真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

靖国神社、神社本庁、神道政治連盟 NO2

2019年02月26日 | 国際・政治

 靖国神社には、”朝命を奉じ、国家防衛という公務のために死没した殉国の英霊”が合祀されているといいます。だから、戊辰戦争のいわゆる「賊軍」の死没者や東京大空襲犠牲者、広島長崎被爆犠牲者、その他一般の戦争犠牲者は祀られていないのです。「祭神」として祀られるのは、”天皇のもとに統合された国民国家の防衛のために死没した殉国の英霊”だけなのです。

 戦時中、戦没者の遺骨を迎える際やラジオ放送で玉砕を伝える際に流されたという、「海ゆかば」には、
海行かば 水漬(ミヅク)く屍(シカバネ) 山行かば 草生(クサム)す屍 大君の 辺(ヘ)にこそ死なめ かへり見は せじ
とあります。進んで命を捧げ、”天皇に寄り添って死のう、後ろを振り返ることはしない”というような意味だろう思います。
 天皇や国家防衛のために死ぬことを讃美する歌で、”靖国神社で会おう”と言って死んで行った多くの日本兵の思いなどを考え合わせると、靖国神社が「戦争神社」といわれても不思議はないと思います。
 靖国神社は、まさに、戦争のための神社、神道は、まさに、戦争のための宗教であったように思うのです。

 その靖国神社に、1978年(昭和53年)東京裁判の「A級戦犯」として処刑された14人が合祀されました。それ以降、昭和天皇は靖国神社に参拝せず、『…だからあれ以来参拝していない。それが私の心だ』ともらしたことが、元宮内庁長官・富田朝彦氏の日記に残されていたといいます。「靖国神社が消える日」(小学館)の著者、宮澤佳廣氏は”その信ぴょう性に疑問を挟む余地はないと考えました”と書いています。
 であれば、靖国神社にとっては大問題であり、戦後一宗教法人になったとはいえ、創建以来の靖国神社の存在意義が失われたと言っても過言ではないと思います。”大君の 辺(ヘ)にこそ死なめ”とうたわれている”大君”が参拝しない靖国神社の存在の意味は、何だというのだろうと思います。

 また、侍従・卜部亮吾の「卜部亮吾侍従日記」の2001年(平成13年)8月15日には、「靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳(宮司)は大馬鹿」と記述されていたといいます。靖国神社を代表する宮司が、天皇から”大馬鹿”と言われてなお、靖国神社がそのまま変わらないということは、創建以来の靖国神社の考え方からすれば、あり得ないことだと思います。でも、靖国神社は問題を抱えたまま、特に大きく変化することはなく、首相や閣僚、国会議員の参拝がその後も続いています。変わりようがなかったのではないでしょうか。

 それは、人間である天皇を現御神(アキツミカミ)=現人神とし、その現御神の命にしたがって戦死した者のみを「英霊」として祭る靖国神社が、現実的に深く戦争や政治にかかわったためにぶつかった矛盾ではないかと思います。「A級戦犯」14人は、戦死ではなく刑死ですが、「A級戦犯」14人とともに日本の戦争や政治をリードしてきた靖国神社としては、「A級戦犯」を冷たく突き放すことができず、刑死でも、英霊として合祀せざるを得なかったのではないかと思います。一方、靖国神社創建以来、現御神(現人神)としてきた天皇に、無理矢理参拝させることもできなかった、ということではないかと思います。

 神話に基づき、人間である天皇を神と結びつけたり、いかなる戦争であったのかを振り返ることなく、天皇のもとに統合された国民国家防衛のために死没した者のみを殉国の英霊として祀るという差別をしたり、また、靖国神社の国家護持を主張して、国の政治に直接関与したりすることを改めないと、靖国神社が国民的合意を得ることはできず、また、近隣諸国の理解も得られないだろうと私は思います。

 下記は、「靖国神社が消える日」宮澤佳廣(小学館)から、一部を抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                  第七章 「富田メモ」と「A級戦犯合祀」の真相

 昭和天皇の不快感
 今日の「靖国問題」が憲法問題という基底の上に堆積した様々な問題の総体である以上、「A級戦犯」問題の解決が「ゴルディアスの結び目」を一刀両断する「剣」にならないことは自明のことです。とはいえ、それが「靖国問題」の核心をなしているという認識が一般に共有されていることも、また事実です。
 靖国神社に「A級戦犯」と称される14人が合祀されていることで誘発される議論は多面的です。それを合祀したことが良かったのか、悪かったのかという二者択一的な議論で整理収拾がつかないのは、合祀を是とする立場であっても、その際の判断や手続きについて賛否が分かれるからです。祭神は宗教法人である靖国神社の自由意思で決定されるものと割り切ってしまえば話は簡単ですが、靖国神社は公式にはそうした態度表明はしていません。そう断言することは、靖国の創建以来の伝統を切断することにもなるからです。
 そうした中、「A級戦犯」の合祀に昭和天皇が不快感をしめされた、という趣旨のメモが元宮内庁長官である富田朝彦氏の日記に残されていたことが報じられたのは、平成18年7月20日のことでした。スクープしたのは日経新聞。「A級戦犯 靖国合祀 昭和天皇が不快感」との大見出しが打たれたその記事には、「昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀に強い不快感を示し、『だからあれ以来参拝していない。それが私の心だ』と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い」と記されていました。 

 私はこの報道に接したとき、「富田メモ」の内容は事実で、その信ぴょう性に疑問を挟む余地はないと考えました。最大の理由は、昭和61年の「この年の この日にもまた靖国の みやしろのことに うれひはふかし」という昭和天皇の御製(ギョセイ=天子のつくった詩歌)にありました。この御製と「A級戦犯」の合祀を無関係と否定するのは到底困難だと感じていましたから、「昭和天皇の不快感」を事実として受け止めて、対応を図るしかないと思ったのです。
 ・・・

 昭和天皇の御憂慮
 「富田メモ」の内容が事実だとすると、靖国神社にとっての懸念は「はたして昭和天皇はA級戦犯合祀に反対だったのか?」といった点に絞り込まれてくることになります。しかも、「A級戦犯合祀に反対」という場合、少なくとも2通りの見方(意味合い)があるはずでした。その一つは「昭和天皇は、将来にわたってA級戦犯は祀られるべきでないと考えていた」という見方であり、もう一つは、「昭和天皇は、あのような時期にA級戦犯を祀るべきではない考えていた」という見方です。当然、私は後者の見方で意見書を作成しました。…

 国民不在の「A級戦犯合祀」
 私がこうした趣旨の意見書を作成したのは、第二章で触れた靖国の国家護持(国家管理)の話にも関連しています。神道の弁護士とも呼ばれた思想家・葦津珍彦(アシヅウズヒコ)氏は、「A級戦犯」合祀についてもこう批判していました。

”昨年たまたまA級政治戦犯が合祀されるとのニュースを見た。しかも一流某週刊誌には、そのニュースとともに、今では靖国神社は、国家護持を望んでいないとの記事がでた。これは護持理論を主張してきた私にとっては、非常なショックであった。この「政治」戦犯犠牲者合祀については、私は委員に参加のころ同意しかねた。「靖国神社が宗教法人としてならば、政治戦犯合祀をするのも全く自由であるが、これは前例の確たるものもないし、神社が国家護持を目標とするかぎり、事はきわめて重大である。国家護持ができて後に、公の国民のコンセンサスの上で決すべきだ。これは伝統祭祀を少しも変えないで来た、とする主張とも相関連するし、少なくとも今は其の時ではあるまい」とした。(『中外日報』昭和55年「公式参拝の問題点」)”

 「靖国の公共性」という観点でこの問題を考えはじめていた私にとって、この葦津氏の指摘はきわめて重い意味を持つようになりました。ここで、靖国神社が「A級戦犯」を合祀するに至った流れについて簡単に触れておきます。

・昭和44年の総代会で「将来は合祀すべきものと考えているが、現段階においては暫くそのままとして差し支えない」との意見の一致があった。
・昭和45年の総代会で青木一男氏(元大東亜相)から「速やかに合祀すべきだ」と提案があり、筑波宮司が「時期は慎重に考慮し、御方針に従い合祀する」と回答した。(筑波藤麿宮司の「宮司預かり」発言)
・昭和53年10月6日の総代会で「A級戦犯合祀については、昭和45年6月30日の総代会に、時期を見て合祀する旨決定されており、今回これを合祀することとした」という合祀の報告があった。

 この一連の手続きは、「公務死裁定」という「official」としての公共性に依拠するもので、靖国神社の諸規定に基づいて行われており、その手続きにおいて瑕疵はありませんでした。戦後、祭神合祀の最終決定は宗教法人である靖国神社に委ねられているからです。

 「富田メモ」が問いかけたもの
 私は「富田メモ」がといかけたもの、ぼやかされてしまった問題の核心は「靖国の英霊祭祠の主宰者はだれなのか」という問いかけそのものであったような気がしています。それは深層において、「昭和天皇の不快感」にまでつながっているのだと思うのです。「其の合祀は戦役事変に際し国家の大事に斃れたる者に対する神聖無比の恩典」とは、昭和15年8月14日の陸軍次官通牒に見える表現ですが、靖国の祭神合祀を「神聖無比」たらしめるのは天皇の存在を措いてほかにないからです。
 ・・・
 私が「忍びがたい」という言葉にこだわるのは、こうした理由からです。そして国家護持の必要性を主張する理由もここにあります。私は現御神(アキツミカミ)とされた天皇の神秘性によって神とされるよりは、むしろ、国家と国民の象徴としての天皇、「common」の中心軸としての天皇の存在によって、国家と国民の守り神として公認されるといった平易な理解をしているのですが、筑波宮司から松平宮司への交代に際して、この「忍びがたい」という意識が継承されていたのかどうか、そこが問われているのだと思います。万が一にも、その意識が欠落して、松平宮司自らが靖国の英霊祭祠の主宰者になったといった錯覚に陥っていたとしたら、宗教法人である靖国神社の宮司によって国事殉難者の御霊が神霊とされ、「靖国の神」に合祀されたことになります。宗教法人前の本態としての靖国神社の祭神とは本質的に異なる祭神ということになりはしないか。これは「信仰的確信」の領域での話です。

ーーーーー

                 第八章 突如浮上した「賊軍合祀」論
突如浮上した賊軍合祀論
 平成28年10月12日の昼過ぎ、靖国神社の到着殿前には多くの報道陣が詰めかけていました。この日、亀井静香・元金融担当相や石原慎太郎・元東京都知事らが、徳川宮司に面会して「賊軍」とされた戦没者の合祀を申し入れることになっていたからです。
 面会を終えた亀井氏は、記者団に「(合祀は)世界のなかで日本が平和を発信していく基本になる」と語り、靖国神社は「ただちにそうしますとは言えない」と述べたといいます(産経新聞・平成28年10月13日付)
 亀井氏は、一体、どのような理由で「賊軍合祀」を申し入れたのか、申し入れ書でまず確認してみましょう。

”我が国は古来より神羅万象全てに八百万(ヤオヨロズ)の神が存在し、弱きものに寄り添う判官贔屓(ハンガンビイキ)という心を育んだ。世界でも類を見ない寛容さを現代に至るまで連綿と引き継いできた国であることは間違いありません。
 神話の国譲りに始まり、菅原道真公を祀る天満宮や、将門首塚など我々日本人は歴史や文明の転換を担った敗者にも常に畏敬の念を持って祀ってきました。
 そのような中で西郷南洲や江藤新平、白虎隊、新選組などの賊軍とされた方々も、近代日本のために志を持って行動したことは、勝者・敗者の別なく認められるべきで、これらの諸霊が靖国神社に祀られていないことは誠に残念極まりないことです。
 ご承知とは存じますが現在も会津では長州人を嫌うといった官軍・賊軍のわだかまりは消えておりません。今日世界中が寛容さとは真逆の方向に突き進んでいることから、我が国の行く末も案じられてなりません。
 有史以来、日本人が育んできた魂の源流に今一度鑑み、未来に向けて憂いなき歴史を継いでいくためにも、靖国神社に過去の内戦においてお亡くなりになった全ての御霊を合祀するよう申し出る次第です。また、戦というのは歴史工学的には社会に一時の荒廃をもたらしますが、その後の社会に、ある安定とさらに進化をもたらし、明治維新で起こったもろもろの戦は、結果として日本という国家の機軸を安定させる功があったと考えられます。それ故に陛下ご自身による靖国神社への参拝は、国家安寧のために必須と信ずるところであり、畏れながら併せて此の儀をお願い申し上げたく存じます。

 ・・・
 …「申し入れの際に靖国神社徳川宮司はそう簡単にはいかないとの回答でしたが、私はこれを国民運動に盛りあげていき、平成31年6月に迎える靖国神社創建150周年までには是非とも達成したいと考えております」と、その実現に向けた強い決意をしめされています。

 「賊軍」ではなく「東軍」
 ・・・
「賊軍」合祀がにわかに主張されるようになったのは、共同通信のインタビューで、徳川宮司が「私は賊軍、官軍ではなく、東軍、西軍と言っている。幕府軍や会津藩も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった」と発言し、それが地方紙で掲載されたことに端を発します。
 ・・・
 ただし、その(賊軍合祀)可能性について徳川宮司は「(賊軍合祀は)無理だ。日本が近代的統一国家として生まれ変わる明治維新の過程で、国家のために命をささげられた方々のみ霊を慰め、功績を後世に伝えるというのが前身の東京招魂社を建てられた明治天皇のおぼしめし。政府に弓を引いた者はご遠慮すべきだろう。」(共同通信配信記事)と答え、靖国神社も「創建の由緒から鑑みて『幕府側に対する表現や認識を修正すること』を神社として行う考えはなく、今後も同様の考えが変わることはないとの発言と理解しております」(『週刊ポスト平成28年7月8日号』)と回答。合祀には否定的であるように報じられました。徳川家という宮司の出自が絡んでいることもあって、靖国神社の立場を常に支持する識者からも、それは宮司個人の歴史認識で特段の問題はないといった慎重な言い回しに終始しています。
 ・・・

 賊軍合祀の危険性
 ・・・
 祭神の公務死裁定は、神社創建時から戦後の今日に至るまで、一貫して維持されてきた靖国の祭神合祀の大原則です。これが「賊軍」合祀が不可能な唯一絶対の理由でもあります。さらに「宗教法人なのだから、国とは関係なく、宮司の判断だけで合祀できますよ」という亀井氏の助言は、私的な宗教団体の代表者に国の公務死裁定の代行を迫るという意味で明らかに矛盾しています。それは、靖国の祭神の合祀を根底から突き崩す危険性をも秘めているのです。
 ・・・

 「殉難者布告」と「戦死者布告」
 前者は、葵丑(嘉永6年)以来の国事殉難者(幕末維新の志士たち)の霊魂を祭祀しることを目的に、後者は伏見戦に始まる戊辰戦争の戦死者の霊魂を祭祀することを目的に発せられたものです。「殉難者布告」には「国事」という文字が、「戦死者布告」には「王事」という文字が使われていることがポイントになります。この太政官布告は、明治政府が発した公文書(法令)で、しかも同じ日に発せられたものですから、「国事」と「王事」という言葉が無意識に用いられているとは考えにくい。何らかの意図があるからこそ、使い分けていると考えるべきでしょう。
 ・・・
 …つまり「靖国の神」として祀られる資格と条件は、それこそ亀井氏の言うような漠然とした「国事に関係して死没した者」(国を想って死没した者)ではなく、朝命奉じて国事のために死没した者(天皇のもとに統合された国家体制によってこの難局を乗り越え日本の国体護持に尽くそうとして死没した者)なのです。
 ・・・
 この二つの布告の存在は、明治政府が当初、嘉永6年以降の国事殉難者と戊辰戦争での戦死者を大別して祭祀する予定であったことを示していますが、結果的には、二つの祭祀が明治維新関係の「国事殉難者」の祭祀としてまとめられることになりました。『靖国神社百年史』の合祀者戦役・事変別の一覧表にも、明治維新(7399柱)、西南の役前後(7292柱)、日清戦争(1万3619柱)とあり、戊辰戦争の戦没者(3588柱)も明治維新関係の国事殉難者に含まれています。
 ・・・
 …たしかに亀井氏の言うように、近代日本のために志を持っての行動でしたが、それは天皇のもとに統合された国民国家のための行動ではありませんでした。ゆえに、彼らは「国事」=「王事」に殉じた死没者ではなく、天皇のもとに統合された国民すべてに関連する「共通の神霊」とはなり得なかったのです。靖国の神となる大前提としての公務死裁定とは、150年が経過することで解消されるような「わだかまり」や「汚名」とはまったく別物だと考えなくてはなりません。…

 徳川の逆襲
 ・・・
 そもそも「靖国の公共性」は、靖国の祭神が国家防衛という公務のために死没した殉国の英霊であって、国家がその死没原因の公共性を認めて「靖国の神」として祀ったその特殊性から発現されています。したがって、「賊軍」の合祀がなされた時点で、そうした神霊とは異質の御霊が合祀されることになるのですから、「靖国の公共性」に疑義が生じることになります。それは靖国神社の存在意義を問うことにつながります。「賊軍」合祀という問題は、靖国神社創建の理念を根本から変容させることを意味しているのです。

 みたままつりの意味
 ・・・
 その当時、権宮司だった池田良八氏は、その頃を振り返って、こう語っています。

”戦後、最初にやったお祭りは、21年に始めた”みたま祭”でした。これも大きなことでしたね。やるにしても、全部連合軍の了承を得てね。神様にあげるんじゃない、遊びだ、子供もたくさんくるし、子供の遊びだ、というようなゴマカシを言って(笑い)、それで、”みたま祭”を始めたんです。(1984年『真世界』)”

 私は、みたまつりは占領下、神社存続のために悪戦苦闘した当時の先人の意志を伝える祭りなのだと感じていました。

 テーマパーク化する「靖国」
 ・・・
 …徳川宮司は神社本庁の「月刊若木」に寄せた特別寄稿でこう説明しています。

”若い世代に靖国神社に関心を持って戴くには、どうしたら「いいだろうかと色々策を練っているところです。それは、今の若者が将来の靖国神社を支えてくださる世代だからです。それにはまず、昨今内外のメディアから伝わって来る靖国神社像と、現実のそして真実の靖国神社の姿の違いに気がついて欲しいと思っています。靖国神社を戦争神社、遊就館を戦争ミュージアムと呼ぶことが、ご祭神に対していかに無礼であるかをわかって戴きたいものです。”

 ・・・
 …徳川宮司がここで言う教化の対象となる若者とは、不特定多数の若者(靖国に関心がなく外苑で飲んで騒いでいる若者)ではなく、特定少数の若者(靖国に何らかの関心や共感を抱いている若者)ということになります。しかし、それで果たして、靖国の将来を支える基盤形成に広がりを持たせることができるでしょうか。逆に、靖国の信仰基盤を狭小化させて、神社の存続を危ういものにするのではないでしょうか。私にはそうした志向にこそ「靖国神社を戦争神社、遊就館を戦争ミュージアム」と誤解させる危険性が潜んでいるように思えてならないのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI



 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

靖国神社、神社本庁、神道政治連盟 NO1 

2019年02月23日 | 国際・政治

 明治維新以降の日本の戦争を、天皇と靖国神社の存在抜きに語ることはできない、と私は思っているのですが、その靖国神社は、当初、東京招魂社として、戊辰戦争で命を落とした薩摩・長州の倒幕軍兵士を慰霊・顕彰するために建設されたといいます。建設に尽力したのは日本陸軍の創始者として知られる長州の兵学者大村益次郎です。以後、東京招魂社は、明治天皇の意向により、国家=天皇のために殉じた死者を「英霊」と呼んで合祀するようになります。「英霊」という言葉は、幕末の尊王攘夷急進派に大きな影響を与えた水戸学の学者、藤田東湖だということです。だから、当然、幕府側の新選組や白虎隊などの死没者、また西郷隆盛や江藤新平は祀られなかったのです。

 
 気になるのは、現在もなお、そうした考え方が組織的に受け継がれているのみならず、首相や閣僚の靖国神社参拝が、毎年のように政治問題として取り上げられ、近隣諸国との関係悪化の原因ともなっていることです。

 下記は、國學院大學の神道科で学び、神社本庁や靖国神社に勤務したという宮澤佳廣氏の「靖国神社が消える日」(小学館)から抜粋したのですが、靖国神社に関連して議論になっていることをいろいろ取り上げています。

 同書には、戦後占領軍の圧力を待避しながら神社の大同団結を図り、その存続を期して結成されたのが「神社本庁」という組織であるということ、また、「神道精神を国政の基礎に」のスローガンのもと、政治的な解決を要する神社界の課題に取り組むため、神社本庁の政治組織として結成されたのが、「神道政治連盟(神政連)」という組織であるということ、そして、安倍晋三首相が、かつてその事務局長であったということなども書かれています。

 さらには、戦後GHQの「神道指令」によって、一宗教法人となった靖国神社を、再び「国家護持」(国家管理)のもとにもどそうとする運動があり、麻生太郎現財務大臣・副総理は、「山積する問題解決のためにまず必要となるのが、宗教法人ではない靖国になること」ということで、「特殊法人化論」を公表しているという事実も記されています。

 また、第五章で、著者自らが、”「戦没者追悼新施設」を阻止せよ”と題して、「21世紀を迎えた今日、国を挙げて追悼・平和祈念をおこなうための国立の無宗教の恒久的施設が必要であると考えるに至った」と新施設の必要性を提言した「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(「追悼懇」)の報告書を批判しています。

 「鎮霊社は附属施設にすぎない」と題して記された文章も見逃すことができないと思います。

鎮霊社に鎮斎さてたのは「祭神」ではなく「非命に斃れた哀しむべき御霊」であり、(祭神)とは、「尋常(ヨノツネ)ならず、すぐれたる徳のありて畏(カシコ)きもの」(本居宣長)であって、「日本に生まれ出でにし益人は神より出でて神に入るなり」(中西直方)といった日本人の死生観・霊魂観によるところの神ではありません

というところに、私は、神道のもつ差別性を感じるのです。そして、神道はその成り立ちからして、この差別性を払拭することが難しいのではないか、とも思います。

 なぜなら、神道が天皇を「現御神(アキツミカミ)」としているからです。天皇はもちろん、天皇の側にある者に弓を引いた人間や天皇の命に従わなかった人間が、「祭神」として祀られることはあり得ないということです。

 さらにいえば、記紀神話と深く結びついている神道は、天皇を中心とする部族(豪族)が戦いに勝ち抜き、自らの支配権を絶対化するため、天皇を「現御神(アキツミカミ)」とするという政治的要求や意図と伝統的な民俗信仰・自然信仰がからんで形成された宗教(思想)であり、根本的的に差別的体質を持っているのではないかということです。
 神道がいわゆる「教祖」や「創始者」がおらず、また、キリスト教の「聖書」やイスラム教の「コーラン」にあたるような「正典」も存在しないということも、そうしたことと関わるのではないかと思います。
  周辺の諸民族を「夷狄」として卑しんだり、外国人を穢れた存在と見なしたりしていた歴史や、日本を「神州」として、天皇を戴く日本に敵対することを許さなかった歴史が、神道の差別的体質によるものだったのではないか、とも思います。
 
 下記は、すべて「靖国神社が消える日」宮澤佳廣(小学館)から、注目したい部分を抜き書き的に抜粋しました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     第一章 遊就館「歴史記述」見直しの攻防

「神社本庁」と「神道政治連盟」
 ここで、靖国神社と、私が以前勤めていた神社本庁の関係、そして神社本庁の関連団体である「神道政治連盟」について触れておきましょう。
 最近では「日本会議」が注目を集め、その構成団体でもある神社本庁や神道政治連盟がしばしば取りあげられているので、その名前を耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。
 戦前、「国家の宗祠」(国家の礼典のための施設)とされた神社は、他の宗教団体のように宗教行政の対象とされず、国家により管理されていました。しかし、国家と神社・神道のそのような関係(一般的に「国家神道」と呼ばれる)を危険視した占領軍(GHQ)は、戦後、神社に対する国家管理の諸制度の全廃を命じたのです。
 しかも、GHQの方針により、神社は私的な一宗教としてのみ存続することを余儀なくされました。神社の行く末がまったくもって見えない、まさに「非常事態」のなかに突如として置かれることになったのです。そこで全国の神社は、占領軍の圧力を待避しながら大同団結を図り、神社の存続を期して連名組織を結成するに至りました。それが神社本庁という組織です。
 私が入庁した当時、神社本庁は渋谷の國學院大學に隣接していましたが、昭和62年に明治神宮の北参道口へ移転しました。原宿駅から代々木駅に向かう山手線の車窓から明治神宮の杜を眺めると、突然、黒い貯金箱のような建物が眼に入ってきます。それが神社本庁の庁舎です。
 神社本庁の活動は「神社運営の事務的指導と管理」、「神社のための対社会活動(教化運動)」に大別されますが、包括下にある神職の任命権をはじめ、神職に任命されるために不可欠な資格(階位)の授与などの権限を有しています。宗教法人ではありますが、神社の国家管理が廃止されて緊急措置的に設立されたという経緯から、戦前、国が行っていた神社に関する業務を代行する組織、と言ったほうがわかりやすいかもしれません。
 現在、神社本庁の包括下にある神社は7万9千社、神職は2万2千人を数えます。しかし、靖国神社は神社本庁と包括関係のない単立の神社として存立しています。それは、靖国神社の「国家護持」という目標があるためです。ちなみに包「括」とは実質的な「所属」という意味合いで、この言葉が宗教法人法に用いられているのも占領政策の影響です。

 一方、「神道政治連盟(神政連)」は、昭和44年に結成された神社本庁の政治組織です。当時は、靖国の国家護持運動が容易に進展せず、政治への積極的な関与の必要性が痛感されていた時代でもありました。神政連は「神道精神を国政の基礎に」のスローガンのもと、政治的な解決を要する神社界の課題に取り組む神社本庁と表裏一体の組織です。
 もとより、法律改正などは国会に決定権があるわけですから、神社界の意思を国会に反映させるためには、神社界と志を同じくする国会議員の糾合が不可欠になります。そして神政連の活動を具体的に推進していくためには、そうした議員によって組織される「神道政治連盟国会議員懇談会」との連携が極めて重要になるのです。私が神政連の事務局長時代、この国会議員懇談会を再編することにしたのですが、その際には、会長が綿貫民輔先生、幹事長が伊吹文明先生、事務局長が安倍晋三先生という体制で再スタートしました。
 ・・・

                    第三章 首相の公式参拝と「国家護持」の関係

 靖国の「公共性」と「宗教法人性」
 全国の神社が国家管理を廃され、宗教法人として存続することになったのは、GHQの占領下、昭和20年12月15日に発令された「神道指令」(「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の禁止に関する件」)によります。この指令は国家と神社神道の徹底分離を命じたもので、それは神道に関連するあらゆる祭式や慣例、儀式、礼式、信仰、教え、神話、伝説、哲学にまで及びました。そして、「神社神道は国家から分離せられ、その軍国主義的乃至過激なる国家主義的要素を剥奪せられたる後は若(モ)し、その信奉者が望む場合には一宗教として認められるであらう。而してそれが事実日本人個人の宗教なり或(アルイ)は哲学なりである限りに於て他の宗教同様の保護を許容せられるであらう」と、神社神道の将来をも拘束したのです。
 ・・・

 靖国の特殊法人化論
 ・・・
 平成18年、麻生太郎外務大臣が「靖国に弥栄(イヤサカ)あれ」と題する私案を公表し、靖国神社の特殊法人化を提言したのも、こうした過去の経緯があるからです。そのなかで、麻生氏は、靖国が宗教法人になったことを、「本来国家がなすべき戦死者慰霊という仕事を、戦後日本は靖国神社という1宗教法人に、いわば丸投げしてしまいました。宗教法人とはすなわち『民営化(プライバタイゼーション)』したのだと言うことができます。」と表現し、「山積する問題解決のためにまず必要となるのが、宗教法人ではない靖国になること」だと指摘しています。
 ・・・
 
                     第四章 相次ぐ「靖国裁判」との戦い

 中曽根首相と松平宮司の確執
 この事実は、一見、首相秘書官が前例を踏襲して、つまり、参拝中断に合わせて奉納を取りやめるべきところ、誤って、奉納してしまった彼のような印象を与えます。しかし、真榊は参拝するから奉納できる、参拝しないから奉納できないというものではありません。そうであれば、昭和60年の秋から翌61年の春までの6か月間に、真榊奉納が途絶える何らかの出来事があったということになります。靖国神社第6代宮司・松平永芳氏の「誰が御霊を汚したのか靖國奉仕十四年の無念」(文芸春秋社)『諸君』平成4年12月号)には、その原因を暗示するような箇所があるので、摘記しておきます。

”それでも、その翌年も中曽根さんは公式参拝をしたいと思ったけれど、取り止めたんだという。そうしたら、中曽根さんに近い読売新聞から出ている『THIS IS』誌に「靖国神社宮司に警告」という一文がのった。それも巻頭言としてです。光栄の至りというべきでしょう(笑)。読んでみます。
「靖国神社当局は政府も知らぬああいだに勝手に(註・A級戦犯を)合祀し、国の内外の反発を呼んだ」--先ほど申しましたように、勝手にではなく、国会で決めた援護法の改正にしたがって合祀した。しかも、そのとき、中曽根さんはちゃんと議員になっているんです。続いて、「外交的配慮と靖国の合法的参拝の道を開くため、首相の意を受けた財界の有力者が松平宮司に対し、A級戦犯の移転を説得したが、頑迷な宮司は、これを聞き入れなかったので、首相は参拝中止を選択した」
 頑迷固陋は自覚しております(笑)。が、A級戦犯という東京裁判史観をそのまま認めた、邪魔だから合祀された御祭神を移せという。とても容認できることではありません。参拝をやめたのも宮司が悪いからだと、ひとのせいにする。
 「靖国神社は国家機関ではなく、一宗教法人であって、政府の干渉を排除できるというのも一理ある。だが、それなら、首相や閣僚に公式参拝を求めるのは越権、不遜である」
 そんな人々には案内は出しませんよ(笑)。昔は権宮司が敬意を表して総理に案内状を持っていった。しかしある時期から、止めさせたんです。だからこの時点では、そんな案内状を出していません。”

 前後の関係がいささかわかりにくいので、少々長めに紹介しましたが、「昔は権宮司が敬意を表して総理に案内状を持って行った」、「ある時期から、(案内状を出すのを)止めさせた」という言葉から、その案内が何を指しているのか容易に察しがつくでしょう。「この時点では、そんな案内状を出していません」という、”この時点”が首相の公式参拝の翌年であることも明らかですから、おそらく昭和61年以降、松平宮司の指示によって従来の案内形式に何らかの変更が加えられたことになります。それが中曽根首相と松平宮司との間に生じた確執によってのことだとしたら、宮司の首相に対する個人的な感情によって靖国神社のひとつの伝統が途絶えてしまったことになります。

 政教分離規定とは何か
 こうした経緯を持つ津地鎮祭訴訟は、昭和52年7月13日、最高裁が合憲の判断を下して結審しました。その際に、政教分離に関する 合憲性を判定する基準として示されたのが、この目的効果基準だったのです。そもそも憲法に定める政教分離原則については、「国家と宗教(団体)は一切関わってはならない」とする完全分離の考え方と、「宗教はそれぞれの国の社会的文化的な基盤ともなっており、ある程度の関わり合いを容認する必要がある」とする限定分離の考え方の対立がありました。
 そこで最高裁は、まず、完全分離の立場で政教分離規定を解釈すると、かえって社会生活に不合理な事態を生じさせると指摘して、限定分離(相対的分離とも言う)の立場で解釈すべきことを示したのです。
 ・・・

                     第五章 「戦没者追悼新施設」を阻止せよ

 戦没者追悼のための新施設
 やや話が前後しますが、平成13年8月13日、靖国神社に参拝した小泉首相が参拝後の記者会見で発表したのが「首相の談話」でした。当初、これが閣議決定を要する「総理談話」にあたるのか否かで議論もありましたが、この「首相の談話」は、総理のコメントとも違う、総理の個人的心情を正確に伝えるために印刷に付したものという位置づけでした。
 そしてこの談話のなかには、「今後の問題として、靖国神社や千鳥ヶ淵戦没者墓苑に対する国民の思いを尊重しつつも、内外の人々がわだかまりなく追悼の誠を捧げるにはどのようにすればよいか、議論をする必要がある」とあり、これを受けてその年の平成13年12月14日福田康夫官房長官の私的諮問機関である「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(「追悼懇」と略称された)が設置されることになったのです。
 ・・・
 懇談会は一年にわたる議論を終え、平成14年12月24日報告書をとりまとめて解散しました。
報告書は「21世紀を迎えた今日、国を挙げて追悼・平和祈念をおこなうための国立の無宗教の恒久的施設が必要であると考えるに至った」と新施設の必要性を提言したものの、「施設の種類、名称、設置場所等の検討項目については、実際に施設をつくる場合にその詳細を検討すべき事柄であることから意見を取りまとめるのは時期尚早」と、その具体的内容までは言及しませんでした。 
 
   一体誰が、何に、わだかまっているのか?
 ・・・
 
  では、誰が「わだかまり」を抱いているのか?それは、首相が靖国神社に参拝するたびに執拗に内政干渉を繰り返す中国、韓国の両政府ということになります。中国外相が「首相の靖国参拝を止めるように厳命した」こともありました。
 ・・・
 しかし、諸国が他国の行う戦没者の追悼に何らかの「わだかまり」を持つのは当然のことで、かつての交戦国であればなおさらでしょう。先のイラク戦争を例にとれば、アメリカ兵の追悼行事にイラク国民が「わだかまり」を持つことを理由に、これを止めるようにフセイン大統領がブッシュ大統領に厳命するようなものです。

                     第六章 「鎮霊社放火事件」が投げかけたもの

なぜ鎮霊社が建立されたのか
  鎮霊社が昭和40年の建立であることはすでに述べました。そしてその建立に筑波宮司の強い思い入れがあったことは、いくつかの書籍がしてきするところで、「世界の諸国がお互いにりかいを深め、本当に平和を望むなら、かつての敵味方が手を取り合って、神として我々を導かれることこそ一番大事な事だと思います。この意味から昨年は境内に鎮霊社を新たに創建し、…」(社報『靖国』昭和41年1月号の年頭挨拶)といった筑波宮司の言葉からも想像されます。
 ・・・
 …盆の時期に祖霊を迎えて祀り、祀り手のない霊を”施餓鬼”として別途に祭るという古俗にならって、盆のこの時期に、みたままつりで本殿に祀る神霊を慰め、併せて招魂祭で本殿に祀られることのない諸霊を慰めようとしたのでしょう。

 昭和天皇の大御心
 この招魂祭は、みたままつりと同様、占領下にあって靖国の平和希求の理念を示すところにその主眼は置かれていたのでしょうが、もう一つ、昭和天皇が終戦の詔勅に示された「今次戦争に際し戦陣に歿し職域に殉じ非命に斃れたる人々を思えば五内(ゴダイ)為に裂く」との大御心に副(ソ)うことをも意識されていたといいます。この招魂祭はその後、諸霊祭として毎年のみたままつりに先立って行われることになります。
 ・・・

 鎮霊社は附属施設にすぎない
 しかし諸霊祭から鎮霊社への連続性を考慮すると、鎮霊社に鎮斎さてたのは「祭神」ではなく「非命に斃れた哀しむべき御霊」であったことは明らかでしょう。神社に奉斎され、人々の崇敬の対象とされる神(祭神)とは、「尋常(ヨノツネ)ならず、すぐれたる徳のありて畏(カシコ)きもの」(本居宣長)であって、「日本に生まれ出でにし益人は神より出でて神に入るなり」(中西直方)といった日本人の死生観・霊魂観によるところの神ではありません。鎮霊社の存在が理解しにくいのは、そういうところにあるのではないかと私は考えているのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二・二六事件、磯部浅一と天皇と三島由紀夫

2019年02月04日 | 国際・政治

 藤田東湖や吉田松陰などの尊王思想に学び、「皇国日本」の「」のために「」を討とうと命をかけて蹶起した将校の一人、磯場浅一は、「昭和維新」を実現できなかったのみならず、一緒に蹶起した多くの同志が処刑され、日本がさらに悪い方向に変化していると思われる事実を前に、当初の奸賊に対する攻撃の矛先を、自らの尊王思想がよって立つ天皇にも向けていきます。磯部浅一は、

なぜ不義の臣等をしりぞけて 忠烈な士を国民の中に求めて事情を御聞き遊ばしませぬので御座いますか 何んと云ふ御失政でありませう

というのです。また、様々な天皇の認識不足を指摘しつつ

 最終的には

天皇陛下 何んと云ふ御失政でありますか 何んと云ふザマです 皇祖皇宗に御あやまりなされませ

とまで言うのです。
 
 でも、こうした「皇国日本」は、尊王攘夷をかかげた薩長を中心とする討幕派が、武力で幕府を倒し、その骨格を作った明治時代から変わることなく続いて、二・二六事件当時はもちろん、敗戦にまで至っていることを忘れてはならないと、私は思います。

 倒幕派の間では、天皇は「」(ギョクあるいはタマ)と表現され、王政復古前に、木戸孝允が、「うまく『玉』をわがほうへだきこむことが、何にもましてもっともたいじなこと」と主張していたことに、いろいろな研究者や歴史家が触れていますが、天皇は常に政治的に利用されてきたのだと思います。
 明治維新時、薩長倒幕派は、官軍であるという大義名分を得るために「偽錦旗」を利用したといいます。また、薩長に下された「討幕の密勅」は御画可や御璽を欠き、太政官の主要構成員の署名もなされていないものであり、正式な詔書とはいえないものでした。天皇を政治的に利用することで、倒幕が可能になったともいえるのではないかと思います。

 さらには、孝明天皇は、幕府に攘夷を認めさせ鎖国の体制に戻すために、和宮の将軍家降嫁の奏請にこたえて、いやがる妹の和宮を無理矢理降嫁させ、徳川家茂の正室としたことを重く受け止めて、倒幕を受け入れなかったので、倒幕派に毒殺されたといわれています。そして、岩倉具視や伊藤博文が、孝明天皇毒殺のために動いたと疑われているのです。自らに敵対し、政治的に利用できない天皇は、抹殺することもある、ということではないかと思います。
 だから、「うまく『玉』をわがほうへだきこむこと」が、明治維新以来、敗戦に至る迄の「皇国日本」の現実であり実態ではないのか、と思います。
 
 蹶起将校の一人、磯部浅一は、蹶起が失敗した結果、天皇が「奸賊」と一体であり、政治的に利用されていることを悟ることになったのだと思います。

 下記資料1は、「二・二六事件 獄中手記・遺書」河野司編(河出書房新社)から、獄中日記の一部を、とびとびにを抜粋しました。

 資料2は、「英霊の聲」三島由紀夫(河出文庫)から抜粋したものですが、「英霊の聲」は能の修羅物の様式を借りて表現されたものであるといいます。その文章の一部です。「などてすめろぎは人間(ヒト)となりたまいし」は「現人神」である天皇が、なぜ「人間」として振る舞ったのか、ということではないかと思います。
 三島由紀夫の思想は、私にはよくわかりませんが、一部将校の蹶起に怒り、「お前たちが朕の命令を躊躇するなら、朕自ら近衛師団を率いて討伐する」とまで言って、事件処理に大きな影響を与えた天皇の過ちを指摘する内容だと思います。「」は人間として振る舞ってはならないのであり、天皇自ら「皇国日本」の精神を蔑ろにしてしまった、ということではないかと思います。

下段は、同書に入っている「二・二六事件と私」の中の文章の一部です。三島由紀夫は、”その純一無垢、その果敢、その若さ、その死、すべてが神話的英雄の原型”として蹶起将校を評価していることがわかります。
 二・二六事件の処理の仕方や蹶起将校の処刑、事件の詳細の隠蔽は、明治維新以来の「皇国日本」が、いわゆる「特権階級」の支配の手段であることを露呈したのだと思います。
 そういう意味で、もっと注目されるべき事件なのだと、私は思います。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                         磯部浅一獄中日記

    八月九日
 死刑判決理由主文中の「絶対に我が国体に入(ママ)れざる」云々は、如何に考えても承服できぬ。
 天皇大権を干犯せる国賊を討つことが、何ぜ国体に入れぬのだ 剣を以てしたのが国体に容れずと云ふのか、兵力を以てしたのが然りと云ふのか
 天皇の玉体に危害を加へんとした者に対しては忠誠なる日本人は直ちに剣をもつて立つ、この場合剣をもつて賊を斬ることは赤子の道である 天皇大権は玉体と不二一体のものである されば 大権の干犯者(統帥権干犯)に対して 純忠無二なる真日本人が激怒し この賊を討つことは当然ではないか その討奸の手段の如きは剣によらうか 弾丸によらうか 爆撃しようが 多数兵士と共にしようが、何等とふ必要がない、忠誠心の徹底せる義士は簡短(ママ)に剣をもつて斬奸するのだ 忠義心が自利私慾で曇っている奴は理由をつけて逃げるのだ 唯それだけの差だ だから斬ることが国体に入れぬとか何とか云ふことには絶対にない筈だ 否々、天皇を侵す賊を斬ることが国体であるのだ 国体に徹底すると国体を侵すものを斬らねばならなくなる、而してこれを斬ることが国体であるのだ
 ・・・

    八月十一日
 天皇陛下は十五名の無双の忠義者を殺されたのであらうか そして陛下の周囲には国民が最もきらっている国奸等を近づけて 彼等の云ひなり放題に御まかせになつているのだらふか
 陛下 吾々同志程国を思ひ 陛下の事をおもふ者は日本中どこをさがしても決しておりません その忠義者をなぜいぢめるのでありますか 朕は事情を全く然(ママ)らぬと仰せられてはなりません 仮にも十五名の将校を銃殺するのです 殺すのであります 陛下の赤子を殺すのでありますぞ 殺すと云ふことはかんたんな問題ではない筈であります 陛下の御耳に達しない筈はありません 御耳に達したならば なぜ充分に事情を御究め遊ばしませんので御座いますか、なぜ不義の臣等をしりぞけて 忠烈な士を国民の中に求めて事情を御聞き遊ばしませぬので御座いますか 何んと云ふ御失政でありませう、
 こんなことをたびたびなさりますと 日本国民は 陛下を御うらみ申す様になりますぞ 菱海はウソやオベンチャラは申しません 陛下の事 日本の事を思ひつめたあげくに 以上のことだけは申上げねば臣としての忠道が立ちませんから 少しもカザらないで 陛下に申し上げるのであります、
 陛下 日本は 天皇の独裁国家であってはなりません。重臣元老 貴族の独裁国であるも断じて許せません 明治以後の日本は 天皇を中心とした一君と万民との一体的立憲国であります。もつとワカリ易く申上げると 天皇を政治的中心とせる近代的民主国であります。左様であらねばならない国体でありますから 何人の独裁お(ママ)も許しません 然るに今の日本は何と云ふざまでありませうか  
 天皇を政治的中心とせる元老 重臣 貴族 軍閥 政党 財閥の独裁国ではありませぬか、いやいや よくよく観察すると この特権階級の独裁政治は 天皇さえないがしろにしているのでありますぞ 天皇をローマ法王にしておりますぞ ロボットにし奉つて彼等が自恣専断を思ふまゝに続けておりますぞ
 日本国の山、山津々の民どもは この独裁政治の下にあえいでいるのでありますぞ
 陛下 なぜもつと民を御らんになりませんか 日本国民の九割は貧苦にしなびて おこる元気もないのでありますぞ
 陛下がどうしても菱海の申し条を御きゝとゞけ下さらねばいたし方御ざいません 菱海は再び 陛下側近の賊を討つまでであります 今度こそは宮中にしのび込んででも 陛下の大御前ででも きつと側近の奸を討ちとります
 恐らく 陛下は 陛下の御前を血に染める程の事をせねば 御気付き遊ばさぬのでありませう、悲しい事でありますが 陛下の為 皇祖皇宗の為 仕方ありません 菱海は必ずやりますぞ
 悪臣どもの上奏した事をそのまゝうけ入れ遊ばして 忠義の赤子を銃殺なされました所の 陛下は 
 不明であらせられると云ふことはまぬかれません 此の如き不明を御重ね遊ばすと 神々の御いかりにふれますぞ 如何に陛下でも 神の道を御ふみちがへ遊ばすと 御皇運の涯(ママ)てる事も御座ります

 統帥権を干犯した程の大それた国賊どもを御近づけ遊ばすものですから 二月事件が起つたのでありますぞ 佐郷屋、相沢が決死挺身して国体を守り 統帥大権を守つたのでありますのに かんじんかなめの 陛下がよくよくその事情を御きわめ遊ばさないで 何時迄も国賊の云ひなりになつて御座られますから 日本がよく治らないで常にガタガタして そここゝで特権階級をつけねらつているのでありますぞ
 陛下 菱海は死にのぞみ 陛下の御聖明に訴へるのであります どうぞ菱海の切ない忠義心を御明察下さります様伏して祈ります
 獄中不断に思ふ事は 陛下の事で御座ります 陛下さへシッカリと遊ばせば 日本は大丈夫で御座います 同志を早く御側へ御よびください 

    八月廿八日  
 竜袖にかくれて皎(キョウキョウ)不義を重ねて止まぬ重臣 元老 軍閥等の為に 如何に多くの国民が泣いているか
 天皇陛下 此の惨タンたる国家の現状を御覧ください、陛下が 私共の義挙を国賊反徒の業と御考へ遊ばされていられるらしいウワサを刑ム所の中で耳にして 私共は血涙をしぼりました 真に血涙をしぼったのです
 陛下が 私共の挙を御きゝ遊ばして
「日本もロシアの様になりましたね」と云ふことを側近に云はれたとのことを耳にして 私は数日間 気が狂いました、
「日本もロシアの様になりましたね」とは将して如何なる御聖旨か俄かにわかりかねますが 何でもウワサによると 青年将校の思想行動がロシア革命当時のそれであると云ふ意味らしいとのことをソク聞した時には、神も佛もないものかと思ひ 神仏をうらみました、
 だが私も他の同志も 何時迄もメソメソと泣いてばかりはいませんぞ 泣いて泣きね入りは致しません 怒つて憤然と立ちます、
 今の私は怒髪天をつくの怒りにもえています、 私は今は 陛下を御叱り申上げるとこころに迄 精神が高まりました、だから毎日朝から晩迄 陛下を御叱り申しております、
 天皇陛下 何んと云ふ御失政でありますか 何んと云ふザマです 皇祖皇宗に御あやまりなされませ

   八月廿九日
 十五同志の四十九日だ、感無量、同志が去つて世の中が変つた 石本が軍事課長になり、寺内はそのまゝ大臣、南が朝鮮(総督)、鈴木貫も、牧ノも、西寺も、湯浅も、益々威勢を振つている、
 たしかに吾が十五同志の死は、世の中を変化さした、
 悪く変化さした、残念だ 少しも国家の為になれなかつたとは残念千万だ 今にみろ、悪人ども 何時迄もさかえさせはせぬぞ 悪い奴がさかえて いゝ人間が苦しむなんて そんなベラ棒な事が許しておけるか

   八月卅日
 ・・・
二、自分に都合が悪いと 正義の士を国賊にしてムリヤリに殺してしまふ そしてその血のかわかぬ内に 今度は自分の都合の為に贈位する 石碑を立てゝ表忠頌徳をはじめる、何だバカバカしい くだらぬことはやめてくれ
 俺は表忠塔となつて観光客の前にさらされることを最もきらふ いわんや、俺等に贈位することによつて 自分の悪業のインペイと自分の位チを守り地位を高める奴等の道具にされることは真平だ
 ・・・
資料2-----------------------------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー----
                       英霊の聲 

・・・
されど、ただ一つ、ただ一つ、
いかなる強制、如何なる弾圧、
いかなる死の脅迫ありとても、
世のそしり、人の侮りを受けつつ、
ただ陛下御一人(ゴイチニン)、神として御身を保たせ玉い、
そを架空、そをいつわりとはゆめ宣(ノタマ)わず、
(たといみ心の裡深く、さなりと思(オボ)すとも)
祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに
宮中賢所のなお奥深く
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかずき、
神のおんために死したる者らの霊を祭りて
ただ斎(イツ)き、ただ祈りてましまさば、
何ほどか尊かりしならん
などてすめろぎは人間(ヒト)となりたまいし。
 などてすめろぎは人間(ヒト)となりたまいし。
  などてすめろぎは人間(ヒト)となりたまいし」
・・・・・・・・・・・・・・・。
 いくたびこの畳句がくりかえされたか、川崎君は手拍子を以て、次第にひろがる大合唱を追っていたが、追いきれなくなるにつれて、手拍子も乱れてきた。
・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   二・二六事件と私 
                                 
 ・・・
たしかに二・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだった。当時十一歳の少年であった私には、それはおぼろげに感じられただけだったが、ニ十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折りの神の死の怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、どこかで密接につながっているらしいのを感じた。それがどうつながっているのか、私には久しくわからなかったが、「十日の菊」や「憂国」を私に書かせた衝動のうちに、その黒い影はちらりと姿を現わし、又、定かならぬ形のままに消えていった。
 それを二・二六事件の陰画とすれば、少年時代から私のうちに育まれた陽画は、蹶起将校たちの英雄的形姿であった。その純一無垢、その果敢、その若さ、その死、すべてが神話的英雄の原型に叶っており、かれらの挫折と死とが、かれらを言葉の真の意味におけるヒーローにしていた。
 ・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする