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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本人戦犯自筆供述書 第39師団師団長 佐々眞之介

2014年09月21日 | 国際・政治
 「日本人戦犯自筆供述書」は、当初反抗的であった戦犯容疑者たちが、強制や強迫によることなく、戦犯管理所の人道的な処遇や忍耐強い教育に心を動かされて自己変革を成し遂げ、自発的にその罪行を綴ったものである。
 下記は、「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、佐々眞之介(さっさしんのすけ)が、師団長の立場にあった期間の罪行の一部分を抜粋したものであるが、彼も、中国における様々な第39師団の「罪行(中国人民に対する殴打、虐待、殺害や掠奪、民家焼却、毒瓦斯使用攻撃、慰安婦強制等)」が、自分の師団長としての命令の結果であることを一件一件丁寧に記述し認めている(認罪)。

 撫順の日本人戦犯管理所で書かれた自筆供述書は、事件の日時や場所、人名、民家焼却数、掠奪物質、人民殺害の方法と人数、強姦、誘拐人数など、きわめて具体的で詳細であるが、それは、日本人戦犯がそれぞれ所属した師団、部隊、憲兵、警察、司法などでグループをつくり、繰り返し当時を思い出し、時に批判しあいながら、事実をつき合わせ、認罪を深めていった結果であるといわれていることには、すでに「日本人戦犯自筆供述書 第117師団師団長 鈴木啓久」(425)で触れた。

 『中国侵略の証言者たち──「認罪」の記録を読む』岡部牧夫 荻野富士夫 吉田裕(岩波新書)によって、つけ加えれば、そうして得られた自供内容を、被害者の告訴状と照らし合わせ、また、検察官等が被害地で犯罪調査をして、詳細な裏づけをとる手続きもなされたという。被害者からの告訴状も複数の裏づけをとる念の入れようであったとのことである。その上で、日本人戦犯ひとりひとりに対峙し、時にその罪行の修正を求め、異議があれば申し出が許されたというのである。もちろん、異議に対しては再調査が行われ、ミスがあれば訂正されたのである。したがって、日本側で、日本人戦犯の自筆供述書の内容を、「事実に反する」ということは、ほとんど不可能ではないかと思う。
 だから、日本の戦争が侵略戦争であったことを認めたくない人や、中国における日本軍の戦争犯罪を認めたくない人たちは、「日本人戦犯自筆供述書」を、頭から全て否定するしかないのだと思う。「洗脳」しか語れないのである。
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              第1章 日本軍は何をしたか
 筆供自述                               陸軍第39師団師団長・陸軍中将 佐々眞之介

 第13、前日本陸軍中国派遣軍第6方面軍第34軍第39師団陸軍中将師団長任期間罪行

1、状況説明 ・・・ 略

2、罪行
   〔1~14は略〕
15以下19迄襄樊作戦に関する行動及罪行
 1945年2月上旬、師団は第34軍司令官より襄陽樊城(ジョウヨウハンジョウ)方面への作戦参加の内命を受け、各部隊長を当陽師団司令部に集めて師団作戦計画案を示し、且作戦参加部隊の編成を内示しました。1945年3月上旬、師団は第34軍司令官より襄樊作戦参加の命令を受領し、各部隊長を当陽師団司令部に集めて命令を下しました。沙市の歩兵旅団長村上少将には印刷の命令を送附しました。師団命令の要旨は次ぎの如くでありました

 
(1)「師団は軍命令に基き第12軍の老河口作戦に協力する為、3月20日頃、荊門附近より行動を開始し襄陽樊城に向ひ作戦を行ふこと、

(2)之が為作戦参加部隊は3月18日迄に兵力を荊門東北方地区に集結し準備を 行ふこと、

(3)師団作戦参加部隊の編成は師団司令部、歩兵第231聯隊、歩兵第232聯隊、(2大隊)、歩兵第233聯隊(2大隊)野砲兵第39聯隊、(1大隊、山砲、野砲、1中隊、重砲1中隊編成)、工兵第39聯隊(2中隊)、(註:工兵聯隊主力は、是より先2月下旬、桂林方面第11軍より帰還)、輜重兵第39聯隊(自動車2中隊、車輌1中隊)。野戦病院、野戦病馬廠、師団通信隊、他兵団より配属の独立歩兵4大隊より成ること。歩兵第232、第233聯隊は協力部隊を以て担架隊を編成すること。歩兵第233聯隊は、第1挺進隊(歩兵約1小隊、之には協力部隊より所要の俘虜を参加せしめ又重慶軍の兵器及服装を用ふること)を編成し師団司令部は歩兵第232聯隊の曹長(第11軍桂林作戦に挺進隊として参加しました)及師団通信無線1分隊を以て第2挺進隊(服装は変装すること)を編成すること、挺進隊は総て精強の者を以て充当すること。尚任務達成の為には所要に応じ人民を監禁し殺害し、家屋等を破壊し焼却し、毒瓦斯(ガス)を使用し、人民の食糧を掠奪することを得、

(4)各部隊長は其責任に於て之を確認の上重慶軍の兵営、倉庫、使用家屋を焼却すべきこと。尚重慶軍の軍用塩、木材を鹵獲し漢口に後送を準備すること。

(5)各部隊の作戦間の給養は徴発証明書に依り人民の糧秣を徴発したものを以て行ふこと、

(6)各部隊は作戦開始前準備訓練を行ひ、夜間行動殊に方向維持を訓練すること。各歩兵聯隊は3月11日より、抗日団に対する弾圧行動と欺瞞宣伝しつつ沙潭鎮附近に至ること。

(7)師団作戦出動間沙市の独立歩兵旅団長村上少将は、師団長に代り師団留守部隊を併せ指揮し守備及警備に任ずること。又部隊を以て活発に陽動を行ひて当面の重慶軍を欺瞞牽制して師団の作戦企図を秘匿し、師団の作戦行動を容易にすること。
(8)歩兵第231聯隊長梶浦大佐は師団出動間師団留守部隊を指揮し、村上少将の指揮を受け師団地区の守備、警備に任ずること。」


 右師団命令に基き各部隊は夫々任務に従ひて作戦を準備し、且行動を開始しました。作戦参加歩兵聯隊は3月中旬始め沙潭鎮に向ひ夜間訓練を行ひつゝ前進しました。此行動は夜間訓練なれば夜間に於て睡眠中の人民を脅威し、又夜間演習を終りて不意に睡眠中の人民を起して家屋を奪取し、糧秣を掠奪して宿営し中国婦人に対する強姦事件や正義行動に出づる中国人民に対し殴打、虐待等の事件を諸所に起して重大な罪悪を犯しました。是れ私の命令に基く罪行でありまして、私の責任重大な事を認罪します。

16
 1945年3月16日、私は沙潭鎮に於て各部隊長及他兵団より師団に配属の独立歩兵大隊長を集めて所要の指示を為し、且3月18日迄に夜間行動を以て行動を秘して荊門東北方地区に兵力を集結することを命じました。3月19日師団参加部隊長全員を荊門北方8粁のに集めて作戦指導計画を指示し、作戦発起の命令を下しました。

 作戦計画の要旨。師団は3月21日夜より作戦行動を起し、先づ主力を以て当面の重慶軍に対して急襲し爾後急追して武安堰東西の線に進出し、重慶軍の状況を見る、其主力武安堰北方になければ速に南漳を占領し、之を保持しつつ主力は反転して襄陽樊城を攻略す。此間一部を以て常に襄陽方面に対して警戒し師団の右側を掩護せしめ、又挺進隊を以て武安堰北方地区を擾乱せしむ。

 作戦命令の要旨。第1挺進隊は3月20日夜出発行動を秘匿しつゝ武安堰北方地区に挺進し、重慶軍の後方を擾乱すること。第2挺進隊は3月20日出発武安堰北方襄陽─南漳道附近に挺進し其方面に於ける重慶軍の兵力及行動を偵察し、報告すること。其他の部隊は、3月21日夕行動を起し、独立歩兵1大隊は襄陽方向に前進し、師団の右側を警戒すること。師団主力は当面の重慶軍陣地を其左翼より包囲する如く、翌22日仏暁より攻撃を開始すること。但し歩兵第232聯隊は、石橋駅方面より陣地の正面を攻撃すること。砲兵隊は、石橋駅北方及東北方に陣地を占領して第1線の攻撃に協力すること、但し野砲1中隊と重砲1中隊は本陣地攻撃に協力した後は作戦参加を中止し、駐屯地に帰還せしむること。工兵は砲兵の陣地進入援助及朱家埠─襄陽道、朱家埠─武安堰道を自動車を通ずる如く、補修すること。輜重隊は弾薬等の補給輸送及患者、鹵獲品の後方輸送を行ふこと。師団司令部其他部隊は概ね歩兵第232聯隊右翼後方を前進すること。尚師団の作戦企図秘匿の為、歩兵233聯隊は21日夕迄第1線守備陣地線に於ける警戒を厳にし、一般人民の交通を遮断すること。


 右交通遮断の師団命令に基き、各部隊は一般人民の交通を遮断しました。之に依て一般人民は不意打的大兵力の進入投宿と交通遮断に伴ひ、大きな脅威を受けました。他所に避難逃走を企つるもの、正義行動に出づるものあり、侵略日本軍隊は之に対し弾圧を加へ殴打、虐待、殺害又掠奪等の罪悪を犯しました。石橋駅東方約8粁の道路附近に於て約3名の人民の通行を阻止し、殺害した外、その他の、道路等に於て人民を逮捕虐待し、十数名を殺害しました。是れは日本帝国軍隊が侵略戦争の為不意に交通遮断を強行し何も知らぬ無辜の中国人民に加へた罪悪であります。此罪行は師団命令に基づくものであり、私は重大な責任あることを認罪します。

17 

18
(1)重慶軍戦士殺害約3500名、(此内には俘虜殺害若干を含みます)
 歩兵第232聯隊の兵某は聯隊が南漳方面作戦中、中国人民4名が負傷した重慶軍戦士12名を担架にて運搬中なるを発見し、其負傷戦士12名を殺害し、且逃げる運搬中なりし人民4名を射殺しました。

 第1挺進隊は3月25日仏暁武安堰北側に於て重慶軍隊を奇襲し約20名を殺害しました。師団が武安堰占領直後某歩兵聯隊の下士官が重慶軍俘虜2名を師団司令部に連行交付せんとした所、師団司令部情報係将校が殺せと指示したので同下士官は此俘虜2名を殺害しました。

 各歩兵部隊は攻撃戦闘間毒瓦斯(ガス)を用い、砲兵は瓦斯弾を発射し重慶軍隊に損害を与へました。歩兵第231聯隊の大隊は3月29日襄陽攻撃に於て漢水右岸堤防上を退却する重慶軍歩兵約1大隊を急追し、其の逃場を失て武装の儘漢水に跳び込み、逃走せんとするを射撃し、全滅しました。溺死したもの多かったようであります。右罪行は私の発した師団命令に依るものであることを認罪します。


(2)歩兵第232、第233聯隊は各々其協力部隊の俘虜約50名を以て担架隊を編成し、本作戦間酷使しました。歩兵第233聯隊の俘虜2名は茨河子に於て重慶軍飛行機の爆撃に依り死亡しました。之は日本軍が作戦に使用したことに起因する殺害であります。歩兵第233聯隊は第1挺進隊に協力部隊の俘虜数名を編入酷使しました。師団司令部は楽園部隊の俘虜約20名をを作戦間連行し通訳として酷使しました。右罪行は私の発した師団命令に基くものであることを認罪します。

(3)中国人民殺害約200名(推定)。第2挺進隊は襄陽─南漳道方面行動中、其行動を秘匿する為人民約13名殺害しました。第1挺進隊に於ても同様の目的の為に無辜の人民を殺害しました。各部隊に於ては密偵容疑者として、人民を逮捕し調査し殺害しました。又戦闘に依る人民の蒙った死傷の損害も若干ありましす。

 人民の酷使は約1万名(推定)、工兵隊は道路補修の為連日多数の人民を酷使しました。各部隊は患者輸送、掠奪物運搬等に人民を酷使しました。
 中国婦人の強姦を受けた数約50名(推定)襄陽西方及南方、南漳及武安堰附近等に於て作戦間、作戦第2、第3日の戦場附近、武安堰、南漳、襄陽、茨河子附近にては住民避難逃走して殆ど其姿を認めませんでした。襄陽占領直後師団は命令を出して一般軍隊の入城及宿営を禁じ不祥事の発生を予防しました。「キリスト」教会に於て婦人数十名を収容保護して居ました。(憲兵報告)。其他の諸に於ては大概大部の人民が居りました。平常通り営業をやって居た所も見受けました。以上の罪行は私の発した命令に基くものにて私の責任なることを認罪します。


(4)略

(5)

(6)師団は人民の多量の糧秣を掠奪しました。即ち米約500屯。肉類約55屯。野菜約550屯、食油約6屯、塩約6屯、高粱(馬糧)約750屯、藁約900屯、薪約2200屯(推定)。此内作戦地域に於て掠奪量は其約五分の三を占めて居ます(約30日間)。其中襄陽附近に於けるもの最多く、南漳、武安堰、茨河子に於けるものは之に次ぎます。右、剰余の約五分の二(約20日間)は、作戦準備及作戦終了後の解放期間に於ける所要であります。其中最多き地区は荊門附近であります。本作戦期間所要糧秣徴発は微発証明書を位て行ひました。然れども作戦地域に於ては殊に住民の避難に依り、徴発は多くは其留守の間に行はれ、従て証明書を交付することは不可能であり、又縦(タト)ひ交付し得る状況にありても果たして確実に各部隊に於て此規定を実行したか否や疑問であり、又縦ひ証明書を渡したとしても受領した人民が遠距離危険地を通過して日本軍隊の所に行って代金を請求することは恐らく不可能であり、又縦ひ証明書を以て請求に行ったとしても当事者たる当師団は作戦終了後移動したので他兵団としては当師団に代りて支払ふや否や、軍より之等兵団に支払の処置を為したか否か、恐らく出来て居ないと思ひます。然らば此徴発行為は全く掠奪であります。証明書(後日代金支払の)を以て徴発するものであると云ふ仮面を装ふた掠奪でありました。私は作戦師団各部隊をして此悪質な掠奪を行はしめた罪悪を犯したことを認罪します。

(7)3月30日、師団が命令して歩兵第232聯隊をして漢水を渡河し、樊城を占領せしめた時、同聯隊は其附近にありし人民の船約6艘を肆(ホシイママ)に奪取使用しました。本渡河以後に於ても諸種の用途に継続使用したと思はれます。従て旧位置に之等の船を返還せしや疑はしくあります。4月始、師団が茨河子附近前進した時患者及鹵獲品を襄陽に後送する為民船約4艘を奪取使用しました。元より之が返還は不可能でありました。船は此の持主に取りては全財産であり住居でもあります。唯一の営業機関でもあります。之を奪取された人民は、爾後職を失ひ生活に非常な苦難を蒙ったこと明らかであります。此罪行は私の発した師団命令に基くものであります。私は其責任者たることを認罪します。

(8)

(9)

10)

21
 1945年1月下旬頃、師団の某歩兵聯隊尉官1名は聯隊命令に依り抗日団弾圧行動中、某に於て50歳位の中国婦人1名を強姦したのでありました。又同5月上旬、第132師団編成要因として師団に増加配属せられた他兵団の歩兵大隊が宜昌に向ひ十里堡(当陽東南方約40粁)附近を行軍中、同隊の兵1名が其附近に於て中国婦人1名強姦しました。私は5月11日、此事件を師団副官より報告を受けましたが、既に其の兵は私の指揮下を離れ、第132師団長の隷下に入て居ましたので同師団に之が処理を依頼しました。

 師団湖北省駐屯間当陽には、日本人経営の慰安所が従前より設けられ、日本軍隊の慰安に供せられて居ました。師団は之が経営を支援しました。当慰安所には中国婦人十数名が日本帝国主義の侵略戦争に依り生活苦に陥り、強制的に収容せられ賤業に服して居たのでありました。宜昌、荊門にも同様の慰安所があったと思われます。之等は侵略日本軍隊が強制的に中国婦人を陵辱した重大な罪悪であります。之等罪行は私の発した命令に基くものにて私の重大な責任であることを認罪します。


22
 師団が湖北省駐屯間、当陽に春屋と称する日本人経営の料理屋がありました。春屋は1942年頃、荊門にて料理屋を経営中に第39師団司令部が荊門より当陽に移駐した時随行し、当陽に開店したものであります。師団の支援の下に経営し日本将兵の慰安に併用して居たものでありました。春屋の主人は師団御用商人であったので、各部隊需要に応じ野菜等を師団の威力を背景に利用して、中国人民より安価収買して各部隊に供給し、中国人民より利益を搾取し、又阿片商人なりし由なるを以て入手した阿片を其吸飲者なる中国人其悪癖を利用して高価に密売して莫大な利益を奪取して居た悪徳商人であったと思われるが、師団は此行為を黙認して居た訳であります。之等莫大な収益の分前として、春屋は日本軍将兵の慰安費を低廉ならしめて居たと認められます。即ち師団将兵は春屋を通じて中国人民より搾取した利益に依り慰安しつつ中国侵略戦争を実行して居たのであります。此等罪行は私が認可したことであり私の責任であることを認罪します。


(23)

(24)


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日本人戦犯自筆供述書 第59師団師団長 藤田茂 NO2

2014年09月12日 | 国際・政治
 このところ新聞に掲載される週刊誌の広告には、ヘイトスピーチに通じるような表現の見出しがしばしば見られる。最近も、”南京大虐殺、靖国参拝批判… 中国共産党に魂を売った朝日新聞7人の「大罪」”というのがあった。「売国奴」や「非国民」というような、戦前・戦中に使われたという言葉も、しばしば目にするようになった。理解の仕方や考え方の違いを、議論によって乗り越えようとすることなく、勢いでつぶそうとする感じがして怖い。「特定秘密保護法」が昨年末に成立したこともあり、次にくるのは、権力による言論の圧殺ではないかと心配になる。

 下記は、師団長藤田茂の供述調書の中の「自分の罪行に対する認識」の部分を「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から抜粋したものである。彼の「私は中国人民に対し物質的精神的にも多大の罪行を犯しているものであります。無辜の人民を何等の理由もなく殺害し、平和なる家庭を紊し、幾代か住み慣れし住家を破壊放火して人民を雨露に晒し、血汗を流せる糧穀を掠奪し、耕作地を荒廃せしめ、国際公法に違反して毒瓦斯、細菌戦を使用せる等の悪虐なる罪行を実行せしめたものであります」という言葉は、師団長ともあろう立場の人間が、わが身かわいさに言わされて言えるものとは思えない。彼は「中国帰還者連絡会」の初代会長として活躍したのである。

 但し、”ママ”とある漢字の「惨忍性」は「残忍性」に、「感念」は「観念」に、「懺愧」は「慙愧」に、「上級揮官」「上級指揮官」に改めた。
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              第1章 日本軍は何をしたか

 筆供自述                  第59師団師団長・陸軍中将 藤田 茂

 第3 自分の罪行に対する認識

1、私は幼少の頃から上級指揮官である師団長の地位に在る正味40年間、日本帝国主義軍隊の機構内に在りて教育され、又教育指導し命令し領導して来て、日本帝国主義のため終始奮斗し尽力したものであります。

 終戦後私は戦争の罪悪特に日本帝国主義の罪悪に対し之れを認識せず、従て私の中国で犯した数多の厳重なる罪行に対しては私は道徳的責任はあるが、実行的責任はないと考へていました。然るに蘇聯在留中種々なる文献と特に郷里広島からの通信に依り多くの肉親の惨死と市街の惨状を知りまして、戦争は凡てを破壊する行為であり特に侵略戦争の残忍性と罪悪性とを認識して反戦的観念を持つ様になりましたが、未だ帝国主義の本質を深く検討せず之を擁護する立場を持つていました。此の認識の状態で私は4年前中国に参りまして以来、尚認識も思想も変化せず過ごしました。然るに本年に到り管理所長殿、李先生の講和と映画に依り強く刺激されまして初めて夢から醒めたる様な気持ちとなり、茲に深く私の過去を悔い中国人民の前に凡てを認罪せんと決意しました。


 然し初期の決意と勇気は極めて浅く、尚帝国主義の観念の観点からせる認罪は表面的なるものでありまして、調査官殿の懇切なる指導に依り漸く現在の認罪を得たる程度であります。而も此調査に於て幾度となく根拠のなき不誠実なる供述をなし、狡猾なる責任回避の態度を表はしましたのみならず、未だ日々其欠陥を指摘され尚重大なる罪行に対し認罪し得ないことは真に慙愧の至りであります。私は今後真剣に自己の罪行を反省検討しまして、1日も早く認罪の完成を実践しなければならないと自覚し決意するものであります。

2、私の罪行の過去を省まするに私は少尉に任官した翌々年から中尉を除いた各階級に於て中国を侵略し、特に7・7侵略に於きましては上級指揮官として又帝国主義の領導者である立場の下に之に従事し、私は命令して多くの将兵を手足の如く動かし厳重なる罪行を犯して居ります。特に中国人民を殺害した数は参加を合計いたしますと約1万に達します。人の命は生存上最も貴重なるものであります。此貴重なる生命を私は実に1万名も何の顧慮もなく躊躇することなく日常の茶飯事と心得て奪つたもので、之に依り私は奨励され栄達を希願したものであります。此罪行こそ真に帝国主義の本質であります。

 私は最近毎晩米国兵の日本に於ける暴行の放送を聞きます。又数回映画に依り米帝国主義の罪行の日本に於ける現状を見まして、米帝国主義に対する絶大なる増恨を感じ憤怒に堪へません。然し此の状況は曾てわたしが中国で犯したる罪行と同様でありまして、特に1万名の生命を奪ひました肉親の私に対する増恨と憤怒は私が抱いた感じと等しいものがあります。今日私が如何にしても此生命を蘇生することは不可能であります。唯私が過去に犯した罪行の一切を告白し認罪を全ふすることのみが唯一の陳謝の途であることを思ひ、一層勇気と熱意以て認罪の遂行に邁進しなければならないと誓ふものであります。

3、私の過去犯した厳重なる罪行の一は私の本質の表現である精兵主義であります。之れは俘虜を刺殺して教育訓練を実施し兵の精神的訓練の向上を企図するもので、之れに依り侵略行動を強化せんとするものであります。之は私の強き民族優越感に起因するもので重大なる罪悪の範例であります。私は各級指揮官として在職中この精兵主義たる俘虜の刺殺を教育に使用することを励行せしめ、第59師団在任中済南に於て600名以上の俘虜を虐殺せしめ教育に利用せしめました。重大なる罪行を犯したものであります。之れは特に新に補充せられたる初年兵に対し其良心を一層麻痺せしめ以て侵略行動を強化する帝国主義の極悪なる罪悪であります。私は一切の帝国主義罪行を私の認罪の上に曝露し、世界より帝国主義を消滅し、平和なる社会建設の一端を負担する責務のあることを自覚し、私の認罪達成に邁進することを決意し実践いたします。

4、私は7・7侵略に従事中徹頭徹尾共産党軍の弾圧を実行したものであります。之の行為は新中国に対する私の二重の罪行であります。之の共産党軍の弾圧行為に依り多くの有為なる戦士を殺害しました。此の進歩的なる人民が今日現存しあらば新中国発展の支柱として多大の貢献を齎らして居られることゝ確信するものであります。此点重大なる損失を与へたものであります。然るに私の此等厳重なる罪行を犯しました戦犯者に対し中国人民並に人民政府は吾々に対し更正の道を教へ其真理を説き思想認識を向上すべく所有手段を以て懇切に指導せらるる配慮に対しは衷心感謝しなければなりません。然るに私は此の温き配慮に慣れ其深き期待に報ゆることが出来ず、尚認罪の上に於て基本的重大なる罪行が残つている状態であり思想の改善、認識向上も亦其実践浅く帝国主義悪質を曝露して居る現況であります。真に不甲斐なき次第であります。爾後更に堅き決意と真剣なる努力を以て認罪を遂行し中国人民の温き期待と配慮に報ひなければなりません。

5、私は中国人民に対し物質的精神的にも多大の罪行を犯しているものであります。無辜の人民を何等の理由もなく殺害し、平和なる家庭を紊し、幾代か住み慣れし住家を破壊放火して人民を雨露に晒し、血汗を流せる糧穀を掠奪し、耕作地を荒廃せしめ、国際公法に違反して毒瓦斯、細菌戦を使用せる等の悪虐なる罪行を実行せしめたものであります。之等の罪行は凡て日本帝国主義の侵略行為に依り行はれたるものでありまして、侵略戦争の残虐性と破壊性とを如実に表示するものであります。私は深く此の罪行の厳重なることゝ私の領導的立場の責任の重大なることを認識するものであります。私は自己の罪行の厳重性と責任の重大性なることに思いを致し、更に認識の向上と思想改善に努力し、其実践たる認罪を徹底的に実行すると共に一歩進め他人の検挙にも邁進し、以て帝国主義の罪行の凡てを世界に曝露し、戦争に反対し平和を守る人民運動に対する一助とし且つは日本民族独立運動を支援する一端と希ふものであります。之は又中国人民に曾ての私の罪行に対する陳謝の誠意でもあります。

 最後に私は私に斯かる罪行を犯さしめたる裕仁に対し、心よりの増恨と斗争を宣言せんとするものであります。


                                         藤 田  茂
                                 1954年8月1日 於撫順


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日本人戦犯自筆供述書 第59師団師団長 藤田茂 N01

2014年09月10日 | 国際・政治
 先だって、中国は日本人戦犯裁判における旧日本軍軍人や旧満州国官吏たちの供述書をネット上に公開したことが伝えられた。その後、さらに「抗日戦勝記念日」を制定し、盧溝橋の「中国人民抗日戦争記念館」で献花式典を開いたという事実も報道された。習近平国家主席以下、中国共産党最高指導部の全メンバーが参列し、全国各地の政府や軍、学校などでも関連の集まりがあったという。日中関係の今後を考えると、大変なことであると思う。

 中国は、日本で勢いを増しつつある安倍自民党政権を中心とする歴史修正主義的な人たちの言動が受け入れがたいのだろうと思う。ここでは、「軍の関与と命令-戦犯の供述」(34)ですでに取り上げたことのある「第59師団師団長 藤田茂」の供述調書を、再度、その内容を追加して取り上げることにした。同じ「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)からの抜粋である。下記のような自筆供述書の記述を、中国関係者の「洗脳」や「マインドコントロール」によるものであり、事実ではないとして否定したり、無視してよいとは思えないからである。

 中国の指摘が全て正しいわけではないであろうが、「自虐史観から脱皮する教育を進める」という安倍自民党政権やその支持者の「歴史認識」には、明らかに問題があると思う。不都合な事実をなかったことにしようとする側面を見逃すことはできない。

 藤田茂師団長も、抗日軍兵士のみならず、多数の住民の殺害や情報収集のための拷問、住民を追い出しての住宅の占拠、糧食の掠奪を認めている。また、「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」」「此には銃殺より刺殺が効果的である」と捕虜の「刺突訓練」を指示したという。

 師団長のこうした供述が、中国による「洗脳」の結果であるとは思えない。「罪を認めれば寛大な処置が受けられ、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」というような中国の主張に屈服し、生きて日本に帰りたい一心で、軍のエリートである師団長が、やってもいない事実を認め、恥を晒して、罪のない配下の多数の日本の兵を残虐非道行為の実行者にするとは考えられない。師団長ともなれば、自らが事実を偽ると、配下の日本の兵のみならず、日本という国にも多大の影響があることを知らないわけはないであろう。そんなことまでして、師団長が敗戦国日本に生きて帰りたかったのかどうか…。

 また、藤田茂師団長のこうした供述を否定するのであれば、それなりの検証可能な文書資料を示したり、供述と矛盾する事実や証言を具体的に示す必要がある。気持ちは分からではないが、日本に不都合な事実を否定するため、中国による「洗脳」を持ち出す議論は、世界に通用しない。住民殺害や「刺突訓練」などについては、中国人はもちろん、中国には拘留されていない日本人の証言もある。  

 但し、文中の”ママ”と注のある「水迫め」は「水責め」に、「感念」は「観念」に、「強迫」は「脅迫」に、「所調」は「所謂」に改めた。また、「犯罪事実 (注1)」は、いずれも第20師団の騎兵第28聯隊長時代のもので、1938年末から1939年にかけてのものであるという。
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             第1章 日本軍は何をしたか
筆供自述                               第59師団師団長・陸軍中将 藤田茂

  犯罪事実(注1)

 (一)三路李村攻撃 私は11月5日史村に於て牛島師団長より次の命令をうけました。「騎兵第28聯隊は明11月6日三路李村(運城東北40K)附近にある抗日軍を攻撃すべし。砲兵2中隊を配属す」。私は此の命令に依り11月5日午後8時史村を出発し11月6日午前5時三路李村南方3K畑道を前進中射撃をうけました。私は全部徒歩展開三路李村中央南入口に向て攻撃し午前7時其北端に進出した時北方3Kの高地を北方に移動中の抗日軍約10を発見し直ちに砲兵中隊射撃を命じました。午前8時頃私は第1、第2中隊長に対し「第1中隊は三路李村の西半部、第2中隊は東半部の抗日軍を徹底的に捜索すべし」と命令しました。此命令に依り両中隊は午前10時に至る間捜索を実施しました。私は午前9時頃其東部に放火一件を三路李村に於て目撃しました。

 此の捜索に於て三路李村住民を多数しました。之の事実は11月6日史村に帰り入浴中私の当番兵南岡上等兵の「今日三路李村で随分人民を殺したそうです」の談話を聞きました。この談話と放火とに依り証明されます。
 
 之は私が午前8時の捜査命令でを実行したものであります。


 (二)~ (三) 略

 (四)情報の蒐集。私は12月中旬張良村に於て情報係森戸中尉に対して「三路李村附近にある八路軍の兵力及行動状況を偵知すべし」と命令しました。森戸中尉は12月中旬より1月下旬に亘り将校斥候の逮捕せる中国人民16(後記)自ら逮捕せる人民14、以上を尋問して情報を蒐集し1月30日私に次の報告をしました。「三路李村附近にある八路軍の根拠地は三路李村北方約10Kの高地帯で其兵力は約200名。又行動地域は張良村北方20K東西に流るる小流以北の地域であります」此情報は森戸中尉が12月中旬私から受けた命令に依り逮捕人民を尋問するに方り拷問し殺害して得たものであります。

 之の事実は私が1月中旬の昼食後張良村聯隊本部裏庭の小部屋で森戸中尉が逮捕人民1名を水責めの拷問実施中を目撃し又同日夕食事「今日水責めにした人民はどうしたか」と私は森戸中尉に対し問ひましたら森戸中尉は「殺して裏門外の古井戸に投げ入れました」と報告しましたことに依り逮捕人民1名以上を拷問殺害しことを証明するものであります。之は私が8月3日河津に於て森戸中尉に与えし指示及12月中旬私が森戸中尉に対する命令で拷問殺害をしたものであります。

 被害状況、中国人民30の逮捕、拷問及1名以上の殺人。


 (五)鉄道警戒間の射殺。私は12月29日張良村に於て岡中尉に対し「岡中尉は部下小隊を指揮し12月30日より1月5日迄張良村駅に位置し張良村駅東方3K鉄道橋より張良村駅西方12K鉄道橋に至る間の鉄道を警戒すべし」岡中尉は任務服務中1月3日午前2時頃約20名の抗日軍の張良村駅東方3K鉄道橋破壊中なるを発見し直に之を攻撃し南方に退避せしむ。
 被害状況、抗日軍戦士2戦場射殺。押収兵器、小銃2、爆薬80㎏、
        電気発火器1、十字鍬1


 (六)俘虜殺害の教育指示。私は1月中旬将校全員昼食後張良村で次の如く談話し教育しました。「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」「此には銃殺より刺殺が効果的である」此の教育は私の当時最も大なる誤れる観念で此観念が終始私が厳重なる中国人民に対する罪行を犯した基因の一をなしたものであります。

 (七)~(十一)略  

 (十二)住宅の侵佔。10月13日及11月22日の第20師団長の蟠居命令に依り史村に於て40日間張良村に於て181日間の宿営の為私は住宅各各20棟を侵佔しました。
 (十三)糧食の掠奪。10月13日の第20師団長の命令「糧食は主食は師団貨物廠より補給を受くべし其他は現地調果に依るべし」此命令に依り私は偽村長を脅迫し糧食を供出せしめ所謂「軍票」に依り不等価支払いをしました。之は掠奪と同様のものであります。
 史村張良村蟠居間の掠奪せる糧食は次の通りであります。(日数221日。人420。馬420として最低量をもって計算す)
 肉類18.6噸。野菜55.7噸。薪123.8噸。馬糧185.6噸。


 (十四)人民の使役。炊事、水汲み、入浴場雑役として史村及張良村蟠居間中国人民を1日15名延3515名を使役しました。

 (十五)掠奪・強姦。張良村蟠居間糧食の受領のため大行李を使用す。大行李の特務兵(50名)は運城─張良村の往復間に於て家財掠奪、強姦の行為あることは特務兵の年齢35才以上なること、大部素質不良なる大阪附近の出身なること、常時賭博を実施しあることは之を証明します。之は私の糧食運搬の日々命令に依り実行せしめたものであります。

 ・・・以下略


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日本人戦犯自筆供述書 第117師団師団長 鈴木啓久

2014年09月02日 | 国際・政治

 下記は、「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、第117師団師団長・陸軍中将鈴木啓久の供述調書のごく一部、毒瓦斯攻撃や慰安所 設置の命令、「三光政策」に関わる命令などの記述が含まれている部分を抜粋したものである。

 第117師団師団長・陸軍中将鈴木啓久が拘留された中国の撫順戦犯管理所で、日本人戦犯が厚遇されたことはよく知られている。それは、周恩来を中心とする中国の、将来を見据えた戦犯政策によるものである。食糧不足にもかかわらず、食事内容では、主食は全員白米と小麦粉とし、日本民族の風俗習慣を尊重した献立にすることが指示された。さらに、戦犯の管理は厳重にするが、ひとりひとりの人格を尊重し、決して殴ったり罵ったり侮蔑したりしないことなどが職員に徹底されたという。そういう戦犯政策を、被害者である中国人職員に納得させることは容易ではなかったようである。

 厚遇され続けた撫順戦犯管理所の日本人戦犯たちに変化があらわれるのは、およそ半年ほど後である。どんな侮蔑的言葉を投げかけても、平然とした態度で、献身的に世話を続ける職員たちに、日本人戦犯たちは次第に心を動かされ、尊敬の念さえ抱くようになっていったというのである。そして、日中戦争中の自分たちの行為、中国人を差別し、侮蔑し、殴り、拷問を加え、殺した行為と重ね合わせ、胸が痛んだで自分たちの過ちを認め、心から謝罪する気持ちに変わっていったというのである。

 しかし、過ちを認め謝罪する気持ちになっても、ひとりひとりが自らの残虐行為や陵辱行為を、具体的に告白することは簡単なことではない。大変な勇気を必要とする。その罪行告白の突破口になったのが、全戦犯が集められた管理所の中庭で壇上に立った、元第39師団第232聯隊第1大隊中隊長・宮崎弘の「担白(タンパイ)(すべての罪をさらけ出し告白すること)」であったという。それは、

 「天皇を崇拝し、優秀な大和民族が大東亜共栄圏を建設して東洋の盟主となり、アジアを主導統治するのは当然のこと」、「三光政策を積極的に進めることが、忠君愛国の道、戦争勝利の道」だと信じて行動してきたが 振り返ってみると、自分は「初年兵教育の教官だったとき、模範を示すために十数名を刺突し」、「襲撃時には老人や子どもを銃剣で突き刺し」、「逃げ遅れた妊婦を裸にして殺し」、「村中に放火する」という残虐行為を繰り返してきたに過ぎなかった、と涙ながらに「担白」し、「わたしは人間の皮をかぶった鬼でした。今ここに中国人民に心からおわびし、このうえはいかなる処罰も受ける覚悟です」というような内容であった。

 その「担白」が戦犯の罪行告白の流れをつくり、それが次第に佐官や将官級にも及んでいったという。 

 そして、54年1月から、中国政府の戦犯に対する本格的な罪状調査が始まるのである。審問は決して強制せず、自白を尊重し、罪行は事実のみを正確に、拡大せず縮小もしないで記録することが重視されたとのことである。調査団は、中国各地の被害者や遺族の告訴状などをもとにした証拠を揃えながらも、戦犯自ら告白するまで、それらを突きつけて自白を迫ることは極力避けたという。
 尉官以下級の罪行が固められると、それをもとに佐官、将官級の罪行が追及されたので、それは網羅的で詳細である。

 また、供述書は、事件の日時や場所、人名、民家焼却数、掠奪物質、人民殺害の方法と人数、強姦、誘拐人数など、きわめて具体的で詳細であるが、それは、日本人戦犯がそれぞれ所属した師団、部隊、憲兵、警察、司法などでグループをつくり、繰り返し当時を思い出しながら語り合って、事実をつき合わせた結果であるという。

 1956年6~7月、瀋陽と太原で「最高人民法院特別軍事法廷」が開かれた。起訴されたのは45名。その判決に、死刑や無期刑の者はひとりもいなかった。最高が禁固20年で、それにはソ連での抑留5年と中国で戦犯として拘留された6年が算入され、ほとんどが満期前に釈放され帰国したのである(鈴木啓久も満期前の63年6月に釈放されている)。他の1016名は、不起訴即時釈放で帰国している。
 
 撫順と太原の戦犯管理所で、自らの罪行と向き合った多くの人びとは、帰国後、中国帰還者連絡会(略称:中帰連)を結成し、自分たちの罪行を語り伝えるとともに、「戦争反対」「日中友好」を訴え続けたが、そういう意味では、周恩来の戦犯政策に基づき、戦犯管理所が行ったことは、天皇制軍国主義に染まった日本人戦犯の再教育であり、人間性を呼び覚ます実践であったといえると思う。

 但し、中帰連の名簿に「鈴木啓久」の名前が見当たらず、後に、彼は”審問には不本意ながら同意せざるを得なかった部分がある”というような内容のことを言ったとされていることが、気になるところである。
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             第1章 日本軍は何をしたか
筆供自述
              第117師団師団長・陸軍中将 鈴木啓久

 第2 罪行


 4 歩兵第67聯隊長の時の罪行

 1940年8月、私は第15師団歩兵第67聯隊長として南京に侵入し、南京市及其の附近の警備並に南京蕪湖間鉄道一部の警備の任務を受けました。
 之れが為め私は一般方針として部下に指示しました。即ち「南京市は日本の中国侵略の中枢地であるからよく治安を保持し、警戒心を高め管内に於ける抗日勢力を徹底的に掃滅せねばならぬ。之れが為め常に積極的に行動し荀(イヤシ)くも間隙を与ふるが如きことあってはならぬ」
 (1)1940年8月下旬、南京北方六合附近の侵略作戦に参加し、同地北方約40粁(キロ)に於て某村落を占領して居った解放軍百余名を攻撃し、解放軍約20名を殺害し、又砲撃に依り中国人民家屋約10戸を破壊しました。又六合北方約30粁に在る中国人民村約200戸を、私は焼却を命令しました。

 (2)9月、私は師団長熊谷中将の実施せる宣城侵略作戦に参加しました時、宣城西方約40粁附近に於て、抗日国民党軍の旁系軍50名家屋内に退避せるを発見致しまして、私は第1大隊長角田少佐に毒瓦斯攻撃を命じ其の全員を惨殺致しました。

 (3)9月下旬、当塗東方約40粁に在る高淳に私が蟠居を命じた中隊が、抗日紅槍会団の反撃を受けましたとき、此の中隊が紅槍会員20名を殺害しました。

 (4) 1941年1月─2月間私は第11軍第17師団に臨時配属せられ軍司令官園部中将の指導せる漢口北方遂平、泌陽附近の侵略作戦に於てだ17師団長平林中将指揮の下に此の作戦に参加しました。
 本侵略作戦中、私は1月下旬、駐馬店西側に於て、抗日国民党旁系軍約100名が村落を占領しあるに対して包囲攻撃を行ひ、其の20名を殺害し、中国人民の家屋2戸を焼却しました。
 次で私は遂平を占領しありし抗日国民党軍を攻撃し、其の10名を殺害し、又私は西平に於て同地を占領しありし抗日国民党軍に対し一部を以て其の正面より、私自身は主力を以てその側面より包囲する如く攻撃し、抗日国民党軍30名を、又抗日国民党軍に属する愛国工作員1名を殺害し、重機関銃1を掠奪しました。此際砲撃等に依り中国人民の家屋5戸を焼却し10戸を破壊しました。

 2月上旬、泌陽平地東北角に於て、抗日国民党軍に属する後方部隊を発見し、私は、其の後方より攻撃を行ひ、機関砲弾薬十数箱、医療薬品数箱を掠奪しました。

 (5) 4月、私は第15歩兵団長赤鹿少将の実施せる襄安、盛家橋附近の侵略作戦に参加し、襄安に於ては抗日国民党軍の同地周辺を防御しあるを包囲攻撃し、抗日国民党軍10名を殺害し、軽機関銃2挺を掠奪し、盛家橋附近に於ては同地附近に在る抗日国民党に対し私は先づ第1大隊長角田少佐をしてその側面より攻撃せしめ、私自身は聯隊主力を指揮して第1大隊と連繋して包囲殲滅せんことを期しましたが、抗日国民党軍の大部は後退せる為め其の一部を攻撃し抗日国民党軍20名を殺害し、迫撃砲2門を掠奪しました。
 此の侵略作戦に於て中国人民の家畜、家禽数百を掠奪した。


 (6) 次で、抗日国民党軍の反撃に備へ、私は大隊長松尾少佐をして2中隊を指揮せしめ、盛家橋に蟠居(注1)せしめたるに対し5月下旬抗日国民党軍約500名反撃し来りしとき、同軍約10名を殺害しました。
 而して私は師団命令により主力を巣県に集結し淮南鉄道一部の警備に任ぜしめられました。

(7) 5月下旬、私は巣県東方和県附近に侵略行軍を実施しました時、抗日紅槍会団約300名を攻撃し、その40名を殺害しました。

 (8) 7月中旬、私に対し抗日国民党旁系軍劉工作を某は機関銃4を有する約1000名と共に帰順を申し出でて来ましたので私は之を許可し其の軍の原駐地たる巣県西方地区に於て反共工作を行ふ様命令しました。

 (9) 私は巣県に於て慰安所を設置することを副官堀尾少佐に命令して之を設置せしめ、中国人及朝鮮人婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめました。

 (10) 7月下旬、日本財閥三井と南京に蟠居せる日本侵略軍司令官西尾大将の直接隷下に在る陸軍貨物廠とが結合して、巣県附近に於ける米を掠奪の為来りしとき、私は之を援助し集荷に助力し約100噸の米を掠奪せしめました。


 5 第27歩兵団長の時の罪行

 1941年10月、私は第27歩兵団長として天津に侵入し、間もなく滄県に蟠居し該地区の鉄道、交通路等の警備及同地区内の、治安維持をの任務を受けました。依って私は部下に対し次の如き指示を与へたのであります。
「治安維持とは当方面に於ては剿共を以って根元とするものである。剿共なくしては治安維持は達せられないのである故に、八路軍の情報を迅速確実に獲得する如くし、創意工夫を廻らし、積極的に討伐を実施すべきである」此の指示の意とする所は積極的に且つ凡有方法手段を竭(ツク)して八路軍及其の関係員を剿滅すべきことを示したのであります。

 当時私の指揮下に在るものは、天津に蟠居せる第2聯隊と、滄県に蟠居せる第3聯隊とを指揮しました。而して第2聯隊の2大隊は天津に、1大隊は其北方4粁の地点に蟠居せしめ、第3聯隊の1ヶ大隊は河間に、1ヶ大隊は滄県に、他の1ヶ大隊を棗強に蟠居せしめ各々地域を与えて八路軍の剿滅に努力せしめたのであります。
 (1)1941年11月下旬より12月上旬に亘り、私は第3聯隊の大部分と第2聯隊の一部とを指揮し、献県附近の八路軍に対し侵略討伐を実施し致しました。
 此の間私は各部隊をして密偵を使用せしめ、八路軍の工作員を逮捕する如く命じたる為、多くの村落に於て中国人民を逮捕し数十名拷問致しました。又此の行動間に於て家畜約百頭、野菜多量を掠奪しました。


 (2)11月下旬頃、私の平時の命令に基づき、棗強に蟠居せる第3聯隊第3大隊長小川少佐は、棗強南方地区に八路軍が活動中なりとの情報の下に直ちに出動、八路軍を攻撃して八路軍約10名をを殺害し、且つ約600戸ある村落を2個焼却し、此の時中国人民の農民100名を致しました。

 (3)12月中旬、私は第3聯隊の約1大隊半を直接指揮し、滄県東方戟門附近侵略作戦を行ひました。此の際行軍途上に於て八路軍の情報を得る為、中国人民を捕へ八路軍の情報を尋ねしときに情報を提供せざるの故を以て中国人民十数名を殴打拷問しました。

 (4)12月中旬頃、滄県に蟠居中の第3聯隊の一中隊は滄県西方地区に於て八路軍約100名が活動中なりとの情報を得、私の平素の命令により此の八路軍を攻撃し自転車を利用せる追撃戦を戦い行ひ、八路軍約10名を殺害し、小銃十数挺を掠奪しました。

 私は1941年12月下旬頃、第27師団長冨永中将の命令に依り唐山に移り第1聯隊と次いで増加し来たりし第3聯隊とを合わせ指揮し、兵力を2倍となし、唐山地区に於ける鉄道、交通路の警備及び治安維持の命令の下に華北侵略拠点の侵略の任務に服したのであります。


 本地区は八路軍の活動極めて活発であるのと、日本帝国主義者の華北侵略の為めの重要なる拠点であるので、私は部下に対し内容次の如き命令を下し、平素に於ける政策となしたのであります。即ち
「此の地区は日本の中国を侵略する基点となるのであるから、我々は此の地区を確保し得ると否とは日本の中国侵略を実現する為めに重大なる重大なる関係を持つのであるから、我々は凡有方法と手段を尽して此の仕事を完遂せねばならぬ。故に若し日本軍の意図に背くものあらば徹底的に覆滅し、又物資の如きはなし得る限り日本軍の掌握下に置かねばならぬ」
 右の命令によりて、最も惨酷なる「三光」政策を採用せるものでありまして、総てが此の命令を基礎とし、又其の目的を達成する為めには如何なる手段をも選ぶことがないのであります。

 又八路軍に対しましても、右の政策を根基として、大要次の如き方策を実行する様命令したのでああります。

(イ)八路軍は徹底的に殲滅すべし
(ロ)八路軍に属する愛国工作員、通信員、又は八路軍との通謀者は悉(コトゴト)く剿滅すべし
(ハ)反共自衛団は極力支援すべし
(ニ)反共教育を行ふものあらば極力支援すべし
(ホ)前記愛国工作員等を剿滅する為め必要に応じて徹底的に剔抉(テツケツ)粛清を実施すべし
(ヘ)八路軍を消滅する為め、又はその活動を阻害する為め、遮断壕及附属望楼を構築すべし
(ト)長城線附近2粁以内に於て八路軍の根拠地となり、又は八路軍の利用し得る所の住民を悉く追い払ひ、無住地帯となすべしとの北支方面軍司令官岡  村寧次の命令を厳に実行すべし
(チ)日本侵略軍の蟠居地附近一帯の中国人民をして極力八路軍に反対せしめ、且つ八路軍の情報は自発的に日本侵略軍に提供せしむる如く指導すべ  し
(リ)偽軍、偽県警備隊を指導支援し、又督励して八路軍の活動を妨害せしむべし
 
 私は唐山に侵入するや直ちに各隊を巡視して、此の政策の実施を督励し、且つ聯隊本部の蟠居地を指定し、且つ各聯隊の警備担任地域を示したのであります。

 ・・・(以下略)

蟠居:(バンキョ)占拠のこと。広い土地を占領し勢力を張るという意味で、中国共産党側が日本軍に対して使用した。 
剿共:(ソウキョウ)共産党や共産軍の勢力を滅ぼしつくすこと。日本軍側の用語
 


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