日韓併合条約によて、無理矢理日本の支配下におかれた朝鮮は、戦争の被害が極めて深刻であったにもかかわらず、極東軍事裁判において、日本の戦争犯罪を告発する側に立つことはできなかった。裁かれる側であった(戦犯として有罪を宣告された朝鮮人軍属は148名で、このうち23名が死刑を執行されたという)。
したがって、下記に抜粋したような民族性抹殺の朝鮮政策については、何も裁かれていない。しかしながら、不問に付してよいとは思えない。いや、むしろ朝鮮民族の告発にきちんとこたえることによってこそ、真に誇り得る日本にすることができると思う。「皇民化政策から指紋押捺まで(在日朝鮮人の「昭和史」)」徐京植(岩波ブックレットNO.128)から、3項目のみ抜粋する。
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「皇民化政策」───民族抹殺政策
神社参拝の強要
日本帝国主義は、1925年に、現在のソウル市南山に「朝鮮神宮」を竣工させ、1934年までに朝鮮全土282ヵ所に神社を建てました。1936年、南次郎が総督になると、「神社規則」をつくり、各村ごとにかならず一神社をつくらせる「一邑面(日本の町村にあたる)一神社主義」を強要し、朝鮮のすみずみまで神社を建て、1938年からは百済の故地である忠清南道扶余に内鮮一体のシンボルとして「扶余神宮」を建設するため朝鮮人を動員して無料奉仕させました。さらに、各家庭にも神棚を作らせ、お札を買わせて礼拝を強要しました。
神社参拝を拒否するキリスト教徒を拘束する一方、朝鮮基督教聯合会のような御用組織をつくらせました。1938年9月以後、神社参拝に反対した約2000名の牧師・教徒が検挙投獄され、200あまりの教会が閉鎖、50人あまりが獄死しました。
「皇国臣民の誓詞」
1937年10月、「皇国臣民の誓詞」が定められ、その日常的な斉唱が制度下されました。
「皇国臣民の誓詞」<児童用>
一、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス
二、私共ハ互ニ心ヲ合セテ、天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス
三、私共ハ忍苦鍛錬シテ、立派ナ強イ国民トナリマス
<学生・一般用>
一、我等ハ皇国臣民ナリ、忠誠以テ君国ニ報ゼン
二、我等皇国臣民ハ互ニ信愛協力シ以テ団結ヲ固クセン
三、我等皇国臣民ハ忍苦鍛錬力ヲ養ヒ以テ皇道ヲ宣揚セン
この誓詞は、官公署や各職場で朝礼時間や会合の時 など日常的に斉唱が義務づけられました。朝鮮神宮には皇国臣民誓詞之柱が建てられました。
また「国語(日本語)常用」が進められ、1943年からは「国語普及運動」が大々的に展開されました。役所などでは日本語でなければいっさい相手にされず、陳情書も日本語でしか受けつけられず、学校では朝鮮語を使うと罰をうけたり減点されたりしました。このような日本語強要=朝鮮語抹殺政策の結果、日本語を解する朝鮮人の人口は、1923年に全人口の4.08%、38年12.38%、43年には
22.15%に増加しました(「やや解しうる者」を含む)。
1942年から43年にかけて、朝鮮語辞典の編集にとりかかっていた朝鮮語学会の会員33人が治安維持法違反で検挙され、2人が拷問のため獄死させられました。このため朝鮮語辞典の編集は、日本敗戦後まで中断させられました。
名前まで奪う
1939年11月、朝鮮民事令が改定され、朝鮮固有の姓名をを奪って、これを日本式の氏名に統一する「創氏改名」が強要されました(1940年2月18日実施)。日本帝国主義は「創氏改名」を「一視同仁の大理想を具現する」ものであり、「大和大愛の発露」だと宣伝しつつ、施行にあたっては官憲を動員して強制しました。
創氏改名しない人は、たとえば、子どもが学校に入学できない、官公署などの機関に採用されない、行政機関が事務を取り扱ってくれない、「非国民」「不逞鮮人」として警察に日常的に監視・いやがらせをされる、食糧・物資の配給対象から除外される、「徴用」(強制連行)の対象者にされるなど、あらゆる圧迫をうけました。朝鮮総督府の命令で、末端の派出所にいたるまで警察が創氏改名の強要に動員されました。
こうして、結局、朝鮮人のおよそ8割が創氏改名に追いこまれたのです。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
したがって、下記に抜粋したような民族性抹殺の朝鮮政策については、何も裁かれていない。しかしながら、不問に付してよいとは思えない。いや、むしろ朝鮮民族の告発にきちんとこたえることによってこそ、真に誇り得る日本にすることができると思う。「皇民化政策から指紋押捺まで(在日朝鮮人の「昭和史」)」徐京植(岩波ブックレットNO.128)から、3項目のみ抜粋する。
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「皇民化政策」───民族抹殺政策
神社参拝の強要
日本帝国主義は、1925年に、現在のソウル市南山に「朝鮮神宮」を竣工させ、1934年までに朝鮮全土282ヵ所に神社を建てました。1936年、南次郎が総督になると、「神社規則」をつくり、各村ごとにかならず一神社をつくらせる「一邑面(日本の町村にあたる)一神社主義」を強要し、朝鮮のすみずみまで神社を建て、1938年からは百済の故地である忠清南道扶余に内鮮一体のシンボルとして「扶余神宮」を建設するため朝鮮人を動員して無料奉仕させました。さらに、各家庭にも神棚を作らせ、お札を買わせて礼拝を強要しました。
神社参拝を拒否するキリスト教徒を拘束する一方、朝鮮基督教聯合会のような御用組織をつくらせました。1938年9月以後、神社参拝に反対した約2000名の牧師・教徒が検挙投獄され、200あまりの教会が閉鎖、50人あまりが獄死しました。
「皇国臣民の誓詞」
1937年10月、「皇国臣民の誓詞」が定められ、その日常的な斉唱が制度下されました。
「皇国臣民の誓詞」<児童用>
一、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス
二、私共ハ互ニ心ヲ合セテ、天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス
三、私共ハ忍苦鍛錬シテ、立派ナ強イ国民トナリマス
<学生・一般用>
一、我等ハ皇国臣民ナリ、忠誠以テ君国ニ報ゼン
二、我等皇国臣民ハ互ニ信愛協力シ以テ団結ヲ固クセン
三、我等皇国臣民ハ忍苦鍛錬力ヲ養ヒ以テ皇道ヲ宣揚セン
この誓詞は、官公署や各職場で朝礼時間や会合の時 など日常的に斉唱が義務づけられました。朝鮮神宮には皇国臣民誓詞之柱が建てられました。
また「国語(日本語)常用」が進められ、1943年からは「国語普及運動」が大々的に展開されました。役所などでは日本語でなければいっさい相手にされず、陳情書も日本語でしか受けつけられず、学校では朝鮮語を使うと罰をうけたり減点されたりしました。このような日本語強要=朝鮮語抹殺政策の結果、日本語を解する朝鮮人の人口は、1923年に全人口の4.08%、38年12.38%、43年には
22.15%に増加しました(「やや解しうる者」を含む)。
1942年から43年にかけて、朝鮮語辞典の編集にとりかかっていた朝鮮語学会の会員33人が治安維持法違反で検挙され、2人が拷問のため獄死させられました。このため朝鮮語辞典の編集は、日本敗戦後まで中断させられました。
名前まで奪う
1939年11月、朝鮮民事令が改定され、朝鮮固有の姓名をを奪って、これを日本式の氏名に統一する「創氏改名」が強要されました(1940年2月18日実施)。日本帝国主義は「創氏改名」を「一視同仁の大理想を具現する」ものであり、「大和大愛の発露」だと宣伝しつつ、施行にあたっては官憲を動員して強制しました。
創氏改名しない人は、たとえば、子どもが学校に入学できない、官公署などの機関に採用されない、行政機関が事務を取り扱ってくれない、「非国民」「不逞鮮人」として警察に日常的に監視・いやがらせをされる、食糧・物資の配給対象から除外される、「徴用」(強制連行)の対象者にされるなど、あらゆる圧迫をうけました。朝鮮総督府の命令で、末端の派出所にいたるまで警察が創氏改名の強要に動員されました。
こうして、結局、朝鮮人のおよそ8割が創氏改名に追いこまれたのです。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。