NO6
「南京事件 日本人48人の証言」は、南京大虐殺がなかったことを明らかにするために、著者阿羅健一氏が、当時南京にいたジャーナリスト、軍人、外交官を訪ね歩いて集めた証言集である。しかしながら、著者の意図に反し、「第二章、軍人の見た南京」のなかにも、南京大虐殺を裏付けるような証言が含まれている。ここでも、NO1~NO5と同じように、それらを拾い出して考えてみたい。
証言はすべて、「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)からの抜粋である。(罫線の著者の質問は○印に変えた。○印に続く「 」のついた文章が証言者のものである。「・・・」は文の省略を示す)
第十軍参謀・谷田勇大佐は、元軍人として虐殺を否定する立場で証言している。例えば、師団長末松中将が温厚な人柄なので、捕虜処刑の命令を出すはずはな い、というような証言で、旅団命令を否定しようとしている。しかしながら、それは捕虜処刑について記した陣中日記や戦闘詳報、また関係日本兵の証言などを 覆す根拠を欠き、第三者に対して説得力がない。
また、捕虜は「国際法に従って処理していくべきだと考えていた。事実、作戦間、捕虜に関して問題はなく、戦後、南京事件が発生するとは夢にも思わなかった」と証言しているが、これは明らかに言い逃れではないかと思う。当時の現地日本軍は、捕虜を国際法に従って人道的に扱える状況になかったことは、多くの証言ではっきりしている。松井大将自身も「支那事変日誌」に下記のように記述し、認めていることである。
「我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ、皇軍ノ威徳ヲ傷クルコト尠少ナラサルニ至レルヤ。是レ思フニ
一、上海上陸以来ノ悪戦苦闘カ著ク我将兵ノ敵愾心ヲ強烈ナラシメタルコト。
二、急劇迅速ナル追撃戦ニ当リ、我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト。
等 ニ起因スルモ又予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス」
したがって、下関にあった”二千人か三千人位か”という中国人の死体を「城内から逃げたのを第十六師団が追いつめて撃ったものと思う」と言っているが、その状況を具体的に把握することなく、「虐殺」ではないと断定することはできないと思う。
第十六師団歩兵第三十三聯隊元日本軍兵士の何人かが「揚子江の集団虐殺は、中隊長の命令でやったんや」というような証言をしている。また、当時の陣中日記に、「捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す」というような捕虜殺害の記録が残されているのである。
さらに、宇都宮百十四師団の第六十六連隊第一大隊『戦闘詳報』には、
「12月13日
八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
左記
イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ
其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
ロ、兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シ置クヘシ
ハ、聯隊ハ旅団命令ニ依リ主力ヲ以テ城内ヲ掃蕩中ナリ
貴大隊ノ任務ハ前通リ
九、右命令ニ基キ兵器ハ第一第四中隊ニ命シ整理集積セシメ監視兵ヲ附ス
午後3時30分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附意見ノ交換ヲナシタル結果各中隊(第一第二第四中隊)ニ等分ニ分配シ監禁室ヨリ50名宛連レ出シ、第一中隊ハ路営地南方谷地第三中隊ハ路営地西南方凹地第四中隊ハ露営地東南谷地附近ニ於テ刺殺セシムルコトヽセリ
但シ監禁室ノ周囲ハ厳重ニ警戒兵ヲ配置シ連レ出ス際絶対ニ感知サレサル如ク注意ス
各隊共ニ午後5時準備終リ刺殺ヲ開始シ午後7時30分刺殺ヲ終リ聯隊ニ報告ス」
と記述されている。
また、「山田栴二日記」(第十三師団、歩兵第百三旅団長:少将)には、
「12月15日 晴
捕虜ノ仕末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ連絡ス
皆殺セトノコトナリ
各隊食糧ナク困却ス」
という記述がある。
それに、たとえ「成文としての軍命令」ではないにしても、長勇参謀が繰り返し「ヤッテシマエ」と「捕虜の処刑」を命じたことはよく知られており、上海派遣軍松井石根司令官の専属副官・角良晴氏も「支那事変当初六ヶ月間の戦闘」 と題して、偕行社に投降した文章ので具体的に記述している。したがって、谷元大佐もそれを認めざるを得ない上に、自ら、「捕虜を斬殺した者のあったことは 承知しております」と証言せざるを得ない状況もあったのであろう。総合的に考えれば、軍命令による捕虜の斬殺も否定できないと思う。
第十軍参謀・金子倫介大尉には「後方担当ですから慰安婦の手配もしました」との証言があることも、軍の関わりを示すものとして重要だと思う。
企画院事務官・岡田芳政氏は、「私はずっと中国にいて中国人というものをよく知っていますし、陥落前の南京も陥落後の南京もよく見ていますから言えますが、南京事件とは中国の宣伝です」と南京における「虐殺」に関する証言や主張を封じるように断定している。
しかしながら、虐殺に関する当時の陣中日記や戦闘詳報、南京攻略戦に関わった日本兵の証言、国際安全委員会の諸文書、当時の海外報道などを何ら検証することなく、「中国の宣伝」などといっても、国際社会では通用しないと思う。
また、「ずっと中国にいて中国人というものをよくしっている」という岡田氏が、「中国は宣伝のうまい国です」とか 「中国人というのは面子を重んずる国ですから、いったん言ったことを取り消すことは絶対にありません」などと言っているが、加害国である日本の関係者が、そういう言い方をすること自体に、問題があると思う。よほどしっかりと根拠を示さない限り、説得力はないと思うのである。
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二 軍人の見た南京
1、第十軍参謀・谷田勇大佐の証言
・・・
○遠藤三郎中将(当時参謀本部第一課長)が著書の中で、第六師団はそれまで戦った北支で感状をもらってないし、作戦主任が佐藤幸徳大佐だから、と虐殺をやったように書いていますが…。
「遠藤中将は第十軍のことは直接知らないはずですよ。第十軍司令部は湖州以後第六師団の進路を追随していったが、そんな形跡は少しも見えなかった。死体は あったが、皆中国兵の死体であった。また佐藤大佐はこの頃第六師団からかわっている。第六師団に関して虐殺ということはない」
○第百十四師団麾下の部隊の戦闘詳報に、捕虜は処刑せよ、という旅団命令があったと言われますが…。
「とても信じられない。旅団長の秋山充三郎)少将はどんな人か知らないが、師団長の末松(茂治)中将は予備役招集で極めて温厚な人柄、そんな命令を出すはずはない」
○第三課は捕虜の担当でもあるのですが、どのような考えを持っていましたか。
「特別虐待するとか優遇するとかもなく、ただ国際法に従って処理していくべきだと考えていた。事実、作戦間、捕虜に関して問題はなく、戦後、南京事件が発 生するとは夢にも思わなかった。南京の時、捕虜はいたが、武漢作戦の時、敵はどんどん奥地に逃げ込んでほとんどいなかった」
○南京城内の様子はどうでした?
「軍司令部が南京城内に入ったのは14日のお昼前、11時30分でした。中華門から入ったが、付近に死体はほとんどなかった。
3時頃になり、私は後方課長として占領地がどんな状態か見ておく必要を感じ、司令部衛兵一個分隊を伴い乗用車で城内一帯を廻った。下関に行った時、揚子江 には軍艦も停泊しており艦長と会見した。この埠頭の岸辺には相当数の死体があった。千人といったが、正確に数えれば千人以上あったと思う。二千人か三千人 位か。軍服を着たのが半数以上で普通の住民もあった」
○戦死体とは違いますか。
「城内から逃げたのを第十六師団が追いつめて撃ったものと思う。これが後日虐殺と称されているものではないか」
こう言いながら谷田氏はアルバムを取り出した。…
「下関に着いたのは午後4時頃で、建物がまだ燃えていまして、この写真にみえるような死体が2千人位ありました。」
・・・
「・・・
南京城壁を占領したのは第六師団が一番早かったが、光華門を攻めた第九師団には新聞記者がついていて、いち早く報道したので脇坂部隊が有名になった。脇坂次郎大佐は私が陸大兵学教官の時、高級副官をつとめて人柄をよく知っています。
私は17日の入城式が終って、19日には杭州平定のため南京を離れていますからそれ以後は存じませんが、19日までなら広く南京周辺を加えても、死体数は 数千ないし一万程度で、まして集団虐殺の跡などは発見できませんでした。したがって、中国側が終戦後の極東軍事裁判で主張した数十万という数字は誇大意図 的な誇張であると確信いたします」
・・・
○下関以外の南京の様子はどうでした?
「莫愁湖にも十人以上の死体があった。私が南京で発見した死体はあわせて三カ所でした。」
○莫愁湖の死体は軍人ですか、市民ですか。
「今になって考えると軍人だったか市民だったかはっきりしない。半数ずつかもしれません。下関と莫愁湖の二カ所は虐殺といわれているものと思います」
○挹江門にも死体があったと言いますが、ご覧になっていますか。
「ものの本には挹江門にもだいぶあるように書いてあるようだ。14日の午後通ったが、その時はなかった」
「雨花台でもやったと書かれたものもあるが、そういう死体は全然なかった」
○田中隆吉少将が『裁かれた歴史』に、上海派遣軍の長参謀が虐殺を命じたと告白した、と書いています。田中氏と親しい谷田さんはこれをどう思いますか。
「長勇は私より一期後輩の28期、陸大もよい成績で卒業していますが、性慷慨義憤己れの正しいと思ったことは直往邁進身を挺してやり遂げようとする男でし た。昭和の横断的派閥の三番目である桜会では、橋本欣五郎中佐と共にその中心人物であった。昭和6年の10月事件が未然に発覚して失敗に帰したのも、長大 尉の不軌独行が原因の一つになっている。しかしながら友と交わると意外に謙譲で礼儀正しく、私に対しても同名の故か、はなはだ親切でありました。」
長の性格からみて、話のようなことはやりかねない。しかし成文として軍命令を下達するには軍司令官の決裁を受けなければならぬから、いくら長でも独断で成 文を出したとも思われません。軍に命令受領に来た隷下団隊の参謀に口頭で伝達したのでしょう。そんな噂は長く中支にとどまっていたので耳にしました。現に 捕虜を斬殺した者のあったことは承知しております」
○中島(今朝吾中将)第十六師団長はどんな方ですか。
「第十六師団もよく噂にのぼった。第十六師団は京都師団で弱い部隊だから、前に述べたように何か問題を起こす可能性はある。中島中将は長くフランスに駐在 し、ハイカラな軍人であったから、噂のような処置をとるとは思えないが、他面これを抑える力も強くなかったであろう。現に私が見た下関の死体は第十六師団 により行われたものであった」
第十軍参謀・金子倫介大尉の証言
○南京で虐殺があったと言われていますが、何か見てませんか。
「私が杭州から南京までの間に見た死体は、はっきり覚えています。最初に見たのは杭州湾上陸地点で、そこには新しい軍服を着た日本兵の戦死体がきちんと並べて寝かせてありました。新しい軍服がいやに目につきました。ここでは、たこつぼの中の中国兵の死体も見ています。
その後、南京への途中では、自動車に轢かれて内蔵が出ていた中国兵の死体、地蔵さんのような形で道路際に座って死んでいた中国兵、それと雨花台お10キロほど手前で、ふくらんだ死体を見ているだけです。これらははっきり覚えています。あとは死体を全然みていません」
・・・
○南京を出た後は、まっすぐ杭州へ行ったのですか。
「そうです。最初は杭州攻撃という命令は出てなかったと思います。とにかく杭州転進ということで、兵站線のこともあり、まず私が向かった訳です。
杭州転進中に特別戦闘はありませんでした」
○杭州では軍司令部と一緒になるのですね。
「ええ。西湖といい、真ん中に島のある湖のそばに軍司令部がありまして、ここで正月を迎えました。杭州に来てから、後方担当ですから慰安婦の手配もしまし た。請負人がおり、これと金額の上限を決めました。たしか50銭だったと思います。士気低下を防ぐためという名目でした。兵隊同士の喧嘩などは少なくなっ たように思います」
企画院事務官・岡田芳政氏の証言
○南京の様子はどうでした?
「われわれが着いた揚子江には戦死体が十数体浮かんでいました。その時の話では、前はもっとあったが流されてしまったと言ってました。上陸したところに挹 江門があり、軍から出迎えの自動車でこの門から南京に入りました。出迎えてくれた将校の話だと、日本軍は挹江門付近一帯で中国軍を包囲したので最も多くの 戦死者をだした、以前は相当死体があったと言っていました。しかし、私が行った時にはほとんどありませんでした。
・・・」
○その後、岡田さんは中国で謀略などをやっていたので、中国人と接触する機会があったと思いますが、南京で虐殺があったとということを聞いたことはございませんか。
「ありません。ただの一度もありません。はじめて聞いたのは戦後になってからです。聞いてびっくりしました。
私はずっと中国にいて中国人というものをよく知っていますし、陥落前の南京も陥落後の南京もよく見ていますから言えますが、南京事件とは中国の宣伝です。 戦後、いちはやく中国が、裁判で何十万人が殺されたと言って、それが世界に伝わりました。それが南京事件というものです。その時、世界に与えた印象はあま りに強かったので、これは簡単に消えるものではありません。南京事件というのは、中国がそれまでやってきた宣伝戦を戦後も行ったまでのことです。
中国は宣伝のうまい国ですし、日本人には理解できませんが、白髪三千丈の国中国ではこういうことは当然のことなのです。日本は宣伝戦に負けたのです。
当時から中国の正確な人口はわからないし、誰が兵隊かもわかりませんから、正確な数は数えられません。ですから、日本側がいくら部隊の動きや、一部戦場の 思い出話を集めてもの大宣伝を否定することは不可能です。それに、中国人というのは面子を重んずる国ですから、いったん言ったことを取り消すことは絶対に ありません。ですから、いまのままいくら争っても南京事件は永久に片ががつきません。」
○南京事件の真相をはっきりさせる方法はないのでしょうか。
「宣伝に負けたとあっさり兜を脱ぐことです。それしかありません。数字の討論は愚の骨張です」
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