朝日新聞は、8月18日、社説に「戦後79年に思う」「戦争を起こさぬ主権者の責任」と題する記事を掲載しました。
その記事は、結論ともいえる下記のような文章で結ばれていました。
”私たちは何をすべきか。
権力を批判する自由があり、誰もが尊重され権利が守られる社会を築く。政策や法制度の変化を点検する。そうした営みに、主権者として自律的にかかわる。決して未来に惨禍を起こさぬために”
立派な文章だと思いますが、私は、言葉の裏に、中国やロシアには権力を批判する自由がない、という中ロ敵視の意味が隠されているように感じました。そして、朝日新聞を含む日本の大手メディアが、”誰もが尊重され権利が守られる社会を築く”ための報道をしていないと思うのです。
先日、沖縄タイムスは「過剰な基地負担に憤り 辺野古座り込み抗議10年」と題する記事を掲載しました。辺野古新基地の問題や米兵の少女誘拐・暴行事件の問題、自衛隊の南西シフトの問題等に声をあげ続けている人たちがいるのに、大手メディアで、ほとんど報道されないのはなぜでしょうか。
また、岸田首相が独裁的に決定し、防衛大臣と財務大臣に指示をした防衛費増額決定の経緯を問題とせず、中国敵視の報道を続けているのはなぜでしょうか。バイデン大統領は、先だって、ABCテレビのインタビューで、自身の功績として「日本に予算を増額させた」と述べたのです。日本の防衛費増額方針は、バイデン大統領が自らの手柄として語ったのです。ボケ老人の空想などではないのです。だから、日本の「自主的判断」などという言い訳は通用しないと思います。
”政策や法制度の変化を点検する”というのであれば、日本の主権や民主主義に関わるこの重大問題を追及すべきではないでしょうか。それをせず、上記のような文章で社説を締め括るのは、朝日新聞が、アメリカの戦略に従っているからで、読者に「仕方がない」と受け止めさせるためではないか、と私は思ってしまうのです。
朝日新聞は、8月14日には、「アフガン 少女は心も壊された」「児童婚・暴力・増えるうつ病」「学校も遊園地も許されない タリバン支配3年」「自殺図った少女 医師になりたい」というようなタリバン非難の記事を掲載しました。でも、タリバンが厳格なイスラム思想に固執し、乗り越えようとしないことの責任の多くは、アメリカのアフガニスタン侵攻・爆撃にあるのではないでしょうか。
アメリカ同時多発テロ事件の首謀者ウサーマ・ビン・ラーディンを匿っているとして、アメリカが一方的にアフガニスタンに侵攻し、激しい爆撃をくり返えして生活基盤を破壊し、タリバン政権を崩壊させたことが、アフガニスタンの現在のさまざまな悲劇につながっているのではないでしょうか。どうして、そうした経緯や実態を問題にせず、タリバンを悪者して済まそうとするのでしょうか。
一方的に家族や友人、知人を殺され、生活基盤を破壊された人たちが、アメリカや有志連合の国々の文化や思想を受け入れようとするでしょか。貧しい生活が続くことになって、伝統のイスラム思想に固執せざるを得ないのではないでしょうか。日本も、アフガニスタン侵攻・爆撃に関わったことを忘れてはならないと思います。
朝日新聞のタリバン理解も、”主権者として自律的”なものではなく、歪んでいる、と私は思います。アメリカの戦略に基づく、善悪を逆様に見せる報道だと思います。
タリバンがアメリカを爆撃したでしょうか。ウサーマ・ビン・ラーディンを匿ったら、アメリカや有志連合の国々に、アフガニスタンのタリバンを爆撃する権利が発生するのでしょうか。
下記は、「わたしは見たポル・ポト キリング・フィールズを駆けぬけた青春」馬渕直城(集英社)からの抜萃ですが、
”軍は私たちを尋問した後、ラングーンの日本大使館に送ろうとし、日本大使館に問い合わせたが、あろうことか大使館は私たちを国境からタイ側へ追放するようにと指示した。
自国民を保護するどころか、騒乱中に陸路、国境まで送り返せというのである。極悪非道で通る軍事政権の地方司令官でさえ信じられない様子で、私に申し訳ないといった顔を向けた”
というような記述があります。
また、「あとがき」には、
”米軍の撤退のため、ある日突然カンボジアに拡大されたベトナム戦争。そして東南アジアの平和な仏教国を長い戦争に巻き込んでしまいました。それはあくまでも外からやってきた戦争で内戦など一度もありませんでした”
という記述もあります。善悪は、客観的な事実を知らないと判断できないと思います。
そして、「戦争を起こさぬ主権者の責任」は、戦争をくり返してきたアメリカとの同盟関係の見直しによって、果たされるのではないかと思います。
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第六章 復興のなかで
揺れるインドシナ
1988年、ビルマで民主化闘争に火がついた。私は友人のラオス専門家、竹内正石氏と闘争最盛期に潜入取材を行った。
入国に際し、旧日本陸軍が英領ビルマに侵攻したのと同じルートを使った。タイのメソットから国境のムーイ川を渡り、ドーナ山脈を越えて行くルートだ。
初めビルマ軍事政権に対して独立闘争を行っているカレン民族解放軍に案内を頼んだが、無理だと断られた。簡単に歩いて行けるような道はないのだ。
仕方なしにメソットに住む旧日本兵中野弥一郎さんにお願いし、現地に詳しい案内人を見つけてもらった。
吸血ダニやヒルたかられ、難路に苦しみながらも、どうにかカレン州の州都パアンへ辿り着いた。そこで反政府活動を取材している時、その時はまだ中立を装っていたビルマ軍パアン司令官から呼び出され、警察署に軍隊一個小隊の護衛(監視)付きで軟禁された。「暴徒から守ってやる」という理由だった。
その拘留中、ビルマ軍は反乱鎮圧に動き、民主化闘争を武力で弾圧した。ちょうど世界中がソウル・オリンピックに目を奪われている時だった。
軍は私たちを尋問した後、ラングーンの日本大使館に送ろうとし、日本大使館に問い合わせたが、あろうことか大使館は私たちを国境からタイ側へ追放するようにと指示した。
自国民を保護するどころか、騒乱中に陸路、国境まで送り返せというのである。極悪非道で通る軍事政権の地方司令官でさえ信じられない様子で、私に申し訳ないといった顔を向けた。
ビルマ軍部は私たちを国境から安全に追放するために、国境付近に展開しているカレン軍に軍事攻撃を仕掛けた。補給用武器弾薬を送る輸送軍団の準備をするのに、まず数週間かかった。
輸送に使用された軍用トラックは、軍事目的に使われてはないはずの日本ODAによる車だった。軍用に再塗装された日本製トラックは、少数民族ゲリラが待ち伏せ攻撃を行なう道を走った。車の轍(ワダチ)分だけが二本、コンクリートで舗装されている。世界でビルマだけにある奇妙な道だった。そこを通り、国境の街ミャワデまで送られたのである。
そのコンボイの隊長F中尉は、不思議なことにアメリカのウエスト・ポイント陸軍士官学校の出身だった。まる2日間の護送中の会話のハイライトは、同年9月18日に軍部が行った”血の弾圧”をどう思うかと訊いた時だった。彼は答えた。
「軍人は命令に従うものだ」
「ではその命令が人間として従えないものであったらどうするのか」
「どのような命令でも、従うのが軍人だ……だが、あえて言うなら、人間として従いづらい命令は出してほしくない」
暗に、”血の弾圧”を批判した。彼はパアンの街で購入したタバコを、道すがら街道警備に立つ兵士たちに配り、労をねぎらう心遣いを見せていた。
日本政府はビルマを何とかインドネシアのような国にして、ASEANメンバーとしてうまくやって行かせたいと考えている。背景には先述したように、ODA資金の円滑な還元(キックバック)の問題がからんでいると思われる。アウンサン・スーチーさんの軟禁や民主化運動を武力弾圧する軍事独裁国家にはODA資金を投入しづらい。その点、インドネシアのような国ならやりやすいということだろう。
同じ年の春、私はインドネシアのジョクジャカルタへ行った。ジョグジャカルタでは、その数年前に突発的なデモが起っていたが、私が行った時にはデモは完全に収まり、何かが起こりそうだという気配はどこにも感じられない。
だが、そうはいっても人々の生活は決して楽ではなく、みな貧困に喘いでいた。きっかけさえあれば不満が爆発するだろう。事実、その後インドネシアの各地で反政府活動による事件が頻発した。ごく一握りの金持ちと、圧倒的大多数を占める貧困層。その不満は並大抵のことでは解消できない。取材後ほどなくして、インドネシアのスハルト大統領は倒れ、その後何人かの大統領が立ったが、誰一人として最大の問題である貧富の激しい差を縮めることができた者はいない。
カンボジアに国連の介入が決まり、91年末から先遣隊(UNAMIC)が投入された。そのなかに一人アジア人の好青年がいた。インドネシア軍のA少佐だった。
カンボジア王朝のスリビジャヤ王国時代は、その版図がインドネシアにまで及んでいたといわれているが、A少佐の顔付きは、アンコール・トムを都とし造成したクメール王国の覇王ジャヤバルマン七世にそっくりだった。彼はその後のUNATC時代になってからもカンボジア各派と連絡を取り、各派から信頼されて重要な役割を果たし続けた。
インドネシア軍が当時、一番武力衝突事件が多かったコンポン・トム州に派遣されることが決まると、A少佐はその司令官に任命された。ポル・ポト軍、シハヌーク軍とヘン・サムリン軍、ベトナム軍が戦闘を続けるなか、その危険地帯をうまく治め、各派の支配下の人々と連絡を取り、停戦を進めて武器の廃棄、選挙準備をするなど、彼の手腕は国連PKO軍の中でも高く評価されていた。
UNTAC軍のなかでも、オランダ軍やオーストラリア軍が、わざわざポル・ポト軍を挑発するような行動を取ったことに対して、インドネシア軍は同じ顔つきをしたアジア人同士ということもあってか、友好関係を保つように行動した。
しかしカンボジアでは友好的だったそのインドネシア軍が、東チモールの独立に際しては、過酷な弾圧を行った。また、インドネシアは世界最大のイスラム国家であり、米英の反イスラム戦略の対象となっていることから、これに反発するイスラム教原理主義の台頭も懸念されている。こうした状況の下、A少佐のような青年将校が支配権力と民衆の間で翻弄され、苦労することがないようにと願わずにはいられない。
これらインドシナ半島をめぐる情勢が揺れ動いているなか、1992年9月、日本の自衛隊はカンボジアのUNTAC時代に戦後初めてとなる海外派兵を行った。
最初は基地作りから始め、簡易道路を作った。戦後最大の国連介入だというのに、UNTAC自体には資金が乏しく、カンボジアの激しい雨季に耐えられるような道路は、結局一本も作れなかった。海外派兵という既成事実ばかりが先行し、内実が伴わなかったのは残念としか言いようがない。
国連監視下の総選挙をポル・ポト派が妨害するという噂が流れた時、自衛隊はそれまで見せなかった自動小銃を持ち、武装した。そして道路工事中も防衛のためと称して、一般通行人に銃口を向けた。この時点で自衛隊は占領進駐外国軍となった。このことによって、どう言い繕おうと、自衛隊はカンボジア国民にとって敵となったのだ。これは国連側の妄想で、実際にポル・ポト派は選挙に参加こそしなかったが、フンシンペック党を支持したのだった。