「昭和史の謎を追う」(文藝春秋)の著者・ 秦郁彦教授は、下記抜粋文にあるように、”政治家の出る国会討論会を見て、いつも思うことだが、論破されても「参った」とカブトを脱がぬ人士があまりにも多い。学問上の論争でも似た例は少なくないが、どうやら上奏文の真偽論争もこのたぐいらしい。”などと書いていますが、私は、それは日本の満州侵略の事実を直視しない議論のように思います。
また、”さすがに、わが国の史学界では戦前・戦後を通じ、本物説を取る論者は少なく、自虐的史観に立つ歴史学研究会系統の史家も「細かい記述について事実の間違があり、そのまま信用できないが、東方会議の決議の基本的方向を示すものとして屡々引合いに出されるのも無理からぬ」(傍点筆者、歴史学研究会編『太平洋戦争史』第一巻、1953)と同情的に書くのが精一杯だった。それも1971年の改訂版では「なにものかがつくりあげた偽書であると考えられる」と改めている。”などという記述にも、とても抵抗を感じます。
確かに、秦教授は、「田中上奏文」についていろいろ調べ、「偽書」であることを明らかにされたように思いますが、現在もなお、「田中上奏文」を本物と考える人が少なくない理由を、きちんと受け止めるべきではないかと思います。「偽書」であることを明らかにしたからといって、日本の満州侵略の事実や「田中上奏文」にあるような考え方が、なかったことになるわけではないことを忘れてはならないと思います。
現に、「田中上奏文」にあるような考え方が、日本の軍部に存在し、中国の主権を無視した行為によるトラブルも発生しています。だから、当時の中華公使・重光葵も、「田中上奏文」について、”日本軍部の極端論者の中には、これに類似した計画を蔵したものがあって、これら無責任なるものの意見書なるものが何人かの手に渡り、この種文書として書き変へられ、宣伝に利用されたもの、と思はれる。要するに田中覚書なるものは、左右両極端分子の合作になったものと見て差支へはない。而して、その後発生した東亜の事態と、これに伴ふ日本の行動とは、恰かも田中覚書を教科書として進められたやうな状態となったので、この文書に対する外国の疑惑は拭い去ることが困難となった。”と嘆いたのです。私は、”この文書に対する外国の疑惑は拭い去ることが困難となった。”という思いを忘れてはならないと思うのです。
また、「田中上奏文」が、それまでの幣原喜重郎外相の協調路線を軟弱として批判し、「対中外交」の積極方針に転換した田中義一政友会内閣成立後のものであった経緯も踏まえる必要があると思います。
さらに言えば、日本は明治維新以来、「田中上奏文」にあるような、”支那を征服せんと欲せば、先づ満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ず先づ支那を征服せざるべからず。……之れ乃ち明治大帝の遺策にして、亦我が日本帝国の存立上必要事たるなり”というような考え方で、休むことなく領土を拡張し続けていたと思います。したがって、少し時計の針を巻き戻せば、「田中上奏文」に、”満蒙を征服せんと欲せば、朝鮮を征せざるべからず”という一文を加えることになっていたのではないかと思います。
なぜなら、朝鮮民族の独立闘争が、1919年三月一日の民族大蜂起になるまでに発展し、朝鮮に接する満洲の間島地方が朝鮮独立運動の重要拠点となると、日本はそれを弾圧するために、満洲の「治安維持」が日本の権利であるかのように主張し、日本政府は、「禍根ヲ一掃シ我接壌地帯ニ対スル脅威ヲ芟除スル」を口実に、中国側の反対にもかかわらず、中国領土に軍を侵入させているからです。まさに、朝鮮を征し、その結果起こった朝鮮独立運動による混乱を利用して、満州を征しようということになるからです。
「岩波講座 日本歴史20 近代7」(岩波書店)で、そうした領土拡張の歴史を簡単にふり返ると、まず、朝鮮をめぐって争われた日清戦争後の下関条約で遼東半島(三国干渉で返還)や台湾を取得しています。
また、日露戦争の和平交渉が進むなか、樺太攻略作戦を実施し、樺太全島を占領しました。そして日露戦争後のポーツマス条約によって、日本は遼東半島(関東州)の租借権、東清鉄道の長春~大連の支線、朝鮮半島の監督権を得、その後、韓国を併合しています。
さらに、第一次世界大戦中の「対華ニ十一ヶ条の要求」でも、領土拡張の姿勢が貫かれていたと思います。
そして、田中内閣の下で、外務省・軍関係者・中国駐在の公使・総領事などを集めた対中政策についての「東方会議」が開かれ、「対支政策要綱」が発表されているのです。田中内閣成立の翌年の1928年には、「済南事件」や「張作霖爆殺事件」を起こしています。
特に満州に関しては、第二次桂内閣が決定した「対清政策」において、すでに日本の満州における「特殊の地位」について
”同国ニ対スル帝国ノ関係ハ政事上並ニ経済上極メテ密接ナルモノアルヲ以テ、帝国ハ如何ナル場合ニ於テモ常ニ同国ニ対シ優勢ナル地位ヲ占ムルノ覚悟ナカルベカラズ。加フルニ帝国ガ現ニ満州ニ於テ有スル地歩ハ容易ニ之ヲ抛擲スベキモノナラザルヲ以テ永ク現在ノ状態ヲ将来ニ持続スルノ策モ亦今日ニ於テ之ヲ講ゼザルベカラズ。[中略]帝国ハ列国ニ共通ナル事項ニ関シテハ列国ト協同シテ同一ノ歩調ヲ取リ……満州ニ於ケル我特種ノ地位ニ関シテハ、漸次列国ヲシテ之ヲ承認セシムルノ手段ヲ取ルベシ”と考えられていました。
また、清浦内閣の外務、陸軍、海軍、大蔵四省協定の「対支政策綱領」は、「満蒙ニ於ケル秩序ノ維持ハ帝国ニ於テ該地域ニ対スル重大ナル利害関係殊ニ朝鮮ノ統治上特ニ重要視スル所ナルヲ以テ之ガ為常ニ最善ノ注意ヲ払ヒ且自衛上必要ト認ムル場合ニハ機宜ノ措置ニ出ルコト」とし、「満蒙」の秩序維持を日本の任務・権利であるかのように位置付けているのです。
また、日本の「特殊利益」をアメリカにも認めさせようして、1917年六月、政府は石井菊次郎を特派大使としてアメリカに派遣していますが、そのさいの内訓には、日本が中国に有する権益は経済的にははるかに米国をしのぎ”政事上ノ方面ニ至リテハ帝国ノ有スル利益ハ欧米諸国ノ比儔(ヒチュウ)ヲ絶シ特殊且緊切ニシテ適サニ自国ノ安危休戚ニ関スルモノアリ”とあり、したがって、何国といえども帝国の地位を無視しまたは損傷するような方法で政治勢力を扶植することあれば、”帝国ハ自衛ノ措置ヲ講ゼザルヲ得ザルハ当然ノ情勢ナリトス”とあるのです。
またこの内訓は、南満東蒙については”其特殊利益ニ影響ヲ及ボスベキ事業例ヘバ鉄道・鉱山等ノ経営ニ関シ、外国人ガ日本トノ協定ナクシテ支那官憲ト契約シ直接ニ支那官憲ニ対スル権利義務ノ主体トナリテ投資ヲ行フハ、帝国政府ニ於テ我特殊利益擁護ノ責務ニ顧ミ到底黙視スルヲ得ザル所ナリ”として、完全に中国の主権を否認し、あたかも「南満東蒙」が日本の領土であるかのような内容になっているのです。
したがって、「田中上奏文」の考え方は、多少の強弱の変化はあっても、明治維新以来一貫して存在していたと、私は思います。そして、「田中上奏文」の背景には、すでに取り上げた『宇内混同秘策』の著者・佐藤信淵や、「幽囚録」の著者・吉田松陰の考え方、さらには、
”かくして政治の基を立て、教えを明らかにして、兵はかならず天つ神の命を受け、天人一体、億兆一心、祖宗の徳をあらわし、功業を掲げて国威を海外にひろめ、夷狄を駆逐して領土を開拓すれば、天祖の御神勅と天孫の御事業に含まれた深い意味ははじめて実現されのである”(「国体中」会沢正志斎)
や
”神の御子孫がよくその明らかな徳をうけつがれ、臣下たる公卿士庶のものがみなその広大な御恩に感じ、孝と敬の道をひたすらつくして天照大神の御威霊をおしひろめるならば、ひとり日本の人民がかぎりない徳化に浴するばかりでなく、遠く海をへだてた外国の国々もまた、わが国の徳を慕い、その恵みを仰ごうとしないものはなくなるであろう。実にすばらしいことではないか。”「弘道館記述義 巻の上」藤田東湖)
というような、「皇国日本」の教えがあったのだろうと思います。
したがって、「田中上奏文」が、現実に存在した考え方をまとめたものであるとすれば、それがたとえ「偽書」であったとしても、国際連盟理事会の席上で松岡洋右代表と論戦した中国代表・顧維鈞の”偽書であるかはともかく、「田中上奏文」に記された政策は、満蒙の支配や華北と東アジアにおける覇権の追及を説くものであり、数十年来に日本が進めてきた現実の政策そのものである”という主張は、きちんと受け止めるべきだと思います。
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「昭和史の謎を追う」秦郁彦(文藝春秋)
第一章 田中上奏文から『天皇の陰謀』まで
上奏文をめぐる真偽論争
ところで、田中上奏文が本物ではなく、偽作である証拠は、専門家たちによって早くから指摘されていた。表1(略)はわかりやすい項目を抜き出したものだが、いずれも上奏文にあるまじき単純ミスばかりで、これだけ材料がそろえば、偽作の証拠としては充分すぎるだろう。
しかも、記述ミスは上奏文の執筆時期に貴重なヒントを与えてくれる。つまり、吉海鉄道の開通と国際工業動力会議の日付に前記の堀内電気を加味すると、昭和四年六月から八月あたりにしぼられてくるのだ。
ところが、上奏文=本物説は消滅するどころか、何度も息を吹き返しては生きのび、現在に及んでいる。東京裁判の法廷でも真偽が論じられ、判事団の大勢は偽作と認めたのか、判決文には引用しなかったが、ソ連や中国はその後も公式には本物説を捨てていない。
たとえば、1960年ニ月、フルシチョフ・ソ連首相は、インドネシア議会での演説で「田中の神がかり計画」に言及しているし、1976年に刊行された『蒋介石秘録』第七巻サンケイ出版)は「田中上奏文の内容の真実性は歴史が証明するとおりである」として、要点と入手経路(後述)を詳しく紹介している。
中国大陸でも、南開大学の兪辛焞教授が書いた「中国における日本外交史研究」(『愛知大学国際問題研究所紀要』73号、1983)によると「中国史学界では偽造説もあるけれども、本物であるとする説が多数」だそうである。兪教授自身は、東方会議に関する日本外務省のマイクロフィルム史料を分析した結果、会議では上奏文に書かれた内容が審議されていないことから、本物説に疑問を呈す立場をとる。
上奏文問題に限らず、日中戦争期に関する史的争点については、概して中国よりも台湾の方が硬直した姿勢を示すが、これは台湾の置かれた国際政治的条件に起因するのかもしれない。
さすがに、わが国の史学界では戦前・戦後を通じ、本物説を取る論者は少なく、自虐的史観に立つ歴史学研究会系統の史家も「細かい記述について事実の間違があり、そのまま信用できないが、東方会議の決議の基本的方向を示すものとして屡々引合いに出されるのも無理からぬ」(傍点筆者、歴史学研究会編『太平洋戦争史』第一巻、1953)と同情的に書くのが精一杯だった。それも1971年の改訂版では「なにものかがつくりあげた偽書であると考えられる」と改めている。
政治家の出る国会討論会を見て、いつも思うことだが、論破されても「参った」とカブトを脱がぬ人士があまりにも多い。学問上の論争でも似た例は少なくないが、どうやら上奏文の真偽論争もこのたぐいらしい。
古くは1932年十一月、国際連盟理事会の席上で松岡洋右代表と論戦した顧維鈞中国代表は、「この問題の最善の証明は、実に今日の満州における全事態でる」と反ぱくした。つまり真偽は問題ではなく、上奏文が出たあとの日本の行動が事実を証明している、との論法だった。
東京裁判でも、秦徳純証人はやはり真偽論争を避け、顧維鈞と同じ論法で切り抜けている。歴研旧版の『太平洋戦争史』もこの亜流で、上奏文問題に関するかぎり近年は影をひそめたが、他の分野ではこの種の論法はまだまだ通用するようだ。