真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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暗殺者を主人公とする司馬遼太郎の「幕末」

2018年02月26日 | 国際・政治

 司馬遼太郎は、自身で「暗殺はきらいだ」といっているのですが、暗殺者を主人公とした十二篇の短編からなる「幕末」司馬遼太郎(文春文庫)を世に出しました。書きたくないけれど、書かざるを得なかったのではないかと想像します。

 教えられることや考えさせられることが多くありました。疑問に思うこともありました。だから、それらの主なものを抜き書き的に抜粋しました。

 「桜田門外の変」では、幕末における薩摩藩と水戸藩の関係をより深く知ることができました。ただ
”…暗殺という政治的行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる…
というとらえ方には、疑問を感じました。

 「奇妙なり八郎」は、幕末における数々の暗殺事件を象徴するような面があると思いました。幕末の志士のほとんどが、大きな夢を抱いた有能な若者であったことはよくわかるのですが、その時、その時の自らの思いを実現するために、簡単に人を斬ったということ、その極端な人命軽視の思想を、当時の若者を美化するために無視してはならないのではないかと思いました。
 
 「花山町の襲撃」は、伊藤博文内閣の外務大臣として活躍した陸奥宗光の話です。陸奥は、言葉を交わしたことさえない十津川郷士中井庄五郎と伊予宇和島の脱藩浪士後家鞘彦六(ゴケザヤヒコロク=土居通夫)という二人の剣客に、先鋒斬り込みを依頼し、自らは拳銃をもって、坂本龍馬暗殺の容疑者とされる紀州藩士三浦休太郎を天満屋で襲っています。また、驚くことに、三浦を襲う前に、白井金太郎などと、水戸藩京都周旋方の酒泉(サカイズミ)彦太郎という佐幕論者をも襲っているのですが、司馬遼太郎は、これは、三浦休太郎暗殺の「予行練習といっていい」と書いています。そうした事実を、私は「幕末」を読むまで知りませんでした。幕末を読んでいない多くの人も、そういう事実を知らないのではないでしょうか。

1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
桜田門外の変

       一

 桜田門外の変であまねく知られている有村治左衛門兼清(アリムラジザエモンカネキヨ)が、国許(クニモト)の薩摩から江戸屋敷詰めになって出府(シュップ)したのは、事件の前年、安政六年の秋のことである。二十二歳。
「江戸にきて何がいちばんうれしゅうございましたか」
 と、さる老女からからかい半分にきかれたとき、
「米のめし」
 と治左衛門は大声で答えた。薩摩藩士にはめずらしく色白の美丈夫(ビジョウブ)で、頬があかい。
 外貌どおり、素直すぎるほどの若者だったのであろう。
 江戸藩邸では、中小姓勤役(チュウゴショウツトメヤク)という卑役をつとめた。
 江戸ははじめてではあるが、次兄の雄助が一足さきに江戸詰めになって裁許(サイキョ)方の書記をしていたので、諸事、その引きまわしを受けた。
 藩邸にわらじをぬいだその日、兄雄助は、
「治左衛門、江戸に来た以上、命はないものと覚悟せよ」
 とひくい声でいった。
「心得ていますとも」
そのつもりで、江戸詰めの運動をしてやってきたのである。
「これは風懐でごわすが、辞世のつもりであります」
 と、煙管(キセル)をとりだした。その柄に、
  磐(イワ)、鉄(カネ)も、摧(クダ)かざらんや、武士(モノノフ)が
      国安かれと、思い切る太刀 と、こまごまと刻まれていた。
(まずい歌ではない)
 と、雄助は弟の意外な才能におどろいた。母ゆずりかもしれないと思った。母は歌学の達者である。
「つくったのは、おはんな?」 
「左様でごわンど」
 長兄は有村俊斎、次兄は雄助、この三人のなかで、治左衛門がもっとも詩才があったようである。
腕も立った。国もとで示現(ジゲン)流の名人といわれた薬丸半左衛門に学び、兄弟中の出色である。「天稟がある」と師匠からいわれた。
 ・・・

       二
 その後、治左衛門は、兄雄助が、
「日下部殿の御遺族」
 と教えた家に、しばしば足を運んだ。薩摩藩邸の有志の審議は、多くこの借家でおこなわれたからである。
「日下部伊三次」
 という名前ほど、薩摩藩尊攘有志の血をかきたてる名はなかった。幕末の薩摩藩が、最初に出した国事殉難者である。
 井伊に殺された。
 日下部伊三次は維新史にとって一種の運命的な存在だった。薩摩藩士だが、同時にかつては水戸藩に禄を食(ハ)んでいたという、いわば水薩両属の存在であった。
 父の名は、連(ムラジ)。もと薩摩藩士であった。事故があって脱藩し、水戸領高萩で私塾をひらいているうちに水戸藩主斉昭(ナリアキ)(烈公)に知られ、その子伊三次が召しだされた。
 伊三次はその後、藩主に請うて、亡父の藩であった薩摩藩に復帰することをのぞみ、両藩主に許された。
 伊三次は水薩の接着剤の役目をつとめた。当時、水戸藩は尊王攘夷の総本山といった絢爛たるふんいきがあり、天下の志士から一種の宗教的な翹望(ギョウボウ)をうけていたが、薩摩藩がもっともこれに接近することができたのは、ひとつには前藩主斉彬が水戸の斉昭に私淑していたからであるが、日下部伊三次がその橋渡しの労をとったことが大きい。
 とくに、西郷、大久保をはじめ治左衛門の長兄俊斎の三人は、日下部伊三次の手びきで早くから水戸の名士と相知ることができ、このことがかれらに重大な影響をあたえた。
 その伊三次が、去る安政の大獄で逮捕され、江戸伝馬町(テンマチョウ)の牢で言語に絶するような拷問のすえ衰弱死した。同時に捕縛された長男祐之進も、その翌年、牢死。
 日下部家には、女だけが遺された。
 ・・・
 当初、井伊誅殺(チュウサツ)については、薩摩藩激徒のあいだに壮大な計画があった。 
 計画の主導者は、有村俊斎、大久保一蔵、西郷吉之助、高崎猪太郎ら薩摩藩でいう「精忠組」の連中で、水戸有志と何度も密会をかさね、井伊誅殺と同時に、薩摩藩は壮士三千人をもって大挙京にのぼり、朝廷を守護して幕府に臨み、朝命によって幕政を改革をせまるにあった。
 ・・・

       三

 ・・・
 治左衛門は、駕籠の戸をひきむしり、井伊の襟くびをとって引き出した。まだ息はあった。井伊、雪の上に両手をついたところを、治左衛門はあらためてふりかぶり、一刀で首を打ち落とした。
 そこで、「薩音(サツオン)で叫んだ」というが、要するに味方一同にむかって討ちとめた旨を報告したのであろう。
 同時に、申しあわせたように鬨(トキ)をあげ、思い思いにひきあげた。
 争闘は十五分くらいの間だったらしい。降雪のなかを不意にあらわれた敵のために彦根藩士はほとんど木偶(デク)のように斬られ、十数人がツカ袋を脱して戦ったが、いずれも、闘死、または昏倒(コントウ)させられた。
 その間、現場からほんの四、五丁むこうにある彦根藩邸の門は閉ざされたままであった。はげしい降雪のため気づかなかったのである。
 ・・・
この桜田門外から幕府の崩壊がはじまるのだが、その史的意義を説くのが本篇の目的ではない。ただ、暗殺という政治的行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その最も重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。三百年幕軍の最精鋭といわれた彦根藩は、十数人の浪士に斬り込まれて惨敗したことによって、倒幕の推進者を躍動させ、そのエネルギーが維新の招来を早めたといえる。この事件のどの死者にも、歴史は犬死をさせていない。
 ・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
奇妙なり八郎

       一
 ・・・
 諸国の志士のなかでも怪物的な才人といわれた出羽用浪人清河八郎の刀は、相州無銘の業物で、引きぬくと七カ所に光芒が立った、といわれた。
 剣相のほうでは、こういう刀をもっとも瑞剣(ズイケン)であるとし、
「七星剣(シチセイケン)」
 といった。薄暗い灯(ホ)あかりで刀身をすかすと、刃の地肌に匂いたつ「湯走(ユバシリ)」が点々と星のように青く冴えてくる。それが七つまで数えることができるのだ。
 この瑞剣をもつ者は天下取りになるというのである。むろん百万本に一本もない。
 
 この剣の持主の清河八郎は、モトは武士の出ではなかった。
 出羽国(山形県)の田川郡清川村の大百姓斎藤治兵衛の子に生まれ、少年のころは神童といわれた。志をたてて故郷を
出たのは十八の年である。
 生家の斎藤家は庄屋とはいえ戦国のころはこの地方に威勢を張っていた豪族で、刀箪笥(カカタナダンス)をさがせば銹刀(サビガタナ)のニ、三十本はごろごろと死蔵されていた。
 家を出るとき、その中から手頃な大小を見つけて差料としたが、父の治兵衛が別に油鞘(アブラザヤ)に収まった銹刀一本をとりだし、
「無銘だが、江戸で研がせてみろ、案外な逸物かもしれん」
と手渡した。
「荷物になる 
 と八郎はいやがったが、無理やりに持たせた。
 江戸では学問を最初、東条一堂、佐藤一斎にき、ついで安積艮斎(アサカゴンサイ)に入門し、最後には昌平黌(ショウヘイコウ)にまで入った。剣は千葉周作にまなび、文武とも抜群の出来であった。とくに剣は数年で大目録皆伝をとるほどの異常児であった。軽捷果敢(ケイショウカカン)、清河に胴を撃たれると息がとまる、という評判が、他道場にまできこえていた。安政元年二月、早くも独立して神田三河町に北辰一刀流の町道場をひらき、同時に学問をも教授した。当時、浪士のあいだで勢力をえようとする野心家は私塾をひらいて門人食客を集めるのが普通であった。
 ・・・

       五
 ・・・
 某日。
 佐々木唯三郎は、清河が、松平上総介を通じて、幕府肝煎(キモイリ)による浪士組の結成を老中板倉周防守(スオウノカミ)(伊賀守)勝静(カツキヨ)に働きかけているというはなしを当の上総介からきき、わが耳をうたがうほどにおどろいた。
「清河は、いかに表面巧言でかざっているとはいえ、倒幕論者ではありませんか。それがいわば幕権擁護のために、在野の剣客をつのるとはどういう判じ物です」 
「私もよくわからない」
 と、上総介はおだやかな口調で、
「清川狐がどんな呪文でこんなことを考えだしたかは知らないが、いま公儀が打つべき手としては妙を得ている。京都は、清河が九州から嘯集(フキアツ)めた浪士どもに長州、土州の者もまじり、近国の浮浪浪士まで加わって毎日毎夜の刃傷(ニンジョウ)騒ぎだ。すこしでもおのれどもと意見のちがうのを見つけると、天誅と称して容赦会釈なく血祭りにあげてしまう。幕府(コウギ)に好意をもつ九条関白家の諸大夫島田左近が首を斬られて先斗町(ボントチョウ)の磧(カワラ)にさらされたというし、おなじく宇郷玄蕃は、首になって宮川町の川岸に古槍の穂で突き梟(サラ)しにされていた。多い日には数人も殺されている。あの連中は、清河にあざむかれて京にのぼってきたものの、脱藩の身では餓えは迫る、気はあせる、国には戻れぬ、というわけで、物狂いの状態だ。剣をもって鎮圧するしか手がない」
「それにしても妙なはなしだ」
京で跳梁している浪士は、清河が天竺魔法のような術策でよびよせたものではないか。それをこんどはおなじ清河が剣をもって鎮圧するとはどういうわけだろう。
 ・・・

       六
 ・・・
 約束の刻限からすこし遅れて清河がやってきた。
 用件はわかっている。攘夷連名簿に血判署名することである。すでに清河はその懐中の帳簿に五百人の署名をあつめており、日を期して挙兵し、まず横浜の外交施設を襲撃することになっていた。むろんその挙兵と同時にこの軍団は王権復興の討幕軍に早変わりするのである。
「古い学友だ。いまさら喋々(チョウチョウ)せずとも私の気持ちはわかってくれるだろう」
「わかっている。加えていただく」
 金子は快く署名血判し、あとは妻女に酒を出させ、徳利(トックリ)をさしのべた。その徳利の口が猪口(チョコ)にあたってカチカチ鳴ったことに清河は気づかない。
 そのころ、藩邸の裏門のあたりをしきりと往き来している数人の武士がある。
 裏門からの道は一筋に赤羽橋まで伸び、橋のたもとによしず張りの茶店があり、そこでも数人の武士が、茶を飲んで屯(タムロ)している。いずれも二、三百石取りの直参の風体であった。
 そのなかで首領株の佐々木唯三郎だけが、陣笠をかぶっている。あとは講武所教授方速見又四郎、高久保二郎、窪田千太郎、中山周助。
 四ツすぎ、清河は藩邸を辞した。
 清河も佐々木同様、檜(ヒノキ)の黒羅紗をはった陣笠をかぶっている。
 したたか酔っていたが、たしかな足どりでしかしやや歩みを落として麻布一ノ橋を渡り切ると、不意に横あいから、
「清河先生」
 と佐々木唯三郎が声をかけた。
「ふむ?」
「佐々木です」
 と、ここからが唯三郎が工夫しぬいた兵略だった。すぐ会釈をするふりをして陣笠をとった。
 清河もやむをえない。右手に鉄扇をにぎったまま陣笠のひもに指をかけた。 
 とたん、背後にまわっていた速見又四郎が抜き打ちをあびせた。ほとんど横なぐりといってよく、清河は左肩の骨を割られて前のめり、一歩踏みだしてつかに手をかけようとしたが、右手首に通した鉄扇のひもが妨げて抜けない。
「清河、みたか」
 致命傷は、ささきの正面からの一太刀だった。右首筋の半分まで裂き、その勢いで清河の体は左へ数歩とんで横倒しになり、半ば切れた首がだらりと土を噛んだ。
 土に、酒のかおりがむせるように匂っていたという。
 佐々木唯三郎は、このときの功でのちに見廻組組頭になり、千石に加増されている。
 清河は、素朴すぎるほどのわなにかかったことになる。策士だっただけにかえって油断した。
 おそらく彼自身が不審だったろう。ひとが自分をだますなどとは、夢にも思っていなかったにちがいない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 花山町の襲撃

       六
 ・・・ばらばらっと天満屋の表口をかこむと、先鋒斬り込みの二人の剣客が進み出た。
 後家鞘彦六 
 中井庄五郎のふたりである。陸奥は、総帥だからその背後の雪の上に立っている。
 ・・・
 すぐ階段がある。宴席は二階である。中井、後家鞘のふたりは足音を消してトントンとのぼりきるなり、奥の間のふすまを
 カラリーー
とひらいた。敵方の一同二十数人、おどろいて不意の侵入者を見上げた。
 中井は豪胆にも、新撰組の隊士の押しならぶ真只中に進んでゆきながら、床柱を背負った黒縮緬の羽織の武士をにらみ、「三浦氏はそこもとか」
 といった。気を呑まれて三浦が
「おう」
 立ちあがるところを、中井は、三浦の前にある卓袱台(チャブダイ)の上に右膝をつき、
「参る」
 ぱっと抜き打ちに斬った。その間一瞬で、ほれぼれするような居合いだったという。
 が、中井は間合いをはかりそこねた。
「わっ」
 と立ちあがった三浦の面上を割るにいたらず、眼の下の肉をわずかに裂いた。
 そのときが、中井の最期だった。三浦の横にいた新撰組三番隊長斎藤一が、ほとんど同時に中井に抜き打ちをあびせ、左頸筋から胸にかけてざくりと割った。
「不覚ーー」
 中井の身体がのめった。のめる瞬間、中井の背後から重なるようにして、まるで中井の死体が起きあがったかと錯覚させるようなすばやさで、おなじぬきうちが斎藤を襲った。
 後家鞘彦六である。
 斎藤は右籠手を叩き斬られて刀を落としたが血はでない。鎖の着込みを着ていた。
 が、打撃は骨にひびいた。
 このため、当夜第一の使い手だった斎藤が思うように使えず、陸奥方はその分だけ 楽な戦闘になった。
 その右膝ついたままの後家鞘へ、左から一人が斬りかかった。
 すかさず後家鞘は刀を逆にはねあげてその男の下あごを割り、
 わっーー
 とのけぞるところを左膝をすばやく前へだして胸に突きを入れた。
 男は、杯、器物を散らして横倒しにたおれた。それが、かつて東町奉行所で、
 ーー同じ年格好のようですが、
 と、入隊をすすめてくれた宮川信吉であるとは、現場では後家鞘も気づかなかった。
 とたんにふすまが倒れ、海援隊士関雄之助(のちの沢村惣之丞)、小野淳輔(坂本龍馬の甥)、竹野虎太らが斬りこんできた。
 そのころには、後家鞘は、三浦の家来平野藤左衛門に致命傷を負わせ、新選組隊士梅戸勝之進の左股を骨まで切っている。
 が、新選組側は、さすがにこういうことに場馴れしていて、すばやく灯りを消し、
「三浦、討ちとった」
 と、隊士の一人が叫んだ。
 このため斬り込み方はあざむかれ、
「退(ヒ)け」
 と、階段を駆けおりる。
 そのあとを、新選組船津謙太郎が真先に迫ったが、階段から飛びおりたところで、長身の陸奥がのっそり立っていた。
 とっさに陸奥は、引き金をひいた。
 家が割れるほどの轟音がおこり、拳銃をもっていた陸奥はその発射の反動で土間に転げ落ちてしまった。
 同時に、船津も肩を射ぬかれて、陸奥のそばであがいている。
「退け」
 陸奥は跳ね起きて路上に走り出るなり叫び、一同、雪の路上へ四散し、それぞれ思う方角に落ちた。
 この天満屋騒動での双方の損害は、いまなお諸説があって明確な数字はない。
 ただ死者は、新選組側が宮川信吉、海陸両援隊側が中井庄五郎。
 それぞれ一人で、これだけははっきりしている。三浦休太郎は重傷を負っただけで一命はとりとめた。
 事件後、陸奥は夜の町を北へ走って相国寺門前の薩摩屋敷の門をたたき、
「御開門くだされ。海援隊陸奥陽之介という者でござる。ただいま、隊長坂本の仇を討って参った。」
 というと、この屋敷の者には、陸奥はほとんど面識もなかったのに、これだけ喋ると意外にも開門してくれた。坂本の死は、薩藩にも同情者が多かったからだろう。
 小門をくぐってほっと一息つくと、なんと後に、後家鞘が立っている。
「ついてきたのか」
「いかにも。それがし、各々のように頼って落ちてゆく先がない。お願い申す。」
 後家鞘にすれば、以前に坂本に離れて浮浪しているだけに、こんどこそは食らいついても離れまいというつもりだった。
 この男は運がいい。
 事件から二日後の慶応三年十二月九日に維新の大号令が下り、一ト月後に鳥羽伏見の戦いが起こった。
 鳥羽伏見の戦いのときには、いちはやく江州大津に飛び、官軍の兵糧確保のために米問屋に手を打ったという功績で、名が故藩まで聞こえ、脱藩の罪がゆるされるとともに藩主伊達宗城(ムネナリ)によびだされ、
「維新招来のための多年の辛苦、殊勝であった。わが藩からそちのような功臣を出したとは、時節柄、よろこばしい」
 と賞せられた。
 維新直前わずか一日の奮闘で、後家鞘こと土井通夫は新政府の外国事務局御用掛、さらに大阪府権知事、兵庫裁判長などを相次いで歴任し、のち致仕して財界に入り、明治二十六年大坂商工会議所会頭になった。
 維新後、大坂府権知事になって、たまたま高利貸高池屋の付近を馬車で通ったとき、近所の者が
「似ている」
 と騒ぎだし、やがて数年前の高池屋の手代が、いまの権知事であることを知ってその数奇な出世に驚いたという。
 人間の運など、まるでわからない。

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相楽総三(赤報隊隊長)の処刑 明治という国家

2018年02月10日 | 国際・政治

 明治4年、右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚房を副使とする岩倉使節団一行が、欧米諸国視察のために日本を発っていますが、その最初の訪問国の米国で、使節団一行は大歓迎を受けたといいます。その時の晩餐会において、伊藤博文が英語で、下記のような内容のスピーチを行ったということですが、問題があると思います。そのまま受け入れることはできません。

今日、わが日本の政府および国民の熱望していることは、欧米文明の最高点に達することであります。この目的のためにわが国ではすでに陸海軍、学校、教育の制度について欧米の方式を採用しており、貿易についてもとみに盛んになり、文明の知識はとうとうと流入しつつあります。しかも、わが国における進歩は物質文明だけではありません。国民の精神進歩はさらに著しいものがあります。数百年来の封建制度は、一個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、一年のうちに撤廃されました。このような大改革を、世界の歴史において、いずれの国が戦争なくして成し遂げたでありましょうか。…”
 特に、”数百年来の封建制度は、一個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、一年のうちに撤廃されました”という部分がひっかかります。なぜなら、日本の近代化が始まる明治は、平和的に始まったのではなく、幕末に、外圧し対して、開国か攘夷かで激しく対立し、王政復古の大号令が発せられた後にも、戊辰戦争や西南戦争が続いて、多くの人が亡くなっているからです。詳しいことはわかりませんが、明治維新は、伊藤博文がいうような欧米のブルジョア革命とは同一視できない側面があるのではないかと思います。
 私は、王政復古の大号令が発せられた前後に、多くの人が戦いで亡くなったり、暗殺されたり、処刑されたりした事実から、明治新政府発は、「力は正義なり」を土台として天皇制国家をつくりあげていったように思うのです。

 薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て結成された相楽総三を隊長とする赤報隊が、「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで幕府に対して反発する民衆の支持を得て、幕府軍を追い詰め、挑発したことは否定しようがない事実だと思います。それが、計画通り進み鳥羽・伏見の戦いのきっかけになったもかかわらず、相楽総三をはじめとする赤報隊の隊士は、結成を支援し、作戦を指示した人たちによって「にせ官軍」の汚名を着せられ、下記の資料1<「いい話ほどあぶない 消えた赤報隊」野口達二(さ・え・ら書房)から抜粋>にあるように、弁解の機会さえ与えられず、処刑されています。この時、下諏訪宿の外れで処刑されたのは相楽総三、大木四郎、西村謹吾、渋谷総司、高山健彦、金田源一郎、竹貫三郎、小松三郎の八名ですが、赤報隊三番隊の隊士の多くも処刑されたといいます。
 びっくりするのは、
そうだ、相楽という男に、”にせ官軍”になってもらうのだ。
みつのようなことばで百姓をまどわした男として、年貢半減の号令とともに消えてもらう。
と言って処刑を指示したのは、赤報隊の結成を支援した岩倉具視であるということです。西郷隆盛や大久保利通など、明治新政府発足当時の中心人物が深く関わっていることを見逃すことができません。

 司馬遼太郎が、「この国のかたち」のなかで、伊藤博文のスピーチと同じような内容で、明治維新を評価していますが、違和感を感じました。
明治憲法もまた他の近代国家と同様、三権(立法・行政・司法)が明快に分立していた。ただし、天皇の位置は哲学にいう空に似ていて、行政においては内閣が各大臣ごとに天皇を輔弼(明治憲法の用語)し、輔弼者をもって最終責任者として
とも書いていましたが、それはあくまで外面を整えたということで、その本質は一貫して「力は正義なり」を土台として進んだのではないかと思います。

 私は、幕末から明治のはじめにかけて、多くの人が暗殺されたり、処刑されたりしたこと、そして、それらに明治新政府発足当時の中心人物が深く関わっていたこと、さらにそうした不都合な事実が、その後隠蔽され続けたことなどから、明治が法や道徳を重視する民主主義的な近代国家ではなく、「力は正義なり」とする天皇制国家の方向に進んでいったように思います。そして、それが昭和の敗戦に至る道筋を作ったのだと思わざるを得ないのです。

 資料2は、「明治維新 暗殺 相楽総三」原田務(叢文社)から抜粋した文章ですが、赤報隊隊士の処刑がいかに巧妙に行われ、隠蔽されたかがわかります。特に、相楽総三の孫、木村亀太郎が赤報隊の生き残り隊士、藤井誠三郎に聞いた話が印象に残りました。


資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                            ひとつぶのタネを胸に…
 ・・・
 あとは、相楽だけがのこった。検視は、
「相楽総三。そのほうには、総督のとくべつのごさたをもって、切腹を申しつける。なさけとこころえよ。」
といった。処刑役がなわをとこうとすると、相楽は、ことわった。
「無用のなさけだ。なさけとは、人のこころより発するものだ。もし、総督に、人のこころがあれば、とらえた理由をはっきりとあげ、それにたいする申しひらきを聞くべきだったろう。軍の会議などといつわって召し出し、だまし討ってなんのなさけだ。相楽は、なんの手むかいもせずとらえられ、しずかに申しひらきのときを待ったはずだ。その機会さえあたえられたら、おのれはべつとしておそらく、かれら有能な若者たちをこのように殺させはしなかったろう。」
と抗議した。そして、
「きみは、しゃぐまの色から見て薩摩藩の者のようだな?」
と、きいた。検視は、だまって目をそらした。すると相楽がいった。
「それなら、いつの日か西郷さんに会うときもあろう。…そのとき、相楽がこういって死んだとつたえてくれ。”手をかたくにぎりしめ、官軍先鋒隊として中仙道を進んでくれと、たのんだのはだれだ”と。…いまひとつ、人間は”はなせばわかる”とな。」
検視は、その間の事情を知っていたらしく、だまって聞いていた。相楽は、
「さあ、ころしてもらおう。」
といった。もう、切腹は無用、というように、胸をはっていた。
 二人の検視は、そんな相楽を見て、なにかささやきあったが、うなずきあい、
「斬罪に処す。」
と、刑の方法を変え、処刑役をうながした。相楽は、最期ときめ、
「天朝さまのおわす方は、いずれかな?」
とたずねた。そして、教えられた方角にむきなおり、深ぶかとあたまを下げた。そのあと、同志のなきがらをひとつひとつふりかえり、目をつむった。首斬り役人には
「太刀取り、しっかりたのむよ。」
といって斬られるのをまったという。
 処刑が終わり、夜になって、八人の首がさらされた。
 さらし場の矢来の外には高札がたてられ、青い月の光にてらし出されていた。
 百姓たちは、まるで自分の首をさらされているような思いがして、早ばやとそこを立ち去った。 
 五兵衛と、弥五郎と、りえがのこっていた。五兵衛は、りえに、
「花を。」
といった。りえは手おってきた寒梅を、矢来のかたわらへたむけた。
 五兵衛が、手をあわせた。
 りえは、おれたちは、ただこうすることしかできないのか…と思った。また、あれだけ集まったひとが、処刑されるのを、ただじっと見ていただけじゃないかとも思った。そう思うと、やりきれなくなって、なみだがこみあげた。
 りえは、小石をひろって、霊をとむらうように、つみあげた。
 弥五郎も、かたわらで、一つ、二つとつんだ。
 五兵衛は、ひくい声で、高札を読んでいた。それは相楽にかんするものであった。
「右の者、御一新の時節につけいり、勅命をいつわり、官軍先鋒ととなえ、総督府をあざむきたてまつり、かってに進退し、あまつさえ諸藩へ応接におよび、あるいは良民を動かし、ばく大な金をむさぼり、いろいろ悪業をはたらき、その罪、かぞうるにいとまあらず…。」
「なんてことじゃ!」
五兵衛はいかった。
いまひとつは、七人の同志たちのものであった。
「右の者ども、相楽総三に味方し、勅命といつわり、強盗無頼の党を集め…。」
とあった。弥五郎は、
「うそだ、うそだ!」
とさけんだ。りえは、むせび泣いた。
弥五郎は、あたまをかきむしって、
「おれたちが強盗け! おれたち百姓がならずものかよ! みな御一新という”世なおしに期待し、集まった者ばかりじゃねえか。まっ正直な、はたらき者ばかりじゃねえか! 御一新だなんて、こんじゃ、さむれえのやることばかりじゃねぇ天朝さまのやることもしんじられねえってことじゃねえか。おれたちは、なにをよりどころに生きていけばいいんだ!」
と泣いた。さらし首は、弥五郎にも、自分たちの首のように見えた。
 …、りえがつぶやいた。
「相楽さんたちからもらった、ひとつぶのタネだよ。みんながそれを、胸のそこにうえつけるのだよ。…いつか、若葉がでる。」
 雪風が、きびしくふきぬけていった。
 五兵衛がいった。
「御一新は、ただ、、ふきあれて、わしたちの頭をとおりぬけていった。…また、ふぶきがつづく。」

 その後も、百姓たちの暮らしは、なんにもらくにはならなかった。
 ・・・
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
闇の維新 相楽総三
                             十
 ・・・
 八人の首は刑場に梟首(キョウシュ)され、高札が三本立てられた。その一本は次のような総三への宣告文である。
相楽総三
 右之者、御一新之時節ニ乗ジ、勅命ト偽リ官軍先鋒嚮導隊ト唱ヘ、総督府ヲ欺キ奉リ、勝手ニ進退致シ、剰(アマツサ)ヘ諸藩ヘ応接ニ及ビ或ハ良民ヲ掠(オビヤカ)シ、莫大ノ金ヲ貪(ムサボ)リ種々悪業相働キ、其罪数(カゾウ)ルニ遑(イトマ)アラズ、此侭打棄(コノママウチステ)候テハ、弥(イヨイヨ)以テ大変ヲ醸シツ、其勢ヒ制スベカラザルニ至ル、之ニ依テ誅戮(チュウリク)梟首、道路遍(アマネク)諸民ニシラシムルモノ也。

                             十一
 ・・・
 なんでも、西郷は最愛の弟子益満が戦死したと聞くと、人前も憚らずオンオン声をあげて哭いたそうだが、その至誠温情な西郷がよもや相楽、伊牟田、益満を自己権謀の犠牲に供したとは誰にも思えないが、しかし結果的にはとにかくそうなってしまったのである。現にそうだった。
 西郷というと、つい大西郷というイメージが浮かび、批判心がとたんにとろっと甘く溶けて無くなってしまうが、考えてみると、彼らのほか、何十人もの草莽隊の志士たちが使い捨てに殺されているのである。この全部について、官軍の総大将格の西郷は無関係ということになっているが、果たしてそんな不自然なことが有り得ようか?…。
 また官軍が江戸城への入城をはたした後、有馬籐太が西郷吉之助に、
「さて、いよいよこんどは攘夷ですね」
と意気込んでいうと、
「そうか、お前にはまだ言ってなかったな。攘夷というのはな、ほんとうは幕府を倒すためのただの方便だったのよ」
 と、実にあっさりと言ってのけたそうだが、幕府が朝廷に無断で米国と日米修好通商条約を結んだときの、あの藩内の嵐のような尊王攘夷の絶叫を鮮明に覚えていただけに、恐らく有馬は西郷の顔をエツ? と奇異な眼で見直してしまったにちがいない。
 明治時代から西郷きらいの学者や史家がいるが、こんなところにこの人を、<謀略の徒>と極めつけるゆえんがあるのだろう。

 ・・・
 --ここに、たった一件だが次のような話が残っている。相楽処刑から二ヶ月足らず後の四月下旬のことである。事件当時斥候などでよそへいっていた隊員や、総三らの悲惨な最期を様々な情報から克明に知り、その悪辣極まるやり方に激怒した在京の薩邸生き残りの同志が集まり、権田直助、科野東一郎を中心に、事件の元凶は、調査するまでもなく岩倉具視だと復讐の暗殺計画を立てた。だが、残念ながらこれは岩倉の側近に洩れてしまい未発におわってしまった。

                        終章  - 暴露の香華 -
 ・・・
--最後になってしまったが、この話も、大正年間にはいってからのことである。武州多摩の出身で、薩邸の浪士隊から赤報隊時代までずっと総三と行をともにした、藤井誠三郎という生き残りの隊士がいた。
 藤井は、薩邸焼討ちのときは、上の山藩の総指揮者金子六左衛門を至近距離まで迫って鉄砲で倒し、また野州行の竹内啓の隊が惨敗した時は、その復讐にわずかな人数で、新川河岸の八州方役人屋敷へ討ち入りを決行した人だ。殺伐だが、直情径行の竹を割ったような性格の男だった。
 だが、その時分にはもう若い頃の面影はなく、落魄のどん底に落ち、煎餅布団にくるまって下谷御徒町の裏店の片隅に横臥していた。その藤井誠三郎を、木村亀太郎が死ぬ少し前に尋ねている。
 身動きできない老残病苦でいながら、総裁の孫の訪問に感激して眼を輝かし、乏しい血を湧き立たせ、
「われわれが若いとき夢みていた、王政復古が実現をみますと、とたんに薩長が権力を妄(ミダ)りにいたしだし、われわれ関東武士が血みどろになって働いた功はすべて奪われて、彼らの独り占めなものとなってしまいました。明治維新の火蓋を切らすにいたったわれわれの功は、すっぽり闇から闇へ葬られ、それからの彼らは、われわれ関東武士の生き残りが一日も早く世の中から消えていくことのみ望んでいるのです。だからときに関東武士で勤皇に働いたものが、一人でも世に出ようとすると、かならず陰に廻って悪辣に迫害します。浪士隊の幹部だった落合源一郎さんは、伊那県の大参事にまでなられたのに、ありもしない飛んでもない嫌疑で叩き落されたし、やはり幹部だった権田直助さんは、大学教授をしているとき陰謀に引っかけられ、国事犯の嫌疑を受けて同じく追放されてしまいました。したがいまして、残念ながら将来とも薩摩屋敷の総大将としての相楽総裁の名は世間に出ないでしょう。必ずこれは私の言葉どおりとなりましょう。とにかくこのようにして、多くの勤王を叫んで戦死した関東の侍たちはみんな、薩摩の我利我利亡者(ガリガリモウジャ)どもを顕彰するための敷石になってしまいました…」
 と、火を吐くような憎悪を込めて薩藩を罵倒したあと、
「相楽総裁は、背の高さ五尺七寸ちかく、ちょっと見ると怖いようだが非常にやさしく、気性は上に強く下に弱かったですね。そういう点があるので、西郷と争論したり、総督府や参謀と争ったりして、これは是なりと信じたら梃子(テコ)でも動かない、というところがありました。そういったことが欠点といえば欠点で、そのためにずいぶん損もしたし、また落命の遠い原因はそこにあったと思います。しかし、下諏訪の梟首(キョウシュ)高札のあの文句は何たることでしょう。あれが強盗無頼なら維新のときに、強盗無頼ならざるものが幾人いるか、ほかのどのような事例と比べても、われわれの方は何もやっておらんといっていい。あの際は官軍の費用が不足なので土州とか薩州とか長州とかいう大藩が控えている藩士は、多少とも藩主から手当てがあったろうが、勤王浪士という側は、費用は全部自分持ち。総裁はもとより赤坂の実家からたびたび多額の金をもってこられたし、金原忠蔵は下総の富豪の子だし、渋谷もそうだし、小松三郎も家が豊かなので、こういう人たちが自分の家の金を注ぎこんだ。あのころの勤王浪士を二ツに分けて、一ツは資産のある者、一つは困窮の者、この二つがどっちも片寄らず旨く行ったのはそういう風であったからです。それにしても薩藩の出身者が世にときめいている限り、相楽総三の名はぜったいに有名にならないでしょう。総裁は筑波山のときも、藤田小四郎などの考えが小さいので袂をわかちました。不徹底が嫌いだったのです総裁はーーだから、下諏訪で命が助かったとしても、きっとどこかしらで、何とかかんとかして殺されていたに違いありません」
 こういって、しまいには堪えきれず声を放って哭(ナ)いた。

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明治維新 赤報隊 司馬遼太郎

2018年02月02日 | 国際・政治

 「幕末」司馬遼太郎(文春文庫)は、「桜田門外の変」と題された文章から始まっていますが、その終りの方に、私には受け入れがたい次のような文章があります。

この桜田門外から幕府の崩壊がはじまるのだが、その史的意義を説くのが本篇の目的ではない。ただ、暗殺という政治的行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その最も重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。三百年幕軍の最精鋭といわれた彦根藩は、十数人の浪士に斬り込まれて惨敗したことによって、倒幕の推進者を躍動させ、そのエネルギーが維新の招来を早めたといえる。この事件のどの死者にも、歴史は犬死をさせていない。”


 当時の井伊直弼が、どれほど悪辣な人間であったか、私は知りません。しかしながら、いかなる思いで時代の難局に対していたとしても、”斬られたこと”によって”歴史的役割を果たした”などというのは、いかがなものかと思います。明治維新を肯定し、明治時代を明るい時代として描こうとするから、こういう無理な主張をせざるを得ないのではないかと思います。井伊直弼は殺されて当然の人物として、暗殺を肯定してしまうような主張は、私には受け入れ難いのです。さらに言えば、明治維新がそれほど素晴らしいものであったとは、私にはどうしても思えません。逆に私は、明治維新が、第二次世界大戦の敗戦にまで突き進む日本の端緒を開いたように思います。

 資料1は、「いい話ほどあぶない 消えた赤報隊」野口達二(さ・え・ら書房)「あとがき」ですが、薩・長を中心とする官軍の指導者にいいように使われ消された相楽総三の生涯は、明治維新の本質を象徴しているような気がします。明治政府は、確かに日本の文化・制度・風俗・習慣などの近代化につとめ、外見的には著しい飛躍を生み出しました。しかしながら、明治維新以来の日本は、もっとも大事な部分で、深刻な問題を抱え続けていたと思います。

 官軍の進軍にあたって多くの軍資金を出した三井や鴻ノ池などの資産家に多少でも返金し、さらに維新の大業を成し遂げるために「年貢半減」の「勅定」を取り消す必要に迫られた時、相楽総三を中心とする赤報隊に「にせ官軍」の汚名を着せ、年貢半減の勅定もろとも消し去ることを言い出したのは、維新十傑の一人、岩倉具視であるといいます。

 資料2は、「闇の維新 相楽総三」原田務(叢文社)から抜粋した文章ですが、その相楽総三率いる赤報隊に、「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで幕府に対して反発する民衆の支持をとりつけ、江戸を攪乱し、幕府を挑発する謀略を依頼したのは、維新の三傑として、今も日本が誇る西郷隆盛や大久保利通であることがわかります。

 こうしたことが明らかにされることなく、日本の新たな国づくりが進められたために、その後「朝鮮王宮占領事件」や日清戦争、「旅順虐殺事件」、日露戦争などが続いていくことになったように思います。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    あとがき

 歴史の上で、大きな変革があるときは、いろいろな人物が、さまざまなかつやくをしています。
 徳川幕府がたおれ、明治の新政府が生まれ、日本が「近代」にむかって歩みはじめたときも、そうです。中心になってはたらいた、西郷隆盛や大久保利通や、木戸孝允をはじめ、多くのひとが功労者として歴史に名をとどめ、伝記を書かれたリ、小説の主人公にえがかれたりしています。
 だが、明治の「御一新(ゴイッシン)」をおしすすめたのは、薩摩や土佐や長州の志士ばかりではありませんでした。日本じゅうのいろいろな藩の、下づみの武士たちが、「尊王」から「討幕」へと力をあわせ、その小さな力が、やがて大きな動きに変わっていったことを見のがしてはなりません。

 とくに、そのような力のひとつとして、武士よりは庶民にちかく「草莽(ソウモウ)の士」とよばれた人びとのいたことをわすれてはなりません。そのひとたちは、武士の身分ではなく、百姓や商人だったり、医者や学者、神官だったり、いろいろなひとがいました。わたくしはそのようなひとを、やさしく、「草の根の志士たち」とよんでいます。草の根の志士たちにも、多くの成功者がいて、このひとたちの伝記も多く書かれています。
 だが、そうしたなかで、だれかが計画して消してしまったひとも少なくありません。この「いい話ほどあぶない」でとりあげた相楽総三(サガラソウゾウ)そのひとりです。さんざん利用され、じゃまになったときは、申しひらきの機会さえもあたえられずに殺されてしまったのです。相楽の赤報隊のほかにも、九州での、花山院家理(カザンインイエマサ)を総裁としてはたらいた草の根志士たちも、やはりおなじような目にあっています。
 そんなひとたちは、おなじようにはたらきながら、ながい間、歴史のなかにしるされることはありませんでした。
 ところで、みなさんは、「勝てば官軍」ということばを聞いたことはありませんか。勝ちのこり、力をもった者が、いつも正しいとはかぎりません。きたないことをして勝つこともあります。ですから、人間は、正しいことを正しいとするか、強いものにしたがうかを、そのとき、そのとき、人間としてのルールにしたがってよく見きわめなくてはならないのです。

 わたくしがここで相楽総三と赤報隊の人びとをとりあげたのは、政治は民衆のためになくてはならない、という正しいことを信じて行動していながら、殺され、「賊」というよごれた名まで着せられた人びとを、うずもれたままにしておきたくなかったからです。じゃま者だから歴史から消してしまうとうことでは、人間として、すじ道がとおりません。
 それと、明治の「御一新」が、ほんとうはどういうものだったかも、知ってもらいたかったのです。
 この本をお読みになったひとは、相楽総三がなぜじゃま者にされたか、おわかりになったでしょう。
 ひとつは、「御一新」で、だれがいちばんはたらいたか…その手がらをあらそうようになってきたところで、薩摩など大きい藩のめざわりになったということです。草の根の志士たちがはたらきすぎていては、自分たちの手がらがかすんでしまうからです。あるいは、それだけでは、殺す理由はなかったかも知れません。しかし、ひとつの理由になったことはたしかです。
 それからもうひとつは、「年貢半減」つまり、力をあわせる者には、税金を半分にしてやるという、太政官のごさた書をもって民衆を手なづけて進んでいったということです。この、朝廷のみとめた命令が、じつは相楽総三とその同志のいのちとりになったのです。「御一新」のいくさをはじめたころは、官軍も、勝てるかどうか自信がなかったのです。そこで、中心になった人びとは、民衆を手なづける方法として、「年貢半減」を考えいたようです。
 しかし、相楽総三は、まずしさに苦しんでいる民衆のすがたをよく知っていて、「どうにかしてたすけなくては」と思っていたので、それを、心から信じて行動をおこしたのです。そのために、悪政をつづけてきた幕府をたおすことに、人いちばい熱心だったのです。
 だが、官軍がしだいに力をつけてきたとき、「年貢半減」の大号令がじゃまになったのです。それで、じゃまな者と、じゃまな号令をいっしょに消そうとしたのが、この悲劇なのです。しかし、官軍は、相楽たちを殺した後も東北のいくさなどで、官軍が不利になってくると、いつも、この「年貢半減」の号令を出し、百姓たちをみかたにつけ、いきおいをもりかえすと、またとり消しています。

 そんなすがたを見ていると、明治の「御一新」には、民主主義につながってゆく「四民平等」のこころは、まったくなかったのではないかということがわかってきます。だから、やがて、国民を戦場にかり立てて、外国とたたかい、力をほこってみせるような国に変わっていったのでしょう。
 相楽総三と赤報隊の人びとが、「賊ではない」とみとめられたのは、ずっとのちのことでした。しかし文部省がみとめるような歴史の教科書には、ついに、いちども登場してきませんでした。明治百年をむかえたとき、わたくしは、これを「草の根の志士たち」というドラマに書き、文化座のひとたちが全国を上演してまわりました。
 そのとき、多くの人びとが、感動の声をよせてくれました。
 しかし、なかには、「つくりごとだろう」といい、「官軍がまさか、こんなことを」ともんくをいってきたひともいました。でも、これは、まったくほんとうの、片いなかにうずもれていた歴史なのです。
この本をつくるにあたって、斎藤三勇さんが美しい版画を描いてくれました。斎藤さんは、文化座の公演のとき、岩倉卿の役で芝居をした俳優さんだったので、人物のこころや表情を、じつによく書きあらわしています。 
 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        闇の維新 相楽総三
                            一
 ・・・
 ええじゃないか、ええじゃないか
 おめこに紙張れ 
 破れたらまた張れ 
 ええじゃないか、ええじゃないか
 両手をあげ、卑猥な風に科を作って腰を振り、男はたいてい掻っ払った(カッパラッタ)緋縮緬(ヒジリメン)の女装、女は男装をして眼をいっときの解放感に恍惚とうるませ、老若男女、子供までまじえて踊り狂っている。
 ・・・

 --この騒ぎは、つい先月名古屋地方にとつぜん伊勢神宮のお札が降ったときから始まる。日々暗さを増す社会不安におののいていた民衆は

「なにっ、お札が降った? そいつぁまさしく天のお助けだッ!」   
 と、この降札に飛びついた。
 ・・・
 しかし、今回のこの騒ぎはどこか違う。前回の文政十三年から三十七年目と時期は早いし、踊りの先頭にたいがい浪人体の男が立つなど、なんとなく胡散臭(ウサンクサ)さがあるのだ。<岩倉公実記>に次のような記事がある。
「中山忠親、西郷吉之助、大久保一蔵、坂本龍馬など、王政復古の大挙を図議(トギ)するの時に於いて、相互に往来すること頻繁なり。而して幕府および会津・桑名二藩の偵吏(テイリ)が絶えてこれに気付かざりしは、つとめてその踪跡(ソウセキ)を韜晦(トウカイ)したるのみならず、あたかもこの時に当たり京師(ケイシ)に怪事(「ええじゃないか踊り」のこと)あり、それは八月旬に始まり、十二月九日王政復古発令の時に至って止む。けだし具視が挙動もこの喧閙(ケンドウ)のために蔽われて、自然と人目に触るることを免れたるなり」
 事実その通り、この莫迦騒ぎのさなかの九月には、薩・長二藩と長州・広島二藩の討幕の出兵密約ができ、同時に岩倉具視は王政復古の計画に着手。十月には薩・長二藩に討幕の密勅が下される。十一月には薩摩藩藩主島津茂久兵を率いて入京。そして十二月には王政復古発令。同時に全国諸藩に万機親裁を布告する。そこで(あたかも所期の目的を達成したように)ぴたりと「ええじゃないか」騒ぎは終結した。
 そこで、昔から、この騒動は旧来の「お陰参り」のように、民衆のあいだから自然発生したものではなく、誰か確たる黒幕がいたのではないか? という疑問がある。
 この年、慶応三年の十一月末、幕府軍と長州軍が対峙していた西宮で、この「ええじゃないか」騒ぎに遭遇した福地源一郎<幕臣・のち桜痴(オウチ)・新聞記者・劇作家>は、
「あのお礼降りは、京都方(討幕派)の人々が人心を騒擾(ソウユウ)せしむるために施したる計略なり」とその著書で断定している。
 ・・・
 ーー狂舞の先頭が宿の下にさしかかるころは、ウワーンという音の渦と、群衆の発散する熱気に寒気も薄らいでしまった。四郎が左側をみると、十間ばかり先に今日の午後お札が降ったという造り酒屋の店先には、豪勢にも四斗樽が五本も並べられ、その後ろで下女や近所の娘たちが法被すがたの男の身形(ミナリ)になり、向こう鉢巻きで団扇太鼓(ウチワダイコ)や空桶(カラオケ)を打ち叩いていた。
ええじゃないか、ええじゃないか
へのこに紙着せ
破れたらまた着せ
ええじゃないか、ええじゃないか
 この歌詞、実は松平春獄公史料や尊攘(ソンジョウ)党書類雑記によると、おめこの「お」は大を意味し、「め」は樹生芽、「こ」は公。これをつなぎあわせると、新大樹公(将軍の別称)となる。それから、「紙」は神、「張れ」は張る・振るう、「破れ」は敗れ、負くるで、これをまとめると、
「天下億兆に、もはや人望のなくなった新将軍徳川慶喜、こやつを神威を振張して伐(ウ)ち、敗れたらまた伐ち、これを万遍なく繰りかえせば、かならず勝利する」
 また次の「へのこ」は、夷の子に通じ、「着せ」は被せ蒙るで、つまり二番目の歌詞は、
「神威を振張して夷賊を伐つ」
 の意になるのだそうだ。だが、…群衆はそんな小煩(コウルサ)いことはナンにも知らない。ただ言葉どおり鄙猥(ヒワイ)に唄って踊って浮かれまくっているだけだ。
 小島四郎は旅すがたで階下におりると、入口で行列を見ていた父の知り合いで、上洛以来長いこと彼の身の安全を計ってくれていた旅籠(ハタゴ)の亭主に、
「じゃ、立つことにする。世話になったな、おぬしも達者でな」
 と笑顔で声をかけた。おやじは急いでふりかえると、
「お名残おしゅうございます。では道中ご無事でーー江戸のお父上さまによろしくお伝えください」
としんみりといった。
 以前は同志の打ち合わせには、時を見計らい笠で面をおおってこっそりと忍び出たものである。いまは堂々と素顔で群衆の列にまぎれこんだ。
 行き先は三条の旗亭(キテイ)である。そこには薩摩藩の西郷吉之助(西郷隆盛)と、彼の配下の益満久之助(マスミツキュウノスケ)・伊牟田尚平(イムダショウヘイ)、それに大久保一蔵(大久保利通)も激励にくることになっていた。
 西郷と何度か会って打ち合わせをすませ、謀略のおもむきはすでに充分承知している。今宵はその密命への旅立ちの、西郷の招待による餞(ハナムケ)の会である。いやむしろ死出の旅の送別の宴といったほうがふさわしいだろう。
 密命の内容は、将軍不在中の江戸、および関東一円の攪乱(カクラン)である。目的は武力討幕計画の実現を図るため、幕府を挑発して戦端をひらかしめることであった。
 先月九月七日、土佐の藩論を代表して上京した後藤象二郎は、西郷を訪ねて大政奉還建白のことを相談したが、西郷は時すでに遅く、薩長両藩の体制は討幕の軍をおこす段階まできていると後藤の申し出を断った。しかし後藤は諦めずふたたび西郷を訪ねて討幕の延期を求め、ついに理詰めで西郷の承諾を得てしまった。
 そこで後藤は、老中板倉勝清(カツキヨ)をたずねて老公山内容堂の大政奉還建白書を提出した。
 その建白書にしたがい、土佐案では大政奉還後、列藩会議を開きその議長には旧将軍を就任させるということになっていたからだ。西郷・大久保が、頭脳明晰(メイセキ)な策士とみていた慶喜が列藩会議の議長になってしまえば、これを幕権強化の手段に利用しないはずがない。そうなれば大政奉還は有名無実なものとなり、なんのことはない、徳川幕府の形をかえた存続になってしまう。
 もうこうなったら、その土佐案が固まらないうちに一日も早く幕府と戦端を開かなければならない。西郷と大久保はそこで、
「最早かくなる上は、錦の御旗獲得と、幕府挑発戦略以外無い!」
 と、宮廷工作と江戸内外の攪乱戦術という二面作戦をたてたのだ。そしてこの<江戸攪乱、幕府挑発策謀>の指導者に、草莽(ソウモウ)の志士である小島四郎<江戸に入ってから相楽総三(サガラソウゾウ)と変名>を西郷らは起用したのだ。
 料亭の裏口につくと、慎重に辺りをうかがってからスッと入った。火を消した上がり框(カマチ)の暗がりに潜んでいた西郷の身辺警護の若侍いが、つと出てきて無言で四郎に会釈(エシャク)し、彼をともなって奥まった部屋に案内した。
 障子をあけると、西郷はこちらをふりむき、いつもと変わらぬ穏やかな笑顔を泛べてうなずいた。それから、
「さっ、こちらへ直(ナオ)られい」
 と四郎を前の座に手招(テマネ)きし、おもむろに威儀を正すと、
「お待ち申しておりもうした」
 とまるで目上の人に対するように深々と頭を下げた。四郎は恐縮(キョウシュク)して、急いで座ると両手をついて挨拶を返した。それから、
「いやあ、乱痴気(ランチキ)騒ぎの連中にまぎれこんでやってきましたので、だいぶ遅れてしまいました。申し訳ございません」  
 きびきびした口調でいい、人懐(ヒトナツ)こい微笑みを泛べた。先着していた益満久之助と、伊牟田尚平が、
「おかしげな世になり申したのう」
「いや重畳重畳、この騒ぎで新撰組も見廻り組もお手上げだろうて」
 それぞれがおどけていうと、あとは若々しい爆笑になった。
 西郷は正座したまま先に徳利をとり、四郎の杯になみなみと酒を満たした。「くだんの件、よろしゅう、おたの申すーー」
 あとは何もいわなかったが。だが、言外に明らかに(貴殿の江戸での働きに、討幕の成否のあらかたがかかっておりますんでのう……)といっていた。
 四郎はそれを聞きながら、やはりこれを選んでよかったんだと思った。じつは、彼はついこの間まで、公卿の鷲尾隆聚(タカツム)をいただき、近畿地方で挙兵を目論んでいた討幕運動に参加しようとしていたからだ。
 酒宴はやがて佳境にはいり、ことがことだけに女は呼べないが、江戸ぐらしのながい益満と伊牟田が、年季のはいった端唄(ハウタ)や新内節を小粋に唄って座を盛り上げた。
 そのころになって、大久保一蔵が遅れてやってきた。平生、寡黙な彼にはめずらしく四郎の手をかたくとって、
「江戸からの吉報、ひたすらお待ち申しておりますぞーー」
 と熱っぽく言った。
 このとき、岩倉具視も激励にやってきたという説があるが、謀略の規模の大きさと重要さからみて、彼も発想段階から関わっていたのではないか? その後の岩倉の挙動からして充分考えられる。
 益満久之助は、すこしまえ西郷に呼ばれて、
「おまえ、すまぬが、江戸にいってくれ。かねておまえは同志仲間も広いから、江戸へ出て浪士らとまぜっかえしてこい。そうすれば、幕府はかならず兵をむけてるであろう。そのとき出たり隠れたりして充分にまぜっかえしてくれ。その挙句は抵抗してこい」
 と申しつけられていた。
 彼は、薩摩藩士益満新之丞の四男として天保十二年に生まれた。幼少時より江戸で育ち、藩から隠密蝶者(オンミツチョウジャ)としての訓練を受けている。剣術は長沼流をまなび、その道場で幕府直参山岡鉄太郎と知り合い懇意になった。
「西郷は、勇胆で陽気な益満を好んでよく遣い、彼もそれはそれはよく働いたそうです。益満はその時分江戸の八官町辺の旅宿に泊り、そこを常宿としているうちに、その家の娘が女房のようになって子供までできたそうです。金はたくさん持っていても、みんな気前よく子分たちにわけ与えたそうです」  
 という市来四郎(薩摩藩士・東京史談会中心人物)の話が残っている。
 伊牟田尚平は、天保四年鹿児島の在で生まれた。彼の家は代々加持祈祷をこととする山伏であったが、彼はこれを嫌い、島津家の支族肝付(キモツキ)家の家来となり、やがて島津斉彬の侍医、東郷泰玄に医学をまなび医者になった。
 その後脱藩して攘夷運動に加わり、万延元年十二月五日、清川八郎と共にアメリカ公使館の通訳ヒュースケンを斬った。これも市来四郎の話だが、
「伊牟田は、いまで申す壮士のようなものでございました。私もよく付き合ったので承知していますが、<彼は陪臣(マタモノ)なので>城下の者よりやや僕役され、刺客などにも遣われたものでございました。とはいえ、伊牟田は、義のためには一歩も引かぬところのある男でした」
 といっている。誰がみても、乱世向きのこうした仕事にはぴったりの男で、そのうえ伊牟田は益満の子分ともみられていたので、西郷にはよけい適任者と映ったのだろう。
 --小島四郎ら三人は、その夜深更、京を旅立った。
 中村半次郎(のちの桐野利秋)の京在日記の慶応三年十月三日の項に、(益満休之助ほか二名、今日より江戸へ差立てられ候こと、尤(モット)もかの表において義挙賦(サズカ)り云々……その夜は、満天これ銀砂をばらまいたような星空であった)と記してある。

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