司馬遼太郎の歴史観にかかわる文章を、司馬遼太郎自身の著書から抜粋し、いろいろ考えているのですが、彼は、『「明治」という国家』(日本放送出版協会)でも、やはり”明治は、リアリズムの時代でした。それも、透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした”と評価する一方、”昭和にはー昭和20年までですがーリアリズムがなかったのです。左右のイデオロギーが充満して国家や社会をふりまわしていた時代でした。どうみても明治とは別国の観があり、別の民族だったのではないかと思えるほどです”と酷評しています。
そうした考え方が源流となって、自由主義史観研究会が生まれたことは、「汚辱の近現代史 いま、克服のとき」藤岡信勝(徳間書店)、に書かれています。そして、それがさらに歴史修正主義や、「新皇国史観」と呼ばれるような考え方に、いろいろところでつながっていることを、私は見逃すことができません。
しばらく前、「明治の日推進協議会」という団体が国会内で、11月3日の「文化の日」を「明治の日」にしようという集会を開いたといいます。11月3日は1946(昭和21)年に日本国憲法が公布された日で、祝日法で「文化の日」と定められたわけですが、もともとこの日は、明治天皇の誕生日であり、大日本帝国憲法下の明治時代は「天長節」、明治天皇が亡くなった後は「明治節」と呼ばれる休日だったのです。「明治の日推進協議会」の集会開催の目的は、そのことに関連します。
「明治の日推進協議会」の集会では、”日本の近代国家立脚の原点は明治にある。しかしながら、かつての『明治節』はGHQ(連合国軍総司令部)の指導で変化を余儀なくされた。だから、再び明治の時代こそ大切だったとすべての日本人が振り返る日にしたい”というような決意が述べられたといいます。要するに、日本国憲法も「文化の日」もGHQの押しつけだから、“本来の姿”に戻したいということのようです。安倍総理の「日本を取り戻す」という主張も、そういうことではないかと思います。
自民党の元閣僚は、「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるというのが明治維新の精神だった。その精神を取り戻すべく、心を一つに頑張りたい」というような発言をしたことが報じられましたが、”神武天皇の偉業に立ち戻る”ということは、まさに”皇国日本”に戻すということではないでしょうか。
したがって、11月3日を「明治の日」にしようという主張も、また、「明治150年」に向けた関連施策を推進しようとする政府の動きも、皇国史観の復活や戦前回帰につながるものではないかと思います。司馬遼太郎が、そんなことまで支持するとは思えませんが、司馬遼太郎の明治を肯定的に評価する歴史観が、そうした動きに大きな力を与えるものであることは否定できないと思います。
だから私は、”明治は、リアリズムの時代でした。それも、透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした”などと評価できるものでなかったことを、日清戦争の実態や残されている様々な文書によって確認したいと思うのです。
歴史を辿れば、明治は、大日本帝国憲法の
”大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス”
にはじまり、
”兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々(ツカサヅカサ)をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親(チンミヅ゙カラ)之を攬(ト)り肯(アヘ)て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を・・・”
というような「軍人勅諭」や、
”朕惟(オモ)フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥(ソ)ノ美ヲ濟(ナ)セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此(ココ)ニ存ス・・・”
というような「教育勅語」のイデオロギーで人びとを縛り、皇国日本の教育を徹底した時代であったのではないでしょうか。そして、「天皇陛下万歳」を叫び、いさぎよく命を投げ出して戦うことが日本人のあるべき姿であると教育された人達が、昭和のはじめに活躍したのだと思います。したがって、昭和のはじめを「別国」ととらえたり、”別の民族だったのではないかと思える”と言ったり、「非連続」の時代ととらえることは客観性を欠く捉え方ではないかと思います。
また、それは、資料2に抜粋した”日清開戦直後に「太平洋戦争に連なる構想」”でも、明らかではないかと思います。旅順虐殺事件が南京大虐殺とそっくりであることはすでに触れましたが、朝鮮王宮占領から日清戦争に至る流れも、国際法無縁の差別的侵略行為で、昭和の始めの日本と少しも変わらないものだと思います。
だから、大政奉還による王政復古から、先の大戦における降伏まで、歴史を連続したものとして捉えることが、社会科学的に正しいのではないかと私は思います。
司馬遼太郎は『「明治」という国家』(資料1)に、
”イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに「絶対のうそ」があります”と書いています。その評価は私にはできません。でも、その考え方に基づけば、大日本帝国憲法にはじまる明治の時代の”正義の体系”は、天皇の人間宣言といわれる、昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」における
”朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。”
とのことばで、「うそ」であったことが明らかにされたということになるのではないかと思います。
下記の資料1は、『「明治」という国家』司馬遼太郎(日本放送出版協会)から抜粋しました。
資料2は『歴史の偽造をただす-戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』中塚明著(高文研)から抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第一章 ブロードウェイの行進
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リアリズムといえば、明治は、リアリズムの時代でした。それも、透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした。 ここでいっておきますが、高貴さをもたないリアリズム-私どもの日常の基礎なんですけれども-それは八百屋さんのリアリズムです。そういう要素も国家には必要なのですが、国家を成立させている、つまり国家を一つの建物とすれば、その基礎にあるものは、目に見えざるものです。圧搾空気といってもよろしいが、そういうものの上にのった上でのリアリズムのことです。このことは、何度目かに申し上げます。
そこへゆくと、昭和にはー昭和20年までですがーリアリズムがなかったのです。左右のイデオロギーが充満して国家や社会をふりまわしていた時代でした。どうみても明治とは別国の観があり、別の民族だったのではないかと思えるほどです。
右にせよ左にせよ、60年以上もこの世に生きてきますと、イデオロギーというものにはうんざりしました。イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに「絶対のうそ」があります。キリスト教では唯一神のことを大文字でGodと書きます。絶対であるところのGod。絶対だから大文字であるとすれば、イデオロギーにおける正義も、絶対であるがために、大文字で書かねばなりません。頭文字を大文字でFictionと書かねばなりません。 ここで、ついでながら、「絶対」というのは、「在ル」とか「無イ」とかを超越したある種の観念ということです。極楽はあるか。地理的にどこにある、アフリカにあるのか、それとも火星か水星のあたりにあるのか。これは相対的な考え方です。「在ル」とか「無イ」とかを超えたものが、絶対というものですが、そんなものがこの世にあるでしょうか。ありもしない絶対を、論理と修辞でもって、糸巻きのようにグルグル巻きにしたものがイデオロギー、つまり”正義の体系”というものです。イデオロギーは、それが過ぎ去ると、古新聞よりも無価値になります。ウソである証拠です。いま戦時中の新聞を、朝の食卓でコーヒーをのみながらやすらかに読めますか。あるいは毛沢東さんの晩年のプロレタリア文化大革命のときの人民日報をアタリマエの顔つきで読めるものではありません。ヒトラーの「わが闘争(マインカンプ)」を、研究以外に、平和な日曜日の読者として読めますか。すべては、時代がすぎると、古いわらじのように意味のなさなくなるものらしいですね。
昭和元年から二十年までは、その二つの正義体系がせめぎあい、一方が勝ち、勝ったほうは負けた方の遺伝子までとり入れ、武力と警察力、それに宣伝力で幕末の人や明治人がつくった国家をこなごなにつぶしました。
まあそんなことは、このたびの主題ではありません。
しかし、作家というものは、天の一角から空をつかんでくるようにしては話せない。すわっている座布団の下から話さねば落ち着かない。話していることも、自分の感覚でたしかに手ざわりのあるものしか話せないし、話す気にもならないものです。以上は座布団の下の話です。つまり私は戦車の中で敗戦をむかえ、なんと真に愛国的でない、ばかな、不正真な、およそ国というものを大切にしない高官たちがいたものだろう。江戸末期や、明治国家をつくった人達は、まさかこんな連中ではなかったろう”というのが、骨身のきしむような痛みとともにおこった思いでありました。それが、これから何を申し上げのかわりませんが、私の、座布団の下につながる話です。
さて、このシリーズだけに通用する定義ですが、明治を語る上で、明治時代とせずに、
ことさら、
「明治国家」
とします。明治時代とすると、流動体みたいな感じになりますが、「明治国家」としますと、立体的ないわば個体のような感じがするから、話しやすいんです。そんな国家、いまの地球上にはありません。1868年から1912年まで四十四年間つづいた国家です。極東の海上に弧をえがいている日本列島の上に存在した国家でした。そのような感覚で、私は、この机の上の物体を見るような気分で語りたいと思います。
ちょっと申しあげておかねばなりませんが、私がこれからお話しすることは、明治の風俗ではなく、明治の政治のこまかいことではなく、明治の文学でもなく、「つまり」そういう専門的な、あるいは各論といったようなことではないんです。「明治国家」のシンというべきものです。作家の話というのは、どうも具体的です。以下、いろんな具体的な例をあげますが、それに決していちいち即した
、それにひきずられるようなことはなさいませんように。それら断片のむれから、ひとつひとつ明治国家のシンはなにかということを想像してくだされば幸いなのです。
象徴ということばがあります。symbol 。十九世紀の世紀末に、フランスの文壇で、象徴主義というのが流行(ハヤ)りました。サンボリズム、シンボリズム。ボードレールに代表されます。具体的なコトやモノを示して、宇宙の秘密を感知するという大げさな表現形式です。日本には、明治末年から大正にかけて入ってきて、蒲原有明(カンバラアリアケ)、北原白秋、三木露風なども象徴詩を書きました。そのために、象徴という言葉や意味、概念がむずかしくなりましたが、そんなものじゃなくて、ごく簡単なものです。割符をご存じでしょう。古代、遠くへ使者を出したりするとき、木や金属を割ってその片方を、使者のしるしとして持たせる。受けとる方は、もう片方をもっていて、合わせてみて使者が本物であることを知る。ギリシャ語で、symblon というのは、割符のことだそうですね。それが、だんだん象徴という意味につかわれるようになった。わたしは、いろんな事例を割符として話します。あわせるのは、聞き手としてのみなさんです。 それらを合わせつづけることで、だんだん”明治国家のシン”という私のこのシリーズの主題を理解してくだされば、文字どおり私のしあわせです。小説も、割符の連続なんです。作者は割符の半分、つまり50%しか書けないものなんです。あとの50%をよき読者、よき聞き手が”こうだろう”ということであわせて下さるわけで、それによって一つのものになるのです。
第一回目ですから、右のようなゴタクをたくさんのべました。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第五章 生きつづける歴史の偽造
日清開戦直後に「太平洋戦争に連なる構想」
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福島県立図書館「佐藤文庫」に残された四十二冊の『日清戦争史』草案を読んでいくと、早くも日清戦争直後に、この「太平洋戦争に連なる構想」が見られる。
草案のなかに、『第十六編第七十二章第二草案』というのがある。「第七十二章 南方作戦に関する大本営の決心およびその兵力」と題された草案がそれである。その冒頭部分に次のような記述がある。
日本大本営が南方作戦の必要を感じたるはけだし一朝一夕のことにあらず。この議早くすでに二十七年八月九日の陸海軍参謀会議において本冬季間の作戦大方針を議するに当たり、〔会議の要旨は「季節許さざるが故にたとい海戦勝利を得るも作戦大方針第二期の作戦は、明年氷雪融解の期まで延期し、本年においてはまず大方針乙の場合における如く、朝鮮半島へ後続師団を送り敵を同島より駆逐し、明年作戦の地歩を占め置くべし」云々〕〕これに付随して一の動議となりて発生せり。
いわく「朝鮮半島に送るべき後続兵を一師団にとどめ他の一師団をもって台湾を占領し、本冬季を経過せん」と。しかるにこの議は同月三十日に至り「戦略上の関係によりあるいは一部の兵を派して冬季間台湾を占領することあるべし」との決議をなすに過ぎざりしといえども、南方用兵談の公然議に上りたるは実にこの動議をもって嚆矢とす。しこうしてこれよりその後、征台問題の議に上るただに一再のみにとどまらざりし。
そもそも当局がかくのごとく南方に意を用いたるはひとり当役における作戦上の関係のみにあらずして、大いに永遠の国是に考慮する所ありてしかるなり。故に当時大本営参謀佐官などにおいて研究せし議題、すなわち「もし我が国今後大決戦勝利を得、清廷和を請うの暁において東洋の平和を維持する戦略上清国をしていずれの部分を割譲せしむるを要するや」との案に対する意見書中にも、澎湖島、台湾の両島は他の二、三の要地と共に必ず我が領有に帰せざるべからざるの理由を反復詳論せり。
今他の地点に関する意見はしばらくこれをおき、単に該当両島に就いて論断せし所の大要を掲ぐ。
いわく「澎湖島は水深く湾広く四時風浪の憂い少なき良港にしてその位置は台湾海峡を扼し、黄海支那海の関鑰を占め、我が対馬とともに東亜無比の要衝なり。故に旅順、威海衛と共にこれを我が領有に帰し、もって清国の首尾を扼制(ヤクセイ)するときは、ひとりその抵抗力を微弱ならしむるのみならず、将来東亜の覇権を握り太平洋の海上を制するに極めて必要なり。
露国において侵略の政策を逞しうし東亜の平和を攪乱するの恐れあるものは英国なり。しこうして香港は実にその禍心を包蔵するの地たり。故によくこれを掣肘してその跳梁を制するに足るの要地は澎湖島の外また他に求むるあたわざるなり。
もし今回戦争の目的をして単に朝鮮を扶掖(フエキ)するに在らしめばすなわちやむ。いやしくも東洋全局の平和を将来に図るに在らしめば、必ずまずこの要地を軍港となし、ここに完全の守備を設けざるべからず。しかれども台湾海峡に孤立する澎湖島の領有を確実ならしむるには必ず台湾を併有し、これを約一師団の兵を駐屯して警戒せざるばからずこと論をまたず。
且つ欧州列国と馳騁して雄を東亜に争わんには、必ず新物産の収穫地を求めて財源を増やさざるべからず。しかるに呂宋(ルソン)(フィリピンのこと-中塚)は東西両洋交通の衝に当たり、後来(コウライ)東洋商業の中心たるべきは必然にして、我いやしくも好機会を得ば必ずこれを占領せざるべからざるの所とす。しこうして台湾は実にその階梯たるのみならず、琉球列島と相連接し地勢上より論ずるも我に併有するを至当となす。いわんや帝国の自衛防御上においても実に領有せざるべからざるの要あるにおいておや」と。
これによりこれを観るも初めより当局者がいかに南方に意を用いたるかを想像するに足る。
「二十七年八月九日」と言えば、日清戦争の宣戦の詔勅が出されて、まだ十日もたっていない、日清戦争のごく初期の話である。その日の陸海軍参謀会議で、早くも南方作戦が論じられているのである。しかも南方作戦については、その後、台湾の中国からの分割が問題になるにつれ、再三おこなわれ、しかもこの議論は、ただ日清戦争をどう戦うかということにとどまらず、「永遠の国是に考慮」してのものであったという。
フィリピン占領まで構想したこうした議論は、参謀たちの間のものであって、当時の政府の対外政策にはなっていないにしても、すでに日清戦争の開始早々の時に日本軍の中枢において、こうした議論が重ねられていたことは注目に値する。日清・日露の両戦争に勝利して、こうした構想が加速されたということはあるであろうが、「無敵皇軍の神話」が生まれて、非合理な戦略で突っ走った太平洋戦争への道が、日清・日露の両戦争に勝利して突然生まれたというものではないことに注目してほしい。
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