1881年(明治14年)に公布された「憲兵条例」の第1条に、「凡憲兵ハ陸軍兵科ノ一部ニ位シ巡按検察ノ事ヲ掌リ軍人ノ非違ヲ視察シ行政警察及ビ司法警察ノ事ヲ兼ネ内務海軍司法ノ三省ニ兼隷シテ国内ノ安寧ヲ掌ル其ノ戦時若クハ事変ノ際ニ於ケル服従ノ方法ハ別ニ之ヲ定ム」(「続現代史資料6ー軍事警察」)とある。陸軍の一組織であるが、任務を遂行に当たっては、内務省、海軍省、司法省の3省に隷属したのである。ところが、この第1条は1889年(明治22年)勅令第43号で改正され、「憲兵ハ陸軍兵ノ一ニシテ陸軍大臣ノ管轄ニ属シ軍事警察、行政警察、司法警察ヲ掌ル其ノ戦時若クハ事変ニ際シ特ニ要スル服務ハ別ニ之ヲ定ム」とされた。陸軍大臣の管轄下に入ったのである。そして、軍事警察として、軍の秩序や規律を維持する任務が軽視され、行政警察、司法警察としての権限を利用して、憲兵が一般国民を監視し、弾圧する権力組織へと変貌していったといえる。すなわち、軍部の意図に逆らう組織や団体、個人を取り締まり、軍人や軍部の不正に対する批判や非難から軍人や軍部を守る組織になっていったのである。下記の2つの事件は、そのことを象徴していると思う。
一つは甘粕事件である。「甘粕大尉」角田房子(ちくま文庫)によると、実は、無政府主義者大杉栄とその妻伊藤野枝、および甥の橘宗一を殺害したのは、憲兵大尉甘粕正彦個人であるとは考えられないという。確証に到らなかったが、「甘粕の意思による殺人ではなかった、という説を裏付ける傍証、心証は数え切れない程集まった」とのことである。下記はその中の一つであるが、だとすれば、それは憲兵組織もしくは軍部の犯罪ということになる。そう考えると、確かに出所後の甘粕の行動や満州での活躍がよく理解できるのである。
もう一つは、警察組織と憲兵組織(軍部)の争いとなったゴー・ストップ事件である。交通整理中の警察官による注意に従わず、「巡査ナリシヤガッテ生意気ナ事ヌカスナ」とか「ナンダイ僕ラノ取締ハ憲兵ガスルンダ、オ前ラノ云フ事ヲ聞ケルカイ」(続現代史資料6ー軍事警察「関係者の聴取書」)などと反抗的態度を示し、注意を無視した軍人に対する警察官の連行・説諭の権限を、軍は認めず、「建軍の本義」などを根拠に、その優越性を主張し、逆に警察側に軍人を派出所に連行した行為などについて陳謝させたのである。 その根拠は、軍が公表した文書の中に読み取れる。
第4師団 井関隆昌参謀長の大阪府警察本部長宛文書に「現役軍人(招集中ノ在郷軍人ヲ含ム以下同ジ)ノ非違行為ニ対スル説諭ハ軍部自体ニ於テ行フベキモノニシテ警察官吏ガ説諭ノ目的ヲ以テ現役軍人ヲ派出所ニ連行スルハ職務執行ノ範囲ヲ超ヘタルモノト認ム」とあり、また警察首脳の「軍隊が 陛下の軍隊なら警察官も 陛下の警察官で此の点は同じだ」との主張に対し、第4師団司令部公表の文書には「素より8千万の吾が同胞は悉く 陛下の赤子たらざるものなきも、警察官首脳者の此の言は、吾が国民の諒得しある皇国独特の建軍の本義と警察制度の間には根本的差異の存することを無視せる甚だしき暴言なり」(続現代史資料6ー軍事警察「ゴー・ストップ事件」)とある。警察官に自らの交通規則違反を注意された軍人(中村一等兵)の反抗的態度は、実はこうした軍の優越性の考え方から出てきたものであろうことは、誰にでも理解できることである。このころすでに軍人は特権的地位を得ており、したがって、軍部があらゆることに絶大な権力を振るうようになってきていたということであろう。
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7 満州国建国
・・・
右翼の運動家・松林亮(マコト)は、出航したばかりの船上から大連の埠頭を眺めて、あの甘粕が──と、またも回想にひきこまれた。彼は5人の満州人回教徒を連れて、日本へ向うところだった。
松林はロンドン条約(1930年、海軍軍縮条約)反対の運動に加わったため、満州事変の時は獄中にいた。出獄後、多くの同志がいる満州に渡り種々の運動に奔走するうち、回教徒の集団と知り合った。満州の回教徒は中国人のほか白系露人など多くの人種を含み、軽視されてはいたが、一つの勢力に違いなかった。彼らは建国直前に開いた大会で、「国体、政体のいかんを問わず、新国家の出現に賛意を表す」と決議し、その後も、”親日的”な態度をとり続けていた。だが、松林は、回教徒が日本について全く無知であることを知り、日本の実態を教える必要を痛感した。しかし、彼らを日本に連れて行く費用を捻出するあてはなかった。
思いもかけず、松林の友人が、その費用にと大金を届けてくれた。甘粕が簡単に出してくれたという。甘粕は松林に会おうともせず、この計画の内容を調べもしなかった。
あの甘粕が──という松林の思いの背景は、大正12年の関東大震災である。朝鮮人や”主義者”についての流言が乱れ飛ぶ中で、松林とその友人・小室敬次郎は「この際、大杉をやっつけよう」と決意した。”国家の安泰のため”である。2人の決意を聞いた”右翼の大物”五百木良三”は、先ず福田戒厳司令官に相談せよ、と紹介状を書いた。五百木と福田とは親しい仲であった。
殺人を計画中の松林と小室を逮捕すべき立場にある福田戒厳司令官だが、このとき彼は常識では考えられない次のような発言をしたという。
「民間人がやってはだめだ。必ずバレる。こちらでやるから、まあ、まかせておけ」
松林は──このドサクサの時、民間人ならやれるが、軍人が手を下せばそれこそバレるだろう──と思ったが、福田に逆らうこともできず、不本意ながらそのまま帰った。9月24日、号外で大杉殺害事件を知った松林は やったな──と、福田の言葉を思い浮かべた。
この松林の話を私に語ったのは今井武夫である。今井の紹介で私は、すでに老境の松林にあった。松林は「裁判では、甘粕個人の考えで大杉を殺したことになっているが、福田戒厳司令官の線からの命令でやったに決まっている。私はそれを疑ったことはない」と語った。
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五(三)ゴース・トップ事件
現役軍人交通規則違反事件 関係署書
一 事件ノ概要
1 事件関係者(主タルモノ)
曾根崎警察署詰 交通係 巡査 戸田 忠夫(当27年)
歩兵第8連隊第6中隊 陸軍歩兵一等兵 中村 政一(当23年)
2 事故発生ノ日時 場所
1、昭和8年6月17日午前11時30分頃
2、大阪市北区天神橋筋6丁目交差点付近
3 事故発生ノ原因
前記日時場所ニ於テ前記中村一等兵ガ交通規則ニ違反シ、戸田巡査之ニ注 意ヲ与ヘタルモ之ニ応ゼザル為、附近天神橋筋6丁目巡査派 出所ニ連行説 諭ヲ加ヘントシタルニ端ヲ発シタルモノナリ
4 事実ノ概要(現場の見取り図と括弧書き略)
軍隊関係ノ取調不能ナルヲ以テ全面的調査ヲナス能ハザルモ調査ノ結果ヲ総 合スルニ
(1)当日午前11時過中村一等兵ガ東淀川区長柄橋方面ヨリ来ル市電ニ乗車ス ベク天六交叉点北東側停留所ニ於テ電車ヲ待テ居タルモ、同方面ヨリノ電車 一時中絶セル為都島方面ヨリ来ル電車ニ乗車セントシテ該場所ヲ離レ停留所 ニ向フ途中、北側歩道上ヲ通行スベカリシニモ不拘、北側車道上ヲ東ニ向ツテ 進ミ通称10丁目筋交叉点ニ向ヒ進行シタルヲ以テ、同所ニ於テ交通整理ニ従 事中ノ交通係戸田忠夫巡査ハ中村一等兵ノ反則行為ヲ制止スベク「メガホン」 ヲ以テ注意シタルモ該兵士ハ之ヲ知ラザルモノノ如ク依然トシテ車道上ヲ通行 シ来リ、更ニ停止信号提出中ノ通称10丁目筋交叉点ヲ南側ニ横断セントシタ ルヲ以テ更ニ注意ヲナシタルトコロ、中村一等兵ハ之ニ対シ軍人ハ一般警察 官ノ取締ニ服セザル旨ヲ繰返シ、反抗的態度ニ出デタル為、同巡査ハ直ニ停 止ヲ命ジ説諭ノ為附近ナル曾根崎警察署天神橋筋6丁目派出所ニ連行セント シタリ、而モ中村一等兵ハ之ヲ肯ゼズ、其ノ儘立チ去ラントシタルヲ以テ、遂 ニ戸田巡査ハ実力ヲ以テ中村一等兵ヲ派出所ニ連行シタリ
(2)派出所ニ連行ノ後、説諭ヲナサントシタルモ同所公廨ニハ同所勤務員2名ア リ、且民衆蝟集シ来リ説諭ノ場所トシテ適当ナラザルヲ以テ、同所内休憩室横 空地ニ於テ戸田巡査ヨリ先刻来ノ不都合ヲ詰リ、中村一等兵亦之ニ応酬シ遂 ニ双方共殴打暴行ニ及ビ、遂ニ別紙記載ノ負傷ヲナシタル外、戸田巡査ノ夏衣 ヲ損傷シ左袖章ヲ脱落スルニ至リタルモノナリ
(3) カクスルコト暫時稍々冷静ニ返ルヤ同派出所詰高井巡査入リ来リ兵士ニ対 シ懇篤説諭ヲ為シタル結果、兵士モ自己ノ非ヲ認メ将来 注意スベキ旨ヲ誓ヒ テ立皈ラントセリ
(4) 然ルニコレヨリ先一民衆ヨリ兵士ト警察官ト格闘中ナル旨大手前憲兵分隊 ニ電話セル者アリ、同隊小西上等兵同派出所ニ急行午後1時前、将ニ立皈ラ ントセル中村一等兵ヲ同派出所ヨリ同隊ニ連行シタルモノナリ
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を示します。
一つは甘粕事件である。「甘粕大尉」角田房子(ちくま文庫)によると、実は、無政府主義者大杉栄とその妻伊藤野枝、および甥の橘宗一を殺害したのは、憲兵大尉甘粕正彦個人であるとは考えられないという。確証に到らなかったが、「甘粕の意思による殺人ではなかった、という説を裏付ける傍証、心証は数え切れない程集まった」とのことである。下記はその中の一つであるが、だとすれば、それは憲兵組織もしくは軍部の犯罪ということになる。そう考えると、確かに出所後の甘粕の行動や満州での活躍がよく理解できるのである。
もう一つは、警察組織と憲兵組織(軍部)の争いとなったゴー・ストップ事件である。交通整理中の警察官による注意に従わず、「巡査ナリシヤガッテ生意気ナ事ヌカスナ」とか「ナンダイ僕ラノ取締ハ憲兵ガスルンダ、オ前ラノ云フ事ヲ聞ケルカイ」(続現代史資料6ー軍事警察「関係者の聴取書」)などと反抗的態度を示し、注意を無視した軍人に対する警察官の連行・説諭の権限を、軍は認めず、「建軍の本義」などを根拠に、その優越性を主張し、逆に警察側に軍人を派出所に連行した行為などについて陳謝させたのである。 その根拠は、軍が公表した文書の中に読み取れる。
第4師団 井関隆昌参謀長の大阪府警察本部長宛文書に「現役軍人(招集中ノ在郷軍人ヲ含ム以下同ジ)ノ非違行為ニ対スル説諭ハ軍部自体ニ於テ行フベキモノニシテ警察官吏ガ説諭ノ目的ヲ以テ現役軍人ヲ派出所ニ連行スルハ職務執行ノ範囲ヲ超ヘタルモノト認ム」とあり、また警察首脳の「軍隊が 陛下の軍隊なら警察官も 陛下の警察官で此の点は同じだ」との主張に対し、第4師団司令部公表の文書には「素より8千万の吾が同胞は悉く 陛下の赤子たらざるものなきも、警察官首脳者の此の言は、吾が国民の諒得しある皇国独特の建軍の本義と警察制度の間には根本的差異の存することを無視せる甚だしき暴言なり」(続現代史資料6ー軍事警察「ゴー・ストップ事件」)とある。警察官に自らの交通規則違反を注意された軍人(中村一等兵)の反抗的態度は、実はこうした軍の優越性の考え方から出てきたものであろうことは、誰にでも理解できることである。このころすでに軍人は特権的地位を得ており、したがって、軍部があらゆることに絶大な権力を振るうようになってきていたということであろう。
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7 満州国建国
・・・
右翼の運動家・松林亮(マコト)は、出航したばかりの船上から大連の埠頭を眺めて、あの甘粕が──と、またも回想にひきこまれた。彼は5人の満州人回教徒を連れて、日本へ向うところだった。
松林はロンドン条約(1930年、海軍軍縮条約)反対の運動に加わったため、満州事変の時は獄中にいた。出獄後、多くの同志がいる満州に渡り種々の運動に奔走するうち、回教徒の集団と知り合った。満州の回教徒は中国人のほか白系露人など多くの人種を含み、軽視されてはいたが、一つの勢力に違いなかった。彼らは建国直前に開いた大会で、「国体、政体のいかんを問わず、新国家の出現に賛意を表す」と決議し、その後も、”親日的”な態度をとり続けていた。だが、松林は、回教徒が日本について全く無知であることを知り、日本の実態を教える必要を痛感した。しかし、彼らを日本に連れて行く費用を捻出するあてはなかった。
思いもかけず、松林の友人が、その費用にと大金を届けてくれた。甘粕が簡単に出してくれたという。甘粕は松林に会おうともせず、この計画の内容を調べもしなかった。
あの甘粕が──という松林の思いの背景は、大正12年の関東大震災である。朝鮮人や”主義者”についての流言が乱れ飛ぶ中で、松林とその友人・小室敬次郎は「この際、大杉をやっつけよう」と決意した。”国家の安泰のため”である。2人の決意を聞いた”右翼の大物”五百木良三”は、先ず福田戒厳司令官に相談せよ、と紹介状を書いた。五百木と福田とは親しい仲であった。
殺人を計画中の松林と小室を逮捕すべき立場にある福田戒厳司令官だが、このとき彼は常識では考えられない次のような発言をしたという。
「民間人がやってはだめだ。必ずバレる。こちらでやるから、まあ、まかせておけ」
松林は──このドサクサの時、民間人ならやれるが、軍人が手を下せばそれこそバレるだろう──と思ったが、福田に逆らうこともできず、不本意ながらそのまま帰った。9月24日、号外で大杉殺害事件を知った松林は やったな──と、福田の言葉を思い浮かべた。
この松林の話を私に語ったのは今井武夫である。今井の紹介で私は、すでに老境の松林にあった。松林は「裁判では、甘粕個人の考えで大杉を殺したことになっているが、福田戒厳司令官の線からの命令でやったに決まっている。私はそれを疑ったことはない」と語った。
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五(三)ゴース・トップ事件
現役軍人交通規則違反事件 関係署書
一 事件ノ概要
1 事件関係者(主タルモノ)
曾根崎警察署詰 交通係 巡査 戸田 忠夫(当27年)
歩兵第8連隊第6中隊 陸軍歩兵一等兵 中村 政一(当23年)
2 事故発生ノ日時 場所
1、昭和8年6月17日午前11時30分頃
2、大阪市北区天神橋筋6丁目交差点付近
3 事故発生ノ原因
前記日時場所ニ於テ前記中村一等兵ガ交通規則ニ違反シ、戸田巡査之ニ注 意ヲ与ヘタルモ之ニ応ゼザル為、附近天神橋筋6丁目巡査派 出所ニ連行説 諭ヲ加ヘントシタルニ端ヲ発シタルモノナリ
4 事実ノ概要(現場の見取り図と括弧書き略)
軍隊関係ノ取調不能ナルヲ以テ全面的調査ヲナス能ハザルモ調査ノ結果ヲ総 合スルニ
(1)当日午前11時過中村一等兵ガ東淀川区長柄橋方面ヨリ来ル市電ニ乗車ス ベク天六交叉点北東側停留所ニ於テ電車ヲ待テ居タルモ、同方面ヨリノ電車 一時中絶セル為都島方面ヨリ来ル電車ニ乗車セントシテ該場所ヲ離レ停留所 ニ向フ途中、北側歩道上ヲ通行スベカリシニモ不拘、北側車道上ヲ東ニ向ツテ 進ミ通称10丁目筋交叉点ニ向ヒ進行シタルヲ以テ、同所ニ於テ交通整理ニ従 事中ノ交通係戸田忠夫巡査ハ中村一等兵ノ反則行為ヲ制止スベク「メガホン」 ヲ以テ注意シタルモ該兵士ハ之ヲ知ラザルモノノ如ク依然トシテ車道上ヲ通行 シ来リ、更ニ停止信号提出中ノ通称10丁目筋交叉点ヲ南側ニ横断セントシタ ルヲ以テ更ニ注意ヲナシタルトコロ、中村一等兵ハ之ニ対シ軍人ハ一般警察 官ノ取締ニ服セザル旨ヲ繰返シ、反抗的態度ニ出デタル為、同巡査ハ直ニ停 止ヲ命ジ説諭ノ為附近ナル曾根崎警察署天神橋筋6丁目派出所ニ連行セント シタリ、而モ中村一等兵ハ之ヲ肯ゼズ、其ノ儘立チ去ラントシタルヲ以テ、遂 ニ戸田巡査ハ実力ヲ以テ中村一等兵ヲ派出所ニ連行シタリ
(2)派出所ニ連行ノ後、説諭ヲナサントシタルモ同所公廨ニハ同所勤務員2名ア リ、且民衆蝟集シ来リ説諭ノ場所トシテ適当ナラザルヲ以テ、同所内休憩室横 空地ニ於テ戸田巡査ヨリ先刻来ノ不都合ヲ詰リ、中村一等兵亦之ニ応酬シ遂 ニ双方共殴打暴行ニ及ビ、遂ニ別紙記載ノ負傷ヲナシタル外、戸田巡査ノ夏衣 ヲ損傷シ左袖章ヲ脱落スルニ至リタルモノナリ
(3) カクスルコト暫時稍々冷静ニ返ルヤ同派出所詰高井巡査入リ来リ兵士ニ対 シ懇篤説諭ヲ為シタル結果、兵士モ自己ノ非ヲ認メ将来 注意スベキ旨ヲ誓ヒ テ立皈ラントセリ
(4) 然ルニコレヨリ先一民衆ヨリ兵士ト警察官ト格闘中ナル旨大手前憲兵分隊 ニ電話セル者アリ、同隊小西上等兵同派出所ニ急行午後1時前、将ニ立皈ラ ントセル中村一等兵ヲ同派出所ヨリ同隊ニ連行シタルモノナリ
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を示します。