真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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二・二六事件蹶起将校の陳述(香田清貞、渋川善助)

2018年12月29日 | 国際・政治

 藤田東湖や吉田松陰の思想に共鳴した幕末の尊王攘夷急進派は、倒幕によって明治維新を成し遂げると、古事記や日本書紀などの建国神話を基に、日本を天皇親政の皇国(スメラミクニ)としてつくりあげていきました。1882年に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭軍人勅諭)、1889年に制定された「大日本帝国憲法」、さらには1890年に発表された「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)などはすべて、藤田東湖の「神州誰君臨、万古仰天皇」という考え方に通じる内容のものだと思います。明治時代、日本は諸外国と違って、「神国」であり「神州」であるとされたのです。

 古くは、北畠親房の『神皇正統記』にまで遡り、江戸時代には水戸学や国学で論じられた建国神話に基づく皇国史観が、明治の国家権力によって国民の思想として、また、国民の生き方を縛るものとして示された結果、真面目で純真な若者ほど、この皇国史観を深く学び、自らのものとして行動したのではないかと、蹶起将校の陳述を読んで思いました。
 未遂も含めると、1930年代には、二・二六事件に至るまでに、

1931年(昭和6年)3月20日の三月事件、
1931年(昭和6年)10月の決行を目標として日本陸軍の中堅幹部によって計画された十月事件(別名錦旗革命事件)、
1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した血盟団事件、
1932年(昭和7年)5月15日に武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した五・一五事件、
1934年(昭和9年)に日本陸軍の陸軍士官学校を舞台として発生した陸軍士官学校事件

というような反乱・クーデター・要人殺害事件がありました。
 なぜこうした事件が続いたのか、ということの答えは、二・二六事件蹶起将校の陳述のなかに示されていると思います。

 例えば、蹶起将校の一人、香田清貞は、当時の国民の窮状に心を痛め、
私は兵等のこの話を聞いてああそうかと云つて済まして居ることは出来ません。何んとかしなければならぬと云ふことは常に考へて居りました
と言っています。また、
陛下が斯くし度い斯くあるべしと云はれたならば直ちに之が国民に徹底し国民が之を拝誦して行ふ
のが当然なのに、現状はそうはなっていないと、例をあげて言っています。だから

”統帥権干犯者を討取ることに依つて清浄な立派な人が出てくることになるのであります。よく人物がいないと云ふ人がありますが日本は神国であります。只不義を討取ることに依つて立派な人々が現はれて来るのであります。

ということで、要人殺害を計画・実行したのです。そして、それが多くの人々が望んでいる”昭和維新”であることに、”確固たる信念を持つて居ります。”というわけです。
 ”大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス”と定められていた当時の日本では、こうした蹶起将校の情勢認識や考え方を否定することは、困難であったと思います。国民の窮状を放置することや統帥権干犯は、皇国日本では許されないことだったのです。

 蹶起将校による1936年2月26日の反乱・要人殺害は、”軍人の本分は大権を擁護すること維新を擁護することにある”という主張に基づく行動であり、それは幕末志士の要人暗殺や異人斬りと同じように、彼等にとっては、どうしてもやらねばならないことだったのだと思います。
 逆に、政権中枢や軍の上層部は、二・二六事件に正面から向き合い、処断することは出来ない情況だったということでもあると思います。だから、狡猾な方法で反乱軍を鎮圧し、戒厳令下の上告なし、弁護人なし、非公開、即決の特設軍法会議で、蹶起将校十六人を死刑、その他数人を禁錮に処して、自由な報道を禁じたのだと思います。政権中枢や軍の上層部にとっては、事件をうやむやにしたり、隠蔽したりするしか方法はなかったのだと思います。

 下記に抜粋した文章にあるように、蹶起将校の一人、渋川善助は”公訴事実”に悉く反論しています。特に下記の三点は見逃すことができません。
一、本件は反乱罪とせられあるも何れを以て反乱の罪なるや。若し奉勅命令に背きたる所為が同罪となるとすれば私は其の命令に背き又は之に反抗したる事実なく
二、我現下の情勢を目して元老、重臣、官僚、軍閥、財閥等所謂特権階級が国体の本義に悖る事実は実際であつて蹶起趣意書に記載してある通りであります。これは観念にあらずして事実であります。
三、所謂昭和維新を断行云々とありますが言葉の問題にあらずして精神であつて臣民として何人も陛下に翼賛し奉るべきで之を悪意に執るべきではありません”

 二・二六事件は、伊藤博文や井上馨、岩倉具視、山県有朋など幕末の尊王攘夷急進派が明治維新以後に作った皇国日本では、起こるべくして起こった事件だろうと思います。
 ”表向き”だけではなく、ほんとうに ”廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決シ、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行イ、智識ヲ世界ニ求メ”ていれば、上記のような反乱・クーデター・要人殺害事件は起きなかったし、その後、戦争に突き進むこともなかったのだと思います。
 でも、薩長を中心とする倒幕派によって作られた、古事記や日本書紀などの建国神話に基づく皇国日本は、実際は、倒幕派のための日本といえるような実態であったために、内部崩壊する可能性を孕みつつ、戦争に突き進んでいかざるを得なかったのだと思います。
 蹶起将校の陳述を読むと、二・二六事件などの反乱・クーデター・要人殺害事件の数々は、表向きの”皇国日本”と、薩長を中心とする藩閥のための政治の矛盾が引き起こしたと言っても過言ではない気がします。
 また、蹶起将校のような純真でまじめな青年を、建国神話や尊王思想で縛ることなく、彼等に”智識ヲ世界ニ求メ”ていろいろな思想を学ぶ機会を与えていれば、世界で通用するはずのない”皇国日本”を乗り越えて進んでいただろうし、少なくともあれほど悲惨で惨酷な戦争を継続することもなかったのだと思います。

 下記は、「二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷」池田俊彦(編)高橋正衛(解説)(原書房)から抜粋しました。
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                     第七回 公判調書
<香田清貞の部>
・・・
陛下が斯くし度い斯くあるべしと云はれたならば直ちに之が国民に徹底し国民が之を拝誦して行ふと云ふことになります。
以上の様に考えて居りました。斯くして初年兵下士官等を教育して居る中に一つの矛盾を感じました。斯くの如き忠良なる下士官兵の身上特に経済上のことを考へますと気の毒な点の多いことでありました。
初年兵七十四・五名中軍事救護を要する者が三十五名位あり、夫れに近いものが二、三十名ありまして全く生活上心配のないもの及単身であると云ふものは僅か十五名位のものであることであります。私が兵に身上を聞きますと皆大丈夫でありますと答へます。又父兄も家のことは大丈夫であるから家のことは心配せず勤めて来いと云つて居ります。この様な事例は沢山ありますが既に村中氏が当公廷に於て述べております。
私は兵等のこの話を聞いてああそうかと云つて済まして居ることは出来ません。何んとかしなければならぬと云ふことは常に考へて居りましたが之に付て如何にするかと云ふことに付いは私には判らなかつたので只上官に其の事情を話し何んとかして呉れと申出て居たのでありました。

尚経済上のことに付て一つ申上げて置き度いのは私は昭和二年頃生まれ故郷の佐賀に帰省しました。そして中学校時代の同級生に田ん圃の傍で会ひました。其の時同級生から俺は朝から晩まで働いて居る。決して遊んで居ないのであるが毎年々末には借金が殖えて行く。一体どうしたらよいかと云つて聞かれました。其時私はそうかと云つた丈けでありましたが、私の郷里は二毛作田で米や麦が沢山穫れて豊かな土地でありますが、其の様な状態であることを知りました。私は兵の真心とこの社会の矛盾とを如何にして救ふべきか判りませんでしたから只上官に話してお願いする丈けでありました。

其の様な状態で昭和六年に入り十月事件が起る前頃になつて当時連隊の将校室で時局に付て昼食の際連隊の中少尉の間で研究し様と云ふので会合しました。其時国家革新と云ふ様な問題が出て栗原から或る案が提出されました。当時一般の空気は軍人が其の様なことをしては不可と云ふので先輩将校が栗原中尉を圧迫し様とする態度を執つて居たので、私はこれを知り事情如何に不拘先輩が之を圧迫すると云ふのは不可と思ひました。其の後栗原中尉から菅波三郎大尉に会つて呉れと云はれたので同大尉は私と同期生でありましたから私も会つて見様と思ひ栗原中尉と一緒に当時菅波大尉の居た同潤会「アパート」に行き同人に会ひました処、菅波大尉は私の考へて居た様なことを実行し様として居ると云ふので、所謂十月事件の計画内容を話して呉れました。そして尚色々話を聞き又栗原中尉から北一輝著日本改造法案大綱をも見せられました。私は菅波大尉を信頼して居りましたので同人と行動を共にする決意をしたのであります。其当時の同志は村中孝次、安藤大尉、栗原中尉私等でありました。

私は当時国家革新と云ふことに付て理論的な頭が未だ出来て居なかつたのでありますが、十月事件の実行計画目的等も決定し又実行後の建設計画の内容も見せて貰ひました。夫れには当時指導的立場にある人の人名も出て居りました。一般には建設計画がなくて事を行ふのは破壊丈けではないかと云はれました。これは今回の事件に付て憲兵から取調べられたときも同様なことを聞かれましたが私は当時建設計画に付ては異なつた考へを持つていました。即ち建設と云ふのは無い所へ物を作ることであります。然るに我国体は完全無欠のものでありまして私共が之を作るものではありません。只種々な埃や汚が付て居たり垢が付て居たりしますので之を取除くと云ふことが考へられるのであります。この取除くと云ふことが即ち光ると云ふことになるのであります。従つて建設なるものは我国体に合致しないことであります。例へば統帥権干犯者を討取ることに依つて清浄な立派な人が出てくることになるのであります。よく人物がいないと云ふ人がありますが日本は神国であります。只不義を討取ることに依つて立派な人々が現はれて来るのであります。建設計画を樹てて事を行ふと云ふことは我国体に悖るものであります。

私は斯くの如き考へを持つて居たので十月事件の計画については或る疑問を持つて居りましたので、菅波大尉に何か不純な点を感ずるか貴様はやる気かと云つて聞きました処、同大尉は確にさうだ俺も同じ様に考へられるが物事には勢と云ふものがあるから斯くなつては止むを得ない。若しも不純な点があれば外部にあつて傍観せず之に飛込んで行き其の不純な点を取除かねばならぬと云はれ私も同感でありましたから参加の決心をしたのであります。

又当時同志は国家革新を叫び農村救済とか外交刷新とか経済を建直すとか云ひ個々のことを挙げて論じて居りましたが、これは陛下の大御心に反しはしないかと考へました。私共は生活が困難であるからとか飯が食へないからと云ふ様なことでは不可である。私共は大御心に依るならば餓死も亦喜ぶものであります。私は以来聖勅を拝誦しまして昭和維新と云ふのは前回に述べた通り確固たる信念を持つて居ります。

昭和元年十二月今上陛下御践祚後に於ける朝見式の際賜はりたる詔勅中に明瞭に昭和維新に関して仰せられて居ることに依りますと、
一、思想に付て
一、経済に付て
一、国体に付て                 
一、人口に付て
の以上四問題が示されて居ります。
思想については
輓近(バンキン)(セイタイ)漸ク以テ推移シ思想ハ動モスレハ趣舎異ナルアリ
と仰せられて居ります。この趣舎相異なるありと云ふのは色々の思想が相対して居るのであります。これはどうしても討取らねばなりません。日露関係は思想を異にして居ります。赤露を討つことは単に彼の兵力を討つことではありません。彼の思想を討つことでなければなりません。
経済については
経済ハ時ニ利害同シカラサルアリ此レ宜シク眼ヲ国家ノ大局ニ著ケ挙国一体共存共栄ヲ之レ図リ
と仰せられて居ります。明治大正の時代に於て資本主義は国運の隆昌を来たしたが現在に於て之が果たして隆盛を来すことになるかどうかを考へて見よと云ふことであります。
国体について
国体ニ不抜ニ培ヒ
と仰せられて居ります。これは即ち国体明徴にすることであります。この為に我国はどんどん生長しどんどん養分を吸収して居ります。国体に付いて根本的なものを堅持して大権を擁護し顕現することであります。
人口に付て
民族ヲ無彊(ムキョウ)ニ蕃クシ
と仰せられて居ります。これは満州事変のことを意味するものでありますが、只二千万三千万の人口を解決することではありません。無彊と仰せられて居ります。現在世界の文物は皆開けて居ります。我国は人口が拡張して居りますのでこの拡張を期して大いに開拓すべしと云ふ御趣旨であります。日本が全世界の機運を統合して新たなる光を全世界に与えなければならぬと云ふことにあります。私が何んとかせねばならぬと云ふのはこの大御心に依るのであります。この私の苦痛は押へられて居りました。これは国民の翼賛が足らぬのであると痛感しました。私共軍人は軍人としての本分があります。私はその本分を尽す為に努めて来ましたが或る者は軍人が之に関与しては不可と云ふものもありましたが、私は軍人の本分は大権を擁護すること維新を擁護することにあると信じて居ります。この事は明治十五年の軍人に賜はりたる勅諭中に、
天子ハ文武ノ大権ヲ掌握スルノ義ヲ存シテ再ヒ中世以降ノ如キ失態ナカランコトヲ望ムナリ
と仰せられて居ります。これに依りまして軍人は特に大権擁護の職責を与へられて居るものと信じ其の考へを持つて勤めて行かなければならぬと確信します。
以上の様な私の信念は昭和六年頃から昭和七年五、六月頃までの間に得たものでありまして、其後この信念に依つて行動して来たものであります。
・・・
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                      第十九回 公判調書
<渋川善助の部>
・・・
問 本件に付検察官の陳述せられたる公訴事実に付意見又は弁解すべきことありや
答 それに対し当法廷に於て今泉義道を除く各被告人が申上げたことに付て同感であります。私としては次の八点に分て申上げます。
一、本件は反乱罪とせられあるも何れを以て反乱の罪なるや。若し奉勅命令に背きたる所為が同罪となるとすれば私は其の命令に背き又は之に反抗したる事実なく、
二、我現下の情勢を目して元老、重臣、官僚、軍閥、財閥等所謂特権階級が国体の本義に悖る事実は実際であつて蹶起趣意書に記載してある通りであります。これは観念にあらずして事実であります。
三、所謂昭和維新を断行云々とありますが言葉の問題にあらずして精神であつて臣民として何人も陛下に翼賛し奉るべきで之を悪意に執るべきではありません。
四、日本改造法案大綱に則り本件を決行したる如くあるも然らず、蹶起将校中には同書を見たることなき人もあるのであります。
五、本件は第一師団が満州派遣前に於て決行せざるべからず如く観察せられあるも満州に師団が派遣の有無に拘らず決行の時期になつて居たのであります。
六、本件の首脳者として村中、磯部、香田、栗原等を指されて居りますが本件には首脳者はなく却て実行を促進したるは他の若い将校であると思ひます。
七、私が地方の同志を蹶起せしむる目的を以て拳銃を中橋照夫に交付したる事実を問われて居りますが、現下国家内外の情勢は民衆が維新に翼賛するは当然でありまして当時私は地方の状況は知らなかったので蹶起せしむる目的を以て同人に拳銃を交付したるものではありません。
八、本件蹶起後坂井部隊に投じたるは事実なるも同部隊を指揮したることなく唯意見を述べたに過ぎません。
・・・
問 被告は日本改造法案大綱に掲載しあることに賛成か。
答 私は大体に於て当時卓見と思ひました。同法案大綱の内容及著者の精神を誤解して居る人は多い様でありますが、あれは欧州戦争直後当時社会主義が台頭して其の思想が盛んになって居た際之に対抗する為に書かれたものであり、私有財産の制限なども時代に応じて其の標準を定むべきは勿論であります。著者も其の精神と思ひます。又金融機関のこともよく吟味して見れば解るのであります。あの当時に於てあの程度に書かねばぴんと読む人の頭に響かぬので左様に書いたものと思はれます。
緒言に於て、「天皇大権の発動を奏請し天皇を奉じて速に国家改造を完ふせざるべからず云々」とあつた様に思ふ。北氏は法華経に帰依し居る人であり国家の為に生死を賭して愛国の精神を以て書かれたものであります。それを何事か不穏矯激なるものの伏在せるが如く誤解して居る人のあるのを遺憾と思ひます。内容を吟味して行けば同氏の精神も判ると思ひます。

問 本件決行の計画を如何にして知れりや。又同志の連絡は如何。
答 私が青年将校が何事か遣るだろうと感じたのは相沢中佐公判の頃からであります。同公判に於て満井中佐が初から提言せられたことが些も反省せられず相沢中佐が公判で叫びしことが軍首脳部や上層部に反省の実が見えないのみならず却て下の方に弾圧を加へ真相を書かんとすれば発禁となり、正しいことが伝へられず、外に方法がないといふ状況であつたので、純真なる青年将校のことなれば何か遣らねば治まらぬだろうと感じたのでありました。私は相沢公判の状況を青年将校に伝へる為に村中と竜土軒の会合に二、三回当時行つて説明しましたが、当時左様に感じたのであります。

二月中旬頃西田宅に行つた所村中と会ひ其のとき村中より第一師団が満州に行かぬ前に在京の青年将校が蹶起するに至れば、君は其の時どうするかと云はれましたので私は遣るときは何時でも自分も参加すると云つたことがあります。それが本ものとなつて此度の事件が起つたのであります。
本件の計画あることを知つたのはその後で二月二十三日午前九時頃小石川区の水道端の直心道場に村中が参り本件決行の計画を話され愈々二月二十六日未明を期し決行することになつたと告げられましたので知りました。
・・・
問 被告人は蹶起趣意書に同感か。
答 はい同感です。
問 本件に参加したる原因動機は如何。
答 私が本件決行に参加するに至りたる事情は予審に於て手記として提出して居りますから御覧を願ひますが尚多少付言します。私は国家革新運動の経歴に於て申上げました如く我々の見聞測知する所総て国家を矯正せんとするものであり、悠久の昔より永遠の将来に向つて進化は日進月歩永劫不断の破邪顕正(ハジャケンショウ)が行はるるのでありますが、皇国の国体は肇国の御神勅並に列聖の御詔勅に仰ぎ奉り国史の遺跡に照して明かであります。即ち皇祖皇宗国を肇め給ふこと宏遠に徳を樹て給ふこと深厚に万世一系に皇謨(コウボ)を伝へ給ひ宝祚の御隆え天壌と与に無窮にましまし万民克く皇運を扶翼し奉りて君民一体一国一家、義は君臣にして情は猶父子の如く祭政一致忠孝一本にして八紘一宇六合光被の天業を具現恢弘すべく日に新に月に進み年に弥栄なるにありますが、国内の情勢を見れば欧米輸入文化の余弊が漸く累積し此の制度機構を渇仰(カツギョウ)導入し之に依つて其の地位を維持しつつある階級は恰も横雲の如く仁慈(ジンジ)の大御心を遮りて下万民に徹底せしめず下赤子の実情を御上に達せしめずして、内は国民其堵に安んずる能はず往々不逞の徒輩をすら生じ、外は欧米に追随して屡々国威を失墜せんとせらるるのであります。「万里の波涛を開拓し四海の億兆を安撫せし」と詔ひし維新の御宸翰も、
「天下億兆一人モ其所ヲ得サルトキハ皆朕カ罪ナレハ」
ト仰せ給ひしも、
「罪シアラハ我ヲ咎メヨ明津神(アキツミカミ)、民ハ我身ノ生ミシ子ナレハ」
との御仁慈も殆ど形容視せられたるが如き有様であります。
殊に軍人には「汝等皆其職ヲ守リ朕ト一心ニナリテ力ヲ国家ノ保護ニ尽サハ我国ノ蒼生ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ我国ノ威烈ハ大ニ世界ノ光華トモナリヌヘシ」
と望ませ給ひしも現に我国の状況は蒼生窮に喘ぎ国威は亜細亜にすら怨嗟せしめつつあるのであります。軍人亦宇内の大勢に鑑みず時世進運に伴はず政治の去就に拘泥し世論の是非に感迷し報告尽忠の大義を忽苟にしあるの現状であります。
又農村漁村は疲弊其の極に達し生活の不安を感じて居るの情況であります。
之は要するに所謂元老、重臣、軍閥、官僚、政党等所謂支配階級が国体の本義に恃り大権の尊厳を軽んじ私利私欲を壇にし国政を紊り国威を失墜せる元兇であると推定するものであります。
即ち倫敦条約並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯、至尊兵馬大権の僣窃を図りたる三月事件或は学匪共匪大逆大本教等利害相結んで陰謀至らざるなき有様であります。国体明徴問題においては政府当局と妥協し渡辺教育総監自ら天皇機関説を擁護するの情勢にあります。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件憤騰、相沢中佐の剣尖となるも故なきではありません。之れ国情が与へた当然の蹶起であります。就中教育総監更迭に伴ふ統帥権干犯、渡辺教育総監の天皇機関説問題に関しては青年将校の意見具申は中途に阻まれ或は無視せられ部外よりの批判論難は官憲に依つて弾圧せられ軍隊は一部特権閥族の私兵化せんとしたのであります。

国の乱るるや匹夫(ヒップ)猶責あり況んや至尊の股肱として国家の保護に任じ我国蒼生をして国威を世界の光華たらしむべき重責にある軍人にて立たずんば忠にあらず「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と詔ひし大御心を奉戴して国家の保護に任ずべき絶対の責任を果たさんとして純真なる将校が出撃したるは其の本分たるものであります。

政府及軍上層部の重職にあるものは事毎に辞職を以て其の責任を免れんとして反省是正することなく大御心に副ひ奉らんと為さず。事茲に至つては君側の奸臣軍賊を斬除して中枢を粉砕して神洲の正気を放つ。軍人の任務として克く為すべく臣子たり股肱たる絶対道として蹶起したるものにして最後の実力であります。私も彼等青年将校と同じく叙上の如き理由に依り報国の大義に相協ひ同志として決行に参加するに至つたのであります。

問 現在の心境は如何。
答 悪いことをしたとは思ひませんが。
 宸襟を悩し奉りたることは恐懼の次第であります。

・・・

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二・二六事件 蹶起将校の陳述(村中孝次、磯部浅一)と判決主文

2018年12月22日 | 国際・政治

 昭和十一年二月二六日の蹶起事件は、陸軍省や司法省などによって、一般の報道が禁じられ、長く記事の差し止めや発禁処分などが続いたこともあって、その後も事件の裁判記録が注目されることはなく、東京大空襲によって焼失してしまったなどと思われていたようです。

 でも、北博昭教授による東京地裁に対する開示請求によって、東京地方検察庁に保存されていた厖大な裁判記録が公にされることになったといいます。
 それを知った蹶起将校の一人、池田俊彦氏が、毛筆草書体の録事による記録を書き写して「二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷」池田俊彦(編)高橋正衛(解説)(原書房)として、世に出されたということです。生き残った自分がやらなければならないという、強い思いが伝わってくるような気がします。

 戒厳令下に於ける蹶起将校の公判は、「弁護人の選任を許さず、審判を公開せず、判決は即時確定し上告を許さず」というものであったので、一般国民は、事件については何も知ることができず、したがって、日本の国が抱えていた大きな問題に気づくことはなかったといえます。きちんと情報が公開されていれば、いろいろな議論がなされ、日本の歴史は違っていたのではないかと想像されます。

 蹶起将校は、みんな当時の農村や労働者の窮状に寄り添う気持ちを持っていました。だから、政治家や官僚、財閥や軍閥が、農村や労働者の窮状を放置し、適切に対応していないことに強い怒りを感じて、腐敗堕落を許すまいと蹶起したことが、公判の陳述でよくわかります。真面目に日本の将来を考えていたのだと思います。
 しかし、残念ながら彼等は、明治維新を成し遂げた尊王攘夷急進派の思想を一歩も越えてはいないこともわかります。下記の文章に名前が出てきますが、彼等は、幕末に尊王攘夷の運動を主導した「吉田松陰」や「藤田東湖」などに学んで行動しており、自らの考えを通すために、躊躇することなく関係者を殺すのです。西洋における人権思想や人命尊重意識の進歩とは全く無縁で、幕末志士の野蛮性をそのまま受け継いでいたのだと思います。

 そして、それは、帝国憲法がその第1条で 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定めた上に、下記の条項を設けたことが深く影響したものであると思います。
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

 上記の二つの条文は、草案では

第十二条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

     陸海ノ編成ハ勅命ヲ以テ之ヲ定ム

となっていたといいます。でも、それを大山巌陸相山県有朋内相が「勅命」を「勅裁」にすべきであると主張し、その主張を生かすために第十二条を、二つの条に分割しのだといいます。その理由は「勅命は内閣に於て自由に決定することを得るものなれども、陸海軍の編制は天皇の大権に属し、帷幄上奏の策案を親裁に依り決定すべきものなり」ということであったというのです。内閣で議論し案を作ることも許さないということではないかと思います。
そして、

第十二条 天皇ハ陸海軍ノ編制ヲ定ム

と改めましたが、伊藤博文はこの件について、十二条を二つに分けても、なお不備があると指摘したといいます。なぜなら、憲法十二条が軍の「編制」についてのみで、「兵力量」について明記しなければ、諸外国の過ちを繰り返すというわけです。そして、プロイセンが軍備拡張案を議会で否認されたこと、米国議会が兵卒の給料を否決したために支払い不能に陥ったこと、イギリスでは兵力量の決定権が皇帝になく議会にあったために、政府存廃の権力は議会が握っていたことなどを例にあげたといいます。 伊藤博文の「古来兵馬の権は天皇大権にに属するものなれば、之を議院に附与すべきものにあらず、依てここに本条に常備兵額を明記する所以なり。」という主張によって、第十二条は

第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

と決定することになったというわけです。池田俊彦氏が補遺で取り上げているこの問題は、見逃すことの出来ない重大問題だと思います。
 
 この帝国憲法第十二条の条文こそが、二・二六事件その他で繰り返し主張された軍人による「統帥権干犯」問題の根源だと思うからです。
 天皇の統帥権については、誰も口出し出来ない定めになっており、「倫敦条約」についても、関わった人たちが統帥権を干犯したとして、襲撃の対象になりました。
 たしかに、大日本帝国憲法第11条と第12条に従えば、枢密院や政府が、兵力量に関わる倫敦条約締結を、天皇(=統帥部)の承諾無しに進め、批准したことは、蹶起将校の主張する通り”憲法違反”だと思います。
 したがって、二・二六事件は、明治維新以後の日本が抱える大問題であったにもかかわらず、時の政権は、下記「主文」の被告人である蹶起将校中心メンバーを「反乱の罪」で処刑して、事件の詳細を明らかにすることを許しませんでした。だからその後、軍の暴走を止める手段を失ってしまったのだと思います。
 二・二六事件にも、大山巌や山県有朋、伊藤博文など薩長閥の政治家の悪影響があらわれているように思います。蹶起将校による関係者の殺害は、極めて野蛮だと思いますが、時の政権による蹶起将校の処刑と事件の詳細の隠蔽は、それ以上に野蛮であり、悪質ではないかという気がします。
 天皇を利用して、あらゆる反発・抵抗を封じ、自分たちがやりたいように出来る国として薩長閥がつくり上げた明治の日本は、その後破滅に向かう必然性を孕んでいたのではないかと思います。

下記は分掌は、すべて「二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷」池田俊彦(編)高橋正衛(解説)(原書房)から抜粋しました。
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                         第二回公判調書
<村中孝次の部)>
・・・
問 襲撃目標人物の選定に付ての理由は如何
答 国体破壊の元凶統帥権干犯の不義を討取るにありまして、
西園寺公望は内閣首班に関す奏請当を得なかつた為国政を非に導いたこと。特に斎藤、岡田を共に首相に奏請したるは同人等が倫敦条約当時の統帥権干犯に関係あるものなるを以て其の責を負わねばならぬこと。牧野伸顕は倫敦条約当時に於ける統帥権干犯に直接関係を持ち当時伏見宮殿下の奏上を阻止したること。
斎藤実は倫敦条約当時宮城に立寄りたる財部大将と通牒し該条約派の巨頭と見らるること又真崎大将教育総監更迭当時林大将を鞭撻して軍統帥に容喙したりと認めらるること。牧野伸顕と結託して重臣ブロックの中心を為し国政を誤つて居ること。
鈴木貫太郎は海軍条約派の巨頭であつて君側に在りて聖明を蔽ひ奉つて居ること。
岡田啓介は海軍条約派の一人であり無為無策にして国政を誤り居ること。特に天皇機関説問題に関する国体明徴に於てその処置の極めて不当なりしこと。
高橋是清は政党の巨頭として参謀本部廃止論を唱え皇軍親率の基礎を危くしたること 。又現下の経済機構を維持せむとして経済を危殆に頻せしめ窮民救済を不能に陥らしめたること。
渡辺錠太郎は天皇機関説信奉者であつて教育総監たるに不適任なるに不拘容易に引責辞任しなかったこと。
之を要するに之等の人は重臣、財閥、君側の奸臣として一連の結託関係にあつて聖明を蔽ひ奉り国運の進展を阻止して来たものであり特に統帥権干犯の不祥事を惹起するに至らしめたるものであります。
之等が今日の如く日本を萎靡沈衰せしめたる中心であるからであります。
・・・
問 之等のものを斬殺すべき理由は如何。
答 夫等の人々は孰も統帥権干犯に関係のある人々であります。
林銑十郎大将
この人は真鍋教育総監更迭問題に付て統帥権干犯を為したること。
渡辺錠太郎
この人は天皇機関説を信奉すること。
根本博大佐、武藤章中佐、片倉衷少佐
此の人達は永田中将の策動に依つて其の意図の下に従来から軍の私兵化を行つたこと。
石原莞爾大佐
この人は統帥権干犯には直接関係はありませんが夫等の人達と密接な関係があり又大参謀本部即ち参謀本部軍令部を合したものを作ると云ひ兎に角「フォッショ」的傾向を有すること等であります。
・・・
問 被告等の要望事項に付て陸相は何と云つたか
答 陸相は今回の蹶起将校の氏名及襲撃部署の大要に付て尋ねましたので、私は之を筆記して陸相に差出しました。陸相は私に対し要望事項は陸相として出来ることもないではないが大部分は上奏して大命を仰がねば出来ぬことであると云はれましたので、私は時局極めて重大なれば速に参内して実状を奏上し御裁断を仰がれ度き旨を述べました。
問 陸相は被告等の行動に付ては何か叱責したか。
答 云ひません。只斯くまで思い詰めて居たならば何故早く云つて呉れなかつたかと云はれましたので、香田大尉から私共は是迄口頭又は文書を以て上司に意見を述べ尽くすべきことは尽くしましたが一つとして容れられません。却つてこれが為青年将校には処罰されたものもありましたと云ひました。併し陸相は私共の行動が悪いとは云はれず私共の精神を認められた様でありました。
・・・
問 本件に対して他に陳述したいことがあるか。
答 私共は今回蹶起するに付て如何に国情を患へて居たかを明瞭にする為少しく述べます。
我国民生活の窮乏は非常なものでありまして、私共にも勿論十分解つて居りませんが、維新運動を志して来ましたので色々と考察し注意して其の概況を知ることが出来ました。
・・・
神武天皇の肇国の大詔中に、
夫レ大人ノ制ヲ立ツル、義心時ニ随フ、苟モ民ニ利アラハ何ソ聖ノ造ニ妨ハム
とあります。又仁徳天皇は民の豊かなるを見て朕富めりと仰せられて居ります。
歴朝陛下皆この御考へにて国を治められて居ります。
有識者はこの大御心を体して国民生活の窮乏を救ふことに力を致さねばなりません。
・・・
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                        第四回公判調書
<磯部浅一の部>
 ・・・ 
問 本件に付いて陳述することありや
答 公判事実は全体として私共青年将校の真精神を蹂躙埋没して居ります。此点を蹂躙しては公判を開廷されることは奇怪至極であります。二月二十八日以後の行動を反乱行為として事実を審理せむとするにあるや単に私共の行動のみを以て審理されることは間違であります。私共の真精神を埋没蹂躙すれば兇悪なる強盗乃至は獰猛なる殺人となります。公訴事実中私の意見ある点は第一、国権に反抗したること。
 私共は国権に反抗したものにあらず、元老、重臣、官僚、軍閥、政党、財閥が国権を紊るを以て、之等特権階級、支配階級を艾除する為已むを得ず剣を持って起つたのであります。剣を持つて起つたことを已むを得ずとなしたる私共の高き愛国精神からであります。倫敦条約其他に於て統帥権干犯をなしたる重臣を襲撃殺害し、総理大臣官邸及三宅坂地区一帯の占拠を為したる私共の行動のみを以て反乱罪なりと云はるることは承服出来ません。

第二、奉勅命令に抗したること、
私共は決して奉勅命令に抗したるものにあらず、此の点は私共の一番遺憾に考へる所であります。日本臣民として生まれ、陛下の赤子股肱を以て任せる私共に賊名を被せられることは承服出来ません。何故青年将校が夫れ程憎いのか。
 私共は決して陛下に弓を引くものではありません。此の点は事実審理の際詳しく述べたいと思ひますから此処では簡単に申述べます。私は手記中にも書いて置いた通り長州萩の近くに生れ郷土的関係から其地の志士仁人に付て傾倒し、其の感化を受け幼年学校に入り尓来今日まで尊王愛国の精神で一貫して来て居ります。この精神を蹂躙されては私の命がなくなります。

第三、兵力使用のこと、下士官兵に対して靖国神社又は明治神宮参拝と称し、之等を欺いて参加させた様になって居りますが、之等は下士官兵を欺く為にあらず、之等の者以外のものに対して出動の便法として用ひたるに過ぎません。
 下士官兵と雖も将校と同様維新実現を要望して居り強固なる同志的団結であったと断言して憚りません。

第四、私共の襲撃目標人物が統帥権干犯、国体破壊の元凶なることが公訴事実に明瞭になつて居りません。私共は単に行路の人を襲撃殺害したるものにあらず。此点が明瞭にされて居ないのは遺憾であります。

 第五、蹶起部隊が戦時警備令下、爾後警備部隊に編入されて、続いて戒厳令布告に依り戒厳部隊となつたことが公訴事実に明瞭となつて居りません。従つて私共の行動の真意が不明であります。

以上述べた通り公訴事実は私共の新精神を埋没蹂躙して居ります。此の侭にて審理を続行せられんか、私共が反乱罪として処断されることは明瞭であります。故に以上五点に付いては特に私共に御訊問を願ひ度いと思ひます。私共の行動を義軍の義挙と見るや否や本公判の重大なる使命であると考へます。  
法務官は本日の審理は此の程度に停める旨告げたり。裁判長は次回期日を明五日午前九時に指定し訴訟関係人に同時刻に出頭すべき旨を命じ閉廷す。
          昭和十一年五月四日
            東京陸軍軍法会議
              陸軍録事      加藤七兵衛   印
              裁判官陸軍法務官  藤井喜一    印 
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                         第五回公判調書

・・・
現在においては一国民と雖も大臣に立会ふことが出来ます。或る意味に於て民主国であるとも云へます。もしこの思想が悪いと云ふのならば今の世を再び中世の如き封建社会に引き戻さなければなりません。
大日本帝国憲法第一条に
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあります。
日本帝国は統治者と被統治者とになつております。即ち一君万民でなければなりません。

次に北一輝氏の経済機構に対する思想に付いて、我国の経済機構に就いて改革を研究して居るものは経済機構を日本精神の上に具体化した場合如何になるかと云ふことを考へて居ないと思ひます。陸軍省の調査班あたりで研究して居るものは大体に於て露西亜の共産思想を持つて来てつぎはぎしたものであります。私は日本精神を経済機構に現はした場合が如何なるかと云ふことを非常に考へました。統制経済にすべきか私有財産制を承認すべきかと云ふことは問題でありました。私有財産制否認は日本の国情に合致せず、私有財産制の放任は三井三菱の如き大財閥を押へることが出来ません。結局私有財制限度制に依る外なしと考へました。私有財産制を確認して其の限度制を採ることは日本改造法案大綱を是認するものであります。

次に国際問題に付ては、日本改造法案大綱は、欧州大戦後の日本は印度の独立、支那本土の保全、豪洲の領有にあります。これは八紘一宇を完ふすべき我が国体に在ります。今支那ががちゃがちゃやつて居る様では駄目であります。北支那の問題にしろ露西亜の問題にしても私は外務省あたりの方策とは全く相容れません。日露協調と云ひますが之は我国体とは全く相容れないものでありますが、元老、重臣、軍閥の一部及財閥が之と結託して露西亜と協調せむとして居ります。八紘一宇の国体顕現の外交方針を樹立し、外国の大小国家に君臨しなければなりません。この国体より発したる外交方針から見て、現在の我国の軍備は極めて不定であります。海に陸に巨大なる軍備を要すると思ひます。或る兵が露西亜には沢山の機関銃があるのに我国は其数が少ないと云ふが之を如何にして補ひますかと云つて質問されたことがありました。私は其時日本精神に依つて之を補ふと答へましたが、事実は之を如何にして補ふかと云ふことは将校下士官の心配の種であります。

我が国はこの兵備上の欠陥を早く充実して大きく歩み出さねばなりません。北一輝の日本改造法案大綱に日本は極東を保全する為豪州を領有し印度の独立を図らねばならぬ。其の為には陸海軍の巨大なるを要するとあります。此の点も亦私の考へと一致して居ります。以上述べた通り日本改造法案大綱が間違って居ないと云ふことを明言して置きます。
・・・

問 又其頃国体明徴問題が喧しくなつて来たが、被告等同志は之に関して如何なる運動をしたか。
答 国体の真姿顕現と云ふことは私共の精神であります。国体明徴問題に付いても統帥権干犯問題と同様、私共が努力しなければならぬ問題でありますので、之に付いて同志に檄文を書いて配布致しました。又会合を催し意見の交換一般の啓蒙に力を致したのであります。

問 被告は高橋蔵相の国防予算問題に付ては如何に考へたか。
答 私は高橋蔵相の財政経済方針は維新を阻害するものであると思つて居りました。高橋蔵相の公債逓減の方針と云ふのは維新的な財政方針と相容れません。維新の財政方針は寧ろ公債を増発して財閥を破壊して行くものでなければなりません。特に昨年十一月予算閣議の席上に於て高橋蔵相は健全財政の名の下に軍部に重大警告として皇軍を誹謗しております。

問 昨年八月起つた相沢中佐の事件に付ては如何かんがへたか。
答 昨年七月の真崎教育総監更迭に付て統帥権干犯あり、何んとか処置しなければ血を見るに至ると考へて居りました。私は明瞭な証拠を握つたならば林大将を討取つて仕舞ふと思つて居りました。
処が軍司法は此の点に付て手を付ける風がありません。林大将も真崎大将も調べられる風がないので不審に思つて居りました。其の中に相沢三郎中佐が立つて策源地たる永田鉄山中将を討取つたのであります。私は相沢中佐とは昭和八年頃からの知合で時々会つて居ります。私は相沢中佐に関し証人として予審で取調を受けたとき真崎大将の更迭は統帥権干犯であると強調して置きました。私は兵馬大権干犯者を討取ることに依つて藤田東湖の詩中にある
  苟明大義正人心
  皇道奚患不興起
が実現するものと考へます。
相沢中佐の義挙は国体破壊の元兇たる特権階級の陣地に対し破壊孔を作つたものと思ひます。

問 同志が蹶起しなければならぬと云ふことは昨年十二月第一師団の満州派遣の報か伝つてからか
答 左様であります。昨年相沢中佐が起つたとき統帥権干犯の不義を討取らねばならないと考へて居たが一般の空気が維新的に目覚めて居るかどうか考へた末、今の時期に於て全国の同志が一斉に蹶起して維新を断行すると云ふ様な空気になつて居ない。一部同志の蹶起に依つて統帥権干犯者を討取るより外はないと思ひました。私は其の一人にならうと思つて居りました処、昨年十二月第一師団が渡満すると云ふことを知り、渡満前に蹶起しなければならぬと考へました。
・・・
問 二月二十二日夜栗原中尉宅に村中、河野大尉、栗原中尉及被告の四名が会合したか。
答 左様であります。
問 其時如何なることを協議決定したか。
答 蹶起の日時及襲撃部署等に付て協議しまして其の結果蹶起日時を安藤大尉が歩兵第三連隊歩兵第三連隊、同志山口一太郎大尉が歩兵第一聯隊の各週番司令として服務なること等、兵力出動上の便宜を考慮し、二月二十六日午前五時を期して同志一斉に蹶起蹶起するすること。
一、栗原中尉は一隊を指揮して内閣総理大臣官邸を襲撃して総理大臣岡田啓介に天誅を下す。
一、中橋中尉は一隊を指揮して大蔵大臣高橋是清私邸を襲撃し同人に天誅を下し、次で為し得れば宮城坂下門の於て奸臣と目する重臣の参内を阻止すること。
一、坂井中尉は一隊を指揮して内大臣斎藤実私邸を襲撃同人に天誅を下すこと
一、安藤大尉は一隊を指揮して侍従長官邸を襲撃して侍従長鈴木貫太郎に天誅を下すこ。
一、河野大尉は一隊を指揮して神奈川県湯河原滞在中の牧野伸顕を襲撃し天誅を下すこと。
一、対馬中尉は一隊を指揮して静岡県興津町西園寺公望別邸を襲撃し同人に天誅を下すこと。
一、野中大尉は一隊を指揮して警視庁を襲ひ之を占拠し警察権の発動を阻止すること。
一、丹生中尉は一隊を指揮して陸軍省参謀本部陸軍大臣官邸を占拠し、村中孝次、磯部浅一、香田大尉は陸軍大臣に面接して事態収拾に付善処方を要望すること。
一、田中中尉は一隊を指揮して野戦重砲兵第七連隊の自動車数台を以て輸送業務を担当すること。
等を決定し尚同志の合言葉として尊王討奸、下士官以上の同志の標識として三銭郵便切手を各自適宜の場所に貼付すること等を決定しました。

 私共の蹶起が第一師団渡満前に決行されると云ふので、満州に行くのが嫌でやるのだと云ふ様に誤解されては私共の従来からの国体観念を無視するものであります。
吉田松陰が閣老真鍋を大津に要撃せんとしたのは彼が大命を奉じながら直に之に従わなかつたことを怒つてでありまして、松陰が山口に居て高杉、久坂等の蹶起を促しる処、久坂が先生は大変焦つて居られると云つたのに対し松陰は不義を討つのに時期はないと云つて破門を申付けたと云ふことであります。私共の今回の蹶起も之と同様で、元老、重臣等の国体破壊の不義に対する怒りに燃えて起つたのでありまして決して第一師団渡満の事実が蹶起の時機を定めたものではありません。
合言葉を尊王討奸と定めたことは栗原中尉の説に依つたものであります。又同志の標識を定めると云ふことも栗原中尉の説でありました。そして三銭切手を用ふることは高杉晋作が藩論統一の為奇兵隊を率ひて行つたとき詩の中に「値三銭」と云ふことがあつたことを想い出して斯く定めたのであります。襲撃目標人物の選定理由は村中氏が当公廷於て述べた通りであります。 
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               判決主文                
被告人村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀、竹島継夫、対馬勝雄、渋川善助、
中橋基明、丹生誠忠、坂井直、田中勝、中島莞爾、安田優、高橋太郎、林八郎を各死刑に処す。
被告人麦屋清済、常盤稔、鈴木金次郎、清原康平、池田俊彦を各無期禁錮に処す。
被告人山本又を禁錮十年に処す。
被告人今泉義道を禁錮四年に処す。

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 


 

 

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二・二六事件 「蹶起趣意書」その他重要文書

2018年12月10日 | 国際・政治

 下記資料1は、二・二六事件で裁かれた将校の「蹶起趣意書」です。

 薩長を中心とする明治新政府によって形づくられた「皇国」日本。その日本で育った将校が、「昭和維新、尊皇斬奸」をかかげ、私利私欲をほしいままにしている”元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党”などの”奸臣軍賊”を暗殺して”昭和維新”を成し遂げようと蹶起したことがわかります。蹶起将校は”尊王攘夷”をかかげ、要人暗殺や異人斬りに命をかけた幕末の志士を彷彿とさせます。昭和に至ってもなお、人命や人権についての意識は、何も変わっていなかったように思います。

 資料2は当時の警備司令官香椎(カシイ)中将が、歩兵第一聯隊長に「蹶起部隊」を「指揮」し「警備に任ずべし」と命令した文書「師戦警第二号」と、「戒厳令」です。戒厳令公布後は香椎中将は戒厳司令官となっていましが、香椎中将の「師戦警第二号」の命令と、27日の「戒厳令」の公布は、蹶起部隊を”義軍”と認めたことを意味していました。だから、処刑された磯部浅一が、それを知ったとき「私等ハ思ハズ陸相官邸デ万歳ヲ叫ビマシタ」と証言しています。

 資料3は、二十六日午前中に宮中に参集した軍事参事官によって作成され、川島陸相によって下達された「陸軍大臣告示」です。これには、その後修正されたものがいくつかあるようですが、”蹶起”を”反乱”とは位置づけておらず、”国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム”として、肯定的に受け止めていることが見逃せません。

 資料4は、「第八師団長・下元熊弥中将」宛の「進言」と 歩兵第五聯隊による「川島義之陸軍大臣」宛の「進言」です。蹶起部隊は、歩兵第一連隊の二個中隊、歩兵第三連隊の四個中隊、近衛歩兵第三連隊の一中隊であったということなので、蹶起していない部隊にも、蹶起を指示し「進言」する将校が大勢いたというだと思います。具体的に、名前を挙げていることも見逃せません。それぞれに、許し難いことがあったのではないかと思います。 

 資料5は、蹶起将校たちが”奸臣軍賊”と呼んだ人たちの側の勝利をうかがわせる、”陸密第一四〇号 事件関係者ノ摘発並ニ捜査ニ関スル件”という文書です。
 戒厳令下の特設軍法会議において、主席検察官をつとめた匂坂春平には、二・二六事件に関する大量の秘蔵文書がありました。それを丹念に読み込んで「雪はよごれていた 昭和史の謎 二・二六事件最後の秘録」(日本放送出版協会)を世に出した著者(澤地久枝)が書いています。

”「今日に至るも」とあるが、五十年をへだてた今日もなお、まったく同様の疑問がある。鎮定直後に、すでにこういう意見が書かれ、しかもあの川島陸相によって達せられている

 「陸軍大臣告示」と「陸密第一四〇号」が、同じ川島陸相名であることに驚かざるを得ません。刑死した人たちの”奸臣軍賊”の声が聞こえてくるような気がします。

 そして、戒厳令下の上告なし、弁護人なし、非公開の特設軍法会議の結果が、資料6の「(七) 軍法会議」でわかります。

 下記資料は、「二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷」池田俊彦(編)高橋正衛(解説)(原書房)と「昭和史の謎 二・二六事件最後の秘録 雪はよごれていた」澤地久枝(日本放送出版協会)より抜粋しました(読み仮名はカタカナ表示にし、一部を省略しています)。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       二・二六事件、蹶起趣意書 (昭和十一年二月二六日)
 謹んで惟(オモンバカ)るに我が神洲たる所以は、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生成化育を遂げ、終(ツイ)に八紘一宇を完ふするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方(マサ)に万方(バンポウ)に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋(トキ)なり。

 然るに頃来(ケイライ)遂に不逞凶悪の徒簇出(ソウシュツ)して私心我慾を恣(ホシイママ)にし、至尊絶対の尊厳を藐視(ビョウシ)し僭上(センジョウ)之れ働き、万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦に呻吟せしめ、随つて外侮外患(ガイブガイカン))日を逐うて激化す。
 所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。倫敦(ロンドン)軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭窃(センセツ)を図りたる三月事件或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にして、その滔天(トウテン)の罪悪は流血憤怒真に譬(タト)へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰(フントウ)、相沢中佐の閃発となる寔(マコト)に故なきに非ず、
 而も幾度か頸血を濺(ソソ)ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく、然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安(コウショトウアン)を事とせり。露支英米との間一触即発して祖宗遺垂(イスイ)の此の神洲を一擲破滅に堕(オトシイ)らしむるは火を睹(ミ)るより明かなり。
 内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(チュウリク)して稜威(ミイツ)を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(センジョ)するに非ずんば皇謨(コウボ)を一空せん。恰(アタカ)も第一師団出動の大命渙発(カンパツ)せられ、年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍(エイジュ)の我等同志は、将に万里征途に上らんとして而(シカ)も顧みて内の世状憂心転々(ウタタ)禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して、彼の中枢を粉砕するは我等の任として能く為すべし。臣子たり股肱(ココウ)たるの絶対道を今にして尽さざれば破滅沈淪(チンリン)を翻(ヒルガ)へすに由なし
 茲に同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅(チュウメツ)して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳(カンノウ)を竭(ツク)し、以て神州赤子の微衷を献ぜんとす。

 皇祖皇宗の神霊冀(ネガワ)くば照覧冥助(ショウランメイジョ)を垂れ給はんことを。

            昭和十一年二月二十六日

                                                      陸軍歩兵大尉 野中四郎
                                                           外 同志一同
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   師戦警第二号
 歩兵第一聯隊長は朝来行動しある部下部隊及歩兵第三聯隊、野重砲七の部隊を指揮し、概ね桜田門、(日比谷)公園西北側角、(旧)議事堂、虎ノ門、溜池、赤坂見附、平河町、麹町四丁目、半蔵門を連ぬる線内の警備に任じ、歩兵第三聯隊長はその他の担任警備地区の警備に任ずべし
ーーーーーーーーーーー
   戒厳令
戒厳令別冊ノ通制定ス
右奉 勅旨布告候事
 (別冊)
 第一条 戒厳令ハ戦時若クハ事変ニ際シ兵備ヲ以テ全国若クハ一地方ヲ警戒スルノ法トス
以下、第十六条まで。

資料3---------------------------------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   陸軍大臣告示
 
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ
  天聴ニ達セラレアリ
ニ、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム 
三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼(キョウク)ニ堪エズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ

資料4-----------------------------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー-----
  第八師団長宛「進言」(秩父宮は第三十一連隊に勤務)

進言
一、今回之挙ハ一種ノ遭遇戦也
 情況明確ナラサルハ遭遇戦ノ常ニシテ 諸報告ヲ蒐メテ始テ処置セントスルカ如キハ概ネ失敗ニ終ルモノナルハ言ヲ俟タサル也
 須(スベカ)ラク速ニ戦闘ノ原則ニヨリテ行動スヘキモノト思惟ス
 本戦闘ニ於ケル原則トハ即チ維新翹望(ギョウボウ)ノ精神ニシテ絶対ナル尊皇心ニ外ナラス
一、破壊ハ本日ハ 建設ノ今日也
 速ニ 大詔 ノ渙発(カンパツ)ヲ仰キ維新直進ノ大号令渙発ヲ 蹶下(ケッカ)ニ奏上翹望スヘキ也
 一瞬ノ停滞遅疑ハ三千年ノ光輝アル皇国国体ヲ毀却シ皇軍ノ神聖ヲ汚辱シ神土又外侮ニ委スルヤモ計リ難シ
一、大詔ノ渙発ニヨリ又行動隊ヲシテ速ニ逆賊ノ名ヲ芟除(サンジョ)シ、皇軍一体ノ実(ジツ)ヲ挙クルハ緊喫事也
 以上ノ理由ニヨリ 速ニ 閣下ノ御決心ヲ熱望悃願(コンガン)シ奉ル

 右ノ御決心ニ基キ左ノ御処置ヲ速ニ取ラレンコトヲ進言ス
一、速ニ上京
 至尊(天皇)
 ヲ翼賛シ奉ラレ度
一、速ニ
 殿下(秩父宮)
 ノ御上京御参内ヲ請ヒ奉ラレ度
一、前二項ニ伴ヒ 命ヲ尊皇ニ捧ケ鴻毛ノ軽キニ比ス生等ノ微衷(ビチュウ)ヲ憐マレ給ヒ御途中警備ノ任ヲ賜ハラルルヲ
 祖宗神霊
 ノ照鑑ノ下ニ敢テ熱願ス
一、以上ノ外団下一般ノ意志ヲ国家中枢部ニ進言スルハ維新動向決定ノ重大要素ト信セラルルヲ以テ右速ニ御処置アラレンコトヲ望ム
 謹テ進言ス
 皇紀二千五百九十六年二月二十六日
                                               少尉 小岩井光夫
                                               少尉 倉本 條蔵
                                               中尉 遠山弥兵衛
                                                  杉野 良任
                                                  志村 陸城
                                                  出雲井英雄
                                               少尉 小村谷康二
                                               大尉 末松 太平
                                                  亀居 英男
                                               中佐 谷口 呉朗
                                               少尉 高谷 隆利
   中将 下元 熊弥 閣下   
         麾下  
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  進言
今回ノ異変ハ断シテ単ナル一事件トシテ葬リ去ラルヘキニ非ス
須(スベカラ)ク昭和御維新断行ニ嚮ヒ敢為(カンイ)直進スヘシ
是カ為左ノ如キ旧指導階級ノ現存、現出ハ断シテ許容スヘカラス
例ヘハ 西園寺公望
    一木喜徳郎
    牧野伸顕 等 
例ヘハ 後藤文夫 等
例ヘハ 鈴木喜三郎
    町田忠治
    安達謙蔵 等
例ヘハ 三井・三菱等財閥
    高橋是清
    池田成彬 等

例ヘハ 宇垣一成 等々
敢テ進言ス
皇紀二千五百九十六年二月二十七日
 歩兵第五聯隊

 このあとへ、中尉志村陸城を筆頭に中佐谷口呉朗まで、少尉十名、大尉八名、少佐三名、中佐二名三等主計一名、一等主計一名、三等軍医一名 二等軍医一名、一等軍医一名、そして特務曹長一名の三十七名が連署している。進言の相手は
 陸軍大臣 川島義之閣下 
 である。この進言にも小野連隊長の捺印があるが、もうひとつの印は「飯野」と読める。旅団長は飯野庄三郎であった。
資料5ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   陸密第一四〇号 事件関係者ノ摘発並ニ捜査ニ関スル件
ニ、本事件ニ関スル観察
”(前略)彼等幹部及背後の一味の中には此の大命すら君側の奸臣の作為せる偽命と為すものあり寔に言語道断にして 聖旨の存する所 御軫念(シンネン)の如何に深きかを思う時毫も弁ずるの要なし
反乱経過中に於ける二、三、事実に就き疑を懐くものなきにあらず即ち左の如し
(一)「陸軍大臣ヨリ」と題する大臣の意嚮(イコウ)の伝達
(二)要地占拠部隊を戒厳部隊の一部として併せ指揮せる件
(三)鎮定に四日を要し其の間屡々反乱軍をして自由奔放の行為を為さしめたること
此等の措置の為反乱軍をして一時順逆の理を誤解せしめたるのみならず、部外官民をして今次の反乱は全軍又は軍首脳部の後援に依り行なわれ又は軍自体の八百長なるが如き疑惑を深からしめ今日に至るもなお完全に之を解消する能わざる状態なり(枢密院本会議の<天皇の>御前に於ても質問出でたり) 

資料6--------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーー---------------------------ーーーー
                          (七) 軍法会議
三月一日の枢密院会議で次のような緊急勅令が可決された。そして、この勅令によって、三月四日、東京陸軍軍法会議が開設された。

    緊急勅令
 朕茲ニ緊急ノ必要アリト認メ枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ帝国憲法第八条第一項ニヨリ東京陸軍軍法会議ニ関スル件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム
  御名御璽
   昭和十一年三月四日
                                                 内閣総理大臣
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    陸軍刑法
    第二編 罪
     第一章 反乱の罪
第二十五条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
 一 首魁ハ死刑ニ処ス
 ニ 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑、無期若クハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ三年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 三 附和随行シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス 

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