真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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甘粕事件とゴー・ストップ事件 軍部(憲兵)の動き

2011年09月17日 | 国際・政治
 1881年(明治14年)に公布された「憲兵条例」の第1条に、「凡憲兵ハ陸軍兵科ノ一部ニ位シ巡按検察ノ事ヲ掌リ軍人ノ非違ヲ視察シ行政警察及ビ司法警察ノ事ヲ兼ネ内務海軍司法ノ三省ニ兼隷シテ国内ノ安寧ヲ掌ル其ノ戦時若クハ事変ノ際ニ於ケル服従ノ方法ハ別ニ之ヲ定ム」(「続現代史資料6ー軍事警察」)とある。陸軍の一組織であるが、任務を遂行に当たっては、内務省、海軍省、司法省の3省に隷属したのである。ところが、この第1条は1889年(明治22年)勅令第43号で改正され、「憲兵ハ陸軍兵ノ一ニシテ陸軍大臣ノ管轄ニ属シ軍事警察、行政警察、司法警察ヲ掌ル其ノ戦時若クハ事変ニ際シ特ニ要スル服務ハ別ニ之ヲ定ム」とされた。陸軍大臣の管轄下に入ったのである。そして、軍事警察として、軍の秩序や規律を維持する任務が軽視され、行政警察、司法警察としての権限を利用して、憲兵が一般国民を監視し、弾圧する権力組織へと変貌していったといえる。すなわち、軍部の意図に逆らう組織や団体、個人を取り締まり、軍人や軍部の不正に対する批判や非難から軍人や軍部を守る組織になっていったのである。下記の2つの事件は、そのことを象徴していると思う。

 一つは甘粕事件である。「甘粕大尉」角田房子(ちくま文庫)によると、実は、無政府主義者大杉栄とその妻伊藤野枝、および甥の橘宗一を殺害したのは、憲兵大尉甘粕正彦個人であるとは考えられないという。確証に到らなかったが、「甘粕の意思による殺人ではなかった、という説を裏付ける傍証、心証は数え切れない程集まった」とのことである。下記はその中の一つであるが、だとすれば、それは憲兵組織もしくは軍部の犯罪ということになる。そう考えると、確かに出所後の甘粕の行動や満州での活躍がよく理解できるのである。

 もう一つは、警察組織と憲兵組織(軍部)の争いとなったゴー・ストップ事件である。交通整理中の警察官による注意に従わず、「巡査ナリシヤガッテ生意気ナ事ヌカスナ」とか「ナンダイ僕ラノ取締ハ憲兵ガスルンダ、オ前ラノ云フ事ヲ聞ケルカイ」(続現代史資料6ー軍事警察「関係者の聴取書」)などと反抗的態度を示し、注意を無視した軍人に対する警察官の連行・説諭の権限を、軍は認めず、「建軍の本義」などを根拠に、その優越性を主張し、逆に警察側に軍人を派出所に連行した行為などについて陳謝させたのである。 その根拠は、軍が公表した文書の中に読み取れる。
 第4師団 井関隆昌参謀長の大阪府警察本部長宛文書に「現役軍人(招集中ノ在郷軍人ヲ含ム以下同ジ)ノ非違行為ニ対スル説諭ハ軍部自体ニ於テ行フベキモノニシテ警察官吏ガ説諭ノ目的ヲ以テ現役軍人ヲ派出所ニ連行スルハ職務執行ノ範囲ヲ超ヘタルモノト認ム」とあり、また警察首脳の「軍隊が 陛下の軍隊なら警察官も 陛下の警察官で此の点は同じだ」との主張に対し、第4師団司令部公表の文書には「素より8千万の吾が同胞は悉く 陛下の赤子たらざるものなきも、警察官首脳者の此の言は、吾が国民の諒得しある皇国独特の建軍の本義と警察制度の間には根本的差異の存することを無視せる甚だしき暴言なり」(続現代史資料6ー軍事警察「ゴー・ストップ事件」)とある。警察官に自らの交通規則違反を注意された軍人(中村一等兵)の反抗的態度は、実はこうした軍の優越性の考え方から出てきたものであろうことは、誰にでも理解できることである。このころすでに軍人は特権的地位を得ており、したがって、軍部があらゆることに絶大な権力を振るうようになってきていたということであろう。
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7 満州国建国

 ・・・ 
 右翼の運動家・松林亮(マコト)は、出航したばかりの船上から大連の埠頭を眺めて、あの甘粕が──と、またも回想にひきこまれた。彼は5人の満州人回教徒を連れて、日本へ向うところだった。
 松林はロンドン条約(1930年、海軍軍縮条約)反対の運動に加わったため、満州事変の時は獄中にいた。出獄後、多くの同志がいる満州に渡り種々の運動に奔走するうち、回教徒の集団と知り合った。満州の回教徒は中国人のほか白系露人など多くの人種を含み、軽視されてはいたが、一つの勢力に違いなかった。彼らは建国直前に開いた大会で、「国体、政体のいかんを問わず、新国家の出現に賛意を表す」と決議し、その後も、”親日的”な態度をとり続けていた。だが、松林は、回教徒が日本について全く無知であることを知り、日本の実態を教える必要を痛感した。しかし、彼らを日本に連れて行く費用を捻出するあてはなかった。


 思いもかけず、松林の友人が、その費用にと大金を届けてくれた。甘粕が簡単に出してくれたという。甘粕は松林に会おうともせず、この計画の内容を調べもしなかった。
 あの甘粕が──という松林の思いの背景は、大正12年の関東大震災である。朝鮮人や”主義者”についての流言が乱れ飛ぶ中で、松林とその友人・小室敬次郎は「この際、大杉をやっつけよう」と決意した。”国家の安泰のため”である。2人の決意を聞いた”右翼の大物”五百木良三”は、先ず福田戒厳司令官に相談せよ、と紹介状を書いた。五百木と福田とは親しい仲であった。


 殺人を計画中の松林と小室を逮捕すべき立場にある福田戒厳司令官だが、このとき彼は常識では考えられない次のような発言をしたという。
「民間人がやってはだめだ。必ずバレる。こちらでやるから、まあ、まかせておけ」
 松林は──このドサクサの時、民間人ならやれるが、軍人が手を下せばそれこそバレるだろう──と思ったが、福田に逆らうこともできず、不本意ながらそのまま帰った。9月24日、号外で大杉殺害事件を知った松林は やったな──と、福田の言葉を思い浮かべた。


 この松林の話を私に語ったのは今井武夫である。今井の紹介で私は、すでに老境の松林にあった。松林は「裁判では、甘粕個人の考えで大杉を殺したことになっているが、福田戒厳司令官の線からの命令でやったに決まっている。私はそれを疑ったことはない」と語った。
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                五(三)ゴース・トップ事件

現役軍人交通規則違反事件 関係署書

一 事件ノ概要

1 事件関係者(主タルモノ)
   曾根崎警察署詰   交通係    巡査 戸田 忠夫(当27年)
   歩兵第8連隊第6中隊  陸軍歩兵一等兵 中村 政一(当23年)

2 事故発生ノ日時 場所
  1、昭和8年6月17日午前11時30分頃
  2、大阪市北区天神橋筋6丁目交差点付近

3 事故発生ノ原因
  前記日時場所ニ於テ前記中村一等兵ガ交通規則ニ違反シ、戸田巡査之ニ注 意ヲ与ヘタルモ之ニ応ゼザル為、附近天神橋筋6丁目巡査派  出所ニ連行説 諭ヲ加ヘントシタルニ端ヲ発シタルモノナリ
 
4 事実ノ概要(現場の見取り図と括弧書き略)
  軍隊関係ノ取調不能ナルヲ以テ全面的調査ヲナス能ハザルモ調査ノ結果ヲ総 合スルニ

 (1)当日午前11時過中村一等兵ガ東淀川区長柄橋方面ヨリ来ル市電ニ乗車ス   ベク天六交叉点北東側停留所ニ於テ電車ヲ待テ居タルモ、同方面ヨリノ電車   一時中絶セル為都島方面ヨリ来ル電車ニ乗車セントシテ該場所ヲ離レ停留所  ニ向フ途中、北側歩道上ヲ通行スベカリシニモ不拘、北側車道上ヲ東ニ向ツテ  進ミ通称10丁目筋交叉点ニ向ヒ進行シタルヲ以テ、同所ニ於テ交通整理ニ従  事中ノ交通係戸田忠夫巡査ハ中村一等兵ノ反則行為ヲ制止スベク「メガホン」  ヲ以テ注意シタルモ該兵士ハ之ヲ知ラザルモノノ如ク依然トシテ車道上ヲ通行  シ来リ、更ニ停止信号提出中ノ通称10丁目筋交叉点ヲ南側ニ横断セントシタ   ルヲ以テ更ニ注意ヲナシタルトコロ、中村一等兵ハ之ニ対シ軍人ハ一般警察   官ノ取締ニ服セザル旨ヲ繰返シ、反抗的態度ニ出デタル為、同巡査ハ直ニ停  止ヲ命ジ説諭ノ為附近ナル曾根崎警察署天神橋筋6丁目派出所ニ連行セント  シタリ、而モ中村一等兵ハ之ヲ肯ゼズ、其ノ儘立チ去ラントシタルヲ以テ、遂   ニ戸田巡査ハ実力ヲ以テ中村一等兵ヲ派出所ニ連行シタリ
 (2)派出所ニ連行ノ後、説諭ヲナサントシタルモ同所公廨ニハ同所勤務員2名ア   リ、且民衆蝟集シ来リ説諭ノ場所トシテ適当ナラザルヲ以テ、同所内休憩室横  空地ニ於テ戸田巡査ヨリ先刻来ノ不都合ヲ詰リ、中村一等兵亦之ニ応酬シ遂   ニ双方共殴打暴行ニ及ビ、遂ニ別紙記載ノ負傷ヲナシタル外、戸田巡査ノ夏衣  ヲ損傷シ左袖章ヲ脱落スルニ至リタルモノナリ
 (3) カクスルコト暫時稍々冷静ニ返ルヤ同派出所詰高井巡査入リ来リ兵士ニ対  シ懇篤説諭ヲ為シタル結果、兵士モ自己ノ非ヲ認メ将来 注意スベキ旨ヲ誓ヒ   テ立皈ラントセリ
 (4) 然ルニコレヨリ先一民衆ヨリ兵士ト警察官ト格闘中ナル旨大手前憲兵分隊   ニ電話セル者アリ、同隊小西上等兵同派出所ニ急行午後1時前、将ニ立皈ラ  ントセル中村一等兵ヲ同派出所ヨリ同隊ニ連行シタルモノナリ

 ・・・(以下略)

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を示します。 

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謀略 阿片の組織的売買

2011年09月11日 | 国際・政治
 「満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの」太田尚樹(講談社)は、江口圭一や倉橋正直などの著書、断片的に語られる関係者の証言などを総合し、15年戦争当時の阿片取り引きをA、B、C、3つのタイプにわけて、下記のようにまとめている。戦争相手である、国民党蒋介石軍にも売りつけ、利益を分け与えていたということには、驚かざるを得ない。また、元憲兵大尉の甘粕のみならず、戦後、日本の総理大臣になる岸も、阿片と無関係ではなかったようである。呆れるばかりである。
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21 謀略という名の哀しきロマンティズム──曠野に咲き誇るケシの花

  阿片の流通組織

 甘粕、岸を筆頭に「妙な会」が関わっていた阿片の流れを知る上で、流通の構造を書いておかなければならない。。大まかには3つに分類できるが、まず、Aタイプは、熱河省などのケシの栽培農家を取り仕切っている組織から、満州国政府専売局が買い上げる。それを阿片煙膏に精製してから、法外な価格で、満州国内の阿片吸引所や愛飲者に売りつける。

 この場合、栽培農家は不安定な商取引は避けたがるので、契約作付方式としたが、これによって、よそ者が入り込むのを防止できる効果もあった。さらに生産者側は不安定な通貨よりも、綿布、食料品、豚油(ラード)などの物品と交換を望んだので、現物取引になった。物資の調達、運輸はもちろん、総合商社満鉄の仕事である。 

 満州国政府は、専売局を通じて専売制にしてあるから、第3者が入り込めない。上海駐在の三井物産社員たちの間では、「熱河の阿片は、満州国政府と関東軍の背後にいる甘粕がヒモだから、熱河阿片に手を出したら命はない」と囁かれていたのは、そのためである。
 同時に政府は、禁煙総局を作って表向きは阿片を禁止しているから、価格が吊り上がる。今日でも、暴力団が麻薬を資金源にしているのは、厳しい取り締まりによって支えられていると言ってよい。麻薬が自由に売買できれば、彼らは手を出すことはないわけである。なんのことはない。満州国政府は、禁止と販売の双方を、同時進行させていたのである。


 そして生産地の警備、満州国内にはほかの地域から持ち込ませないための監視と、用心棒として存在するのが関東軍ということになる。このAタイプで注目すべきことは、支那事変が始まると、販売先が満州国内に限らず、日本軍占領下の中国にも深く浸透し、さらに甘粕が腐心したように、蒋介石軍にも食い込んでいたことだった。
 「もちろん岸は、そのころから蒋介石と通じていたはずです。それは甘粕が国民党側に軍資金として、阿片の上がりの一部を提供していたからです。蒋介石は、自国の国民を阿片漬けにして得た金を受け取るのには抵抗があったはずですが、目の前の八路軍と、さらに日本軍とも対峙しなければならないのですから背に腹は替えられなかったのです」
 戦前、上海の三井物産支店にいた元社員は、そう語っている。


 ところで戦前の中国共産党と、戦後の新中国。岸の政治イデオロギーからすれば、共産主義は同じ「だが」の中にある近接した思想ではあっても、持論にしている産業立国論は、農業に活路を求める中国共産党のそれとは、遠い存在であった。戦後も共産党一党支配の新中国に対して、きっぱりと一線を画した岸は総理時代に、高等学校以来、満州でも付き合いのあった伊藤武雄たちから、盛んに日中貿易、日中国交正常化を持ちかけられたが、腰を上げようとしなかった。
 さらに総理を辞めてからも、台湾ロビーストとして君臨した岸だが、蒋介石との深い信頼関係は、並のものではなかったといわれる。甘粕を通して両者の間に築かれた絆とする見方が、的外れではないことを物語っている。


 では甘粕は、一連の阿片の流れの中で、何処に位置していたのか。まず生産者から買い上げる位置に里見甫がいて、彼と買い主の満州国政府との間に、甘粕がいた。甘粕の場合は、さらに政府と消費者の間にもいちしていて、複数のダミー会社を通して、取引していたといわれる。ダミー会社はフィルターの役割になるが、岸が口癖の「水は濾過して飲め」は、神道の儀式「禊」の美意識に通じる。水は清濁併せて呑むべからず。濁水も濾過すれば、清水になるという論法である。
 そして、政府側の窓口のトップは古海忠之で、組織上は、さらにその上に、岸がいたわけである。


 次にBタイプは、外国から阿片を輸入して、上海、香港ルートで売り捌く。これにはイギリスが深く関わっていて、インドから駆逐艦や、ときには巡洋艦まで使い、上海で陸揚げする。軍艦だから臨検を受けることもなく、堂々と持ち込むことができたのである。
 ここでは里見甫が要の位置にいて、その背後にいたのが甘粕、という図式になっていたといわれる。結果的に、莫大なおこぼれが、満州国に入ることになる。
 上海を拠点にした阿片ルートは、華僑の多い南方と繋がっているが、南に伸びていた甘粕機関の活動と、無縁ではあり得ない。つまり甘粕の活動域の中心は、満州の外では、上海だったことになる。
 これには注目すべきエピソードがある。昭和16年のあるとき、岸が上海に遊びにやって来た。この年の1月、商工次官の岸は、小林一三商工相と喧嘩別れして、浪人中の身だったときである。元々この2人は、バリバリの国家統制論者の岸と、片や根っからの自由主義経済人の小林であるから、衝突するのは時間の問題、と見られていたらしい。それはともかく、この年の秋に東条内閣の商工相に就任するまでは、珍しく暇だった時期である。


 さて、上海に現れた岸が、満州国で部下だった長瀬敏のところにふらっと立ち寄ってみると、早速その日のうちに英国のサッスン財閥から電話がかかってきた。「ミスター・キシをぜひ招待したいから、連絡を取って欲しい」という伝言である。ユダヤ系英国人の初代サッスンは、1840年の阿片戦争後、中国におけるインド産阿片の専売権を掌握してから急成長を遂げた財閥で、香港上海銀行も同家が設立したものだった。
 現在、中山東一路20号にある、緑の三角屋根が特徴の和平飯店(北楼)は、英国名サッスン・ハウスだが、1928年に建設以来、同財閥の根拠地になっていた。さらに、上海にある同家の邸宅は、邸内に18ホールのゴルフ場まである、広大なものだったという。
 ところで、阿片で財を成してきた財閥が会いたがったミスター岸だが、彼の足取りまで把握していた情報収集能力もさることながら、両者の接点が何であったかは、推測する方が野暮というものであろう。


 もう一つのCタイプは、満州国や関東軍とは一応関係なく、蒙疆地区から日本軍が買い上げ、これを占領地の中国人に売ることになる。売り捌くのは、大陸浪人や「支那ゴロ」といわれた連中だった。このことは、前線の向こう側、つまり中国側にも、販売ルートが通じていたことを意味する。しかも、日本側から相手側上層部に秘密裏に、あるときは公然と、献金される仕組みである。
 日中戦争といっても、阿片を通して双方が繋がっていて、さらに日本側から莫大な軍資金が相手側に渡されていたという、奇妙な関係が成立していたことになる。「結果的に、支那事変があそこまで長期化し、拡大してしまったのは、阿片が原因だった」とする見方があるのは、そのためである。


 その蒙疆地区といえば、日本の占領地区ではあっても、もともと中国本土一郭である。「東条兵団の蒙疆作戦は、阿片栽培地の確保にあった」と一部で言われているが、「大陸は阿片で明け、阿片で暮れた」という指摘は、あながち的外れとは言えない。英国が仕掛けた阿片戦争の後遺症は、健在だったのである。

 だが、岸と阿片の関わりについていえば、「岸個人がやったのではなく、満州国が為さしめたこと」という論法が、一応成りたつことになる。
 だが甘粕の場合は、阿片と関わるどころか、元締めであることは満州国政府や関東軍の中では、公然の秘密であった。関わりをもった人間たちの証言を待つまでもなく、満州国政府自体が阿片に関わり、絶対権力を持つ、関東軍の軍資金だったからである。
 それまで阿片の専売は、満州国政府内の財政部の管轄下にあったものを、民政部に移したあたりから不透明さを増してくる。民政部はのちに厚生部と名称が変わったが、民間の阿片吸引所閉鎖したり、中毒患者の治癒にも関わる部署だった。その一方で、専売もするという矛盾を抱えていたことになるが、表に出せない流通部門を、甘粕は任されていたのである。この組織替えに、総務庁次長という要にいる、岸の存在に着目しないわけにはいかない。


 そこで、岸の部下として満州国政府の総務庁主計処長、日本流に言えば主計局長をしていた古海忠之の登場と相成るが、その古海は、戦後、政治家岸信介にまつわりつく記者たちに、「君たちはふたこと目には阿片阿片と騒ぐが、満州の阿片は、甘粕も岸さんも関係ない。阿片については、支那や満州で一手にやっていた里見という男がいた。これは私の阿片の相棒だ。阿片は私と里見が仕切っていたので、いま言ったように、甘粕も岸さんもまったく関係ないんだよ」と言っていた。

 ソ連と中国の撫順戦犯監獄に18年も抑留されて帰ってきた古海が、帰国後もとことん面倒見てくれた岸をかばうのは、むしろ当然だった。しかも古海が日本の土を踏んだのは、岸が総理の座を降りて3年しか経っていないときで、まだ政治活動を盛んにやっていた時期だった。古海が甘粕をかばったのは、岸・甘粕の関係を知らない人はいなかったのだから、これも当然のことになる。甘粕をかばわなければ、岸をかばったことにならないからである。


 結局、岸を直接知る人たちは、彼が満州で何をしたか、とくに甘粕との深い関わりを知ってはいるが、古海のように否定したり、或いは「それは言えない」と証言を拒んできたのは、最後まで岸の面倒見がよく、みんな何らかの形で、世話になっていたからである。
 しかも岸は、その生涯を終える90歳まで意気軒昂で、政界に財界に影響力を持ちつづけた。したがって岸の存命中、彼らは真実を語る機会がなかったし、多くは岸より先に鬼籍に入ってしまった。関係者がいみじくも言っているように、「墓場まで持って行く」が、その通りになったのである。


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

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北満進出のための軍の謀略 甘粕と和田

2011年09月04日 | 国際政治
 下記は、「満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの」太田尚樹(講談社)から、柳条湖事件直後の2つの謀略に関する部分を抜粋したものである。一つは、アナーキスト大杉栄を殺害したとして世に知られることになった元憲兵大尉甘粕正彦によるものであり、もう一つは奉天特務機関に出入りしていたという予備中尉和田勁のものである。まさに、目的のために手段を選ばない理不尽な所業であると思う。

 同書は、甘粕事件についても詳述しているが、大杉栄と当時の妻伊藤野枝、および、甥の橘宗一を殺害したのは、甘粕ではなかったということである。ロシア革命後の新興ソ連に脅威を感じていた軍は、関東大震災の混乱に乗じて社会主義者を虐殺したり検挙したりしていたが、大杉栄も、憲兵隊上層部か陸軍上層部のいずれかの命令によって、検挙・拘束・殺害されたものであり、大勢の憲兵から殴る蹴るの暴行を受けて殺されたというのである。一緒に殺されてしまった当時6歳の大杉の甥・橘宗一が米国籍を持っていたため、米国大使館の抗議を受けて、その罪を、大杉を連行した甘粕一人に引き受けさせたというのが真相のようである。甘粕も、天皇を頂点に戴く日本軍の汚名を代わって引き受け、真相は誰にも語ることがなかったのである。
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                14 満州事変勃発

 甘粕ハルピンに現わる

 ”討ち入り”に間に合うようにと、甘粕は大急ぎで東京からハルピンに舞い戻ってきた。奉天郊外の実行部隊の別働隊として、甘粕はこの地で待機することがあらかじめ決められていたからである。その甘粕が柳条湖事件勃発の知らせを受けたのは、9月18日深夜のことだった。「いよいよ始まったな」と思いながら時計を見ると、満鉄線が爆破されてから、1時間が経っていた。
 だがそれまでハルピン特務機関長を務めていた沢田茂に代わり、この年8月1日付で赴任してきた百武晴吉中佐は、沢田以上に慎重な男だった。
「まだ勝手な行動は許さんぞ。奉天からの指示を待つのだ。あちらの進展状況に目処さえつけば必ず君の活躍するときがくる」と言って、百武は甘粕をたしなめた。板垣、石原からゴー・サインが出れば、直ちに奉天特務機関長の土肥原から知らせがくる手はずになっていたのである。
 21日深夜、甘粕が動き出した。そのとき、ハルピン特務機関員宮崎繁三郎の妻は、「パン、パン、パーン」という発射音につづいて、窓ガラスの砕ける音を聞いた。驚いて宿舎の窓のカーテンの陰からそっと見下ろすと、2人の男がピストルを乱射している。1人は間違いなく甘粕だが、もう1人の方は甘粕に影のようについて回っている、人相の良くない例の男のはずだった。


 あらかじめ夫から甘粕の行動を聞かされていた宮崎の妻が「あんなやり方でいいのですか。捕まったら支那語が解るわけじゃなし、日本人だとすぐ分かっちゃいますね」と、心配そうに夫の顔を振り返った。だが、宮崎の方は落ち着いたものだった。
「そのときは自爆する覚悟さ。甘粕は命がけだからね。もっとも、ポケットには張学良の軍隊の密使であることをうかがわせるような、支那語で書かれた手紙でも入っているだろうよ」とは言ったものの、彼の心情を思うと、なんとも哀れであった。


 南満を抑えた勢いで、一気に北満に進出しようと関東軍が躍起になっていたハルピン出兵の口実作りは、このときからはじまっていた。夜な夜な、何者かが出没して在ハルピン日本領事館にピストルを乱射したり、爆弾を投げ込み、日本人商店に手榴弾が放り込まれる。あるときには、ナンバープレートのない車の窓から、歩いている日本人が狙撃を受けたこともあった。

 直ちに現地の日本字新聞は、「居留日本人4千人の命危うし」と書き立て、内地の新聞も大きな活字を紙面に躍らせた。朝日新聞も9月23日から連日のように、「ハルピンの在留民突如危機に陥る。各所に爆弾投下さる」「ハルピン急迫せば在留民は引き揚げ 閣議で方針決定」「ハルピン危機迫り 現地保護を請求」と、現地の切羽詰まった状況を伝えている。

 このときの甘粕は中国製の手投げ弾を使い、いつも身につけているピストルも、モーゼルである。服装も苦力や、ときには便衣隊に変装していたから、簡単には見破られないはずだった。


 ときを同じくして、ハルピン総領事館も動き出した。大橋忠一総領事は百武特務機関長と前後して、「日本人居留民の生命財産保護のため出兵求む」という文案を、東京の本省に打電する手はずになっている。計画はトントン拍子に進んでいるかのように見えた。
 ところが、宣伝に関しては、相手の方が一枚も二枚もうわ手だった。漢字新聞に「ハルピン領事館の爆破は、玄関先に小爆弾を破裂させただけのもので、被害は皆無。爆破された日本人家屋にいたっては、いずれも空屋ばかりで、人災は一切無し。これらはすべて日本軍による侵略のための見えすいた謀略で、ハルピンはきわめて平穏」とすっぱ抜かれてしまった。これで、甘粕の謀略は頓挫する。


 だが、近年で出てきた資料の中には、ハルピンだけでなく、事変勃発直前の吉林でも同じような騒動が起きていたが、明らかに甘粕の主導だったことを窺わせるものがいくつかある。吉林で起きた騒動に関東軍を出動させれば、奉天がガラ空きになることを口実に、林銑十郎率いる朝鮮軍を満州に入れる計画だったのである。

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危うく難を逃れた満鉄事務所

 一方そのころ、奉天の東拓ビルに置かれたばかりの軍司令部では、板垣と石原が、やきもきしながらハルピンの情勢を見守っていた。奉天占領に気をよくしたものの、ハルピンの危機を口実に、朝鮮軍や内地からの増援部隊を速やかに投入しないことには、いたずらに時間だけが過ぎてゆき、張作霖事件の二の舞になってしまうからである。

 ちょうどそのとき、奉天特務機関に出入りしている和田勁という予備中尉がやってきて、「甘粕ではダメですよ。私に任せてください」と、板垣の前で大見得を切った。土肥原賢二にいわれたのか、あるいは自ら買って出たのか分からないが、和田は「もっとでかい餌をまかないと、大魚はかかりませんよ」と、胸を張った。

 次の日の午後、この豪傑は一人の手下を連れてハルピンに乗り込んできた。早速、名古屋ホテルに甘粕を呼び出すと、和田は「奉天では急いでいるんだ。まあ、ここはオレに任せろ」と言って、小柄な甘粕を見下ろした。当然、甘粕の方は面白くない。あの土肥原機関長が和田を送り込んできたと思うと、よけいにムッとする。それでも「満州にはこの手の男が大勢いるとは聞いていたが、一体この男は何をしでかすのだろう」という、興味の方が優先した。


 それから直ぐに和田は表の通りに出て行ったが、後を追った日本人の手下が、大事そうに抱えた小型のトランクが、甘粕は妙に気になった。間もなく和田だけが戻って来ると、甘粕の手を引っ張るようにして、ホテルの三階に上がってきた。
「よく見ていろよ。満鉄事務所が吹っ飛ぶから」


 和田はこともなげにそう言ってから、窓の外に目をやって、悪戯っぽく笑った。
 驚いたのは甘粕である。あそこには、日頃世話になっている事務所長の宇佐見寛爾をはじめ、満鉄ハルピン支社に勤める数百人の社員がいる。事変直前に内地へ金策に行って失敗して帰ってきた甘粕を見ると、金の用途も尋ねずに、大連の本社に掛け合って、都合してくれたのも宇佐見だったし、昨夜も一緒に飲んだばかりだったのである。


 その宇佐見だけでも助けなければと焦った甘粕は、部屋に飛んで帰るなり、事務所長のデスクに電話を入れた。
「いま板垣参謀が、火急の用事で見えていますから、至急来てください。大至急です、大至急!」

 いつも沈着で、ときどきニヒルな笑いを浮かべるだけの甘粕のひどく慌てた様子に、宇佐見は取るものも取りあえず、小走りにやってきた。
 しかし、板垣大佐などどこにもいない。甘粕はバツが悪そうに頭を掻いているばかりだし、傍らにいる見慣れない和田というふてぶてしい男も、窓の外に目をやったまま動こうとしない。
「いったい、どうしたっていうんだね。君らの悪戯に付き合っているほど、ボクは暇人ではないんだ」

 
 いつも温和な宇佐見が、そう言っていらだちを見せた。
 そこへ、手下が駆け込んでくるなり、「大将、時限装置が故障でダメです」と言って、情けなそうな顔付きで和田を見つめた。さすがにすまなそうな顔付きをして、和田が事の顛末を話すと、宇佐見は青くなって怒りだした。
「バカッ……」
すんでのところで、あの世に送り込まれるところだったから、怒るのも無理はなかった。
 この事実はほとんどの満鉄社員の間に知れることになった。当然のことながら、彼は恐ろしさに震え上がり、それが収まると、こんどは怒りに震えたという。


 和田という男のように、中尉でお払い箱になって満州に流れてきたような男がやる謀略などは、こんな程度なのかもしれない。甘粕はそう突き放して考えてみるものの、自分が今やっていることも、決して褒められたものではない。
「それに、オレがハルピンでピストルを乱射したり、手投げ弾を放り込んだことも、相手側にすっぱ抜かれて失敗に終わってしまったではないか。あれはなまじ日本人に危害を加えることをためらったからだ。これからは和田のように、物事をもっと割り切って取り掛からなければならないのかもしれない」

 ・・・(以下略)


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