『國亡ぼす勿れ-私の遺言』田中正明(講談社)の「第一部、南京大虐殺はなかった」の中に、”ラーベ日記の虚妄 「南京の真実」は真実か?”と題する文章があります。その中で、著者の田中正明氏は、見過ごすことのできないことをいろいろ書いています。だから、気になる部分を書き出し、「ラーベの日記」の記述をなどをもとにして、その理由をまとめておきたいと思います。
まず、「殺人事件は僅かに49件」としています。そして、「大虐殺などどこにもない」というのです。でも、安全区からくり返し連行された中国兵(武器を捨て戦うことを放棄して安全区に逃げこんだ中国兵)や中国兵と見なされた市民などは、その後どうなったのでしょうか。解放されたという事実があるでしょうか。それとも、武器を捨て戦うことを放棄した兵であっても、元中国兵であれば、連行して組織的に殺害してもよいというのでしょうか。
例えば、『ラーベの日記』の12月15日には、
”残念ながら、午後の約束は果たせなかった。日本軍が、武器を投げ捨てて逃げこんできた元中国兵を連行しようとしたからだ。この兵士たちは二度と武器を取ることはない。我々がそう請け合うと、ようやく解放された。ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。さっきの部隊が戻ってきて、今度は1300人も捕まえたというのだ。スマイスとミルズと私の3人でなんとか助けようとしたが聞き入れられなかった。およそ100人の武装した日本兵に取り囲まれ、とうとう連れていかれてしまった。射殺されるにちがいない。"
12月16日には、
”たったいま聞いたところによると、武装解除した中国兵士がまた数百人、安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、50人は安全区の警察官だった。兵士を安全区にいれたというかどで、処刑されたという。”
というような記述があるのです。そして、虐殺の多くが、南京城外で行われたことを忘れてはならないと思います。だから、「殺人事件は僅かに49件」というのは、そうした連行され組織的に殺害された人たちを含んでいない数字であるといわざるを得ません。同書には、「連行390件」とありますが、「49」という数字は、その連行された人たちの殺害を無視した数字ではないでしょうか。
また、田中氏は「日独が真に同盟関係に入るのは、リッペンドロップが外相に就任した昭和13年3月以降である」として、「ラーベの日記」を当時同盟国であった人の指摘で信憑性が高いと評価した笠原教授や秦教授を批判しています。でも、前にも書いたように、南京陥落前の1936年(昭和11年)に、日独は日独防共協定を、その翌年の1937年(昭和12年)には、日独伊防共協定を締結しています。だから、ドイツ人であるラーベは間違いなく同盟国の人であり、それ故、南京安全区国際委員会の代表にもなったし、何回もハーケンクロイツを利用することができたのだと思います。
それは、『ラーベの日記』の12月13日の、下記のような記述にもあらわれていると思います。
”日本軍につかまらないうちにと、難民を125人、大急ぎで空き家にかくまった。韓は、近所の家から、14歳から15歳の娘が3人さらわれたといってきた。ベイツは、安全区の難民たちがわずかばかりの持ち物を奪われたと報告してきた。日本兵は私の家にも何度もやってきたが、ハーケンクロイツの腕章を突きつけると出ていった。アメリカの国旗は尊重されていないようだ。仲間のソーンの車からアメリカ国旗が盗まれた。”
また、田中氏は、
”ラーベの所属するシーメンス社は、兵器や通信器を製作する有名な武器会社=死の商人である。ラーベの納めた高射砲は当時日本にもない優秀なもので、ラーベはこれらの兵器を売り込むため、南京出張所長を勤めていたのである。”
というのですが、この件も前に書いたように、ラーベは、ヒトラーへの上申書の中の文章で、
”南京電力会社のタービンは我が社の製品です。役所の電話や時計もすべてそうです。中央病院の大きなレントゲン設備、警察や銀行の警報装置も。これらを管理していたのは我が社の中国人技術者でしたので、かれらはおいそれとは避難できませんでした。この人たちをはじめ、事務所の従業員、何十年も私の家で働いている使用人、それから中国人マネージャーなどが、家族を大ぜいひきつれて私のまわりに集まっておりました。”
と書いています。それが事実に反し、シーメンス社が武器会社であり、ラーベが武器を売り込むために南京出張所長を勤めていたというのであれば、それを示す根拠が必要ではないでしょうか。また、ラーベが高射砲を納めたという物的証拠は何かあるのでしょうか。こうした文章を書くのであれば、それなりの資料を明示すべきではないかと思います。
シーメンス社は1800年代半ばにヴェルナー・フォン・ジーメンス によって創業された電信機製造会社「ジーメンス・ウント・ハルスケ」に端を発し、その後に「ジーメンス・ハルスケ電車会社」に発展して電車を製造するようになったといいます。そして、さらに情報通信、電力関連、医療、防衛、生産設備、家電製品等の分野などにも事業を広げ、複合企業として発展したようです。したがって、武器の生産と無関係ではないかもしれません。しかしながら、南京安全区国際委員会の代表をつとめたラーベを「武器会社」の「死の商人」であるというのは、かなり違和感があります。だから、資料を示して、その根拠を明らかにしてほしいと思うのです。
さらに、田中氏の指摘で見逃すことができないのは、人口の問題です。田中氏は「殺人事件はたったの49件」に続いて、「人口は5万人も増加」と題して下記のようなことを書いています。
”日本軍の虐殺によって、南京の人口が減少したというのならわかる。ところが実際は減少したのではなくて、逆に増加しているのである。
次頁の表をごらん願いたい。これは事件当時の記録で、第一級の同時資料である。すなわち南京安全区国際委員会が、日・米・英・独大使館にあてた61通の公文書の中から人口問題にふれた箇所を抽出したものである。
国際委員会としては、難民に給食するため、人口の掌握が必要である。12月17日、21日、27日にはそれぞれ20万と記録していたのが、一ヶ月後の1月14日になると5万人増加して25万人になっている。
以後2月末まで25万人である。すなわち南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が次々に帰還しはじめた証拠である。
中国民衆は不思議なカンを持っており、テレビ、ラジオがなくとも、独自の情報網があるかあら市内の治安回復がわかるのである。正月を控えて、郊外に避難していた民衆が誘いあって次々と帰りはじめたのである。前述の朝日新聞の写真集にはその写真まで出ている。”
でも、田中氏は、当初の「20万」という数字がどういう数字であるかについて検討されてはおられないようです。たとえば、ラーベ自身が、ジーメンス本社からの手紙に対する返事(1月14日)で、
”…私の家と庭だけでも600人以上の極貧の難民たちがおります。たいていは庭の藁小屋に住んでおり、毎日支給される米を食べ生きています。”
と書いているように、ラーベの家と庭だけで「600人以上」というあいまいな表現なのです。またラーベはヒトラーにあてた「上申書」の文章の「その二、難民の収容」のなかで、
”このように、安全区は何日にもわたってすこしずつふさがっていったのですが、それでも、一家そろって野宿しなければならなかった難民が後を絶ちませんでした。おいそれとはてごろな宿が見つからなかったのです。私たちはすべての通りに難民誘導員をおきました。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはなんと25万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定した数より、さらに五万人も多かったのです。なかでも一番貧しい人たち、食べる物さえない6万5千人を、25の収容所に収容しましたが、この人たちには、一日米千6百袋、つまり生米で一人カップ一杯しか与えてやれませんでした。かれらはそれで生きのびなければならなかったのです。”
と書いています”私たちはなんと25万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定した数より、さらに五万人も多かったのです”に明らかなように。「20万」という数字は「想定」の数字だったということです。
また、ドイツ大使館南京分室事務長シャルフェンベルクの記録「南京の状況 1938年1月13日」にも、難民について
”…家や庭の藁小屋に寄り集まって、人々はがつがつその日をおくっている。多い所には600人もの難民が収容されており、かれらはここからでていくことはできない。安全区の外の道路には人気がなく、廃墟となった家々が荒涼とした姿をさらしている。食糧の不足は限界にきている。安全区の人たちは、すでに馬肉や犬の肉に手をだしている。…」
とあります。
「一家そろって野宿しなければならなかった難民が後を絶ちませんでした」とか、「藁小屋に寄り集まって、人々はがつがつその日をおくっている」というような状況で正確な人口調査ができるでしょうか。
だから、南京安全区国際委員会の「25万」の数字に依拠して、「以後2月末まで25万人である。すなわち南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が次々に帰還しはじめた証拠である」というためには、きちんとした別の資料が必要だと思います。
田中氏が「朝日新聞の写真集」を証拠としてあげて
”「皇軍に保護される避難民の群」がぞろぞろ帰ってくる写真がのっている”
としたことに対しては、洞富雄教授による、下記のような厳しい批判があります。
”だが、『朝日新聞』の縮刷版にあたってみると、「皇軍に保護される避難民の群れ」とあるだけであって、「ぞろぞろ帰ってくる」という字句はない。この写真を城外から復帰した市民を写したものとするのは、田中氏の推測にすぎないのである。これはむしろ「便衣兵」連行の写真のように見うけられる。一人として荷物を持つものがいないのである。城外の避難先から戻ってきた市民なら、そんなはずはない。”
田中氏の
”中国民衆は不思議なカンを持っており、テレビ、ラジオがなくとも、独自の情報網があるかあら市内の治安回復がわかるのである。正月を控えて、郊外に避難していた民衆が誘いあって次々と帰りはじめたのである。前述の朝日新聞の写真集にはその写真まで出ている。”
という指摘は、事実ではなく、田中氏の勝手な推測ではないでしょうか。
「市民3000人が旗行列」と題された文章のなかでは、田中氏は下記のように、「ラーベという男は、よほどヘソ曲がりの男とみえる」と書いています。
”ラーベの日記の12月30日には「新しく設立された自治委員会は、五色旗(冀東政府時代の中国国旗)をたくさん作った。1月1日に大がかりな公示がある。その時、この旗が振られることになっている……」
とある。
実は、陶錫山を委員長とする南京自治委員会の結成式は、1月3日中山路の鼓楼で行われた。この日、鼓楼を中心に市民約3000数百人が、五色旗と日の丸の旗で盛大な旗行列を行い、結成を祝福した。画期的なできごとである。
しかるにラーベはこのことを一行も記述しないばかりか、こう書いている。
「きのう(1月3日)またしても近所で3軒放火された。まこうしているうちにも、南の方で新たに煙がたちのぼっている。…」”
しかし、これも前に書いたように、「避難民の保護」こそが大事なラーベにとっては、それほど不思議なことではないし、「ヘソ曲がりの男」というのも、かなり的外れな指摘だと思います。
ラーベは、自治委員会について、1月2日に、
”日本軍の略奪につぐ略奪で、中国人は貧乏のどん底だ。自治委員会の集会がきのう、鼓楼病院で日かれた。演説者が協力ということばを口にしているそばから、病院の左右両側で家が数軒焼けた。軍の放火だ。
自治委員会の代表でありかつ紅卍字会のメンバー、孫氏がもったいぶって私にいった。「ある重要な件につき、近いうちにお話ししたいのですが」どうぞどうぞ!とっくに心づもりはできている。お宅たちがなにを狙っているかなんざ、お見通しだよ!”
また、1月6日には、
”午後5時、福田氏来訪。軍当局によれば、我々の委員会を解散して、その資産を自治委員会に引き渡してもらいたいとのこと、自治委員会が今後われわれの仕事を引き継ぐことになっているからだという。資産を引き渡す?冗談じゃない。私はただちに異議を申し立てた。「仕事を譲ることに関しては異存ありませんが、これだけはいっておきます。治安がよくならないかぎり、難民は元の住まいには戻れませんよ」。難民の住まいの大半は壊され、略奪されている。焼きはらわれてしまった家もあるのだ。
さっそく委員会の会議を開いて、福田氏にどう返事するかと相談した。また、治安や秩序をとりもどすためにどういう提案をするかについても、日本から助言を得てはいるが自治委員会はまるで無策だという気がする。どうやら狙いは我々の金だけらしい。つまり、「国民政府からもらったのだから、おれたちの物だ!」というわけだ。
しかし我々の考えは全く違う。なんとしてもこちらの主張を通そうということになった。アメリカやドイツの大使館が支持してくれると当てにしたうえでの結論だ。といっても、先方が果たしてどう考えているのか、まるっきりわからないのだが。”
この文章で、ラーベが「南京自治委員会」にほとんど何の期待もしてはいないことがわかります。したがって、南京自治委員会の結成式にはふれず、身の回りで起きる様々な事件や略奪・放火の現実を日記に書いたのだと思います。それを「ヘソ曲がりの男」というのは、かなり歪んだ受け止め方であると思います。
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ヒトラーへの上申書
宛先:総統・ドイツ帝国宰相
アドルフ・ヒトラー殿
ベルリン
差出人:ジョン・H・D・ラーベ
目下の住所:帰国者一時滞在寮
ベルリン、ジーメンス・シュタット ディールマン通り20
1938年6月8日
「総統閣下
中国にいる私の友人たちの多くは、南京で実際に起こった出来事について、総統に詳しい報告がなされなかったと思っております。
非公式の集まりで、私は講演を行いました。その草稿をお送りすることにより、南京の住民の苦しみを総統にお知らせするという、かの地の友人たちとの約束を果たす所存であります。草稿を受け取られた旨、お知らせいただけますならば、私の使命は果たせたことになります。
今後この種の講演、またこの件に関するフィルムの上映を差し控えるようにとの通知をいただきました。私はご命令に従います。ドイツの政策およびドイツ当局、そのどちらにも毛頭逆らうつもりはございません。
総統に心からの服従と忠誠を誓います。
ジョン・ラーベ」
この講演に先立ち、ひとことお断りしておきたいことがあります。それは、私がドイツで反日宣伝活動をしようとか、「公開の場で」講演をして、中国に対する友好的な気運を盛り上げようとかの考えを少しも抱いてはいないということです。苦難にあっている中国に対しては心からの同情を禁じ得ませんが、まず第一に私はドイツのためを思っております。そして、わが国の政策の「大路線」の正しさを信じているだけでなく、ナチ党員として百パーセントこれを支持しております。
けれども、だからといって、南京で目撃する機会を得た事件の真相について、敬愛する総統閣下、および祖国の首脳陣にお知らせすべきであるという私の考えに変わりはありません。また私がこれから報告しようとしているのは、公開の場ではなく、内輪の集まりなのです。
ぜひ申し上げておきたいのは、私は日本人に感謝してもらわなければならないということです。といいますのは、南京難民区の国際委員会が日本大使館へ提出しなければならなかった数多くの苦情や抗議書を出すにあたり、その代表として私は当初から手加減するよう心がけてきたからです。その理由は、ほかでもない、私がドイツ人だからです。ドイツ人として、私は同盟国である日本との友好関係を維持したいと望みましたし、またそうしなければなりませんでした。その結果、親しくしていたアメリカ人の委員会メンバーの間で、「抗議書を発送する前に、ラーベさんにすこし手心を加えてもらっておいた方がいいよ」といわれるまでになりました。それでも、日本大使館あての書状が2、3きわめてきびしいものになったのは、日々繰り返される日本兵の殺人、略奪、傷害、放火のあまりのすさまじさに、そうするよりなかったからです。
残念ながら、南京でのあの6ヶ月間の体験を詳しくお話しすることはとうてい無理です。24時間あっても足りません。したがって、ここでは私が見聞きした数多くの不幸な出来事のうちから、いくつかをご紹介するにとどめます。私の日記はなんと二千五百ページにものぼるのです。
まず最初に、なぜ私があえて南京にとどまろうと決心したか、その理由からお話したいと思います。
あるとき、岡という日本の少佐が私に尋ねました。本人のいうところによれば、南京が陥落したあと、私を保護するために遣わされたということでした。
「なんですかね、あなたは! いったいなぜここに残っているんですか? なんのために我々の軍事にちょっかいをだすんですかね? あなたになんの関係があるというんですか? こんなところでうろうろしてもらいたくないですな!」
私は、ベルリンっ子がよくいう、一瞬つばがなくなる状態、つまり二の句がつげなくなりました。
私の答は、忠実に再現しますと、次のようなものでしか。
「私はここ中国に30年住み、子や孫もここで生まれました。この国で落ち着いて仕事に励むことができ、これまで順調にやってきました。いつでも、この前の大戦のさなかにも、中国人にはよくしてもらいました! 岡少佐、もし私が30年間日本でくらし、中国人から受けたような暖かいもてなしをうけたとしたら、─誓っていいますが─(いま中国人がうけているような)苦難の時に、私は日本人だって見捨てることはしなかったでしょう」
これを聞いた少佐はすっかり満足し、武士道を称える文句をいくつか口にして、ふかぶかと頭を下げました。
その後少佐はもういちどやってきて、南京に残っている5人のドイツ人を私の家にあつめていっしょに住むようにいってきました。その方が保護しやすいと言うのです。こんども私は丁寧に、けれどもきっぱりといいました。
「そんなことは問題外です。収容所にいれられるのは捕虜だけですよ。でも私たち少数のドイツ人は、自由なままでいたいんです。ですからもし私たちを保護してくださるというのなら、別の方法でお願いしたい」
すると少佐は、今の私の返事を文書にしてもらいたいとといいましたが、これも断りました。
「保護してくださるのはありがたい。ただし、私やほかのドイツ人たちから自由を奪わないでいただきたいのです」
あとで、つまり岡少佐が南京を発った後でという意味ですが、日本大使館の人たちから聞いたところによりますと、少佐は日本政府の名において私に語りかけてきたのではなく、ただ「個人的意見」を述べたにすぎないということでした。
私が南京にとどまろうという気になった背景には、先に挙げたのとは別の重大な理由があったのはいうまでもありません。
ジーメンスの業務という、私にとって大切な問題がありました。けれでも、会社から南京にとどまれといわれたのではありません。その逆です。南京のドイツ人はチャーターしたイギリスの蒸気船クトゥー号で漢口に避難することになっており、ジーメンスは私に、なんとしても身の危険を避け、ほかのドイツ人や大使館の人たちに加わってクトゥー号に乗るようにと強く勧めてくれたのです。
南京電力会社のタービンは我が社の製品です。役所の電話や時計もすべてそうです。中央病院の大きなレントゲン設備、警察や銀行の警報装置も。これらを管理していたのは我が社の中国人技術者でしたので、かれらはおいそれとは避難できませんでした。その人たちをはじめ、事務所の従業員、何十年も私の家で働いている使用人、それから中国人マネージャーなどが、家族をひきつれて私のまわりに集まっておりました。
もし自分が見捨てたら、この人たちはみな、殺されたり、ひどい目にあわされたりするのではないか……私にはそんな予感がありました。事実それは正しかったのです。
・・・
私を迎えてくれた国はいま、苦難にあえいでいます。この国は30年の長きにわたって私を手厚くもてなしてくれました。この町の豊かな人々は、財産ともども早々と安全なところへ移りました。しかし、貧しい人たちは残らなければなりませんでした。行くところがないのです。逃げるには金がいります。この人たちは、大量に、はてしなく大量に虐殺される危険にさらされていたのです。
そのとき、かれらを助ける機会が訪れました。そして、私はそれを引き受けたのです。
・・・」以下略
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