ナベブログ

クルマ好きな元同人絵描き
わたなべやすおのブログです。
(現在は同人活動は無期限休止中です)

人類に対する罪をなすものの正体は…

2011年08月11日 14時33分54秒 | その他

広島、長崎の原爆忌を今年も迎えました。

今年、福島での原発事故を経験した日本国民にとっては
原子力・放射能について今まで以上に思うところある
原爆忌だったかと思います。


原爆→放射能→原発事故と関連付けることで
原爆と原発を結びつけて「同じようなもの」「同じ人類の敵」と
発言する人も目立つように思います。



ただ…私はあえて言いたいです。

原子力は本当に人類の敵なんでしょうか?
本当に恐ろしいものは何なんだ?
以下、私の考えを述べたく思います。

考えなので人それぞれとは思います。
違いはあって当たり前。
でもそれを知った上で、良ければ聞いていただきたいです。





先ず…
原子爆弾は本当に恐ろしい兵器です。

それは改めて説明するまでもないでしょう。



なぜそんな恐ろしいものが生まれたか。

それは戦争があったからです。
人がいかに人を効率よく殺せるか、相手の世界を破壊できるかを
追求した結果生まれたのが恐ろしい核兵器でしょう。
核に限らず兵器は全てそうでしょう…。


ではなぜ戦争があるか?
なぜ人は戦争をするのか?

私は戦争は「国家の対外政策の一つ」であると思っています。
ただし…最終的かつ最悪の選択だと考えています。
理性と知能のある人類が選ぶにしてはもっとも愚かで不毛な行為です。
暴力で他を排斥、屈服させるのは獣と同じ所業です。

しかし人は賢いのに賢い選択ができないこともある愚かな面を持っています。
場合によっては戦争が、争いが避けられないこともあります。
人間は理屈より都合で動く…という愚かさを持っているのです。
そして自分の都合を何としても押し通そうとする我欲・傲慢さを持っています。


そして…人は”自分に正義がある”"裁くのはこちらだ"という大義名分があると
どこまでも残虐になれるという恐ろしい面があります。


それこそそういう残虐性はネットや日常でも見ることができるでしょう。
数に勝る勢力が個人や少数を袋叩きにする。
非をおかした相手を必要以上の報復で叩きのめし吊るし上げる…。
力の弱い子供や女性、老人に暴力を振るう…。
例はいくらでも挙げることができるでしょう。



そういう残虐性は、じつは全ての人の心の中に眠っていて
何かのきっかけで目を覚まします。
私にも…これを見て下さっているあなたの中にも…
その悪魔は住んでいます。

そして一度目を覚ますと、
自分でも想像がつかないほどの残虐性を発揮するのです。




「悪いのは相手だ」「私たちは正義だ」「悪は滅ぼさねばならない」
「悪には悪に相応しい罰を与えねばならない」
いかにもそれっぽい言葉です。
そしてそこには悪としたものに対する思慮はありません。

「悪…悪いやつら、敵が憎い。」「やつらが憎い、消してしまえ!」

「正義である我等が悪を倒すのに何の躊躇いがあろうか!」




そうやって人は戦争に理由を与えて戦争をします。


原爆を生み出し、広島・長崎に投下したのも。
東京や大阪、それ以外の多くの都市を焼け野原にした無差別爆撃も。

日本が大陸でかつて行った虐殺などの残虐行為も。

ヨーロッパで行われたという絶滅計画による虐殺も。

みんな同じ「人の心の中に住んでいる悪魔」がしたことであると
言えるのではないかと思います。



「我らの未来のために」「悪を滅ぼすために」「劣等民族を浄化するために」
「相手の全てを奪ってしまえ!」
大義名分を与えられ、我欲の前に人間の心のタガが外れた結果、
目を覆わんばかりの悲劇が起こりました。





原爆を生み出したのは”アメリカ人という人種”ではありません。

正確に言えば「人間の心の闇」「その闇の中の悪魔」が
生み出したものだと思います。

原爆を投下したのは
「暴走し他を思いやることや愛することを忘れた、獣と化した人」でしょう。

殺していい、殺しちゃえ!…という考えを持ち、悪魔そのものと化した人間が
残虐性の塊になって生み出し、使用したものです。


正しく使えば人類の先を照らす灯火になることもできた原子力を
殺戮の道具に変え、人類に仇なす敵としたのは他ならぬ「人間自身」です。







歴史の流れで、偶然アメリカで作られ、日本に落とされたのだと。
日本人やドイツ人も研究していた原爆です。
日本が先に作っていれば…同じように暴走状態の人間です。
おそらく日本が先に使っていたでしょう。
同じ惨禍を別のところで起こしていたことでしょう…。

日本人だけが抑制できるとは思えません。
抑制できなかったからこそアジアだけでなく自国民までを
戦火の真っ只中に放り込んだのです。
アメリカ人も日本人もドイツ人も…みな人間なら同じだったでしょう。
どの国の民も、人間である以上、一度立ち上がってしまった心の闇や
その中の悪魔に抗うことはきわめて難しいでしょう。


ただその惨劇を偶然の巡り会わせで終わらせる訳には行きません。




人同士、相容れぬこともあるでしょう。
国家となればなおさらです。

ただ、その時にお互いがお互いを思いやる気持ちを忘れずにいれば
譲歩することや距離をとるという方法もある筈です。

しかし、”相容れぬ”という事象が生む憎悪や嫌悪が人を狂わせ
恐ろしい戦争をも正当化する残虐性を生み出してしまいます。




真の敵は「人の心の中にいる悪魔」でしょう。
そしてその目を覚ましてしまったのは「人の不寛容」です。

私はそう思っております。




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原発事故…これも悲惨な出来事です。

平和な田園地帯は放射能で汚染され、多くの人が故郷を失いました。



ですが、これも原子力が真の原因ではないと私は思っております。


地震はあくまできっかけに過ぎません。

原発を安全に動かし守っていくための工夫が足りませんでした。
また原子力を使っていく上での技術が足らなかったのも
事実かと思います。
それが原子力を「人の役に立つもの」から「人に害をなすもの」に
変えてしまったのだと思います。


人は楽に流れます。
大変なことや危機から目を逸らし、都合のいい言い訳を作って
そこへ逃げ込みます。

それは先の戦争の事例でも挙げたのと同じで
「理屈より都合を優先する」という人の性質に他なりません。

原発の防波堤も、複数の安全装置も「想定外」の前に
結果として無策に成り果てました。
また原子力を発電に用いるリスクとメリットを考えるのあたって
メリットばかりに目が行っていたのは事実かと思います。

「最悪の事態には陥らない」と自分もまわりも納得させて
最悪の事態を想定することを放棄して
「楽に流れた」「我欲のままに振舞った」結果が今の惨状なのだろうと思います。



人の怠慢、人間の慢心、「人の心の闇」が
ここでも原子力を「人類の敵」に変えてしまったのだと私は思います。





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すべては人間の心の闇、心の弱さではないか!

私はそのように思っています。







原子力に全ての罪を背負ってもらえば…

人の心の中に住む悪魔は自分のことを忘れてもらえるでしょう。

人間は自ら犯し、これからも犯すであろう罪を
他のもののせいにして生きていけます。
自分の心の闇を無視し続けて…。



でもこれでいいの?

私はそう思います。


私は「全て原子力が悪い」みたいなことは言ってはいけないと思います。
人間が自ら自分たちの心の中の闇に陽をあてようとしない限り、
原爆や戦争の悲劇も、原発事故も繰り返されると思います。

そしてそんなことは絶対に繰り返してはいけないのです!!


人は心を切り離して生きることはできません。
その中の悪魔や心の闇と一緒に生きていかねばなりません。

その為に勇気をもって「人間というものを省みる」ことや
「自分たちの心の中を知り、受け止めていく」ことが必要なんだと思います。



それはきっと「勇気」でしょう。
人がより良く、そして幸せに生きるために。
そして心の闇の中の悪魔と戦うために与えられた
たった一つの対抗手段でしょう。



勇気をもって自らを省みて、自らの弱さと向きあい認め、
それを乗り越えていかねばならないと…

そう私は思います。



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そしてこれからを担う人に反戦平和の思いを持ってもらうために…
”戦争を憎む””原爆を憎む”のではなく、

「戦争を起こす心の闇」を、

「人の中に住む悪魔の存在」を知ってもらうことが大事と思っております。

できるならば…そういったものを受け入れ見つめていける英知を
これからの世代には育てていって欲しいと思います。



戦争を起こし、故郷を焼け野原にし、大事な人々を消し炭にしてしまう…
そして多くの人の心に憎悪と悲しみをのこす戦争を起こすのは
「人の心の闇」と「その中に住む悪魔」です。

そして今回の事故を起こしたのも「我欲」「都合で生きる」といった
「人の心の闇」です。



それを憎んではいけないのだと思います。




「原爆が憎い、戦争が憎い」…私たちの世代はそう教えられました。

ただそれはエスカレートすると
「私たちに原爆を落としたアメリカが憎い」
「戦争で民間人を虐殺したアメリカ人が憎い」
そのまま「アメリカとその全てが憎い」に変わっていきます。
(そういう人は決して少なくないです)

そしてその「憎い」という気持ちは、実は戦争を起こし
相手を殺してもいいと思うように人を狂わせ変えてしまう「憎しみ」と
全く同じものなのです。

憎しみはいつか私たちの子孫を狂わせるでしょう。
そして同じ悲劇を繰り返してしまうでしょう。



隣国では悲惨な虐殺を伝えるはずの施設が
そのまま「日本憎し」の感情増幅機関となり、悲惨な虐殺ではなく
他国への憎悪を増やすものになっていると聞きます。


日本での戦争遺産をそういう形で使ってはいけないと思います。
先人の犠牲を真の意味で無駄にしないためにも。




戦争の惨禍が憎い、戦争が憎い…と教えるだけでは
駄目なんだろうと私は考えます。
そしてただ、平和!平和!というだけでも駄目でしょう。
真の「戦争を起こすもの」を知り、抑えなければ
いつか悲劇は繰り返されます。


大事なのは平和への願いである筈です。
他への憎悪を掻き立てる事ではない筈です。


誰かの、何かのせいにして逃げてはいけないです。

そしてその為には人間の…自らの心の闇に陽を当て
その中に住む悪魔を…けっして追い出すことのできない恐ろしい隣人が
目を覚まさぬように…また目を覚ましても自らが狂ってしまわぬように
していく方法を見つけていかねばなりません。



憎むことから、認めて見つめ、ともに歩む優しさの反戦平和に…
私はそう願っておりますです。





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