理不尽に連行され、酷寒と飢餓と重労働といういわゆる”シベリア三重苦”によってその一割がのたれ死んだといわれるシベリア抑留は、国体護持のため、64万の日本人を賠償としてソ連に差し出す”棄兵・棄民”であったといわれる。そして、その労働に対する賃金はいまだに支払われていない。シベリア抑留者未払い賃金訴訟の経過をたどると、日本という国は、今なお、シベリア抑留という棄兵・棄民をよしとしているのではないかとさえ思われる。
最初、シベリア抑留者による国家補償の請求に対して、日本の関係筋は労働証明書が存在しないとの理由によって補償金の支払いを拒否した。そこで、全抑協会長斎藤六郎氏は、様々な人々に支えられながら東奔西走して、必要とされる文書を取得するに至る(これは本来国の仕事であると思う)。しかし、日本の関係筋は、今度は、ロシアの関係筋のしかるべき提示のないそれらの文書の公的性格に問題があると指摘した。民間団体へのそうした文書は、ロシア中央公文書委員会の発行であっても、私文書であり公文書とは認められないというわけである。
斎藤会長の東奔西走はさらに続いた。そして、ロシア外務省の公式覚書の手交に至る。それでもなお、日本の関係筋は請求を認めない。「労働証明書というような文書の交付は、まず第一に抑留を行った国である貴国(ロシア)の問題である。日本は、当文書を認知する認知しないという立場を取ることはできない」さらに「国際法の観点から言って、その市民が抑留された国である日本は、当文書に基づき彼らに賃金を支払う責任を負う必要はない」との見解をつけ加えているという。
シベリア抑留者は、あたかも自分の意志でシベリアに行き、ただ働きしてきたかのような扱いである。信じがたい”棄兵・棄民”追認の論理ではないかと思う。「シベリアに架ける橋 斎藤六郎全抑協会長とともに」エレーナ・L・カタソノワ(恒文社)からの抜粋である。
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第5章 労働証明書
未払い労働賃金問題
・・・
私の知っているところでは、軍事捕虜は元来、1907年の陸戦の法規慣例に関するハーグ条約に基づき、抑留国によって労働に使役されたとき、その対価である労働賃金の支給を受ける権利を認められている。労働賃金に関するこの捕虜の権利規定は、第1次、第2次両大戦の経験を踏まえて、捕虜の待遇に関する1929年ならびに1949年のジュネーブ条約に引き継がれ、労働賃金の未払い分は、抑留国が未払い相当額を計算した労働賃金計算カード(労働証明書)を発行、捕虜の帰国時に、所属国が決裁・補償せねばならないことが規定されている。
だが、ソ連はシベリアなどに抑留した日本人捕虜の処遇に当たって、このような国際慣行を無視して、本来、捕虜の所属国が負担すべき給養費を水増しして労働賃金から天引きしただけではない。労働賃金計算カードを発行しなかったため、帰国時に天引きされた未払い労働賃金を日本政府から支払ってもらえず、日本人捕虜は事実上ただ働きさせられてしまった。ソ連の国内法によれば、特定のある企業で働いた者は、自発的な退職であれ、解職であれ、自分の労働行為に関する必要な文書・書類を受け取ることができる。シベリアの厳しい自然の中で、日本人捕虜は何年間も強制労働を科せられたのに、ソ連政府からこの事実を証明する文書類も受け取っていないことを知って、「これは一体どういうことか」と、私は非常に驚かされたのであった。
それから間もなくたって、私は事務局が保存している原本の資料を調べていて、次のような事実を知った。それは東南アジアなど南方地域で米国、英国、ニュージーランド軍などに抑留された日本人捕虜は全員、未払い労働賃金の計算カードをもらって、帰国時に日本政府からその支給を受けたことだ。シベリアと南方では抑留地域が異なるが、日本人捕虜であることの身分はまったく同じである。にもかかわらず、なぜこのような差別が生じたのか?捕虜の待遇に関して、公平を欠くことおびただしい。原因は、ソ連のみが日本人捕虜に対して未払い賃金に関する公式文書の発行の作業を怠り、日本人捕虜がそれを受け取る権利を否定し、その結果彼らをして守られるべき法の外へに置いたからであった。この事実を知った私の心は驚きと憤りで、一杯になった。
・・・
戦後の日ソ国交回復の基礎となった1956年の「ソ日(日ソ)共同宣言」は、戦争で生じた一切の請求権を相互に放棄した。このため日本人捕虜の労働賃金は、事実上抑留国の給養費に充当されただけではない。未払い分についてもソ連は労働賃金計算カードを発行しなかったため、帰国後捕虜は日本政府に支給を求めることができなくなってしまった。しかし、兵士の給養は、どこの国でも官給、無償のものであって本来捕虜が自弁することはありえない。捕虜の待遇に関する1949年のジュネーブ条約や国際慣習法(国際慣習に基づく法で、大多数の国家間で法的拘束力を持つものとして暗黙のうちに認められている)によれば、給養費を差し引かれて残った未払い労働賃金は、捕虜の所属国(日本政府)に「自国民補償」の義務があるという主張である。
・・・
(原告側<全抑協側>の請求棄却後)
国際法に違反して、労働証明書を発行しなかったソ連や、国家動乱の最中にあった中国を引き合いに出して、自国民捕虜補償の否定の根拠にするのは、国際人道法に悖る間違った解釈で、会長や弁護団を承服させることはできなかった。彼らは南方で抑留された日本人捕虜には未払い労働賃金の国家補償を認めながら、シベリア抑留者の元日本人捕虜にはこれを否定する不公平極まりない一審判決に心底怒っていた。「こんな裁判は絶対に許せない」。そう思った会長は、「とことん争って、国の誤りを正してみせる」決意を固め、そのために必要な労働証明書の獲得に、全力をあげて取り組むことになったのである。
ようやく交付された労働証明書だが……
・・・
労働証明書交付式が行われたロシア中央公文書委員会のホールは、関係省庁をはじめ軍検察庁、国家保安委員会(KGB)などの幹部で、埋まった。内外のマスコミもこの歴史的なイベントを伝えようと、たくさんの取材記者を送り込んできた。ピホーヤは百通の労働証明書を斎藤会長に手渡すとき、次のような良い言葉を贈った。
「わが国は長い間人道主義の原則をなおざりにしてきたことをお詫びしたい。そしてこの措置がロ日両国民間の友好の発展に寄与することを信じたい」
これに対して、会長はこう、返礼の言葉を述べた。
「私の戦友たちがこの素晴らしい出来事を、どんなに首を長くして待ち望んでいたことか、私たちはこの大きな人道主義的好意に対し、ロシア政府に限りなく感謝しております」
モスクワでの労働証明書交付式の模様は、日本のマスコミで大きく報道された。……(以下略)
第6章 体を張った政治工作
この日のために頑張ってきた
・・・
エリツィンは会長に近づくと、右手を差し出し、握手を求めた。エリツィンは再度会長に、諸国民友好勲章が授与されたことのお祝いの言葉を述べるとともに、日本の実業界の代表者たちとの公式昼食会の席で、「ロシアを代表して日本国民に、元日本人軍事捕虜たちへ、スターリン体制が行った反人道的処遇に対して謝罪した」ことを伝えた。この行為は、言うまでもなく、ロシア大統領の大いなる精神力と勇気を必要とするものだった。というのも、これは、過去の誤りの、最初の公式的な認知であったからだ。……
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。
最初、シベリア抑留者による国家補償の請求に対して、日本の関係筋は労働証明書が存在しないとの理由によって補償金の支払いを拒否した。そこで、全抑協会長斎藤六郎氏は、様々な人々に支えられながら東奔西走して、必要とされる文書を取得するに至る(これは本来国の仕事であると思う)。しかし、日本の関係筋は、今度は、ロシアの関係筋のしかるべき提示のないそれらの文書の公的性格に問題があると指摘した。民間団体へのそうした文書は、ロシア中央公文書委員会の発行であっても、私文書であり公文書とは認められないというわけである。
斎藤会長の東奔西走はさらに続いた。そして、ロシア外務省の公式覚書の手交に至る。それでもなお、日本の関係筋は請求を認めない。「労働証明書というような文書の交付は、まず第一に抑留を行った国である貴国(ロシア)の問題である。日本は、当文書を認知する認知しないという立場を取ることはできない」さらに「国際法の観点から言って、その市民が抑留された国である日本は、当文書に基づき彼らに賃金を支払う責任を負う必要はない」との見解をつけ加えているという。
シベリア抑留者は、あたかも自分の意志でシベリアに行き、ただ働きしてきたかのような扱いである。信じがたい”棄兵・棄民”追認の論理ではないかと思う。「シベリアに架ける橋 斎藤六郎全抑協会長とともに」エレーナ・L・カタソノワ(恒文社)からの抜粋である。
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第5章 労働証明書
未払い労働賃金問題
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私の知っているところでは、軍事捕虜は元来、1907年の陸戦の法規慣例に関するハーグ条約に基づき、抑留国によって労働に使役されたとき、その対価である労働賃金の支給を受ける権利を認められている。労働賃金に関するこの捕虜の権利規定は、第1次、第2次両大戦の経験を踏まえて、捕虜の待遇に関する1929年ならびに1949年のジュネーブ条約に引き継がれ、労働賃金の未払い分は、抑留国が未払い相当額を計算した労働賃金計算カード(労働証明書)を発行、捕虜の帰国時に、所属国が決裁・補償せねばならないことが規定されている。
だが、ソ連はシベリアなどに抑留した日本人捕虜の処遇に当たって、このような国際慣行を無視して、本来、捕虜の所属国が負担すべき給養費を水増しして労働賃金から天引きしただけではない。労働賃金計算カードを発行しなかったため、帰国時に天引きされた未払い労働賃金を日本政府から支払ってもらえず、日本人捕虜は事実上ただ働きさせられてしまった。ソ連の国内法によれば、特定のある企業で働いた者は、自発的な退職であれ、解職であれ、自分の労働行為に関する必要な文書・書類を受け取ることができる。シベリアの厳しい自然の中で、日本人捕虜は何年間も強制労働を科せられたのに、ソ連政府からこの事実を証明する文書類も受け取っていないことを知って、「これは一体どういうことか」と、私は非常に驚かされたのであった。
それから間もなくたって、私は事務局が保存している原本の資料を調べていて、次のような事実を知った。それは東南アジアなど南方地域で米国、英国、ニュージーランド軍などに抑留された日本人捕虜は全員、未払い労働賃金の計算カードをもらって、帰国時に日本政府からその支給を受けたことだ。シベリアと南方では抑留地域が異なるが、日本人捕虜であることの身分はまったく同じである。にもかかわらず、なぜこのような差別が生じたのか?捕虜の待遇に関して、公平を欠くことおびただしい。原因は、ソ連のみが日本人捕虜に対して未払い賃金に関する公式文書の発行の作業を怠り、日本人捕虜がそれを受け取る権利を否定し、その結果彼らをして守られるべき法の外へに置いたからであった。この事実を知った私の心は驚きと憤りで、一杯になった。
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戦後の日ソ国交回復の基礎となった1956年の「ソ日(日ソ)共同宣言」は、戦争で生じた一切の請求権を相互に放棄した。このため日本人捕虜の労働賃金は、事実上抑留国の給養費に充当されただけではない。未払い分についてもソ連は労働賃金計算カードを発行しなかったため、帰国後捕虜は日本政府に支給を求めることができなくなってしまった。しかし、兵士の給養は、どこの国でも官給、無償のものであって本来捕虜が自弁することはありえない。捕虜の待遇に関する1949年のジュネーブ条約や国際慣習法(国際慣習に基づく法で、大多数の国家間で法的拘束力を持つものとして暗黙のうちに認められている)によれば、給養費を差し引かれて残った未払い労働賃金は、捕虜の所属国(日本政府)に「自国民補償」の義務があるという主張である。
・・・
(原告側<全抑協側>の請求棄却後)
国際法に違反して、労働証明書を発行しなかったソ連や、国家動乱の最中にあった中国を引き合いに出して、自国民捕虜補償の否定の根拠にするのは、国際人道法に悖る間違った解釈で、会長や弁護団を承服させることはできなかった。彼らは南方で抑留された日本人捕虜には未払い労働賃金の国家補償を認めながら、シベリア抑留者の元日本人捕虜にはこれを否定する不公平極まりない一審判決に心底怒っていた。「こんな裁判は絶対に許せない」。そう思った会長は、「とことん争って、国の誤りを正してみせる」決意を固め、そのために必要な労働証明書の獲得に、全力をあげて取り組むことになったのである。
ようやく交付された労働証明書だが……
・・・
労働証明書交付式が行われたロシア中央公文書委員会のホールは、関係省庁をはじめ軍検察庁、国家保安委員会(KGB)などの幹部で、埋まった。内外のマスコミもこの歴史的なイベントを伝えようと、たくさんの取材記者を送り込んできた。ピホーヤは百通の労働証明書を斎藤会長に手渡すとき、次のような良い言葉を贈った。
「わが国は長い間人道主義の原則をなおざりにしてきたことをお詫びしたい。そしてこの措置がロ日両国民間の友好の発展に寄与することを信じたい」
これに対して、会長はこう、返礼の言葉を述べた。
「私の戦友たちがこの素晴らしい出来事を、どんなに首を長くして待ち望んでいたことか、私たちはこの大きな人道主義的好意に対し、ロシア政府に限りなく感謝しております」
モスクワでの労働証明書交付式の模様は、日本のマスコミで大きく報道された。……(以下略)
第6章 体を張った政治工作
この日のために頑張ってきた
・・・
エリツィンは会長に近づくと、右手を差し出し、握手を求めた。エリツィンは再度会長に、諸国民友好勲章が授与されたことのお祝いの言葉を述べるとともに、日本の実業界の代表者たちとの公式昼食会の席で、「ロシアを代表して日本国民に、元日本人軍事捕虜たちへ、スターリン体制が行った反人道的処遇に対して謝罪した」ことを伝えた。この行為は、言うまでもなく、ロシア大統領の大いなる精神力と勇気を必要とするものだった。というのも、これは、過去の誤りの、最初の公式的な認知であったからだ。……
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。