天皇がどのように先の戦争に関わっていたのか、こうした書籍を手に取るまで、よくは知らなかった。実は、深く深く関わっていたようである。下記に一部抜粋した部分からだけでも、そのことはよく分かると思う。したがって、天皇が戦後東京裁判で裁かれなかっただけではなく、証人としてさえ出廷しなかった事実は、不可解といわざるを得ない。
支那事変(日中戦争)の最中、「事変」でも大本営を設置可能にする「大本営令(昭和12年軍令第1号)」が制定され、1937年11月20日大本営が設置された。大本営は天皇を中心とする最高統帥機関であり、大本営陸軍部と大本営海軍部および侍従武官府によって構成される。大本営の発する命令は、大陸命(天皇が発する陸軍への命令)か大海令(天皇が発する海軍への命令)のいずれかであり、侵略戦争といわれる日本の戦争は、この大陸命と大海令によって進められた。いずれも天皇の名において下される、いわゆる「大命」であるので、事前に天皇の允裁(命令発令の許可)を得なければならない。陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長は、命令の発令者ではなく、作戦の立案・上奏・伝達が任務であるという。参謀総長や軍令部総長といえども、大本営命令を発する権限はなかったのである。
「大元帥 昭和天皇」山田朗(新日本出版社)によれば、1937年11月22日に大陸命第1号が発せられてから1945年9月1日の大海令の発令に至るまで、大陸命が852通、大海令が57通、合計909通が発せられたという。そして、その全てにおいて統帥部は「命令案」とその命令が必要な理由を記した「御説明」を作成して天皇に上奏し、允裁を仰いだということである。統帥部が天皇の納得を得ようとする努力は尋常なものではなかったらしい。戦争指導・作戦指導に関する重要な方針の決定に際しては、「方針案」とその方針をとる理由の「御説明」を文書で作成・提出するだけでなく、さらに、天皇の質問に統帥部幕僚長(参謀総長・軍令部総長)が円滑に回答できるように、重要な上奏に際しては詳細な「御下問奉答資料」が作成されたという。陸軍の場合には、この「御下問奉答資料」とはすなわち想定問答集のことであり、作戦課の起案者が天皇の質問を予想して遺漏がないように課内で質疑応答をおこなって原案を作成し、他の課員の連帯印をうけ作戦課長、作戦部長・次長の決裁をへて完成するというのである。
「大元帥 昭和天皇」山田朗(新日本出版社)から、天皇が主体的に戦争に関与したとされる作戦や方針を列記した部分、および杉山参謀総長と永野軍令部総長が列立して上奏した際、天皇が厳しい言葉を返しているやりとりの部分を抜粋する。
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あとがき───昭和戦争史に果たした天皇の役割とその戦争責任
戦争への天皇の主体的関与───天皇の戦争指導
天皇は「御下問」「御言葉」を通じて戦争指導・作戦指導に深くかかわった。天皇は作戦について、統帥部の方針や作戦の進め方を無条件で認めていたわけではない。とりわけ、次の事例において大元帥・昭和天皇の発言は、作戦計画あるいは具体的な作戦内容を左右する大きな影響を与えた。
① 熱河作戦の一時差し止め(1933年)
② 2・26事件における反乱軍の武力鎮圧方針決定(1936年)
③ 日中戦争初期の兵力増強、戦略爆撃実施方針の決定(1937年)
④ 張鼓峰事件における武力行使方針の一時差し止め(1938年)
⑤ 「昭和14年度帝国海軍作戦計画」の修正(1939年)
⑥ 宣昌再確保への作戦転換(1940年)[[
⑦ フィリピン・バターン要塞への早期攻撃の実現(1942年)
⑧ 重慶攻略の方針の決定と取りやめ(同年)
⑨ ガダルカナルをめぐる攻防戦における陸軍航空隊の進出(同年)
⑩ ガダルカナル撤退後におけるニューギニアでの新たな攻勢の実施(1943
年)
⑪ 統帥部内の中部ソロモン放棄論の棚上げ(同年)
⑫ アッツ島「玉砕」後における海上決戦の度重なる要求と海軍の消極的姿勢
への厳しい叱責による統帥部ひきしめ(同年)
⑬ 陸軍のニューギニアでの航空戦への没入(同年)
⑭ 「絶対国防圏」設定後の攻勢防御の実施(ブラウン奇襲攻撃後の軍令部の
指示など 1943年~1944年)
⑮ サイパン奪回計画の立案(1944年)
⑯ 沖縄戦における攻勢作戦実施(1945年)
⑰ 朝鮮軍の関東軍への編入とりやめ(同年)
昭和天皇は、軍事に素人などでは決してなかった。天皇は大元帥としての責任感、軍人としての資質・素養は、アジア太平洋戦争において大いに示された。開戦後、緒戦において、あるいはミッドウェー海戦敗北に際しても、天皇は泰然としているかに見えたが、それは総司令官はいかなる時も泰然自若として部下将兵の士気高揚をはからなければならないという、昭和天皇が東郷平八郎から直接・間接に学んだ帝王学・軍人哲学を実践したものであった。しかしガダルカナル攻防戦における統帥部の不手際を目の当たりにして天皇は、次第に作戦内容への介入の度を深める。天皇は並々ならぬ意欲で作戦指導にあたったが、日露戦争の戦訓を引き合いに出して作戦当局に注意を与えたり、目先の一作戦拘泥せずニューギニアでの新たな攻勢を要求したりするなど、軍人としての素養を大いに示した。
昭和天皇はあくまでも政戦略の統合者として世界情勢と戦況を検討し、統帥大権を有する大元帥として統帥部をある時には激励、ある時には叱責して指導しようとした。また、前戦将兵の士気沈滞をつねに憂慮し、みずから勅語を出すタイミングに気を配っていた。1943年5月にアッツ島が「玉砕」すると、戦争の将来に漠然とした不安を抱いていた天皇は、統帥部に執拗に「決戦」をせまり、その期待に応えられない永野軍令部総長は信頼を失っていく。…(以下略)
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第3章 アジア太平洋戦争における天皇の戦争指導
永野軍令部総長へ風当たり強く
杉山参謀総長と永野軍令部総長が列立して上奏した際、天皇の下問は永野に対してことのほか厳しかった。8月24日、ラバウルの確保を心配した天皇は、両総長との間に次のようなやりとりをした。ここでも明らかに永野への風当たりは強い。
陛下 来年の春迄[ラバウルを]持つと云ふが持てるか
杉山 第1の通り回答[「御下問奉答資料」の番号と推定される]
陛下 後ろの線に退ると云ふが、後ろの線之が重点だね。
杉山 左様で御座居ます 後ろの線が重点で御座居ます 数千粁の正面の防
備 これは来春迄には概成しか出来ません。それ迄の間前方は持たな
ければなりません
永野 「ラバウル」が無くなると聯合艦隊の居所は無くなり、為に有為なる戦略
態勢が崩れます。「ラバウル」には出来る丈永く居たいと存じます
陛下 それはお前の希望であろうが、あそこに兵を置いても補給は充分出来る
のか それならしつかり「ラバウル」に補給できる様にせねばいけない
それから其所へ敵が来たら海上で敵を叩きつけることが出来るならば良
いが、それがどうも少しも出来て居ない
永野 以前は航空が充分働かなかったが、最近は大分良くなりました
陛下 この間陸軍の大発を護衛して行つた駆逐艦4隻が逃げたと云ふではな
いか[8月17日の第1次ベラベラ沖海戦のことを指している]
永野 魚雷を撃ちつくして退避しました
天皇 魚雷だけでは駄目、もっと近寄て大砲ででも敵を撃てないのか 後ろの
線に退つて今後特別のことを考へて居るか
永野 駆逐艦も増加するし、魚雷も増えます。
天皇 電波関係はどうか 「ビルマ」、「アンダマン」、「スマトラ」はどうするか
奉答 同時に研究しまして具体的には何れ更に研究の上申し上げます(『大本
営海軍部・聯合艦隊(4)』428頁)
(陛下であったり天皇であったり、句読点がついていたり省略されたり、いろいろであるが、前掲書のままである)
天皇と杉山は、「後ろの線が重要だね」、「左様で御座居ます」と比較的息のあったところを見せているが、天皇は永野の言うことにはいちいち批判めいたコメントを加えている。永野がラバウルを確保したいと言えば、補給はできるのか、海上で決戦をしないではないかと切り返し、あげくの果てに陸軍の上陸部隊を護衛していた駆逐艦が逃げたではないかとまで言っている。永野が魚雷をうち尽くした、と言えば、もっと近寄って大砲ででもやれ、と徹底的に海軍の姿勢を批判している。天皇の眼には、ラバウルに固執するわりにはいっこうに決戦を挑まない姿勢が、士気に乏しく極めて消極的、無為無策に映ったのである。
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支那事変(日中戦争)の最中、「事変」でも大本営を設置可能にする「大本営令(昭和12年軍令第1号)」が制定され、1937年11月20日大本営が設置された。大本営は天皇を中心とする最高統帥機関であり、大本営陸軍部と大本営海軍部および侍従武官府によって構成される。大本営の発する命令は、大陸命(天皇が発する陸軍への命令)か大海令(天皇が発する海軍への命令)のいずれかであり、侵略戦争といわれる日本の戦争は、この大陸命と大海令によって進められた。いずれも天皇の名において下される、いわゆる「大命」であるので、事前に天皇の允裁(命令発令の許可)を得なければならない。陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長は、命令の発令者ではなく、作戦の立案・上奏・伝達が任務であるという。参謀総長や軍令部総長といえども、大本営命令を発する権限はなかったのである。
「大元帥 昭和天皇」山田朗(新日本出版社)によれば、1937年11月22日に大陸命第1号が発せられてから1945年9月1日の大海令の発令に至るまで、大陸命が852通、大海令が57通、合計909通が発せられたという。そして、その全てにおいて統帥部は「命令案」とその命令が必要な理由を記した「御説明」を作成して天皇に上奏し、允裁を仰いだということである。統帥部が天皇の納得を得ようとする努力は尋常なものではなかったらしい。戦争指導・作戦指導に関する重要な方針の決定に際しては、「方針案」とその方針をとる理由の「御説明」を文書で作成・提出するだけでなく、さらに、天皇の質問に統帥部幕僚長(参謀総長・軍令部総長)が円滑に回答できるように、重要な上奏に際しては詳細な「御下問奉答資料」が作成されたという。陸軍の場合には、この「御下問奉答資料」とはすなわち想定問答集のことであり、作戦課の起案者が天皇の質問を予想して遺漏がないように課内で質疑応答をおこなって原案を作成し、他の課員の連帯印をうけ作戦課長、作戦部長・次長の決裁をへて完成するというのである。
「大元帥 昭和天皇」山田朗(新日本出版社)から、天皇が主体的に戦争に関与したとされる作戦や方針を列記した部分、および杉山参謀総長と永野軍令部総長が列立して上奏した際、天皇が厳しい言葉を返しているやりとりの部分を抜粋する。
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あとがき───昭和戦争史に果たした天皇の役割とその戦争責任
戦争への天皇の主体的関与───天皇の戦争指導
天皇は「御下問」「御言葉」を通じて戦争指導・作戦指導に深くかかわった。天皇は作戦について、統帥部の方針や作戦の進め方を無条件で認めていたわけではない。とりわけ、次の事例において大元帥・昭和天皇の発言は、作戦計画あるいは具体的な作戦内容を左右する大きな影響を与えた。
① 熱河作戦の一時差し止め(1933年)
② 2・26事件における反乱軍の武力鎮圧方針決定(1936年)
③ 日中戦争初期の兵力増強、戦略爆撃実施方針の決定(1937年)
④ 張鼓峰事件における武力行使方針の一時差し止め(1938年)
⑤ 「昭和14年度帝国海軍作戦計画」の修正(1939年)
⑥ 宣昌再確保への作戦転換(1940年)[[
⑦ フィリピン・バターン要塞への早期攻撃の実現(1942年)
⑧ 重慶攻略の方針の決定と取りやめ(同年)
⑨ ガダルカナルをめぐる攻防戦における陸軍航空隊の進出(同年)
⑩ ガダルカナル撤退後におけるニューギニアでの新たな攻勢の実施(1943
年)
⑪ 統帥部内の中部ソロモン放棄論の棚上げ(同年)
⑫ アッツ島「玉砕」後における海上決戦の度重なる要求と海軍の消極的姿勢
への厳しい叱責による統帥部ひきしめ(同年)
⑬ 陸軍のニューギニアでの航空戦への没入(同年)
⑭ 「絶対国防圏」設定後の攻勢防御の実施(ブラウン奇襲攻撃後の軍令部の
指示など 1943年~1944年)
⑮ サイパン奪回計画の立案(1944年)
⑯ 沖縄戦における攻勢作戦実施(1945年)
⑰ 朝鮮軍の関東軍への編入とりやめ(同年)
昭和天皇は、軍事に素人などでは決してなかった。天皇は大元帥としての責任感、軍人としての資質・素養は、アジア太平洋戦争において大いに示された。開戦後、緒戦において、あるいはミッドウェー海戦敗北に際しても、天皇は泰然としているかに見えたが、それは総司令官はいかなる時も泰然自若として部下将兵の士気高揚をはからなければならないという、昭和天皇が東郷平八郎から直接・間接に学んだ帝王学・軍人哲学を実践したものであった。しかしガダルカナル攻防戦における統帥部の不手際を目の当たりにして天皇は、次第に作戦内容への介入の度を深める。天皇は並々ならぬ意欲で作戦指導にあたったが、日露戦争の戦訓を引き合いに出して作戦当局に注意を与えたり、目先の一作戦拘泥せずニューギニアでの新たな攻勢を要求したりするなど、軍人としての素養を大いに示した。
昭和天皇はあくまでも政戦略の統合者として世界情勢と戦況を検討し、統帥大権を有する大元帥として統帥部をある時には激励、ある時には叱責して指導しようとした。また、前戦将兵の士気沈滞をつねに憂慮し、みずから勅語を出すタイミングに気を配っていた。1943年5月にアッツ島が「玉砕」すると、戦争の将来に漠然とした不安を抱いていた天皇は、統帥部に執拗に「決戦」をせまり、その期待に応えられない永野軍令部総長は信頼を失っていく。…(以下略)
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第3章 アジア太平洋戦争における天皇の戦争指導
永野軍令部総長へ風当たり強く
杉山参謀総長と永野軍令部総長が列立して上奏した際、天皇の下問は永野に対してことのほか厳しかった。8月24日、ラバウルの確保を心配した天皇は、両総長との間に次のようなやりとりをした。ここでも明らかに永野への風当たりは強い。
陛下 来年の春迄[ラバウルを]持つと云ふが持てるか
杉山 第1の通り回答[「御下問奉答資料」の番号と推定される]
陛下 後ろの線に退ると云ふが、後ろの線之が重点だね。
杉山 左様で御座居ます 後ろの線が重点で御座居ます 数千粁の正面の防
備 これは来春迄には概成しか出来ません。それ迄の間前方は持たな
ければなりません
永野 「ラバウル」が無くなると聯合艦隊の居所は無くなり、為に有為なる戦略
態勢が崩れます。「ラバウル」には出来る丈永く居たいと存じます
陛下 それはお前の希望であろうが、あそこに兵を置いても補給は充分出来る
のか それならしつかり「ラバウル」に補給できる様にせねばいけない
それから其所へ敵が来たら海上で敵を叩きつけることが出来るならば良
いが、それがどうも少しも出来て居ない
永野 以前は航空が充分働かなかったが、最近は大分良くなりました
陛下 この間陸軍の大発を護衛して行つた駆逐艦4隻が逃げたと云ふではな
いか[8月17日の第1次ベラベラ沖海戦のことを指している]
永野 魚雷を撃ちつくして退避しました
天皇 魚雷だけでは駄目、もっと近寄て大砲ででも敵を撃てないのか 後ろの
線に退つて今後特別のことを考へて居るか
永野 駆逐艦も増加するし、魚雷も増えます。
天皇 電波関係はどうか 「ビルマ」、「アンダマン」、「スマトラ」はどうするか
奉答 同時に研究しまして具体的には何れ更に研究の上申し上げます(『大本
営海軍部・聯合艦隊(4)』428頁)
(陛下であったり天皇であったり、句読点がついていたり省略されたり、いろいろであるが、前掲書のままである)
天皇と杉山は、「後ろの線が重要だね」、「左様で御座居ます」と比較的息のあったところを見せているが、天皇は永野の言うことにはいちいち批判めいたコメントを加えている。永野がラバウルを確保したいと言えば、補給はできるのか、海上で決戦をしないではないかと切り返し、あげくの果てに陸軍の上陸部隊を護衛していた駆逐艦が逃げたではないかとまで言っている。永野が魚雷をうち尽くした、と言えば、もっと近寄って大砲ででもやれ、と徹底的に海軍の姿勢を批判している。天皇の眼には、ラバウルに固執するわりにはいっこうに決戦を挑まない姿勢が、士気に乏しく極めて消極的、無為無策に映ったのである。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。