真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

万宝山事件の情報操作と韓国内中国人襲撃事件

2011年07月24日 | 国際・政治
 「万宝山事件研究」(第一書房)の著者「朴永錫(パクヨンスウ)」は、同書の中で、満州事変の導火線が万宝山事件である、と言われていることについて、間接的な導火線ではあっても、直接的な導火線とはならなかったと断定している。日本の軍部は、万宝山事件をきっかけに、中国における軍事行動を画策したが、韓中両国の冷静な対応によって、事態が予想以上に速やかに収拾され、事件が拡大発展することがなかったからである。
 当初、日本領事館の情報をそのまま号外で発行した朝鮮日報などの言論機関も、その後事件の真相把握を訴え、事態収拾の必要性を繰り返し、諸団体が華僑たちの慰問や保護救済に動いたのである。中国側もそれを受け、「このたびの事件に際して、われわれに懇篤なる慰問と救恤の金品を贈られた朝鮮の諸団体と同胞各位に、一々拝眉謝礼申し上げられないので先ず、東亜日報の紙上を通じて衷心からなる感謝の意を伝達してくれることを切望します。1931年7月29日  朝鮮京城中華商会 代表 宮鶴汀 司徒紹 周慎九  東亜日報座下」なる文章を届けるなど、事態収拾に努めたのである。
 「朴永錫(パクヨンスウ)」は、万宝山事件をきっかけとして韓国内で発生した華僑襲撃事件が、拡大発展して中国東北地方における韓国人襲撃事件にいたれば、日本はある意味で、合法的に軍事行動を取り得たのであり、柳条溝事件をでっち上げる必要はなかったというのである。
 下記は、事件発生の経緯や事態収拾の動き、それに、当時の、日本国内における事件に関わる講演会の講演内容要旨(下段)の一部抜粋であるが、講演内容要旨は、まさに著者「朴永錫(パクヨンスウ)」の指摘が、正しいことを裏付けるような内容である。
---------------------------------
         第3章 万宝山事件による朝鮮の中国人排斥事件

第1節 韓国人の中国人襲撃

 万宝山事件がその真相とは異なり、朝鮮に間違って伝えられた経緯は次の如くである。
 実際、万宝山事件は従来の中国東北地方に於いて屡々発生した韓中農民間の紛争と同じものであった。人命の被害こそなかったが、同地方への侵略の口実を求めていた日本の関東軍では、この事件を利用して、長春の領事館に指令を下して、多くの韓国農民が被害を受けたものの如く朝鮮に報道させたのである。これに従って日本領事館では、朝鮮日報の当地支局長の金利三に虚偽の情報を流したのである。金利三は日本領事館の情報をそのまま信じて、現地にも行かず、本社に送電してしまった。


 当時の朝鮮日報社では、金利三が送電した内容をそのまま号外として発表してしまった訳であるが、その理由は、1930年当地に於いて金佐鎮(民族系列の武装独立運動者)が暗殺された時、金利三の情報が極めて正確、且つ迅速であったので好評を博していたからである。彼に対する信望が厚かったので、その情報をそのまま号外として発行したのである。

 それに1925年頃から中国の東北地方では韓国人を日本の帝国主義的侵略の走狗と看做して、韓国人に対する追い出しが益々激しくなると共に、韓中農民間の衝突も屡々であったので、金利三の送電内容を検討する余地もなく号外として発行してしまったのである。
 朝鮮日報の万宝山事件に関する号外の見出しは、


 「中国官民800余名と、200同胞衝突負傷 駐在中国警官隊との交戦急報により、長春日本駐屯軍 出動準備 三姓堡に風雲漸急」
 「対峙した日・中官憲1時間余交戦 中国騎馬隊600名出動 急迫した同胞の安危」
 「撤退要求拒絶 機関銃隊増派」
 「戦闘準備中」


 即ち、中国の東北地方では中国人たちによって韓国農民が、莫大なる被害を蒙っており、相当に危急なる状況が展開されているものの如く報道されると、これを見た国内の韓国人たちは、華僑を迫害した。
 かくして、韓国内に於ける華僑の襲撃事件は、7月2日の仁川をはじめとして7月10日までを絶頂に、全国的に拡大したのである。その迫害の内容は中国人の殺害、家屋の破壊、財産の奪取等で、襲撃された中国人たちは本国に帰還するか又は集団的に避難退避するしかなかった。被害が甚だしかった所は仁川とソウル、平壌等の大都市で、その中でも平壌が最も甚だしかった。又地方別に見ると南韓よりも北韓の方が甚だしかった。しかるに、このような現象は、大体に於いて北韓が、中国の東北地方と隣接していて事件を同地方に拡大させるのに有利であったので、日本帝国主義がそのように誘導した為であると言われている。


 即ち、韓国で迫害を受けた中国人たちが、帰国して報復するのに、地域的に東北地方が最も有利であったからである。仁川や鎖南浦でも迫害が甚だしかったのは、やはり中国へ帰り易い所であったからと言われている。

 又朝鮮総督府に於いては、華僑の襲撃事件を鎮定するよりも、中国人を帰国するように周旋したのである。
 日本帝国主義が陰謀した通りに、中国の東北地方に於いて韓国人に対する報復事態が発生するようになった。即ち、奉天の教育会館で平壌から避難した華僑たちが、朝鮮での華僑襲撃事件を訴えて、これに対する報復として在満韓人をそのままにしては置けないと主張したところから、事態は極めて危急を告げることになったのである。この事態に直面した牧師の白水燁と東亜日報記者の徐範錫は、中国人の有志である遼寧国民外交協会主席の譚王伙、閻宝衡、蘇上達、王化一等を訪問して、1931年7月7日付の東亜日報に掲載された「2千万同胞に告げます。民族的な利害を考えて空虚なる宣伝にのるな」という社説を読んで聞かせながら、彼等を説得、今般の事態は日本帝国主義の陰謀によって、でっちあげられたものであることを明らかにしたのである。又彼等は奉天省長の臧式毅にこの事実を知らせて、奉天省管内の中国人たちに韓人に対する報復行為を執らないようにさせることによって、韓国人と中国人との衝突の事態を防止するのに努力したのであった。


 ・・・(以下略)

第2節

 韓国における万宝山事件への報復として中国人排斥事件が起こり、中国人に対する殺害、家屋の破壊、財産の略奪等の騒乱状態が展開されたのであった。斯様な事態収拾の責任は朝鮮総督府にあったにも拘わらず、彼等は事態を収拾するどころか、却って助長して多くの中国人を帰国させることによって、中国東北地方での報復事態を誘発させようと努力していたのである。事実、当時の状況を見ると日本人たちが韓服に変装して竹槍を持ち、韓国の不良青少年たちを扇動して、華僑たちを襲撃したこともあった。朝鮮総督府当局の態度がこうであったから、事態の収拾は韓国人自身の手によって行うより外なく、言論機関の東亜、中外、時代日報、それから社会団体及び及び民間有志たちの努力によって収拾することになった。


 先ず朝鮮日報では、7月2日と3日の号外が事態を誘発する結果を招いたことを知ると、即時に1931年7月4日の社説「心痛なる在満同胞の運命、綿密を要する呼応対策」で、在満同胞の擁護は在朝鮮中国人の安全を考慮することが、その正常化の一方便であることに留意しなければならないとし、中国人に対する襲撃は穏当でないと警告説得したのである。最初から慎重な態度を執っていた東亜日報では、万宝山事件と韓国での華僑襲撃事件を報道しながらも、事件の真相を把握して慎重に対処することを促した。

 ・・・

 東亜日報と朝鮮日報は事態収拾の為に、事件の真相とその影響を国民に説得したのであった。それに中国の吉林では独立運動の志士たち(主に万宝山事件討究委員会の委員たち)が、万宝山事件の真相と日本帝国主義の陰謀及び朝鮮に於ける中国人排斥事件が在満韓人に及ぼす影響を知らせる為に、極秘裡に国内へ朴一波を派遣潜入させたので、事件の真相が一層明確になり、新聞等も自信を持って事態の収拾に乗り出したのである。
 一方、韓国の民族指導者たち及び社会団体も事態の収拾に乗り出したが、その内容は、大体華僑襲撃の中止を訴え、避難民の救済と華僑たちの生活の安全回復、万宝山事件の真相把握と在満同胞の擁護の為の対策等を講究するものであった。


 ・・・
 
 7月11日には朝鮮各界連絡協議会の名義で、今度の事件は韓国人全体の意思ではないことを、国の内外に発表すると共に、今後の韓中両民族の親善を取り戻す為の努力として、韓国人の真意を中国国民に伝える為に、声明書の全文を南京の国民党中央通信社に打電したのであった。その声明書の全文は次の如くである。

     声明書

 各団体に所属するわれわれ一同は、今般の万宝山事件の導火線として、仁川、京城、平壌等の地に発生した中国民に対する不祥事に対して、誠心誠意深く遺憾の意を表し併せ、この不祥事を発生せしめたものが決して朝鮮民族全体の意思ではないことを声明する。
 歴史的、地理的、文化的、経済的に最も密接なる関係を持つ槿域、漢土の両民族は、現在に於いても将来に於いても最も親密なる友誼を維持して、互いに扶掖する必要がある境遇に処していることをわれわれは確信するところであり、今般の全国的なる不祥事が却って両民族の親善を意識的に増進し且つ企図する契機になることを信ずる。又中国の国民は必ずわれわれ朝鮮民族の真意を了解して、今般の不祥事の記憶までも快く忘れるのみならず、在満百万朝鮮人に対する本来の疑惑と見通し得なかった誤解までも捨てて、両民族の友誼を遮る要因を一掃する雅量と好意を抱いてくれるものと信じ、延いては満州在住朝鮮人同胞の問題を合理的に解決する契機になることを懇望する次第である。最後にわれわれはわれわれが最も好意を抱く善隣の友が1日も早く前日の如く各々斯業に安んじ、幸福で繁栄ある生活を営まれることを祝願する。
 南京国民党   中央通信社    貴下


 貴社を通じて全中国民衆に告げます。われわれは朝鮮各地で発生した不祥事に対し、心からなる遺憾の意を表します。この事件は決して朝鮮民族の真正なる意思を代表するものではありません。将来に於いて両民族は一層親密の度を加え、満州の朝鮮人の困境を解決するに於いて相互協力することを切望します。これを国民政府、国民党、各新聞社等に伝えて下さい。
                                朝鮮京城各界連合協議会


 一方、京城各界連絡会は7月16日、全国で一番甚だしい被害を蒙った平壌の華僑たちを慰問している。……
 ・・・
---------------------------------
 第5章 万宝山事件と韓国における中国人排斥事件が日本に及ぼした影響

第1節 日本帝国主義の大陸侵略に於ける前衛団体の活動


 ・・・
 これら団体の万宝山事件と韓国に於ける中国人排斥事件に対する日本国内での講演、声明、決議文等には、彼等が侵略の推進過程に於いて国民の関心を惹く為に努力した跡が歴然と現れている。その中で幾つかの団体が主宰した講演会を先ず検討する。

 東亜振興会の主催で7月18日、東京の上野公園の自治会館に於いて、満鮮問題国民大会が開かれ、講師には、菊池武夫(退役陸軍中将、男爵、対外同志会幹部)、朴春琴(親日朝鮮人、代議士、相愛会副会長)、石塚忠(日蒙貿易協会理事長)、佐竹令信(満州青年連盟代表)、遠藤寿儼(退役将官)金健中(東亜保民会理事)、佐藤清勝(退役陸軍中将)、飯野吉三郎(大日本精神団総裁)等が名を連ねた。このの時の司会者が橘富士松(振興会主幹)であり、内藤順太郎(対外同志会幹事)を主席に推戴して、西山陽造が、大会開催の経過報告を行った。即ち、中国の東北地方に於いて中国の官憲たちが韓国人を圧迫した為に万宝山事件が起きたのであり、又同事件が原因で韓国に於ける中国人の排斥事件が発生したのである。しかるに日本の政府当局はこれに対する事前の対策を講究しなかったので、日本国民が団結して東洋の平和と難局を打開する為の対策を樹立せんがために大会を開くことになった旨を報告したのである。

 その趣意書は事前に管轄の上野警察署に提出すると共に、更に一通を外務省亜細亜局長の谷正之に、一通を中国公使館へもそれぞれ提出している。この日の参会者は約650名程度で、会社員が約40%、学生が約30%、その他労働者が約30%で場内の雰囲気は相当に緊張したものであった。会議の進行途中金岡淳(韓国人)の緊急動議で決議文が作成されることになり、その決議文は橘富士松が20日に外務省に提出している。その決議文の要旨は現内閣の軟弱外交(幣原外交)が日本の威信を失墜させ劣等の地位に転落させたのみならず、日本の建国以来の歴史に汚点を残したので、われわれは憂国の衷情から自決することを期すると決議したのである。講師たちの講演の要旨は、

 1、菊池武夫──中国人たちは日韓併合以来韓国人が日本臣民になったことを嫉視して、中国の東北地方から韓国人を追放した結果として派生したのが、万宝山事件である。現政権が政権維持にのみ没頭した為、外務当局は中国の東北地方問題に対して何等の対策も講究しなかったし、又中国政府の外交は欺瞞外交で一貫して来た。しかるに現日本政府は中国の東北地方の問題を解決する能力のない軟弱外交である。
 2、朴春琴──現在世間の人たちが朝鮮人と呼ぶのは内地(日本)人を四国人、九州人等と区別するのと同じことである。日韓併合以来朝鮮人は日本人と何等の差別もなく同等になった。そして日本人(内地人)も内鮮融和を主張してその実現を期している。現在中国の東北地方に居住する韓国人約30万が中国に帰化しようとしているのは、臨時便法としてやむを得ないものである。今度の両事件に対して外務省が賠償金を中国側に支払う用意であるという説があるが、その原因を勘案すると寧ろ中国政府から賠償を取らねばならないことである。
 3、石塚忠──現在日本の内閣は自分たちの政権争奪のみを目的に外交を行って来たので、大凡に於いて軟弱であるのは事実である。又韓国人たちが中国の東北地方に於いて多くの迫害を蒙る等、日本帝国の威信が失墜していることも事実である。今日本の二大政党は勿論、政治を論ずる者は大いに反省して日本帝国の進路を図る前に、人口問題と食糧問題の二つを解決する為に、満蒙に進出して、確固たる満蒙政策の樹立に邁進しなければならない。


いうものであった。
 この外に佐竹令信、遠藤寿儼、金健中、佐藤清勝、飯野吉三郎等の演説もあったが、その内容は大同小異である。
……
 ・・・(以下略) 


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大陸政策の一環「万宝山事件」の詳細

2011年07月20日 | 国際・政治
 万宝山事件に関しては、当時吉林総領事であった石射猪太郎が、その著書「外交官の一生」(中公文庫)で「非はわれにあり」と書いている。また、「借地契約そのものの合法性にも疑問があった」とも書いている。にも拘わらず、彼は日本の立場を擁護して苦闘したのである。そこで、「万宝山事件」とはどのような事件であったのか、さらに、その詳細を調べるために「万宝山事件研究」朴永錫(第一書房)を手にした。そして、「万宝山事件の経緯」と題された文章から、地域の所在について書いた部分のみをカットして抜粋した(下 記)。
 著者朴永錫(パクヨンスウ)は高麗大学大学院史学科卒の韓国の歴史学者である。当時の日本・韓国・中国の三国を幅広く研究し、万宝山事件の事実経過はもちろん、歴史的背景や事件後の中国人襲撃事件とその事態収拾の状況、中国における排日運動と日中間外交交渉などについて、様々な事実を明らかにしつつ考察している。なかでも、万宝山事件が韓国内における「中国人襲撃事件」へと発展したのは、関東軍を背景とする関係機関の情報操作の結果である、という指摘は見逃すことができない。次の課題としたい。
---------------------------------
               第二章 万宝山事件の経緯

第一節 万宝山地域の土地商租権問題


 ・・・
 事件発生の原因は、長春に居住する郝永徳が日本側と密かに結託して個人的に長農稲田公司を設立した後、1931年4月16日に、伊通河東側の三姓堡官荒屯一帯を蕭翰林等の12戸と10年期限契約を締結したことから始まる。「地主蕭翰林張鴻賓等12人与郝永徳所訂租地契約」の最後の第13項には「此契約於県政府批准日発生効力如県政府不准仍作無効」と明記されていたのであるが、このような条項があったにも拘わらずそれを履行せず、郝永徳はこの地を更に「郝永徳与鮮人李昇薫等9人所訂転租契約」を結んで韓農188名を呼び寄せたのであった。

 かくして、韓人は到着するするや否や用水路の掘削工事に取りかかったのであり、伊通河を塞き止めて水路を設けたのである。従って中国人の抗議が矢継ぎ早に起こり、中国の警察も現地から去るよう屡々通告したが、応じなかった。
 更に工事場の中間地帯は中国人地主の孫永清等41戸の所有地であったが、郝永徳と韓農たちは開墾地の中国人地主の諒解も得ずに、20余里の水路と中国人の土地40余晌を掘り返してしまった。このことから事件は漸次加熱し始めたのである。


 この時、長農稲田公司経理の郝永徳が租地契約の第13項に明示された長春県政府の許可を得ずして更に転租したのは、或る陰謀から故意にしたものと考えられる。それは長農稲田公司なるものが、日本の帝国主義的大陸侵略の一環として、日本の資本を密かに滲透させる為に利用して作った御用会社であったからである。その裏付けとして次の如き、中国国民党吉林省党務指導委員会からの、8月14日付の万宝山事件調査報告書第2項を挙げることが出来る。

 秘密情報によると日本人は伊通河に大水路17個所を作り、沿道に稲田1,000晌から2,000晌の水田耕作を経営する土地を確保し て、韓農2,3万名を収容せんとしている。又南満路を延長して馬家哨口に至らしめ、大倉庫を作り糧穀を買収備蓄して、日本領事館と 警察の支部を設置せんとする陰謀から、極秘裡に詳細なる測量まで終えた。次に伊通河の堤を築き水路を掘るのは、彼等の意図した工事 の一つに過ぎない。かくして長農稲田公司を中国人の郝永徳をして設立せしめて、「長」は長春、「農」は農安という意味で、長農稲田公司と呼ぶことになった。

 これで見ても日本帝国主義が、爾後の関東軍をはじめとする日本人の食糧を現地調達する為に、長春から農安までの大規模農場を開拓する陰謀が介在していたことが分かる。
 しかし韓農の立場から見ると原租地者が第三者に再商租したことになるが、この第2契約者である韓農としては、その実施に於いて長春県政丁の承認を必要とする規定はなかったのである。従って、県政庁からは中国人の郝永徳が許可を得て韓農に転租すれば良かったので、一切韓農にはその責任がないものとみなければならない筈である。しかし中国側は郝永徳が韓農と転租契約を締結したけれども、原租地契約も県政庁の許可を得ていないので無効であり、転租契約を結ぶ権利がない郝永徳が韓農と締結した転租契約は、当然無効であると主張している。


 そして中国側は郝永徳が故意になしたことで、既に日本の帝国主義者と内通して事前に謀議したものとみたのである。又ここで中国公安署側が韓農の水路工事を中止させながら、転租契約者の中でも、李錫昶をその主謀人物と看做したところをみると、李錫昶等の韓国人も、その陰謀に主動的な役割を果たしたものといえよう。李錫昶が関連しているとみられるのは、日本帝国主義の資本が中国人郝永徳と同時に韓国人とも結託したかも知れないが、大部分の韓農たちは稲栽培にのみ利用されたものと推察することができるからである。
 
 一方、この万宝山地方での韓中両民族農民の衝突は、日本帝国主義の大陸侵略上に於いての土地商租権の問題に帰結するものでもあった。郝永徳は中国人地主蕭翰林、張鴻賓等の12名と租地契約を結んだのであるが、その租地契約の第13項には、「この契約は県政庁の批准の日から効力が発生する。若し県政庁の許可を得られない場合は無効である」という但し書き付いている。しかるに郝永徳は県政庁の許可を得ていない租地契約を以て、再度在満韓人の李昇薫等の9名と転租契約を締結したのであった。だから、韓農たちを取り囲む日中間の土地商租権の紛争は、ここに於いても尖鋭化されることになった。

 特に東三省当局や南京政府としては、排日運動が、即ち在満韓人への圧迫と追放及び土地の外国人への貸与を国土盗売法によって処断することだと考えていたのである。このような時に、郝永徳が日本帝国主義と結託して張春県政庁の許可を得ずして、転租契約を結んだということは、中国側としては大変なる違法行為であった訳である。しからば先ず租地契約上の13項目を対象にした日中間の是非を究明することによって、転租契約が成立するか否かに就いて検討することにしよう。

 リットン報告書によると、郝永徳は、本租地契約が張春県長の許可を得ることによって有効であるにも拘わらず、許可を得ずして韓農たちと転租契約を結んだという。だから転租契約は無効だといえるが、租地の契約自体は中国人同士の約束だともいえる。郝永徳と韓国人との転租契約には、別途の但し書きが付いていなかった。即ち、原商租者が第3者に再商租したことになっているのである。この第2契約者はその締結に於いて、官憲の承認を必要とする規定はないのである。

 一方、中国側では、長春市政籌備処長が遼寧吉林政府の主席及び吉林省政府の報告によって発表されたところによると、租地の契約を県政庁の許可を得ずして転地契約をしたという。中国側の外交文書には、租地の契約は長春県長の許可を得ていないから無効であるとの主張に反して、満州青年同盟の長春支部長の小沢開策の現地の真相報告によると、許可を得ているとのことであった。即ち、伊通河流域は水田の適地にして万宝山一帯の東支線一間堡の付近は、10年前から在満韓人、又は、日本の大倉組等の日本人の間で、調査及び計画がなされたが1931年までその実現をみるに至らなかった。しかし、その理由は資金の事情もあったが、灌漑用の水路等がその主な原因であったといえる。その所へ中国人郝永徳が沈宣達(韓国に帰化した中国人)、それから、姜直順等と親しい間柄であったので、1926年、一間堡に3人は共同投資して農場経営を目論んだが、容易ならず失敗している。その後万宝山の水田開発計画を立て1931年、吉林省政府と万宝山第3区公安局から正式に許可を得たということになっている。
 
 以上の如く中国側に於いては県長の許可を得ていないから無効であるとの主張に対し、日本側に於いては正式に許可を得たと主張しているのである。しかるに第3者の立場で調査したリットン報告書には、許可を得ていないことになっている。従って総合的な検討を加える時、許可を得ていないという中国側の主張が客観的に妥当視されるものと考えられる。

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉林総領事と万宝山事件

2011年07月13日 | 国際・政治
 満州事変には「前奏曲」といわれる2つの事件があった。中村大尉事件とこの万宝山事件である。その前には、墳墓発掘事件があり、吉林省政府の抗議によって吉林総領事館の長岡副領事が吉林を去っている。ここでは、「外交官の一生」石射猪太郎(中公文庫)から、万宝山事件の部分を抜粋するが、書き出しの「続いて起きたのが…」は、万宝山事件が、この墳墓発掘事件に続いたことをあらわしている。
---------------------------------
                  吉林総領事時代

万宝山事件──非はわれにあり

 続いて起きたのが万宝山事件である。長春の西北数里の万宝山に、長春在住の朝鮮人達が水田経営の目的で、中国人から広面積のの借地をしたのに端を発したのである。借地契約そのものの合法性にも疑問があったが、朝鮮人達がその開墾した水田に引水すべく伊通河に至る一里の間に無断で水溝を掘り、伊通河に勝手に堰を設けんとするにいたって、長春県長が干渉し、巡警隊を繰り出して現地を押え、朝鮮人を追い払おうとした。訴えを聞いた長春領事館は警察隊を派して現地保護と出たので両々対峙の形勢が出現された。長春田代領事と長春県長との間に折衝を重ねたが、折り合いがつかず、問題はついに吉林省政府と私とに移ってきた。


 長春領事館のとった現地保護的措置は、日本側新聞の指示を受け、なかんずく田代領事の朝鮮での名声は英雄的になった。現地では殺傷がなかったのに、朝鮮各地では在留中国人に対して報復的大虐殺が行われた。

 私の見るところでは、非は現地朝鮮人側にあった。無断で他人の所有地に水路を開設するさえあるのに、河流を勝手に堰止めるのは、どこの国の法律でも是認するはずがない。しかし、もう引っ込みがつかなくなった長春領事の立場を、覆すことは許されない。私はある日のごときは坐り込み戦術をとって、9時間もぶっ通しで交渉員に折衝したこともあったが、先方は飽くまで頑強だ。省政府側は借地権は否認しないが、河水の堰止めは認められないという態度を堅持した。

 だから伊通河からの引水を断念して、井戸掘さくに成功すれば問題は自然に片づくので、私はたびたび田代領事と協議して井戸掘さくと、貯水工事の計画を練ったが、実現の見込みが立たなかった。地下水の有無が疑問であり、仮にあったとしても水量が疑問であったからだ。

 一方万宝山現地では、双方の警察隊が日夜対峙を続けた。長くそのままにしてはおけない。私は省政府に交渉して、双方同時に警察隊を引き、問題の解決を後日の交渉に待つことにした。五分五分の引き分けとなって、現場の確執は解けたが、問題はその後の交渉においても未解決残り、やがて満州事変が来た。1931(昭和6)年夏の出来事であった。


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳条溝事件直後の吉林省政府独立の真相

2011年07月13日 | 国際・政治
 柳条溝事件直後に、吉林省政府が国民政府からの独立を宣言する。それがどんなものであったのか、「外交官の一生」石射猪太郎(中公文庫)が明らかにしている。著者石射猪太郎は、当時吉林省総領事であり、職責上、懸命に筋を通そうと努力したことが分かる。また、その文章からは、日本軍の武力を背景とした理不尽な所業に対する怒りが伝わってくる。ピストル・ポイントの独立宣言だったというのである。
---------------------------------
                  吉林総領事時代

ピストル・ポイントの独立宣言

 9月22日の夜、熙参謀長が私を来訪した。日本軍が吉林軍の武装を解除すると言い出した。直接それを実行されると、屈辱を感じて吉林軍中には抵抗する部隊がでるかも知れない。ついては武装解除は、省政府自身の手で穏やかに実行したい。師団長に願ってみてほしいとの懇請である。

 私はすぐ師団長を往訪して熙参謀長の願意を伝えると、師団長は直接会って話をつけたいといい、会見の時日を翌日午後3時と指定した。
 翌23日定刻前に、熙参謀長が施交渉員と通訳をつれてまず私を来訪した。私は一行をつれて名古屋館に行き、師団副官の案内で2階の一室に通った。師団長と師団参謀長とを中心に、数人の参謀達が待ち受けていた。儀礼が済んで座が定まると、師団長が
この会談は軍事的なものであるから、外交官は席をはずしてもらいたいという。そこで私と施交渉員は別室に引き取った。

 会談が思ったより長びくので、様子を見に行ってみると、会談の室はドアが固く閉じられ、廊下に数人の将校が、銘々抜身の拳銃を提げて立っている。何故の物々しさか不思議に思いながら、私は別室に戻った。そのうちに話がついたと見えて熙参謀長と通訳官が降りて来て、あたふたと自動車で帰った。施交渉員がこれに続いた。話がついたものと思ってそのまま私も領事館に引き取った。

 間もなく張秘書から情報が届いた。今日の会談で、熙参謀長は吉林省の即時独立宣言を師団長から要求された。居並んだ参謀連から「独立宣言か死か」と拳銃を突き付けられての強要なので、熙参謀長は絶体絶命これを承諾した。ただし、吉林軍の武装解除は省政府の手に委ねられた、という情報である。会談中廊下の抜身の拳銃がピンと私の頭に来た。

 時すでに日本政府の事件不拡大方針が宣言され、その方針に則して対処せよ、との訓令が、私に達していた。私は、吉林省独立宣言の強要を看過できないと思った。
 その夜私は師団長を名古屋館に訪問した。師団長は日本間で和服に寛いで、師団参謀長の上野良丞大佐を相手に一杯やっていた。
 私はすぐに口を切った。吉林省を独立させる工作は中国への内政干渉として、由々しい問題を引き起こすであろう。内面の強要工作をいかに厳密にしようとも、間もなく世間に周知して、日本政府の対外的立場を不利ならしむるは必然である。事件を満鉄沿線に局限して、早急に局面を収拾せんとする政府の方針に破綻を来す因ともなるであろう。私の職責上この独立工作について再考を求めざるを得ない、と申し入れた。


 多門師団長は静かに耳を傾けた後、貴官のお話しはよく了解できるが、自分の関する限り再考の余地はない、すべて関東軍司令部の命令に出ずるところであるから、再考は軍司令部に向かって求められるより他ないであろう。しかし貴官は、独立工作は軍人どもがやったもので、自分は関知しなかったことだとして黙過されては如何といった。私は私の職責がそれを許さないと応酬したが、話は物別れにに終わった。
 事態を詳説した私の報告電が、その夜本省と奉天総領事とに走った。


 多門師団長は、チャップリンの名映画「担え銃(ショールダーアームス)」に出てくる小男のドイツ士官を思わせる矮人だった。この時以後たびたびの会談で得た私の印象では、物ごしが軟らかで智略に富む老練な将軍であった。将軍が一小隊長として日露戦争を戦った記録『弾雨をくぐりて』も、かつて私の愛読した好著であった。軍隊では実戦の経歴が重んじられるので、部下の連隊長達は将軍に推服しているという噂であった。多門師団長は、この後、馬占山軍と嫩江で戦った。
 吉林省政府は熙治氏を省長とし、9月28日、国民政府から独立を宣言した。いわゆる拳銃口(ピストルポイント)の独立で、
東三省独立の先駆をなしたのである。


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡田酉次主計将校 南京攻略の回想

2011年07月03日 | 国際・政治
 「日中戦争裏方記」(東洋経済新報社)の著者岡田酉次は、自らを「裏方」と位置づけ、主計将校としての仕事に徹したようである。下記の文からも、そのことが分かる。それだけに、彼が「…この時数名の敵兵が捕虜になったとのニュースが伝わると、特に下士官連中がおっとり刀でこれに殺到せんとする光景を見せつけられ、戦場ならではの思いを深くした。…」、と記している事実を見逃すことができない。南京大虐殺当時の日本軍の状況の一端を示していると思うのである。

 また、当時南京にあった彼が、「…あるいは世論を騒がせたあの日本武士道にもあるまじき南京虐殺につながって行ったのかもしれない。…」と記述した事実からも、比較的冷静に戦況をながめていた彼の無念の思いが伝わってくる。松井大将の乗馬姿の南京入城写真を見ながら、松井石根大将の心中に思いを馳せている部分は、まさに南京大虐殺に対する彼自身の思いなのであろうと思う。
----------------------------------
                 Ⅱ 日中開戦の初期

15 裏方さん南京攻略に参加


 ・・・
 しかるに、たまたま11月5日杭州湾に上陸した第10軍(柳川兵団)では、同19日朝全力を挙げて南京に向かって進撃するよう隷下各部隊に発令していた。そこで参謀本部でも、種々検討勘案のうえ、従来上海派遣軍に示されていた作戦地域の最前線蘇州・嘉興の線を改めて撤廃する旨の指令を出したのである。このことは政略的には従来の事件不拡大方針の変更であり、その放棄にも通じた。そこで中支那派遣軍でも、勇躍競って首都南京の攻略に向かって堂々進撃したのである。蘇州・嘉興の線を突破して兵を進めることは、きわめて重大な問題である。ちょっと考えてみても、この処置は明らかに事件の不拡大という基本方針から逸脱するが、一歩譲って考えたとしても、首都南京を攻略せんとする限りどうしてもこれを全面和平のチャンスとしてとらえなければなるまい。攻撃開始前からあらかじめ和平への見通しをつけておくか、少なくとも所要の政治工作が作戦に呼応して進められ、政戦両略の間で呼吸が合わなければ、無二の戦機を逸するだけでなく長期戦の泥沼に足を入れる懸念も大きいからである。これについては、松井石根派遣軍司令官が以前から、敗走する中国軍に追尾して南京城への追撃に移りたい旨の意見を具申しており、中央では陸軍省や参謀本部を中心に種々討議されていたのも当然である。

 討議の中枢参謀本部では不拡大方針の放棄を極度に重視し、多田参謀本部次長は強く消極論を主張したが、石原将軍の後任下村定作戦部長は追撃積極論を唱え、いわば2派に分かれて激論の末ついに積極論が採決されてしまったのである。私など派遣軍特務部にあっても、何とか作戦に応ずべく政治工作に手を打ったが、作戦は予想以上に迅速に進み、遂にタイミングが間に合わなかったのは千載の痛恨事であった。

 この首都南京攻略は単に和平へのチャンスとなり得なかったのみならず、不幸、一部に起こった一般住民に対する大虐殺のニュースが中国世論をかきたて、対日国際情勢を悪化せしめる結果となったのである。

 私は、この作戦には経済・金融担当のスタッフ原田運治(東洋経済出身)等を同道、朝香宮軍司令部に加わって南京に向かった。南京入城のうえはいち早く南京市内政府系金融諸機関を接収すること、新しく占領都市で放出される軍票の実状を調査する任務についた。すでに述べたごとく、柳川兵団が杭州に上陸した11月5日以来、中支派遣の全部隊は日銀券に代えて軍票を専用するよう決められていたのであるから、首都南京に多数の部隊が集中する際の軍票放出の適否は、今後の軍票対策に至大の影響を及ぼすと判断したからである。

 ちょうど南京陥落の前日の夕刻、私は朝香宮軍司令部とともに南京東方の温泉街湯山に宿営したが、以下その夜突発した戦況の思い出を一、二つづってみよう。

 当時華中方面に派遣されていた諸部隊の最高司令部として、従来のそれであった上海派遣軍司令部の上に新しく中支那派遣軍司令部が設置され、その司令官として松井石根大将が引き続きこれにあたり、上海派遣軍と第10軍(柳川兵団)とをあわせ指揮することとなり、空席となった上海派遣軍司令官には別に朝香宮鳩彦王中将が着任した。この夜同司令部は、かなりの戦災を受けている一温泉旅館の建物に陣取ったが、黄昏ともなる頃司令部の衛兵所に一騒動が持ち上がった。

 三方面からする日本軍の挟撃にあい、逃げ道を失い湯山に迷い込んできた敵の小部隊が司令部の西北方に現れ、たまたま陣地構築で右往左往する日本兵を認めて、司令部に機関銃撃を加えてきたのである。特に当軍司令官は新たに着任したばかりの朝香宮殿下とあって、副官のあわてようもまた格別である。もちろん司令部には騎馬衛兵が若干いるのであるが、進んでこれを撃退するだけの兵力ではない。副官は隷下砲兵隊の援助を求めようとしたが近傍にはいないらしく、結局近くで布陣していた高射砲を引張り出し、対空ならぬ水平の方向に発砲させてとにかく敵部隊を沈黙させた。この時数名の敵兵が捕虜になったとのニュースが伝わると、特に下士官連中がおっとり刀でこれに殺到せんとする光景を見せつけられ、戦場ならではの思いを深くした。おそらく伝来家宝の日本刀や高価を払って仕込んできた腰の軍刀がうづいていたのであろう。いずれにしても戦場の夢ははかなかった。

 ・・・

 前進につれて通路の両側には死屍累々として目を覆わしめるものがあり、やっと城壁から逃れ出た中国兵士達──眼前で降伏する者あるいは捕虜となって後送される者あり、また小広場では数珠つなぎのまま互いに身を寄せ合って茫然自失している敗残兵があるなど──を至るところで見かけたが、その中には少数の女性さえまじっているのに気づいた。死に直面する人間の心理は格別で、かかる凄絶な情況における興奮は心理状態を一層激化させて、あるいは世論を騒がせたあの日本武士道にもあるまじき南京虐殺につながって行ったのかもしれない。

 ・・・

 市内掃討の一段落とともに南京入城式が行われるというので、私も特務部員として乗馬姿で一世一代の入場式に参列できるものと心待ちにしたが、南京攻略前後における蒋政権側の動向など諸情勢報告のため急遽帰国することとなり、まことに心残りであった。後日松井大将の乗馬姿の入城写真を見、また将軍から戴いた入城詩の揮毫(口絵に掲出)を見るにつけ、この入城式こそは、同将軍にとっても一世一代の盛事となったに違いないと思うのである。アジアを憂え中国を愛していた彼ほどの将軍隷下部隊から、あのいまわしい南京虐殺事件が発生したとすると死んでも死にきれない心の痛みがあったろうと痛恨に堪えない。


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする