「ある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)は、『朝日新聞』山形版に183回にわたって連載された「聞き書き 憲兵・土屋芳雄 半生の記録」を支局員だった奥山郁郎、貴志友彦の両氏がまとめたものである。これを読むと、軍の秩序や規律を維持するのが主な任務であるはずの憲兵が、あたかも関東軍の拷問係の如く、頻繁に拷問を繰り返していたことがわかる。
下記は、憲兵となって初めて、「拷問の手ほどき」を受けた時の様子を土屋元憲兵が詳しく語っている部分の抜粋である。下記の「張文達」の他にも、「チチハル鉄道列車司令の鞠という30歳ぐらいの男」(拷問数日後死亡)、「王柱華という中学校の教師」、「通ソ・スパイ張恵民」(自白したにも拘わらず、裁判なしに銃殺)、「黄野萍と崔瑞麟」(ハルビン憲兵隊へ-731部隊送りと思われる)、「聶」、「王鴻恩」(拷問がもとで後に死亡)、「候」、「田維民」、「王育人」(後に死刑)、「劉家棟」(満州国警察幹部)などを、土屋元憲兵自らが拷問した事実、および、その理由が同書の記述中にある。
拷問そのものの残虐性もさることながら、法に忠実であるべき憲兵の、あたかも拷問が任務であるかの如き日常や、疑わしい人間は躊躇なく拷問するという姿勢に驚かざるを得ない。土屋元憲兵が入営した時から数えて、直接間接に殺したのは328人、逮捕し、拷問にかけ、獄につないだのは、1917人であったという。
憲兵隊だけではなく、前線の部隊や、警察組織などでも拷問があったことを考えると、15年戦争中にいったい何人の中国人が拷問の犠牲になったのかと心が痛む。嘘であってほしいとは思うが、殺された被害者の遺族や拷問された当人から告訴状をとり、関東軍司令部や憲兵隊司令部から押収された書類などとつき合わせて調べられた上、撫順戦犯管理所での認罪運動を通して総括されたものであれば、否定しようがない。
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拷問の手ほどき
平陽鎮には関東軍はいなかったが、満州国軍歩兵15団の一個中隊が分駐し、国境線の分屯地に食糧などの補給をしていた。治安は悪くなかった。だが、満州事変後、関東軍に追われて散ったはずの抗日分子や、国境を越えてくるスパイがいないとも限らない。憲兵になって初めて外へ出た土屋は、そんな連中を捕まえ、早く手柄を立てたかった。しかし、反日ビラやポスターが出るわけでもない。果たして抗日分子がいるのかどうかさえわからない。実際雲をつかむような思いだった。
土屋は一計を巡らした。この街を牛耳っているとみた商工会の組織する自警団を手足に使うことだ。彼らを自分の目や耳にすれば、何倍もの力になる。通訳を通じ自警団長に話をつけた。「街に怪しい者が入ってきたら、その都度、自分に連絡しろ。みんなにも伝えろ」。この団長は、何の抵抗もなく了解した。いわば自分の同胞を売るということであり、土屋は半信半疑でもあった。それが一週間もすると、見事にかかった。
「怪しい男がいるから早く来てください」と、自警団長ともう1人の団員が伝えてきた。土屋は、同僚の上等兵と一緒に駆け付けた。街の中の洗濯屋にみかけない男がいる、という。土屋はピストルを手に店内に入った。男はいた。30歳ぐらいの中国人で、頑丈そうだった。縛り上げて連行した。
土地の者ではないということが、怪しいとみた理由だが、功名心にはやる土屋にとっては、それで十分だった。抗日分子なら大手柄だ。「オレが張った網にかかった」のである。名前は張文達といった。33歳の近くの農村の農民で、「この街に買い物に来ただけ」と、おびえた目で話した。「いやいや、これは怪しい。この男は抗日軍の物資調達係だろう。貫禄から見て班長級だな」と、土屋は決め込んだ。「何としても本拠地を吐かせ一網打尽にしたい」「これは大変な功績になるぞ」。思いだけは駆け巡るのだが、土屋は実際の取り調べをしたことがなかった。それで先輩格の伍長に取り調べを頼んだ。
その伍長は、言葉からいって東北人ではなかった。ほおがこけ、目が鋭かった。憲兵歴2,3年ではなかった。ハルビンは分隊所属だったのでよく知らない。土屋らが中国人を連行しておきながら戸惑っている様子を見て、「よし、オレがやる」と乗り出してきた。「お前たちも手伝え。オレが教育してやるから」。目が異様に光り、拷問の手ほどきが始まった。
まず、伍長が命じたのは、「こん棒を持ってこい。それも生木の丈夫なのだ」。これで殴りつけろ、という。土屋の頭に浮かんだのは「何も生木のこん棒でなくても。相手は人間なのだから、せめて竹刀ででもいいではないか」という思いだった。だが、伍長の、それも実務を教えてくれようとする上官の命令だ」。土屋と同僚の上等兵とで、こん棒を振り回した。男は殴りつけるたびに、「ウッ」「ウッ」と声を立てたが、何も言わなかった。着ている綿衣からほこりだけはあがった。
効果がないのが分かると、伍長は、机を二列にして、積み重ねさせ、上に棒を渡した。いわば器械体操をする鉄棒のような形だ。この棒に麻縄で縛った男を後ろ手にしてつるした。体の重みを不自然な形の両腕で支えるのだから、苦しい。それも1時間、2時間の単位だ。はじめ真っ赤になった男の顔は、青ざめていき、脂汗をにじませてきた。だが、何もいわない。「こんちくしょう」と、伍長は10キロもある石を軍馬手に持ってこさせ、浮いていた男の足に縛りつけた。両肩の関節がゴクッとなった。「ウーン」とうなり、男は気絶した。舌打ちをした伍長は「今日はもういい、といい、明日は必ず吐かせてやる」と言い残して自分の部屋に戻ってしまった。
土屋たちは、男を棒からおろしてやると、にわか仕立ての留置場にした一番奥の部屋に連れて行き、柱に縛りつけた。奥の部屋にしたのは、逃亡を防ぐのと、訪ねてくる一般の中国人に男の姿を見せたくなかったからだろう。この日の拷問が終わり、土屋はホッとした半面、「あれだけ痛めつけられたのに吐かないのは、抗日分子の中でも相当の大物ではないか」という気持ちがわいた。それは、自分の捕らえた男への一種の期待感であった。
2日目もひどい拷問が続いた。指南役の伍長は、どこからか焼きゴテを探して持ってきていた。これをストーブで焼け、という。「赤くなるまでだ」と、次の場面を予想して躊躇する土屋に付け加えた。男を留置場から引き出し、上着をはがし、背中をむき出しににした。赤く焼けたコテを男に見せて脅し、自白を強要するのか、と土屋は思った。ところが違った。伍長はいきなり背中に押しつけた。ジューという音と、煙、それに激痛に思わず口をついた男の叫び声があがった。と同時に、何ともいいようのないにおいが部屋にも充満した。「お前の本拠はどこだ。仲間は?言え!言わないか!」。伍長は、怒鳴りながら何回となく男の背中を焼いた。「苦しい」を繰り返し、男はついに、「話す。話すからやめてくれ」といった。伍長は手を休めたが、相手は、肩で大きく息をするだけで、結局、何もいわない。伍長が再び赤く焼かせたコテ使った。部屋には鼻をつく臭気がこもり、断続的な男の低いうめき声が床をはった。狂気の世界だった。「これは何だ」。土屋は、男にとって伍長と同じ立場であるのに、「この伍長は鬼だ。そうでなければ、こんなむごいことはできまい」と思った。コテを焼け、といわれれば黙々と従ったが、心中では、顔をしかめていた。できることなら、その場から逃げ出したかった。同僚の上等兵も同じ思いだったろう。押し黙ったままだ。軍馬手らは、部屋のすみで言葉もない。
班長格の曹長や伍長のすぐ上の軍曹が、時折、拷問部屋をのぞいては、「まだ吐かないか。ずぶといやつだ」といってすぐ引っ込んだ。「拷問をよせ」とか、「むちゃをするな」といった言葉は一言もなかった。ヒゲを八の字にした「ジンタン軍曹」で、偉そうなのは見せかけだけだが、これも功名心だけは一人前だった。地元の人間でない、というだけで捕らえた中国人であるのに、その日のうちに、憲兵隊に「抗日分子一人を検挙、取り調べ中」と報告していた。男の自白を待つのは土屋や伍長ばかりではなかった。「拷問をやめろ」などというわけがない。
拷問はさらに続いた。逮捕して2日間というもの、男に何も食べ物を与えていなかった。水すらも飲ませなかったと思う。それが3日目は水責めだった。弱り果てた男を裸にし、長椅子にあおむけに縛りつけた。そして、水をいれた大きなやかんで口と鼻に水をジャージャーと注ぎ込んだ。絶え間ない水のため息ができず男は口をパクパクさせて水をどんどん飲み込む。みるみる腹が膨らんでいった。すると、拷問指南役の伍長は、「腹に馬乗りになって、水を吐かせろ。そして、また注ぎ込め」という。
この繰り返しだった。何回やっても同じだ。相手は気絶している。自白を得るという効果はなかった。それでも、伍長は「やれ!」という。土屋は、「もうやめては……」と何度も言おうと思った。相手の男を哀れというよりも、拷問をさせられる自分自身がつらかった。しかし言わない。言えば、この弱虫野郎! それでも憲兵か」と、伍長が怒鳴るのは目に見えていた。「止めさせたい」と思う心とは裏腹に、土屋もしたたかだった。この水責めが、自白を迫る上で最も効き目があることを直感的にかぎとっていた。以後、自分の取り調べには、しっかりとこの水責めを採り入れ、効果をあげることになる。それは後で触れる。
3日目は水責めで終わり、4日目は、いわゆるソロバン責めだった。「丸太を3本持って来い」と、伍長がいい、軍馬手に三角柱になるように削らせた。3本並べ、その中でも鋭角の部分を上にし、男を座らせた。足はズボンを脱がせ素肌である。いわゆる弁慶の泣きどころに角が当たり、体重がかかる。男はこれまでの苦痛とは別の痛みで、悲鳴をあげた。その上だ。伍長は、男の上に乗っかれ、という。しかも土屋と同僚の2人一緒にだ。そして、体を揺すれ、といった。ゴキッと音がし、男はうなるような声を立てた。もはや、脂汗も出ないほど弱っていた。男のすねの状態を、どう表現したらいいか。「生ぬるい。足に板をはさみ、両端に重石をのせろ」。すでに別の世界にいたのか、伍長は、さらに命令した。
足を痛めつけた翌日、伍長は、何を思ったか、太い針を買って来いと命じた。通訳が布団針を4,5本求めてきた。この針を男の指に刺せという。指といっても爪と肉の間にだ。映画でみたか、話に聞いたか、そんな拷問があるとは知っていたが、自分がやることになるとは思いもしなかった。ためらっているとほおのこけた伍長が病的な目でにらんだ。やらなければならない。男はこれから何をされるのかを察し、腕を縮めた。この腕を同僚に押さえつけてもらい、土屋は、右手中指の爪の間に針を刺した。だが、実際はろくに刺さらなかった。相手はあれだけ痛めつけられていたのに満身の力で手を引こうとした。それに、土屋はおっかなびっくりだった。それで、腕を押さえるのに、伍長も加わった。だが刺さらない。男も自白らしいことは、むろん何も言わない。そのうち血やら汗やらで針がすべり出した。それでも刺そうとする、針を持つ土屋の指のほうが痛くなってきた。
男はすでに死を覚悟していたらしく、悲鳴もあげなくなった。ただ、ものすごい形相で土屋たちをにらんでいた。足がすくむような思いに襲われながらも、伍長の命令で続けた拷問だったが、ついに伍長もあきらめた。「張文達、33歳、近くの農村から買い物に来ただけ」ということ意外、何の自白も得られなかった。班長格の軍曹は、すでに男を抗日分子としてハルビン憲兵隊に報告していた。だが、拷問の限りを尽くしても、本拠地の所在など肝心なことは何一つ聞き出せなかった。かといって、拷問によって半死半生になっている男を、このまま釈放するわけにはいかなかった。男の処分はどうするのか、土屋にはわからなかった。
こういう時の処分で悩むのは、土屋のような新米憲兵ぐらいである。土屋が初年兵時に公主嶺で経験したように、仕掛けがあった。針の拷問から2日後だった。平陽鎮にいた満州国軍歩兵15師団の日系軍官である中尉が訪ねてきて、男を連れて行った。「日本刀の試し斬りに」だった。男が墓地で首を落とされるのを土屋もみた。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を示します。
下記は、憲兵となって初めて、「拷問の手ほどき」を受けた時の様子を土屋元憲兵が詳しく語っている部分の抜粋である。下記の「張文達」の他にも、「チチハル鉄道列車司令の鞠という30歳ぐらいの男」(拷問数日後死亡)、「王柱華という中学校の教師」、「通ソ・スパイ張恵民」(自白したにも拘わらず、裁判なしに銃殺)、「黄野萍と崔瑞麟」(ハルビン憲兵隊へ-731部隊送りと思われる)、「聶」、「王鴻恩」(拷問がもとで後に死亡)、「候」、「田維民」、「王育人」(後に死刑)、「劉家棟」(満州国警察幹部)などを、土屋元憲兵自らが拷問した事実、および、その理由が同書の記述中にある。
拷問そのものの残虐性もさることながら、法に忠実であるべき憲兵の、あたかも拷問が任務であるかの如き日常や、疑わしい人間は躊躇なく拷問するという姿勢に驚かざるを得ない。土屋元憲兵が入営した時から数えて、直接間接に殺したのは328人、逮捕し、拷問にかけ、獄につないだのは、1917人であったという。
憲兵隊だけではなく、前線の部隊や、警察組織などでも拷問があったことを考えると、15年戦争中にいったい何人の中国人が拷問の犠牲になったのかと心が痛む。嘘であってほしいとは思うが、殺された被害者の遺族や拷問された当人から告訴状をとり、関東軍司令部や憲兵隊司令部から押収された書類などとつき合わせて調べられた上、撫順戦犯管理所での認罪運動を通して総括されたものであれば、否定しようがない。
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拷問の手ほどき
平陽鎮には関東軍はいなかったが、満州国軍歩兵15団の一個中隊が分駐し、国境線の分屯地に食糧などの補給をしていた。治安は悪くなかった。だが、満州事変後、関東軍に追われて散ったはずの抗日分子や、国境を越えてくるスパイがいないとも限らない。憲兵になって初めて外へ出た土屋は、そんな連中を捕まえ、早く手柄を立てたかった。しかし、反日ビラやポスターが出るわけでもない。果たして抗日分子がいるのかどうかさえわからない。実際雲をつかむような思いだった。
土屋は一計を巡らした。この街を牛耳っているとみた商工会の組織する自警団を手足に使うことだ。彼らを自分の目や耳にすれば、何倍もの力になる。通訳を通じ自警団長に話をつけた。「街に怪しい者が入ってきたら、その都度、自分に連絡しろ。みんなにも伝えろ」。この団長は、何の抵抗もなく了解した。いわば自分の同胞を売るということであり、土屋は半信半疑でもあった。それが一週間もすると、見事にかかった。
「怪しい男がいるから早く来てください」と、自警団長ともう1人の団員が伝えてきた。土屋は、同僚の上等兵と一緒に駆け付けた。街の中の洗濯屋にみかけない男がいる、という。土屋はピストルを手に店内に入った。男はいた。30歳ぐらいの中国人で、頑丈そうだった。縛り上げて連行した。
土地の者ではないということが、怪しいとみた理由だが、功名心にはやる土屋にとっては、それで十分だった。抗日分子なら大手柄だ。「オレが張った網にかかった」のである。名前は張文達といった。33歳の近くの農村の農民で、「この街に買い物に来ただけ」と、おびえた目で話した。「いやいや、これは怪しい。この男は抗日軍の物資調達係だろう。貫禄から見て班長級だな」と、土屋は決め込んだ。「何としても本拠地を吐かせ一網打尽にしたい」「これは大変な功績になるぞ」。思いだけは駆け巡るのだが、土屋は実際の取り調べをしたことがなかった。それで先輩格の伍長に取り調べを頼んだ。
その伍長は、言葉からいって東北人ではなかった。ほおがこけ、目が鋭かった。憲兵歴2,3年ではなかった。ハルビンは分隊所属だったのでよく知らない。土屋らが中国人を連行しておきながら戸惑っている様子を見て、「よし、オレがやる」と乗り出してきた。「お前たちも手伝え。オレが教育してやるから」。目が異様に光り、拷問の手ほどきが始まった。
まず、伍長が命じたのは、「こん棒を持ってこい。それも生木の丈夫なのだ」。これで殴りつけろ、という。土屋の頭に浮かんだのは「何も生木のこん棒でなくても。相手は人間なのだから、せめて竹刀ででもいいではないか」という思いだった。だが、伍長の、それも実務を教えてくれようとする上官の命令だ」。土屋と同僚の上等兵とで、こん棒を振り回した。男は殴りつけるたびに、「ウッ」「ウッ」と声を立てたが、何も言わなかった。着ている綿衣からほこりだけはあがった。
効果がないのが分かると、伍長は、机を二列にして、積み重ねさせ、上に棒を渡した。いわば器械体操をする鉄棒のような形だ。この棒に麻縄で縛った男を後ろ手にしてつるした。体の重みを不自然な形の両腕で支えるのだから、苦しい。それも1時間、2時間の単位だ。はじめ真っ赤になった男の顔は、青ざめていき、脂汗をにじませてきた。だが、何もいわない。「こんちくしょう」と、伍長は10キロもある石を軍馬手に持ってこさせ、浮いていた男の足に縛りつけた。両肩の関節がゴクッとなった。「ウーン」とうなり、男は気絶した。舌打ちをした伍長は「今日はもういい、といい、明日は必ず吐かせてやる」と言い残して自分の部屋に戻ってしまった。
土屋たちは、男を棒からおろしてやると、にわか仕立ての留置場にした一番奥の部屋に連れて行き、柱に縛りつけた。奥の部屋にしたのは、逃亡を防ぐのと、訪ねてくる一般の中国人に男の姿を見せたくなかったからだろう。この日の拷問が終わり、土屋はホッとした半面、「あれだけ痛めつけられたのに吐かないのは、抗日分子の中でも相当の大物ではないか」という気持ちがわいた。それは、自分の捕らえた男への一種の期待感であった。
2日目もひどい拷問が続いた。指南役の伍長は、どこからか焼きゴテを探して持ってきていた。これをストーブで焼け、という。「赤くなるまでだ」と、次の場面を予想して躊躇する土屋に付け加えた。男を留置場から引き出し、上着をはがし、背中をむき出しににした。赤く焼けたコテを男に見せて脅し、自白を強要するのか、と土屋は思った。ところが違った。伍長はいきなり背中に押しつけた。ジューという音と、煙、それに激痛に思わず口をついた男の叫び声があがった。と同時に、何ともいいようのないにおいが部屋にも充満した。「お前の本拠はどこだ。仲間は?言え!言わないか!」。伍長は、怒鳴りながら何回となく男の背中を焼いた。「苦しい」を繰り返し、男はついに、「話す。話すからやめてくれ」といった。伍長は手を休めたが、相手は、肩で大きく息をするだけで、結局、何もいわない。伍長が再び赤く焼かせたコテ使った。部屋には鼻をつく臭気がこもり、断続的な男の低いうめき声が床をはった。狂気の世界だった。「これは何だ」。土屋は、男にとって伍長と同じ立場であるのに、「この伍長は鬼だ。そうでなければ、こんなむごいことはできまい」と思った。コテを焼け、といわれれば黙々と従ったが、心中では、顔をしかめていた。できることなら、その場から逃げ出したかった。同僚の上等兵も同じ思いだったろう。押し黙ったままだ。軍馬手らは、部屋のすみで言葉もない。
班長格の曹長や伍長のすぐ上の軍曹が、時折、拷問部屋をのぞいては、「まだ吐かないか。ずぶといやつだ」といってすぐ引っ込んだ。「拷問をよせ」とか、「むちゃをするな」といった言葉は一言もなかった。ヒゲを八の字にした「ジンタン軍曹」で、偉そうなのは見せかけだけだが、これも功名心だけは一人前だった。地元の人間でない、というだけで捕らえた中国人であるのに、その日のうちに、憲兵隊に「抗日分子一人を検挙、取り調べ中」と報告していた。男の自白を待つのは土屋や伍長ばかりではなかった。「拷問をやめろ」などというわけがない。
拷問はさらに続いた。逮捕して2日間というもの、男に何も食べ物を与えていなかった。水すらも飲ませなかったと思う。それが3日目は水責めだった。弱り果てた男を裸にし、長椅子にあおむけに縛りつけた。そして、水をいれた大きなやかんで口と鼻に水をジャージャーと注ぎ込んだ。絶え間ない水のため息ができず男は口をパクパクさせて水をどんどん飲み込む。みるみる腹が膨らんでいった。すると、拷問指南役の伍長は、「腹に馬乗りになって、水を吐かせろ。そして、また注ぎ込め」という。
この繰り返しだった。何回やっても同じだ。相手は気絶している。自白を得るという効果はなかった。それでも、伍長は「やれ!」という。土屋は、「もうやめては……」と何度も言おうと思った。相手の男を哀れというよりも、拷問をさせられる自分自身がつらかった。しかし言わない。言えば、この弱虫野郎! それでも憲兵か」と、伍長が怒鳴るのは目に見えていた。「止めさせたい」と思う心とは裏腹に、土屋もしたたかだった。この水責めが、自白を迫る上で最も効き目があることを直感的にかぎとっていた。以後、自分の取り調べには、しっかりとこの水責めを採り入れ、効果をあげることになる。それは後で触れる。
3日目は水責めで終わり、4日目は、いわゆるソロバン責めだった。「丸太を3本持って来い」と、伍長がいい、軍馬手に三角柱になるように削らせた。3本並べ、その中でも鋭角の部分を上にし、男を座らせた。足はズボンを脱がせ素肌である。いわゆる弁慶の泣きどころに角が当たり、体重がかかる。男はこれまでの苦痛とは別の痛みで、悲鳴をあげた。その上だ。伍長は、男の上に乗っかれ、という。しかも土屋と同僚の2人一緒にだ。そして、体を揺すれ、といった。ゴキッと音がし、男はうなるような声を立てた。もはや、脂汗も出ないほど弱っていた。男のすねの状態を、どう表現したらいいか。「生ぬるい。足に板をはさみ、両端に重石をのせろ」。すでに別の世界にいたのか、伍長は、さらに命令した。
足を痛めつけた翌日、伍長は、何を思ったか、太い針を買って来いと命じた。通訳が布団針を4,5本求めてきた。この針を男の指に刺せという。指といっても爪と肉の間にだ。映画でみたか、話に聞いたか、そんな拷問があるとは知っていたが、自分がやることになるとは思いもしなかった。ためらっているとほおのこけた伍長が病的な目でにらんだ。やらなければならない。男はこれから何をされるのかを察し、腕を縮めた。この腕を同僚に押さえつけてもらい、土屋は、右手中指の爪の間に針を刺した。だが、実際はろくに刺さらなかった。相手はあれだけ痛めつけられていたのに満身の力で手を引こうとした。それに、土屋はおっかなびっくりだった。それで、腕を押さえるのに、伍長も加わった。だが刺さらない。男も自白らしいことは、むろん何も言わない。そのうち血やら汗やらで針がすべり出した。それでも刺そうとする、針を持つ土屋の指のほうが痛くなってきた。
男はすでに死を覚悟していたらしく、悲鳴もあげなくなった。ただ、ものすごい形相で土屋たちをにらんでいた。足がすくむような思いに襲われながらも、伍長の命令で続けた拷問だったが、ついに伍長もあきらめた。「張文達、33歳、近くの農村から買い物に来ただけ」ということ意外、何の自白も得られなかった。班長格の軍曹は、すでに男を抗日分子としてハルビン憲兵隊に報告していた。だが、拷問の限りを尽くしても、本拠地の所在など肝心なことは何一つ聞き出せなかった。かといって、拷問によって半死半生になっている男を、このまま釈放するわけにはいかなかった。男の処分はどうするのか、土屋にはわからなかった。
こういう時の処分で悩むのは、土屋のような新米憲兵ぐらいである。土屋が初年兵時に公主嶺で経験したように、仕掛けがあった。針の拷問から2日後だった。平陽鎮にいた満州国軍歩兵15師団の日系軍官である中尉が訪ねてきて、男を連れて行った。「日本刀の試し斬りに」だった。男が墓地で首を落とされるのを土屋もみた。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を示します。