15年戦争の最中、漸減政策を装いつつ、裏では、軍とつながりのある人間に、大量の阿片や麻薬の売買をやらせ、そこから得られる収益の多くを機密費として不正に利用していたことは、明らかに日本の国家犯罪であった。また、今回取り上げる偽札の利用も、関係者が「とにかくこの仕事は問題が問題だけに、研究所内においてさえ極秘中の極秘たらしめる必要があり、工場を別棟にするなど苦労はつきなかった」といっていることからも分かるように、自国民にさえ知られてはならない犯罪行為であった。偽札の流通工作を担当したのは、岡田芳正中佐を機関長とする「松機関」であったが、実行役は、軍の嘱託の阪田誠盛であったという。彼は、当時上海を中心とする暗黒街を支配していた秘密結社「青幣(チンパン)」の幹部の娘と結婚して協力をとりつけ、青幣の首領、杜月笙の家に「松機関」の本部を置いていたというのである。ところが、「日中戦争裏方記」(東洋経済新報社)の著者岡田酉次は、そうした偽札工作の犯罪性には言及することなく、淡々と諸事実を書き連ねている。下記はその一部抜粋であるが、元陸軍登戸研究所所員、伴繁雄の著「陸軍登戸研究所の真実」(芙蓉書房出版)の「対支経済謀略としての偽札工作」と矛盾しない。
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Ⅴ 汪兆銘中央政府の頃
40 旧法幣の偽造による経済謀略
・・・
この頃華中の金融市場ではなお旧法幣が流通しており、別に派遣軍は軍票を発行して支払手段としていた。軍はこの軍票で現地軍の需要ををまかなうのはもとより、内地産業が華中方面に期待している中国物資も調達したが、物資によっては軍票の流通地域外から入手する必要があって、これの支払に要する外貨や旧法幣の入手に困った。そこで、山本大尉(山本憲三主計大尉)は従来の研究を基礎に、偽法幣を発行して華中で試用する件を起案して、上司の決裁を求めたのである。
この案では、中国の旧法幣(中央、中国、交通および農民の四発券銀行券)を対象として、まず使用紙質や印刷法の技術的検討を試み、しかるのちにこの偽紙幣をもって敵側奥地物資を引き出すとともに、このルートを利用して敵側の諸情報をも取得しようとする企画である。山本大尉はまずこの案を参謀本部の渡支那課長および影佐第8課長を経て陸軍省軍事課岩畔豪雄大佐(死亡)へ提出した。当時陸軍では、陸軍技術研究所を新設して作戦上極秘の技術研究を広くとり上げていたので、同研究所内の一部でも同一の構想がすでに取り上げられていた。岩畔大佐はこの双方の案を比較してみたところ、山本案が一歩進んでいると認め、彼を招致して二人でとくと話し合った。その結果、特に山本の熱意にもほだされて、彼はこれの実施を決意したのであった。すなわち岩畔は「君の計画は非常に面白いと思うが、君はこの専門外の仕事に情熱を打ち込んで行く決意ありや。君がいかにこの仕事に熱を入れ上げ、これを成功させたとしても、君の軍人としての出世の途にはならないと思うが、どうか」などと問いかけたところ、山本は「是非打ち込んでやってみたい」と答えたのである。
やがて山本は昭和14年7月、登戸の第9陸軍科学研究所の課長に転任して専心この課題の研究に取り組んだ。先般、この山本を訪れてみると、「立案の責任もあって引き受けたものの、経理部将校としてこの方面の技術がわかるわけでもなかったが、ものの順序としてまず民間の製紙会社に働きかけて紙幣用紙の基本的研究に取り組んだ。中でも紙幣に使われる紙にスカシを入れる技術については随分閉口もした。内地でこの面の研究を進める一方、現地部隊にも要請して法幣四銀行発行の現物を取り寄せ、いろいろと分析に取りかかった」という。
既述のごとく中国では、昭和10年秋英国の援助で幣制改革を断行し、前記4つの銀行に法幣の発行権を認めていたのであったが、所要紙幣の印刷は英国のウォーターロおよびトーマスの2印刷会社、または米国のバンクノート印刷会社等に請負印刷させていることも判明した。山本はいう。「研究の進捗に伴い、大蔵省印刷局からも印刷技術者の応援を得ることとなり、民間印刷会社からも機械を借り上げ、また製紙会社からは技術者の援助を受け、とりあえず5元と10元の法幣を試作するところまで漕ぎつけてやたらに喜んだものの、試作品を英米印刷品に比べてみると、英国型のスカシがむつかしく、米国製のものは印刷面に特質があって、偽造の容易ならざることを痛感した」と。
この頃私は現地にあって、この成り行きに関心を寄せていたが、たまたま統税局の新田高博顧問から最近流通している法幣の中に、紙幣の番号や記号に時々不審を抱かせらるるもののあることを報告され、その場ではトボケてすませたことがある。このことを山本に話してみると、「御説のとおり紙幣の番号や記号にも随分苦労した。偽造である以上、流通界には同一記号同一番号の紙幣が2枚生ずることは当然であり、そのうえ記号番号の標示文字は偽造防止のため特殊の技巧が必要なのである。また大量流通が始まると、梱包法から包装用紙、カガリ糸に至るまで発行銀行別に研究しなければならない。また銭荘等を利用するためには中古紙幣も混ぜ合わせなければならないが、流通過程で自然発生する中古紙幣を工場で生産することは容易のわざではない。とにかくこの仕事は、問題が問題だけに、研究所内においてさえ極秘中の極秘たらしめる必要があり、工場を別棟にするなど苦労はつきなかった」と語った。
やっとこの仕事に目鼻がつくまでに早くも2カ年が経過し、とてもそろばんにはなかなか乗らなかったようであるが、山本は「でも世の中には鬼もいれば神もあるのたとえ通り、かれこれと苦心する間に、太平洋上でドイツ潜水艦が拿捕した米艦の積荷の中に未完成の中国法幣が大量に発見された。どうした関係からか、これの売り込みを日本に持ち込んできた。もちろん日本がこれを買い取るわけもなく、まわりまわって上海の陸軍貨物廠に保管されているというニュースが入った。奇蹟と言えば奇蹟であった。早速これを引き取って利用したのであえるが、このことは単に紙幣の量的効果のみにとどまらず、その後の製作技術上にも多大の貢献をもたらした」という。
上海陸軍貨物廠に多量の新しい法幣が保管されているとの情報は、当時総軍司令部参謀部に勤務していた石光栄主計中佐(広島証券会長)が山本の耳に入れたものであった。私はこのことを知り早速石光を訪ねてみた。同氏は大学卒業後経理部将校となった人で、私の親友でもある。石光いわく「自分は総軍経理部員で参謀部第3課員も兼務していたが、上海貨物廠(廠長浅野忠道)を視察した際、厳重に衛兵を配置した倉庫の中に多量の法幣が保管されていることがわかった。額面で10数億元だっと記憶する。現品は中国銀行名で揚子江法幣と略称される小形のもので、ただ発行銀行の総裁印だけが押捺されていない。浅野貨物廠長は、外国貨幣の押収品として所定の法規に従い大蔵省と協議処理すべきものだと主張して現地処分に応じてくれない。自分は、この荷物は総裁印の押捺なき一種の印刷物に過ぎないという見解にたって総軍参謀部川本芳太郎大佐に電話連絡したうえ、松機関(現地偽法幣工作機関)の所管に移させたことを記憶している。これは恐らく重慶仕向けのものが、南方の軍隊に押収され、これが上海貨物廠に移送されたものと思う」と。
この話によると、前述ドイツ潜水艦による押収品云々とは別の物件であったかも知れない。私はついでに「松機関」の当時の活動状況等を石光に聞いてみた。石光は「当時松機関を主管していたのは上海陸軍部(部長川本芳太郎大佐)で、岡田芳政中佐もこれに関係し、民間人では坂田誠盛がその実務を掌握していた。坂田は、中国人関係の特殊工作で活躍した里見甫や海軍側では対重慶工作をやったといわれる児玉誉士夫等とともに、大いにその功績をうたわれた人士のようだ。坂田は杜月笙の子分徐釆丞と組んで、重慶との間の物資交流のための公司を設立した。この公司にはその後、楠本実隆からの連絡により、寧波方面の製塩業者代表や長崎医大出身の黄医師等もこれに参加した。彼らは各地に銭荘を新設して偽法幣を巧みに流通させるなど、この方面の仕事で大いに活動した。陸軍貨物廠にあった未完成の法幣印刷物も、額面価格の70%と評価して坂田氏配下の公司に交付したが、この印刷物に総裁印をうまく押捺して流通面に出すまでには、危険や苦労も相当多かったものの、動き出すとかなりの成果を挙げたのではあるまいか」と述べた。
・・・
いうまでもなく偽造紙幣の発行目的は、これを敵地区に放出して敵物資を取得するを第一義とし、さらには敵側法幣のインフレ傾向にも拍車をかけ、時には偽造紙幣が適地で発見されて法幣への不信感を引き起こさせる等、敵側戦時経済を幾分でも混乱させようというものであった。そこでこれらの成果につき、所見を山本に求めると、「対敵取引の仕事は自分の仕事というよりも上海陸軍部所属の松機関が担当していた。陸軍部は職業柄、敵側との物資交流の路線に乗っけて重慶情報を入手することを一任務としていたから、上海政財界の有力者で暗黒街にも顔のきく杜月笙の子分徐釆丞と組んで、民生、祐生の2商社を設立してこの仕事に当たらせたのである」と。
・・・(以下略)
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Ⅴ 汪兆銘中央政府の頃
40 旧法幣の偽造による経済謀略
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この頃華中の金融市場ではなお旧法幣が流通しており、別に派遣軍は軍票を発行して支払手段としていた。軍はこの軍票で現地軍の需要ををまかなうのはもとより、内地産業が華中方面に期待している中国物資も調達したが、物資によっては軍票の流通地域外から入手する必要があって、これの支払に要する外貨や旧法幣の入手に困った。そこで、山本大尉(山本憲三主計大尉)は従来の研究を基礎に、偽法幣を発行して華中で試用する件を起案して、上司の決裁を求めたのである。
この案では、中国の旧法幣(中央、中国、交通および農民の四発券銀行券)を対象として、まず使用紙質や印刷法の技術的検討を試み、しかるのちにこの偽紙幣をもって敵側奥地物資を引き出すとともに、このルートを利用して敵側の諸情報をも取得しようとする企画である。山本大尉はまずこの案を参謀本部の渡支那課長および影佐第8課長を経て陸軍省軍事課岩畔豪雄大佐(死亡)へ提出した。当時陸軍では、陸軍技術研究所を新設して作戦上極秘の技術研究を広くとり上げていたので、同研究所内の一部でも同一の構想がすでに取り上げられていた。岩畔大佐はこの双方の案を比較してみたところ、山本案が一歩進んでいると認め、彼を招致して二人でとくと話し合った。その結果、特に山本の熱意にもほだされて、彼はこれの実施を決意したのであった。すなわち岩畔は「君の計画は非常に面白いと思うが、君はこの専門外の仕事に情熱を打ち込んで行く決意ありや。君がいかにこの仕事に熱を入れ上げ、これを成功させたとしても、君の軍人としての出世の途にはならないと思うが、どうか」などと問いかけたところ、山本は「是非打ち込んでやってみたい」と答えたのである。
やがて山本は昭和14年7月、登戸の第9陸軍科学研究所の課長に転任して専心この課題の研究に取り組んだ。先般、この山本を訪れてみると、「立案の責任もあって引き受けたものの、経理部将校としてこの方面の技術がわかるわけでもなかったが、ものの順序としてまず民間の製紙会社に働きかけて紙幣用紙の基本的研究に取り組んだ。中でも紙幣に使われる紙にスカシを入れる技術については随分閉口もした。内地でこの面の研究を進める一方、現地部隊にも要請して法幣四銀行発行の現物を取り寄せ、いろいろと分析に取りかかった」という。
既述のごとく中国では、昭和10年秋英国の援助で幣制改革を断行し、前記4つの銀行に法幣の発行権を認めていたのであったが、所要紙幣の印刷は英国のウォーターロおよびトーマスの2印刷会社、または米国のバンクノート印刷会社等に請負印刷させていることも判明した。山本はいう。「研究の進捗に伴い、大蔵省印刷局からも印刷技術者の応援を得ることとなり、民間印刷会社からも機械を借り上げ、また製紙会社からは技術者の援助を受け、とりあえず5元と10元の法幣を試作するところまで漕ぎつけてやたらに喜んだものの、試作品を英米印刷品に比べてみると、英国型のスカシがむつかしく、米国製のものは印刷面に特質があって、偽造の容易ならざることを痛感した」と。
この頃私は現地にあって、この成り行きに関心を寄せていたが、たまたま統税局の新田高博顧問から最近流通している法幣の中に、紙幣の番号や記号に時々不審を抱かせらるるもののあることを報告され、その場ではトボケてすませたことがある。このことを山本に話してみると、「御説のとおり紙幣の番号や記号にも随分苦労した。偽造である以上、流通界には同一記号同一番号の紙幣が2枚生ずることは当然であり、そのうえ記号番号の標示文字は偽造防止のため特殊の技巧が必要なのである。また大量流通が始まると、梱包法から包装用紙、カガリ糸に至るまで発行銀行別に研究しなければならない。また銭荘等を利用するためには中古紙幣も混ぜ合わせなければならないが、流通過程で自然発生する中古紙幣を工場で生産することは容易のわざではない。とにかくこの仕事は、問題が問題だけに、研究所内においてさえ極秘中の極秘たらしめる必要があり、工場を別棟にするなど苦労はつきなかった」と語った。
やっとこの仕事に目鼻がつくまでに早くも2カ年が経過し、とてもそろばんにはなかなか乗らなかったようであるが、山本は「でも世の中には鬼もいれば神もあるのたとえ通り、かれこれと苦心する間に、太平洋上でドイツ潜水艦が拿捕した米艦の積荷の中に未完成の中国法幣が大量に発見された。どうした関係からか、これの売り込みを日本に持ち込んできた。もちろん日本がこれを買い取るわけもなく、まわりまわって上海の陸軍貨物廠に保管されているというニュースが入った。奇蹟と言えば奇蹟であった。早速これを引き取って利用したのであえるが、このことは単に紙幣の量的効果のみにとどまらず、その後の製作技術上にも多大の貢献をもたらした」という。
上海陸軍貨物廠に多量の新しい法幣が保管されているとの情報は、当時総軍司令部参謀部に勤務していた石光栄主計中佐(広島証券会長)が山本の耳に入れたものであった。私はこのことを知り早速石光を訪ねてみた。同氏は大学卒業後経理部将校となった人で、私の親友でもある。石光いわく「自分は総軍経理部員で参謀部第3課員も兼務していたが、上海貨物廠(廠長浅野忠道)を視察した際、厳重に衛兵を配置した倉庫の中に多量の法幣が保管されていることがわかった。額面で10数億元だっと記憶する。現品は中国銀行名で揚子江法幣と略称される小形のもので、ただ発行銀行の総裁印だけが押捺されていない。浅野貨物廠長は、外国貨幣の押収品として所定の法規に従い大蔵省と協議処理すべきものだと主張して現地処分に応じてくれない。自分は、この荷物は総裁印の押捺なき一種の印刷物に過ぎないという見解にたって総軍参謀部川本芳太郎大佐に電話連絡したうえ、松機関(現地偽法幣工作機関)の所管に移させたことを記憶している。これは恐らく重慶仕向けのものが、南方の軍隊に押収され、これが上海貨物廠に移送されたものと思う」と。
この話によると、前述ドイツ潜水艦による押収品云々とは別の物件であったかも知れない。私はついでに「松機関」の当時の活動状況等を石光に聞いてみた。石光は「当時松機関を主管していたのは上海陸軍部(部長川本芳太郎大佐)で、岡田芳政中佐もこれに関係し、民間人では坂田誠盛がその実務を掌握していた。坂田は、中国人関係の特殊工作で活躍した里見甫や海軍側では対重慶工作をやったといわれる児玉誉士夫等とともに、大いにその功績をうたわれた人士のようだ。坂田は杜月笙の子分徐釆丞と組んで、重慶との間の物資交流のための公司を設立した。この公司にはその後、楠本実隆からの連絡により、寧波方面の製塩業者代表や長崎医大出身の黄医師等もこれに参加した。彼らは各地に銭荘を新設して偽法幣を巧みに流通させるなど、この方面の仕事で大いに活動した。陸軍貨物廠にあった未完成の法幣印刷物も、額面価格の70%と評価して坂田氏配下の公司に交付したが、この印刷物に総裁印をうまく押捺して流通面に出すまでには、危険や苦労も相当多かったものの、動き出すとかなりの成果を挙げたのではあるまいか」と述べた。
・・・
いうまでもなく偽造紙幣の発行目的は、これを敵地区に放出して敵物資を取得するを第一義とし、さらには敵側法幣のインフレ傾向にも拍車をかけ、時には偽造紙幣が適地で発見されて法幣への不信感を引き起こさせる等、敵側戦時経済を幾分でも混乱させようというものであった。そこでこれらの成果につき、所見を山本に求めると、「対敵取引の仕事は自分の仕事というよりも上海陸軍部所属の松機関が担当していた。陸軍部は職業柄、敵側との物資交流の路線に乗っけて重慶情報を入手することを一任務としていたから、上海政財界の有力者で暗黒街にも顔のきく杜月笙の子分徐釆丞と組んで、民生、祐生の2商社を設立してこの仕事に当たらせたのである」と。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は、特に記憶したい部分です。「・・・」は、段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。