真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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戦争を起こさぬ主権者の責任とは、

2024年08月22日 | 日記

 朝日新聞は、818日、社説に「戦後79年に思う」「戦争を起こさぬ主権者の責任」と題する記事を掲載しました。

その記事は、結論ともいえる下記のような文章で結ばれていました。

私たちは何をすべきか。

 権力を批判する自由があり、誰もが尊重され権利が守られる社会を築く。政策や法制度の変化を点検する。そうした営みに、主権者として自律的にかかわる。決して未来に惨禍を起こさぬために

 立派な文章だと思いますが、私は、言葉の裏に、中国やロシアには権力を批判する自由がない、という中ロ敵視の意味が隠されているように感じました。そして、朝日新聞を含む日本の大手メディアが、”誰もが尊重され権利が守られる社会を築く”ための報道をしていないと思うのです。

 先日、沖縄タイムスは「過剰な基地負担に憤り 辺野古座り込み抗議10」と題する記事を掲載しました。辺野古新基地の問題や米兵の少女誘拐・暴行事件の問題、自衛隊の南西シフトの問題等に声をあげ続けている人たちがいるのに、大手メディアで、ほとんど報道されないのはなぜでしょうか。

 また、岸田首相が独裁的に決定し、防衛大臣と財務大臣に指示をした防衛費増額決定の経緯を問題とせず、中国敵視の報道を続けているのはなぜでしょうか。バイデン大統領は、先だって、ABCテレビのインタビューで、自身の功績として「日本に予算を増額させた」と述べたのです。日本の防衛費増額方針は、バイデン大統領が自らの手柄として語ったのです。ボケ老人の空想などではないのです。だから、日本の「自主的判断」などという言い訳は通用しないと思います。

政策や法制度の変化を点検する”というのであれば、日本の主権や民主主義に関わるこの重大問題を追及すべきではないでしょうか。それをせず、上記のような文章で社説を締め括るのは、朝日新聞が、アメリカの戦略に従っているからで、読者に「仕方がない」と受け止めさせるためではないか、と私は思ってしまうのです。 

 

 朝日新聞は、814日には、「アフガン 少女は心も壊された」「児童婚・暴力・増えるうつ病」「学校も遊園地も許されない タリバン支配3」「自殺図った少女 医師になりたい」というようなタリバン非難の記事を掲載しました。でも、タリバンが厳格なイスラム思想に固執し、乗り越えようとしないことの責任の多くは、アメリカのアフガニスタン侵攻・爆撃にあるのではないでしょうか。

 アメリカ同時多発テロ事件の首謀者ウサーマ・ビン・ラーディンを匿っているとして、アメリカが一方的にアフガニスタンに侵攻し、激しい爆撃をくり返えして生活基盤を破壊し、タリバン政権を崩壊させたことが、アフガニスタンの現在のさまざまな悲劇につながっているのではないでしょうか。どうして、そうした経緯や実態を問題にせず、タリバンを悪者して済まそうとするのでしょうか。

 一方的に家族や友人、知人を殺され、生活基盤を破壊された人たちが、アメリカや有志連合の国々の文化や思想を受け入れようとするでしょか。貧しい生活が続くことになって、伝統のイスラム思想に固執せざるを得ないのではないでしょうか。日本も、アフガニスタン侵攻・爆撃に関わったことを忘れてはならないと思います。

 朝日新聞のタリバン理解も、”主権者として自律的”なものではなく、歪んでいる、と私は思います。アメリカの戦略に基づく、善悪を逆様に見せる報道だと思います。

 タリバンがアメリカを爆撃したでしょうか。ウサーマ・ビン・ラーディンを匿ったら、アメリカや有志連合の国々に、アフガニスタンのタリバンを爆撃する権利が発生するのでしょうか。

 下記は、「わたしは見たポル・ポト キリング・フィールズを駆けぬけた青春」馬渕直城(集英社)からの抜萃ですが、

軍は私たちを尋問した後、ラングーンの日本大使館に送ろうとし、日本大使館に問い合わせたが、あろうことか大使館は私たちを国境からタイ側へ追放するようにと指示した。

 自国民を保護するどころか、騒乱中に陸路、国境まで送り返せというのである。極悪非道で通る軍事政権の地方司令官でさえ信じられない様子で、私に申し訳ないといった顔を向けた

 というような記述があります。

 また、「あとがき」には、

”米軍の撤退のため、ある日突然カンボジアに拡大されたベトナム戦争。そして東南アジアの平和な仏教国を長い戦争に巻き込んでしまいました。それはあくまでも外からやってきた戦争で内戦など一度もありませんでした”

 という記述もあります。善悪は、客観的な事実を知らないと判断できないと思います。

 そして、「戦争を起こさぬ主権者の責任」は、戦争をくり返してきたアメリカとの同盟関係の見直しによって、果たされるのではないかと思います。

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                      第六章 復興のなかで

 揺れるインドシナ

 1988年、ビルマで民主化闘争に火がついた。私は友人のラオス専門家、竹内正石氏と闘争最盛期に潜入取材を行った。

 入国に際し、旧日本陸軍が英領ビルマに侵攻したのと同じルートを使った。タイのメソットから国境のムーイ川を渡り、ドーナ山脈を越えて行くルートだ。

 初めビルマ軍事政権に対して独立闘争を行っているカレン民族解放軍に案内を頼んだが、無理だと断られた。簡単に歩いて行けるような道はないのだ。

 仕方なしにメソットに住む旧日本兵中野弥一郎さんにお願いし、現地に詳しい案内人を見つけてもらった。

 吸血ダニやヒルたかられ、難路に苦しみながらも、どうにかカレン州の州都パアンへ辿り着いた。そこで反政府活動を取材している時、その時はまだ中立を装っていたビルマ軍パアン司令官から呼び出され、警察署に軍隊一個小隊の護衛(監視)付きで軟禁された。「暴徒から守ってやる」という理由だった。

 その拘留中、ビルマ軍は反乱鎮圧に動き、民主化闘争を武力で弾圧した。ちょうど世界中がソウル・オリンピックに目を奪われている時だった。

 軍は私たちを尋問した後、ラングーンの日本大使館に送ろうとし、日本大使館に問い合わせたが、あろうことか大使館は私たちを国境からタイ側へ追放するようにと指示した。

 自国民を保護するどころか、騒乱中に陸路、国境まで送り返せというのである。極悪非道で通る軍事政権の地方司令官でさえ信じられない様子で、私に申し訳ないといった顔を向けた。

 ビルマ軍部は私たちを国境から安全に追放するために、国境付近に展開しているカレン軍に軍事攻撃を仕掛けた。補給用武器弾薬を送る輸送軍団の準備をするのに、まず数週間かかった。

 輸送に使用された軍用トラックは、軍事目的に使われてはないはずの日本ODAによる車だった。軍用に再塗装された日本製トラックは、少数民族ゲリラが待ち伏せ攻撃を行なう道を走った。車の轍(ワダチ)分だけが二本、コンクリートで舗装されている。世界でビルマだけにある奇妙な道だった。そこを通り、国境の街ミャワデまで送られたのである。

 そのコンボイの隊長F中尉は、不思議なことにアメリカのウエスト・ポイント陸軍士官学校の出身だった。まる2日間の護送中の会話のハイライトは、同年918日に軍部が行った”血の弾圧”をどう思うかと訊いた時だった。彼は答えた。

「軍人は命令に従うものだ」

「ではその命令が人間として従えないものであったらどうするのか」

「どのような命令でも、従うのが軍人だ……だが、あえて言うなら、人間として従いづらい命令は出してほしくない」

 暗に、”血の弾圧”を批判した。彼はパアンの街で購入したタバコを、道すがら街道警備に立つ兵士たちに配り、労をねぎらう心遣いを見せていた。

 日本政府はビルマを何とかインドネシアのような国にして、ASEANメンバーとしてうまくやって行かせたいと考えている。背景には先述したように、ODA資金の円滑な還元(キックバック)の問題がからんでいると思われる。アウンサン・スーチーさんの軟禁や民主化運動を武力弾圧する軍事独裁国家にはODA資金を投入しづらい。その点、インドネシアのような国ならやりやすいということだろう。

 同じ年の春、私はインドネシアのジョクジャカルタへ行った。ジョグジャカルタでは、その数年前に突発的なデモが起っていたが、私が行った時にはデモは完全に収まり、何かが起こりそうだという気配はどこにも感じられない。

 だが、そうはいっても人々の生活は決して楽ではなく、みな貧困に喘いでいた。きっかけさえあれば不満が爆発するだろう。事実、その後インドネシアの各地で反政府活動による事件が頻発した。ごく一握りの金持ちと、圧倒的大多数を占める貧困層。その不満は並大抵のことでは解消できない。取材後ほどなくして、インドネシアのスハルト大統領は倒れ、その後何人かの大統領が立ったが、誰一人として最大の問題である貧富の激しい差を縮めることができた者はいない。

 カンボジアに国連の介入が決まり、91年末から先遣隊(UNAMIC)が投入された。そのなかに一人アジア人の好青年がいた。インドネシア軍のA少佐だった。

 カンボジア王朝のスリビジャヤ王国時代は、その版図がインドネシアにまで及んでいたといわれているが、A少佐の顔付きは、アンコール・トムを都とし造成したクメール王国の覇王ジャヤバルマン七世にそっくりだった。彼はその後のUNATC時代になってからもカンボジア各派と連絡を取り、各派から信頼されて重要な役割を果たし続けた。

 インドネシア軍が当時、一番武力衝突事件が多かったコンポン・トム州に派遣されることが決まると、A少佐はその司令官に任命された。ポル・ポト軍、シハヌーク軍とヘン・サムリン軍、ベトナム軍が戦闘を続けるなか、その危険地帯をうまく治め、各派の支配下の人々と連絡を取り、停戦を進めて武器の廃棄、選挙準備をするなど、彼の手腕は国連PKO軍の中でも高く評価されていた。

 UNTAC軍のなかでも、オランダ軍やオーストラリア軍が、わざわざポル・ポト軍を挑発するような行動を取ったことに対して、インドネシア軍は同じ顔つきをしたアジア人同士ということもあってか、友好関係を保つように行動した。

 しかしカンボジアでは友好的だったそのインドネシア軍が、東チモールの独立に際しては、過酷な弾圧を行った。また、インドネシアは世界最大のイスラム国家であり、米英の反イスラム戦略の対象となっていることから、これに反発するイスラム教原理主義の台頭も懸念されている。こうした状況の下、A少佐のような青年将校が支配権力と民衆の間で翻弄され、苦労することがないようにと願わずにはいられない。

 これらインドシナ半島をめぐる情勢が揺れ動いているなか、19929月、日本の自衛隊はカンボジアのUNTAC時代に戦後初めてとなる海外派兵を行った。

 最初は基地作りから始め、簡易道路を作った。戦後最大の国連介入だというのに、UNTAC自体には資金が乏しく、カンボジアの激しい雨季に耐えられるような道路は、結局一本も作れなかった。海外派兵という既成事実ばかりが先行し、内実が伴わなかったのは残念としか言いようがない。

 国連監視下の総選挙をポル・ポト派が妨害するという噂が流れた時、自衛隊はそれまで見せなかった自動小銃を持ち、武装した。そして道路工事中も防衛のためと称して、一般通行人に銃口を向けた。この時点で自衛隊は占領進駐外国軍となった。このことによって、どう言い繕おうと、自衛隊はカンボジア国民にとって敵となったのだ。これは国連側の妄想で、実際にポル・ポト派は選挙に参加こそしなかったが、フンシンペック党を支持したのだった。
















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アレクセイ・ナワリヌイ死亡の報道に見える国の姿

2024年02月21日 | 日記

 メディアには、読者や視聴者に真実を伝える責任があると思います。
 ロシア政府が16日、ナワリヌイ氏が北部シベリアの刑務所で意識を失い死亡したと発表し、ロシアの刑務所当局も、声明で、ナワリヌイ氏が「散歩後に気分が悪くなり、直後に意識を失った」と説明したといいます。救命措置もほどこしたということです。
 にもかかわらず、テレ朝は、ロシアと対立するウクライナのゼレンスキー大統領が、「プーチンは望む者は誰でも殺す。ナワリヌイ氏が殺害された後、プーチンをロシアの合法的な元首と見なすのは馬鹿げている」と非難したことだけを伝えました。私は、根拠を知りたいと思ったのですが、示されませんでした。

 また、朝日新聞は17日夕刊で、”ナワリヌイ氏死亡 バイデン氏が追悼 「死の責任はプーチンに」”と題し、下記のように伝えました。
バイデン米大統領は16日、ロシアの反政権派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏が死亡したと伝えられたことを受けて、急きょホワイトハウスで演説した。「驚きはないが激怒している」と語り、「間違いなく死の責任はプーチン(大統領)にある」と断言した。
 バイデン氏はナワリヌイ氏の活動について「勇敢にも汚職や暴力、プーチン一味によるあらゆる悪事に立ち向かった」と語った。また、毒殺未遂に遭った後もロシアに戻ることを選んだとして、「プーチンにはない多くのものをもっていた。法の支配が存在するロシアをつくることに身を捧げた指導者だった」とたたえた。
 プーチン氏については「いまウクライナで見られるように他国の市民を標的にするだけでなく、自国民にもひどい罪を犯している」と強く非難した。ナワリヌイ氏の死因については「何が起こったのか正確にはわからない」と述べた。
 バイデン大統領は、最後に言い訳めいたことを少しつけ加えてはいますが、基本的には、ゼレンスキー大統領と同じように、プーチン大統領の責任を問う根拠は示していません。メディアは、そのことをきちんとつけ加える必要があると思います。
 そういう意味で、テレ朝や朝日新聞のゼレンスキー大統領およびバイデン大統領の発言に関する報道は、読者や視聴者に真実を伝える責任をきちんと果しているとは言えないと思います。根拠を示さず語ったことも含めて、読者や視聴者に伝える責任があると思うのです。そうでなければ、陰謀論が国際社会を動かしてしまうことに加担することになってしまうと思います。
 
 またメディアが、その後も連日、ゼレンスキー大統領やバイデン大統領の主張を支持し、補強するような報道を続けていることも目に余ります。
 朝日新聞の「素粒子」の欄には、”ロシアの極寒の地にナワリヌイ氏死す。どんな悪魔のささやきにも屈せず「諦めないで」と笑顔で照らし続けた”などとありました。
 さらに朝日新聞は、その後社説でも、「ナワリヌイ 弾圧国家が恐れた勇気」などと題する記事を掲載しました。ナワリヌイを持ち上げ、じわじわとロシアを追い詰めていくような報道だと思います。 

 アメリカやイギリスがやってきたことをふり返れば、とても受け入れることはできない報道です。特に、アメリカがくり返し国際社会を欺瞞してきた過去を、なかったことにするような報道だと思います。

 アメリカが、国際社会に発する政治的情報は圧倒的です。そして、ロシアや中国に関する政治的情報は、大なり小なりプロパガンダがらみだと思います。
 Twitterには、ナワリヌイが、ロシアでカラー革命を引き起こすために、MI6(イギリスの秘密情報機関)将校ウィリアム・フォードに、年間1000万ドルを要求したという、下記のような情報がありました。


”Video of Alexei Navalny asking MI6 Officer Ford for $10Million a year to start a color revolution in Russia.”(https://twitter.com/i/status/1758637374140195144)は削除されていましたが、こちらにありました(https://twitter.com/search?q=%2410Million%20a%20year&src=typed_query)。


 この情報が真実かどうかは、私にはわかりませんが、無視できません。頭の片隅に置いて、今後の展開を見ていく必要があると思っています。なぜなら、都市から遠く離れた北極圏の極寒の地に拘束されているナワリヌイ氏を、プーチン大統領が、今、殺さなければならない差し迫った理由はないのではないかと思うのです。むしろ、ウクライナ戦争の支援で行き詰まり、局面を打開したいのは、アメリカやウクライナ、NATO諸国の方ではないかと思います。だから、私は、まったく逆のことを想像してしまいます。
 西側諸国、これほどナワリヌイ氏の死亡にこだわるのは、彼が、ロシアを撹乱し、プーチン政権を転覆するというアメリカの戦略に欠かせない重要人物であったからではないかと想像します。

 先日も触れましたが、ウクライナ戦争が始まった当初、毎日のようにメディアに登場し、解説をしていた大学教授や専門家と言われる人たちは、皆、同じようなことを話していたと思います。ウクライナ戦争は、独裁者プーチンが、ウクライナ領土を奪い取るために始めたというような内容でした。
 ウクライナ戦争の経緯を解説したり、どのようにすれば停戦に持ち込むことができるかというような話は、ほとんどなかったのです。だから、ロシアを孤立化させ弱体化させたいアメリカの戦略に沿うような解説だと思って聞いていました。
 ウクライナ戦争の背景を理解するために欠かせないろいろいろな事実、例えば、ロシアのウクライナ侵攻(特別軍事作戦)に関わるプーチン大統領の侵攻前の演説、マイダン革命の実態およびアメリカの関与、ウクライナを巻き込んだ大がかりなNATOの軍事訓練、ノルドストリーム2に関連するアメリカのロシアに対する制裁の実態や経過、ウクライナの大量破壊兵器の存在、NATOの東方拡大の経過や実態などの話はほとんど聞くことがありませんでした。
 解説はいつも、プーチン大統領の野望の内容や由来、ウクライナに対する支援の必要性、両国が使用している武器の性能、考えられる両国の作戦、戦況などだったと思います。
 だから私は、解説を聞くたびに、日本がアメリカの影響下にあることを強く感じていました。


 圧倒的な経済力と軍事力を誇るアメリカは、豊富な資金をもって、アメリカの方針に沿う考え方を深めたり、研究したりしようとする優秀な人物に、必要な情報や研究の場を与え、活躍することのできる職場や役職を準備して育てているのだと思います。そして、アメリカの政治的な情報を発信する学者や軍事の専門家を育成しつつ、そのネットワークを拡大してきたのだと思います。

 そうした人材育成システムが、日本でも、アメリカと連携して機能するようになっているので、ウクライナ戦争の解説に出てきた専門家や大学教授が、皆、同じように、アメリカの戦略に沿う解説をしたのだろうと想像します。
 だから、日本の大学もメディアの中枢も、そうした「アメリカ国務省閥」とか、「アメリカ軍産閥」でもいうような人たちの勢力が強くなり、日本の国際政治に関わる報道は、ほぼ「アメリカ国務省閥」あるいは、「アメリカ軍産閥」の人たちによってもたらされることになってしまったのだと思います。だからかなり偏っており、真実は伏せられていると思います。アメリカに不都合な報道は、ほとんどないのです。

 ロシア政府が、ナワリヌイ氏が死亡したことを発表するや、死亡原因がはっきりわからない段階で、即座に「プーチンが殺した」「プーチンの責任だ」と騒ぎ立てたゼレンスキー大統領バイデン大統領の反応の仕方に、人命尊重の観点からではなく、とにかく、敵対するプーチン政権を潰したいという姿勢がはっきりあらわれていると思います。
 毎日毎日、女性や子どもを中心とするガザのパレスチナが死んでいるのに、本気で止めようとせず、支援を続けてのがアメリカであることに目をつぶって、ナワリヌイの死亡関する憶測報道を続けていては、世界が平和になることはないと思います。

 だから、こだわっていろいろ調べるのですが、「日米安保条約」の第六条に基づいて定められた、「日米地位協定」の第二条には、下記のようにあります。
”第二条【施設・区域の提供と返還】
 1(a) 合衆国は、相互協力及び安全保障条約第六条の規定に基づき、日本国内の施設及び区域の使用を許される。個々の施設及び区域に関する協定は、第25条に定める合同委員会を通じて両政府が締結しなければならない。「施設及び区域」には、当該施設及び区域の運営に必要な現存の設備、備品及び定着物を含む。
  (b)合衆国が日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定の終了の時に使用している施設及び区域は、両政府が(a)の規定に従って合意した施設及び区域とみなす。
以下略
 この条約によりアメリカ合衆国は、当時の国務長官ジョン・フォスター・ダレスが語った「望む数の兵力を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を確保」したのです。
 わかりにくい表現ですが、 「日本国内の施設及び区域の使用を許される」ということは、どこでも、自由に使う、ということなのです。特定の施設区域ではないのです。こうした日本の主権を否定するような条約の締結をさせたアメリカが、「民主国家」の代表のような顔をして、ロシアや中国と敵対していることを見逃してはならないと思います。
 また、第四条には下記のようにあります。
第四条【施設・区域の返還のさいの無補償】
 1 合衆国は、この協定の終了の際又はその前に日本国に施設及び区域を返還するに当って、当該施設及び区域をそれらが合衆国軍隊に提供されたときの状態に回復し、またその回復の代わりに日本国に補償する義務を負わない。”以下略
 なども、随分、日本をばかにした規定だと思います。借りているという意識ではないのだと思います。
 沖縄県民は、広大な基地の存在のみならず、こうした不平等条約によっても、さまざまな苦難を強いられている現実を、しっかり受け止める必要があると思います。

 

 

 

 

 

 

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プロパガンダの政治論、想像から妄想へ

2023年09月16日 | 日記

 「キューバ 超大国を屈服させたラテンの魂」伊藤千尋(高文研)のような本を読めば、アメリカという国がどういう国であるかが分かるように思います。
 極論すれば、アメリカは、圧倒的な軍事力や経済力を背景に、世界中の国々を、アメリカの影響下に置き、利益を吸い上げてきたということです。また、従わない国や抵抗する国は、武力を行使してつぶしてきたということです。
 だから、ロシアに対してもさまざまな工作や攻撃をしてきたことは間違いないと思います。
 現に、ロシアの主張を無視してNATOを拡大させ、ウクライナの政権を転覆して武器を配備し、合同軍事演習をくり返したのみならず、ノルドストリームの問題では、ウクライナ戦争のずっと前から、ロシア側に制裁を科していました。 

 ところが、驚くことに、メディアに登場する専門家と言われる人たちの多くは、そうした現実を無視し、ウクライナ戦争を主導するアメリカの存在を消し去って、ウクライナ戦争を論じているのです。
 それは、現実を直視し、ウクライナ戦争の経緯を踏まえて、ウクライナ戦争の分析や考察をすると、覇権や利益を失いつつあるアメリカの問題に帰着せざるを得ないからだと思います。

 例えば、ハーバード大学ウクライナ研究所長の歴史家のセルヒー・プロヒー教授は、ウクライナ戦争は「プーチンの戦争」などと言っています。
 そして、 
 「プーチンは明らかに、ソ連崩壊と、超大国の地位とその権威の失墜、ロシアが自領だと考える領土の喪失などに大いに不満を抱いてきた。これは『古典的なポスト・インペリアリズム・シンドローム』であり、プーチン本人がその象徴になったのです。ですから、ロシアの戦争はある程度、『プーチンの戦争』と言い換えることができるわけです
 とか、
こうした外国の中に自国を作り出すロシアの行動パターンには、「事態を激化させ、さらに強欲になっていく」傾向があるという。そして、そのプロセスが作用するには、「プーチン大統領」という個人的な要因が大きい。
 というのです。そして、ウクライナ戦争が、ロシアの大国回帰への欲望の結果であるかのようにいうのです。
 
 プーチン大統領個人の心の中を想像してウクライナ戦争を論じるのは、アメリカのプロパガンダに欠かせないことだからだろうと思います。そして、プーチン大統領を悪魔のような独裁者とするから、ロシアの人たちは恐くて逆らうことができないのだろうと、さらに想像が膨らみ、プーチン率いるロシアはつぶさなければならないということになるのだろうと思います。
 それは、極論すればプーチン個人の心の中の想像から、ロシアという国を理解する、妄想ともいうべき受け止め方だと思います。
 日本を含む西側諸国政府から停戦・和解の話が出て来ないのは、妄想の世界に入り込んでいるからではないかと思うのです。

 ウクライナ戦争の解説に登場する学者や研究者も、”プーチン大統領は、ウクライナがほしかったのです”などと、セルヒー・プロヒー教授と同じようなのようなことを語っていたことを忘れることができません。現実の諸問題から国民の意識を遠ざけ、想像や妄想の意識を共有すること、それが、アメリカの影響下にある日本の学者や研究者の務めになっているような気がします。

 下記は、「キューバ 超大国を屈服させたラテンの魂」伊藤千尋(高文研)からの抜萃ですが、なかに
モラレス(この国で初めての先住民出身の大統領)はボリビアのコカ生産組合の組合長でもあった。コカは麻薬であるコカインの原料にもなるが、もともとは日本茶と同じようなコカ茶の原料だ。ボリビアの人々は、日本人が日本茶を飲むように普段コカ茶を飲む。ところが、米国でコカインが流行すると、米国は茶畑を焼き払うように、ボリビア政府に要求した。米国べったりだったボリビア政府は軍を動員してコカ茶畑を火炎放射器で焼いたが、畑が広すぎて撲滅できない。すると米軍は畑の上空から枯葉剤をまいた。

 怒ったのがボリビアの人々だ。…”
 というような見逃せない記述があります。こういう過去を無かったことにしてはいけないと思います。

 先日朝日新聞は、松野官房長官が関東大震災当時の朝鮮人虐殺の記録は政府内に「見当たらない」と発言をしたことを、史実の歪曲として批判する記事を掲載しました。当然のことだと思います。

 だから私は、同じようにアメリカの戦争犯罪や国際法違反も、無かったことにしないでほしいと思うのです。
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                   Ⅰ章 キューバを取り巻く新しい世界

                  2 米国はなぜ国交回復に踏み切ったのか

                       米州の形勢逆転

 ベネズエラのチャベス
 こうした中で、最初に反米の旗を掲げたのが南米のベネズエラであった。
 1998年のベネズエラ大統領選挙で勝ったのは、「貧者の救済」を掲げたウゴ・チャベスだ。元軍人で、陸軍中佐の時にクーデターを起こして失敗し投獄されたが、国民の赦免運動で釈放された。このあたりの経歴は、キューバのカストロに似ている。彼は99年に大統領に就任すると、この国の唯一の収入源の石油から得られた利益を貧しい人々の生活支援に向けた。学校や診療所を建て、貧しい人が無料で治療を受け、学べるようにした。これもキューバ革命と同じだ。
 これはまずいと見た米国は2002年手を出した。CIAがおぜん立てをしてベネズエラの軍部にクーデターを起こさせたのだ。蜂起した軍が大統領官邸を占拠してチャアベス拉致し、経済界の代表が新大統領に就任したことをテレビで宣言した。チャベスは米国が差し回した飛行機で亡命させられるはずだった。
 これまでの中南米なら、これで片が付いたが、この時は違った。ベネズエラの多数の市民が大統領官邸を囲んで抗議行動を起こし、チャベスを支持する軍人が出動してクーデター派を官邸から追い出した。一時は死を覚悟したチャベスは救出され、大統領に返り咲いた。
 このとき、私は朝日新聞のロサンゼルス支局長をしていた。ベネズエラに取材に入ったとき、すでにクーデターは失敗していた。始まりから失敗までわずか30時間だ。クーデターを阻止したベネズエラ市民の力に驚嘆したが、それ以上に印象的だったのはCIAの実力の低下だ。
 過去の歴史でCIAが失敗したのは、キューバに反革命軍を侵攻させたピッグス湾事件くらいである。キューバの場合は革命政権が組織的に動いて反革命を撃退したが、ベネズエラでは市民が自発的に大衆行動を繰り広げて米国政府の謀略を阻止した。中南米の歴史上、画期的な事件である。
 これを機にチャベスはあからさまな反米、親キューバ路線に舵を切った。それは中南米が「反米大陸」になる先触れでもあった。

 反米政権ラッシュ
 この時期の中南米に生まれた大統領はいずれも個性的で、人間的にも面白い人たちだらけだ。
 チャベス政権転覆のクーデターが失敗した2002年、南米で最大の大国ブラジルの大統領に左翼労働党のルーラが当選し、翌2003年に就任した。彼は貧しい農家に生まれて7歳から靴磨きをし、小学校を中退して日系人のクリーニング店に住み込んで働いた苦労人である。
 労働組合運動で頭角を現し、軍政時代には地下活動しながらゼネスト指導した「お尋ね者」が大統領になったのだ。就任すると農地改革を進めた。ブラジルではかつてのキューバのような大土地所有制が続いていたが、貧しい農民が土地を手にした。同じ年、南米の大国アルゼンチンで左派のキルチネルが政権に就いた。貧しい大衆の味方として名高いエピータことエバ・ペロンの夫が率いたペロン党の代表である。 
 2004年には中米パナマでマルティン・トリホスが大統領に当選した。彼の父オマール・トリホスは民族主義者で、米国からパナマ運河を返還させる条約を結ぶことに成功したパナマの英雄だ。謎の飛行機事故で亡くなったが、この事故もCIAが黒幕にいるというわさが流れた。イギリスの小説家のグレアム・グリーンが『トリホス将軍の死』で書いている。
 同じ年、南米のウルグアイでは左派のバスケスが大統領に当選した。貧しい家庭の生まれで、少年時代は日雇いの肉体労働で家計を助けた。南米のスイスと呼ばれるほど豊かなこの国で、貧困層出身の初めての大統領だ。
 2005年には南米の中央部にあるボリビアで、明確に反米を掲げる社会主義運動党の党首、エボ・モラレスが大統領に当選した。この国で初めての先住民出身の大統領だ。彼は就任式のさい、こぶしを突き上げて「この闘いは、チェ・ゲバラに続くものだ」と叫んだ。ボリビアで戦死したゲバラの遺志を受け継ぐ意味を込めたのだ。
 モラレスはボリビアのコカ生産組合の組合長でもあった。コカは麻薬であるコカインの原料にもなるが、もともとは日本茶と同じようなコカ茶の原料だ。ボリビアの人々は、日本人が日本茶を飲むように普段コカ茶を飲む。ところが、米国でコカインが流行すると、米国は茶畑を焼き払うように、ボリビア政府に要求した。米国べったりだったボリビア政府は軍を動員してコカ茶畑を火炎放射器で焼いたが、畑が広すぎて撲滅できない。すると米軍は畑の上空から枯葉剤をまいた。
 怒ったのがボリビアの人々だ。それはそうだろう。たとえば日本の静岡や宇治の茶畑の上空に米軍が枯葉剤をまいたら日本人は怒るだろう。最も強く怒ったのがコカ茶を生産する農民だ。反対運動の先頭に立ったのがコカ茶生産組合で、その先頭にいたのが組合長のモラレスだ。
 なぜ米国のためにボリビアの伝統産業をつぶすのか、と彼は国民に訴えた。悪いのはコカを麻薬にするマフィアと、それを買う米国の消費者であり、コカ茶やコカを飲む人々に罪はない。米国のために国民を犠牲にするような政治ではなく、ボリビア国民のためになる政治に変えよう、と訴えて大統領選挙で勝ったのだ。
 2006年には南米三番目の大国チリで社会党のバチェレが当選した。チリで初の女性大統領だ。この国では1973年に軍部がクーデターを起こした。そのさいバチェレは逮捕、拷問され、のちに亡命を強いられた。彼女の父親は当時、空軍の司令官だったがクーデターに反対したため逮捕され、獄中の拷問で殺された人である。このクーデターを画策したのが米CIAだった。同じ年、南米ペルーでは中道左派、アメリカ革命人民同盟のガルシアが当選した。彼は1985年にも大統領となり、最も貧しい人々の政府となる」と宣言した。米国主導の国際通貨基金(IMF)に反発して債務の返済を拒否した人だ。

 左翼ゲリラが選挙で大統領に
 この年は中南米の国で大統領選が相次いだ。中米のニカラグアで勝利したのは左翼サンディニスタ民族解放戦線のオルテガだ。サンディニスタとは1920年代に米海兵隊のニカラグア駐留に反対してゲリラ戦を展開したサンディーノ将軍から生まれた名である。1979年の革命で政権を取ったさいに大統領に就任したのが、このオルテガだ。内戦が終了後は中道や右派が政権を握っていたが、オルテガは16年ぶりに政権に返り咲いた。
 同じ2006年にペルーの隣の。エクアドルでは反米左派のコレアが当選した。前の政権で経済相だったが米国との自由貿易協定に反対したため大臣を罷免され、かえって国民の人気を得た。コレアはやがてベネズエラのチャベスやボリビアのモラレスと共に反米の急先鋒となった。この年の国連総会でチャベスは当時のブッシュ米大統領を「悪魔」と呼んだが、コレアは「間抜けなブッシュと比べるなんて、悪魔に失礼だ」と言った。
 2007年には中米グアテマラで中道左派のコロンが当選した。この国は36年間にわたって内戦が続き、その後は米国の言うなりに動いていた元軍人ら右派勢力が三代続けて政権を握った。そこに社会民主主義を掲げる大統領が当選したのだ。2008年には南米パラグアイで中道左派連盟のルゴが当選した。それまでの61年間、「世界最長」と言われるほど長く保守政党が政権を握ってきた国は画期的な変化をした。ルゴは「貧者の司教」と呼ばれるカトリックの「解放の神学」派の神父だった。土地を持たない貧しい農民のために反政府デモをし、司教の地位を捨てて政治の世界に飛び込んだ人だ。
 2009年には中米エルサルバドルで内戦時代に左翼ゲリラだったファラブンド・マルティ民族解放戦線のフネスが当選した。武力革命は成功しえなかったゲリラが選挙で政権をとったのだ。同じ年、ウルグアイでムヒカが当選した。5年前に政権を握った左派が連続で当選したのだ。ムヒカも左翼ゲリラの出身である。キューバ革命の影響を受けて都市ゲリラに加わり、武装闘争の資金稼ぎのため強盗したこともある。国会議員時代にはヨレヨレのジーンズにオートバイで国会乗り付け、入るのを警備員に拒否されたこともある。大統領の給与の大半は貧しい人に寄付することを約束し、「世界でも最も貧しい大統領」を自認した。
 2011年には。ブラジルでルーラの後継者として女性のルセフが当選した。彼女も左翼ゲリラの出身である。軍事政権化で武力革命を主張し、資金稼ぎの銀行強盗を指揮した。逮捕、拷問され、国家反逆罪で3年投獄された人である。同年南米ペルーでは先住民の出身で、左派民族主義者のウマラが当選した。新自由主義からの転換を主張し、経済発展から取り残された人々のため、「貧困のないペルーを作る」と宣言した。
 こうした流れはその後も続き、2013年にはベネズエラでチャベスの後継者マドゥーロが当選した。

 新自由主義への反発
 なぜ中南米が左派や中道左派に変わったのだろうか。大きな原因は、米国に生まれ世界に広まった新自由主義の経済に対する反発だ。
 新自由主義とは簡単に言えば、すべての規制をなくして市場のなすがままにしようということだ。政治の経済への介入をなくして、金と欲望の赴くまま市場のなすに任せれば社会は反映するという考え方である。アダム・スミス以来の自由競争絵に描いたような原始的な資本主義だが、それでうまくいかなかったから、その後の世界はケインズ経済などさまざまな修正を重ねてきた。こうした歴史を忘れて、野獣のような戦国時代に戻ろうというのだ。金持ちがより金持ちになり、貧乏人を支配するのに都合のいい考え方である。
 それは国営企業の民営化、自由貿易という政策となって現れる。日本でも小泉首相の時代に郵政の民営化を進めたが、米国のおひざ元で自由主義が暴走した中南米では、郵政どころかあらゆる面で民営化が進んだ。
 典型的なのがボリビアだ。水道事業まで民営化した。「水道局」を競売にかけたらカネを持っている企業が落札し、水道料金が一挙に3倍になった。市民のためでなく企業がもうかればいいという考えだから、こうなる。国民は怒った。水は飲むだけでなく、洗濯にも洗面にも使う。水が「なければ生きていけない。「日本人よりよりおとなしい」と言われるボリビア国民が反政府行動に立ち上がった。
 全国で民営化に反対するデモや集会が起きた。放って置けば暴動に発展すると見た政府は、あわててまた国営化した。これで国民が気づいた。自分達が何もしなければ政治は変わらないが、行動すれば社会を変えることができるのだと。このときの市民の動きが激しかったことから、この現象は「水戦争」と呼ばれた。
 先に述べた。コカ茶をめぐる反政府運動の動きは「コカ戦争」と呼ばれた。その直後の大統領選挙で立候補したモラレスが米国や大企業のためでなく本当に国民のためになる政府にしようと訴えると、有権者はすんなり納得したのだ

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重大な事実に目をつぶる「情報戦」論

2023年08月31日 | 日記

 毎日のテレビや新聞の報道に苛立ちを感じています。それは、日本のメディアが、アメリカの主張(戦略や戦術)に疑問を呈したり、異論を唱えたりすることが許されていないということからきているように思います。

 アメリカの影響下にある日本の学者や専門家と呼ばれる人、また、主要メディアの記者が語ったり書いたりしているウクライナ戦争に関わる内容は、かならずといっていいほど、注目すべき大事な事実に目をつぶり、的をはずした内容になっていると思います。

 先日、朝日新聞の「記者解説」に、「情報戦、カギ握る市民」と題して、オピニオン編集部の小田村義之氏が、「情報戦」に関する記事を書いていました。
 彼は、現代の戦争は、1、偽情報などを流して優位に立とうとする「情報戦」の要素が強まる、2、民主主義社会が情報戦に対応するには、政治体制への市民の信頼が支えとなる、3、日本は事実を重視し、平和国家のイメージを崩さない発信を心がけるべきだ、というような要点を示して、情報戦に関してあれこれ書いているのですが、いくつか指摘しなければなりません。

 まず、戦争を終わらせようとする視点がないということがあります。停戦のための見通しを立てることなく、ロシア敵視の姿勢で「情報戦」を語ることは、読者を、ウクライナ戦争に巻き込む側面があると思いました。
 また、ウクライナ戦争で、「情報戦」やプロパガンダを必要としたのはどちら側であるかという考察もまったくありませんでした。
 私は、オリンピックからロシア選手を排除するだけでなく、あらゆる団体や組織からロシアを排除し、重要な役割を担っているロシア人個人さえ、国際的な団体や組織から排除したのは、アメリカを中心とした西側諸国であったことを見逃すことができません。それは、「情報戦」やプロパガンダを必要としたのが、アメリカであり、ウクライナであったということだと思います。それは、プーチン大統領が、オリンピックからロシア選手を排除する動きがあったとき、”なぜアスリートを政治に巻き込むのか”、と不満を述べたことでもわかると思います。
 豊かな交流があれば、「偽情報」やプロパガンダは、広がりにくいと思いますが、豊かな交流をさせないようにしたのは、「情報戦」に長けたアメリカだろうと想像しました。
 次に、小田村義之氏は、”平和国家のイメージを崩さない発信”というようなことを書いているのですが、ロシアと戦うウクライナを支援し、ロシアに制裁を加え、ウクライナ戦争を主導するアメリカの同盟国として、ロシアを敵とするウクライナ戦争に加担している日本が、”平和国家のイメージを崩さない発信”、などする資格があるのかと思いました。

 決定的なのは、過去の戦争で、どのような情報(偽情報)が、どのような意味をもったのか、ということをふり返ることがまったくなされていないことでした。

 ベトナム戦争では、北ベトナム沖のトンキン湾で、北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍駆逐艦に魚雷を発射したとの報道が大々的になされました。この事件をきっかけに、アメリカは北爆を開始することになりました。この事件の報道によって、アメリカは北爆に反対する勢力の声を気にせず、ベトナム戦争に本格的に介入するに至ったという意味で、忘れてはならない事件だと思います。
 でもその後、『ニューヨーク・タイムズ』が、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」を入手し、この事件は、アメリカが仕組んだものだったことを暴露しました。
 アメリカはトンキン湾事件をでっち上げ、「偽情報」でベトナム戦争を正当化し、絨毯爆撃をくり返したので、数え切れない人びとが亡くなりました。

 また、湾岸戦争では、「ナイラ証言」が「偽情報」として大きな影響力をもちました。イラクによるクウェート侵攻の後、「ナイラ」を名乗る少女が、
私は12人の女性とともにアッ=ラダン病院でボランティアをしていました。私が最年少のボランティアで他の女性達は20-30歳でした。イラク軍兵士が銃を持って、病院内に押し入るのを目にしました。保育器から新生児を取り出し保育器を奪うと、冷たい床に新生児を放り出し死なせてしまいました。怖かったです
などと泣きながら証言したのです。(関わる動画:https://twitter.com/i/status/1659370450030575617)。
 でも、「ナイラ」という少女は存在せず、実は、クウェート駐米大使の娘が、クウェート・アメリカ政府の意を受けた反イラク扇動キャンペーンの一環で、演じた証言だったのです。
 Wikipediaには、
ナイラ証言が広く喧伝されると、集会の様子を撮影したヒル・アンド・ノウルトンは、全米に約700のテレビ局を擁するメディアリンクへビデオを配給。当日夜、証言の一部がABC及びNBCのニュース番組で放映され、数千万人のアメリカ国民が視聴したという。また、上院議員7名が武力行使を支持する演説の中でナイラ証言を引用している。ブッシュ大統領もその後数週間のうちに少なくとも10回は証言を繰り返した。暴虐の証言は湾岸戦争参戦に対する国民の支持を取り付ける切っ掛けとなった
 とあります。この「偽情報」が、いかに大きな意味をもったかがわかります。この「偽情報」がなければ、「クラーク法廷」でとりあげられたような湾岸戦争における甚大な被害はなかったと思います。

 さらに、イラク戦争では、「大量破壊兵器保持における武装解除進展義務違反」を理由に、アメリカを中心としてイギリス、オーストラリア、ポーランドなどで構成する有志連合が、圧倒的に優位な立場でイラクに侵攻し、猛烈な爆撃をくり返しました。でも、それは「偽情報」に基づくもので、現実には大量破壊兵器は存在しませんでした。だから、アメリカは「偽情報」を使って強硬姿勢を通す戦略であったといわれています。
 この「偽情報」に基づく戦争に、日本が加担したことは忘れてはならないと思います。小泉政権時代、日本は戦後初めてPKO活動外での自衛隊派遣を行い、有志連合の一員としてイラク戦争に参加したのです。

 そうした「偽情報」が大きな意味をもった過去の戦争をふり返えることなく語られる「情報戦」の話に、どれほどの意味があるのか、と私は思いました。

 また、そうした「偽情報」に基づく過去の戦争をふり返えば、ウクライナ戦争において、世界各国のウクライナ支援を決定づけた「ブチャの虐殺」情報が、実は、アメリカ・ウクライナによる秘密工作に基づくものではないかという疑いを、私は持たざるを得ませんでした。そして、Kla.tvその他の情報で、「ブチャの虐殺」の情報には、陰謀論で片付けることのできない不自然な点が、いくつもあることを知りました。

 だから、私は、こうした「偽情報」に基づく戦争を回避するシステムや国際法が必要だと思います。

 でも、小村田義之氏は、そうしたことは少しも語らず
情報戦を重視するのはロシアだけではない。米国はロシアがウクライナに侵攻する可能性をリークし続けた。機密情報でもあえて漏らすことで、ロシアに再考を促す「開示による抑止」と言われる新たな手法である。
 などとも書いていました。あきれました。
 だからそれは、アメリカの戦略に基づいて、ロシアを悪者とするための情報戦の話であり、明るい未来を見通すことのできる話ではないと思いました。

 日本でも、「偽情報」が、日本の針路を変えてしまうようなことあったと思います。 
 私は、アメリカ軍占領下で発生した下山事件、三鷹事件、松川事件は、いずれも松本清張氏が徹底的な調査と多くの資料に基づいて「日本の黒い霧」で考察したように、米軍の謀略によるものだと思っています。
 中国大陸における国共内戦は中国共産党軍の勝利が決定的となっていたこと、また、朝鮮半島でも「朝鮮人民共和国」の建国を宣言し、統一朝鮮の独立を意図した人たちの力が強かったこと、日本でも、日本共産党が飛躍的に議席を増やし(4議席から35議席)躍進していたこと、さらに、全日本産業別労働組合会議や国鉄労働組合が、アメリカの意を汲む政府の人員整理に強く抵抗する姿勢を示し、吉田内閣の打倒のみならず、人民政府樹立さえ叫ぶようになっていたことなどは、すべて反共国家アメリカにとって好ましくないことであったと思います。その状況を反転させ、日本を反共国家として、しっかりアメリカの影響下に置く意図をもって実行された秘密工作が、上記の国鉄三大事件その他の事件だと思います。それらの事件の「偽情報」によって、アメリカは、共産主義者や労働組合の指導者は恐ろしいという戦前の治安維持法の捉え方を、日本で復活させることに成功したのではないかと思います。
 だから、「国鉄三大ミステリー事件」その他の事件は、GHQの政策の「逆コース」といわれる方針転換や戦犯の公職追放解除による戦争指導層の復帰促進、レッドパージなどと一体のものだと思います。
 アメリカがくり返してきた「偽情報」に基づく戦争政権転覆内政干渉をなくす方法を論じることが、メディアに課せられた責任ではないかと思いました。

 スパイ活動を是認するような「開示による抑止」論など、馬鹿げた話だと思います。「平和国家日本」は、日本国憲法の定めに従うことから生まれるものであり、単なるイメージであってはいけないと思います。

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「グアンタナモ収容所」で知るアメリカの正体

2023年08月03日 | 日記

 グアンタナモ収容所(Guantanamo Bay detention camp:Gitmo)は、キューバのグァンタナモ米軍基地に設置されているアメリカ南方軍グアンタナモ共同機動部隊運営の収容キャンプだということですが、対テロ戦争を呼びかけたブッシュ大統領時代に、テロに関与している疑いのある人物や、秘密情報を持っている疑いのある人物が、次々に強制連行され、収容、監禁、拘禁されるようになったということで、よく知られるようになったと思います。

 グアンタナモ収容所の問題は、いろいろ指摘されていますが、まず、確たる証拠がなくても、疑いを持たれれば強制連行されることであり、また、裁判にかけられることなく逮捕・長期勾留されることがあります。
 また、アメリカは、グアンタナモ収容所の収容者に対し、“捕虜”と”犯罪者”の処遇を、脱法的に使い分けているとも言います。”捕虜”であればジュネーヴ条約を適用する義務があるのですが、”犯罪者”にその必要はないからです。
 グアンタナモは、アメリカの領土ではないので、アメリカの国内法の効力が及ばず、さらに、国際法も適用されない、ということも重大な問題だと思います。
  キューバカストロ政権が、アメリカの基地租借は非合法と非難し、キューバが返還を求め続けていることも、無視されてはならないことだと思います。

 だから、グアンタナモ収容所に関しては、さまざまな批判や非難があり、調査情報もあるようですが、特に、赤十字国際委員会が、米軍は被収容者に対して心理的、物理的な強制を加えており、拷問に等しい、とする報告書を作成しているという事実は見逃せません。
 また、アムネスティ・インターナショナルも「世界の人権状況に関する年次報告書」で、「対テロ戦争を口実にした収容所での人権侵害」を告発しているといいます。

 下記は、「驚くべきCIAの世論操作」ニコラス・スカウ:伊藤真訳(インターナショナル新書027)から抜萃したものですが、そうしたグアンタナモ収容所に対する国際世論の批判や非難をかわすために、アメリカがどのようなことを画策してきたかがよくわかると思います。

 民主主義を装うアメリカの悪事に目を閉じていては、戦争はなくせない、と私は思います。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     第五章 グアンタナモ収容所の隠蔽工作

2001年9月、崩壊した世界貿易センタービルの瓦礫の粉塵が収まるや否や、公安国家アメリカは一連の秘密政策の実施に乗り出した。それらはいつ終わるとも知れない戦争と、世界規模で監視をし、身柄を拘束するシステムの急激な拡大へとつながった。CIAはホワイトハウスと国防総省の職員、および選りすぐりの憲法学者たちと密接に協力し合い、巨大なスパイ網や「囚人特例移送制度」を構築し、「秘密施設(ブラック・サイト)」における「強化型尋問」の蔓延などをもたらした。要するに「政府公認の誘拐」と「秘密収容所」における拷問だ。それもすべて国内法と国際法の枠組みの埒外で行うのである。このことはすでに広く報じられてきたが、この「超法規的」な制度の心臓部はキューバの南端、アメリカ最古在外米軍基地にある国防総省のグアンタナモ収容所だ。この施設には最重要クラスの囚人たちが収容されており、国際的にも極めて関心が高いだけに、この俗称「ギトモGitmo」を訪れる報道機関のために、当局は入念に演出した取材コースを設けた。 

 プロパガンダ一色のグアンタナモ収容所取材ツアー
 「連中は、私たちを連れてきては手の込んだ芝居を打って、どれほどすばらしい施設かを見せようとしました」と『ポリティコ』誌の国防総省担当記者のブライアン・ベンダーは言った。オンラインニュースサイト『ヴァイス・ニュース』のジェイソン・レオポルドも何度かグアンタナモ収容所を取材したことがあるが、取材は事実上の「メディア向けのサーカス」とでも呼ぶべき代物だとして、ベンダーと同様の感想を抱いている。レオポルドは言う──情報操作どころの話じゃない。まったくプロパガンダと洗脳そのものだ。米軍が演出した『素晴らしい施設グアンタナモ』を見せられるだけだ。グアンタナモというのはそんな場所だ。『収容者にこんなにたくさんビデオ・ゲームや本があるんですよ。食事も見てください! 収容者たちにどんな食事を出しているか、ぜひ試食してみてください』なんて言う具合さ、ふざけんな、相手は監獄にぶち込まれているんだぞ、って言ってやりたいね」。
 しかし、予想どおり、グアンタナモ収容所を訪れた記者たちの多くは軍のプロパガンダを喜んで鵜呑みにした。つまり「強いて言えば、グアンタナモの収容者は待遇がよすぎる」とまで思い込まされたのだ。レオポルドは、グアンタナモ収容所を紹介する記事の中で。国防総省独特の言い回しに騙されないよう注意したと述べている。例えば鉄製の足枷(アシカセ)は「人道的拘束具」、所内でハンガー・ストライキをやる収容者に使われることの多い、強制的な食料摂取は、「経腸栄養摂取(一般に、管を通して流動食や栄養剤などを胃や腸へ直接注入する方法)」と呼ばれるのだ。レオポルドは記者人生の中でも、グアンタナモの取材中ほど洗脳されているように感じたことはないと言う。「すべてがお芝居。何もかもがリハーサルどおりだった。どんなことをいうかまでリハーサル済みだ。当局は看守たちの発言もすべて決めて指示していたのさ。看守にインタビューする時は、必ず担当者が立ち合って聞き耳を立てている。それ以外には見学者の質問には答えさせない。グアンタナモほどの秘密主義は見たことがない。ブラックホールだよ」とレオポルドは取材を回想して言った。
 2013年のある日、たまたま見学者はレオポルドだけということがあった。そのとき、国防総省のまやかしのベールの奥を垣間見ることができた。グアンタナモ収容所のメディア・センターで、案内係は席を外している数分間、一人きりになったのだ。「一人ぼっちでその部屋にいたとき、床にいろいろなカードが散乱しているのに気がついたんだ」と、レオポルドはそのときの様子を回想する。それを一枚を拾って、裏表の両面を読んでみた。これはすごい、とレオポルドは思った。「大発見だった。これだけでも収容所へ来た価値があったというものだ」とレオポルド。手にしていたのは広報官用の「スマート・カード」と呼ばれるもので、取材記者に対して、視察を認めるべきことと認めるべきでないことの指示が書かれていたのだ。
「しゃべってもよいこと」という項目には、打ち出すべきこと──安全、人道的で合法的、隠しごとなし」といったキャッチフレーズが書かれており、さらには「ある看守の一日」など、案内する際に使える「ストーリー」の案まで記されていた。「インタビューの主導権を握り、自信を失わないこと」などと指示するカードもあったし、「横道にそれないこと」として「重要収容者」、収容者の「自殺」、「弁護士の主張」や「捜査の結果」、それに「収容者の釈放に関する憶測」などは、いついかなるときも話題にしてはならない、とつけ加えてあった。カードの最後には「すべては記録に残ることに注意し、決して『ノーコメント』とは言わないこと」と、メディア関係者の案内役に念を押していた。

 特別扱い扱いを受けた大手テレビ局──グアンタナモ収容所独占取材。
 CBSの報道番組『シックスティ・ミニッツ』では、リポーターのレスリー・スタール記者の取材チームが収容所の見学ツアーを許可され、「前例のない取材許可」と称して放送した。それを見たレオポルドは、これがどういう経緯で許可されたものか、すぐに国防総省の広報部へ問い合わせた。国語総省が返答を拒むと、レオポルドは情報自由法に基づき、『シックスティ・ミニッツ』の取材陣の訪問に関するすべての電子メールその他のやり取りの公開を要求した。ほかの記者たちがグアンタナモへ行く時は気前のいい取材許可なんてもらえないとレオポルドは不満をこぼした。収容棟を見せられても空っぽだ。収容者の姿は遠くからしか見ることができない。だから『シックスティ・ミニッツ』の取材映像を見た時には目を疑い、冗談きついぜ、と思ったという。「騒々しい収容棟をレスリー・スタールが歩いていて収容者たちが『俺たちは拷問を受けている。ここから出してくれ』なんて叫んでいるわけだ。われわれにはこんな突っ込んだ取材は許可されなかった。いったいどうやってこんなことができたのか?」
 情報自由法による開示請求をしてから二か月後。レオポルドは国防総省の広報部から苦情の電話を受けた。請求に対応するのに時間を浪費させられている、というのだ。「あなたがどうしてこんなことをしているのか説明してもらえませんかね。私があなたに『電子メールを全部見せろ』と言ったらどんな気がするか、教えて欲しいものですよ」と広報官はレオポルドに言った。
 レオポルドは広報官に個人的な恨みがあるわけではない、と断った上で、「あなたの電子メールすべてを開示させられることになると思いませんでしたよ。私は(CBSが)どういう経緯で取材許可を得たのかを知りたいだけなのですよ」と伝えた。
 レオポルドによれば、このあとに国防総省広報部から手痛いしっぺ返しを受けたという。国防総省は、レオポルドが請求した情報をライバル紙の記者にリークしてしまったのだ。レオポルド説明する──「私は情報自由法に基づいて文書の開示を請求した。するとやがてその文書は、競争相手の『マイアミ・ヘラルド』紙の記者に先に提供されてしまったんだ。どうしてそんなことになるかというと、『まあ、情報自由法で一旦解開示されてしまえば、誰でも閲覧可能になりますからね』と国防省はいうんだ。確かにそのとおり、そんなことは知ってる。でも、普通はそういうことにはならないはずだ。わたしは仕返しされたってわけさ。

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法の支配に基づく、自由で開かれた国際秩序?

2023年05月19日 | 日記

 岸田総理は、今回の広島サミットに関し、

G7として核兵器のない世界への決意を改めて確認するとともに、法の支配に基づく、自由で開かれた国際秩序を守り抜く、こうしたG7の意志を強く世界に示したいと思っています
 と言ったのですが、私は、人を欺くことは、やめてほしいと思います。

 人殺し(ウクライネ戦争)を止めようとせず、ウクライネ軍を支援しながら、核兵器のない世界が、どうしてつくれるのですか? と問わなければなりません。

 また、法や道義・道徳を無視して、戦争を繰り返し、アフリカや中南米、中東やアジアの国々を相手に、巧みに搾取や収奪をくり返してきたのは、G7をはじめとする西側諸国でしょう、と言わなければなりません。 

 だから、その証拠ともいえる、日韓の歴史をふり返りたいと思います。

 アジア・太平洋戦争は日本の無条件降伏によって終わりました。そして日本は、”日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ”というカイロ宣言で定められていた国土に「局限」され、GHQの占領下に置かれることになりました。
 そのGHQの占領に関しては、1945年7月のポツダム宣言によって、下記のように、占領の意図や期間が定められていました。

六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本國ノ戰爭遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確證アルニ至ル迄ハ聯合國ノ指定スベキ日本國領域内ノ諸地點ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ”
十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ”

 だから、基本的には、1951年9月に締結されたサンフランシスコ講和条約
”(a) 連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。
に基づいて、米軍は完全に撤退すべきであったと思います。

 でも、米軍は撤退しませんでした。そこに、アメリカの対外施策や外交政策における欺瞞があると思います。
 ふり返れば、日本降伏直前のソ連軍の急速な南下にあわてたアメリカは、陸軍省、海軍省、国務省の三省調整委員会で、38度線による朝鮮の分断を決め、関係国に通告しました。
 そして、その分断を、「一般命令第一号」に巧みに盛り込みました。おまけにそれは、アメリカ軍が起草したにもかかわらず、大日本帝国の大本営が、日本軍に対して発令するスタイルをとって現実のものとされたのです。だから、朝鮮分断という重大問題が、いつの間にか進行することになりました。分断が、何時、どこで、誰によって決められたのか、よくわからない状態で、現実的に進んでしまうことになったのです。
 そして、その分断を固定化するために、アメリカは南朝鮮を軍政下に置き李承晩を担ぎ出して、南朝鮮単独政府を樹立させました。大陸に対する足がかりとしての永続的な米軍韓国駐留は、そうやって実現していったのです。
 それは、南北朝鮮の統一と独立を求める多くの朝鮮の人たちの声を無視したものであったため、多くの犠牲者を出すことになり、朝鮮戦争に発展する原因ともなったと思います。

 日本に対するアメリカの政策も、同じように、ポツダム宣言サンフランシスコ講和条約に反するものであったと思います。
 GHQの日本占領目的は、基本的には、日本の非軍事化であり、民主化であったと思いますが、アメリカは、軍を日本に駐留させるために、司法介入によって伊達判決を覆しました。さらに、自衛隊に発展する警察予備隊も編制させました。また、レッドパージ公職追放解除は、ポツダム宣言に反するとともに、日本の民主化に逆行するものであったことは明らかだろうと思います。
 だから、GHQの占領目的である日本の非軍事化民主化は、結局、きちんと実現されず、韓国と同じように、アメリカの強い影響下に置かれ、属国のような国になってしまったと思います。
 アメリカの対外政策や外交政策は、いつも表向きの理念や課題とは裏腹に、アメリカの反共主義や利己的な利害によって進められているといってもよい、と私は思います。 
 今回は、「日本の黒い霧」松本清張(文春文庫)から、「追放とレッド・パージ」の一部を抜萃しました。アメリカという国の対外政策外交政策がどういうものであるか、その一端を知ることができると思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     追放とレッド・パージ

   1
 日本の政治、経済界の「追放」は、アメリカが日本を降伏させた当時からの方針であった。1945年8月29日に、アメリカ政府はマッカーサーに対して「降伏後における合衆国の初期対日政策」という文書を伝達し、さらに同年11月3日付で「日本の占領並びに管理のための連合国最高司令官に対する降伏後初期の基本的指令」と題する文書を発した。GHQは、この二つの文書に基づいて占領政策を実行に移すことになった。
 この11月3日の米政府の指令は、追放についてGHQに広い権限を与えている。
「日本の侵略計画を作成し実行する上で、行政、財政、経済その他の重要な問題に積極的な役割を果たしたすべての人々、及び大政翼賛会、日本政治会とその機関、並びにこれを引き継いだ団体の重要人物はすべて拘置し、今後の措置を待つべきこと。また高い責任地位から誰を追放するかを決定する最終責任を与えられる。さらに1937年(昭和12年)以来、金融、商工業、農業部門で高い責任の地位に在った人々も軍国主義的ナショナリズムや侵略主義の主唱者と見なしてよろしい」
 この指令はトップ・シークレット(極秘)であって、総司令部に接触していた当時の日本側首脳も容易に窺知(キチ)することができなかったのだった。
 この方針に基いて、未曽有の追放が政界、官界、思想界に荒れ狂ったのである。
 もっとも、この追放を実際上実行に移すに当っては、GHQ全体が一つの意見に必ずしも纏まったのではない。G2の意見とGSの意見とに喰違いが早くも見られたのである。
 このことについてマーク・ゲインは書いている。
「総司令部の内部には劇的な分裂が発展し、全政策立案者を二つの対立陣営に分けてしまった、とこの批評家達は言う。一つの陣営(GS)は、日本の根本的改造の必要を確信する者で、他の陣営(G2)は、保守的な日本こそ来るべきロシアとの闘争における最上の味方という理由で基本的な改革に反対する。日本に必要なのは、ちょっとその顔を上向きにさせてやるだけだ、と言うのである。この案に反対の人たちは、次のような論点の数々を挙げた。
 ①徹底的な追放は、日本を混乱に陥し入れ、革命さえ招く惧れがある。 ②もし、追放を必要とするにしても、逐次に行うべきで、その間、息をつく暇を国民に与えなければならない。 ③追放は最高指導者に限られるべきである。命令への服従は規律の定めるところであって、部下は服従以外には途がなかったからである。
 軍諜報部の代表を先鋒に、軍関係の四局は悉く結束して追放に反対した。国務省関係の或る者はこれに味方した。追放を支持したのは主として民政局で、総司令部の他の部局もばらばらながらこれを支持した(『ニッポン日記』)
 マーク・ゲインがこれを書いたのは1945年(昭和20年)12月20日で、もとより、ソ連はまだアメリカの「戦友」だった時である。が、早くもこの見方はのちのGHQの占領政策転換を予見して興味深い。
 追放は、マッカーサーにアメリカ統合参謀本部が与えた指令のように、「日本国民を欺瞞し、これをして世界征服の虚に出るという過誤を犯さしめた者の権力と勢力を永久に除去」することを目的としたもので、対象はこの限りに置かれていたのである。
 ところが、米国防省(ペンタゴン)がマッカーサーに与えた巨大な武器は、後年になって、最初の目的とは裏腹な民主陣営にも振るわれたのである。これは世界情勢の変化、つまりはソ連との対立が激化して、アメリカ自身の安全のために、GHQの政策が大きな変化を遂げたからにすぎない。別な言い方をすれば、「弾圧を荒っぽい外科手術と信じている」ウィロビーが「棍棒の使用よりも小規模の改革のほうがより多くの味方を獲得しうると考えている」ホイットニーに勝ったのである。
 占領は、昔のように強い力をもって対手国を制圧するのではなく、徐々に自国にどうかさせるという方策がアメリカの考え方であった。このため、「同化」に邪魔になりそうな旧勢力の駆逐が追放の一つの狙いであった。
 追放の意義は、それが、「懲罰」か、或は「予防措置」か、考え方の分かれるところである。当初の追放は、確かにこの二つの意味が含まれていた。旧勢力の除去は、つまり軍部の擡頭と権力的な国家思想の復活を予防するために行われたが、また、「日本民衆を誤らせた」というよりも、アメリカに対して敵対行為に出た指導層を追放によって懲罰する意味も含まれていたのである。戦犯に絞首刑は懲罰の最極限の現れである。
 しかし、追放の意義は、あとで触れるように、後になって大きく転換した。ここでは懲罰ではなく、ただ「予防措置」の意義だけが大きくなった。
 つまり、今度は軍部の擡頭や国家思想の復活を対象としたのではなく、その逆の方面、ロシアや中共に「同調する分子」の勢力拡大を予防したのである。云いかえると、対ソ作戦に支障を来すような因子の除去に目的の重点を置き換えたのであった。

 

 

 

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朝鮮人労働者の証言と麻生発言

2020年01月17日 | 日記

 再び閣僚の重大な問題発言がありました。麻生副総理兼財務大臣が、福岡県直方市で開かれた会合で、「…2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありませんから。いい国なんだなと。これに勝る証明があったら教えてくれと。ヨーロッパ人の人に言って誰一人反論する人はいません。そんな国は他にない。…」と言ったのです。

 私は、この発言を二つの点で受け入れることができません。
 その一つは、報道でも明らかなように、この発言がアイヌ民族の存在を無視するものであるということです。この発言は、アイヌ民族を「先住民族」と明記し、”アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される社会の実現”をめざすとした「アイヌ施策推進法」に反します。
 現在、アイヌ民族が北海道・樺太・千島などに先住し、固有の文化を発展させていたことを否定する人はいないと思います。
 そのアイヌの人たちが先住していた「蝦夷」と呼ばれた地域は、明治政府によって「北海道」と改称され、本格的な開拓が開始されて、大勢の和人(アイヌ以外の日本人)が本州から移り住みました。移り住んだだけではなく、当時の政府がアイヌ語やアイヌの生活習慣を禁止し、アイヌの人たちが伝統的な方法で利用してきた土地を取り上げたり、サケ漁や鹿猟を禁止したりした事実は忘れられてはならないことだと思います。こうした明治政府の同化政策の結果、アイヌの人々は、その後長く貧窮を余儀なくされ、差別され続けることになったのです。

 現在を生きる私たちが、そうした事実を正しく受け止め、継承していこうとすることなく、「…2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありませんから。いい国なんだなと。…」などと、あたかも現在の日本が「単一民族国家」であるかのように言うことは、事実に反するのみならず、法的にも道義的にも許されないことではないかと思います。

 もう一つは、この発言が明治政府によってつくられた「皇国日本」、すなわち大日本帝国憲法や教育勅語、軍人勅諭等の考え方を受け継ぐものではないかということです。先の大戦で、日本を滅亡の淵に追い込んだ「皇国日本」の”あやまち”を、無かったことにするような考え方ではないかと思うのです。かつて他民族を抑圧し支配した貪欲で差別的だった日本をきちんと認め、反省することなく、ただ長く続いているから”いい国”などと言うことは、私は許されないと思います。また、「皇国日本」では、天皇が「現人神」とされたが故に、様々な不幸の源となったのではないかと思います。そうした天皇家が126代続いていることを日本の誇りにしようとする考え方は、まさに「皇国日本」の考え方であり、日本を特別な国とするものではないかと思います。
 そういう意味では、同様の発言が過去もあったことが看過できません。
 かつて中曽根元総理は、「知的水準」発言で、アメリカから猛烈な反発を受けたとき、その言い訳に日本が「単一民族国家」であると主張したことがありました。それが私が記憶する「単一民族国家」発言の最初です。
 中曽根元総理は、アメリカには黒人や中南米・カリブ海地域などからの移民が多数混在しているため、平均的な知的水準は日本の方が高いと発言し、米下院に中曽根批判決議が提出される事態を招きました。そして、中曽根総理の公式謝罪と発言の撤回を求める激しい動きがあり、アメリカの黒人やヒスパニック系諸団体が、アメリカの有力新聞各紙に全面広告を出したりして、中曽根批判を行ったことがあったのです。
 その謝罪会見の際に、中曽根元総理は、米国は「複合民族国家」なので、教育など手の届かないところもあろうが、日本は「単一民族国家」だから手が届きやすいのだ、というような言い訳をしたのです。それが、今度は日本国内で、北海道ウタリ協会などの反発を招いたのです。
 同じ政党に属し、80歳近くになる麻生副総理兼財務大臣が、大きな問題となったそうした事実を知らないはずはないと、私は思います。だから、私は「皇国日本」復活の意図を感じ、受け入れることができないのです。

 戦前の「皇国日本」は、韓国を併合し、朝鮮人を抑圧し差別しつつ、アイヌに対するのと同じように同化政策を展開しました。
 そうした事実の一端は、下記のような朝鮮人労働者の実態の掘り起しや朝鮮人労働者の証言で明らかだと思います。多くの朝鮮人を強制的に連行し、タコ部屋と呼ばれるようなところに住まわせ、奴隷のように酷使した歴史の事実をきちんと踏まえれば、麻生発言はありえないと思います。

 下記は、「朝鮮人強制連行論文集成」朴慶植・山田昭次監修:梁泰昊編(明石書店)から抜粋しました。
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(長野)
            戦前・戦時下の下伊那における朝鮮人労働者の実態の掘り起し

   はじめに
 戦前から戦時下にかけて、飯田・下伊那地方においても、かなりの数の朝鮮人労働者が鉄道工事やダム工事に従事していた。しかし当時の記録はほとんど残っておらず、また当時労働に携わった人々も老齢を迎え、このままでは、朝鮮人労働者の苛酷な労働の実態はいつしか歴史上から消えてしまう恐れがある。
 当時、日本の男たちが兵士として召集され、また満洲へ「開拓移民」として流出したため、不足した国内労働力を安く補うために、多数の朝鮮人労働者が補填(ホテン)された。これらの朝鮮人労働者の実態を掘りおこすことは、次のような意味をもっている。
 第一に、当時の日本帝国主義の他民族侵略・抑圧・支配の忘れてはならない事実を、身近に再確認できること。もう一つは「在日朝鮮人・韓国人がなぜ多いのか」という、戦後世代の素朴な疑問を解きあかし、在日朝鮮人・韓国人に対する偏見や差別をなくし、両民族の理解と連帯の礎(イシヅエ)にもなると思う。
 以下、このような立場から、私たちが二年ほどとりくんできた聞きとり調査をまとめたささやかな報告である。

   史料による朝鮮人労働者の実態
 戦前、戦時下における長野県下の在留朝鮮人労働者についての史料は、県や特高警察の史料の他はまだほとんどなく、今後民間での史料の掘りおこしが急務である。県や特高警察関係の史料は「長野県史 近代史料編第八巻社会運動・社会政策」に掲載されている。その中の「昭和十年、知事事務引継書」によると、長野県下の在留朝鮮人の人数は次の通りである。
 昭和二年(1927)末   2697人
 昭和五年(1930)末   3873人
 昭和八年(1933)末   4209人
 昭和九年(1934)末   5700人余
 昭和十五年(1940)   8381人
(注)昭和十五年の人数は「長野県史」掲載の「長野県特高警察概況書」による。
 このように年を追って増加している背景には「募集」に応じて自分の意志で渡来した人の他、太平洋戦争の末期には日本国内の労働力補給政策によって「徴用」の名のもとに強制的に日本に連行された人も数多くあった。そして、その多くは炭鉱や鉱山での労働に従事し、県下では水力発電所工事や、鉄道工事など土工が主であった。
 下伊那地方においても、三信鉄道(現在の飯田線)敷設工事や、矢作(ヤハギ)水力発電工事(現在の泰阜ダム、平岡ダム)が行われ、多くの朝鮮人労働者が従事していた。その数は「長野県特高警察概況書」によると次の通りである。
  飯田署管内   321人
  富草署      93人 
  和田署     191人
                                  (以上昭和15年)
また、同書の「昭和7~10年泰早村門島発電所工事争議についての県特高警察調」によると、使用労働者数は「内地人700人、鮮人2、300人、計3000人」とあり、泰阜ダム工事の時には、2000人をこえる朝鮮人労働者が働いていたことがわかる。これは、後出の朴氏の証言「泰阜ダム工事には2000人~3000人の朝鮮人がいた」と一致している。
 当時、朝鮮は日本の植民地下にあり、在日朝鮮人の賃金は低く、苛酷な労働条件のもとでの生活は悲惨なものであった。事故や病気で亡くなった者も数多くいたはずである。県や特高関係の史料では、それらの実情については明らかでない。そこで私たちはさまざまなつながりをたよって、在日朝鮮人・韓国人の方々や日本人で当時ともに働いた方などから聞きとり調査をすることにした。

  朴斗権(パク・トゥグォン)氏からの聞きとり調査(1968年1月)
在日朝鮮人・韓国人で当時の様子を知っている人はいないかと調べていくうちに、平岡に長く在住していた朴斗権氏の名前が出てきた。ところが、朴氏は現在は平岡を離れ、松本市郊外に移り住んでいた。
 朴氏は1910年生まれ、現在75歳。50年以上も平岡に在住していた。朴氏は快く、若い時からの苦労のようすを淡々と語ってくれた。
 朴斗権氏は「日韓併合」が強行された1910年、朝鮮慶尚北道慶山郡の農家の末っ子として生まれた。父は1歳半の時に亡くなった。 斗権が20歳のころ、朝鮮の耕地の七割がたは「土地調査令」によって、日本人のものとなっていた。昔、朝鮮では「一年豊作になれば、二年は何もしなくてもよい」といわれるほど豊かだったが、日本の植民地になってからは、税金もはらえなくなった人々が多くいた。
 家が貧しく、学校へ行くこともできなかった斗権は、20歳の時に先に来ていた兄を頼って日本へ渡った。栃木県─茨城県─三河川合へ来て、三信鉄道(現在の飯田線)の工事に従事した。
 三河川合には、当時600~700人の朝鮮人労働者がおり、一日につきⅠ円50銭の日当だったが、三ヶ月も賃金をくれなかった。8月にストライキが起きて、斗権も警察に検束され、岡崎へ連行されて拷問を受けた。敷居の上に正座させられ、膝の裏に竹の棒を入れさせられたり、手の指の股に棒を挟ませて、指を絞めつけられた。結局、賃金は一割引きで支給された。当時、日当が1円50銭で、飯代は70銭であった。雨の日は収入がないので借金がふえていく仕組みだった。
 昭和8年(1933)泰阜の門島発電所工事へ来た。門島には、2000~3000人の朝鮮人がいた。日本人は主に世話役や監督で、工夫として働いている者は一割もいなかった。労働組合もあり、地下にもぐって活動している人もいて、夜に日本語の学習会もあって、若い人で勉強している人たちもいたが、疲れてしまって出ることはできなかった。眠ったと思えば朝、そんな毎日だった。
 朝鮮人のほとんどは、ボス(日本人)によって強制的に連れて来られた人たちだった。ボスは朝鮮に行き、警察に頼んで人を集める。朝鮮の警察や役場は、協力しなければならないようになっていた。
門島では一日、2円80銭の日当、80銭の飯代で酒を飲むこともできなかった。しかし、朝鮮におれば日当はもっと安かった。当時、日本人の日当は工夫で7~10円、世話役で15円ぐらいであった。朝鮮人は三分の一の賃金しかもらえなくとも、仕事は倍もしなければならなかった。
 昭和10年に平岡に移った。道造りや鉄くず買いをしているうちに昭和14年(1939)からダムの段取り工事が始まった。仕事はモッコかつぎとトロッコ。トロッコではなかされたものだった。朝四時半起床。朝食のあと六時前に出かけて、徹夜組と交代する。昼夜二交代制で夕方は六時まで働く。昼も夜も、人でいっぱいであった。夜も飯場から自由に外出できない。日本人の見張りが一晩中いた。食物は米二合配給。一日に一升三合くらい食べなくては力がでないのに、二合きりでは腹がへって仕事ができない。千切りの大根の入っているみそ汁も半分は塩の味がした。漬物(ナンバ)や、時にはマスがついたこともあった。他に欲しければ自分の金で買う。卵や酒を買えば赤字になって、朝鮮への仕送りができなくなってしまう。
 死んだ朝鮮人も多くいた。病気の人もいたが、多くはけがで死んだ。トロッコから落ちるとか、トンネル工事をきりっぱなし(木の防禦枠)をしないで作業をやったりして。死者をかついでいくのは何十回、何百回も見た。温田(ヌクタ)のトロッコの作業中、スコップの柄があたって死んだのを直接見たことがある。死ぬと親方によっては、酒代として15~20円くれたが、知らんふりしている親方もいた。死体は自分たちで焼いたが、木がなくて一人焼くにもえらかった。遺骨は飯場頭がいい人ならばお寺へ納骨されたが、なかなかそんな余裕はなかった。死んだ人の家族に知らせてやりたくとも、住所や名前のはっきりわからない人が多くいた。(逃げてきた人が多いから、わからない)中国人捕虜の三倍も死んだと思う。全体の人数もニ倍以上多かったし、期間も長かったから。
 逃げ出す者もあとを絶たなかった。逃げ出してつかまると警察に連行され、一週間くらい置かれて、親方から制裁を受けた。
 平岡には昭和17年(1942)に、アメリカ、イギリスなど連合国の捕虜が、続いて昭和19年(1944)には中国人の捕虜が送りこまれてきた。中国人の捕虜が一番苦労していた。連合国軍の捕虜は、今の天竜中学のグランドにあった建物に収容され、窓にはガラスが入っていた。中国人・朝鮮人はうすい板をはりつけただけの建物だった。食物を与えずに仕事をやれ、といったって無理だ。焼いたパンみたいな物を三コ、おかずは生のニンニクだけだった。これで力が出る訳がない。
 世話役たちがステッキみたいな棒を持っていて、たたいたりしていばってしようがない者もいた。捕虜たちはなかなかいうことをきかなかった。冬、川ばたに線路をひくのに、玉石を片づけるのを素手でやっていた。玉石は持つと水より冷たい。一つやっては手をこすっていた。死者が出た時は毎日死んだ。全部で八十数人死んだそうだ。中国人は袋にするような(麻袋か?)荒い目で風がみな通ってしまうようのものを着ていた人もいた。
 終戦。「戦争に負けたので、日本人はヤケクソになっているから気をつけるように」「仇を返すようなことをすると、いつまでもあとが切れない。一般国民には罪はない。警察や官庁の者がいばったら知らせてほしい」という連絡が連盟から来たように思う。だから平岡には暴動のようなことはなかった。
 その後、兄家族は朝鮮へ帰ったが、斗権は帰らなかった。先に帰った兄たちからも「帰ってこい」とはいってこなかったし、今から思うと帰らなくてよかったと思う。

 

 

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私は「慰安婦」ではない ─ 万愛花の証言

2019年08月22日 | 日記

 徴用工の問題や輸出規制の問題、あいちトリエンナーレ2019の問題などに絡んで、また、いわゆる「従軍慰安婦」の問題が注目されています。でも、残念ながら、事実にも基づいた議論が深まる様子はありません。逆に、「慰安婦問題はデマ」とか「反日プロパガンダ」というような発言によって、感情的対立が煽られているように思います。

 
 広辞苑によると、いわゆる”従軍慰安婦”は”日本軍によって将兵の性の対象となる事を強いられた女性”です。将兵を慰安する気持ちがない多くの女性(少女)を、日本軍は”慰安婦”と呼んだのです。もちろん、”将兵の性の対象となる事を強いられた女性”は、ほとんど従軍する意志もなかったと思います。したがって、「従軍慰安婦」という呼称は、”将兵の性の対象となる事を強いられた女性”の意志や気持ちを無視した一方的なものだと思います。

 だから、国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会の戦時性奴隷制特別報告者、ゲイ・マクドゥーガルが、報告書の付属文書のなかで、日本の「従軍慰安婦問題」に関して、

1932年から第2次大戦終結までに、日本政府と日本帝国軍隊は、20万人を越える女性たちを強制的に、アジア全域にわたる強かん所(レイプ・センター)で性奴隷にした。これらの強かん所はふつう、「慰安所」と呼ばれた。許し難い婉曲表現である

と指摘したのは当然だと思います。「慰安所」とか「慰安婦」という表現は、女性の立場に立てば、まさに許し難い表現だということです。呼称自体が、女性の人権を無視したものであり、女性の立場に立てば、それらは、「強かん所」(レイプセンター)、「性奴隷」という表現になるのだと思います。

 そういう意味で、下記に抜粋した”私は「慰安婦」ではない”という証言は、重要な意味を持っていると思います。
 私自身も、どのように表現すべきか、いろいろ悩まされてきました。「従軍慰安婦」と括弧書きにしたり、日本軍「慰安婦」としたり…。
 一般的にはあまり使われていませんが、日本軍「慰安婦」(従軍慰安婦)を、括弧なしで表現すると、”日本軍性奴隷”になるのではないかと思います。
 下記は、『私は「慰安婦」ではない』戦争犠牲者を心に刻む会編(東方出版)から抜粋しました。
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 <証言──中国>
 私は「慰安婦」ではない
                                                    万愛花(ワンアイファ)
 日本が何をしたかを伝えたい
 私は万愛花です。私は日本の戦後補償に関する国際公聴会で証言するため、1992年に東京に来たことがあります。私は今回、日本人がやった悪いことを皆さんに伝えるために、再び日本に参りました。今日ここに集まった皆さんの中には、若い方がたくさんいらっしゃいますね。私、万愛花はここに来席した皆さま方にとても感謝しています。どんなに遠くても、私は話を聞きに来るべきだと思います。ご来場の皆さま方に心から感謝申し上げます。私を支持してくださいまして、ありがとうございます。
 私、万愛花が日本に参りましたのは、すでに亡くなりました中国のおじいちゃん、おばあちゃんたち、それから小さい幼い子どもたち…、あの戦争中に故なく殺されたたくさんの中国の人たちのためです。あの時中国で、日本軍が何をやったかを訴えるために、私は中国の被害者の代表として日本に参りました。
 そんな殺人者たちにも、それぞれ自分の父母がおり、おじいさん、おばあさんあるいは子どもたちもいるはずです。それなのになぜ中国を侵略してきて、言い尽くせない酷いことをしたのですか。「三光政策」というのは、「殺しつくす、焼きつくす、奪いつくす」というとても残虐な行為です。そんなことをして、何のいいことがありますか。
 私は優秀な共産党員です。日本の鬼は、私の青春、私の人生、私のすべてを踏みにじりました。しかも今に至るまで、知らん顔をしているのです。
 私はかつて1メートル60センチの背の高い女でした。それなのに、今はこんなに低くなりました。身体がすっかり変形してしまったんです。ここまで全部足です。
 ずっとこういうふうにしか歩けなかったんです。日本軍は私に共産党員の名簿を出せと迫り、私に激しい暴行を加えました。拷問しました。けれども、私にはそんなことはできません。私は決して教えませんでした。そのために、いっそう激しく暴行を受けました。
 今でも私は、毎日マッサージをしてもらっているんです。十年間以上もずっと毎日マッサージしてもらって、その時だけは、今も続く身体の辛さがわずかに癒されるようです。
 (万愛花さんの体や来日後の様子に関する通訳の説明部分 略)

 三回捕えられ、くり返された暴行
 私は十一歳で共産党に入党しました。私は、生家の貧しさのため、四歳の時に内モンゴルから山西省孟県羊泉村に養女として売られてきましたので、私のそばには身内は一人もいませんでした。それで、私は八路軍(抗日軍の呼称)のために、毛沢東主席のために、少しでも手伝いをしようと思い、積極的に抗日活動に参加したのです。
 私の住んでいるところは八路軍の本拠地でした。私は日本軍が知らないうちに、内緒で八路軍に、靴とか食料品とかいろいろ必要な物資を調達して運び、私は共産党のためにたくさんの貢献をしました。
 けれども私は三回、日本軍に捕らえられて、彼らの本拠地に連行されました。連行され、合わせると三ヶ月もの間監禁されて、夜となく昼となくひどい暴行を受けました。そのうえ、数多くの日本軍人に輪姦されました。その体験はあまりにも残忍で、とても言葉で表現できるものではありません。
 ある日、二人の日本の鬼が一人ずつ、押し倒した私の両手を引っ張りあげ、もう一人の日本軍人は私の頭を押しつけ、もう一人が私のわき毛、そして陰毛を一本一本全部引き抜きました。私はとても残虐な蹂躙をうけました。しかし、彼らがどれほど私を残酷にいじめても、私は共産党員の名前を一人も口に出しませんでした。死んでもいいと思いました。
 1943年、とても寒い真冬の12月に、私を残虐に輪姦して、身体のあちこちが骨折するまで暴行を加えたあげく、日本の軍人は冷たい川に私を裸のまま投げ捨てました。私の命は神様が救ってくれたものです。
 命は助かったけれども、その後の三年間、私はほとんど身動きできずに伏せっていました。そのうえ、歩けるようになってからも村の人々から「汚い女」と蔑みの目で見られ、村で生活できなくなり一人で逃げ出しました。今は、山西省に住んでいます。

 真の友好関係とは
 私は日本に来て、こういう事実を日本人に知らせない限り、死ぬに死ねません。
 日本軍がやったこのような悪質な行為を、私が日本に来て日本人に直接話さなければ、日本人は誰も知らないでしょう。
 私は1992年にも来日しましたけれども、今回来てみたら、この集会に参加している方々には若い人がかなり多いです。私が日本に来たのは、日本政府が一日も早く、自分の国がやった悪いこと、悪質な侵略行為について、犯罪行為だということを認めて、それから中国政府に対して心からのお詫び、謝罪をして欲しいからです。私たち被害者本人に対しても謝罪して欲しいです。
 いま日本は、聞いたところでは、なんとか中国と「友好」だそうですね。けれども、実際的な行動が見えなければ、それは成り立たないのです。本当に自分が悪いことをしたと認め、謝罪するのが一番良い方法です。そうしたら、中国と本当の「いい友達」になれるんです。謝罪しないということは、中国と友好ではないことのみでなく、またもう一度中国に侵略してくる、再び戦争をやるということではないでしょうか。
 日本にはいい指導者がいないのです。日本政府が悪いんです。日本のリーダー、政府の指導者がとっても悪いです。日本人であるから全部悪いとはいえません。日本人の中にも良い人もいます。それを見分けなければならないと私は思っています。日本軍であっても悪いことをしないで日本に戻ってきた人はいい人です。それから、日本の国民はいい人です。その人たちのお友だちも悪いことをしなければいい人だと思います。

 「慰安婦」と呼ばれるために新たな被害が
 私が92年に日本に来て国際公聴会に出た時、新聞に「慰安婦」という言葉が出てきました。それは中国にまでも伝わりまして、私はとても深刻な被害をこうむっています。
 私は「慰安婦」ではありません。私は身も心もきれいです。私は「汚い女」ではありません。それなのに、祖国で子どもたち(世話をしてくれる義理の若い者たち)、まわりの村の人たちが、すごく冷たい目で私を見るようになりました。
 私は知識もないんです。私は身内もないんです。しかし、私は「慰安婦」ではない。私は「汚い女」ではないことを証明しなければならないと思いました。あちこち走り回りまして、自分が共産党員であること、「汚い女」「慰安婦」ではないことを証明してきました。共産党員であることが証明されたために、私は党籍を回復し、いま優秀な共産党員であります。「慰安婦」では絶対ありません。
 私だけではないです。韓国をはじめ、世界各国のこういう悲惨な体験をしている女性たちは、みんな「慰安婦」ではありません。すべて、日本の鬼が悪いことをやって、強制し、苦しめたことなんですよ。私が少し違うのは、私が共産党員であるために、いっそうひどい暴力を受けたことなんです。
 かわいそうな姉妹たち。かわいそうな亡くなったおじいさん、おばあさんたち。その人たちのために、私は日本に来ました。
 皆さん方、記者の方たち、恩人の方たち。私はあなたたちに対して、私たち被害を受けた女性たちのために一生懸命頑張ってくれていることについてとても感謝しております。私は中国に限らず、日本軍に殺され、苦しめられ、亡くなった方たちのために、その方たちを代表してお礼申し上げます。
 皆さんにお願いがあります。私が話したことを大勢の人々に伝えてください。悪いことをした日本の軍人を追及してください。彼らを捜し出した時、もし既に死んでいても、その親戚がいるでしょう。死んだらお墓があるはずです。そうしたら、私、万愛花はお墓参りをいたします。
 日本に橋本という人間がいるらしいですね。あの人は政府の要人として、日本軍のお墓参りをしたそうですね。祀られている死んだ人たちは、何処でどのようなことをしたのか、そして何処でどうやって死んだのか、橋本という人は考えましたか? 先程証言したあの人(杉田さんのこと)も日本人でしょう? なぜあの人は戻ったのに、お墓参りをされている人たちは死んだのですか。彼らが何処で何をしたのか、あなたたち考えてください。
 私の話を聞いてくださって、ありがとうございました。

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慰安婦狩り、監禁、強かん、殺人の証言

2019年07月29日 | 日記

 元「慰安婦」の証言集を読むと、朝鮮や台湾から連行され、慰安婦にさせられた女性の多くは、騙されて慰安婦にさせられたということがわかるのですが、フィリピンや中国でなどの戦地、占領地では、下記のように、日本軍の兵士が直接女性を暴力的に連行し拘束して慰安婦にしたことがわかります。軍と住民との関係が敵対的であったためではないかと思います。

 日本は、こうした元「慰安婦」の証言を、事実の証言として受け止め、元「慰安婦」の方々にきちんと向き合って、一日も早く謝罪と賠償をすべきだと思います。元「慰安婦」の証言は多様です。こうした感情が伴う証言を、支援者などが創作して覚えさせ、事実と異なることを証言させているなどと受け止めたり、売春婦だった人たちが、お金欲しさに嘘をついているのだなどと受け止めて、責任逃れをすることは、恥ずかしいことではないかと思います。
 国連人権委員会より任命され、女性に対する暴力に関する特別報告者となったラディカ・クマラスワミ氏(スリランカ出身、ニューヨーク大学法学部教授)は、日本軍の「軍事的性奴隷問題」についての報告書のなかで、

それでも徴収方法や、各レベルで軍と政府が明白に関与していたことについての、東南アジアのきわめて多様な地域出身の女性たちの説明が一貫していることに争いの余地はない。あれほど多くの女性たちが、それぞれ自分自身の目的のために公的関与の範囲についてそのように似通った話を創作できるとは全く考えられない。

 と書いています。私もその通りだと思います。日本が責任逃れを続ける限り、東アジア諸国の日本軍「慰安婦」問題に関する追及は続くと思います。根本的解決に至らないと、将来世代も恥ずかしい思いをすることになるのではないかと思います。根本的解決に至れば、過去の問題になり、将来世代が恥ずかしい思いをすることはないのだと思います。

 下記は、「フィリピンの日本軍慰安婦 性的暴力の被害者たち」フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団(明石書房)から抜粋しましたが、

” 戦争被害者の生き残りの一人として私にできることは、私の経験をもって、すべての政府と国際社会に、戦争がもたらす女性への暴力についての教訓とさせることだけです。しかし日本政府がわたしたちに負う、その責任に向きあわない限り、この教訓も学ばれず、完全に目的を遂げることができません。

 という主張は、無視されてはならないと思うのです。

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                  父を殺され、将来を破壊された
                                                      トマサ・サリノダ
 私はトマサ・サリノダです。1928年12月8日、アンティケ州州都のサンホセに生まれました。母は私の生後一ヶ月で亡くなり、きょうだいはおりません。
 1942年に日本がフィリピンを占領したときには私は十三歳でした。私は父と山へ疎開しましたが、州知事が州都は安全になったと宣言したことを期に家へ戻りました。山から家へ戻る途中に初めて日本兵を見ました。サンホセは日本兵であふれていました。
 日本軍の駐屯地が家の近くにあったので通りを行く日本兵をよく見かけました。兵士たちは私のじゃまをすることも、私たちを傷つけることもしませんでした。少なくともしばらくのあいだは。
 しかし、二週間後、父と私が寝ているところへ、日本兵が押し入って来ました。外にはほかに二人が待機していました。二人の兵士が私を連行しようとしたため、父は抵抗しました。するとそのうちの一人、後でヒロオカ大尉と知るのですが、彼が剣で父の首を打ちました。父を助けようと駆け寄り、抱き起すと頭がなくなっていました。あまりの悲しさに泣き叫ぶ私を日本兵は容赦なく家から引きずり出しました。私は父の亡骸につきそいたいと、放してくれるように頼んだのですが、日本兵は気にもとめませんでした。首を切り落とされた父の亡骸はそのまま放置されました。
私はサンホセのゴビエルノ通りにある二階建ての家に連れていかれました。日本軍の駐屯所がすぐ近くにありました。日本兵は私をなかに入れ、鍵をかけて出ていきました。夜中に私は父のことを思い、泣き続けました。
 夜明け前にヒロオカ大尉と他の兵士が部屋に入ってきました。彼らは、弱っていて、打ちひしがれている私にセックスを強要しました。私は強く抵抗しましたが、ヒロオカは私を強かんしてしまいました。ヒロオカの後に次の兵士が強かんしようとしました。私は弱っていましたが、再び強く抵抗すると、その男は何かで私の頭を殴り、私は気絶しました。意識が戻ったときにはだれかが私の頭の傷をお湯で拭っていました。
 その後三日間は部屋のなかに一人おかれ、日本兵は来ませんでした。しかしその後は日本兵が来て私を強かんしました。私は何度も気を失ったので何人に強かんされたのか覚えていません。毎日二人から五人くらいの兵士に強かんされました。
 どのくらいその家にいたかは覚えていません。自分が正気を失ってしまったと思えることもありました。部屋のなかにただ座って何時間もぼんやりと宙をみつめていました。いつも父のこと、どうやって殺されたかを思い出していました。父がどこに埋葬されたのかもわかりません。
 ある日兵士が部屋のテーブルの上に鍵を忘れたのを機に逃げ出しました。ある夫婦の家へ逃げ込み、かくまってもらい、私は家事の手伝いをしていましたが、長くは続きませんでした。オクムラという日本兵が来て、引き渡さなければ殺すと夫婦を脅し、私を連れ出しました。
 私はオクムラの家へ連れていかれ、奴隷のように扱われました。洗たくや掃除を命じられたほかにオクムラが帰るたびに強かんされました。オクムラは来客があると、その者に私を強かんさせることもしました。けれども私はオクムラの家から逃げだそうとは考えませんでした。逃げたら殺されるか拷問される、という思いと、あの大きな家で多人数の日本兵にセックスを強要されるよりは、オクムラの家のほうがまだましだという思いからです。
 日本軍がサンホセから完全にいなくなって私はオクムラから解放されました。
 それ以来ずっと一人で暮らしています。日本兵によってとても深く傷つけられたため、結婚したいとは一度も思いませんでした。日本の占領中に辱められた経験を思い出すたびに苦痛と恥ずかしさでいっぱいになります。日本軍によって父が殺されたこと、性奴隷にされたことを思い出すたびに泣いたものでした。戦争中の辛い体験から何年たっても、ときおり父のことを考えては、何時間も座り続けることがあります。
 戦争によって父は殺され、私は唯一の身寄りを失くしました。学校へも行けず裁縫をして生計をたててきました。性奴隷とされたことによって私の人生、将来が破壊されてしまったのです。
 若いころは何人かの男の人に好意を寄せられましたが、すべて断りました。セックスのイメージには暴力と強かんの記憶がつきまとうからです。それは汚らしく、寒気のするものでした。交際を断った際にある男性には、「日本人を何百人も相手にするほうがいいのだろう」と侮蔑され、家に投石までされました。自分の子どもはほしかったのですが、この経験のせいで結婚しないほうを選んだのです。
 1992年の終わりに、ある女性団体が、第二次世界大戦に性奴隷制度の被害者になった私のような女性に呼びかけていると知りました。「とうとう正義が回復される」と希望の光を見た思いでした。イロイロにあるその女性団体「ガブリエラ」の事務所を通して、タスク・フォースと連絡を取ることにしました。お金がなかったので、毛布を売って交通費を捻出しました。タスク・フォースの人びとに自分の体験を話した後には、大きな安堵感に包まれました。長いあいだずっと、誰かわかってくれる人に戦争中の苦しい体験を全部打ち明けたかったのです。初めて受け入れられ、理解されたと感じることができました。それはまるで胸からいっぱいのとげを抜き去ったかのようでした。
 しかし、名乗り出ることによってさらに傷つきもしました。近所の人に「補償金が入るのだから強かんされて運がよかった、戦争で金儲けができた」などといわれています。
 それでも提訴する決心をしたのは、これが日本軍によってなされた悪に対して正義を取り戻す一つの方法だからです。日本政府は五十年間も私たちに対する責任を取らずにすませてきました。私たちになされた戦争犯罪と強かんの事実は、私やそのほかの元「慰安婦」の証言によって指摘されています。
 戦争被害者の生き残りの一人として私にできることは、私の経験をもって、すべての政府と国際社会に、戦争がもたらす女性への暴力についての教訓とさせることだけです。しかし日本政府がわたしたちに負う、その責任に向きあわない限り、この教訓も学ばれず、完全に目的を遂げることができません。
 私は日本政府がすべての性奴隷制度の被害者に対し、その法的責任を果たし、誠意ある謝罪を行い、補償するように求めます。これが私に理解できる唯一の正義の表現です。単なる言葉では、私の経験した屈辱と苦悩を和らげることはできません。日本軍によって私は父をなくしました。父さえ生きていたら私は今頃、ここにいる裁判官のかたがたのように立派な仕事をしていたことでしょう。戦争中の性奴隷、「慰安婦」制度は戦時にあって私たち女性がもっとも被害を受けるのだということを醜く例証しています。
 私はすでに年老い、貧困のうちにひとりで暮らしています。食べるものにも困り、健康を害しているのでもう長くは生きられないでしょう。正義がすぐに実現されることを望みます。十分すぎるほど苦しみました。体は弱り、健康状態も日々衰えていっています。ですから日本政府は、そしてここにいらっしゃる裁判官のかたがたに、正義の実現をこれ以上遅らせないでくださいと訴えます。お願いですから、どうか、自分の人権と正義が回復されるのか否か、わからないままに私を死なせないでください。(第一回裁判での意見陳述による、秋田一恵弁護士担当)

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孝明天皇 毒殺?

2018年07月09日 | 日記

 幕末から明治のはじめのころの歴史に関する本にはよく、”テロの嵐”や”攘夷の嵐”などという言葉が出てきます。

 井伊直弼が、1860年、桜田門外で水戸の浪士に暗殺されて以降、長州を中心とするいわゆる”憂国の志士”たちが京都に集まり、公卿の一派と提携して、尊王攘夷をかかげ、天誅と称して要人暗殺を繰り返しました。
 そのなかには、「人斬り新兵衛」、「人斬り彦斎(ゲンサイ)」、「人斬り以蔵」、「人斬り半次郎」などと呼ばれ、「幕末の四大人斬り」として名を知られるようになった人もいるようです。外国との新たな関係を模索し、修好通商条約締結に踏み切った幕府関係者や公武合体派の公卿が暗殺の対象で、時には生首が晒されることもあったため、都の人々を震撼させたといいます。
 司馬遼太郎の「幕末」(文春文庫)という本も、そうした時代の暗殺者を主人公とした十二篇の短編からなっていましたが、ほんとうに野蛮な時代だったと思います。そして、”テロの嵐”や”攘夷の嵐”の””という言葉が、その野蛮性を表現しているように思います。

 でも、明治新政府を主導した長州を中心とする急進的な尊王攘夷派の人びとは、自分たちが政権に就くと、攘夷を実行することなく、開国に転じます。”テロの嵐”や”攘夷の嵐”はいったい何だったのか、と思います。岩瀬肥後守が、堀田閣老によって招集された諸大名の前で、条約締結の必要性六点をあげて論じたとき、諸大名が何の反論もできなかったことにもあらわれているように、当時の攘夷の思想は、討幕のための”偏狭なナショナリズム”に基づくもので、時代の流れに沿うものではなかったということだと思います。

 また、「尊王攘夷」の思想の、”尊王”についても、言葉だけのような気がします。資料1は「一外交官の見た明治維新(上)」アーネスト・サトウ:坂田精一訳(岩波文庫 青425-1)から抜粋したものですが、天皇の崩御に関する見逃すことの出来ない文章です。
 アーネスト・サトウは、父親がスウェーデン人で母親がイギリス人ということで、「サトウ」とはいっても、二世でも三世でもないようですが、日本語に堪能で、日本の文書なども読むことが出来る数少ない外国人だったということで、幕末から明治維新にかけて、極東政策の指導的外交官として、日本で活躍したということです。
 彼は、自身で
”… 私は、日本語を正確に話せる外国人として日本人の間に知られはじめていた。知友の範囲も急に広くなった。自分の国に対する外国の政策を知るため、または単に好奇心のために、人々がよく江戸から話にやってきた。私の名前は、日本人のありふれた名字(訳註 佐藤)と同じいので、他から他へと容易につたわり、一面識もない人々の口にまでのぼった。両刀を帯した連中は、葡萄酒や、リキュールや、外国煙草をいつも大喜びで口にし、また議論をとても好んだ。彼らは、論題が自分の興味のあるものなら、よく何時間でも腰をすえた。政治問題が、われわれの議論の主要な材料であった。時として、ずいぶん激論することもあった。私は常に、日本の現在の制度の弊害を攻撃した。諸君には大いに好感をもつが、専制制度はきらいだと、よく言ったものだ。訪問客の多くは、大名の家来だった。私は彼らの話から、外国人は大君(タイクーン)を日本の元首と見るべきでなく、早晩天皇(ミカド)と直接の関係を結ぶようにしなければならぬ、という確信を日ごとに強くした。これらの人々を通じて入手した公文書の写しからみても、大君(タイクーン)自身が自分を単に天皇(ミカド)の第一の臣下以上の何者でもないと考えていることがわかった。
と書いています。アーネスト・サトウから様々な情報を得ようと、彼のもとに人々が集まり、また、彼はそういう人々から様々な情報を得ていたことが分かります。それだけに、
”噂によれば、天皇(ミカド)は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。
という内容には驚きます。
 そういえば、伊藤博文を殺害して処刑された安重根が裁判で、殺害理由として「伊藤博文の罪状15ヶ条」を列挙したなかに、「第14、伊藤さんは、42年前に、現日本皇帝の御父君に当たられる御方を害しました。そのことはみな、韓国民が知っております」と孝明天皇が殺されたことに触れていたことを思い出します。
 
 資料2は、「戊辰戦争」佐々木克(中公新書)から抜粋したのですが、天皇毒殺について触れています。もちろん、毒殺を認める本人の証言があるわけではありませんが、天皇毒殺の根拠が、当時の主治医の日記であるということ、またそのことを明らかにしたのは、主治医の子孫である医師伊良子光孝氏であるということには考えさせられます。また、当時天皇のまわりにいた関係者の日記などにも、毒殺を疑わせるものがいくつかあるようです。

 さらに、下記の「非義の勅命」の問題や、すでに取り上げた「偽勅」の問題、そして、「偽錦旗」の問題などもあり、天皇を囲い込んで政治的に利用しようと画策する動きと考え合わせると、「毒殺」の可能性は極めて高いような気がします。
 したがって、長州を中心とする尊王攘夷急進派の思想は、「攘夷」だけではなく、「尊王」という面でも、その内容が疑われます。自分たちに都合の悪い勅命は「非義の勅命」であるから従う必要はないと主張し、また、自分たちの都合で「偽勅」を発し、天皇から受け取ったものではない「錦旗」を自ら作って利用し、さらには、天皇を毒殺したのではないか、と考えられている人たちの「尊王」というのは、いったい何だったのか、ということです。
 大久保利通は「非義の勅命」について
謝罪した長州を討つのは、武家たる者のなすべき正義の行動ではない。また長州征討の戦争は、内乱となる危険性が高い。内乱が国家を傾けることは清国の例で明らかで、諸藩も長州征討に反対している。それなのになぜ天皇・朝廷は勅許をするのか
と主張していたようですが、その主張にもとづけば、慶喜が大政を奉還し、恭順の姿勢を示していた上に、外圧に備える必要のあった時期の戊辰戦争を正当化できるでしょうか。妹「和宮」を降嫁させていたために、孝明天皇は討幕を認めず、公武一和を強く望んでおられた、といいます。
 尊王攘夷をかかげ、様々な策謀・謀略によって権力を手中にした人たちがスタートさせた明治の時代は、決して明るいものではなく、その野蛮性は、その後朝鮮や清国を舞台として発展していったのではないかと、私には思えるのです。

 資料3は「幕末の天皇・明治の天皇」佐々木克(講談社学術文庫)から「非義の勅命」その他関係部分を抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                         第十六章 最初の大坂訪問

私は、プリンセス・ロイヤル号の甲板で日本の貿易商人数名に会ったが、彼らは近迫した兵庫の開港に大いに関心をもち、外国人の居留地として適当な場所について大いに意見を吐いていた。また、彼らは、天皇(ミカド(訳註 孝明天皇)の崩御を知らせてくれ、それは、たった今公表されたばかりだと言った。噂によれば、天皇(ミカド)は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。この天皇(ミカド)は、外国人に対していかなる譲歩をすることにも、断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ。この保守的な天皇(ミカド)をもってしては、戦争をもたらす紛議以外の何ものも、おそらく期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺にもとめるのは、東洋諸国ではごくありふれたことである。前将軍(訳註 家茂)の死去の場合も、一橋のために毒殺されたという説が流れた。しかし、当時は、天皇(ミカド)についてそんな噂があることを何も聞かなかった。天皇(ミカド)が、ようやく十五、六歳になったばかりの少年を後継者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役立ったことは否定し得ないであろう。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                            Ⅰ 幕府の倒壊
 勝利か敗北か
 突然の砲弾と吶喊の声に驚いた馬が、鳥羽街道を狂奔した。馬は街道上に縦隊となっていた幕府の
兵を蹴散らしながら、もときた淀に向かって馳け去った。
 幕府軍の隊列は乱れ大混乱となった。後方では敵の姿も見ずに逃げる将兵さえいた。馬は、薩摩藩の軍監椎原小弥太と山口仲吾に入京のため通行を求めて交渉談判をしていた、幕府大目付滝川具挙の乗馬であった。薩摩藩兵の銃砲弾が、逃げる幕府軍兵士に雨のごとく降りかかった。
 慶応四年(明治元年1868年)正月三日、こうして鳥羽・伏見戦争が始まった。
 ・・・
 薩軍の総大将に万一のことがあっては、今後の指揮に支障をきたすから、危険な前線に出てはいけないと、西郷は大久保にいい含められていたのであろう。だが思いがけない初戦の大勝の報告にたまりかねて、彼は伏見口の戦場まで戦況を見に行ったのである。
 初戦で勝ったといっても、それで徳川幕府が壊滅したわけではない。翌日も依然として鳥羽と伏見にとどまって薩長軍に応戦している。軍事的には確かに幕府軍は大分旗色が悪いが、薩長軍の圧倒的勝利というほどのこともない。しかし政治的にみれば、薩長軍の完全な勝利であった。初戦の三日夜の段階で、早くも「錦旗」を押立てた「追討将軍」の派遣が実行に移されつつあり、これは<天皇>を完全に薩長が手の内に入れたことを意味していた。そして薩長軍は天皇の正義の軍隊=「官軍」となり、徳川慶喜をはじめ幕府軍は「朝敵」の運命がここで決したのであった。
 この日大久保は、なかなか腰の定まらない有栖川熾仁(総裁)、三条実美(議定)、岩倉具視(議定)らの公卿に、断乎として徳川勢と決戦し打ち破らねばならないと、必死の形相で説きまわり、参殿して戦局の対策を協議していた。同日の大久保利通の日記には「追々官軍勝利 賊退散之注進有之候事、今夜徹夜」と結んでいる。
 官と賊との明暗が、はっきりと意識されている。しかし戦争が始まるまでは、どっちにころぶか大きな賭であり、大久保らにとっても内心大いに不安であった。前日、岩倉、大久保、西郷、そして長州の広沢真臣らが集まったとき、そこでは戦争に負けた場合の対策が協議された。
 それは、
一、天皇に三条実美、中山忠能を従え、薩長二藩兵が護衛して、芸州・備前のあいだに移し、討賊の詔を四方に下すこと 
二、岩倉と有栖川宮は京都にとどまって奮戦し、支えきれなくなったら、天皇は叡山に遷幸したと偽ること
三、その間に仁和寺宮、知恩院宮を東北諸国に派遣し、令旨を領ち、勤王の兵を招集して江戸城を衝かせること。
というのである。しかも三日当日、幕府勢が大挙して鳥羽・伏見に結集しだすと、戦端がひらかれたら「一発直様(スグサマ)玉(ぎょく=天皇)を移」すことまで考えていた。背水の陣である。
 この計画は大久保あたりから出たらしい。天皇を危険な戦場近くから安全な所まで避難させようという心配りからのものではない。天皇が幕府側の手に渡ったら困るという、それがもっとも重要な理由なのである。それにしても彼らは天皇を物体かなにかのごとく、意のままにどこへでも移そうと計画している。いや移せると確信しているのである。天皇はそれほど軽いものなのだろうか。

 前の天皇である孝明天皇は慶応二年(1866)十二月に死亡した。天皇の死因については、表面上疱瘡(ホウソウ)で病死ということになっているが、毒殺の疑いもあり、長いあいだ維新史上の謎とされてきた。しかし近年、当時天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見るかぎり明らかに「急性毒物中毒の症状である」と断定された。やはり毒殺であった。
 犯人について伊良子氏はなにも言及していない。しかし、当時の政治状況を考えれば、自然と犯人の姿は浮び上ってくる。洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策謀をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える、眼の前にふさがっている厚い壁は、京都守護会津藩主松平容保を深く信認し、佐幕的朝廷体制をあくまで維持しようとする、親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。岩倉自身は洛北の岩倉村に住んでおり、行動が不自由で朝廷には近づけなかった。しかし岩倉と固くラインを組み、民間にあって自由に行動し策動しえた大久保利通がいる。大久保は大原重徳や中御門経之ら公卿のあいだにもくい込み、朝廷につながるルートを持っていた。孝明天皇の周辺には、第二第三の岩倉や大久保の影がうごめいていたのである。直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕がだれであったか、もはや明らかであろう。
 岩倉や大久保にとって、天皇の存在は自らの意志で自由にできる「玉」であり、場合によっては「石」にも変わりうる、それほど軽いものだったのだ。
 それにしても、この頃の大久保には悲壮感さえ漂っていた。正月三日朝、大久保は岩倉に呈した意見書で、朝廷はすでに二大失策をおかし、いままた三つめの大事を失おうとしており、このままでは「皇国の事凡て瓦解土崩、大御変革も尽く水疱画餅」となるであろうと述べ、勤王無二の藩が、戦争を期して一致協力、非常の尽力をしなくてはならないと焦慮していた。
 三大事のひとつは、徳川氏の処置=辞官・納地問題と会津・桑名藩帰国命令が、越前、土佐の論に左右され、尾張、越前の周旋にまかされたため、当初の予定のごとく確断と出されなかったことである。第二は徳川慶喜や会津・桑名藩が大坂に滞留し朝廷も圧倒されるほどの幕府勢割拠の情勢を作り出したのを黙認してしまったこと。そして目前の三つめの大事は、慶喜の上京参内を許し、しかも要職の議定に任命しようとしていることである。慶喜-幕府の復権であり、これでは、なんのための王政復古クーデターだったのかわからなくなる。そればかりではない。大久保ら薩長討幕派が逆に窮地に追い込まれそうになってきた。なんとしてもここで慶喜をたたいておかねばならなかった。十二月九日の王政復古クーデターは討幕派の大勝利であったが、いまや最大の危機を迎えていたのであった。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                           第六章 朝廷政治の終焉
非議の勅命
 ・・・
 たとえば長州征討勅許と条約勅許を見てみよう。前者は「(将軍)言上の趣、聞こし食され…(征討が済んだら)…上京の事、兼ねて被仰出候」という文言であり、後者は「条約の義、御許容あらせられ候間、至当の処置可致事」となっているように、同じ形式ではない。
 勅許とは勅命によって許可することであるが、天皇が直接口頭で伝えるのではなく、文書で伝えるためこのように間接形になる。とはいえ御前会議を経ているから天皇の真意をつたえるものであって、偽勅ではないことは周知のこととなっている。
 にもかかわらず、この勅(長州征討勅許)は勅命として認めないと言い放った者がいた。大久保利通である。「非義勅命は勅命に有らず」と、西郷隆盛にあてた手紙(慶応元年九月二十三日付)の中で、正義でない(非義)勅命は、真の勅命ではないから、したがわなくてもよいと述べていたのである。なぜ非義の勅命なのか。
 謝罪した長州を討つのは、武家たる者のなすべき正義の行動ではない。また長州征討の戦争は、内乱となる危険性が高い。内乱が国家を傾けることは清国の例で明らかで、諸藩も長州征討に反対している。それなのになぜ天皇・朝廷は勅許をするのか。万人が正しく尤もだといって承服するのが正義の真の勅命ではないか。この勅命は正義に反している。大久保はこのように述べて、長州征討の勅命は無視してよい。勅命にはしたがわないことを薩摩藩の方針としたい、と西郷に提言していたのであった。この時西郷は大坂にいる。京都の大久保が大坂の西郷に、なぜ朝議の模様などを細々と記した四千字にもおよぶ長文の手紙を書いたのか。それは西郷がこの手紙を鹿児島に運んで、久光をはじめ藩の首脳部に披露して評議する、そのための報告書として書かれたものだったからである」(『大久保利通文書』)

 また、この手紙(主張)で注目すべき点は、非義の勅命と断言することによって、天皇・朝廷をはっきりと批判していたことであった。また朝彦親王と二条関白の発言と行動に対しては、その無策無能ぶりを「くどくどと言い訳する」などと、嫌悪感さえくわえて指摘していた。そして同時に、この勅命を、なかば脅迫してださせた幕府・慶喜にたいする、強烈な反感反発であった。

 ・・・

 先に久光が朝彦親王に呈した天皇・公家の意識改革を含んだ朝政改革の意見書や、元治国是会議の際における公家・朝議の模様などを検討した際に、久光・薩摩藩首脳が朝廷に失望感を抱いたことを指摘した。しかしここにいたり、失望ぐらいではとどまらない。大久保は勅許が正式に発表された二十二日に朝彦親王邸に行き「朝廷これかぎり」との言葉を投げつけていた。朝廷の前途はあやういが、もはや薩摩藩は手をかさずに朝廷とは縁を切る、そのような覚悟だと告げていたのである。

薩長盟約と新国家
この大久保の手紙は、幕末政治の流れを変える契機になったので、もう少しその点についてふれておきたい。この「非義の勅命」の手紙は、坂本龍馬が使いとなって、その写しが長州藩に届けられていた。西郷と龍馬は、九月二十六日に一緒の船で兵庫を発ち、西郷は鹿児島に向かい、龍馬は途中で下船して十月四日に、三田尻で長州藩重役広沢藤右衛門に会って、この手紙(写し)を手渡した。大久保と西郷は何を考えていたのだろう。
 これより先、この年七月に薩摩藩は、長州藩のために薩摩藩名義で長崎のイギリス商人グラバーを通じて銃七千三百挺を買い、龍馬が薩摩藩の船に積んで、下関に運んだ。これにたいして長州藩主毛利敬親(タカチカ)・広封(ヒロアツ)父子は、九月初めに薩摩藩主島津茂久(モチヒサ)と久光に親書を送って礼を述べるとともに、これまで薩摩藩にいだいていた不信は「万端氷解」したと記し、薩長両藩は大きく歩み寄っていた。
 ・・・
 翌年一月二十二日に薩長盟約が結ばれた。龍馬は薩長盟約のスタートとゴールの、両方における証人だったのである。
 薩長盟約は、倒幕のための軍事同盟であったとする説があるが、そのようなものではない。幕府は自滅することが見えている。倒そうとしなくても自ら倒れてゆくのである。盟約が目標としたものは、幕府が倒れた後のこと、すなわち新国家の建設をめざしたのであった。そして、現実に、二年にも満たない内に、慶喜は大政を奉還し将軍職を辞退して、自ら倒れていったのである。
 薩長盟約で目標としたものは、薩長両藩に越前、土佐、名古屋、芸州等の有力諸藩が協力して、幕府の廃絶と、朝廷の政治組織を廃止した上で樹立した王政復古政府となって実現したのである。幕末の歴史を、倒幕運動や権力闘争の歴史として描くのは、あまりにも視野がせまいというべきであろう。

 二十二卿の列参と天皇の怒り
 征長戦争を続行しようとしたのは慶喜の失政であったことはいうまでもないが、それを認めた天皇・朝議にも責任があったというべきであろう。公家の有志から批判の声があがったのは八月三十日であった。
 この日、大原重徳、中御門経之はじめ二十二人の公家が連なって参内し、天皇、朝彦・晃両親王、二条関白らが列座した席で、大原が代表してつぎのように言上した。①諸大名の招集を朝廷の主導で行う②文久二年、三年、元治元年の三カ度で処分を受けた公家を赦免されたい③朝廷政治を改革されたい。
 いわゆる二十二卿の列参といわれるものであるが、これは慶喜の緩急自在な政治的手腕に操られているような二条関白と朝彦親王にたいする、抗議運動でもあることがわかっていたから、関白と親王は九月四日、辞職を申し出た。天皇は却下したが、両人は責任を負って参内を辞した。
 天皇の怒りが強かったことは、大原重徳を「暴人」と呼び、大原と中御門経之そして彼らに加担したとして正親町三条実愛、この三名に閉門を命じたことで明らかである。孝明天皇はけっして暴君ではなかったが、朝廷の秩序を乱す異端分子を許さない、強い意志を持った帝であったといえよう。
 この公家の列参は、洛北岩倉村に隠棲中の岩倉具視が、中御門経之を動かして実行したものである。岩倉は朝廷が国政施行の根本の府となり、幕府と諸藩が朝廷を支える体制、すなわち「王政復古」を実現する、まさに「天下一新」の機会が到来したと主張していた(岩倉具視意見書「天下一新策」。注意しておくべきことは、幕府をひておいするものではないことである)。そして岩倉は、これまで処分を受けた公家の赦免を行って、朝政に復帰させ、朝政改革を断行して、彼の考える「王政復古」を実現しようと構想していたのである。もちろん自分も赦免され、政治の場に復帰するのである。
 ・・・
 …天皇の意思がはっきりしていたのは、処分した公家を赦免することは「毛頭無之」と、この時断言していたことである。

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 


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福沢諭吉「脱亜論」と歴史の修正

2018年04月18日 | 日記

 日本人として、日本を誇りたい、また、日本の歴史を誇りたい、という気持ちはよく分かります。でも、だからといって、不都合な歴史的事実に眼を閉ざし、歴史を客観的にとらえようとすることなく、日本でしか通用しない歴史を語ることは許されないと思います。

 資料1は「えがかれた日清戦争 文学と歴史学のはざまで」小笠原幹夫(星雲社)の中の「福沢諭吉と帝国主義」の一部を抜粋したものですが、見逃すことの出来ない記述がありました。日清戦争を侵略戦争としてではなく、近代化を進めるために不可避の戦争であったとして、肯定的に受け止めるためでしょうが、
日清戦争の十年前にフランスは、インドシナ半島の完全植民地化をめざし安南(ヴェトナム)を攻略した。清国は宗主権を主張してゆずらず、その結果清仏戦争が起こった。清国は敗退し、フランスが安南を保護国化することを認めた。直接に植民地獲得をめざした軍事行動として、日清戦争よりも権益拡大の意図は明瞭だが、フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。朝鮮が独立国であることを江華条約で明言した日本が、清国の宗主権を否定する行動をとったとしても、国際法上これを制裁する根拠はなかった。
 と書いています。
 ”フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。”ということで、日清戦争も侵略戦争ではなかったと言いたいのでしょうが、それはあまりにも勝手な解釈、勝手な主張だと思います。”見解はない”という事実認識に問題があると思いますし、何より、ハーグ陸戦条約や赤十字条約、不戦条約その他の国際条約成立の経緯を無視するものではないかと思います。
 私は、他国に軍隊を送り戦争をすることは、当時欧米を中心とする先進国においてすでに確立していた市民社会の法と矛盾する側面が多々あり、いろいろなところで多くの犠牲を出してきたこともあって、それらの条約が徐々に成立していったのではないかと思います。また、フランスにたいする安南(ヴェトナム)民衆の激しい反抗は、フランスのヴェトナム攻略が正当なものであったかどうかという判断では、無視されてはならないと思います。
 現在の国際法が相互主義を原則にしていることを踏まえると、植民地化された側はもちろん、関係国や国際世論などの判断抜きに、”フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。”などと根拠を示さず断定し、だから、日清戦争も侵略戦争ではなかったというのはいかがなものかと思います。「己の欲せざる所、人に施す勿れ」は、中国,春秋時代の言葉だといいますが、これに類する考え方は、洋の東西を問わず存在するわけで、こうした考え方に基づいて様々な法が整備されてきたを経緯を無視して、侵略する側の判断だけで、侵略戦争を正当化してはならないと思うのです。

 ”制裁する根拠”がなかったから、日清戦争は侵略戦争ではなかったといえるでしょうか。残念ながら、国際法は現在もなお、ほとんど制裁規定はないのではないでしょうか。さらに、
あらたな植民地の獲得は、第一次世界大戦の国際条約によって初めて禁止されたが、それ以前は合法であった。
 というのもいかがなものかと思います。植民地獲得禁止の国際法が整っていなかっただけで、”合法”などといえるものではなかったと思います。当時すでに、欧米を中心とする先進国の市民社会は、ハーグ陸戦条約や赤十字条約、不戦条約などの国際法に結びつく国内法を持っていたこと、そしてそれが、一国が他国の領土を武力によって占有することを禁じる現在の国際法に発展したことを無視してはならないと思います。一国が他国の領土を武力によって占有することを認める国際法が存在したことはなかったと思います。したがって、”合法”とは言えないのではないでしょうか。

 さらに言えば、朝鮮が独立国であることを江華条約で明言した日本が、朝鮮の主権を侵すような政策を進めたために、李氏朝鮮は日本ではなく、清国やロシアに頼り、国際社会にも訴えたのではないかと思います。「侵略か否か」の判断では、そうした側面も無視されてはならないと思います。

 また、”反日歴史家たちは”以下の文章には驚きました。「慰安婦」の問題を論じることが、”珍妙な攻撃材料”であるというのは、どういうことでしょうか。「慰安婦」の問題など論じる必要はないということでしょうか。私は、大学で若者を指導する小笠原幹夫氏が、自ら歴史修正主義者であることを宣言されているように感じ、残念に思いました。こうした文章は、学者や研究者の文章ではないと思います。

 福沢諭吉の「脱亜論」に関しては、『福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」』月脚達彦(講談社選書メチエ)に重要な記述が取り上げられていましたので、こちらから抜粋しました(資料2)。福沢諭吉が矛盾したことをいろいろ書いていることはよく知られていますが、それは、福沢諭吉自身の
「天然の自由民権」論は「正道」であるが、しかし「近年各国において次第に新奇の武器を工夫し、又常備の兵員を増すことも日一日より多」いという無益で愚かな軍備拡張が横行する状況では、敢えて「人為の国権論」という「権道(ケンドウ)」に与(クミ)しなければならない
と書いていることを踏まえて読めば、かなり理解できるように思います。また、福沢諭吉は、日清戦争前後は、明治政府の政策を追認するかたちで、”「権道(ケンドウ)」に与(クミ)”する記事を書き続けたことも忘れてはならないと思います。その時々の状況に合わせて、明治政府を代弁するかのような文章を多く書いているため、一貫した思想の表現にはなっていないのだと思います。また、”止むを得ざるの場合においては、力を以て其進歩を脅迫するも可なり。”と侵略戦争さえ肯定する考え方を「脱亜論」で示していることは、見逃してはならないと思います。

 資料3は同書の「脱亜論」の部分です。著者が三つの部分に分けて解説しているものを、解説抜きで抜粋しました。
 福沢諭吉は当初、日本は”アジアの盟主たれ”と主張していたのですが、「脱亜」にきりかえたのは、明治政府の政策との関係があったのではないかと思います。また、
進歩の道に横たはるに古風老大の政府なるものありて、之を如何ともす可らず。政府を保存せん歟(カ)、文明は決して入る可らず。如何となれば近時の文明は日本の旧套と両立す可らずして、旧套を脱すれば同時に政府も亦廃滅す可ければなり。
とありますが、明治維新を成し遂げた薩長は尊王攘夷を主張して、開国政策を進めていた幕府を倒したのですから、そこには矛盾がありますが、薩長が開国に転じたので、倒幕の理由など問う必要はない、ということなのでしょうか。
 第三の部分は、「アジアの盟主論」では、明治政府と一体となって近代化を進めることが難しいため、朝鮮や中国を徹底的に貶し”悪友”とであるとして、”西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。”と、植民地化することも容認する主張をしているのではないかと思います。だから、中国・朝鮮を蔑視する「自尊他卑」の考え方で、”国民の戦意を煽った”という批判を、否定することはできないと思います。 
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        福沢諭吉と帝国主義

 ・・・
 たとえば日清戦争についてみれば、清国の朝鮮との間の宗主・朝貢関係は、万国公法上の植民地ないしは保護国の要件をみたしていなかったが、欧米列強は事実上これを黙認していた。したがって清国に既得権があったともいえるが、第三国が清国と朝貢国との間にはいり込んで、権益拡大を企てた場合には、万国公法にはこれを制御する規定はなかった。じじつ、フランスのコーチシナ進出、ロシアのイリ地方への領土拡大、イギリスのビルマ併合などはすべて合法的とみなされていた。とりわけ、日清戦争の十年前にフランスは、インドシナ半島の完全植民地化をめざし安南(ヴェトナム)を攻略した。清国は宗主権を主張してゆずらず、その結果清仏戦争が起こった。清国は敗退し、フランスが安南を保護国化することを認めた。直接に植民地獲得をめざした軍事行動として、日清戦争よりも権益拡大の意図は明瞭だが、フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。朝鮮が独立国であることを江華条約で明言した日本が、清国の宗主権を否定する行動をとったとしても、国際法上これを制裁する根拠はなかった。
 日清戦争の開戦時には、イギリスとロシアは戦争に干渉する姿勢を示すが、それは日本の行為が国際法違反だからではなく、自国の利害がそこにからんでいると考えたからである。したがって、朝鮮半島およびその周辺で日本が自国の権益を伸長するために起こした軍事行動は十分に容認しうるものであり、清国領土への進攻も含めて、現在の国際常識に照らして、侵略と判断するとしたら、それは明らかな時代錯誤というものである。「他がみんなやっているからといって免罪されない」という主張は道徳の話としては聞いてもいいが(小学生の道徳ではあるが)、法の運用の話になるとまったく別である。
 あらたな植民地の獲得は、第一次世界大戦の国際条約によって初めて禁止されたが、それ以前は合法であった。(日韓併合ののちも、フランスはモロッコを、イギリスはアフリカのリビアを保護国としている。)既得の植民地の放棄、すなわち民族自決権が事実として否定できなくなるのは第二次大戦後である。
 十九世紀の後半からニ十世紀の初頭にかけては帝国主義の花ざかりで、平たくいえば、植民地を奪取するくらいの国力がなければ国家として一人前ではないという時代であった。かつて銀幕を彩った『モロッコ』『外人部隊』『アフリカの王女』『地の果てを行く』といった作品は、植民地拡大をめぐるナショナリズムの高揚を背景にしていた。過去における対外進出・膨張政策を”悪”とするのは、一部日本人の勝手な思い込みであって、けっして世界普遍の心情ではない。むしろ過去に植民地を持った国のほとんどは、誇りある来歴として、かつての栄光を子孫に語っている。

 福沢諭吉の『脱亜論』は、明治十八年三月十六日の「時事新報」に発表された。読み切りの片々たる小論で、発表当時はさして話題にならなかった。内容があまりにも当たり前すぎるので、反論の余地がなかったのであろう。
 ところがこの『脱亜論』なるものが、富田正文氏が、

 第二次世界大戦の終わったあとで、私は電話で、福沢諭吉に「脱亜論」という論説があるそうだが、それは『全集』のどこに載っているかと尋ねられたことがある。いまその質問者の名を思い出せないが、「脱亜論」の名が俄(ニワカ)に高くなったのは、そのころから後のことである。

 と指摘しているように、近年、反国家の思想を持つひとびとによって槍玉にげられている。批判の理由は、福沢は、アジアをばかにしている、自国独善主義である、「入欧」一辺倒主義である、すなわち明治後の”権力悪”を象徴している、というのである。とんでもない話で、福沢の「脱亜論」がどういう意味をもっていたのか、原文を一読すればそういう誤解が牽強付会であることは分かるはずである。反日歴史家たちは、柄のないところに柄をすげて、革命を起こすためなら、大恩人の福沢先生さえ引きずりおろす、というわけだ。もっとも日本がいまだに絶対主義王政だと信じている人たちは、福沢諭吉にさほど恩を感じていないのかもしれないがーー。ちなみに、最近ではこの革命幻想がなくなったため、反日行動が無目的・愉快犯的になり、自制心がきかなくなって、かえって過激・悪質化している。(「慰安婦」などという珍妙な攻撃材料がでてきたのもそのためであろう。)

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       序章 福沢諭吉の朝鮮論をどう読むか

 福沢のアジア盟主論

 初めて朝鮮人と出会った1880年の年末から、福沢は『時事小言』の執筆に取りかかる。この著作は福沢がある意味で転向を宣言したものだった。福沢は同書の第一編「内安外競之事」の冒頭で、「天然の自由民権」論は「正道」であるが、しかし「近年各国において次第に新奇の武器を工夫し、又常備の兵員を増すことも日一日より多」いという無益で愚かな軍備拡張が横行する状況では、敢えて「人為の国権論」という「権道(ケンドウ)」に与(クミ)しなければならないとして、次のように宣言する。

他人愚を働けば我も亦(マタ)愚を以て之(コレ)に応ぜざるを得ず。他人暴なれば我亦暴なり。他人権謀術数(ケンボウジュツスウ)を用いれば我亦これを用ゆ。愚なり暴なり又権謀術数なり、力を尽くして之を行ひ、復(マ)た正論を顧るに遑(イトマ)あらず。蓋(ケダ)し編首に云へる人為の国権論は権道なりとは是の謂(イイ)いにして、我輩は権道に従ふ者なり。

仮令(タト)ひ我一家を石室にするも、近隣合壁に木造板屋の粗なるものあるときは、決して安心す可(バカ)らず。故にか火災の防禦を堅固にせんと欲すれば、我家を防ぐに兼て又近隣の為に其予防を設け、万一の時に応援するは勿論、無事の日に其主人に談じて我家に等しき石室を造らしむこと緊要なり。或(アルイ)は時宜に由り強(シイ)て之を造らしむも可なり。又或は事情切迫に及ぶときは、無遠慮に其地面を押領して、我手を以て新築するも可なり。蓋し真実隣家を愛するに非ず。又悪(ニク)むに非ず、唯自家の類焼を恐るればなり。

今西洋の諸国が威勢を以て東洋に迫る其有様は火の蔓延するものに異ならず。然るに東洋諸国殊(コト)に我近隣なる支那朝鮮等の遅鈍にして其勢に当ること能はざるは、木造板屋の火に堪へざるものに等し。故に我日本の武力を以て之に応援するは、単に他の為に非(アラ)ずして自ら為にするものと知る可(ベ)し。武以て之を保護し、文以て之を誘導し、速に我例に傚(ナライ)て近時の文明に入らしめざる可らず。或は止むを得ざるの場合においては、力を以て其進歩を脅迫するも可なり。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       「アジア主義」の成立と福沢諭吉
社説「脱亜論」の内容
『時事新報』1885年3月16日社説「脱亜論」第一の部分
世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、到る処、草も木も此風に靡かざるはなし。蓋し西洋の人物、古今に大に異るに非ずと雖(イエ)ども、其挙動の古(イニシエ)に遅鈍にして今に活発なるは、唯交通の利便を利用して勢に乗ずるが故のみ。故に方今東洋に国するものゝ為(タメ)に謀るに、此文明東漸の勢いに激して之を防ぎ了(オワ)る可きの覚悟あれば則ち可なりと雖ども、苟(イヤシク)も世界中の現状を視察して事実に不可なるを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を揚げて共に文明の苦楽を与(トモ)にするの外ある可らざるなり。文明は猶麻疹の流行の如し。目下東京の麻疹は西国長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。此時に当り此流行病の害を悪(ニクミ)て之を防がんとするも、果して其手段ある可きや。我輩断じてその術なきを証す。有害一編の流行病にても尚且(ナオカツ)其勢には激す可らず。況(イワン)や利害相伴(アイトモノ)ふて常に利益多き文明に於てをや。啻(タダ)に之を防がざるのみならず、力(ツト)めて其蔓延を助け、国民をして早く其気風の欲せしむるは智者の事なる可し。

第二の部分
西洋近時の文明が我日本に入りたるは嘉永の開国を発端として、国民漸(ヨウヤ)く其採る可きを知り、漸次に活潑の気風を催(モヨ)ふしたれども、進歩の道に横たはるに古風老大の政府なるものありて、之を如何ともす可らず。政府を保存せん歟(カ)、文明は決して入る可らず。如何となれば近時の文明は日本の旧套と両立す可らずして、旧套を脱すれば同時に政府も亦廃滅す可ければなり。然(シカラ)らば則ち文明を防ぎて其侵入を止めん歟、日本国は独立す可らず。如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さゞればなり。是(ココ)に於てか我日本の士人は国を重しとし政府を軽しとするの大義に基づき、又幸に帝室の神聖尊厳に依頼して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中朝野の別なく一再万事西洋近時の文明を採り、独(ヒト)り日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字に在るのみ。

第三の部分(前半)
我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖も、其国民の精神は既に亜細亜の固陋(コロウ)を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰(ココ)に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ。此二国の人民も古来亜細亜流の政教風俗に養はるゝこと、我日本に異ならずと雖も、其人種の由来を殊(コト)にするか、但(タダ)しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものある歟、日支韓三国相対し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、此二国の者共は一身に就き又一国に関して改進の道を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風旧慣に恋々(レンレン)するの情は百千年の古に異ならず。此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さへ地を払(ハロ)ふて残刻不廉恥を極め、尚傲然(ゴウゼン)として自省の念なき者の如し。我輩を以て此二国を視れば、今の文明東漸の風潮に際し、迚(トテ)も其独立を維持するの道ある可らず。幸にして、其国中に志士の出現して、先づ国事開進の手始めとして、大(オオ)いに其政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先づ政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、若(モ)しも然らざるに於ては、今より数年を出(イ)でずして亡国と為(ナ)り、其国土は世界文明諸国の分割に帰す可きこと一点の疑(ウタガイ)あることなし。如何(イカン)となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら、支韓両国は其伝染の天然に背き、無理に之を避けんとして一室内に閉居し、空気の流通を絶て窒塞(チッソク)するものなればなり。 
 
第三の部分(後半)
輔車脣歯(ホシャシンシ)とは隣国相助くるの喩(タトエ)なれども、今の支那朝鮮は我日本のために一毫(イチゴウ)の援助と為らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接するが為に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの価(アタイ)を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃(タノ)む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の国かと疑ひ支那朝鮮の士人が惑溺(ワクデキ)深くして歌学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本も亦引用五行(インヨウゴギョウ)の国かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩(オオ)はれ、朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計(ハカ)れば枚挙に遑(イトマ)あらず。之を喩(タト)へば比隣(ヒリン)軒を並べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にして然も残忍無情なるときは、稀に其町村内の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜に掩(オオ)はれ湮没(インボツ)するものに異ならず。其影響の事実に現はれて、間接に我外交上の故障を成すことは実に少々ならず、我日本国の一大不幸と云ふ可し。左(サ)れば今日の謀(ハカリゴト)為(ナ)すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧(ムシ)ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者には共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。 

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

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通州事件 外交官・森島守人の記述

2016年10月29日 | 日記

 「陰謀・暗殺・軍刀 外交官の回想」(岩波新書)の著者(森島守人)は、通州事件当時北京において、日本側関係者や中国側関係者と、様々な交渉を重ねた外交官です。したがって、日本の主張だけではなく、中国側の立場や考え方も理解し、通州事件に至る事の成り行きを冷静に、そして客観的に見ていたように思います。

 「陰謀・暗殺・軍刀 外交官の回想」を読むと、「通州事件を忘れるな!」などと言って、通州事件における中国人の残虐性ばかりを問題にする日本人の主張が、歴史の一面しか見ていないことに気づかされます。
 大事なことは、なぜ「通州事件」のような残虐な事件が起きたのかということではないでしょうか。そのことを論ずることなく、「通州事件」における中国人の残虐性ばかりを並べ立てることは、「歴史から学ぶ」という姿勢を放棄することに等しく、非生産的であり、誤りであると思います。

 通州事件を正しくとらえるためには、1928年(昭和3年)6月、中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で、奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された「張作霖爆殺事件」や、1931年(昭和6年)9月、奉天近郊の柳条湖付近で、南満州鉄道の線路が爆破された「柳条湖事件」などがあったこと、そしてそれが、関東軍の謀略に基づくものであったことを踏まえておく必要があると思います。そうした事実を含め、当時の日中の関係全体、特に日本軍と中国側の軍の関係やトラブルの状況を踏まえて、通州事件を見ない限り、通州事件という歴史の事実を客観的にとらえることはできないように思います。

 たしかに、通州事件では、親日的であったはずの冀東保安隊によって、武器を持たない日本人居留民が大勢虐殺されました。でも、だからといって、

日本が支那に和平を訴えても、このような支那人による恐ろしい極悪非道のホロコースト(大量殺戮)が日本人に対して行われていたということだ

とか

この悪夢のような事件から既に70年以上経過しているが、根本的な支那人(漢民族)の気質は全く変わっていない

などとくり返すのでは、国際社会の理解が得られないばかりでなく、日中関係の改善は不可能になるだろうと思います。

 下記は、「陰謀・暗殺・軍刀 外交官の回想」森島守人(岩波新書)から、通州事件に関わる部分を一部抜粋しました(漢字の旧字体の一部を新字体に変更しています)。通州事件を、中国人の「気質」の問題として論じてよいのかどうか、分かるのではないかと思います。
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                十二 運命の七月七日 蘆溝橋事件
事件の突発と居留民の籠城
 少しく私事にわたり過ぎる嫌いはあるが、私が議会中の多忙なうちに、両協定案をまとめるため全力をつくした。また議会では林内閣に対する風当たりが強く、祭政一致を旗印とした超然内閣打倒のため、各政党とも最大弱点と見られた佐藤新外相に質問、攻撃の鉾先を集中した。新外相は欧州在勤が長く国内事情や中国事情に疎かったため、補佐の任務も非常に骨が折れた。私は両協定案取りまとめの経緯と対軍関係から、対華、対英の交渉にも関与するものと期待していたが、議会終了後、突如転任の内命に接したので、出先との打合せを終えた上、北京へ赴任することにしていた。赴任にさきだつ七月七日、突然北京の郊外蘆溝橋で中日兵の衝突事件が起こった。あまり焦っているような印象を、中国側に与えてはとの外務省の懸念から、2、3日状勢を眺めていたが、事態重大化が懸念されたので11日東京を出発して北京へ向かった。

 汽車と飛行機とを乗りついで、天津に着いたのが14日の正午少しまえ、さいわい北京行列車を捕らえることができたので、20名余りの武装警官を帯同して出発した。豊台駅に着くと、中国側から、武装のまま戒厳地帯に入ることは認め得ないといって、北京入りを拒絶せられた。中国憲兵を通じて北京の戒厳司令部と折衝すること数時間余り、ようやく了解を得て警戒のものものしい北京に入ったのは同日の夕方近くであった。

 交民巷附近の城壁にも大砲が据えられてあり、緊張の場面は一目でわかった。大使館に入ると、すでに在留邦人の公使館区域への引揚げ準備を進めており、宿舎の割当、食糧の買入れ、貴重品の持込みなど、すでにその手はずをととのえていた。居留民の安全をはかるため、なるべく早い機会に、引揚を命じたいとの雰囲気をも窺い得た。もちろん突発事件に際して、居留民の生命、財産の安全を確保することは、外務出先官憲の重要任務の一つであり、引揚げの時期を失すれば、生命、財産を不測の危険に曝すことになる。さりとて過早に引揚を命ずるとかえって、居留民の生業を奪い、政府に対しても不必要に財政的負担を与える結果となるので、不安な情勢に直面した居留民からの執拗な引揚要望も受けつつも、適当な時期の選定を誤らないことがもっとも肝心だ。しかし何にもまして私の脳裡を支配したのは、北京の市街戦を何としても回避したいということであった。というのは、過早に北京城内の居留民に引揚を命ずることは、いたずらに軍の手に乗るのみだ、居留民の生命に対する心配がなくなると、かえって軍を驅って市街戦に乗り出す可能性が増加する。市街戦の結果、世界における唯一、無二の歴史的都市を廃墟に帰することは、未来永劫、世界歴史に汚点を残す、ニューヨークの摩天楼は金と技術とをもってすれば、再建は不可能ではないが、経済的に利用価値のない北京の宮殿や西太后が軍艦の建造費を抛って築造した北京郊外の万寿山などは、巨万の財宝を積むも再建不可能なことを思い、北京市街戦の回避こそ、世界歴史のため、また東洋文化のため、私に課せられた使命であると痛感された。

 私は進行中の現地協定の成立を期待し、軽々しく引揚命令を出すことに、同意を与えることを拒否して来たが、7月25日には北京と天津との間の廊坊で、翌日には北京の広安門で中日軍の衝突が起こった。そして26日には出先の日本軍は、24時間の期限をきって、北京からの中国軍の撤退を要求していたので、やむなく27日の午前5時に至り、北京居留民に対して公使館区域内への引揚命令を出し、午前中に全居留民を公使館区域に収容した。明治33年の義和団事件以来はじめての引揚命令で、北京居留民はここに二度目の籠城生活に入った。その最後の瞬間においても、何とかして日本軍の大規模な出動を阻止したく、北京駐在の軍側諸機関とも打合せ、偶々天津に滞在中だった川越大使を介して華北駐屯軍司令官の自重を促したく、連絡に百方手をつくしたが、電信、電話など北京、天津間の連絡方法は全然杜絶していたので如何ともすべき述はなかった。
 せめて日本側の立場をよくするため最後通牒の期限が切れるまで軍の出動を差し止めれば、そのあいだに窮状打開の途もあるかも知れないとの一縷の淡い希望のもとに、東京を経由して川越大使へ至急電を出したが、時すでに遅く、日本軍は期限終了前に軍事行動に移っていた。
 27日早暁、秦徳純市長を訪問、居留民引揚中の残留財産の保護方について申し入れをした。2週間の籠城生活中、在留民の家屋財産について、一件の掠奪事件さえなかったことは、ここに特記しておきたい。
 籠城に際しては防諜の見地から、内鮮人を別居させたが、季節柄連日の豪雨に際し、英国大使館が軍用テントを貸与してくれた好意もここに述べておきたい。

通州事件
 北京に関するかぎり、何等の不祥事件もなく、無事に過ごし得たが、一大痛恨事は北京を去る里余の地点、通州における居留民の惨殺事件であった。
 通州は日本の勢力下にあった冀東防共自治政府の所在地で、親日派の殷汝耕のお膝下であり、何人もこの地に事端の起こることを予想したものはなかった。むしろ北京からわざわざ避難した者さえあったくらいだった。
  冀東二十三県は塘沽協定によって、非武装地帯となっており、中国軍隊の駐屯を認めていなかったにもかかわらず、わが現地軍が宋哲元麾下の一小部隊の駐屯を黙認していたのが、そもそもの原因だった。中国部隊を掃討するため出動したわが飛行部隊が、誤って一弾を冀東自治政府麾下の、すなわちわが方に属していた保安隊の上に落とすと、保安隊では自分達を攻撃したものと早合点して、さきんじて邦人を惨殺したのが真相で、巷間の噂と異なり殷汝耕には全然責任なく、一にわが陸軍の責任に帰すべきものであった。

 28日、北京の東方に黒煙が濛々と立ち上がり、時に爆声もを交えていた。通州方面に何らか事件の起きたことは容易に推測し得たが、公使館区域の守備隊は全部出動ずみで、義勇隊の手によって警戒に当たっていた位だから、如何ともし得ない、さりとて少数の警察官の派遣は全然問題とならない、何とかして実情を確かめる必要があったが、事件以来一般中国人は大使館によりつかないので、思案に暮れているところへ、ハルピン時代に面倒を見たことのある一青年が、勇敢にも変装して通州に入りを敢行するするむね申し出て来た。右青年は途中で敗残兵のため川に突き落とされ、水中に数時間も潜伏するするなど幾多の冒険を冒し、二日がかりで通州まで往復して来たが、その報告で通州の惨状を知り得た。その後通州保安隊のため数珠つなぎなっていた列の中から命からがら逃れて来た安藤同盟特派員の北京帰還によって、さらに詳細な事情を知り得た。

 私としては現地の責任者でもあり、また遺族に対する立場からも、この事件の急速な解決を必要と考えた。また通州事件の真因が明らかとなれば、かつてシベリア出兵中、尼港事件に関し田中陸相の責任が大きな政治問題となったと同様に、政治問題化することが必然なので、議会開会前に現地で解決するを有利と考えた。現地の軍側諸機関の意向を打診したうえ、中央へ請訓するなどの手つづきを一切やめて、私かぎりの責任で、 殷汝耕不在中の責任者、池宗墨政務庁長と話し合いを進めた結果、正式謝罪、慰藉金の支払い、 冀東防共自治政府が邦人遭難の原地域を無償で提供して、同政府の手で慰霊塔を建設することの三条件で、年内に解決した。
 事件が日本軍の怠慢に起因した関係上、損害賠償のかわりに、慰藉金を取ったが、その金額も損害賠償金要求の場合の外務省従来の算定方式にしたがうと、一醜業婦でさえ、何十万円の巨額を受け取ることになるのに対し、前線の戦病兵士はわずかに二、三千円の一時金を支給されるのに過ぎない事情も考慮して、社会通念の許す範囲に限定した。その分配についても従来の形式的な方法を廃して、内縁の妻も正妻同様に取りあつかい、また資産ある者や扶養家族の少ない者に薄くして、実際に救済を必要とする者に多くをふりむけるなどの措置を講じた。そして将来の紛糾を避けるため、慰藉金の分配は、北京大使館に一任するとの一札を自治政府側から徴しておいた。

 ただ私にとって心残りになったのは、どうして殷汝耕の無実の罪をそそぎ、公人として再起せしめるかということであったが、関東軍の一部には銃殺論さえあったので、この問題の取扱には機微な配慮を要した。折しも西本願寺の法王が官民慰問のため華北を巡錫中だったので、その北京来訪の機会に、殉難者の慰霊祭を催し、主催者中に北京大使館、北京日本人会とならんで、殷汝耕を加え、無言のうちに殷を世間に出すのを妙案と考えた。この案については華北駐屯軍の全幅的賛同を得たが、後に至り関東軍内の強硬論につき、華北駐屯軍側からの注意もあって放棄するの外なかった。

 関東軍内における反殷の空気は想像外で、私の右計画と殷の無罪をそれとなく報道した東京朝日の河野特派員の如きは、憲兵隊の厳重な取調を受けたような始末で、私の北京在勤中には、殷のために身のあかしを立つべき好機を捕らえ得なかった。翌年四月私が北京を去った際 殷は私の好意に対し衷心から感謝の意を表して来、再会を約して別れたのだが、昭和22年の12月1日対敵通牒の廉で、南京で銃殺に処せられた。大正14年郭松齢挙兵の際、外交部長として活躍し、事志と違うや、遼河の畔、わが新民屯総領事分館内に逃避すること数ヶ月、暗夜を利して吉田奉天総領事の人情味ある取あつかいにより東北兵の重囲のうちを脱出、わが国に亡命した数奇な運命を憶う時、無限の感慨を禁じ得ない。通州政府の金庫内から出た出納簿によると、殷は日本側の志士や吳佩孚やむしろ華北において対立の関係にあった 冀察政務委員会の連中にまで、毎月機密金を支給していたが、その深慮遠謀の程を察知するに足る。ついでだが、花谷少佐の話によると、柳條溝事件の折、張学良の金庫の中から赤塚正助名義の受取りが出た。当時陸軍では赤塚との同郷関係および昭和3年暮れの満州旅行に赤塚が床次に随行した事情などから、その折床次に献金されたものと解釈していたが、真偽の程はもちろん私として保證の限りでない。

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「東京裁判」と「南京大虐殺」(渡辺昇一)を読んで NO5

2016年02月21日 | 日記

  「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)の中に、”敗者の悲劇 ─「東京裁判」と「南京大虐殺」”と題された文章があり、その文章を読んで問題に思ったことや気付いたことをまとめています。

  今回は、下記の”「大虐殺報道」で得をするのは誰か”と題された文章と”「無実の烙印」が子孫に与える悪夢”と題された下記の文章(資料1)について考えたことをまとめました。

 まず、歴史の問題を論ずるときに大事なのは、「事実」だと思います。「歴史学」は社会科学の一分野であり、科学的、客観的でなければならないはずです。”「大虐殺報道」で得をするのは誰か”というような発想そのものに違和感を感じました。
 そして、「南京大虐殺」には多くの資料やそれを裏づける証言があるにもかかわらず、それらの検証を自らはほとんどせず、その重要部分を他の研究者に依存し、「南京大虐殺」の報道や記事はプロパガンダであると言い切る姿勢は、「歴史」を論ずる姿勢ではないと思います。

 同書に「解説 ─ 時代の底流をあぶりだす」と題して”谷沢永一”という学者・評論家が、下記のような文章を寄せておられるのですが、谷沢氏の指摘は、谷沢氏とは正反対の意味で正しいと思います。
ーーー
解説 ─ 時代の底流をあぶりだす
                                  谷沢永一
 歴史に筋金を通した現代史の名著
 渡部昇一の現代史観は、みずからの二本の脚だけで立っている。浮世のいかなる勢力にも依存していない。自説を権威に仕立て上げようなどと、卑しくも目配りなどしていない。歴史記述に筋金を通すには、孤独の美徳に徹する必要がある。何かに寄りかかって凭れてはならない。孤立を恐れぬ度胸が要る。
 昭和20年代以降、おびただしく書かれた日本現代史のうち、完全にニュートラルな論述がかつて一冊でもあったろうか。迂愚な私には思いだせないのである。
 現代の若く新しい世代は、率直と簡略と明快を期待している。ハッキリとカナメを指示する勇気がなく、行間を読んでくれなどと逃げるヘッピリ腰には、一瞥もくれず見向きもしない。ご機嫌とりを最も軽蔑する。
 ・・・以下略”
ーーー
 なぜなら、渡部氏は、多くの歴史家や研究者が、様々な記録や証言をもとに論じている「事実」にほとんど目を向けず、「孤立」せざるを得ないような議論を展開しておられるからです。そう言う意味では谷沢氏のいうように、渡部氏には「度胸」があり、「勇気」があるのかも知れません。でも、それでは渡部氏の「日本史から見た日本人」は「現代史の名著」とは言えないと思います。歴史に対する自らの「思い」を書いただけでは、社会科学の一分野である「歴史学」の書ではないのであり、したがって、「現代史の名著」とは言えないと思うのです。

 次に、渡部氏は
東京裁判で「南京暴虐事件」(裁判記録翻訳の用語)が持ち出された時、充分な弁護がなされなかった。派遣軍司令官松井大将さえ、まったく知らなかった「大量市民虐殺事件」なのであるが、いわゆる証人なる者が、偽証罪の虞もなく、しゃべりまくった感じである。
 と書いていますが、事実に反すると思います。「充分な弁護がなされなかった」や「偽証罪の虞もなく、しゃべりまくった感じである」などという表現も気になるところですが、特に問題は「南京大虐殺」について”派遣軍司令官松井大将さえ、まったく知らなかった「大量市民虐殺事件」なのである”という文章です。「松井大将がまったく知らなかった…」ということが事実に反することは、すでに、当時時南京にいた同盟通信・前田雄二記者の著書「戦争の流れの中に」(善本社)の文章を引いて指摘しました。
 ここでは、「巣鴨の生と死 ある教誨師の記録」花山信勝(中公文庫)から、あらためて松井大将自身の言葉で、さらにそのことを確認したいと思います(資料2)。松井大将は処刑される前に、教誨師の花山信勝氏に「日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変わっておった。慰霊祭の直後、私が皆を集めて軍司令官として泣いて怒った。…」と話しているのです。これは、明らかに日本兵が国際法に反して多数の俘虜を虐殺した事実を知っていたということではないでしょうか。「南京大虐殺」というような事実がまったくなかったのに、松井大将自身が、処刑されることを受け入れ、”私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」”などと言うでしょうか。
 渡部氏は、松井大将の”当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与える”という言葉をどのように受け止めるのでしょうか。
 さらに言えば、渡部氏は「大量市民虐殺事件」とくり返していますが、虐殺の対象を勝手に市民に限定するような表現も問題だと思います。日本に残されている戦闘詳報や陣中日誌、陣中日記などの「南京大虐殺」を裏づける記述の多くは、戦意を喪失し武器を捨てた敗残兵や投降兵および元中国兵と判断された市民の処刑です。
 また、「作文にすぎない提出資料も鵜呑みにされた」や”「南京大虐殺」の新証拠として大きく採り上げられたものは、私の知るかぎり、一つ残らず、そのインチキ性を後に証明されている。”というような指摘は、具体例を示さなければ議論になりません。こうした重要な判断の根拠を示さず、「歴史」を語ることは、社会科学の一分野としての「歴史学」に基づく歴史ではなく、「お話」であり、「創作歴史物語」とでもいうべきものではないかと思います。
 日本国民が被害者である東京大空襲や広島・長崎の原爆被害と中国人が被害者である「南京大虐殺」とを比較し、新聞社が事件後40年経ってから「南京大虐殺の新しい証拠発見」というかたちで報道したことを取りあげて、「東京大空襲の被害証拠も、広島・長崎の被害の証拠も、今さら新しいものを必要としない。」などというのも、ナンセンスだと思います。「南京大虐殺」の被害者は中国人であり、 南京戦当時は、軍による言論統制や報道統制が厳しく、日本軍に不都合な事実が日本に伝えられることはほとんどありませんでした。「我ガ軍ニ不利ナル記事」の報道がが禁じられていたのです。したがって、当時の「事実」を知るためには、関係者の聞き取り調査をくり返し、それらを生かしつつ残された記録や軍の文書を見つけ出し調べる必要があるのだと思います。「南京大虐殺」についての「新しい証拠発見」ということがあっても何の不思議もないと思います。

 渡部氏が言うように、”「南京大虐殺」を振りまわすと得をするのは、いろいろな外国である”という側面はあるかもしれません。しかし、だからといって、外国人の証言をすべて否定することはできないと思います。日本人の証言は正しく、”外国人の証言はすべて偽証である”というようなとらえ方では歴史を論じることはできないのではないでしょうか。
 ”捏造報道がいかに多いかは、まさに驚くべきものである”というのであれば、具体的に例示して捏造を報道した関係者およびそれを受け入れている歴史学者や研究者と堂々と論争すべきではないかと思います。
 ”南京陥落当時は、アメリカの報道関係者や外交関係者なども多く南京城内や上海にいたから、大虐殺のデマはアメリカの良質なメディアで大きな話題にすることはできなかった。しかし、数年の後、日米開戦後は、いかなる反日デマも戦時中ということで、大量に流されたのである。”という指摘も問題があると思います。
 なぜなら、アメリカではパナイ号事件発生後、パナイ号生存者の目撃・証言報道を連日写真入りで展開し、パナイ号艦長ヒューズ少佐の報告書や南京アメリカ大使館二等書記官 ジョージ・アチソン・ジュニアの報告書、日本海軍機による故意爆撃説を公式見解としたアメリカ海軍当局査問委員会の報告書等を、主要紙が次々に全文掲載したとわれているからです。そして、それのみならず、あわせて日本軍による南京の残虐事件を報道したのです。だから、アメリカ全土で日本商品ボイコット運動が広がっていったといいます。パナイ号事件が発生したのは南京陥落の前日です。パナイ号事件発生以後、すなわち日米開戦前から日本軍による南京の蛮行が報道されていたことは、下記に抜粋したようなダーディン記者やアベント記者の記事で明らかだと思います(資料3・資料4-「日中戦争 南京大残虐事件資料集-第2巻英文資料集」洞富雄編)。南京特派員のダーディン記者とともに上海支局のハレット・アベンド記者も、様々なルートで収集した情報の続報を送り続けたといいます。それらを世界に知られた、「ニューヨーク・タイムズ」が掲載しているのです。
 下記の文章が示すように、すでに、日本兵による「大規模な略奪・婦女の暴行・一般市民の虐殺・自宅からの追い立て・捕虜の集団処刑・成年男子の強制連行」が報道されていたことを、渡部氏はどのように受け止めるのでしょうか。
 「南京陥落当時は、アメリカの報道関係者や外交関係者なども多く南京城内や上海にいたから、大虐殺のデマはアメリカの良質なメディアで大きな話題にすることはできなかった。」などという渡部氏は、こうした報道が南京陥落直後から、したがって、日米開戦はもとより、東京裁判のずっと前からなされていたことをどのように説明されるのでしょうか。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
           ─── なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場が逆転したのか
(1) 敗者の悲劇 ──── 「東京裁判」と「南京大虐殺」

「大虐殺報道」で得をするのは誰か
 以上の諸点を考えてみただけでも、いわゆる「南京大虐殺事件」で、一般市民が何万、何十万と殺されたというのは、戦時プロパガンダですらなく、戦後プロパガンダ、もっと正確に言えば、ポスト・東京裁判プロパガンダであったことは、動かしがたい事実である。
 では、なぜこのような日本人にとって最も有害な種類の反日プロパガンダが幅をきかし続けているのであろうか。それは推理小説などで犯人を見出す方法の常道とされること、すなわち、「それによって誰が得をするのか」という考え方が役に立とう。
 それには、大きく分けて二つの側面がある。
 第一には、国内的要因である。
 東京裁判で「南京暴虐事件」(裁判記録翻訳の用語)が持ち出された時、充分な弁護がなされなかった。派遣軍司令官松井大将さえ、まったく知らなかった「大量市民虐殺事件」なのであるが、いわゆる証人なる者が、偽証罪の虞もなく、しゃべりまくった感じである。
 弁護側は証人の証言の矛盾 ─ それが多い ─ を突いたり、嘘を暴露して偽証罪にもってゆくこともできなかったし、その事実の検証の機会もあたえられなかった。
 しかし、当時はその裁判の根本的な欠陥も充分認識されなかったし、作文にすぎない提出資料も鵜呑みにされた。戦時中の知られざる大事件が ─ 7、8年間もも知られなかったことは、ほんとうは存在しなかったことの有力な傍証なのだが ─ 戦後新たに発見されたということで、その新知識にみんな飛びついたのである。あたかもラジオの「真相箱」の示してくれたような事実であろうと、無邪気に信じながら。
 そして、この裁判資料に基づいて、あるいは他の情報を援用して仕事をする人が出てくる。東京裁判史観は、急速に占領体制の中でエスタブリッシュメント化し、それが永続化した(400ページ参照)。すると、これに阿る南京大虐殺物の著者まで現れてくる。3冊もの実見談を書いた人が、実際は南京突入に参加していなかったことなども暴かれている。
 大新聞社は、事件後40年も経ってから、「南京大虐殺の新しい証拠発見」という記事を、時々、大きく報道することがあった。それは元従軍兵士の手帳だったり、写真だったりする。しかし、「新しい発見」などということ自体、もとの証拠に大新聞も自信がなかったことを、はしなくも示している。
 われわれは、東京大空襲の被害証拠も、広島・長崎の被害の証拠も、今さら新しいものを必要としない。
 しかも、「南京大虐殺」の新証拠として大きく採り上げられたものは、私の知るかぎり、一つ残らず、そのインチキ性を後に証明されている。そして、門外不出になって見せてもらえなくなったものもある。あまりにもひどい捏造のため、大新聞社が訴えられて非を認めたケースもある。捏造報道がいかに多いかは、まさに驚くべきものである。それが、ことごとくインチキであることを、弁解の余地なく立証されても、その取り消し記事が大きく出ることはないのだから、一般読者は、写真(すべてインチキ)まで添えた市民虐殺のイメージが残る。
 ひとたび東京裁判史観が成立してからは、それを自分に有利に使える立場にある勢力は、徹底的に利用するのだ。そして、それに乗ってしまった者は、学者も庶民も、別に東京裁判史観派というほど、思想に関心はないにせよ、虚構の市民大虐殺説を維持する無理な努力をするということになる。
 また、「南京大虐殺」を振りまわすと得をするのは、いろいろな外国である。
 アメリカ人やオーストラリア人は、それによって、南の島での日本人大虐殺についての良心の痛みを感じる度を減じえよう。特に、アメリカ人は無差別絨毯爆撃や原爆の正当化として便利であることを発見するだろう。イギリス人も同じことである。ドイツ人ですらも、ナチスのユダヤ人殺害と匹敵するものとしたがる。ことに中国にとっては、これは「打ち出の小槌」である。南京大虐殺を振り回せばお金になるという感じであろう。要するに、これを振り回せば、心理的あるいは物質的に利益を得る国が、多くあるのだ。

 「無実の烙印」が子孫に与える悪夢
 これらの外国勢力と手を組めば、あるいは連動すれば、日本国内の東京は裁判史観派は有利な立場をさらに永続させることができる。
 「誰が得をするか」を考えれば、犯人は分かるのだ。彼らは、日本の犠牲において不当な利益を得ているのである。
 南京陥落から50年以上経つ。東京裁判の判決が出てから40年経つ。市民大虐殺という無実の罪を烙印されたのは残念だが、戦争に負けたのだから仕方がないのではないか、という戦士的感情が湧かないでもない。しかし、われわれは、それでよいとして、われわれの子孫のために、この無実の市民大虐殺説は見過ごしてはならないのではないだろうか。
 というのは、日本人は大虐殺をやった有色民族ということで、アメリカ人も原爆を落とす気になったのだと思われるからである。
 南京陥落当時は、アメリカの報道関係者や外交関係者なども多く南京城内や上海にいたから、大虐殺のデマはアメリカの良質なメディアで大きな話題にすることはできなかった。しかし、数年の後、日米開戦後は、いかなる反日デマも戦時中ということで、大量に流されたのである。
 そうしたデマの中では、南京は東洋のアウシュビッツになった。日本は、ナチス・ドイツの同盟国だから、そう対を作ったほうが宣伝には都合がよいし、説得力もある。
「そのような大量のシナの市民を殺しているのだから、日本の市民も大量に殺してよい」という論理が、あるいは心理が、成立したものと思われる。
 今の日本は、どことも戦争をする態勢にないし、その可能性も見えない。しかし、今から一世紀後になったら、どのような国際情勢になるかは何人(ナンビト)も予測できない。その時、南京大虐殺の虚構が東京大虐殺の実話の原因にならないと、誰が言えようか。私は、それを患(ウレ)えているのである。
 誤解なきよう念のために言っておけば、南京占領などという事態に至ったことは、まことに残念なことである。だがそれも、窮極的には、統帥権問題を抱えた日本の憲法機構に責任があったと言わねばならない。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            「巣鴨の生と死 ある教誨師の記録」花山信勝(中公文庫)

七人との面談記録
 松井石根
 ・・・
 それから、あの南京事件について、師団長級の道徳的堕落を痛烈に指摘して、つぎのような感慨をもらされた。
「南京事件ではお恥ずかしい限りです。南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分からんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変わっておった。慰霊祭の直後、私が皆を集めて軍司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にそれを落としてしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当たり前ですよ」とさえいった。従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変嬉しい。折角こうなったのだから、「このまま往生したいと思っている」
「まことに、尊いお言葉ですね…」
「家内にもこの間、こうして往生できるは、ほんとうに観音様のお慈悲だ、感謝せねばならんといっときました」
「あなたの気持ちは、インド判事の気持ちと一しょですね」
「ああ、あのインド判事の書いたものを見せてくれたが、大変よくいっておる。われわれのいわんとするところを、すっかりいっておられる。さすがにインド人だけあって、哲学的見地から見ている。あの人たちは多年…経験しているので…」
「では、また来週…。風邪などめさぬようにお気をつけ下さい」
 松井さんは、ガウンを将校から着せてもらい、仏に向って礼をして、下駄をカラカラ曳きずって、いつもの通りそろそろと去られた。戸口を出られる時「御機嫌よう」と声をかけると、振り向いてあいさつされた。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
       『ニューヨーク・タイムズ』南京特派員 F・ティルマン・ダーディン記者特電
              1937年12月18日号掲載記事  
  捕虜虐殺さる
──── 
南京における日本軍の暴虐拡大し、一般市民にも死者
──── 
  アメリカ大使館襲撃さる
──── 
蒋介石の戦術不手際と指揮官らの逃亡により首都失陥
──── 
      F・ティルマン・ダーディン
(12月17日、アメリカ軍艦オアフ号〔上海発〕、ニューヨーク・タイムズ宛特電)
 南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼をうける乏しい機会を失ってしまった。
 中国当局の瓦解と中国軍の解体のために、南京にいた多くの中国人は、日本軍の入城とともにうちたてられると思われた秩序と組織に、すぐにも応じる用意があった。日本軍が城内を制圧すると、これで恐ろしい爆撃が止み、中国軍から大損害をうけることもなくなったと考えて、中国住民の間に安堵の気持ちが拡がったのである。

 少なくとも、戦争状態が終わるまでは、日本軍の支配は厳しいものであろうとは思われた。日本軍が占領してから3日の間に事態の見通しは一変した。大規模な略奪・婦女の暴行・一般市民の虐殺・自宅からの追い立て・捕虜の集団処刑・成年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった。

 ・・・(以下略)
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             『ニューヨーク・タイムズ』上海支局ハレット・アベンド特電
                   1937年12月19日号掲載記事
                     日本軍南京暴行を抑制
 ーーー
 なおも続く残虐行為終結のため最高司令部厳重な処置をとる
 ーーー
 軍隊の所業を自認
 ーーー
 責任ある将校ら、司令官松井に事件の隠蔽はかる 
ー文官指導者ら当惑
      ハレット・アベンド
 (12月19日月曜日、上海発 ニューヨーク・タイムズ宛特電)
 日本陸軍最高司令部は、日本の南京入城を国家的不名誉に変えた略奪・婦女暴行・殺戮の混沌たる状態を早急に終結させるために、おくればせながら、厳重な懲戒処置をとりはじめた。
 
 中支派遣軍司令官松井石根大将にたいして、無数の非武装の戦争捕虜・一般人民・婦女子を理不尽に殺害した恐ろしい不法行為の事実を知らせないように、大変な努力が払われていると聞いているが、この策略の多い老武者はすでに、下級将校数名がまったく秘密裡の陰謀に加担していることに疑念をいだいている。
 パネー号(The Panay)事件だけでも、最高司令部にとって、正式な南京入城がもたらす真の歓喜のあらゆる要素を失わせるのに十分であった。中国のもと首都に到着すると同時に、南京攻略終了後にそこで発生した事件を知るや、彼らのパネー号にたいする狼狽はさらに深刻な不安と恥辱に変わった。国家としての日本や個人としての日本人は、ながいあいだ自国軍隊の武勇と武士道のほまれを非常に誇りとしてきたが、いまやその国家の誇りは、日本兵が、中国人盗賊の群れが占領都市ではたらいたよりも一層質のわるいふるまいを南京で行ったことが露見するにおよんで、地に墜ちてしまったのである。

  外国人、事件を目撃する
 日本の当局は、恐るべき事実を隠蔽しようとしても無駄なことを認識し、後悔している。というのも、日本兵の行為にたいする告発が、中国人の談話に根拠を置いていないからである。中国人の談話ならば偏見と病的な興奮の影響があるとして非難を受けるだろうが、その告発は、陰惨な事件の最中に南京にとどまり、いまも滞在中の責任あるアメリカ人やドイツ人が書いた、絶え間のない不法行為にかんする日記や細心の記録にもとづくものであるからだ。
 すべての新聞記者がパネー号の生存者を護送する船で上海に発った後、南京の状態はあきらかに一層悪化した。記者らはこの火曜日に去り、あらゆるたぐいの残虐行為は火曜日の夜から水曜日にかけて、印刷するには不適当なほどの最高潮に達した。規律と体面を回復せんとする試みが木曜日から始まった。

 日本軍は外国人が長期間、南京に行くことを望まないし、またその許可も与えないであろうが、南京滞在中の外国人は外の世界に記事を送る手段を見つけるであろう。あらゆる証拠が調査された時、南京占領となった輝かしいキャンペーンは、日本軍の記録に名誉を付加するかわりに、陰惨な残虐行為のために日本がつねに後悔してやまない歴史の一ページを添えることになると思われる。
 日本政府各部局の良心的な責任ある官吏は、発生した事件を極度に見くびろうとはせず、多くの点で事態がこれまで世間が気づいている以上に悪化したことを認めて狼狽しているのである。

 日本の希望への打撃(略) 

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「東京裁判」と「南京大虐殺」(渡辺昇一)を読んで NO3

2016年02月09日 | 日記

 「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)の中に、”敗者の悲劇 ─「東京裁判」と「南京大虐殺」”と題された文章があります。その文章を読んで問題に思ったことや気付いたことをまとめています。
 今回は、”語るに落ちた最重要証人の証言”の中の、マギー牧師の証言に関する部分です。渡部氏は下記に抜粋したようなことを書いているのですが、とても問題があると思います。

 まず、マギー牧師が目撃したような殺害が南京城内で繰り返され、30万人に達したなどとは誰も言っていないことです。そういう「散発的な事故」とも言えるような殺害が、南京城内で繰り返されたということではなく、 長江沿いや紫金山山麓、また水西門外などで軍命令によって捕虜の「集団虐殺」がなされ、さらに、日本軍の包囲殲滅戦によって近郊農村にいた多数の市民が巻き添えとなって殺された、ということが、「大虐殺」として問題にされているということです。
 そうした虐殺の証拠は、中国人やマギー牧師の証言と関わりなく、日本側の資料によって明らかなのです。くり返しになりますが、第十軍、歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』などには「…聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク、イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ」などという記述があり、さらに、歩兵第65連隊上等兵の陣中日記には、「…その夜は敵のほりょ2万人ばかり銃殺した」などという記述が残されているのです。元日本兵の捕虜殺害に関する証言も少なくありません。
 また、日中戦争では、戦場の異常感覚に早急に同化させるため、多くの師団で新兵に捕虜の「刺突訓練」が課されたことも、様々な元日本兵の証言や記録があります。
 そうした資料や証言が、「あとはすべて、戦場の伝聞であり、これは中国においては白髪三千丈になりやすい」という主張の誤りを示していると思います。

 また渡部氏が「ただ、ここで殺傷があったケースが三つばかりある」として指摘されていることにも、ことごとく問題があると思います。
 まず、
第一には敗戦中国兵 ─ その掠奪癖・放火癖は昔から国際的に定評があった ─ のやったことを日本兵のせいにされるということである。”
という指摘です。日本軍が南京城に迫って来たとき、中国軍が清野作戦(焦土作戦)を展開したことはよく知られていますし、ラーベの日記などにも「城門のちかくでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている」などと、その事実が記録されています。でも、それは中国軍の作戦であり、中国兵の「掠奪癖・放火癖」というようなものではないと思います。ほんとうに、「掠奪癖・放火癖」が国際的に定評があったというのであれば、その根拠を示す必要があるのではないでしょうか。「掠奪癖・放火癖」というような言葉を使って、中国人を貶めるような内容の文章を公にするときは、客観的な調査結果や諸外国との比較に基づく資料を示して、「国際的な定評」を裏付けることが求められると思うのですが、何も示されていません。
 
 日本軍が「掃蕩」ということで包囲殲滅戦を展開し、一般住民を多数虐殺したことや、「徴発」という名目で略奪した後、民家への放火を繰り返したことは、中国人の証言をまつまでもなく、日本側の記録や日本兵の証言で明らかです。渡部氏には、「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言」松岡環氏(社会評論社)や南京事件 京都師団、「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)、「関係資料集」井口和起・木坂順一郎・下里正樹編集(青木書店)、「南京戦史資料集」(偕行社)、「わが南京プラトーン 一召集兵の体験した南京大虐殺」東史郎(青木書店)などの資料を無視せず、しっかり検証をしてほしいと思います。

 第二として、渡部氏は「戦闘員の死者である。これは、いくら多くても戦果であり、虐殺とは言わない」ととして、「追撃戦の戦果を虐殺と取り違えている人もある」と主張されています。確かに、追撃戦で死者がでたら、それは戦闘行為であり、虐殺ではないと思います。でも、日本軍は戦意を喪失し武器を捨てた敗残兵や投降兵を多数殺害しました。後ろ手に縛りあげ、並ばせて機関銃で撃ち殺したり、「刺突訓練」と称して、新兵に縛り上げた中国人を突き殺させた殺害が、追撃戦の戦果でしょうか。誰が追激戦の戦果を虐殺と言っているのでしょうか。主張されていることは、全く的外れではないかと思います。

 第三に、「便衣ゲリラの処刑は正当である」とのことですが、安全区に逃げ込んだ中国兵が武器を取って日本軍に抵抗した事件があったでしょうか。安全区の中で、武器を所持した中国兵に殺された日本兵がいたでしょうか。南京安全区国際委員会のメンバーは、武器を所持した中国兵を安全区に入れないようにするために懸命の努力をし、日本側に彼らの安全を要求したのではないでしょうか。もし、抵抗される不安があるのであれば、その解消について、話し合うべきではなかったでしょうか。繰り返し抗議を受けながら、問答無用とばかりに無抵抗の元中国兵と思われる中国人を引っ張り出して、裁判もなく処刑することが正当でしょうか。民間人も含まれていたことが「気の毒」で済まされてよいのでしょうか。
 ハーグ陸戦条約の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」第二款 戦闘、第一章 害敵手段、攻囲、砲撃の第23条に「特別の条約により規定された禁止事項のほか、特に禁止するものは以下の通り」として
その3で、はっきりと「兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること」を禁じています。

 さらに、第四として、「捕虜にしても食わせたり管理したりするのが大変なので武装解除したうえで、処置する方針だったという。この場合の処置とは、兵士を釈放してやるという意味の軍隊用語のレトリックのことである」と指摘されています。でも、それは間違いであると思います。例外的に釈放したケースもあったようですが、処置(処分・処理・処断)という言葉は処刑を意味しているということです。
 「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共…」の記述でよく知られている第十六師団の師団長「中島今朝吾日記」には、
一、後ニ到リテ知ル処ニ依リ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7~8千人アリ尚続々投降シ来タル
一、此7~8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百 2百ニ分割シタル後適当ノケ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ
などという記述があります。「大ナル壕ヲ要シ…」とあることからも、殺害であることが分かります。
 宮本省吾陣中日記の12月17日には、「本日は一部南京入場式に参加、大部は捕虜兵の処分に任ず」という記述があり、翌日の12月18日には「午后敵死体の片付をなす」あるのです。
 「処分」とか「処理」とか「処断」、「処置」という言葉は明らかに「処刑」という意味で使われており、レトリックなどではないということです。南京戦において、日本軍は中国軍の退路を断つ作戦を展開しました。捕虜を釈放するのであれば、退路を断つ作戦の意味が問われます。
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              3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
              ── なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場が逆転したのか                            
(1) 敗者の悲劇 ────  「東京裁判」と「南京大虐殺」                              

語るに落ちた最重要証人の証言
 ・・・
 この数の感覚を照明するものに、東京裁判におけるマギー牧師の証言がある。この人は「南京大虐殺」の証言者としては最も重要であり、しかも、人格的に信用のある人物である。
 したがって、彼の口から出た言葉が大虐殺を広めるのに最も有力なものだったのだが、このマギー牧師が、東京裁判の反対尋問において「何人が殺されるのを目撃したか」と聞かれて、まことに正直にも「たった一人」と答えているのである。
 しかも、その目撃した状況は次のようなものであった。日本兵の歩哨が一人の中国人に誰何した(「誰か」と呼びとめて聞いた)。ところが、この中国人が逃げ出したという。それを歩哨が背後から撃った、というのだ。
 歩哨の誰何を受けて逃げる者があったら、日本以外の警官なら少なくとも威嚇射撃し、止まらなければ撃つであろう。
 はじめから撃つ国もある。いわんや戦闘状態が終わるか終わらないかの戦場である。これは絶対に、いかなる尺度をもってしても大虐殺ではない。
 また、マギー牧師が、女を犯そうとした日本兵を見つけたところ、日本兵はあわてて銃剣を忘れて逃げていった。それでマギー牧師は、その銃剣を持って兵士を追いかけた、というような証言をしている。女にいたずらをしようとして、中立国の牧師さんに見つかったら必死に逃げる日本兵。このどこに何十万人も市民を虐殺している軍隊の姿があるのだろう。

 マギー牧師は、東京裁判で日本軍の世紀の大虐殺を証言するつもりだったのに、正直で嘘のつけなかった人だったために、まさに語るに落ちたのである。マギー牧師は、南京の安全区国際委員会のメンバーで、日本軍の占領中、その行動を監視するために、どこにも自由に行けたひとである。その行動の自由を持った反日的アメリカ人が、目撃した被害者は一人であるし、強姦事件も一件で、しかも、普通の大都市には、もっと悪質なものがありそうな程度のものにしぎなかった。その他はコソ泥を目撃したのが一件である。この程度なら、どこの大都市のお巡りさんでも日常見るところである。

 あとはすべて、戦場の伝聞であり、これは中国においては白髪三千丈になりやすい。
 ただ、ここで殺傷があったケースが三つばかりある。
 第一には敗戦中国兵 ─ その掠奪癖・放火癖は昔から国際的に定評があった ─ のやったことを日本兵のせいにされるということである。

 第二には、戦闘員の死者である。これは、いくら多くても戦果であり、虐殺とは言わない。特に逃げ出した敵を追撃するのは、最も効果の上がることである。
 ところが、戦後の「日中戦争」の専門家と称する人の中には、追撃戦の戦果を虐殺と取り違えている人もあるから、時代の違いは恐ろしい。「万人坑」などというものの中に、多くの死体を埋めてあったから、それを市民虐殺の証拠とする論法も使われているが、戦場の死体が主であったと考えるのが自然である。 

 第三には便衣ゲリラである。多くの中国敗残兵は、欧米人の管理の下にある安全区に逃げこんだ。安全地区では、実際に武器が隠されているのが発見されている。すると、ゲリラ狩りになるが、その処刑は正当であるが、間違って殺された民間人もあるであろう。便衣ゲリラに対しては憎しみが籠もっているから、殺し方は残虐になりやすい。そうして殺された人はまことに気の毒である。まさにそのゆえに便衣ゲリラはやってはいけないのである。

 第四に、捕虜として投降した者で殺された可能性のある者である。
 捕虜にしても食わせたり管理したりするのが大変なので ─ 日本軍自体が常に補給不足に悩んでいた ─ 武装解除したうえで、処置する方針だったという。この場合の処置とは、兵士を釈放してやるという意味の軍隊用語のレトリックのことである。シナの兵士の大部分は無理矢理に軍隊に入れられた者である。放されれば郷里に帰るだろう。
 もっとも、ある場合にはほんとうに処刑した場合も、少なくとも一カ所であったらしいが、それは捕虜の反抗というような特別な状況の下において、ごく限られたものである。しかもそれは合法である。アメリカ軍は捕虜を認めぬ方針で殴殺する場合が多くあったが、日本軍では例外的偶発事件と言ってよい。 
  

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「東京裁判」と「南京大虐殺」(渡辺昇一)を読んで NO2

2016年02月02日 | 日記

 「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)の中に、”敗者の悲劇 ─「東京裁判」と「南京大虐殺」”と題された文章があり、その文章を読んで問題に思ったことや気付いたことをまとめています。
 今回は”「不祥事」を徹底的に戒めた日本軍指令官”という下記の文章について考えました。渡部氏は、松井司令官の発した訓令は、「いかなる戦争のいかなる司令官の命令としても、手本になるような立派なものである」と書いています。それは否定しません。しかしながら、だからといって、それが「市民の大虐殺の計画など、微塵も入りこむ可能性がないのである」ということにはならない、と思います。 南京攻略に向かった部隊の軍記・風紀の乱れはよく知られていますし、様々な資料や証言が存在します。

 また、渡部氏は松井司令官が「…モシ不心得者ガアッタナラ厳重ニ処断シ、マタ被害者ニタイシテハ賠償マタハ現物返還ノ措置ヲ講ゼラレヨ」といったことをとらえて、
”「不心得者があったら厳重に処断せよ」と言っていることは、不心得者は憲兵がつかまえて罰する程度のもので、つまり、散発的な事故だったことを示しているし、財産の被害を受けた中国人には、その品物を返してやるか、弁償するかしてやれ、と言っているのである。”
と書いています。でも、そんな「散発的な事故」などでなかったことは、下記のような著書を読めば、明らかです。

 例えば、従軍記者として「文字通り砲煙弾雨の中をくぐり抜けて報道の仕事に駆け回った人」と言われる同盟通信の記者、前田雄二氏は、その著書「戦争の流れの中に」前田雄二(善本社)の中の第二部「南京攻略戦」の3、”「南京大虐殺」とは”に、「軍司令官の怒り」と題して、資料1のような事実を書いています。南京戦に関わった軍団長、師団長、旅団長、連隊長、艦隊司令官などを前に「何ということを君たちはしてくれたのか。君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった」と異例の訓示をしたというのです。「散発的な事故」で、軍団長、師団長、旅団長、連隊長、艦隊司令官などを前に、そんな訓示をするでしょうか。

 また、南京領事や外務省の東亜局第一課長として、日中の問題に取り組んだ上村伸一氏は、自身の著書『破滅への道』上村伸一(鹿島研究所出版会)「政戦の不一致 南京での暴行」と題した文章の中で「…しかるに中央の統制が利かず、日本軍は12月13日、南京に突入した。それのみ ならず、暴行の限りをつくし、世界の反感を買った」と書いています(資料2)。

 さらに、南京攻略戦当時、新聞聯合社(後の同盟通信社)の上海支局長であった松本重治氏は『昭和史への一証言』の中で、聞き手である國弘正雄氏の質問に答えて、報道仲間の話として
3人の話 では、12月16日17日にかけて、下関から草鞋峡にかけての川岸で、2000人から3000人の焼死体を3人とも見ていました。捕虜たちがそこに連れて 行かれ、機銃掃射され、ガソリンをかけられて焼け死んだらしいということでした。
  前田君は、中国の軍政部だったところで、中国人捕虜がつぎつぎに銃剣で突き刺されているのを見ていました。新兵訓練と称して、将校や下士官等が新兵らしい 兵士に捕虜を銃剣で突かせ、死体を防空壕に投げ込ませていたというのです
と証言しています(資料3)。ありもしない「虐殺」を仲間に語るとは思えません。

 『陸軍80年』(図書出版社)の著者・大谷敬二郎氏は、「第11章、日中戦争」の「南京大虐殺」の中で、
軍はその質を失っていた
と書いています(資料4)。そして、同書の「あとがき」に、戦時中の日本軍について、
すでにこの国の国民と断絶していたのだ。いわば、それは「国民の軍隊」ではなかったのだと言いたい”
と書いていることも見逃せません。

 上海派遣軍松井石根司令官の専属副官・角良晴氏の記述が『南京戦史資料集』(偕行社)「支那事変当初六ヶ月間の戦闘」の中にあります。その内容も見逃すことができません。
三三 20日朝軍司令官の下関附近まで独断視察
 20日朝軍司令官は「私は下関に行く。副官は同行しないでよい」と命令があった。
 副官は車の準備をした。
 当日、副官は運転手の助手になり助手席に乗った、そして下関に行き右折して河岸道を累々と横たわる死体の上を静かに約2キロ走り続けた。
 感無量であった。
 軍司令官は涙をほろほろと流して居られた。2キロ位走って反転して下関を通り宿舎に帰った。
 このような残虐な行為を行った軍隊は何れか?「下克上」の軍命令により6Dの一部軍隊が行ったものと思料せらる。”

 「累々と横たわる死体」、松井司令官の流した「」は、何を語っているのでしょうか。
 東京裁判で松井石根司令官自身が、
当時の方面軍司令官たる私は、両軍の作戦を統一指揮するべき職権は与えられておるのであります。従つて各部隊の軍紀、風紀を維持することについては、作戦上全然関係がないとは申されませんから、自然私がそれに容喙する権利はあるとは思いますけれども、法律上私が軍紀、風紀の維持について具体的に各部隊に命令する権限はなかつたものと私は当時考え、今もそれを主張するのであります
と自らの直接的責任を回避し、「南京を攻略するに際して起こったすべての事件」の直接的責任は「師団長にあるのであります。」と証言をしたということは、「散発的な事故」などではなかったからではないでしょうか。
 歴史を自分たちに都合のよい「お話」にしてはならないと思います。
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             3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
    ─── なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場が逆転したのか                            
(1) 敗者の悲劇 ────  「東京裁判」と「南京大虐殺」                              

「不祥事」を徹底的に戒めた日本軍指令官
 第二に、何十万という大虐殺には入念な準備や設備が要る。上からの命令があって、科学者や技師が加わらなければできない相談である。
 しかるに、松井司令官は南京攻撃に際して、次のような訓令を発している。これは、いかなる戦争のいかなる司令官の命令としても、手本になるような立派なものである。

 一、皇軍ガ外国ノ首都ニ入城スルハ有史以来ノ盛事ニシテ、永ク竹帛ニ垂ル(歴史に残る)ベキ事績タルト、世界ノ斉シク注目シタル大事件タルニ鑑ミ、正々堂々将来ノ模範タルベキ心組ミヲモッテ各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等絶対ニナカラシムベシ。
 二、部隊ノ軍紀風紀ヲトクニ厳重ニシ、中国軍民ヲシテ皇軍ノ威風ニ敬仰帰服セシメ、イヤシクモ名誉ヲ毀損スルガゴトキ行為ノ絶無ヲ期ス
 三、別ニ示ス要図ニモトヅキ、外国権益、コトニ外交機関ニハ絶対ニ接近セザルハモチロン、トクニ外交団ノ設定シタル中立地帯ニハ、必要ノ外立入リヲ禁ジ、所要ノ地点ニ歩哨ヲ配置スベシ。マタ域外ニオケル中山陵ソノ他革命志士ノ墓オヨビ明考陵ニハ立入ルコトヲ禁ズ。
 四、入城部隊ハ師団長ガトクニ選抜シタルモノニシテ、アラカジメ注意事項、トクニ城内ノ外国権益ノ位置ヲ徹底セシメ、絶対ニ過誤ナキヲ期シ、要スレバ歩哨ヲ配置スベシ。
 五、掠奪行為ヲナシ、マタ不注意トイエドモ火ヲ失スルモノハ厳重ニ処罰スベシ。軍隊ト同時ニ多数ノ憲兵オヨビ補助憲兵ヲ入城セシメ、不法行為ヲ防止セシムベシ。(『パル判決書』下・616ページ)

 何しろ、日本に好意的でない欧米の外交団や牧師や大学教授が城内に残っているのに攻撃するのだから、細心の注意をして、誰からも後指を指されないようにしなければならない。市民の大虐殺の計画など、微塵も入りこむ可能性がないのである。
 特に、第三項目で中国革命の父たる孫文の眠る中山陵などの名を挙げて、そこに立ち入らないようにと指令しているのは注目すべきである。しかも中山陵や明考陵は南京郊外にあって、戦略地点となりうるところである。この陵を傷つけないために、この方面を進撃した部隊は余計な苦労をした。
 敵国の死者の墓まで気にして進む軍隊が、民衆大虐殺のプランなど持っているはずもなく、プランがなければ、市民30万人もの大虐殺などは、歩兵にできるわけがない。
 では、南京占領は理想的であったかと言えば、そうではなかった。不法行為はあったのである。
 松井大将は、こういう通達を入城式の10日後に出さなければならなかった。

 「南京デ日本軍ノ不法行為ガアルトノ噂ガ、入城式ノトキモ注意シタゴトク、日本軍ノ面目ノタメニ断ジテ左様ナコトガアッテハナラヌ。コトニ朝香宮ガ司令官デアラレルカラ、イツソウ軍紀風紀ヲ厳重ニシ、モシ不心得者ガアッタナラ厳重ニ処断シ、マタ被害者ニタイシテハ賠償マタハ現物返還ノ措置ヲ講ゼラレヨ」(『パル判決書』下・617ページ)

 これは、日本軍に不法行為がなくはなかったことを司令官が認めた文書として重要である。しかし、よく読めば、大虐殺の反対の意味になることがよく分かる。
 「不心得者があったら厳重に処断せよ」と言っていることは、不心得者は憲兵がつかまえて罰する程度のもので、つまり、散発的な事故だったことを示しているし、財産の被害を受けた中国人には、その品物を返してやるか、弁償するかしてやれ、と言っているのである。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                                軍司令官の怒り
 翌18日には、故宮飛行場で、陸海軍の合同慰霊祭があった。この朝珍しく降った雪で、午後2時の式場はうっすらと白く染められていた。祭壇には戦没した将兵のほかに、従軍記者の霊も祭られていた。参列した記者団の中には、上海から到着した松本重治の長身の姿もあった。 
 祭文、玉串、「国の鎮め」の演奏などで式がおわったところで、松井軍司令官が一同の前に立った。前列には軍団長、師団長、旅団長、連隊長、艦隊司令官など、南京戦参加の全首脳が居流れている。松井大将は一同の顔を眺めまわすと、異例の訓示をはじめた。
 「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった」
 松井の痩せた顔は苦痛で歪められていた。
 「何ということを君たちはしてくれたのか。君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった」
 私は驚いた。これは叱責の言葉だった。
「諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」
 会場の5百人の将兵の間には、しわぶきの声一つなかった。式場を出ると、松本が、
「松井はよく言ったねえ」
 と感にたえたように言った。
「虐殺、暴行の噂は聞いていたが、やはり事実だったんだな。しかし、松井大将の言葉はせめてもの救いだった」
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                政戦の不一致 南京での暴行

 東京の方針はすでに和平に決定し、杭州湾上陸は上海救援のためであった。上海が包囲され、日本軍が守勢のままで和平交渉に入るのは不利だから、上海包囲軍 を撃退することは必要であった。しかし敗軍をどこまでも追うのは和平という政治目的からの逸脱である。やむなくそこまで行ったとしても、軍は南京の前で止 まり、南京を睨む形で交渉を進めるのが当然である。しかるに中央の統制が利かず、日本軍は12月13日、南京に突入した。それのみならず、暴行の限りをつ くし、世界の反感を買った。当時南京の外国人各種団体から日本に寄せられた抗議や報告、写真の類は、東亜一課の室に山積みされ私も少しは眼を通したが、写 真などは眼を覆いたくなるようなひどいものだった。私は北清事変(1900年)当時、日本の軍規厳正が世界賞讃の的になっていたなどを思い出し、変わり果 てた日本軍によるこの戦争の前途に暗い思いをしたものである。

  日本軍の南京突入にあたり、日本の砲兵隊は、英艦レディー・バード号を砲撃した(12月12日)。イギリス側は橋本欣五郎大佐が砲撃を指揮しているのを目 撃したと言って強く抗議して来た。イギリス側は橋本大佐が革新派の旗頭であり、一たん現役を退いたが、予備役として出陣したことを知っていて、故意の砲撃 だと主張した。また同日米艦パネー号も日本の爆撃に会って撃沈され、アメリカの人心を甚だしく刺激した。英米と日本との関係の悪化は中国の民心を鼓舞する ことになり、和平を困難にするものである。

 それにもまし て和平を困難にしたのは、軍内部の情勢が刻々に変わることであった。南京の占領により気をよくした軍の強硬派は和平条件の加重を強く主張し、ついにそれが 通った。政府は戦力の限界を知り、事変の政治的収拾に進んだのだが、強硬派の巻き返しにあってまたも屈服した。政府の首脳部は和平派と強硬派の抗争の波の まにまに翻弄され、所信を貫く気力を失ってしまい、事変の政治的収拾などのできる状態にはなかった。かくて12月14日の政府大本営連絡会議および21日 の閣議は、次の和平条件をドイツ側に伝達することを決定した。

(甲)(1)中国は容共抗日満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力すること      
   (2)所要地帯に非武装地帯と特殊機構とを設けること
   (3)日満華三国の経済協力協定を締結すること                       
   (4)賠償を払うこと

(乙)口頭の説明
   (1)防共の態度を実行により示すこと
   (2)講和使節を一定期日内に指定する地点に派遣すること               
   (3)回答は大体年内と考えていること
   (4)南京が以上の原則を承諾したら、ドイツから日華直接交渉を慫慂すること

(丙)ドイツ大使の極秘の含みとして内話する講和の条件
   (1)満州国の正式承認
   (2)排日・排満政策の放棄
   (3)華北、内蒙に非武装地帯設置
   (4)華北は中国の主権下におくが、日満華三国共存共栄に適する機構を作り、広汎な権限を与え、とくに経済合作の実をあげること
   (5)内蒙防共自治政府を設け、国際的地位は、外蒙と同じとする。
   (6)中国は防共政策を確立し、日満両国に協力する。
   (7)華中占拠地域に非武装地帯を設定し、また大上海市区域は、日華協力して治安の維持およ
    び経済の発展にあたること 
   (8)日満華三国は資源の開発、関税、交易、航空、通信等に関し協定を締結する
   (9)中国は日本に対し、所要の賠償を支払うこと
付記 (1)華北、内蒙、華中の一定地域に、保障の目的で必要期間、日本軍を駐屯する
    (2)前記諸項に関する協定成立の後休戦協定の交渉を開始する。中国政府が前記各項の約定を誠意をもって実行し、両国提携共助のわが方の理想 に真に協力すれば、前記保障条項を解消し、中国の復興、発展および国民的要望に衷心協力する用意がある。         

 この条件は全く城下の誓いである。12月23日広田外相は、ドイツ大使ディルクセンに示したところ、大使はこれでは到底話のまとまる見込みはないと嘆息した。しかし乗りかかった船だから、一応中国側には伝えようと答えたということであった。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              第3章 日中全面戦争と南京占領                                  

南京虐殺はあった
・・・
○逃げ遅れた市民がかなり南京城内に残っていたのですか。
○松本 南京攻略の直前まで、南京では戦闘がない、などといわれていたので、逃げ遅れた市民は相当いました。財産のある者は早くから、船で揚子江上流に脱出していた。残っていたのは、そういうことができない貧しい人たちでした。

○ そういう貧しい人たち、底辺層のおばあさんや少女が日本軍によって殺されたり、犯されたりしたのですね。日本軍による集団残虐行為は、数日前からすでに城外の近郊で始められていましたが、占領した12月13日から入城式が行われた17日の前夜までの日本軍の集団虐殺は最も大規模なものであったといわれます。日本軍が南京を占領して5日後に先生が南京に入られたとき、すでに南京は平静に戻っていたわけですね。占領直後の南京の様子をお話しください。
○ 松本 占領直後の南京には、同盟通信の深沢幹蔵、前田雄二、新井正義の三君が取材のために別々のルートで、私より早く14日と15日に入っているのです。私は、戦後あらためて、3人に会って、直接、そのときの模様を聞きました。深沢君は従軍日記をつけていましたから、それを読ませてもらいました。3人の話 では、12月16日17日にかけて、下関から草鞋峡にかけての川岸で、2000人から3000人の焼死体を3人とも見ていました。捕虜たちがそこに連れて 行かれ、機銃掃射され、ガソリンをかけられて焼け死んだらしいということでした。
  前田君は、中国の軍政部だったところで、中国人捕虜がつぎつぎに銃剣で突き刺されているのを見ていました。新兵訓練と称して、将校や下士官等が新兵らしい 兵士に捕虜を銃剣で突かせ、死体を防空壕に投げ込ませていたというのです。前田君は12~13人ほど、そうやって銃剣で突き殺されているのを見ているうち に、気分が悪くなり、吐き気がしてきた。それ以上、見つづけることができず、そこから立ち去った、といっていました。軍官学校の構内でも、捕虜が拳銃で殺 されていたということでした。前田君は社会ダネを追って走り回っていたのですが、12月20日ごろから、城内は平常に戻ったようだ、といっていました。
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                  南京大虐殺
南京「大虐殺」   ・・・
 当時、東京にはこの師団の非道さは、かなり伝えられていた。こんな話がある。松井兵団に配属された野戦憲兵長は、宮崎憲兵少佐であったが、あまりの軍隊の 暴虐にいかり、現行犯を発見せば、将校といえども直ちに逮捕し、いささかも仮借するな、と厳命した。ために、強姦や掠奪の現行犯で、将校にして手錠をかけ られ憲兵隊に連行されるといった状況がつづいた。だが、これに対し、つよく抗議したのが中島中将であった。このかんの事情がどうであったか、くわしくは覚えないが、当の宮崎少佐は、まもなく内地憲兵隊に転任される羽目となった。これでは、戦場における軍の紀律はたもてない。高級指揮官が、掠奪など占領軍の 当然の権利のように考えていたからだ。すでに、軍はその質を失っていた。

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