ブルネイは、カリマンタン島(ボルネオ島)北部に位置する三重県ほどの面積の小国である。北側が南シナ海に面するほかはマレーシアに取り囲まれているが、石油資源が豊富で、かつてはイギリス東洋艦隊の重要な燃料補給基地があり、イギリスの植民地であった。そのブルネイを、1941年12月16日、日本陸軍が攻撃し占領した。そして、日本が降伏するまで、ブルネイの人びとも、日本軍の圧政に苦しめられたのである。教科書の日本軍政下の記述内容は、それほど詳しいものではないが、「アジア人のためのアジア」をスローガンに「西洋列強を排除する企て」もってなされた、「東亜新秩序」の実態を、ブルネイの子どもたちが学んでいることを忘れてはならないと思う。
また、イギリス軍を追い出し、バモオ博士を首班とする暫定内閣を組織させたミャンマー(ビルマ)における日本軍の軍政に関わる記述も、日本人には耳の痛いものばかりである。しかし、その「ファシスト日本の支配下においては、・・・」というような「日本時代」の悲しむべき数々の記述を、日本人がなかったことにしてはならないと思う。
下記のような教科書の記述をしっかり踏まえ、それを乗り越えて、生まれ変わるしか「誇りを取り戻す」ことなどできないと思うのである。
下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の、「ブルネイ」および「ミャンマー」から、私が忘れてはならないと思った項目を、選んで抜粋したものである。
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初級中学校用『ブルネイの歴史』(英語)ブルネイ言語・図書委員会編1978年版
三部 21 日本のブルネイ占領
1938年、日本は「東亜新秩序」を宣言した。それは、日本が蒋介石政府をうち倒し、中国を掌中に収めるためのものであった。また、新秩序は、東南アジアにおけるすべての西洋列強を排除することも目的とした。日本のスローガンは”アジアのためのアジア”であった。
日本陸軍は、東南アジア本土への第1回目の攻撃を陸から開始した。東南アジア本土に攻撃を加えながら、ブルネイにも日本陸軍は上陸していた。
1941年12月16日、日本陸軍はクアラ・ベライトに上陸し、ただちにセリア油田を占領した。6日後の1941年12月22日、ブルネイ市は日本陸軍により占領され、ブルネイ政府のイギリス将校全員が捕虜となった。
日本陸軍は、その後すぐ、その新秩序を宣伝し始めた。その新秩序は、日本陸軍の宣伝の方法が乱暴かつ横暴だったため、ブルネイの人びとの歓迎を受けなかった。クアラ・ベライトの住民は油田の労働にかり出され、村人は穀物の生産を強いられた。彼らはまた、日本の軍事規律を無視した者たちに対して行われた大量処刑を目の前で見させられた。
商売の取引も行われなくなってしまった。2、3人の小売商人のみが配給係として、その商売を続けることを許された。ブルネイの住人にとって幸いなことに、政府が第2次世界大戦勃発以前に、大量の米の輸入を貿易業者に命じていた。米はブルネイの人びとにとって主要な食糧である。ブルネイ政府は、ヨーロッパの戦況から察して極東における輸送ルートがマヒしてしまうだろう、ということを考慮に入れて、このような行動をとった。それ故、日本がブルネイを占領した初めのころは食糧不足はなかった。しかし、十分であった食糧のすべての貯えも、1943年の終わりまでには使い果たされてしまった。日本軍もまた、食糧の欠乏に困窮していた。収穫の時期がくると、日本軍はほとんどの穀類を奪っていった。そのため、ブルネイの人びとは米不足に陥った。
日本陸軍は、ブルネイを占領すると病院を管理下においた。当時薬品を手に入れるのは困難なことだった。マラリアが流行していたのに、日本陸軍その蔓延を予防しようとしなかった。
日本陸軍は道路、排水、灌漑の管理に留意しなかった。彼らが修復したのは、わずかに、ブルネイ──トゥトン間とブルネイ──ムアラ間の道路のみであった。この2つの道路を日本軍が提案したのは、ムアラまで、石油のパイプラインをひくためであった。
ムアラは貿易と漁業の小さな村であったが、日本陸軍により完全に破壊されてしまった。日本陸軍は、ムアラの向かい側の島を日本の艦船の基地として使いたかったのでる。
日本陸軍は1943年末までに、ペアカス通り沿いにあるクンパン・パサン区画に小さな空港を建設した。その空港は泥炭質の土壌上につくられたため、軽飛行機だけが使用可能であった。
現在その空港は、使いものにならない。
日本陸軍がセリア油田を占有していたときには、159万4000英トンもの石油を確保していた。セリア油田は、日本陸軍が退却した1945年、日本陸軍の手によって破壊された。
1945年6月10日、連合国軍の軍隊がムアラに上陸し、ただちにブルネイに向かって進軍した。そのころ、日本陸軍は自分たちの施設を壊し、セリア油田を焼失させるのに余念がなかった。日本陸軍は、自分たちが東南アジアで敗北したことを察知していた。退却するまえに、日本陸軍は反日運動を組織したと思われる人たちを殺した。
日本陸軍がブルネイから立ちさると、新政府がイギリス軍政のもとにおかれた。ベルネイは新しい局面を迎えた。食糧、衣料が全住民に無料配布された。病人は病院での看護が受けられるようになった。住民の健康はしだいに快方にむかい、貿易も徐々に再興した。1945年7月6日、ブルネイの統治は民政の手に移った。
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8年生用『ビルマ史』(ビルマ語)ビルマ連邦社会主義共和国教育省初等中等教育カリキュラム・教科書委員会編 1987年版
二 民族解放闘争
2 反日・反ファシスト闘争(1942~1945年)
1 状況と情勢
「独立」したとはいえ、ビルマ政府には本来あるべき権限はなかった。ファシスト日本が許容した権限があっただけである。日本時代にもっとも強大な権力を見せつけたのは、日本軍のキンペイタイ(憲兵隊のこと)である。憲兵隊が管轄し、処理する事柄については、階級の上下を問わず、いかなる日本軍将校も口出しできなかった。一般の国民は、憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問され、さらには虐殺されたのである。こうしたファシストの弾圧の結果、無法者から学歴があまりない者までが、反乱への怒りの炎をたぎらせた。真の独立を望む声は全土に広がった。民族、男女を問わず、僧侶も一般国民も、ファシスト日本に反乱を起こそうという強い決意を抱くようになった。
ビルマ軍は、30人志士に始まり、ビルマ独立義勇軍=BIA、ビルマ防衛軍=BDAを経て、ビルマ国軍(BNA=Burma National Army)へと変遷をとげていた。この間、国内においては、ミンガラドン士官学校、国外では、海南島、台湾そして日本の士官学校での訓練を積み、さらには、日本軍とともにイギリス軍と戦って、実戦のよき経験を重ねてきた。ファシスト日本に対して反乱を起こすために、ビルマ軍は、精神面でも、戦闘技術についても向上してきていた。
情勢の推移にともない、日本と接触をもたざるをえない状況となったが、ファシストの本質についての理解は浸透しており、時がくれば一斉に蜂起することを、ごく初期の段階からビルマの指導者たちは、考えていた。また、タキン・テインペイ、タキン・ティンシュエら一部の指導者は、日本軍の侵攻直後からインドへ渡り、連合軍司令部と接触を保っていた。
1944年8月には、ファシスト打倒連盟(AFO=Anti Fascist Organization)が結成され、ビルマ国軍、共産党、人民革命党がこれに加わった。その後、しばらくして、ラカイン民族連盟、カレン中央本部、東アジア青年連盟なども加わってきた。のちに、この組織は、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL=Anti Fascist People's Freedom League)と名称を変更した。
1944年には、連合軍指導部と合意に達し、44年末から45年初めには、武器援助を得るようになった。連合軍は、ラカイン地方やカレン方面での戦闘に勝利をおさめ、ビルマ国内へ進撃してきた。対日反乱の機は熟してきたのである。
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三 独立獲得
2 日本時代
2 経済
日本は、ビルマ国民が必要とする物資を供給できなかったばかりか、物資を運搬する船舶にも不足をきたしていた。ビルマからは、米、チーク材、綿花を始め、鉄屑や古自動車にいたるまで、あらゆる物を日本へと持ち去った。
日本の銀行は、まったく保証のない紙幣(=軍票)を際限なく発行し、ビルマの経済を破壊した。価値のない紙幣で米や穀物を買い、ときにはそれさえも払わずに持ち去ることもあった。日本時代の外国貿易は、三井や三菱といった日本の大企業に独占されていた。
日本時代には、ビルマの国民は食糧、衣料品、医薬品などの不足に苦しめられた。米の足りない地域では、豆やトウモロコシ、タロ芋などを米の代わりにした。医薬品への不足は食料の不足よりもっと深刻であった。ビルマでとれるすべての綿花だけでなく古着にいたるまで日本人が持ち去った。こうして、日本時代、ビルマの経済は壊滅的な打撃を受けたのである。
3 社会
ファシスト日本の支配下においては、軍事目的に使うという大義名分によって、国民は貴金属を強制的に供出させられた。さらに、働ける男は労務者として狩りだされた。国民はさらに、イギリス植民地軍の反攻のために度重なる苦しみを味わった。
また、ファシスト日本の支配下では、食糧、衣料品、住宅、医薬品の欠乏のため、マラリア、天然痘、ペスト、疥癬といった病気が蔓延した。爆撃や銃撃のために負傷した人々も十分な治療を受けられなかった。
着るものもなく、治療するための薬もなく、さまざまな経済的な落ちこみのためにビルマの国民は貧しい生活を強いられた。しかし、日本人に取りいり、不法なやり方で利得を狙った者たちは潤った。ファシスト日本が支配した時代には、社会にまとまりがなく、教育もまたほとんどなきに等しい状態であったため、道徳や規律は乱れ、人びとの精神も退廃した。
「ワ}部隊と呼ばれる公務員部隊が編成されたが、国民の利益のために何一つできなかった。東アジア青年同盟が組織されて以降は、社会的活動や組織活動が有効に行われるようになった。
日本時代には、ビルマ語が公用語になった。英語に代わって日本語を学ばなければならなかった。
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また、イギリス軍を追い出し、バモオ博士を首班とする暫定内閣を組織させたミャンマー(ビルマ)における日本軍の軍政に関わる記述も、日本人には耳の痛いものばかりである。しかし、その「ファシスト日本の支配下においては、・・・」というような「日本時代」の悲しむべき数々の記述を、日本人がなかったことにしてはならないと思う。
下記のような教科書の記述をしっかり踏まえ、それを乗り越えて、生まれ変わるしか「誇りを取り戻す」ことなどできないと思うのである。
下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の、「ブルネイ」および「ミャンマー」から、私が忘れてはならないと思った項目を、選んで抜粋したものである。
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初級中学校用『ブルネイの歴史』(英語)ブルネイ言語・図書委員会編1978年版
三部 21 日本のブルネイ占領
1938年、日本は「東亜新秩序」を宣言した。それは、日本が蒋介石政府をうち倒し、中国を掌中に収めるためのものであった。また、新秩序は、東南アジアにおけるすべての西洋列強を排除することも目的とした。日本のスローガンは”アジアのためのアジア”であった。
日本陸軍は、東南アジア本土への第1回目の攻撃を陸から開始した。東南アジア本土に攻撃を加えながら、ブルネイにも日本陸軍は上陸していた。
1941年12月16日、日本陸軍はクアラ・ベライトに上陸し、ただちにセリア油田を占領した。6日後の1941年12月22日、ブルネイ市は日本陸軍により占領され、ブルネイ政府のイギリス将校全員が捕虜となった。
日本陸軍は、その後すぐ、その新秩序を宣伝し始めた。その新秩序は、日本陸軍の宣伝の方法が乱暴かつ横暴だったため、ブルネイの人びとの歓迎を受けなかった。クアラ・ベライトの住民は油田の労働にかり出され、村人は穀物の生産を強いられた。彼らはまた、日本の軍事規律を無視した者たちに対して行われた大量処刑を目の前で見させられた。
商売の取引も行われなくなってしまった。2、3人の小売商人のみが配給係として、その商売を続けることを許された。ブルネイの住人にとって幸いなことに、政府が第2次世界大戦勃発以前に、大量の米の輸入を貿易業者に命じていた。米はブルネイの人びとにとって主要な食糧である。ブルネイ政府は、ヨーロッパの戦況から察して極東における輸送ルートがマヒしてしまうだろう、ということを考慮に入れて、このような行動をとった。それ故、日本がブルネイを占領した初めのころは食糧不足はなかった。しかし、十分であった食糧のすべての貯えも、1943年の終わりまでには使い果たされてしまった。日本軍もまた、食糧の欠乏に困窮していた。収穫の時期がくると、日本軍はほとんどの穀類を奪っていった。そのため、ブルネイの人びとは米不足に陥った。
日本陸軍は、ブルネイを占領すると病院を管理下においた。当時薬品を手に入れるのは困難なことだった。マラリアが流行していたのに、日本陸軍その蔓延を予防しようとしなかった。
日本陸軍は道路、排水、灌漑の管理に留意しなかった。彼らが修復したのは、わずかに、ブルネイ──トゥトン間とブルネイ──ムアラ間の道路のみであった。この2つの道路を日本軍が提案したのは、ムアラまで、石油のパイプラインをひくためであった。
ムアラは貿易と漁業の小さな村であったが、日本陸軍により完全に破壊されてしまった。日本陸軍は、ムアラの向かい側の島を日本の艦船の基地として使いたかったのでる。
日本陸軍は1943年末までに、ペアカス通り沿いにあるクンパン・パサン区画に小さな空港を建設した。その空港は泥炭質の土壌上につくられたため、軽飛行機だけが使用可能であった。
現在その空港は、使いものにならない。
日本陸軍がセリア油田を占有していたときには、159万4000英トンもの石油を確保していた。セリア油田は、日本陸軍が退却した1945年、日本陸軍の手によって破壊された。
1945年6月10日、連合国軍の軍隊がムアラに上陸し、ただちにブルネイに向かって進軍した。そのころ、日本陸軍は自分たちの施設を壊し、セリア油田を焼失させるのに余念がなかった。日本陸軍は、自分たちが東南アジアで敗北したことを察知していた。退却するまえに、日本陸軍は反日運動を組織したと思われる人たちを殺した。
日本陸軍がブルネイから立ちさると、新政府がイギリス軍政のもとにおかれた。ベルネイは新しい局面を迎えた。食糧、衣料が全住民に無料配布された。病人は病院での看護が受けられるようになった。住民の健康はしだいに快方にむかい、貿易も徐々に再興した。1945年7月6日、ブルネイの統治は民政の手に移った。
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8年生用『ビルマ史』(ビルマ語)ビルマ連邦社会主義共和国教育省初等中等教育カリキュラム・教科書委員会編 1987年版
二 民族解放闘争
2 反日・反ファシスト闘争(1942~1945年)
1 状況と情勢
「独立」したとはいえ、ビルマ政府には本来あるべき権限はなかった。ファシスト日本が許容した権限があっただけである。日本時代にもっとも強大な権力を見せつけたのは、日本軍のキンペイタイ(憲兵隊のこと)である。憲兵隊が管轄し、処理する事柄については、階級の上下を問わず、いかなる日本軍将校も口出しできなかった。一般の国民は、憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問され、さらには虐殺されたのである。こうしたファシストの弾圧の結果、無法者から学歴があまりない者までが、反乱への怒りの炎をたぎらせた。真の独立を望む声は全土に広がった。民族、男女を問わず、僧侶も一般国民も、ファシスト日本に反乱を起こそうという強い決意を抱くようになった。
ビルマ軍は、30人志士に始まり、ビルマ独立義勇軍=BIA、ビルマ防衛軍=BDAを経て、ビルマ国軍(BNA=Burma National Army)へと変遷をとげていた。この間、国内においては、ミンガラドン士官学校、国外では、海南島、台湾そして日本の士官学校での訓練を積み、さらには、日本軍とともにイギリス軍と戦って、実戦のよき経験を重ねてきた。ファシスト日本に対して反乱を起こすために、ビルマ軍は、精神面でも、戦闘技術についても向上してきていた。
情勢の推移にともない、日本と接触をもたざるをえない状況となったが、ファシストの本質についての理解は浸透しており、時がくれば一斉に蜂起することを、ごく初期の段階からビルマの指導者たちは、考えていた。また、タキン・テインペイ、タキン・ティンシュエら一部の指導者は、日本軍の侵攻直後からインドへ渡り、連合軍司令部と接触を保っていた。
1944年8月には、ファシスト打倒連盟(AFO=Anti Fascist Organization)が結成され、ビルマ国軍、共産党、人民革命党がこれに加わった。その後、しばらくして、ラカイン民族連盟、カレン中央本部、東アジア青年連盟なども加わってきた。のちに、この組織は、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL=Anti Fascist People's Freedom League)と名称を変更した。
1944年には、連合軍指導部と合意に達し、44年末から45年初めには、武器援助を得るようになった。連合軍は、ラカイン地方やカレン方面での戦闘に勝利をおさめ、ビルマ国内へ進撃してきた。対日反乱の機は熟してきたのである。
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三 独立獲得
2 日本時代
2 経済
日本は、ビルマ国民が必要とする物資を供給できなかったばかりか、物資を運搬する船舶にも不足をきたしていた。ビルマからは、米、チーク材、綿花を始め、鉄屑や古自動車にいたるまで、あらゆる物を日本へと持ち去った。
日本の銀行は、まったく保証のない紙幣(=軍票)を際限なく発行し、ビルマの経済を破壊した。価値のない紙幣で米や穀物を買い、ときにはそれさえも払わずに持ち去ることもあった。日本時代の外国貿易は、三井や三菱といった日本の大企業に独占されていた。
日本時代には、ビルマの国民は食糧、衣料品、医薬品などの不足に苦しめられた。米の足りない地域では、豆やトウモロコシ、タロ芋などを米の代わりにした。医薬品への不足は食料の不足よりもっと深刻であった。ビルマでとれるすべての綿花だけでなく古着にいたるまで日本人が持ち去った。こうして、日本時代、ビルマの経済は壊滅的な打撃を受けたのである。
3 社会
ファシスト日本の支配下においては、軍事目的に使うという大義名分によって、国民は貴金属を強制的に供出させられた。さらに、働ける男は労務者として狩りだされた。国民はさらに、イギリス植民地軍の反攻のために度重なる苦しみを味わった。
また、ファシスト日本の支配下では、食糧、衣料品、住宅、医薬品の欠乏のため、マラリア、天然痘、ペスト、疥癬といった病気が蔓延した。爆撃や銃撃のために負傷した人々も十分な治療を受けられなかった。
着るものもなく、治療するための薬もなく、さまざまな経済的な落ちこみのためにビルマの国民は貧しい生活を強いられた。しかし、日本人に取りいり、不法なやり方で利得を狙った者たちは潤った。ファシスト日本が支配した時代には、社会にまとまりがなく、教育もまたほとんどなきに等しい状態であったため、道徳や規律は乱れ、人びとの精神も退廃した。
「ワ}部隊と呼ばれる公務員部隊が編成されたが、国民の利益のために何一つできなかった。東アジア青年同盟が組織されて以降は、社会的活動や組織活動が有効に行われるようになった。
日本時代には、ビルマ語が公用語になった。英語に代わって日本語を学ばなければならなかった。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です