「わが南京プラトーン 一召集兵の体験した南京大虐殺」東史郎(青木書店)の著者は、戦時中、第十六師団福知山歩兵第二十聯隊第一大隊第三中隊に所属し、歩兵上等兵として南京攻略戦に関わった人である。著者は、帰国の途次マラリアのために下船し、南京病院に入院した。そのため、数ヶ月後に一人帰国し除隊することになったおかげで、自分の行軍「日記」を持ち帰ることができたという。そして、自分自身のために、また、子孫のためにその記録を手記として残す目的で清書したという。彼はその「まえがき」で下記のように書いている。
”この本は、加害者としての私の実録であるが、戦争の実相を多くの人に知っていただき、二度と再び日本人が戦争加担しないこと、そして永久に日中友好を発展させることが、戦場で命を失ったわが戦友への最高最大の慰霊であると思う。”
と。なぜなら、
”強姦・略奪・虐殺・放火……南京占領前後の一ヶ月に繰り広げられた日本軍の悪行を、私はみずから体験し、見聞きした。だが、こうした悪行の数々は、当時日本国民には、いっさい知らされなかった。政府のきびしい言論統制によって、戦場の実相は、国民からおおいかくされたのである。”
という現実があったからであり、また、戦後も日本の政府は、そうした歴史の事実を明らかにしようとしてこなかったからであろうと思う。
また、巻末に寿岳章子氏の「真実をみつめて」という文章があり、それは、”隠蔽からは何も生まれない。真実を知ることからこそ未来への展望がある。”という文章で終わっている。
現在、日本国内のみならず、海外からも日本の歴史認識に懸念の声があがっている時だけに、印象深い。ここでは、南京陥落の日(12月13日)と、その次の12月21日の前半部分のみを抜粋した。
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12月13日
午前7時に整列した。
「南京は、すでに昨夜、陥落せり。わが部隊も、ただ今から入城する!」
中隊長が得意げに宣言した。
おゝ!ついに落ちたか!
兵隊たちの顔がゆるみ、肩をたたき合って祝福した。兵士たちの興奮の渦。
私には、はたと思い当たるふしがあった。昨夜10時ごろに、ぴたりととまった敵の銃声。それが本丸の陥落とともに敗走に移った敵の合図だったのだ。
もし、中隊長に勇気があったなら、あのとき前進して、我々の手で一番乗りの栄誉を手にできたかもしれないのだった。
しかし、我々の夜襲によって敵の最後の抵抗は破られ、完全占領が可能になったといえる。
わが第一分隊は、負傷者の護衛収容を命じられた。私は、分隊長代理として兵7名を連れ、城内に残った。
残敵の襲撃にそなえ、負傷者3名を地下室へ運ぶ。
その一人は、手と脚をやられており、昨夜から出血が止まらない。軍医も衛生兵もいないここでは、言葉でなぐさめるより外に何もしてやれない。
外は小春日和。いたるところに敵兵の死体が転がっている。
敵は、よほど狼狽して逃げたらしく、幾千という弾薬が封も切らずに放置されていた。
中山門へ面した方向には、幾重にも張りめぐらされた鉄条網が朝日に光っている。
足元に、まだ息のある敵兵を見つけた。銃を持ち直し、とどめを刺そうと構えた。
すると、彼はかすかに目を開き、ぜいぜい鳴る息の下で何かつぶやき、重たげに手をあげた。
私は殺すのを待った。
彼は懐中から小さな手帳を出し、震える手で万年筆をにぎった。懸命に何かを書きつけている。それを私にさし出した。
そこには五文字の漢字が書いてあるのだが、判読できなかった。
彼は最後の渾身の力をふりしぼって、五文字を書くのがやっとであった。書き終えたとき、かすかな笑みが表情に浮かんだ。
これは何だろう。本当は何と書いてあるのか。手紙か、それとも遺言だろうか。
彼の顔には、すでに死相が出ていた。しかし、夢見るような微笑を浮かべていた。
私は急に、この男をいとおしく感じていた。
刺殺をためらっている様子を見て大嶋一等兵が「東さん、殺そうか」と聞いた。
「さあ……」──私はあいまいに答えた。
「どうせ死ぬんだから殺そう」と大嶋は剣をかまえた。
「待て。突かずに射ってやれ」
銃声が響き、男はもう動かなかった。
後方の塹壕のなかには、白粉(オシロイ)のビンや紅いハンカチ、女物の靴などが散乱していた。娘子軍がいた壕だったのだろう。全員逃げ出せたのか、死体はなかった。
朝日のなかを我々は身も心も軽く、四方城通りの舗装路を歩いていた。
高い城壁と堀が現れた。橋は破壊され、人一人がやっと渡れる。中央に三つの大きな門があった。夢にまで見た、あこがれの門だ。突撃する何人もの戦友が傷つき、死んだ門でもある。
「大野部隊、13日午前3時10分占領」
おゝ、大野部隊の一番乗りだったのか。
新聞記者がしきりと写真をとっていた。
どの部隊の兵士の顔も明るく、髭面が笑っている。
南京市街は、ほとんど破壊されていなかった。どの家も表戸を堅く閉ざし、住民はほとんど歩いていない。
私たちは口笛を吹きながら歩いた。
「昨日入城式があったんだよ。大野部隊代表として第一大隊が参列した。お前たちがいなかったけれど、入城式に参加したことになっているよ」
戦友はこういった。
「あたりまえだよ。最後まで戦闘に参加したのだし。命令で負傷者の収容に残ったのだから」
私たちが広場に集合して歩哨配置から宿舎割に時を過ごしているうちに、突然捕虜収容の命令が来た。
捕虜は約2万だという。私たちは軽装で強行軍した。
夕暮が足元に広がり、やがて夜の幕が下がり、すっかり暗くなって星がまたたいても歩いていた。
3、4里も歩いたと思われる頃、無数の煙草の火が明滅し、蛙のような喧噪をきいた。約7千人の捕虜が畑の中に武装を解除されて坐っている。
彼らの将校は、彼ら部下を捨て、とっくに逃亡してしまい、わずかに軍医大尉が一人残っているだけである。彼らが坐っている畑は道路より低かったので、一望に見渡すことができた。
枯枝に結びつけた2本の、夜風にはためく白旗をとり巻いた7千の捕虜は壮観な眺めである。
あり合わせの白布をあり合わせの木枝に結びつけて、降参するために堂々と前進して来たのであろう様を想像するとおかしくもあり哀れでもある。
よくもまあ、二個聯隊以上もの兵力を有しながら何らの抵抗もなさず捕虜になったものだと思い、これだけの兵力には相当な数の将校がいたに違いないが、一名も残らずうまうまと逃げたものだと感心させられる。我々には二個中隊いたが、もし、7千の彼らが素手であるとはいえ、決死一番反乱したら2個中隊くらいの兵力は完全に全滅させられたであろう。
我々は白旗を先頭に四列縦隊に彼らを並べ、ところどころに私たちが並行して前進を開始した。
綿入れの水色の軍服に綿入れの水色の外套を着、水色の帽子をかぶった者、フトンを背負っている者、頭からすっぽり毛布をかぶっている者、アンペラを持っている者、軍服をぬぎ捨て普通人に着がえしている者、帽子をかぶっている者、かぶらない者、12、3の少年兵から40歳前後の老兵、中折帽子をかぶって軍服を着ている者、煙草を分けてのむ者もあれば、一人でだれにもやらないでのむ者もあり、ぞろぞろと蟻のはうように歩き、浮浪者の群れのような無知そのものの表情の彼ら。
規律もなく秩序もなく無知な緬羊(メンヨウ)の群れは闇から闇へこそこそとささやきつつ、歩いていく。
この一群の獣が、昨日までの我々に発砲し我々を悩ませていた敵とは思えない。これが敵兵だと信ずることはどうしてもできないようだ。
この無知な奴隷たちを相手に死を期して奮戦したかと思うと全く馬鹿らしくなってくる。しかも彼らの中には12、3歳の少年さえ交じっているではないか。
彼らはしきりにかわきを訴えたので、仕方なく私は水筒の水をあたえた。これは一面彼らが哀れにも思えたからである。休憩になると、彼らは再三こうたずねた。
「ウォデー、スラスラ?(私は殺されるのか)」
彼らにとってもっとも重大なことは、今後いかに処置されるかである。彼らはそれが不安でならないといった顔付きである。私は、顔を横に振って、この哀れな緬羊に安心を与えた。
夜が深まるにつれて冷えびえとした寒気が増した。
下キリン村のとある大きな家屋に到着し、彼らを全部この中へ入れた。彼らはこの家の中が殺戮場ででもあるかのように入ることをためらっていたが仕方なくぞろぞろと入っていった。戦友のある者は、門を入っていく彼らから、毛布やフトンをむしりとろうとし、とられまいと頑張る捕虜と争っていた。
捕虜の収容を終わった私たちは、コンクリートの柱と床だけ焼け残った家に、宿営することになった。
翌朝わたしたちは郡馬鎮の警備を命ぜられた。私たちが郡馬鎮の警備についている間に捕虜たちは各中隊へ2、3百人ずつあて、割あてられて殺されたという。
彼らの中にいた唯一の将校軍医は、支那軍の糧秣隠匿所を知っているからそれで養ってくれと言ったとか。
なぜこの多数の捕虜が殺されたのか、私たちにはわからない。しかし何となく非人道的であり、悲惨なことに思えてならない。私には何となく割り切れない不当なことのように思える。7千の生命が一度に消えさせられたということは信じられないような事実である。
戦場では、命なんていうものは、全く一握りの飯よりも価値がないようだ。
私たちの生命は、戦争という巨大なほうきにはき捨てられていく何でもないものなのだ──と思うと、戦争にはげしい憎悪を感じる。
12月21日
南京城内の整備を命じられ、郡馬鎮を去る。
中山通りにある最高法院は、灰色に塗られた大きな建物である。日本の司法省にあたろうか。
法院の前にぐしゃりとつぶれた自家用車が横倒しになっていた。道路の向こう側に沼があった。
どこからか、一人の支那人が引っぱられてきた。戦友たちは、仔犬をつかまえた子供のように彼をなぶっていたが、西本は惨酷な一つの提案を出した。
つまり、彼を袋の中に入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである。
泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中に入れられ、袋の口をしっかり締められた。彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。彼はフットボールのようにけられ、野菜のように小便をかけられた。ぐしゃりとつぶれた自動車の中からガソリンを出した西本は、袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり回せるようにした。
心ある者は眉をひそめてこの惨酷な処置を見守っている。心なき者は面白がって声援する。
西本は火をつけた。ガソリンは一度に燃えあがった。と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、こん身の力で袋が飛びあがった。袋はみずから飛びあがり、みずから転げた。
戦友のある者たちは、この残虐な火遊びに打ち興じて面白がった。袋は地獄の悲鳴をあげ、火玉のようにころげまわった。
袋の紐を持っていた西本は、
「オイ、そんなに熱ければ冷たくしてやろうか」
というと、手榴弾を2発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。火が消え袋が沈み、波紋のうねりが静まろうとしている時、手榴弾が水中で炸裂した。
水がぼこっと盛りあがって静まり、遊びが終わった。
こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。ただ西本の残忍性に私たちがあきれただけである。
・・・以下略
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