで、その軒を貸してもらう新人弁護士をいう

弁護士はまだ良い。
現在のところ、一応は、社会的認知が高いし、成功報酬型のため、運がよければ高額の報酬を得るチャンスはある。
つまり、ホームランで一発逆転があり得る。勿論、連続ホームランも、力と運があれば、満塁ホームランだってある。

他の資格は、それがない。ひらすら単打を繰り返すのみ。
資格によっては、単打どころか、バンドヒットのみを試みる日々。
しかし、単打やバンドだって、警戒されればなかなか成功しない様に、簡単に打てる訳じゃあない。
まして、コンスタントにとなると、至難のワザ。
勿論、そういうもんだと分っていれば、それはそれで良い。
しかし、過大な期待感をもって臨むと裏切られる。
過大な期待とは、「それを裏づける能力と幸運があれば」という前提を認識していない場合におこる。

本質的に、自身がリスクを負う職業ではない。
相談・依頼者に対し、その行く手を示し、背中を後押しし、またなり代わって手足を動かす訳だから、
自分がスターになることはない。
自分がスターだと勘違いしたときは、何か問題を起こしてしまう。

勘違い、誤認識、過大な期待を払拭し、
知識・ノウハウの習得・蓄積に努め、人や会社に奉仕する仕事であることを直視すれば、
プアから脱することができるかも知れない。

この職業は、人に奉仕する精神と経済的な自立(自律)の両立が課題。
偏ると、どこかで行き詰る。

資格の優劣はなく、ただ(世の中に対する)役割の差異がある。
と、書きたいところだが、実際には、世間の評価(信用)や経済的な面で大きな差がある。
やり方によってそれを克服しようとする(低評価)資格者もいるが、往々にして利潤追求に走ってしまう。
また、乏しい懐を何とかしようと、職業倫理を横へおく者がときおりいる。

お互いを「先生」と呼び合う世界で、
互いのスネの傷を舐めあう感じがして、何だかいやらしい。
しかし、記名力が低下した者には便利なことば。

天職と考えて士業の世界に入った者を除き、殆どが元の世界の落後者。
もっとも、士業の世界の水が合う者は結果オーライ。

何かの拍子に注目をあび、どう勘違いしたのか、議員に立つ者がいる。
議員の世界が「緑の芝生」に見える。
それを待ち望む者もいる。長年やっていると、確かに、違う世界を待ち望みたくなる。

しょせんは手間賃仕事で、その連続はしんどい。
実力をつけても、依頼者には分らないから、新人の報酬と大差ない。

プライドはある。「国家試験」に合格したというプライドが(試験組でない者もいるけど)。
逆に、そのプライドだけという見方もできる。
そのプライドがないと、自分が何なのか分らなくなる。
しかし、他人からみると、そのプライドがこっけいに映る。
「国家」が認めたという「おすみつき」が唯一のささえ。
そんなものを支えにせざるを得ないココロの貧しさよ。

有資格者であることを夢みている間は良い。
それが実現して実際にその立場に身をおくと、とたんに世の寒風が身にしみる。
暫くの間は、寒風の中の暖に感動するときもある。
自分がどう生きているか、ひそかに充実感を感じるときもある。
世の中の何かをリードした気になるときもある。
少しばかり見栄もはりたくなる。
しかし、現実は貧しい(経済的に)。
我慢しながら十年、二十年やっていると、だんだん疲れてくる。
トシとともに、自分の限界を感じはじめる。
こんな生き方でよかったのかと。何か違ってしまったなあ。
そんなことは、人には言えない。
もんもんとする。
最初の志はどこへ行ったのか。

全く違うが、現象として、幕末の活動家(志士)と少しばかり似ている側面がある。
倒幕まではその意義と志操に身を挺するが、実現してみると、期待したものとは違う風景に気づく。
こんな筈じゃあなかった、どうしてこんなことになったのか、と。
仕方がないから、その風景の中で生きるが、すれ違い感覚は消えない。
一部には「違うぞ」と声を出す者もいるが、声は新しい風に吹き飛ばされる。
すれ違いを感じない者は、ただ鈍いだけ。
また、そういうことを考えない様にしている者もいる。考えても仕方がないから。
実際、考えない者や鈍い方が、生物としては適者かもしれない。
倒幕が実現する前に死んだ者は幸いだった。
鈍く生き、その生き恥をさらすよりは。
一流は倒れ、三流志士が生き残り、西南戦争後も生きたヤカラは四・五流ばかり。
もっとも、生きた彼らを三流以下というなら、今の日本は十流のオンパレード。
(十とは満つる意で、それ以上(以下)はない。)

思いつくままに好き勝手なことを書いたが、異論もあるだろう。
上とは全く違う、素晴しい士業者もいるだろう。
それはそれで良い。立派。
ただ、士業の世界を志すあなた、青い鳥症候群にだけはならない様にした方がいいよ。 
コメント
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