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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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軍の関与と命令-戦犯の供述

2008年03月13日 | 国際政治

 「支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ、特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ノ確認セラレアルモノ少ナキヲ以テ、仮リニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」
 これは、1933年に出された陸軍歩兵学校の「対支那軍戦闘法のノ研究」の「捕虜ノ処置」の項目の一文である。また、
 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ 」
 これは、1937年8月5日、陸軍省から各支那駐屯軍へ送られ、後に派遣された各軍もこれに従うところの「今次事変ニ関スル交戦法規ノ適用ニ関スル件」と題された通牒の中の一文であり、この中で「戦利品、俘虜等ノ名称」はこれを使うなと指示しているのである。
 日本軍は日中戦争をあくまでも「事変」として、この戦争に国際法を適応しないと決め、「俘虜収容所」を設置した後も、中国人捕虜を法の外に置き、差別感や蔑視感を拡大再生産しつつ、虐殺・虐待・酷使を繰り返したのである。
 下記は1956年に中国の日本人戦犯裁判で有罪判決を受けた9名と不起訴になった高級副官1名の「筆供述書」をまとめた「侵略の証言-中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から抜粋したものである。慰安婦問題における軍の関与や「三光作戦」の命令を具体的に示している公文書である。

陸軍第百十七師団師団長 陸軍中将 鈴木啓久 筆供述書より----- 歩兵第六十七聯隊長の時の罪行
 (2)九月、私は師団長熊谷中将の実施せる宣城侵略作戦に参加しました時、宣城西方約40粁付近に於いて、 抗日国民党軍の旁系軍約50名家屋内に退避せるを発見致しまして、私は第一大隊長角田少佐に毒ガス攻撃を命じ其の全員を惨殺致しました。

 (9)私は、巣県於いて慰安所を設置することを副官堀尾少佐に命令して之れを設置せしめ、中国人民及朝鮮人 民婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめました。

 (10)7月下旬、日本財閥三井と南京に蟠居せる日本侵略軍司令官西尾大将の直接隷下にある陸軍貨物廠とが結合して、巣県附近に於ける米を掠奪のため来たりしとき、私は之を援助し集荷に助力し約100噸の米を掠奪せしめました。

 第二十七歩兵団長の時の罪行
 (10)11月、私は「某が八路軍と通謀して居る」との報告を受くるや直ちに「其の村落を徹底的に剔抉を行ひ粛正すべし」との命令を副官松原順一郎をして第一聯隊長田浦竹治に伝達せしめたる結果、田浦は当時私の部署下にありました騎兵隊と結合して?県潘家載荘の中国人民の農民1280名を或いは銃殺し、或いは刺殺し、或いは斬殺し、又は生埋めをなす等の野蛮な方法を以て集団し尽し全戸800を焼却し尽し、主食千斤、被服多数を又家畜約40車約40輛を悉く掠奪し尽したのであります。此の惨事は当時第一聯隊長田浦より「多数の中国人民を殺害せり」との報告を副官松原より受け、又騎兵隊よりは騎兵隊の壕掘開担任地の現場に於て同隊の中隊長鈴木某(大尉)より「騎兵隊は多数の中国平和人民を殺害せる為中国人民逃亡しありて工事の為めの労工不足し工事進捗しあらず」との報告を受けながら、私は通常にあるものの如く考え何等意に介せず其の儘に放置してしまったのであります。
   

陸軍第五十九師団師団長 陸軍中将 藤田 茂 筆供述書より-
---
  犯罪事実
 (六)俘虜殺害の教育指示。私は1月中旬将校全員昼食後張良村で次の如く談話し教育しました。
 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ、強くしなければならない」
 「此には銃殺より刺殺が効果的である」
 此の教育は私の当時最も大なる誤れる感念で此感念が終始私が厳重なる中国人民に対する罪行を犯した基因の一をなしたるものであります。
 
 
陸軍第五十九師団高級副官 廣瀬三郎 筆口述書より--------
 六 山東省駐屯時五十九師団高級副官時代の罪悪
  17 済南に於ける一部後方施設監督時の罪行
 イ ・・・
  星倶楽部は日本軍将兵専用の中国人妓舘でありまして其経営は済南中国人妓舘組合長に委託し 建物は日本軍が済南占領時中国人より押収掠奪せるものを利用内部を改造し使用せしめ 従業員の食糧日用品等は日本軍酒保より廉価にて供給又医療は日本軍に於いて負担するという名目の下に欺瞞し 廉価に日本軍将兵か佚楽し得るの具に供したもので、妓女は約30名、1名1日平均20名多き日は30名の日本軍将兵を相手にせしめました 年歯十七才乃至二十才の若き中国女性の多くを侵畧者の肉慾の対象たらしめ 又其過労による疾病損耗を生せしむるの大罪悪を犯しました 病人は経営者たる組合長か自己組合妓舘の妓女と交代せしめてゐたのでその数は判りませんでした

  ハ 日本軍河南作戦進捗に伴ひ1944年6月頃第十二軍より妓女を前線に送られたき旨の依頼要求がありました 日本人料理組合は当時日本人妓女か著しく減少し此要求に応し難き旨回答がありましたので 済南朝鮮人料理組合に依頼し派遣后の妓女の補充に付便宜を与ふることを条件として 承諾せしめ朝鮮人妓女約30名を危険多き第一線に近い鄭州に派遣(約3ヶ月)するの罪悪を犯しました僥倖にして此間妓女の損害は1名もありませんでした。

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働き手を連行された家族

2008年03月07日 | 国際政治
 下記は、「死者への手紙-海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち」(明石書店)の著者「林えいだい氏」が「死者への手紙」の返事を書いた「鄭 琦默さん」を訪ねた時の様子の一部である。
----------------------------------
 「鄭 琦默さんはいますか?」
 ゆっくりガラス戸が開いて、一人の老人が私の前にぬっと顔を突き出した。酒臭い匂いがして、焼酎瓶が横に転がっていた。キムチの食べ残りの皿が、床に放り出されている。
 日本から訪ねてきたと説明すると、鄭さんは私が韓国に出した手紙を、枕元から持ってきた。何度も読み返したのか、手紙はしわくちゃになっていた。
 「体がうすごく悪いんだ。座っているだけでもきつい。これも働き過ぎ、弟の分まで働いたから体の全部が痛い。お前の手紙を見て、昔のことを思い出して気分が悪くなった」
 と鄭さんは吐き捨てるようにいった。それから突然口をつぐんでしまった。<BR>
 「今から45年前、弟は日帝時代に徴用された。その時のことを思い出すと、もう言葉にはならない……」
 涙をためて深い溜息をついた。
 弟の現默さんが1944年(昭19)強制連行された時は、柳谷里にはもう若い者はいなかった。鄭さんも徴用を逃れるために、ずっと山奥の洞窟に隠れていた。夜になると山から出て、暗い畑で農作業を済ませ、夜明け前に弁当を持って山へ引き返して行った。
 三菱から直接強制連行にきた労務係は、にやってきては働けそうな者を探し回り、捕まえると面事務所へ連れて行った。そこにはすでに戸籍抄本が用意され、拒否することは許されなかった。
 「家の宝物を連れていったんだからね、残されたアボジ(父親)は大変なものだ。新婚早々の女房は狂ったようになった。日本人のやることは人間じゃない。恨みの相手だ。
 生きて帰ってきたのならいいが、弟を殺してしまい、日本は仇だよ。弟は死ぬために日本へ行ったようなものだ。の人たちは、ただ可哀そうなことをしたというだけで、どうすることもできない。日帝時代のことで文句もいえなかった」
 弟が強制連行された二ヶ月後の7月26日、崎戸炭鉱から死亡の電報が届いた。どのような理由で死んだかわからないまま、鄭さんは借金をして旅費をつくり、関釜連絡船に乗って長崎へと向かった。
 崎戸炭鉱の親和寮で弟と対面したがすでに火葬が終わって遺骨になっていた。
変わり果てた弟の姿に声もなく、本当に死んでしまったのかと、一夜遺骨を抱いて寝た。翌朝、弟と一緒に強制連行された同じ洛東面の三人に会わせてくれと、労務係に頼み込んだ。すると彼らは、「同郷の仲間の死を知らせると、戦意高揚に影響する」と、一言のことに鄭さんの願いをはねつけた。
 埋火葬認許証交付簿にある死因は、「左側湿性肋膜炎兼急性腸カタル」で、7月18日に発病して、26日に死亡している。鄭さんにとっては、健康であった弟がどうして死亡したのか、同郷の仲間に確かめたかったというのだ。
 鄭さんの話によると、弟の死亡補償金はもちろん、働いた賃金ももらわず、往復の旅費も炭鉱側は支払わなかったという。
 「遺骨だと渡されただけで、弟は日本のためにまるで犬死にだ。今もそのことを忘れることはない。弟の女房に会うのがつらかった。
 自分の主人が死んだんだから、補償金をもらって帰ってくるとばかり思っていたのに、死んで遺骨だけが帰ってきたのだからね」
 鄭さんは、弟の女房に説明がつかなかった。
 逆に補償金を自分のものにしたのではないかと疑われた。鄭さんの立場を考えると、女房が疑うはずである。たとえ植民地時代といえども、人間一人を死亡させた代償を払うのは当然なこと。それを炭鉱側は無視してきたわけであるから、鄭さんが心の底から怒りをぶつける気持ちはわかる。
 父親は十年後に、悲しみのうちに亡くなった。
 最期まで息子の死を信じようとせず、墓をつくっても一度も参ろうとはしなかった。
 「お前の手紙を見てからというもの、わしは朝から焼酎ばっかり飲んで、気分をまぎらわせている。どうだ一杯飲まないか」
 転がった焼酎瓶を這いながら手に取ると、飲みかけの茶碗を差し出した。
 鄭さんと会って、韓国での第一歩がこれでは大変な取材になると体がひきしまる思いがした。次の星州郡へ向かう間、韓国の遺族へ手紙をだしてよかったのかどうか考え直してみた。

 
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サンダカン捕虜の死の行進

2008年01月28日 | 国際政治

           サンダカン捕虜収容所-NO3

  簡単に比較することはできないが、サンダカンの捕虜や日本兵がバターン死の
行進に優るとも劣らない悲惨な「死の行進」によって亡くなっている。ボルネオ島のサンダカンからラナウの約260キロの行進であったが、鬱蒼としたジャングルや湿地帯でおおわれており、また雨期でであったため、時には20cmのぬかるみの中を2日間も行進しなければならなかったという。したがって、ほとんどの捕虜が素足での行進を余儀なくされ、熱帯性潰瘍に冒されていた捕虜は潰瘍をさらに悪化させたわけである。また、ジャングルの中にはコブラやトカゲがおり、沼地にはワニもいたというのであるが、特に茶色の大きなヒルが生息しており悩まされたということである。
 「知られざる戦争犯罪-日本軍はオーストラリア人に何をしたか」田中利幸著
-大月書店
によると死の行進の概要は下記のようなことである。

戦況悪化------ -----------------------
 連合軍によるサンダカンへの引き続く空襲のために、飛行場が使いものにならなくなり、1945年1月10日、日本軍は修復工事をあきらめ、捕虜の強制労働も停止させた。そして、連合軍の上陸が予想される西海岸の防備を強化することを決定し、兵力の移動とともに、体力の残っている捕虜500名を軍の物資輸送に利用しながら移動させることにしたのである。
 捕虜500名を山本部隊に引き渡すよう命令された捕虜収容所の星島所長はなぜか470名しか引き渡していないという。
 山本は470名の捕虜を9班に分け、各班を50名前後の捕虜で構成し、各班の護送責任者として士官を一人、下士官を一人ないし二人ずつ割り当て、さらに各班に40人前後の兵卒を護衛としてつけた。

「捕虜処分」の許可-------------------------
 「落伍者を出すな」という命令とともに、サンダカンからラナウまで捕虜を移動させる命令を受けた山本大尉は、任務遂行はきわめて困難と考え、行程期間の延長や医薬品の増加、休憩地点を増やすことなどいくつかの要望を司令部に出した。しかし、受け入れてもらえず、「落伍者を出すな」という司令部からの命令を「落伍者は処分してよい」というかたちで、最後尾の班の責任者に命令せざるを得なかったようである。

ラナウへの移動 第一団-----------------------
 1945年1月29日早朝6時、総責任者である山本大尉、それに第1班のオーストラリア軍捕虜55人が40人の日本兵に付き添われてサンダカンを出発した。その後毎日各班が前の班を追うかたちで出発し、最後の9班がサンダカンをでたのは2月6日であった。前述したように、出発時に米や乾し魚、少量の塩ビスケットなど4日分の食料を与えられ、途中のムアナッド、ボト、パパン、ムリル、パギナタンの5カ所の各食糧補給地点で、次の数日分の米や野菜の供給を受けることになっていた。ところが・・・、
 結局第1班は2月12日午後4時にラナウに到着したが、55人の捕虜のうち15人が死亡。
 第2、は17日の行進でラナウに到着した捕虜は30人であった。(出発当初50人)さらに10名の日本兵が病死している。
 最後尾の9班の捕虜50人(全員英国兵)は2月6日にサンダカンを出発、最後の食糧補給地点であるパギタナンに21日に到着している。この間18人の捕虜と7人の日本兵が死亡している。
 
第6班から第9班、パギタナンで行進中止----------------
 かくして、食糧準備不足のために、すでに述べたように後列の班になるほど状況が悪化し、捕虜たちはカタツムリやカエル、しだの葉っぱなどとにかく食べられるものは何でも口に入れて飢えをしのぎながら行進しなければならあなかった。しかしあまりにも衰弱が激しかったため、捕虜と日本兵両方の体力回復をはかるために、第6班から第9班までの4つの班の行進を最後の食糧供給地点であるパギタナンでいったん中止させている。この4つの班はパギタナンに2月17日から21日の間に到着したが、合計200人近くいた捕虜のうち40名ほどが途中で「落伍」していた。さらに、ここまでたどりついた160名も極端に衰弱しほとんどの捕虜が熱帯病に冒されていたため、毎日何人も死んでいった。結局彼らは ラナウから運ばれてくる米の補給にたよりながら1ヶ月ほど留まったが、この間に100名ほどが死亡した。

捕虜による物資運搬中止-----------------------
 一方、第1班から第5班はラナウに2月12日から19日にかけて到着したが、もともと270名ほどいた捕虜のうちラナウに到着したのは200名弱であった。しかし彼らの多くもまた苛酷な行進のため体力を消耗しきっており、そのほとんどが脚気やマラリアに冒されていた。これ以上の行進はまったく不可能であった。第37軍司令部は、捕虜の中にあまりにも多くの死亡者が出たため捕虜を軍の物資運搬にこれ以上利用することをあきらめたのか、命令を変更して捕虜をそのまま留めることを決定した。
 
 ラナウに残された200名たらずの捕虜は2週間ほどの休息を与えられたが、食糧配給事情は相変わらず悪く、医薬品の供給もまったくなかったため、この間に数多くが死んでいった。

 第二陣の行進でサンダカンから連れてこられた捕虜たちがラナウに到着したとき、生き残っていた捕虜はたった6人だけであった。

          http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/
        http://homepage3.nifty.com/pow-j/j/j.htm

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泰緬鉄道俘虜収容所

2007年12月15日 | 国際政治

 元英国陸軍大尉アーネスト・ゴードンの「クワイ河収容所」(ちくま学
芸文庫)は、地獄でさえこれほどひどくはないと思われるような状況の中
で生を喪失した俘虜の世界に生を回復させ、人間の尊厳を取り戻す経緯を
ていねいに描いているが、一面では、泰緬鉄道敷設工事における日本軍の
残虐行為を、意図するかしないかにかかわらず明らかにする一冊となって
いる。
 ゴードンはアカデミー賞映画「戦場にかける橋」の原作小説を読んで、
収容所で起こったことを伝えたい衝動を感じたという。原作は根本的には
娯楽小説だというのである。そして、異国の地で死んでいった戦友のため
に、彼が体験したことを公にする責任を感じたというのである。日本軍が
いかに人権意識や法遵守の意識を欠いていたか思い知らされる。

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集団自決「強制」削除検定は撤回を-2

2007年10月04日 | 国際政治

 Yahoo!掲示板の「この事件、事故に”ひとこと 言いたい!”」で「沖縄の集団自決の遺族は年金詐欺だ」と繰り返している人達がいるので、さらに追加します。
 梅澤少佐や赤松大尉の名誉を回復するため「命令しなかった」ということを強調する気持ちは分かります。でも、それを理由にあの沖縄戦で「軍命」がなかったとすることはできないでしょう。
 沖縄守備軍司令官・牛島満中将の最後の命令は「最後の一兵まで戦え」です。投降は許していないのです。投降しようとする者が射殺されるところを目撃している人達がいるのです。また、日本軍は沖縄住民のスパイ活動を極端に警戒して方言の使用禁止を命じ、疑わしい住民をスパイ容疑で射殺しています。
 当時の沖縄戦の日本軍にとっては、捕虜になることはスパイになることと同じだったと言えるのではないでしょうか。「生きのびろ」とは言っても、決して「投降してもよい」とは言えない状況だったと思われます。「いよいよ逃げ切れなくなったときは、潔く自決しろ」というのが軍の方針であり、「軍命」でしょう。だから手榴弾や青酸カリが必要だったのです。
 宮城晴美さんの「隊長は部隊の最高責任者。隊長が『投降しなさい』と言っていれば集団自決は止められた」という言葉をかみしめるべきだと思います。

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集団自決「強制」削除検定は撤回を

2007年10月04日 | 国際政治

 集団自決「強制」削除検定は、日本の将来を考えると見過ごすことができないと考えます。インターネットの掲示板でのやり取りがあまりにもひどい状況なので、再度投降することにしました。
 確かに、「自決はまだ早い」という意味で思い止まらせたり、今に友軍が必ず来ると信じて、「生き延びろ」と言った日本兵がいたことは、住民の証言から事実であったと思われます。でも、「軍命」があったのかなかったのかで大事なことは、いよいよ米軍が迫ってきたときに「投降すること」を軍が認めていたのかどうかだと私は思います。
 沖縄戦では、日本軍が根こそぎ動員で多くの住民を軍の作業につかせました。そして、壕の状況や兵士の数、武器の状況まで日本軍の状態が少なからず住民に知られ、「住民が米軍に捕縛された時にこうした軍事情報が漏れる」ことを恐れたため、日本軍は投降することを許さなかったのではないかと思います。
 それは、「大宜味村渡野喜屋で、山中に潜んでいた日本兵がアメリカ軍保護下の住民をスパイと見なし虐殺した事件」や「鹿山正久米島守備隊長がアメリカ軍に拉致された住民3人を敵に寝返ったスパイとして処刑し、その家族までも内通者として処刑した鹿山事件」などの事実が証明しているのではないでしょうか。投降しようとした者はもちろん、アメリカ軍からの投降を呼びかけるビラを持っていただけで、スパイもしくは利敵行為であるとして処刑されたということもあったといいます。さらに、沖縄戦だけではなく、いろいろな戦場で、敵に投降しようとする日本兵が射殺された事実が記録されています。
 また、南風原陸軍壕では、米軍が迫り撤退する際「独歩患者だけを連れて行け」との軍命で、多くの患者を壕に残さざるを得なかったようですが、残された患者には青酸カリ入りのミルクが配られたといいます。捕虜になることを許さなかったからではないでしょうか。住民に手榴弾が配られた多くの証言とともに「自決」が軍命であったことを示していると思います。

 「自決はまだ早い」という指示は、「自決」について「軍命がなかった」ということにはつながらないと思うのです。
 多くの証言や事実から学ぶことが、今とても大事であると思います。

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特定の思想教育?

2007年08月19日 | 国際政治

 8/18の朝日新聞朝刊の記事をみて驚きました。平和を考える沖縄への修学旅行を非難するメールが届いたというのです。この日本で、中学生が戦争体験者の話を聞くことを否定することこそ「特定の思想」であり、子ども達を戦争へと押しやる考え方ではないでしょうか。わたしは、できるだけ多くの子ども達が、できるだけ多くの戦争体験者の話を聞いてほしいと思っています。下記は記事の一部です。

「生徒たちが考えた企画を日程の中心に据え、平和の価値を学ぶ沖縄への修学旅行を20年近く続ける私立自由の森学園中学校(飯能市)。同校に先月、「反戦教育」や「特定の思想」と決めつけて取り組みを非難するメールやファクスが送られてきた。思わぬ横やりに、生徒たちは「私たちは沖縄の歴史を自分で考えている。『反戦教育』は誤解」と話している。」

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再び沖縄戦集団自決について

2007年07月29日 | 国際政治

 昨日(7/28)の朝日新聞に、また沖縄戦の「集団自決」の記事が出ていました。今度は、文科省の教科書検定に影響を与えたといわれる「沖縄ノート」出版差し止め訴訟の記事でした。沖縄の女性史研究家宮城晴美さんが「隊長は部隊の最高責任者。隊長が『投降しなさい』と言っていれば集団自決は止められた」と述べたそうですが、自決するのが当然という状況をつくり出し、投降しようとする兵隊を射殺した軍が、軍民一体の当時の沖縄戦の状況の中で「命令はしなかった」というのであれば、隊長としての責任を果たさなかったということになるのではないでしょうか。守備隊長個人の責任を追及するだけですまされる問題ではないと思いますが、久米島では米軍の上陸が無かったにもかかわらず、日本軍軍属の鹿山正久米島守備隊長よって、郵便局員とその家族等21名もの住民がスパイ容疑等で虐殺される事件が起こっています(鹿山事件)。この事件については、1972年に本人が事実であること認めただけではなく、「誇り高き大日本帝国軍人として正しい事をしたから良心の呵責はない」との主旨の主張をしたそうです。

 最近連日新聞紙上をにぎわせている赤城農水相の態度に通じるものを感じるのは、私だけでしょうか。 事務所費問題で疑われているにもかかわらず、法に則って処理していると明細を明らかにすることを拒み続け、法に触れる部分を指摘されると「担当者を厳しく・・・」「担当者のミスで・・・」、本当でしょうか。それでいいのでしょうか。
 「捕虜になるな。その時は潔く自決しろ。」という、その潔さはどんなものだというのでしょうか。

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沖縄県議会の要求

2007年06月22日 | 国際政治

 今日の朝日新聞夕刊のトップ記事「検定意見撤回を要求」もとても気になることの一つです。高校生の日本史教科書の検定で沖縄戦の際に日本軍が住民に集団自決を強制したと取れる記述が削除された理由は「日本軍の命令があったか明らかでない。」「最近の研究成果で軍命はなかったという説がある」というのですが、沖縄県議会は全会一致で検定意見の撤回と記述の回復を求める意見書案を可決したと報じられています。

 またしても、文書が残っていないので記述することは間違いであると言うのでしょうか。沖縄県民は嘘つきであると言うでしょうか。

 「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」の中に沖縄最南端の地、喜屋武岬でひめゆり学徒隊のひとりが目撃した次のような一文を思い出しました。
「・・・その時、異様な光景が目に写った。米軍の船に向かって泳ぎだし投降していく日本軍兵士を、アダンのかげからねらいうちし、前方の海はまっかな血が広がっていた。何と恐ろしいことか、味方同士が殺し合うなんて。・・・」

 「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪かの汚名を残す事なかれ。」を逃れることがどういう人達に可能だったのでしょうか。

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