瑞穂虐殺事件
瑞穂事件は元ソ連軍政治部高級中尉「許鳳得」が1945年の末に内幌炭砿での講演の後、講演を聞いた人たちから、「瑞穂に住んでいた朝鮮人がみんな日本人に殺された。調べてくれ」と訴えられ、政治部の上司に調査するよう報告書を書いて提出したことによって、事実が公になった虐殺事件である。
日本は8月15日に、すでに連合軍に降伏していたが、ソ連軍は戦闘を継続した。それで、それまで民間防衛体制に当たっていた警防団を義勇戦闘隊に組み入れ体制を整えたのであるが、モリシタヤスオ元曹長が「ソ連軍を半島が先導している」「山沢大佐から、瑞穂に住んでいる朝鮮人を殺せと命令があった」「ソ連軍はまもなくやって来るに違いない。此処に多くの朝鮮人が住んでいるが、必ず日本人を裏切るであろう。そして彼らはソ連のスパイである。ソ連軍がやって来ると、より多くのスパイ行為に走るだろう。彼らを殺さなければならぬ」と朝鮮人殺人計画を持ちかけ、27人の朝鮮人(乳幼児を含む)を虐殺したのである。
1946年夏、ソ連軍の特務機関が瑞穂に現地調査に入り、KGB(国家保安部委員会)と軍隊合同の死体発掘が行われたという。そこには、加害者側の日本人関係者も立ち会った。医学鑑定委員は、遺体を綿密に臨検するとともに、解剖し、小さな傷跡まで調べ、被告全員の訊問がなされたのである。
下記は「証言・樺太朝鮮人虐殺事件」林えいだい著(風媒社)から被告の証言や資料の一部を抜粋したものである。著者は、ソ連の『コミュニスト』(共産党機関誌)に「瑞穂の惨劇」と題して5回の連載記事を書いたガポニエンコ・コンスタンチン・エロフェエビッチから、三冊にまとめられた検事調書、死体発掘写真、死体鑑定書、判決文など虐殺事件関係の資料をもらい受けているという。
クリスノボル陳述---------------------------
「はい、私は紺部さんの飯場に住む九人の男と一人の女の子を殺しました。
8月23日、早朝の四時近く、私は起きてナガイアキオの家へ向かいました。刃渡り三十センチから四十センチほどの日本刀を持って、朝五時か六時頃、飯場に到着しました。
モリシタが指揮をとりました。最初に飯場を取り巻きました。窓から朝鮮人たちが見ていました。
モリシタは飯場の中に突入しました。家の中はごった返し、叫び声をあげて、朝鮮人たちは窓へ向かって走り出しました。
日本人たちはそれを斬り殺しました。私自身、チバの銃で負傷した、二十五,六歳の朝鮮人を殺しました。私は彼の喉と胸を何回か突き刺しました。」
ハシモトスミヨシ陳述------------------------
「私は死人の背を刃物で切り、死体を弄びました。私は負傷したヤマモトを二度か三度、短剣で襲い止めを刺しました。上空にソ連機が飛来してきたので逃げました。」
「もし、この殺人行為に私が参加しなかったとしたら、の人たちは私を日本人の癖に臆病者であり、裏切り者と決めつけるでしょう。そして朝鮮人びいきだと受け止めるに違いないと思いました。
朝鮮人ヤマモトは苦しんでおり、彼が苦しまないように、私は心臓の辺りを短剣で二度突き刺して殺しました」
ホソカワタケシの陳述-------------------------
「道から五メートルくらいのところで、私はマルヤマの女房の背中を、日本刀で三度切りつけて殺しました。娘はチバモイチが刺しました」
チバマサシの陳述--------------------------
私は瑞穂に住み、ソ連軍侵攻前の1945年8月21日、ホソカワヒロシのテログループに誘われ、瑞穂に住む朝鮮人たちの大量虐殺に加わったことを、悪いことをしたと認めます。私の参加した過程で、17人の朝鮮人を殺しました」
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サハリン州ホルムスク郡清水村瑞穂 1946年7月19日、21日、23日
極東管区主鑑査省 主法医鑑査役グドユーフ・エ・エムの立会委員会
瑞穂住民の被害状況
穴NO1------------------------------
の中心から二キロ、日本家屋より250メートル、留多加川左岸17メートルの位置。
穴の回りは、若い落葉樹の繁りと、沼の葦とバラの灌木がある。 鑑定結果深さ30センチ。
鋭い刃物による頭切断
胴の第五腰背骨付近が斬傷。
肋骨右側多数骨折
穴NO3------------------------------
日本家屋から30メートル。
・上部に横たわった死体には、頭部が本体から切断
頭蓋骨後頭部に穿穴有す……。
肋骨の左右に多数の骨折個所。
・第二の死体には、頭部に二個所の穿、骨折
胸骨に貫通穴傷、槍突き、肋骨の左に多数の骨折。
・第三の死体には、死体の右手切断。
左下肢に多数の骨折
・第四の死体には、鼻及び下あご部分切断。
後頭部に斬傷、上部肢骨と肋骨の左右に多数の骨折。
KGBシベリア公文書保管所[軍事裁判 判決書]-------------
◎死刑(銃殺刑) ─── 7人
ホソカワヒロシ キヨスケダイスケ クリスノボル チバマサシ ホソカワタケシ チバモイチ ナガイコウタロウ
(生年月日など略)
◎禁固刑(10年)─── 11人 (略)
1946年12月10日 極東管区軍事裁判
ソ連最高裁軍法協議会 ウィリップ 署名
極東管区軍事裁判長
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1947年2月26日 ウラジオストック市に於いて死刑執行とある。虐殺の指揮官ともいうべきモリシタヤスオの名前がない理由は不明である。