真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

憲兵 疑わしきは 拷問

2011年08月24日 | 国際・政治
 「ある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)は、『朝日新聞』山形版に183回にわたって連載された「聞き書き 憲兵・土屋芳雄 半生の記録」を支局員だった奥山郁郎、貴志友彦の両氏がまとめたものである。これを読むと、軍の秩序や規律を維持するのが主な任務であるはずの憲兵が、あたかも関東軍の拷問係の如く、頻繁に拷問を繰り返していたことがわかる。
 下記は、憲兵となって初めて、「拷問の手ほどき」を受けた時の様子を土屋元憲兵が詳しく語っている部分の抜粋である。下記の「張文達」の他にも、「チチハル鉄道列車司令の鞠という30歳ぐらいの男」(拷問数日後死亡)、「王柱華という中学校の教師」、「通ソ・スパイ張恵民」(自白したにも拘わらず、裁判なしに銃殺)、「黄野萍と崔瑞麟」(ハルビン憲兵隊へ-731部隊送りと思われる)、「聶」、「王鴻恩」(拷問がもとで後に死亡)、「候」、「田維民」、「王育人」(後に死刑)、「劉家棟」(満州国警察幹部)などを、土屋元憲兵自らが拷問した事実、および、その理由が同書の記述中にある。
 拷問そのものの残虐性もさることながら、法に忠実であるべき憲兵の、あたかも拷問が任務であるかの如き日常や、疑わしい人間は躊躇なく拷問するという姿勢に驚かざるを得ない。土屋元憲兵が入営した時から数えて、直接間接に殺したのは328人、逮捕し、拷問にかけ、獄につないだのは、1917人であったという。
 憲兵隊だけではなく、前線の部隊や、警察組織などでも拷問があったことを考えると、15年戦争中にいったい何人の中国人が拷問の犠牲になったのかと心が痛む。嘘であってほしいとは思うが、殺された被害者の遺族や拷問された当人から告訴状をとり、関東軍司令部や憲兵隊司令部から押収された書類などとつき合わせて調べられた上、撫順戦犯管理所での認罪運動を通して総括されたものであれば、否定しようがない。
---------------------------------
拷問の手ほどき

 平陽鎮には関東軍はいなかったが、満州国軍歩兵15団の一個中隊が分駐し、国境線の分屯地に食糧などの補給をしていた。治安は悪くなかった。だが、満州事変後、関東軍に追われて散ったはずの抗日分子や、国境を越えてくるスパイがいないとも限らない。憲兵になって初めて外へ出た土屋は、そんな連中を捕まえ、早く手柄を立てたかった。しかし、反日ビラやポスターが出るわけでもない。果たして抗日分子がいるのかどうかさえわからない。実際雲をつかむような思いだった。


 土屋は一計を巡らした。この街を牛耳っているとみた商工会の組織する自警団を手足に使うことだ。彼らを自分の目や耳にすれば、何倍もの力になる。通訳を通じ自警団長に話をつけた。「街に怪しい者が入ってきたら、その都度、自分に連絡しろ。みんなにも伝えろ」。この団長は、何の抵抗もなく了解した。いわば自分の同胞を売るということであり、土屋は半信半疑でもあった。それが一週間もすると、見事にかかった。

 「怪しい男がいるから早く来てください」と、自警団長ともう1人の団員が伝えてきた。土屋は、同僚の上等兵と一緒に駆け付けた。街の中の洗濯屋にみかけない男がいる、という。土屋はピストルを手に店内に入った。男はいた。30歳ぐらいの中国人で、頑丈そうだった。縛り上げて連行した。
 土地の者ではないということが、怪しいとみた理由だが、功名心にはやる土屋にとっては、それで十分だった。抗日分子なら大手柄だ。「オレが張った網にかかった」のである。名前は張文達といった。33歳の近くの農村の農民で、「この街に買い物に来ただけ」と、おびえた目で話した。「いやいや、これは怪しい。この男は抗日軍の物資調達係だろう。貫禄から見て班長級だな」と、土屋は決め込んだ。「何としても本拠地を吐かせ一網打尽にしたい」「これは大変な功績になるぞ」。思いだけは駆け巡るのだが、土屋は実際の取り調べをしたことがなかった。それで先輩格の伍長に取り調べを頼んだ。


 その伍長は、言葉からいって東北人ではなかった。ほおがこけ、目が鋭かった。憲兵歴2,3年ではなかった。ハルビンは分隊所属だったのでよく知らない。土屋らが中国人を連行しておきながら戸惑っている様子を見て、「よし、オレがやる」と乗り出してきた。「お前たちも手伝え。オレが教育してやるから」。目が異様に光り、拷問の手ほどきが始まった。

 まず、伍長が命じたのは、「こん棒を持ってこい。それも生木の丈夫なのだ」。これで殴りつけろ、という。土屋の頭に浮かんだのは「何も生木のこん棒でなくても。相手は人間なのだから、せめて竹刀ででもいいではないか」という思いだった。だが、伍長の、それも実務を教えてくれようとする上官の命令だ」。土屋と同僚の上等兵とで、こん棒を振り回した。男は殴りつけるたびに、「ウッ」「ウッ」と声を立てたが、何も言わなかった。着ている綿衣からほこりだけはあがった。

 効果がないのが分かると、伍長は、机を二列にして、積み重ねさせ、上に棒を渡した。いわば器械体操をする鉄棒のような形だ。この棒に麻縄で縛った男を後ろ手にしてつるした。体の重みを不自然な形の両腕で支えるのだから、苦しい。それも1時間、2時間の単位だ。はじめ真っ赤になった男の顔は、青ざめていき、脂汗をにじませてきた。だが、何もいわない。「こんちくしょう」と、伍長は10キロもある石を軍馬手に持ってこさせ、浮いていた男の足に縛りつけた。両肩の関節がゴクッとなった。「ウーン」とうなり、男は気絶した。舌打ちをした伍長は「今日はもういい、といい、明日は必ず吐かせてやる」と言い残して自分の部屋に戻ってしまった。

 土屋たちは、男を棒からおろしてやると、にわか仕立ての留置場にした一番奥の部屋に連れて行き、柱に縛りつけた。奥の部屋にしたのは、逃亡を防ぐのと、訪ねてくる一般の中国人に男の姿を見せたくなかったからだろう。この日の拷問が終わり、土屋はホッとした半面、「あれだけ痛めつけられたのに吐かないのは、抗日分子の中でも相当の大物ではないか」という気持ちがわいた。それは、自分の捕らえた男への一種の期待感であった。

 2日目もひどい拷問が続いた。指南役の伍長は、どこからか焼きゴテを探して持ってきていた。これをストーブで焼け、という。「赤くなるまでだ」と、次の場面を予想して躊躇する土屋に付け加えた。男を留置場から引き出し、上着をはがし、背中をむき出しににした。赤く焼けたコテを男に見せて脅し、自白を強要するのか、と土屋は思った。ところが違った。伍長はいきなり背中に押しつけた。ジューという音と、煙、それに激痛に思わず口をついた男の叫び声があがった。と同時に、何ともいいようのないにおいが部屋にも充満した。「お前の本拠はどこだ。仲間は?言え!言わないか!」。伍長は、怒鳴りながら何回となく男の背中を焼いた。「苦しい」を繰り返し、男はついに、「話す。話すからやめてくれ」といった。伍長は手を休めたが、相手は、肩で大きく息をするだけで、結局、何もいわない。伍長が再び赤く焼かせたコテ使った。部屋には鼻をつく臭気がこもり、断続的な男の低いうめき声が床をはった。狂気の世界だった。「これは何だ」。土屋は、男にとって伍長と同じ立場であるのに、「この伍長は鬼だ。そうでなければ、こんなむごいことはできまい」と思った。コテを焼け、といわれれば黙々と従ったが、心中では、顔をしかめていた。できることなら、その場から逃げ出したかった。同僚の上等兵も同じ思いだったろう。押し黙ったままだ。軍馬手らは、部屋のすみで言葉もない。

 班長格の曹長や伍長のすぐ上の軍曹が、時折、拷問部屋をのぞいては、「まだ吐かないか。ずぶといやつだ」といってすぐ引っ込んだ。「拷問をよせ」とか、「むちゃをするな」といった言葉は一言もなかった。ヒゲを八の字にした「ジンタン軍曹」で、偉そうなのは見せかけだけだが、これも功名心だけは一人前だった。地元の人間でない、というだけで捕らえた中国人であるのに、その日のうちに、憲兵隊に「抗日分子一人を検挙、取り調べ中」と報告していた。男の自白を待つのは土屋や伍長ばかりではなかった。「拷問をやめろ」などというわけがない。

 拷問はさらに続いた。逮捕して2日間というもの、男に何も食べ物を与えていなかった。水すらも飲ませなかったと思う。それが3日目は水責めだった。弱り果てた男を裸にし、長椅子にあおむけに縛りつけた。そして、水をいれた大きなやかんで口と鼻に水をジャージャーと注ぎ込んだ。絶え間ない水のため息ができず男は口をパクパクさせて水をどんどん飲み込む。みるみる腹が膨らんでいった。すると、拷問指南役の伍長は、「腹に馬乗りになって、水を吐かせろ。そして、また注ぎ込め」という。
 この繰り返しだった。何回やっても同じだ。相手は気絶している。自白を得るという効果はなかった。それでも、伍長は「やれ!」という。土屋は、「もうやめては……」と何度も言おうと思った。相手の男を哀れというよりも、拷問をさせられる自分自身がつらかった。しかし言わない。言えば、この弱虫野郎! それでも憲兵か」と、伍長が怒鳴るのは目に見えていた。「止めさせたい」と思う心とは裏腹に、土屋もしたたかだった。この水責めが、自白を迫る上で最も効き目があることを直感的にかぎとっていた。以後、自分の取り調べには、しっかりとこの水責めを採り入れ、効果をあげることになる。それは後で触れる。


 3日目は水責めで終わり、4日目は、いわゆるソロバン責めだった。「丸太を3本持って来い」と、伍長がいい、軍馬手に三角柱になるように削らせた。3本並べ、その中でも鋭角の部分を上にし、男を座らせた。足はズボンを脱がせ素肌である。いわゆる弁慶の泣きどころに角が当たり、体重がかかる。男はこれまでの苦痛とは別の痛みで、悲鳴をあげた。その上だ。伍長は、男の上に乗っかれ、という。しかも土屋と同僚の2人一緒にだ。そして、体を揺すれ、といった。ゴキッと音がし、男はうなるような声を立てた。もはや、脂汗も出ないほど弱っていた。男のすねの状態を、どう表現したらいいか。「生ぬるい。足に板をはさみ、両端に重石をのせろ」。すでに別の世界にいたのか、伍長は、さらに命令した。

 足を痛めつけた翌日、伍長は、何を思ったか、太い針を買って来いと命じた。通訳が布団針を4,5本求めてきた。この針を男の指に刺せという。指といっても爪と肉の間にだ。映画でみたか、話に聞いたか、そんな拷問があるとは知っていたが、自分がやることになるとは思いもしなかった。ためらっているとほおのこけた伍長が病的な目でにらんだ。やらなければならない。男はこれから何をされるのかを察し、腕を縮めた。この腕を同僚に押さえつけてもらい、土屋は、右手中指の爪の間に針を刺した。だが、実際はろくに刺さらなかった。相手はあれだけ痛めつけられていたのに満身の力で手を引こうとした。それに、土屋はおっかなびっくりだった。それで、腕を押さえるのに、伍長も加わった。だが刺さらない。男も自白らしいことは、むろん何も言わない。そのうち血やら汗やらで針がすべり出した。それでも刺そうとする、針を持つ土屋の指のほうが痛くなってきた。

 男はすでに死を覚悟していたらしく、悲鳴もあげなくなった。ただ、ものすごい形相で土屋たちをにらんでいた。足がすくむような思いに襲われながらも、伍長の命令で続けた拷問だったが、ついに伍長もあきらめた。「張文達、33歳、近くの農村から買い物に来ただけ」ということ意外、何の自白も得られなかった。班長格の軍曹は、すでに男を抗日分子としてハルビン憲兵隊に報告していた。だが、拷問の限りを尽くしても、本拠地の所在など肝心なことは何一つ聞き出せなかった。かといって、拷問によって半死半生になっている男を、このまま釈放するわけにはいかなかった。男の処分はどうするのか、土屋にはわからなかった。

 こういう時の処分で悩むのは、土屋のような新米憲兵ぐらいである。土屋が初年兵時に公主嶺で経験したように、仕掛けがあった。針の拷問から2日後だった。平陽鎮にいた満州国軍歩兵15師団の日系軍官である中尉が訪ねてきて、男を連れて行った。「日本刀の試し斬りに」だった。男が墓地で首を落とされるのを土屋もみた。

 ・・・(以下略)

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を示します。  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄における日本軍の蛮行(「細川日記」)

2011年08月19日 | 国際・政治
 「細川日記」は、もともと昭和28年2月に、磯部書房から『情報天皇に達せず』という標題で出版されたものであることが「あとがき」に記されている。東条が独裁体制を敷いて情報を統制したため、近衛が、細川護貞に各方面から情報を集めて高松宮に報告する任務を与えたことを考えると、磯部氏による『情報天皇に達せず』の標題の方が、内容を暗示して理解しやすいのであるが、世間の耳目を聳動させることを避けたい著者の思いによって、再出版の際に、「細川日記」としたようである。
 下記は、細川護貞が、沖縄の日本軍の蛮行について、高村秘書官(近衛前首相秘書官)から得た情報を記述している部分である。高村秘書官は、直接沖縄に赴き、視察してきたことを話しているので、その事実は疑いようがないが、沖縄戦の始まる前から、下記のような蛮行があったということに驚かざるを得ない。この少し前までは、東条憲兵が絶大な権力を振るっていたのである。政府や軍の中枢にも知られていたそうした蛮行を、なぜ取り締まることができなかったのか、と思う。軍隊内部の秩序や規律を維持すべき憲兵が、本来の任務を果し得る状況になく、憲兵制度が正常に機能しなくなっていた、ととらえるべきなのかも知れない。また、当時の日本軍や政府関係者が、沖縄住民の惨状を知りながら、その対策に動くことがなかった。忘れてはならないと思う。「細川日記 下」細川護貞(中公文庫)からの抜粋である。
---------------------------------
昭和19年12月8日

 ・・・
 7日、午前1時半一機来襲。警戒、空襲警報発令。此の日高村氏より此の一二日危険なる由注意あり。午後、平塚に富田氏を訪問、高村氏の話として、琉球に於ける我軍は、軍紀弛緩し、民家に入りて物をとり、婦女を陵辱する等のことありと。是支那にありたる部隊なりと。此の内閣は余命幾何もなき由、各方面の意見なりと。又木戸内府に対する非難、更迭の時近衛公を此の地位に据えては如何等々の話あり。氏との談話中、加瀬外務秘書官荻窪に来り、ゲッペルスが大島に対し、独ソ和平の斡旋を依頼したりとの話ありたりと。5時辞去。
 6時鎌倉駅にて警報に逢ふ。是亦一二機 時余にして解除。


 ・・・

---------------------------------
昭和19年12月16日

 ・・・
 昨15日、高村氏を内務省に訪問、沖縄視察の話を聞く。沖縄は全島午前7時より4時まで連続空襲せられ、如何なる僻村も皆爆撃、機銃掃射を受けたり。而して人口60万、軍隊15万程ありて、初めは軍に対し皆好意を懐き居りしも、空襲の時は一機飛立ちたるのみにて、他は皆民家の防空壕を占領し、為に島民は入るを得ず。又4時に那覇立退命令出で、25里先の山中に避難命ぜられたるも、家は焼け食糧はなく、実に惨憺たる有様にて、今に到るまでそのままの有様なりと。而して焼け残りたる家は軍で徴発し、島民と雑居し、物は勝手に使用し、婦女子は陵辱せらるる等、恰も占領地に在るが如き振舞ひにて、軍紀は全く乱れ居れり。

 指揮官は長某にて、張鼓峰の時の男なり。彼は県に対し、我々は作戦に従ひ戦をするも、島民は邪魔なるを以て、全部山岳地方に退去すべし、而して軍で面倒を見ること能はざるを以て、自活すべし、と広言し居る由。島は大半南に人口集り居り、退去を命ぜられたる地方は未開の地にて、自活不可能なりと。而も着のみ着のままにて、未だに内地よりも補給すること能はず、舟と云ふ舟は全部撃沈せられ居りと。来襲敵機は1000機、島民は極度の恐怖に襲はれ居り、未だ山中穴居を為すもの等ありと。又最近の軍の動向は、レイテに於ても全く自信なく、高村氏が、「クリスマスプレゼントになりますか」と問ひたる所、「敵も、さう考へて居るでせう」と答へたる由。又内地を各軍管区に分け、夫々の司令官が知事を兼ねるが如き方法をとらんとしつつあり。又海岸線には防備なく、全部山岳地帯に立てこもる積もりの如しと。那覇にても敵に上陸を許し、然る後之を撃つ作戦にて、山に陣地あり、竹の戦車など作りありたりと。
 

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲兵(独立統帥権行使者)の「伝家の宝刀」

2011年08月18日 | 国際・政治
 軍隊内部の秩序や規律を維持することが任務の憲兵が、なぜ,、民間人に対して「泣く子も黙る」といわれるほどの権力を持ち得たのか。特に東条が陸軍大臣や首相在任中、憲兵の権限が絶大であったのはなぜなのか。「続・現代史資料(6)軍事警察ー憲兵と軍法会議」(みすず書房)の資料解説に、その「答」ともいえる貴重な証言がある。
---------------------------------
資料解説

 ・・・
 陸軍大臣・宇垣一成の述べた「軍事警察の主眼」「憲兵活動ノ日常ノ執務ノ基礎」の実務を担う憲兵はどう自覚していたか。日中戦争下、歩兵上等兵から憲兵上等兵になり憲兵曹長〔下士官の最上位〕で終戦をむかえた井上源吉氏は次のように記している。

 憲兵は1人1人が個々に陸軍大臣に直属し、他兵科とはその制度において一線を画していた。憲兵伍長以上はすべて陸軍司法警察官という身分をもち、独立して捜査権を執行する権限をあたえられていた。したがって、、軍隊としての統制上の階級はあるものの、司法警察官という権限においては、将校下士官を問わずすべて同格ということになっていた。また憲兵は、必要ならば陸軍のみならず海軍にまで捜査権を行使することができた。戦時中は内務省警察や外務省に属する領事警察にいたるまで指揮下に入れ、対戦国の国民にまで警察権を執行した。もちろんこのように絶大な権力をもつ兵力を無制限に増強することは、弾圧政策に利用されたり、あるいは革命の原動力となる危険が潜在していた。そのため昭和12年の前半までは日本全軍の憲兵兵力は999名以内と定員を制限されていたのである。

 陸軍大臣に直属した憲兵は、さきに紹介した明治33年の通達のたてまえなどは日中戦争の時代になると完全に吹きとんでいた。さらに、軍隊内ではどうであったか。これを『戦地憲兵』でみてみると──。

 昭和13年4月7日、徐州会戦に参加、上海に帰還した百一師団、それは「前線帰りの将兵は、軍規がみだれ気があらく行動が粗暴で、何かにつけて住民とのあいだでいざこざをおこした」が、師団の先陣として帰還した大隊は、「中国人豪商の邸宅を無断で占領し、大隊本部として使用しようとした。」これを「中止されるための使者として」派遣された井上憲兵上等兵と大隊長とのやりとりを紹介する。

 応対に出た大隊副官は、私が階級の低い上等兵であるためか、最初から傲慢な態度で、私の申し入れをぜんぜん相手にはしなかった。そこへ出てきた大隊長は、「おいこら憲兵上等兵、なにをくだらんことをいっとるか、この町はもともとわれわれが占領した町だ、われわれがどこを使おうと貴様の指図は受けん。帰って分隊長にいっておけ」とどなった。
 私はやむなく最後の切り札である伝家の宝刀を抜くことにした「気をつけ! 陸軍憲兵上等兵井上源吉はただいまから天皇陛下の命により大島大隊に対しこの家屋の明け渡しを命令する」とやってしまった。彼は「俺は陸軍少佐だぞ。貴様、上等兵のぶんざいで俺に命令するのか」と反論したものの、状況の不利をさとったのか急に態度をあらため「明日、さっそく憲兵隊へあいさつに行く、分隊長によろしくいっておいてくれ」といった。

 ここにはいくつかの問題が示されている。上等兵と大隊長・少佐との軍隊の階級差、それに伴う権限の実感は、体験した者には説明の要はないが、表現できないほど大きかった。しいて現在にあてはめれば、官庁の受付氏と局の総務課長との差、それでも精神的抑圧感は決定的に異なる。軍隊で上等兵が大隊長に直接口がきけるのは、当番兵に任命された時ぐらいである。にもかかわらず右のような階級差を超えた行動を憲兵上等兵がとれたのも、憲兵は陸軍大臣に直属していると解釈可能な「陸軍省官制」の規定、さらに大事なのは、憲兵実務の法的根拠である「憲兵令」が勅令で公布されていること、そして大隊長にも、ここから発出する統帥権への絶対服従が矢張り心の中にあったことである。軍隊内における憲兵の権限の強さを、これほど具体的に物語るものはない。と同時に、「天皇陛下の命により」と発言して上等兵が少佐を屈伏させうる憲兵は、板倉憲兵大尉が指摘するように「〔上官への〕絶対服従関係を引用して刑責を免るる事は憲兵たる職責上断じて許されない」のであり、各憲兵は個人、個人が結果責任を負わねばならぬ独立した統帥権の行使者であったのである。したがって、ある状況や雰囲気に、まして条例など法に仮託した免責されえない存在だったことである。

 ・・・
 …軍の秩序を維持し、軍人軍属の非違を糺すため設置された軍事警察は、最終の段階では全く反対の機能をいとなむ場合が少なくなかった。

 ・・・(以下略)
----------------------------------
 参考
 「憲兵令  第一条 憲兵ハ陸軍大臣ノ管轄ニ属シ主トシテ軍事警察ヲ掌リ兼テ行政警察、司法警察ヲ掌ル」


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は、段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲兵と東条独裁体制

2011年08月09日 | 国際・政治
 憲兵は、本来、軍人・軍属を対象とし、軍隊内部の非行・問題行動を摘発・監視することによって、軍の秩序や規律を維持するのが任務である。しかしながら、軍の勢力が台頭し、軍が政治権力を振るい始める満州事変前後から、憲兵はその司法警察権を行使して、任務の対象を軍隊外部へ広げていったようである。
 「細川日記」(中公文庫)の著者細川護貞も、その「あとがき」で「…然し、その後、発表された当時の多くの人の日記や記録を見ると、どれもこれも大なり小なりに群盲象を撫でるの類であることを悟った。それもその筈で、これだけ大きな、且つ複雑な事件を、すべて把握していた者は恐らく生きた人間には居なかったであろうと思うようになった。しかも、私などの場合でも、誰が同志で、誰が敵かは、容易に判断しかねたのであった。うかつに話が出来ないというのが当時の実情であった。更に悪いことには、吾々の周辺には常に憲兵の目が光っていた。一歩誤れば、私自身が拘引されることは勿論、累を多くの人々に及ぼさぬとも限らない。このような情勢下では、人の心も正常たらんとしても、知らず知らずの内に歪みを免れないものである。私の考えが偏ったとしても、又、敵視すべからざる人を敵視したとしても、それはそれなりに止むを得なかったと思っている」と書いている。戦時体制が強化されるにつれて、憲兵の任務の範囲や権限が拡大され、組織が強化されるとともに、東条がその政敵や反対者の行動を封殺するため、憲兵を暴力手段として私的に利用した結果であろうと思われる。

 「東条は、関東軍憲兵隊長の時に覚えた憲兵の味が忘れられず、政治問題が起こると、常に憲兵の威力をもって解決しようとする悪癖があった」とか「東条は、憲兵万能の権力主義者であった」などと指摘したのは、元関東軍参謀田中隆吉であるが、東条が陸軍大臣や総理大臣であった時、憲兵が不当に権力を行使し、あたかも思想犯を取り締まる秘密警察のごとき活動を展開した事実をみるとうなずける。ここでは、「細川日記」細川護貞(中公文庫)から、憲兵に関わる記述のいくつかを抜粋する。忘れてはならない先の大戦の一面であると思う。
---------------------------------
5月15日

 去る12日、常田健次郎氏の招きにより、岡崎鶴家にて松下幸之助、木舎幾三郎及び水谷川男
(水谷川忠麿男爵)と会食。その席上水谷川男の話に、東京は再び憲兵政治始まり、既に大達前内相は挙げられ、原田熊雄男(原田熊雄男爵)は4度尋問を受けたりと。是如何なる方面の意図なるか。梅津か阿南か、要するに末期的現象なり。或いは独の降伏によりて、「軍」が神経過敏となりたるか。

 ・・・(以下略)
---------------------------------
5月24日

 去る16日上京。18日午前、富田氏
(第2次・第3次近衛内閣書記官長)を平塚に訪問す。平塚駅より徒歩にて向ふ途中、酒井中将に邂逅、中将も亦富田氏を訪問さるる由同行す。案内を請へば既に先客あり、河相達夫氏なり。4人昼食を共にしつつ種々時局談あり。河相氏は、公の蹶起を促す由を説き、公側近者、殊に小畑、石原、両中将の和解を説き、且つ自信ありと述ぶ。河相氏先づ暇を告げ、酒井氏之に続く。余は残つて吉田茂氏等の事件を聞く。

 憲兵に挙げられたるは、吉田茂、殖田俊吉、馬場恒吾、岩淵辰雄等の諸氏にして、原田男は自邸にて4日間の取調べを受け、且つ家宅捜索を受け、樺山愛輔伯も亦家宅捜索を受けたりと。その主謀は東京憲兵隊の高坂某にして、東条系に属し居り、目的とする所は、是等諸氏を尋問することにより、和平運動の証拠を発見し、ひいて近衛公を陥入れんとしたるものの如く、原田男に対しても近衛公の上奏文の内容をしきりと問ひ訊し、又小畑中将も一二尋問せられたるも、その際も、しきりに上記の内容をさぐらんとせり。然し乍ら、和平運動なるもの存在せず、且つ何等証拠となるべき物品の発見なかりし為、単に吉田茂氏軍誹謗の罪に陥入んとしつつあり。又憲兵隊内部の事情を見るに、高坂某は東条との連係あり、且つ軍の内部にも、一部近衛系を弾圧すべしとの気風あるを以て、自己の利益の為此の挙に出でたるものの如きも、その上層方面に意外の反響を呼びたると、何等実跡なかりし為、却つて窮境にあるものの如し。即ち吉田氏の尋問に対する態度の立派なるを賞揚する等のことあり。

 又近衛公はこのことの起こりて後数日、木戸内大臣を訪問「憲兵がしきりと上奏文の内容を求めつつあるも、如何なる意図を以て斯の如き挙に出るや、余は理解し難きを以て、阿南陸相と会見し、事の理非を問ひ質さん意向なり。余は重臣として、御上の御召しにより、率直に自己の所見を申し上げたるまでにて、その時何の御咎めもなかりしが、今憲兵によりて、その内容を調べらるるいはれなし。かくては重臣としての責を尽す能はざるを以て、此の際位階勲等一切を、拝辞する決心なり」と語りたる所、内府は、直接阿南と会ふ前に、内府が阿南と話をなすべきを以て、一応思ひ止まられたしとなだめられたりと。原田男は病中なればとて、4日間憲兵泊まり込みて取調を為したり。


 ・・・(以下略)
---------------------------------
6月11日

 ・・・
 今日午後、高村警察局長を大阪府庁に訪問、その話に、議会は多少もめ居ること。又大阪の陸軍の司令官は、「此の際食糧が全国的に不足し、且つ本土は戦場となる由、老幼者及び病弱者は皆殺す必要あり、是等と日本とが心中することは出来ぬ」との暴論を為し居たりと。又過日の空襲の際、梅田の憲兵司令は、一老婦人が空襲中窃盗を為したりとの嫌疑を以て此の婦人を駅の黒板下に繋ぎ、黒板にその由を印したりと。又この憲兵は、昨日の日曜に映画館の前に列をつくり居たる者を捉へ、強制労働を為さしめ、而して営業用のパンをパン屋より強制買上げを為し、是等労働を為したる者に分ち与へたりと。その為パン屋は営業不可能となりたる由。何れも非常識なる男なり。
 空襲後の輿論調査は、挙げて軍への不信と怨嗟の声なるも、是亦彼等自らが作りたる結果なり。又大阪にても、和平運動(実は軍誹謗)を取締まる由。
 


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近衛の上奏「戦争終結の御勇断を…」と天皇の拒否

2011年08月03日 | 国際・政治
 下記は、近衛が昭和20年2月14日に拝謁し、天皇に戦争終結の「御勇断」を迫った上奏の全文である。「細川日記」細川護貞=著(中公文庫)の3月4日の記述の中にある。天皇がこれを受け入れ、戦争終結を決断していれば、300万人を超える戦争犠牲者が出ることはなかった。3月10日の東京大空襲をはじめとする多くの都市無差別爆撃も、沖縄戦も、広島・長崎の原爆投下も、シベリア抑留も、満州に於ける民間人の犠牲も、戦地に於ける大勢の日本兵の餓死や病死もなかったのではないかと悔やまれるのである。

 天皇が、この上奏を斥けたのは「もう一度戦果をあげてからでないと…」という理由によってであったが、もう一度戦果をあげてから交渉に臨もうとする考え方は、当初、近衛周辺にもあったようである。ただ、戦争終結を進言した近衛も、「国体護持の立場よりすれば…」と言っていることから分かるように、日本国民の犠牲を考慮して進言したのではなかったのであり、そのことはしっかり理解しておく必要があると思う。国民の犠牲ではなく、「国体護持」が問題だったのである。
---------------------------------
昭和20年3月

3月4日
 昨3日、湯河原に公(近衛)を訪問。例のモロトフと佐藤と会見の電報を手交。内容は我より中立条約延期の意志を確めたるに対し、モロトフは逃げを打ちて明答せず、単に現状の維持を確約するのみ。又太平洋問題調査会の報告には、我皇室に対し極端なる論を為せるもの多くありたり。公は是を一読し、「どうも段々悪化して来た」と嘆ぜられたり。相客もありたるを以て匆々辞去。
 去る28日公より託せられたる上奏案を此処に写す。是は高松宮殿下の御覧に供する為なり。

   昭和20年2月14日拝謁上奏
 敗戦(この敗戦の言葉は言上の時危機と改められたりと)は遺憾ながら最早必至なりと存候。
 敗戦は我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日迄の所国体の変更とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)。随つて敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なしと存候。

 国体護持の立前より最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。
 つらつら思ふに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。
 即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我国民はソ連の意図を的確に把握し居らず、かの1935年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相安易なる見方と存候。

 ソ連が、窮極に於て世界赤化政策を捨てざる事は、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により、明瞭となりつつある次第に御座候。ソ連は欧州に於て、其周辺諸国にはソビエト的政権を、爾余の諸国には少なくも親ソ容共政権を樹立せんとて、着々其工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。


 ユーゴーのチトー政権は、其の最典型的なる具体表現に御座候。波蘭(ポーランド)に対しては、予めソ連内に準備せる波蘭愛国者聯盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押し切り候。羅馬尼(ルマニア)、勃牙利(ブルガリア)、芬蘭(フィンランド)に対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒトラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビィエット政権に非ざれば存在し得ざる如く強要致し候。イランに対しては石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、内閣総辞職を強要いたし候。

 瑞西(スイス)がソ連との国交開始を提議せるに対し、ソ連は瑞西政府を以て親枢軸的なりとて一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。
 米英占領下の仏蘭西(フランス)、白耳義(ベルギー)、和蘭(オランダ)に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は何れも政治的危機に見舞われつつあり。而して是等武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座候。

 独乙に対しては波蘭に於けると同じく、已に準備せる自由独乙委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図あるべく、これは英米に取り、今は頭痛の種なりと存ぜられ候。
 ソ連はかくの如く欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の立場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引きずらんと致し居り候。ソ連の此の意図は、東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコウより来れる岡野(野坂参三)を中心に、日本開放聯盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊と連携、日本に呼びかけ居り候。


 かくの如き形勢より推して考ふるに、ソ連はやがて日本の内政にも干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候。(即ち、共産党公認、共産主義者入閣──ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く──治安維持法及び防共協定の廃止等々)
 翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及び之を背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候。

 右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候。皇族方の中にも此の主張に耳傾けらるる方ありと仄聞いたし候

 職業軍人の大部分は、中以下の家庭の出身者にして、其多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、只彼等は軍隊教育に於て、国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。
 抑も満州事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事、今や明瞭なりと存候。満州事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名な事実に御座候。支那事変当時も、「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新は出来なくなる」と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。
 是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取り巻く、一部官僚及び民間有志(これを右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。


 此の事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思ひ当る節々頗る多きを感ずる次第に御座候。不肖は,、此の間二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけ是等革新論者の主張を探り入れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。

 昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢いを加へつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を扇動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。
 一方に於て、徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひてもソ連と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又延安との提携を考へ居る者もありとの事に御座候。


 以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が、日一日と成長致しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、此の形勢は急速に進展可致と存候。
 戦局の前途に付き、何等か一縷でも打開の望みありと云ふならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存候。随って、国体護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。


 戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来、今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存候。彼等は已に戦争遂行の自信を失ひ居るも、今迄の面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼、左翼の民間有志此の一味と饗応して、国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成致し難き恐れ有之候。従って戦争を終結せんとすれば、先ず其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さへ一掃さるれば、便乗の官僚並びに右翼、左翼の民間分子も声を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに外ならざるが故に、其の本を絶てば枝葉は自ら枯るるものと存候。

 尚これは少々希望的観測かは知れず候へ共、もし是等一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、英米及び重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来英米及び重慶の目標は日本軍閥打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変わり、その政策が改まらば、彼等としても戦争継続に付き考慮する様になりはせずやと思はれ候。それは兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の立て直しを実行する事は、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存候。   以上  (公自筆和紙8枚)


 右上奏の時3点の御質問ありたることは、2月16日に記したるも念の為。一つは「梅津は、米国は我皇室を抹殺する意図なりと云ひ居るも、自分は疑問に思ふ」と仰せられ、二つは「陸海軍共敵を台湾沖に誘導するを得ば是に大損害を与へ得るを以て、其の後終結に向ふもよしと思ふ」由仰せられ、此の点極めて淡々と軍の上奏を御聴被遊様拝察したりと公の談なり。又木戸内府も「軍があんなことを申し上げるから困る」と云ひ居られし由。三には、軍の粛正につき、杉山は戦争を終結する時は、軍内部が動揺するから、自分が元帥になりて押さへると申し上げたる由にて、公は、元帥の肩書きでは押さへられまいと申し上げ、内府も笑ひたる由。而して「誰を以て粛軍するがよいかはわからぬ」と仰せあり、「三笠宮は阿南と云ふが」と仰せありたりと。公は是に対し、小畑、石原、宇垣等がある由、答へられたりと

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。        

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東条英機 独裁体制と陸軍機密費

2011年08月02日 | 国際・政治
  「細川日記」(中公文庫)の著者は細川護貞であるが、細川護貞が当時の戦局等の諸情報を集めるために要職にある多くの人物に接触し、それを日記に書き留めたのには訳がある。首相となった東条英機が、独裁体制を敷いて情報を統制したため、戦局についての正確な報告が天皇に伝わらない、と危機感を抱いた近衛文麿前首相が、天皇の弟・高松宮を通して天皇に情報を伝えようと考え、秘書官であった細川護貞に、各方面から情報を収集して高松宮に報告する任務を与えたからである。近衛文麿が細川護貞に与えた任務によって、この「細川日記」が生まれたといえる。したがって、随所で東条を論難しているが、その中からいくつかを抜粋する。

 それらは、戦局の悪化に対する責任追及や見通しの甘い作戦指導にたいする批判に止まらない。敵対者を召集して激戦地に赴任させたり、予備役に編入して活躍の機会を奪ったりしたこと、また、憲兵や特高警察を重用し、敵対者に圧力を加えたりしたこと、さらには、莫大な軍事機密費を利用しての関係者への物品供与等々であるが、下記は、それらに触れている部分である。「細川日記」細川護貞=著 (中公文庫)からの抜粋である。
---------------------------------
昭和19年2月7日

 午後4時、富田氏訪問。例の報告を受く。

 ・・・
 尚将軍(酒井中将)の話によれば、マーシャルは既に殆ど陥落、ブーゲンビル島は、3月迄の食糧を残すのみにて、玉砕すべきや否や協議中、ニューギニア亦2師全滅、更に救援の1師危し。ラバウルは補給の道なし。北千島には連日敵機飛来し投弾す。いづれ3月ともなれば上陸されん。又小笠原も本州も殆ど防備なければ、万一来ることあらば上陸されん。将軍は、最早万策尽きたと云はれたりと。富田氏は伊藤氏の話を引き、米国人は日本人を獣と見るを以て、或は毒ガスを使用するかも知れず、又天皇制を破壊するかも知れずと。富田氏と雑談し、昨年8月氏と軽井沢に於て話し合いたることが、はからずも今日現実に出来したるは、誠に残念なり。是と云ふも東条の責任なり。唯今日是を替へる方法も困難、且よしんばクーデターを為すも、御上(天皇)の御信任ある限り、クーデターは成功せざるかも知れず、現実の問題として、もう少し事態が悪化せざる限り、東条を退くるは不可能なるやも知れずと語り合へり。酒井中将は、かく迄なりたる上は、国体を維持するだけで充分なりとも云はれたりと。誠に悲しむべき事態なり。而も此の実情を、天聴に達する道なし。御上の聡明を蔽ひ奉り、国家をして滅亡の淵に立たしむ、彼等東条の輩、軍部は車裂きにするも尚足らざる也。
---------------------------------
昭和19年2月16日

 午後高松宮邸伺候。
 殿下の御帰邸御遅かりし由にて、十数分控室に御待ち申し上ぐ。今日言上申し上げたることは、2月7日の酒井中将の報告と、軍部内に於ける皇動派と統制派との、歴史的背景に就いて申し上げ、若し今日政変を為すとせば、皇道派を起用せらるる以外に道なきことを申し上ぐ。又第3には、万一此の戦が不利となりたる場合につき、殿下の御考慮を願ひ上げ、特に我国皇室の御維持については、特に御考慮願ひ度き由言上したり。殊に此の第3の問題につきては、今日迄の敵国の言論は、我皇室に言及し居る者は極めて少なきも、而しその故に安心するは早計にして、兎も角凡ゆる場合につき研究するを必要と考ふる由申し上ぐ。

 殿下は、「自分は今日の事態を以て、未だ絶望はし居らざるも、所謂絶対国防圏(小笠原よりトラック島を経て、ニューギニア西部の亀の頭の如き個所に到る線)を侵される場合は、負けと断ずるをはばからず。然れども此の如き認識は、東条を初め首脳部には、少なくも現在はなく、従つて海軍(恐らく課長級)としては、此の認識を持たしむる様努力し居る次第なり。又その時期については、マーシャルで敵は我方の手の中を見たらうから、3月の初めから4月にかけてのことだと思ふ。殊に千島並びに北海道に対しては、上陸作戦に出るであらう」との仰せなりき。余は、「古より、勝敗は兵家の常と申す諺も有之、勿論勝つことは望ましきことの第1なれど、勝つべき道が失はれたる場合は、一刻も早く、余力の充分ある中に鋒を収むるが宜敷様考へます。国家の生命の如きは永遠なるものにて、僅々一度の敗北の為、冷静なる判断を失ひて、国家を亡絶せしむるに到るが如きは、大なる誤りかとも考へます。然し乍ら今日一般には、日本本土をアッツ、キスカの如く焦土として、玉砕すべしとの議論横行致し居りまするも、夫は我国民の覚悟としては当然なること乍ら、指導者としては、永遠のことを考ふべきものと存じます」と申し上げたるに対し、殿下は、「玉砕と云ふ如きは、云ふ可くして実行不可能なり。足腰立たざるまで戦ふ如きは愚の骨頂にて、若し万一絶対国防圏を突破せらるることあらば、速かに休戦する、即ち成るべくよい負け方を考へねばならぬ」と仰せあり。東条初め戦争責任者は、恐らく最後迄政権に取りつき、責任を回避せんと努力すべく、その為かかる場合に於ても、非常に不利なる立場に立到るべきは明かにて、何卒此の絶対国防圏の考を国民にまで徹底せしめ、政府のズルズルベッタリの責任回避策を封ずる様致し度く存じます」と言上、殿下も、「自分も夫れをやりたいと思ってゐる」との御言葉あり、尚、「若し万一、皇室に累を及す如きことあれば、皇族の1人が、御上の御身替わりになればよいと思ふ」と仰せあり、粛然居住ひを正したる次第なりき。余は更に話題を転じ、「然し乍ら、此のまま敗北致すは誠に口惜しく、未だ今日に於ても、回復の希望なきにしも非ずと存じます。唯夫れには、東条内閣にては、不可能と存じますが」と申し上げたるに、前回と同様の御議論あり。「一体誰が出ればよいのか。又時期が間に合はんではないか」等の御言葉あり。又更に、「抑も国民が此の重大なる秋に当つて、自覚が足らん様に思ふがどうか」と御下問あり。余は、「夫は恐れ乍ら誤れる御観察と存じます。国民は事態を全く存じて居りません。仰せの如く此の非常の秋に当つて、呑気なるは事実でございますが、夫は知らざるが故に呑気なるわけにて、知らしむれば必ず粉骨砕身、御奉公申すと存じます。御仰せの通り、東条初め事態を楽観致し居る有様なるを以て、況や国民が楽観致すは当然と存じます」と奉答す。又辞去せんとして、マーシャル方面に御奮戦の音羽侯爵の御安否伺いたるに、「全く消息が絶えて居るからわからぬが、何万人と云ふ国民が死んで居る時に、皇族の1人が戦死されたることは、御本人及び御遺族に対しては御気の毒だが、善いことだと思ふ」と仰せありたり。誠に今日の御話には、恐れ多きことのみ多かりき。9時退下
 
---------------------------------
昭和19年3月13日

 午後5時、華族会館にて近衛公と面談。今夕7時高松宮邸へ伺候すべきにより、意見をたゝく。別して意見なし。
 7時、高松宮邸伺候、直に拝謁。例の酒井中将の報告を申し上げ、万一我が国が最悪の情勢に陥入りたる場合、如何なる方法によりて、此れより脱出すべきかにつき、先づ宮殿下を内閣の首班に奉戴せんとする説あり、又臣下の者を以てせんとするものあり、何れも一長一短あれど、要は軍部殊に陸軍にして、若し万一中途半端なる方策をとる場合は、効果は却つて逆となることもあるべきこと。而して今日の軍指導者に対する不信は、国の内外を問わざるを以て、全然別派を以て代置せざるべからず。而して別派とは所謂皇道派にして、人物としては、柳川、小畑あること。然れども此の皇道派に対しては、恐れ乍ら、従来とも御上の御覚え宜しからざる様、洩れ承り居るも、此の点拝聞するを得ば幸ひなること。又然らば所謂最悪の事態とは如何なる時期かと云へば、酒井氏によれば、既に今日その時期にして、一日も早く政治的解決を為すべきを云ふも、前回拝謁の時の御言葉には、トラックの線破れたる時との仰せなりしも、先般の敵の攻撃は如何なる程度に解釈すべきか。更に今日がその時期とせば、東条内閣を打倒せざるべからざるずも、東条自身は勿論、四囲の情勢は、是が更迭とは凡そ隔りたるものあり。従つて
政界の事情に通ずるものは、殆ど皆非合法のテロ以外に方法なしと申し居れり。唯一つ御上より御言葉を給はれば、最も円滑に更迭を為し得ること明瞭なれど、かかる政界の情勢を言上すべき方法なきこと、等を言上す
 ・・・(以下略)
---------------------------------
昭和19年5月10日

 ・・・
 又、「是は友人から聞きました話でございますが、上海辺りでは支那人が日本人と交際しますのは、結局、『お前は日本人らしくないから附き合ふのだ』と云ふことを申すと云ふことでありますが、この日本人らしいと云ふ考へ方は、無理なことを言つたり、乱暴をしたり、要するに国際社会に於て為す可からざる粗野なことをすると云ふ考へ方であつて、大陸に渡つた多くの軍人、殊に憲兵や民間人の中にもさうした者は非常に多く、従つて外人の目には、夫れが日本人であると思はれて居ると思はねばなりません。謂はば日本人全体の教養と申しますか、常識と申しますか、さう云つたものが欠けて居ると云ふことが、我国運の現状に大きな影響があつたと存じます」と言上せるも、殿下(高松宮)は、「憲兵は全く困つたものだ。最近は数も多くなるし、将校が逆に脅迫されると云ふ様なこともあつて、軍隊指揮の上からも重大な問題だ。夫れから徴兵と云ふことが、個人に対して懲罰と同様に行はれると云ふことで、是は重大なことだと思ふ」と仰せありたり。余は粛軍と云ふことを申し上げたる手前、柳川、小畑等の抱懐する方向と人事と、又その難易の度につきて言上、又柳川、小畑、酒井各将軍の性格等についても言上、殊に柳川中将が斯くなる上は唯ひたすら己を虚しうし、御上の仰せを畏むのみだと申して居りました、と言上す。殿下は「自分も全くさうだと思ふ」と仰せあり。ノートを御取り遊ばさる。かくて10時前退下。
---------------------------------
昭和19年9月11日

 ・・・
 又氏(富田氏)は某支那浪人の仲介により、田中隆吉中将より面会を再三申し込まれ、去る31日面会されたる所、田中氏は、彼が東条に4ヶ条の忠告を──東条とは満州に於て下僚たることありしを以て、東条の性格を知悉しあり、即ち衆人の面前にては、東条はすぐ威丈高になる癖ある男なれば、個人的に密かに面会したりと──発したるに東条は全然意見を異にすることを述べ、更に考え置く様にとのことなりしも、彼の考ふるには東条と云ふ男は反対の意見の男を、必ず殺す男なれば、自らの身辺も危しと思ひ急に早発性狂気の真似をなし、千葉病院に入院、少尉の軍医にその診断書を書かしめ、遂に予備役編入せられたり。然るに今にして考ふるに、戦争は最早負けなり。而して近々陸海軍自らが手を挙げる時期となるを以て、其時近公は出でゝ時局を収拾せらるる必要あり。然れども今公が和平を云々することは、身辺危険なるを以て、出来るだけ強硬論を主張せらるべしと。誠実の意面上に顕れたりと。11時より3時迄会見し、帰途平塚駅にて将校演習より帰途の十数名の将校が、酒気を帯びたるに会し、中の知り合いを叱して、此の時局もわきまへず、白昼より酒を呑むとは何事だと大声一喝し、「自分の如きは早くやめてよかった。今に軍服等着られなくなる時がきますよ」と云ひたりと。又田中氏は次の陸相として、板垣氏を推し居たりと。
 ・・・
---------------------------------
昭和19年10月1日

 5時、海軍懇談会あり、矢牧大佐、伏下大佐、中山中佐、佐々、湯川、矢部氏等出席。中山中佐は、飛機の生産が昨年暮れより低下し居り、予定のカーブは2月頃より急に上昇すべかりしも、凡ゆる方面の努力に不拘、生産低下するは不思議なりと云ひ居れり。其他雑談にて9時散会。

 尚余は旅行中にて知らざりしも、松前重義氏は東条の為一兵卒として招集せられ、去る7月東条内閣退陣後2日に発令、熊本に入営せりと。初め星野書記官長は電気局長に向ひ、松前を辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に招集したるなりと。海軍の計算によれば、斯くの如く
一東条の私怨を晴らさんが為、無理なる招集をしたる者72人に及べりと。正に神聖なる応召は、文字通り東条の私怨を晴らさんが為の道具となりたり。

---------------------------------
昭和19年10月15日

 去る13日午後4時、富田氏を訪ね、前日公に尋ねたる元老設置の件を話し、何とかして東条を重臣と為さざるよう努力せらるることを依頼す。

 5時半、寺田甚吉氏邸に近衛公、野村大将、酒井中将、富田氏と共に招かれ、食後種々の談話あり、公は対ソ接近の危険を説き、重光も同意見なるも、東郷はむしろ親ソ論者なりと云はれたる所、野村大将は、戦後は何れにせよ赤化せざるを得ざるを以て、親ソも亦一つの政策なりと云ひ、「今日我が邦ぐらゐ共産主義の徹底せる国家なし」とて笑はれたり。尤も此の調子は、事皇室のこととは離れての意味なる様思はれたり。

・・・

 14日午前9時、吉田茂氏の永田町の邸に行く。此日松野鶴平氏の招きにて、近衛公、鳩山氏、吉田氏等と共に深川に海の猟に行く。風強き為海産組合長佐野某宅にて雑談、帰途吉田邸に公、鳩山氏と立寄り雑談の際、白根宮内次官は東条礼讃を為し居る由鳩山に語り、一体に宮内省奥向に東条礼讃あるは、附け届けが極めて巧妙なりし為なりとの話出で、例へば秩父、高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物、衣服等の御土産あり、中に各顧問官夫々のイニシアル入りの万年筆等も交りありたりと。又牧野伯の所には、常に今も尚贈り物ある由。鳩山氏は東条の持てる金は16億円なりと云ひたる所、公は、夫れは支那に於てさう云ひ居れり、主として阿片の密売による利益なりと。共謀者の名前迄あげられたり。余も何かの会合で、10億の政治資金を持てりと聞けり。過日の海軍懇談会の折も、昨今の東条の金遣ひの荒きことを矢牧大佐語られたり。或いは多少の誇張もあらんも、多額の金を持参し居るならん。夜金子家を問うての雑談中、故伯の病革る頃、日々百人前の寿司と、おびただしき菓子、薬品等を、東条より届けたりと。鳩山氏は、「斯の如き有様なれば東条復活の危険多し」と云はれたり。
  
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする