真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ガザのジェノサイドが続くわけ

2024年11月30日 | 国際・政治

 イスラエルは、なぜ国際社会の声を無視してパレスチナ人を狭い土地に閉じ込め、分離壁で囲って自由を奪い続けてきたのか、また、なぜ国際法上違法であると指摘されているにもかかわらず、入植活動を続けてパレスチナ人の土地や畑を奪い続けてきたのか、さらに、なぜ食糧の支援さえ制限し、学校や病院や難民キャンプの爆撃を続けるのか。

 現在も続くガザ攻撃が、ハマスの襲撃に対する正当防衛などと言えるものでないことは、誰が見ても明らかなのに、ジェノサイドを続けるのはなぜなのか。

 

 そうしたことを頭に置いて 「ユダヤ人迫害史 繁栄と迫害とメシア運動」黒川知文(教文館)を読むと考えさせらることがいろいろあります。

 下記は、同書の「第四章 東欧とロシアにおけるユダヤ人迫害」の「第四節。革命後のユダヤ人政策」を抜萃したものですが、ソ連(ロシア)にもさまざまなユダヤ人差別や迫害があったことが分かります。

 

 下記の記述で大事だと思うのは、10月革命を成し遂げたボリシェヴィキの指導者レーニンは、マルクス主義の考え方に基づき、労働と資本の問題、言い換えれば労働者と資本家の対立を主要な問題として、反ユダヤ主義を、革命を達成するために闘わなければならない敵の考え方であるとみなしたことです。

 だから、以後、スターリン政権成立までは、ソヴェト政権による反ユダヤ政策は見られなかったのだと思います。

 でも、一般民衆の反ユダヤ的感情は消え去ることなかったということです。そして、徐々に息を吹き返し、スターリン政権では、反ユダヤ主義が政策として展開されるに至るのです。

 レーニンによって否定された反ユダヤ主義が、なぜ息を吹き返したのか、そこにユダヤ人の思想や行動の問題が潜んでいるのではないか、と私は思います。

 抜粋文の最後にある文章がそれを暗示しているように思います。

しかし、19676月のイスラエルとアラブ諸国との6日戦争後、再び、反ユダヤ宣伝が始められた。その目的は、イスラエルとシオニズムを非難するところにあった。ユダヤ教を古代からの非難すべき宗教として取り扱う反ユダヤ主義も、さまざまな印刷物に表現された。

 この宣伝においては、シオニズムは帝国主義の手先として、諸国を隷属化し、搾取し社会主義を妨害するものとされている。またイスラエルは、アラブ諸国を侵略することによってそのような帝国主義を中東にもたらすものとされている。こういった内容は、特にナチスによって唱導された『シオン議定書』に類似している。

 だから、当時、「反ユダヤ主義」が受け入れられる状況があったということだろうと思います。

 『シオン議定書』(『ユダヤ賢人の議定書』)は、ナチスのプロパガンダ戦力の重要な役割を担った「史上最悪の偽書」であると言われているようですが、そこに書かれていることが、すべて事実に反するものであるとすることは、やはり無理があるのではないか、と私は思うのです。

 『シオン議定書』に書かれていることと、イスラエルの政治家や軍人の発言や考え方とはほとんど同じように思われるからです。

 この文書は1897年、スイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン二十四人の長老」による決議文であるという体裁をとっているといわれていますが、この文書では、”選民(神が認めた唯一の人間)であるユダヤ人が、非ユダヤ人(動物)を世界を支配して、すべての民をモーセの宗旨、つまりユダヤ教の前に平伏させるというシオニズムとタルムード経典の実現化の内容を持つ”といいます。

、具体的には、下記のように書かれているというのです。

タルムードを根源としてサンヘドリンにより製作されたタルムードには、(バビロン版)「ユダヤ人は、神の選んだ唯一の人間であり、非ユダヤ人(異邦人)は、獣(動物)であり、人間の形をした動物(家畜)であるので、人間(ユダヤ人)が動物(家畜)を群れとして支配しなければならない(ゾハールの2-64B節)

 

 そして、下記に取り上げられたイスラエルの政治家や軍人の発言が、その考え方から発せられているように思われるのです。

「アニマルライツ 環境・人権・食糧・平和問題」”敵を動物に例える非人間化はジェノサイドの予兆:動物への差別をなくそう”に掲載されている関係者の諸発言は、そのことを示しているのではないかと思います。

2https://arcj.org/issues/other/environment/dehumanization-comparing-enemies-to-animals-is-a-sign-of-genocide/

109日、イスラエル国防大臣が「We are fighting human animals(わたしたちは人間動物と戦っている)」と述べたと報じられた。

 

1012日、イスラエル首相は「わたしたちは野生動物を見た。私たちが直面しているのは野蛮人だ。」と述べたことを報じられた。

 

1012日、駐ベルリンのイスラエル大使ロン・プロソール氏が「血に飢えた動物」と戦うイスラエル」と表現したと報じられた。

 

1016日、パキスタン首相は「わたしたちは動物ではない」と動画でイスラエル大統領に訴える動画が報じられた。

 

少し飛び火した議論では、パレスチナへの連帯を示したコメントに対し、108日、心理学者ジョーダン・バーント・ピーターソン博士が「You Murderous Anti-Semitic Rats」と表現し批判を受けていることが報じられた。

 

動物を苦しめ、差別し、殺してもいいのだとする人間の先入観が、人間への暴力を助長しています。敵とみなした人々を人間以外の動物に例える非人間化と言われるプロセスは、ジェノサイドの前兆であることがわかっています。動物は野蛮なもの、とるに足らないもの、自分を攻撃してくるもの、そんな言い訳が戦争や虐殺時には横行します。これらの表現を批判する報道もまた、あくまでも人間だけ特別なのだという言い回しから外れ、動物も殺してはいけないのだと表現することは決してありません。むしろ、動物だと表現するなんて酷いという論調が続きます。

 

一方で、この人間だけのサークルから抜け出し、人も、動物も隔たりなく守る人々がおり、その人達の多くは人間の行う蛮行を横目に、死と隣合わせでありながら動物(ロバ、コウモリ、犬など)をすくい続けます。動物保護団体たちです。ただし、ガザ内にも畜産動物が210万頭いたとされていますし、NAMA動物園にはまだ8頭のライオン、ワニ、ハイエナ、キツネ、シカ、サル、ヤギがいたはずとされていますが、ガザ側の情報は少なく、現状どうなっているかがわかりません。しかし、檻に囚われた状態で、水も電気も遮断されているこれらの動物たちが、人間よりも遥かに苦しんでいることは間違いないでしょう。”

 

 イスラエルの政治家や軍人による同種の主張が、他のメディアでもくり返し報道されました。だから、『シオン議定書』(『ユダヤ賢人の議定書』)が、「史上最悪の偽書」だというのは、反ユダヤ主義を潰すための極論のように思うのです。

 下の、Brics news の動画で、ネタニヤフ首相は、

 "we are the Eternal People. A people that fights to bring light to this world... and eradicate evil."

 「我々は永遠の民である。この世界に光をもたらし、悪を根絶するために戦う民である」

と語っています。

 私は、選民意識が潜んでいるように思います。

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                 第四章。東欧とロシアにおけるユダヤ人迫害

                    第四節。革命後のユダヤ人政策

 

 革命により帝政期の反ユダヤ法が廃止された。定住地域も廃止され、ユダヤ人はしだいに都市に集中するようになった。差別もなくなったが、しだいに反ユダヤ政策が登場するようになる。

 

 1 10月革命後

 10月革命において、反ユダヤ主義は反革命軍によって利用された。これに対して、レーニンは反ユダヤ主義を社会的政治的悪だけでなく、革命を達成するために闘わなければならない敵とみなしていた。19187月の『イズヴェスチヤ』紙には、ポグロム参加者を革命の敵とみなすソヴェト政権の決定事項が見られる。以後、スターリン独裁までは、ソヴェト政権による反ユダヤ政策は見られない。民衆の中にあって反ユダヤ的感情は、たとえば1920年代のネップ期に工場労働者としての職を得たり、南ロシアやクリミアで土地を所有するようになった多くのユダヤ人に対していくらかみらる。

 1930年代の粛清期に、ソヴェト政権は反ユダヤ主義を非難する表現を取らなくなる。この時期にはユダヤ人による協会の会談が推し進められた。しかしそれらはあくまでもスターリン独裁が目的であった。そのことは、党の中間部と上層部秘密警察にもなおもかなりのユダヤ人が活動していたことからも明らかである。

 1939年以後、独ソ不可侵条約締結後、ソ連の新聞は、ナチスの反ユダヤ主義、ポーランド侵入後のユダヤ人虐殺などについては報道しなかった。19416月のドイツのソ連に侵入後、報道するようになるが、曖昧であった。

 大戦後も、ドイツ軍によるユダヤ人虐殺を強調する者に対しては、エフトシェンコの例が示すように、政府は強く非難した。

 

 2 暗黒期(194853年)

 大戦後のスターリン体制最後の数年間は、ユダヤ人にとって暗黒期であった。この時期に生じた反ユダヤ的事件は以下の通りである。

〇 秘密警察によるS・ミカエルの暗殺。ミカエルはユダヤ国立劇場の演出家ならびにユダヤ反ファシスト委員会の議長を勤めていた。

〇 1930年代および大戦中に設立されたすべてのユダヤ人文化協会・団体の廃止。

〇 1949年からのソヴェト新聞・雑誌による公然とした反ユダヤ宣言。特にユダヤ人の世界市民的な面が攻撃された。すなわち「母国を持たない根なし草」、反逆分子、など。西側陣営に対する教育の要素が強い。

〇 ユダヤ反ファシスト委員会の廃止。ユダヤ人作家、芸術家などが逮捕もしくは殺された。

〇 クリミア事件。スランスキー裁判。いずれもユダヤ人が罰せられた。「ドレヒュス事件」に匹敵する。

〇 ユダヤ人医師陰謀事件。スターリンの権力闘争に利用された事件。事件後、数千のユダヤ人が職を追われた。

〇 ユダヤ人とイスラエル、アメリカとをソ連の共通の敵とする大衆宣伝開始。

 

 以上のように、反ユダヤ主義は、第一にスターリン独裁の主要な道具として、第二に、冷戦期における対西側政策の一環として利用された。ユダヤ人は革命期のみならず、この期においても再び「犠牲の羊」とされた。1949年にG・メイヤが大使としてモスクワに来た時、ユダヤ人がモスクワ大シナゴーグに溢れるほど集まった背景にはこのような彼らの苦難があったといえる。

 

 3 フルシチョフ期

 19562月、第2回党大会において、フルシチョフはいわゆるスターリン批判を開始する。しかし、この際、スターリンの行った反ユダヤ政策については全く触れなかった。

 フルシチョフの反ユダヤ政策は、スターリンほど強いものではない。だが、ユダヤ人を「経済的犯罪者」(資本家)として描き、スターリン同様の大衆宣伝を行った。この宣伝は、1961年から64年まで、保安警察によって行われた。

 この時期には、シオニズムとイスラエル共和国と告白するだけでなく、ユダヤ教そのものも、歴史的にも文化的にも有害な宗教として告白する本、パンフレットも現われた。これらの印刷物には、しばしば露骨な反ユダヤ的漫画が描かれていた。

 この時期の民衆による反ユダヤ運動としては、以下のものをあげることができる。

〇 シナゴーグ放火、ユダヤ墓地の管理人の殺害──モスクワに近いマラホフカにおいて。

〇 反ユダヤ的ポスターの配布。1959年、ユダヤ暦の新年

〇 シナゴーグ放火──1962年、グルジアとツハカヤ。

〇 反ユダヤ的暴動と血の中傷事件──1962年、タシケントとツハルツボ。

〇 血の中傷事件、1963年、ヴィリナ。

〇 共産党指導による血の中傷事件その他の反ユダヤ的印刷物──1961年、89日、ブイナクスクとダゲスタンの地方紙において、数日後に謝罪文掲載。

 

 ソ連国内の知識階級は、このような風潮に対して批判的ではあったが、それほど強く反対するものではなかった。それはナチスのホロコーストと帝政期の反ユダヤ主義を攻撃したエフトシェンコの『バービヤ-ル』が1961年に『文学新聞』に掲載された時、即座に厳しい批判が体制側の文学批評家からなされたことからも明らかである。

 

 この時期にはまた、ユダヤ人に対する種々の差別政策が実施されていった。列挙すると以下のようになる。

〇 外務機関からのユダヤ人締め出し

〇 軍の指導者層からのユダヤ人締め出し。

〇 政府と地方などの指導者クラスからのユダヤ人締め出し。

〇 主要都市の教育機関へのユダヤ人入学制限。

 

 これらの差別政策は、すでにみてきた帝政期におけるユダヤ人政策と共通するものが少なくない。フルシチョフのこのようなユダヤ人政策は、西側に対する国内のイデオロギーの統一を意図していたが、同時1948年に成立したイスラエル共和国との関係がしだいに悪化したことの影響とも考えられる。この時期には、こういった政策面だけでなく、国内に反ユダヤ運動が展開したことも忘れてはならない。民衆の次元においても、帝政期のポグロムに代表される反ユダヤの伝統は、継続していたと考えられる。

 

 4 コスイギン=ブレジネフ期

 フルシチョフからコスイギン=ブレジネフ体制になり、ユダヤ人の状況はいくらか改善された。

 ユダヤ教批判の一環をなしたシナゴーグに対する攻撃、マツォット(ユダヤ人専用の種なしパン)の販売制限も次第に緩和されるようになった。ユダヤ人はナチス・ドイツによるホロコーストの犠牲者だとする表現も、さらに、反ユダヤ主義を社会悪の一つとして告白する内容も、コスイギンの声明の中にみられた。同じ内容は、1965年の主要な新聞にもみることができる。

 しかし、19676月のイスラエルとアラブ諸国との6日戦争後、再び、反ユダヤ宣伝が始められた。その目的は、イスラエルとシオニズムを非難するところにあった。ユダヤ教を古代からの非難すべき宗教として取り扱う反ユダヤ主義も、さまざまな印刷物に表現された。

 この宣伝においては、シオニズムは帝国主義の手先として、諸国を隷属化し、搾取し社会主義を妨害するものとされている。またイスラエルは、アラブ諸国を侵略することによってそのような帝国主義を中東にもたらすものとされている。こういった内容は、特にナチスによって唱導された『シオン議定書』に類似している。

 

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「反ユダヤ主義」のルーツ

2024年11月25日 | 国際・政治

 下記は、「ユダヤ人迫害史 繁栄と迫害とメシア運動」黒川知文(教文館)の「はじめに」を抜萃したものです。

 確かに旧約聖書の、”「創世記」1213節”や”「詩編」13714”、のこれらの文章が、反ユダヤ主義のルーツであると思います。反ユダヤ主義は古代から現在まで、いろいろなかたちで存在してきたということですが、それは、「創世記」によって、”選民としてのユダヤ人が誕生”することになったからだと思います。反ユダヤ主義は、この選民思想から生まれてくるものだろうと思います。

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                    はじめに ── 反ユダヤ主義のルーツ

 

 あなたは生まれ故郷

 父の家を離れて

 わたしが示す地へ行きなさい。

 わたしはあなたを大いなる国民にし、

 あなたを祝福し、あなたの名を高める

 祝福の源となるように。

 あなたを祝福する人をわたしは祝福し

 あなたを呪う者をわたし呪う。

 地上の氏族はすべて

 あなたによって祝福に入る。(「創世記」1213節)

 

 神はアブラハムの子孫に祝福の契約を与えた。ここに選民としてのユダヤ人が誕生することになる。ユダヤ人は契約のしるしとして割礼を行った。神から祝福の契約を与えられたユダヤ人。しかし、彼に待っていたのは放浪と苦難の歴史であった。

 カナンに飢饉が起こり、イスラエル一族はエジプトに移住した。しかしエジプトにおいてはイスラエルの子孫は奴隷にされて過酷な労働に苦しんだ。

 モーゼは奴隷状態のイスラエルを救い出し、出エジプトを実現した。しかし、父祖の地に戻るまで40年間砂漠の中をイスラエルは放浪した。苦難の年月。その中でシナイ契約を神から与えられ、選民意識が強化された。カナンに戻ってもペシリテ人等との戦争に参加せざるをえなかった。しかし、その後のダビデ・ソロモン王国の樹立によりユダヤ民族は繁栄と栄光の時代を迎えた。政治的に統一され領土を保有するユダヤ民族の国家。やがて王国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂する。そして北王国はアッシリア帝国に、南王国はバビロニア帝国に征服され、ユダヤ民族は再び苦難の捕囚状態になる。

 

 バビロンの流れのほとりに座り

 シオンを思って、わたしたちは泣いた。

 竪琴は、ほとりの柳の木に掛けた。

 わたしたちを捕囚にした民が

 歌をうたえと言うから

 わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして

 「歌って聞かせよ、シオンの歌を」というから。

 どうして歌うことができようか

 主のための歌を、異教の地で。(「詩編」1371から4節)

 

 捕囚から帰還したユダヤ人は神殿を再建する。この第二神殿はユダヤ人の宗教の中心となる。しかし、ユダヤ人は再びヘレニズム諸王朝の支配下となる。この時期には比較的自治は許されてはいたものの、アンティオコス・エピファネスは「古代のヒトラー」としてユダヤ人迫害を展開した。ユダヤ人は反乱を起こし勝利してユダヤ人の王国(ハスモン国家)を樹立した。そして繁栄の時代を迎えた。しかし今度はローマ帝国に征服されて、間接統治、さらには直接統治の状態となる。重税と貧困。メシア待望と終末論。ついには二度にわたるローマ帝国に対する戦争が展開する。これはメシア運動でもあった。ユダヤ人はこれに敗北してその多くが殺された。また、第二神殿は破壊された。ユダヤ人はパレスチナから追放された。

 ユダヤ人は故国を喪失し、以後長きにわたり全世界に放浪することになる。

 

 主は地の果てから果てに至るまで、すべての民の間にあなたを散らされる。あなたも祖先も知らなかった。木や石で造られた他の神々に仕えるようになり、これら諸国民の間にあって一息つくことも、足の裏を休めることもできない。主は、その所であなたの心を揺れ動かし、目を衰えさせ気力を失わせられる。あなたの命は危険にさらされ、夜も昼もおびえて、明日の命も信じられなくなる。(「申命記」286466節)

 

 北アフリカからイベリア半島へ移住したユダヤ人はキリスト教徒とイスラム教徒とのはざまにあって商人として活動する。やがてスペイン王国において土地を所有し貴族階級に進出するほど恵まれた地位を確立する。繁栄の時代。しかし1492年にイスラム教徒の支配から国土が回復されるやいなやユダヤ人に対して追放令が発せられた。土地と財産を手放し地中海沿岸地方にスペインのユダヤ人は移住する。迫害の中にあって、多くのメシア運動がこれらの地域において展開されていく。過去の恵まれた地位への回帰の情念とメシア待望の神秘思想をカバラー。しかしメシア運動は瓦解した。その幻滅感が西欧ユダヤ人のキリスト教への改宗を促進した。

 

 一方、イタリア半島からライン川沿いに中欧に移住したユダヤ人は、土地所有こそ禁じられたが商人としての活動を広げていく。しかし11世紀の十字軍運動の時には「キリスト殺しの異教徒ユダヤ人」として虐殺され、14世紀の黒死病蔓延の際には「井戸に毒を流した」罪を問われて虐殺された。このような迫害を逃れて、ユダヤ人の多くは東欧とロシアへ移住した。そこでは比較的安定した時を過ごした。しかし17世紀と18世紀にはウクライナにおいてコサックによる迫害が展開し、ユダヤ共同体は壊滅的打撃を受けた。だが、メシア運動(ハシディズム)がその再建を促進した。さらに19世紀後半から20世紀初頭にかけてはウクライナにおいて大規模なユダヤ人に対する暴動(ポグロム)が三度にわたり発生した。シオニズムと欧米への大量移住がこれを契機に展開した。

 その頃、西欧ではユダヤ人は同化してあらゆる分野に進出していた。しかし19世紀後半にナショナリズムが勃興したことによりユダヤ人は再び差別されることになる。人種理論にもとづく反ユダヤ主義が唱えられ、東欧から移住してきた「異人種的」ユダヤ人はそれを立証するものとされた。西欧諸国において規模の違いはあれ、ユダヤ人迫害事件が再び発生した。

 これような近代的反ユダヤ主義の最終的結果がナチス・ドイツによるホロコーストであった。

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 カナンは、神がイスラエルの民に与えた「約束の地」であると旧約聖書に書かれているということを根拠に、パレスチナ人が何世代にもわたって住み続けてきた土地や家を奪い、カナンの地(パレスチナの地)に住みつくこと、また、パレスチナの地に、イスラエルという国家を建国し、そのイスラエルという国からパレスチナ人を追い出そうとしているユダヤ人の選民思想に基づく方針が、現在の国際社会で許されるものでないことは明らだと思います。

 「旧約聖書」には、とても史実とは考えられないことがいろいろ書かれているといいます。「旧約聖書」の「創世記」のような文字のなかった時代の話には、時の為政者が、自らを絶対的な存在とするために神と関連付けたり、また、自らに都合のよい「つくり話」を史実に含めていることを考慮するべきだと思います。

 日本の「古事記」研究の第一人者といわれる津田左右吉も、同じようなことを指摘していました。

 だから、イスラエル民族のカナン定住が歴史上の事実であったとしても、現在のユダヤ人のパレスチナ人に対する攻撃は正当化できるものではないと思います。

 

 同書の著者黒川知文氏は、あとがきに次のように書いています。

権力者が宗教の色彩を帯びる時、往々にして、それは他からの批判を受けつけず、また、個人の良心を蹂躙するものに化していく。そのような「邪悪な」権力者の下にある者は、良心を犠牲にして権力者に服従するか、良心に基づいて対決するか、あるいは権力者との戦いから逃避するか、いずれかの道を選ばなければならなくなる。

 我々は、悪しき支配者に対して、どのように対し処すべきであろうか? これは今日にも共通する課題である。

 

 この言葉どおり、選民思想に基づく深刻な問題が、イスラエル・ガザ戦争の根底にあることを見逃してはならないと思います。それは、イスラエルの政治家や軍人の発した言葉で分かります。

 

 しばらく前、アラブニュースがラムジー・バロウド氏の文章を掲載していました。同氏は、直近のイスラエルによるガザ侵攻より遥か以前、さらにはイスラエルが建国される1948年よりも前から、イスラエルのシオニストによる主張は常に人種差別的で、相手を非人間的に扱い、排除的で、場合によっては明白に虐殺を訴えるものであり続けてきたとして、次のような例をあげていました。(https://www.arabnews.jp/article/no-category/article_103012/

イスラエルの宣戦布告を行動計画へと変えた責任者であるヨアフ・ガラント防衛大臣は、「我々が戦っている相手は野蛮人たちであり、相手に合わせた行動を取ります」ガラント氏は109日にそう述べている。「相手に合わせた」行動とは、つまり「電気、食料、燃料を断ちます。すべてを遮断します」ということだ。当然ながら、数千人の民間人が犠牲になっている。

ベンヤミン・ネタニヤフ首相のリクード党に所属する国会議員のアリエル・カルナー氏は、ガザ侵攻の背景にあるイスラエルの目的を、「現在の目標はひとつ、ナクバです。1948年のナクバが霞むようなナクバです」と述べている。

 

米国の大統領候補の1人であるニッキー・ヘイリー氏はFOXニュースに対し、ハマスの攻撃はイスラエルだけでなく「米国への攻撃」でもあると述べている。そしてヘイリー氏は真っ直ぐにカメラを見据え、「ネタニヤフさん、奴らを仕留めて、仕留めて、仕留めて」と悪意を込めて宣言した。

 米国のジョー・バイデン大統領とアントニー・ブリンケン国務長官はまったく同じ言葉を使ったわけではないが、両者共に107日の事件と911日のテロ攻撃を比較している。その言葉の裏にある意図を詳しく説明する必要はないだろう

 

リンゼー・グラム上院議員は米国の保守派と宗教支持者を集めて「我々は宗教戦争の只中にいます。なすべきことをしてください。あの場所を跡形もなく消し去るのです」と述べている。

 

ゴルダ・メイア氏のパレスチナ人は「存在しない」、メナヘム・ベギン氏のパレスチナ人は「2本脚で歩く獣だ」、イーライ・ベン・ダハン氏のパレスチナ人は「動物のようなものだ。彼らは人間ではない」をはじめ、人種差別的で相手を非人間的に扱う発言が繰り返されるシオニストの論調は変わらぬままだ。

 

今ではそれらすべてが一体となりつつある。言語と行動の完璧な同調だ。今こそ、いかにしてイスラエルの虐殺的な言葉が現場での実際の虐殺に結びついているかということに目を向け始めるべきなのだろう。残念ながらパレスチナの数千人の民間人にとっては、この気付きは遅きに失するものなのだが。

 

 そして、下記のようにまとめられています。

イスラエル史から時代を無作為に選んで政府関係者、機関、さらに知識人の政治論を検証してみれば、行き着く結論は同じものになるだろう。それは、イスラエルが常に扇動と憎悪のナラティブを形成し、パレスチナ人の虐殺を絶えず主張し続けてきたということである。

 

 ふり返れば、第一次大戦は、オスマン帝国の遺産ぶんどり合戦にほかならなかったといわれています。オスマン帝国がドイツ側についたために、第一次世界大戦は、イギリス、フランス、ドイツを中心とする、いわゆる「帝国主義列強」によるオスマン帝国の分割戦争の側面があったということです。

 だから当時、帝国主義列強の代表格であり、中東での分割戦争に最大の勝利を収めたイギリスが、この分割戦争の中でやりたい放題をやった結果が、現在のイスラエル・ガザ戦争をもたらしたということができると思います。それを象徴するのが「バルフォア宣言」ではないかと思います。

 バルフォア宣言にはっきりと書かれています。

 ”イギリス政府は、パレスチナにユダヤ人のための民族郷土を建設することを好ましいことだと考える。わが政府は、この目的の達成を助けるために最善の努力をするだろう。

 この「宣言」は、バルフォア外相が、ロスチャイルドという富豪への手紙を通じて、イギリスのシオニスト組織への伝達を依頼するという、間接的な方法で行われたといわれていますが、パレスチナ人が何世代も住んできた土地を、イスラエルに譲り渡すような最悪の宣言をしてしまったために、今も混乱が続いているということだと思います。

 

 そして現在、イギリス変わって、多くのユダヤ人が移住しているアメリカが、イスラエルに深く関与し、イスラエルと一体となってガザ戦争を戦っているのです。

 先日国際刑事裁判所(ICC)が、イスラエル・ガザ戦争におけるユダヤ人の戦争犯罪(ジェノサイド)を認定し、ネタニヤフ首相とガラント前国防相に戦争犯罪などの容疑で逮捕状を出しました。

 この逮捕状発行について、イスラエルの関係者はもちろん、アメリカのジャンピエール報道官も、記者会見で「決定を断固として拒否する」と述べたといいます。

 また、バイデン大統領も、逮捕状発行は「言語道断だ」と非難する声明を出すにいたっているのです。

 こうした対応こそ言語道断だと思います。

 

 でも、西側諸国の政府や主要メディアは、事実を伝えるのみで、何の対応もせず、非難や抗議さえしません。中国やロシアやイランなどに対する姿勢とのあまりの違いに驚きます。自らの目先の利益や立場を考え、客観的な事実に基づく、理性的な判断が出来ないのではないかと思います。

 

 

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「侵攻」前のウクライナの対ロシア関係

2024年11月20日 | 国際・政治

 先日取り上げた毎日新聞の、「世界の分断を深めぬよう」と題する記事には、下記のようにありました。

中東やウクライナで戦火が長引き、国際情勢は不透明さを増している。大国が覇権争いに走り、世界の分断を深めることがあってはならない。中国、ロシア、インドなど有力新興5カ国の枠組み「BRICS」に今年、イラン、エジプトなどが加わり、9カ国になった。

 この主張は、言い換えれば、アメリカの覇権に抵抗するな、「BRICS」の拡大は世界の分断を深める、ということだろうと思います。

 これが、大戦後、アメリカが主導してきた西側諸国の世界認識なのだと思います。そしてそれは、バイデン民主党政権の隠れた政府といわれる「ディープステート(DS」の世界認識なのだろうと疑うのです。

 その理由の一つは、日本の主要メディアの論調が、ほとんどアメリカの戦略に基づいていると考えられるからです。バイデン民主党政権の政治の根幹を批判するような論調はありませんでした。

 

 朝日新聞は、朝日新聞デジタル連載【そもそも解説】に「ロシアはなぜ侵攻したのか? ウクライナ危機の背景」と題する記事を掲載しました。

 ”ロシアが224日にウクライナに攻め込み、戦争が始まりました。ウクライナ市民の犠牲は増え続けており、国際社会からはロシアへの厳しい非難の声が上がっています。ロシアはなぜ、「兄弟国」とも言われた隣国に侵攻したのでしょうか。「ウクライナ危機」の背景をまとめました。

 ということで、下記のように指摘しています。

ウクライナはかつてロシアを中心とするソ連の構成国でしたが、ソ連が崩壊したことで独立。いまのウクライナのゼレンスキー政権は親欧米で、NATOへの加盟を目指しています。ロシアにとって、これはがまんがならない。そのため、いろんな理由をつけてゼレンスキー大統領を何とか武力で排除し、ロシアに従順な国に変えてしまいたいのです。ウクライナを影響下に置けば、地理的にもNATOに加わっている国々とロシアとの間のクッションにもなります。 

 でも、戦争の代償の大きさを考えれば、攻撃の開始を理性的に判断したのかどうかは疑問が残ります。プーチン氏はかねて、ウクライナ人とロシア人は「歴史的に一体だ」と主張し、ウクライナを独立した存在として認めてきませんでした。そうした独自の歴史観や国家観が影響した可能性も否定できません”(https://www.asahi.com/articles/ASQ3Q7XHRQ3LUHBI03X.html)。

 

 ウクライナ戦争は、プーチン大統領の歴史観や国家観が影響しているというようなウクライナとロシアの関係史を無視した考え方は、アメリカの戦略に基づくものだと思います。そしてそれは、世界はアメリカが中心でなければならず、アメリカの覇権に抵抗することが、「世界の分断を深める」ことであるという考え方に行きつくのだと思います。

 でもそうした覇権大国アメリカを中心とする考え方は、中国やロシアが主導する「BRICS」に結集する国々や、BRICS」加盟を希望している国々の主体的な選択を認めないということだと思います。

 アメリカを中心とする西側諸国は、「BRICS」の拡大を阻止したり、「BRICS」を無力化したりしようと躍起になっているようですが、「BRICS」は、覇権大国アメリカのグローバル化を受け入れ、アメリカに寄り添うことで富と権力を確保しようとしてきた西側諸国の支配層に対する、アフリカや中南米、中東やアジアの国々の将来を熟慮した選択の結果、拡大しているのだと思います。

 それを受け入れないことは、民主主義を掲げる西側諸国の自己否定にほかならないと思います。だから、世界の分断を深めるのは、「BRICS」を主導するロシアや中国でなく、覇権大国アメリカとアメリカに寄り添うことで富と権力を確保しようとしてきた西側諸国の支配層だと言ってもよいと思います。

 下記の動画で、アメリカ合衆国のリンゼー・グラム上院議員は、なぜウクライナを支援するのかを語っていますが、プーチンを壊滅させなければならない理由は、ウクライナに数兆ドルの資源があるからだというのです。その資源がプーチンの手に渡らないようにしなければならないというのです。そうすれば、何兆ドルもの利益を得ることができるのだというのです。

 こんな理由で、他国を戦争に駆り立てるような覇権大国アメリカとアメリカに寄り添うことで富と権力を確保してきた西側諸国の支配層の政治に苦しめられてきた国々の選択が、「BRICS」の拡大ではないかと思います。

 下記は、「ウクライナを知るための65章」服部倫卓・原田義也編著(明石書店)の「63章」を抜萃したものですが、ウクライナの対ロシア関係をさまざまな角度から論じ、次のような文章で締め括っています。

 このように、文明的だったはずの離婚から四半世紀を経て、今さらながら泥沼の離婚劇の様相を呈しているのが、今日のウクライナ・ロシア関係である。現下ウクライナの反ロシア的な政策路線は、ロシア側の措置への対抗策である場合もあるし、ウクライナの安全保障上やむを得ない場合もあるだろう。しかし、ウクライナの右翼的な勢力がスタンドプレーとして反ロシア政策を掲げ、政権もその風潮に乗って大衆迎合的にそれを取り入れている傾向も目に付く。経営難や貧困から国民の目を逸らすために反ロシア政策を採り、それがロシアとの関係を悪化させ、それによってさらにウクライナの経営難と貧困が深刻化するという悪循環が見られる。ウクライナとロシアの対立のエスカレートでより深く傷つくのは体力の弱いウクライナ側であり、この不毛なループに一日も早く終止符を打つべきだろう。”                     (服部倫卓

 ウクライナ戦争が始まる前、ウクライナを知る人は、ウクライナの国民を欺くようなロシアに対する攻撃的政治姿勢に警鐘を鳴らしていたのです。

 でも、ウクライナ戦争開始後、日本のメディアに登場した専門家と言われる人から、私は、一度もこうした実態を聞きませんでした。だから、覇権大国アメリカとアメリカに寄り添うことで富と権力を確保してきた西側諸国の支配層が、メディアを自らの影響下に置いているように思うのです。

 歴史を知ること、戦争の経緯を知ること、ほんとうに大事だと思います。

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                           63

                       ウクライナの対ロシア関係 

                    ──★ 深まる一方の不毛な対立 ★──

 ソ連時代にウクライナ共和国は、ロシア共和国と並んで、国家の中核的な存在だった。ともにソ連邦の屋台骨を支えてきたウクライナとロシアは、軍事や経済などの面で分かち難く結びついていた。また、ウクライナ人とロシア人はともに東スラブ系の民族であり、ウクライナ領内には多数の民族的なロシア人やロシア語を母語とするウクライナ人が居住しているなど、両国民は緊密で入り組んだ関係にある。

 1991年暮れにソ連邦が解体すると、連邦を構成していた15共和国のうち、バルト三国を除く12共和国は、「独立国家共同体(CIS)」という枠組みを形成し、緩やかな結び付きを維持していくことになった。ユーゴスラビアとは対照的に、ソ連の解体過程ではウクライナ・ロシア間も含め、軍事衝突の類はほぼ発生せず、「文明的な離婚」などとも称された。ただし、ウクライナは1993年のCIS憲章には調印せず、これをもってCISの正式な加盟国ではないとの立場を採るなど、当初からロシア主導の再統合には距離を置く姿勢を見せていた。

 独立直後のウクライナにはソ連から引き継がれた核兵器が多数残っていただけに、ウクライナとロシアが戦火を交え最悪の事態に至るのではないかと危惧する専門家もいた。幸い、懸念の的だった核兵器も、戦術核は19925月までにすべてロシアに撤収され、戦略核についても19966月にウクライナ領土からの核弾頭の撤去が完了した。

 そうは言っても、ウクライナ・ロシア関係は対立の要因に事欠かなかった。クライナ独立後、とりわけ大きな問題となったのが、クリミア半島の領土帰属と半島に位置するセヴァストーポリ市の帰属およびそこに基地を置く旧ソ連の黒海艦隊の扱いであった。交渉の末、19975月に黒海艦隊分割協定が成立し、艦船をロシア81%:ウクライナ19%の割合で分割、ロシア側は2017年までセヴァストーポリを基地として利用できることになった。同じく19975月にウクライナとロシアは友好・協力・パートナーシップ条約を締結し、領土保全および国境不可侵などについて相互に確認し合っている。一方、経済面ではエネルギーが最大の対立点となり、ウクライナは石油・天然ガスの供給をロシアに依存し、逆にロシアは石油・天然ガスの欧州向け輸送路としてウクライナに依存することから、それらの条件をめぐる紛糾が続いた。

 ウクライナの政治勢力に関して言われる「親欧米派」、「親ロシア派」といった分類は常に条件付きのものに過ぎないが、ウクライナ・ロシア関係がウクライナ側の政権交代と連動する形で揺れ動いてきたことは事実である。2004年のウクライナ大統領選の結末としていわゆる「オレンジ革命」が起き、親欧米的とされるユーシチェンコ大統領が20051月就任すると、これ以降ウクライナ・ロシア関係は険悪化しいくことになる。天然ガスの供給と輸送、ウクライナの北大西洋条約機構(NATO)加盟路線、歴史認識の問題、2008年夏のジョージア戦争などをめぐって、ウクライナとロシアは対立を深めた。20102月に親ロシアとされる地域のヤヌコービッチ政権が成立すると、ウクライナ・ロシア関係も改善に向かった。20104月にはいわゆる「ハルキフ協定」が成立、これはロシア黒海艦隊の駐留期限を当初の2017年から25年間延長し、見返りにロシア側はウクライナに天然ガスの大幅値引きを適用するという大胆な取り決めだった。

 しかし、ヤヌコービッチ政権にしても、欧州連合(EU)との関係を海外戦略の基軸とし、ロシアを中心としたCIS諸国の再統合路線と距離を置いていたことに変わりはなかった。ウクライナは201110月のCIS自由貿易条約には参加したものの、ロシアはそれに飽き足らず、ウクライナとより緊密な関係を目指した。2011年にユーラシア経済連合の構想を発表したロシアのプーチンは、ウクライナを巻き込むことをプロジェクトの成否を握るものととらえ、ウクライナへの圧力を強めた。201311月にヤヌコービッチ政権がEUとの連合協定の棚上げを決めると、ロシアはウクライナへの対応を一変させ、天然ガスの値下げやウクライナ政府債150億ドルの引き受けといった経済的報酬で応じた。  

 20142月の政変でヤヌコービッチ政権が崩壊すると、ロシアは3月にクリミア併合を強行するとともに、4月以降はドンバス地方で親ロシア派武装勢力へのテコ入れを行った。ウクライナに対する経済政策もより攻撃的、報復的なものへと転じていった。天然ガスの値下げはウクライナの政変直後に撤回され、またロシアはCIS自由貿易条約に反して20161月からウクライナ商品に関税を適用、ウクライナもすぐに対抗措置を取った。

 201510月にウクライナ当局はウクライナ・ロシア間の航空便の運航を全面的に禁止する措置を採り、以降、両国間では直行便が飛べない状況が続いている(さらに、20188月には、ウクライナ側がロシアとの鉄道路線も廃止する可能性を示した)。ウクライナ中央銀行は、ウクライナに進出していたロシア系銀行を締め出す政策を採り、実際にロシア政府系のズベルバンクは2017年にウクライナ撤退を表明した。20175月に、ウクライナは対ロシア制裁の追加を決定し、フ・コンタクチェ、アドノクラスニキ、ヤンデックス、メイル・ルといったロシア系のSNS、ネットサービスの利用が禁止された。これらのサービスはウクライナでもユーザーが多く、アクセス禁止によりウクライナの一般市民の活動に重大な影響が及ぶことになる。20185月、ポロシェンコ・ウクライナ大統領は同国のCISでの活動を停止する大統領令に署名、ウクライナまた、1997年にロシアと調印した友好・協力・パートナーシップ条約を破棄する構えを見せている。

 このように、文明的だったはずの離婚から四半世紀を経て、今さらながら泥沼の離婚劇の様相を呈しているのが、今日のウクライナ・ロシア関係である。現下ウクライナの反ロシア的な政策路線は、ロシア側の措置への対抗策である場合もあるし、ウクライナの安全保障上やむを得ない場合もあるだろう。しかし、ウクライナの右翼的な勢力がスタンドプレートとして反ロシア政策を掲げ、政権もその風潮に乗って大衆迎合的にそれを取り入れている傾向も目に付く。経営難や貧困から国民の目を逸らすために反ロシア政策を採り、それがロシアとの関係を悪化させ、それによってさらにウクライナの経営難と貧困が深刻化するという悪循環が見られる。ウクライナとロシアの対立のエスカレートでより深く傷つくのは体力の弱いウクライナ側であり、この不毛なループに一日も早く終止符を打つべきだろう。(服部倫卓)

 

 

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敵と味方に分け、分断を煽っているのは

2024年11月16日 | 国際・政治

 アメリカ大統領選の結果は、蓋を開ければトランプ氏の圧勝でした。

 だから、選挙前の世論調査に基づく主要メディアの報道は、ハリス氏を勝たせるために、意図的に「接戦」であることを装ったものだったのではないかと思いました。

 

 そう思った理由の一つは、ロバアート・ケネディ氏の動向無視です。

 民主党の指名獲得を目指していたロバート・ケネディ氏が、民主党からの立候補を諦め、無所属候補に転じた時、当初は「今世紀最強の無所属候補」などと言われたのです。

 当時、仮にロバアート・ケネディ氏が、民主党のバイデン氏および共和党のトランプ氏と争う三つどもえの選挙戦になった場合、誰に投票するかという調査の結果、ケネディ氏が21%の支持を獲得していたといいます。また、特定の支持政党を持たない無党派層では、ケネディ氏が最も多くの支持を集めていたともいわれていたのです。

 この件に関し、NHK国際ニュースナビには(https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/feature/2023/12/18/36677.html)、

当初は、ケネディ家のブランドもあって、民主党のバイデン氏から票を奪うとの見方がありましたが、ある世論調査では、民主・共和両党の支持層で、“今回はケネディ氏を支持する”とした人はほぼ同じ割合という結果も出ています。このため、ケネディ氏は、両党がともに、無視できない候補者になっているのです。”

 とありました。だから、ロバート・ケネディ氏が立候補自体をあきらめ、トランプ氏支持を表明した時点で、トランプ氏の勝利がほぼ確実になったのではないかと思うのです。それまでのケネディ支持者がすべてトランプ支持に変わるというわけではないでしょうが、21%のケネディ支持者の大半が、ケネディ氏の意図を理解し、トランプ氏を支持すると考えられるからです。

 でも、バイデン民主党政権(=DS)の影響下にあると思われる主要メディアは、そうした事実を受け止めることなく、相変わらず「接戦」を伝えました。

 私は、そういう報道に歪みを感じ、陰謀論と言われる「DS」の影響力が働いているのではないかと思ったのです。

 さらに、下記の動画で、「接戦」が伝えられていたミシガン州のアラブ系およびイスラム教徒コミュニティのメンバーが、”We as Muslims stand with President Trump(わたしたちムスリムは、トランプとともに立つ)と演説しています。こうした組織に所属する人が、個人的にトランプ支持を表明するのではなく、組織としてトランプ支持を表明している事実は重大だと思います。選挙を左右する影響力があるのではないかと思うのです。ミシガン州には、アラブ系住民が多く、イスラム教徒も20万人前後住んでいると推定されているのです。


 だから、こうした事実を客観的に捉えれば、トランプ氏の圧勝は、予想できたのではないかと思うのです。でも主要メディアは、結果が判明するまで「接戦」とくり返していました。それは、主要メディアが世論を客観的に報じる姿勢や機能を失っているということではないかと思ったのです。

 

 また、下記のような記事にも、同じような問題があると思います。

 先日(1114日)朝日新聞の「世界発」という欄に、「領土妥協、平和だとは思えない ウクライナ、4人の子を育てる女性は」と題する記事が掲載されました。

 イリーナ・シュマトコさんはウクライナ戦争で、夫を失っても、「いかなる領土的な妥協もすべきではない」という考えで、母も戦地で命を失っているのに、

また愛する誰かが亡くなってしまうかもしれないことを「怖い」と思わないのか。そう問うと、間を置かずに「思わない」と答えた。

 というのです。

 バイデン政権民主党政権(DS)の影響下にあると思われる主要メディアは、くり返しこうした人物の記事を掲載しています。

 自らが受けた深刻な被害に対する深い悲しみや怒りを語るだけで、なぜそういうことになったのかということには全く言及せず、戦う姿勢を示すのです。

 それは、ウクライナやイスラエルの政治家が、自らの国が攻撃を受けた時点からしか戦争を語らず、その経緯を無視する姿勢と同じだと思います。経緯を無視すれば、相手は突然攻撃を仕掛けてきたテロリストやテロ国家ということになるのです。

 

 それは、しばらく前、朝日新聞の「イスラエル・パレスチナ 市民の声 ガザ戦争1」の欄に掲載されたラヘル・シトルクさんの記事と共通するものだと思います。「実家は入植地 パレスチナ人の攻撃絶えない現実」「わたしたちの国 どこでも住めるはず」と題されていましたが、ユダヤ人のパレスチナ入植によって始まった「争い」の実態、土地や家を奪われたパレスチナ人の思いが語られることはないのです。

 だから、現在バイデン民主党政権と手を結んでいる国々の主要メディアの報道は偏っていると私は思います。客観的事実を報じていないと思うのです。

 

 117日、毎日新聞は、”米大統領にトランプ氏 分断の深まりを憂慮する”と題する記事を掲載しました。”トランプ氏は、リベラルの分裂をあおり、共和党と民主党の対立を激化させ、敵と味方に分かつ構図を作り上げることで支持を集めた”というのです。

 でも、上記のようなことを踏まえれば、主要メディアも、”敵と味方に分かつ構図を作り上げ”ロシアやハマスを敵視する姿勢で、世界を分断する報道に終始してきたと言わざるを得ないと思います。

 

 トランプ氏の勝利が発表されて以降、主要メディアは、民主主義の危機であるとか、国際秩序の崩壊が始まるとか、世界の安定が損なわれるとか大騒ぎしているようですが、それは、バイデン民主党政権の権力喪失が、「DS」を支えてきた人たちの立場を危うくするということから来るものではないかと想像します。

 トランプ氏の方針で、ウクライナ戦争やイスラエル・ガザ戦争が停戦に至れば、バイデン民主党政権の武力主義に基づく世界支配が終わると思います。現状では、アメリカが軍事力に依存しなければ、多極世界になるのではないかと思います。多極世界の新たな国際秩序をどのように構築するかは難しい問題だと思いますが、いままでのような戦争が続く時代の終焉は、国際社会の進歩につながり得ると思います。

 だからメディアは、「民主主義の危機」であるとか、「国際秩序の崩壊」でるとか、「世界の安定が損なわれる」とかという心配を煽るのではなく、新たな時代の幕開けにつながるような報道に転じるべきだと思います。

 

 米紙ワシントン・ポストが10日に、トランプ氏がロシアのプーチン大統領と電話で協議したことを伝えました。確かに電話協議が行われても不思議ではない状況にあると思います。でも、この電話協議について、クレムリンのペスコフ報道官は、

完全な虚偽で、純粋なフィクションだ。要するに単なる誤報だ。会話はなかった

 と述べたといいます。

 にもかかわらず、朝日新聞は、くり返しこの米紙ワシントン・ポストの報道を掲載しました。事実はわかりませんが、ロシアが否定しているのに、自ら取材したのではない他国の情報を、事実確認もせずにそのまま掲載するということには問題があると思います。

 さらに、CNNが、「イラン政府系ハッカーが米選挙関連サイトを偵察、介入目的か マイクロソフトが報告書」と題する記事を掲載しました。

 でも、イランの国連代表部は声明で全く信頼性、正当性がなく、事実無根で許しがたいと、強い反発を示したといいます。

 また先日、主要メディアが、”アメリカ司法省はジャーナリストの殺害を企てたなどとして訴追した容疑者が、イランの軍事精鋭部隊の指示のもとで大統領選挙のさなかにトランプ氏の暗殺も計画していたことが明らかになった”と発表したことを伝えました。この報道についても、イラン側は「まったく根拠がない」と否定したといいます。

 

 アメリカは最先端の情報技術と世界最大の情報組織を持ち、世界中に情報関係者を配置しています。だから、他国が知り得ない情報を発信することができるのだと思います。

 でもそれをいいことに、時々、自らに都合のよい虚偽情報を流すことがあることを忘れてはならないと思います。したがって、ロシアやイランが否定している情報を信じることには問題があると思います。

 くり返しそういう虚偽情報をながすことによって、反ロ意識や反イラン意識を拡大深化させる意図があることを疑う必要があると思うのです。

 

 下記は、「ウクライナを知るための65章」服部倫卓・原田義也編著(明石書店)から抜萃しました。

ウクライナ戦争は、少なくとも2014年まで溯らないと正しく理解することはできないことがわかると思います。

 夫を失っても、「いかなる領土的な妥協もすべきではない」と主張する、4人の子を育てる女性、イリーナ・シュマトコさんには、多分、ドンバス地域に住む人たちの思いは伝わってはいないと思います。

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                        50

    ── ★「ドンバス紛争ドンバス人民の自衛」か「ロシアの侵略」か★ ──

 20142月の首都キエフにおけるヤヌコビッチ政権崩壊と前後し、ウクライナ各地は無政府状態に陥った。特にウクライナ東南部の諸州では、キエフの新政権で反対する勢力が武装化し州庁舎等の公共施設を占拠した。ヤヌコヴィチの地元ドンバスでも、地域党が支配していた州議会・行政府の権威が失墜し、権力の真空を衝く形でロシアの諜報員・煽動家が直に浸透、これと協働した現地の自治体関係者、治安機関、準軍事組織が中心となって州を単位とした「ドネツク人民共和国」「ルハンスク(ロシア語読みでルガンスク)人民共和国」創設が宣言された。その後、ウクライナ新政権との間で武力紛争が生じ、20152月にミンスクで停戦が合意された。以降、両人民共和国がドンバス2州の三分の一、約15km2を実効支配し続ける状態にある。人民共和国内の住民は、公式にはウクライナ国民であるため、ウクライナ・人民共和国間境界線(停戦ライン)に設定された数ヶ所の出入ポイントを通じて合法的に往来することが可能であり。往来数は数万人/日に達している。紛争激化時には多くの住民が域外に逃れ、停戦後、国内、国外避難民数は200万人に達したが、一部は故郷に戻り始めているよ。両人民共和国の統計を合計すると、住民数は計370万人(2018年初現在)となっている。

 両人民共和国はウクライナ政府及び国際社会から「侵略国ロシアの支援を受けたテロリストによる被占領地域」と見做されており、国際的な国家承認を受けていない。そのため、公式には一時的被占領地域、ATO(反テロ作戦)地域、ORDLO(ドネツクおよびルガンスク州特別地区)と呼称される。ロシア政府も、両人民共和国を国家承認していないものの、ドンバス紛争を「キエフのファシスト・クーデターに対するドンバス人民の自衛行為」と定義しており、域内にロシア系住民(ロシア語話者、ロシア民族籍保有者)が多いことと相俟って、ウクライナ政府がコントロールできないロシア・人民共和国間の境界線を通じて援助を行っている。ロシアは、人民共和国が軍事的に追い詰められた20148月に大規模な軍事援助実施し、人民共和国の予算払底後の2015年春以降に財政援助を本格化させ、被占領地域の住民に対する年金、公務員給与を負担している。さらにウクライナ側が被占領地域へのガス供給を停止すると、「人道的観点から」ガスプロム社に命じて供給を肩代わりする等、人民共和国の存続に大きく関与している。ロシア政府による非公式な軍事支援は、紛争の激化を招いており、国際社会による対ロ制裁の根拠ともなっている。

 情報統制やウクライナ民族主義活動家による違法な反ロ行動が黙認されているように、ドンバス紛争はウクライナ政治に暗い影を落としている。また、人民共和国側に住む数百万人のドンバス有権者が国政に参加しないことから、いわゆる「ウクライナ東西分裂」が解消され、北大西洋条約機構(NATO)・欧州連合(EU)加盟政策が確立される機会をウクライナ政府に与えている。一方、人民共和国では、ロシアの影響下でソ連を彷彿とされる政治・経済・社会体制が作り上げられており、欧州統治に向けた改革を進めるウクライナ側との間で乖離が進んでいる。

 紛争はウクライナ経済にも大きな損失を与えている。消費者心理は悪化し、国防予算は膨らみ、ドンバスのインフラは損壊し、ウクライナ法人の資産は人民共和国側に統制され、外資はウクライナ進出を躊躇している。ウクライナ被占領地域間の通商は、2017年初頭にウクライナが経済封鎖を断行したことにより完全に遮断されてしまった。これにより両者間の分業体制が崩れ、人民共和国のみならずウクライナ側でも工業生産の低下を見た。特に人民共和国内で生産される無煙炭が途絶したことによりウウライナ側の火力発電所は燃料不足に陥り、高コストの輸入炭への切り替えを強いられている。ウクライナ政府は、ドンバス復興費を150億ドルと見積もっているが、その一方で被占領地域の補助金漬け産業と年金生活者を切り離す機会ともなっており、財政負担が軽減するというメリットも発生している。

 紛争開始直後、正規軍、財務省部隊、国家親衛隊および志願兵部隊からなるウクライナ側は人民共和国側に対し軍事的優勢に立ち、武力による被占領地「解放」を目指していた。しかし、20158月以降、ロシアが軍事援助を本格化させると、ウクライナは、イロヴァイスク、デバーリツェヴェにおいて軍事的大敗を喫し、欧米と協力した平和的手段による主権回復を目指す政策への転換を余儀なくされた。20152月にウクライナ・独・仏・露四国の首脳会談で合意された「ミンスク合意(ミンスク2)」は、ドンバス和平策として、ウクライナの政治体制の変更、すなわちウクライナ憲法を改正した上で地方分権を行ない、大幅な自治権を与えられたORDLOを含むドンバス全域のウクライナ主権が回復されることを規定している。またこれら地域への財政支出の再会もウクライナ政権に課している。

 和平交渉を主導したプーチン・ロシア大統領の意図は、人民共和国の独立を認めずに「ウクライナ連邦」内に押込み、ウクライナの内外政、特にNATO加盟政策に影響力を及ぼそうとするものである。そのため、ウクライナだけでなく独立を果たせない人民共和国側も履行に消極的であり、欧米とロシアとが共同して紛争当事者へ影響力を行使できるかが紛争解決の鍵となっている。その意味では、欧米・ロシア間の関係改善がない限り、ドンバス紛争は解決されないことになる。

 ミンスク2以降、大きな軍事衝突は起きていないが、散発的な小規模の戦闘は続き、死傷者数が増え続いている。2018年初頭時点で、紛争による犠牲者は1万人を超えている。また、被占領地域の住民の困窮化や衛生状態の悪化、政治的抑圧、さらにはこの紛争が新兵器の試験や社会実験の場と化している等、人道的に看過できない状態が続いている。(藤森信吉)

 

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大事なことが抜けている

2024年11月12日 | 国際・政治

 そう言わざるを得ないのは、ウクライナ戦争やイスラエル・ガザ戦に関する日本を含む西側諸国の報道内容です。だから、あやまった情勢認識に支えられて、戦争が続けられていると思うのです。

 また、見逃せないのは、「あやまった情勢認識」には、多くの意図的な欺瞞が含まれているということです。

 

 前回、「ウクライナを知るための65章」服部倫卓・原田義也編著(明石書店)の「クリミア」に関する記述で、ヤヌコビッチ政権の転覆が暴力によって引き起こされたことに危機感を抱いたヤヌコビッチ政権支持のクリミア自治共和国の人たちが、ウクライナからロシアへの帰属変更を求める運動をしたこと、そして、それを根拠にロシアがクリミアを併合したということを確認しました。

 同じように、20143月、ウクライナ東部のドンバス地域の人たちは、ウクライナ・クーデター政権(暫定政権)に反発し、ロシアの後ろ盾を得て、ドネツィク州とルハンシク州の一部で、「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」という国家の樹立を宣言しました。

 

 でも、こうした地域住民の意志を無視し、ロシアのクリミア併合やロシアの後ろ盾を得た東部の分離独立は、ウクライナの主権や領土の一体性を侵害するものであるとして、ヤヌコヴィチ政権崩壊後に発足したクーデター政権(暫定政権)は、「ウクライナの愛国者」を自称するネオナチ組織なども含めた軍事組織を総動員、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の反政府組織を軍事力をもって潰しにかかったのです。その際、ドンバス地域の反政府組織は「テロ組織」と見されました。そして、「ドンバス戦争」は「反テロ戦争」などといわれたのです。

 また、ウクライナ戦争開始後、アメリカの影響下にある西側諸国では、プーチン大統領の領土拡大欲求が強調され、クリミアやドンバス地域の人たちの運動や思いが、まったく報道されなくなってしましました。

 だから、ドンバス地域の人たちの運動や思いを理解するためには、その歴史を知ることが欠かせないと思います。

 

 下記の抜粋文でわかるように、ロシア帝国時代から、ドンバスは工業先進地域として極めて重要な地域でした。だから、革命と内戦によって損壊したドンバス炭鉱や工場は、ボルシェヴィキによって、いち早く復旧されたのです。

 ボルシェヴィキは”「産業のパン」たる石炭”を重視し、ウクライナ左岸、ドネツク・沿ドニプロ経済地域の中心地として石炭産業や鉄鋼関連産業の開発が進め、ソ連の工業化を牽引させたのです。

 したがってドンバス地域は、帝政ロシアからソ連時代を通じて工業化の中心であり、労働者の力が強く、革命運動だけでなく、スタハーノフ運動等の労働運動(生産性向上運動)の発信地にもなってきたのです。

 下記抜粋文には

” ドンバスの住民は、民族や国家を上回る強い地域への帰属意識を持っている。強烈な地域意識は、首都に対する対抗意識にも向けられており、首都キエフを中心に展開されたオレンジ革命やマイダン革命に対する住民の反感は強い。国政レベルでは、ロシア語を公用語化をもしくは国家語化、関税同盟(ロシア・ベラルーシ・カザフスタン)への参加、NATO加盟反対といった政策に強く賛成してきた。

 とあります。でも、日本を含む西側諸国では、そのドンバス地域の住民の声は聞こえず、その実態もほとんど報じられません。聞こえてくるのは、分離主義者とかテロリストというウクライナ政権側の反政府組織非難の声です。

 現在のゼレンスキー政権の戦争目的は、「ウクライナの主権や領土の一体性を回復する」というよりむしろ、アメリカの戦略に基づき、ロシアに併合された地域の「共産勢力一掃」なのだろう、と私は思います。 

 下記は、「ウクライナを知るための65章」服部倫卓・原田義也編著(明石書店)から、「一 ウクライナのシンボルと風景」の「9章 ドンバス地域 ── 政治・経済変動の震源地」を抜萃しました。

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                      一 ウクライナのシンボルと風景

                   第9章 ドンバス地域 ── 政治・経済変動の震源地

  1.  ドンバスは「ドネツ炭田(Donets’kyi basein)」の略で、ロシア帝国時代、タヴリア県、エカテリノスラフ県、ハリコフ県、ドン軍管州にまたがっていた。ソ連時代には、ウクライナのルハンスク州(1970年にヴォロシロフフラード州から改称)、ドネツク州(1961年にスターリノ州から改称)およびロシアのロストフ州を指していたが、連邦崩壊後は、もっぱらウクライナ領2州の別称として用いられている。ロシア帝国~ソ連~ウクライナを通じ、ドンバスは工業先進地域として極めて重要な地域である。しかし、2014年春に勃発したドンバス紛争により、ウクライナと両「人民共和国」間で分断状態にある。

    ドンバスの開発は、1721年にロシアの炭鉱者カプースチンがドネツ川で石炭を発見したことに遡る。ロシア帝国のバルチック艦隊・黒海艦隊への石炭供給地として開発が始まり、クリミア戦争による中断後、帝国政府による本格的な資源調査が始まり、後の開発の基礎を作った。また、1886年のクリヴィリフ~ドネツク間鉄道の開通により、鉄鉱と石炭を結びつけた冶金産業が急速に発達した。特にドネツク市は、ウェールズ人ジョン・ヒューズの投資によって作られた冶金工場の労働者の街(ユーゾフカ市)として名高い。また、イリチ記念マリウーポリ冶金コンビナートの前身も米国市資本により誕生した。ドンバスの急速な発展は外資導入によるものであり、1917年の社会主義ロシア革命前には、炭鉱、コークス工場、冶金工場の大部分を外資が独占していた。帝国末期には石炭生産量の87%はドンバスで産出されていた。

 

 ボルシェヴィキは「産業のパン」たる石炭を重視しており、革命と内戦によって損壊したドンバス炭鉱や工場はいち早く復旧された。さらにソ連時代に入っても、ウクライナ左岸「ドネツク・沿ドニプロ経済地域」の中心地として石炭産業や鉄鋼関連産業の開発が進められ、ソ連の工業化を牽引した。大祖国戦争以前にはソ連全体の石炭の60%、銑鉄の34%、粗鋼の23%、コークスの50%はドンバスで生産されていた。大戦時にはドイツに占領され、炭鉱、工場のほとんどが破壊されたものの、戦後開始された第45次五か年計画最終年度には戦前の生産レベルにまで回復した。

 このように、ドンバスは帝政ロシアからソ連時代を通じて工業化の中心であったため、労働者が集中しており、革命運動だけでなく、スタハーノフ運動等の労働運動(生産性向上運動)の発信地となった。農業についても、気候的には北部ステップ地帯に属し、肥沃な黒土が広がっているため、小麦、ライ麦栽培に適している土地でもある。そのため、大飢饉(第28章参照)では多くの犠牲者を出した。ドンバスでは、内戦、大飢饉、独ソ戦と、幾度となく人口減少を埋めるために各地から労働者が集められた。結果、ウクライナ人、ロシア人だけでなく、ギリシャ人、タタール人、アルメニア人、ユダヤ人などのエリック的に多様な労働者が住む地域となり、ロシア語が共通語として用いられ、諸エスニック集団を束ねる強固な地域意識が形成された。

 ソ連崩壊にドンバス炭鉱のゼネストは大きな役割を果たしたが。独立ウクライナにおいてもドンバスは政治・経済的変動の発火点となっていった。ドンバス2州は、ウクライナ人口の15%、GDP16%。鉱工業生産額の30%、貿易輸出額の35%を稼ぎ出しており(2011年統計)、ウクライナ政治・経済に強い影響力を及ぼしてきた。また、ウクライナの石炭生産の約四分の三を産出し、特に発電用の無煙炭はドンバスのみで産出するように、ウクライナ・エネルギー自給の要衝であった。

 199112月にウクライナ全土で行われた独立を問う国民投票では、全国で90%の賛成票が投じられる中、ドンバスでもおのおの84%の賛成票が投じられた。しかし、独立後ウクライナ中央政界では高揚した民族主義を背景としてハリチナー地方、キエフ市出身者が要職を占め、ドンバスの政治的地位はソ連時代に比べて後退した。1993年以降、ウクライナ全土で経済危機が進行すると、ドンバスではウクライナ政府に対する異議申し立てが噴出した。炭鉱ストライキはクチマ内閣(当時)を総辞職に追い込み、ドンバス出身政治家の閣僚登用、選挙の前倒し実施等の政治的要求を中央政府に受け入れさせた。1994年に行われた総選挙では、ドンバスの有権者は、議会選挙ではウクライナ共産党に、大統領選挙ではクチマに投票し、結果的に政権交代を助けることとなった。しかし、新大統領クチマは市長時代の恨みを忘れておらず、ドンバス人脈は政府内から一掃され中央政界で力を失った。1998年の議会選挙でも、ドンバスは引き続き野党であるウクライナ共産党の大票田となったが、翌1999年の大統領選挙では、当時のドネツク州知事ヤヌコービッチが行政資源を駆使したことにより親クチマの大票田へと変貌した。2002年の議会選挙でも政権側の票田となり、この功績により、ヤヌコヴィチは、200211月に首相に任命され、次いで2004年大統領選挙の統一与党候補に昇りつめた。2004年のオレンジ革命後、中央政界におけるドンバス勢力は一時的に退潮するが、2006年議会選挙ではヤヌコヴィチが党首を務める地域党が第一党に躍り出て首相に就任したことで復権、さらに2010年大統領選挙においてヤヌコヴィチが当選し2012年議会選挙で地域党が引き続き第一党の地位を守った事により、中央の行政・議会をドンバス、特にドネツク人脈が掌握し、ドンバスに基盤を置くオルガルヒが国民経済を牛耳る体制が出来上がった。しかし、同時にヤヌコヴィチ・ファミリーへの権限が一極集中することで、腐敗・汚職が進行し、マイダン革命の一因となった。

 

 ウクライナ危機後、ドンバスの地位は大きく低下している。一見するとウクライナ経済に不可欠な石炭、鉄鋼作業を有するドンバスであるが、実際は炭鉱も製鉄所も設備の老朽化が顕著で高コストト体質であった。石炭への政府補助金と政府が逆ザヤで安く販売する天然ガスがドンバス鉄鋼業の見かけ上の国際競争力を保っていたに過ぎなかった。有権者の動員により選挙のキャスティングボートを握り、中央政界から多額の産業補助金を引き出して地域経済を循環させてきたドンバスの成長モデルは崩壊した。

 ドンバスの住民は、民族や国家を上回る強い地域への帰属意識を持っている。強烈な地域意識は、首都に対する対抗意識にも向けられており、首都キエフを中心に展開されたオレンジ革命やマイダン革命に対する住民の反感は強い。国政レベルでは、ロシア語を公用語化をもしくは国家語化、関税同盟(ロシア・ベラルーシ・カザフスタン)への参加、NATO加盟反対といった政策に強く賛成してきた。特に言語問題は独立直後から提起されており、ドンバスを地盤とする政党はことごとくロシア語の公用語化を公約に掲げてきたほどである。ロシア語の公用語化を定めた言語法の採択(2012年)は、ヤヌコビッチ政権がドンバス有権者に配慮したためである。ドンバス紛争後、「人民共和国」を名乗る被占領地域では、ウクライナ側のメディアが遮断され、「ロシア世界に属する『ドンバス人』形成が試みられており、ウクライナ化・非ロシア化が進むウクライナ政府支配側との間でアイデンティティ分化が進行している。 (藤森信吉)

 

 

            

 

 

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クリミアとウクライナ戦争

2024年11月08日 | 国際・政治

 トランプ氏が大統領に就任し、約束通りウクライナ戦争が停戦されれば、バイデン民主党政権の進めてきた戦争戦略の欺瞞のいくつかが明らかになるだろうと思います。

 例えば、選挙期間中ハリス候補が主張した、

トランプが大統領になったらウラジーミル・プーチンはキエフを占領するわよ。 プーチンのやりたい放題になったら、ポーランドや他のヨーロッパ諸国に侵攻しないわけないでしょ?

 などということが、自動的に欺瞞であったことが明らかになると思います。

 ハリス氏の主張と同じようなことは、ウクライナ戦争の解説に出てきた日本の専門家と言われる人たちもくり返し語っていました。

 クリミアやドンバス地域が、ロシアに占領されているときに停戦をしてはいけない、ロシアを利することになる、とか、周辺国も侵略されるとか・・・。こうしたことを主張した日本の知識人は、一人や二人ではありませんでした。それが嘘であったことが明らかになるだろうと思います。 

 

 ウクライナ戦争でもイスラエル・ガザ戦争でも、間違った判断をしないためには、戦争をする両方の国や組織の主張・言い分、また、関係国の歴史や戦争に至る経緯をいろいろな方法で知ることが大事だと思います。

 私は、ウクライナやイスラエルは、自らの攻撃を正当化するために、自らが攻撃を受けたり被害を受けたりした時点からしか、戦争や紛争の現実、相互の関係等を語っておらず、大事なことを隠していると思います。そして、自らに都合の良い情報ばかりを流してきたと思います。それは、ロシア側やハマス側にも当てはまる面があるかも知れませんが、西側諸国、すなわち、ウクライナやイスラエルを支援する側の情報に取り巻かれている私には、西側諸国の情報には、深刻な欺瞞があると思っています。

 

 ハリス氏のような主張が欺瞞であることを確かめる意味で、いろいろな著書に当たっているのですが、「ウクライナを知るための65章」服部倫卓・原田義也編著(明石書店)は、そのひとつです。

 同書は、ウクライナ戦争がはじまる前に出版されており、ウクライナ戦争の直接的な影響を受けていないため、大事なことを隠したり、極端にどちらかに偏ったことは書かれていないと思います。客観的な事実が中心だと思うのです。

 

 同書の「 一 ウクライナのシンボルと風景」の「第一章 クリミア 変転極まりない歴史」を読むと、ウクライナとロシアが一方的に併合したというクリミアの間には、ウクライナ戦争が始まる前から、深刻な対立があったことが分かります。

 したがって、ゼレンスキー大統領の「クリミアを取り戻すまで戦う」という言葉は、多くのクリミアの人たちにとっては、受け入れ難い言葉であろうと考えられます。にもかかわらず西側諸国では、プーチンがクリミアを奪い取ったとか、ロシアが一方的にクリミアを併合したとくり返すだけで、クリミアの人たちが併合をどのように受け止めているのかということに関する取材に基づく報道はほとんどありませんでした。クリミアは70%近くがロシア人なのです。そして、同書には、下記のような記述があります。

1783年、ロシアのエカテリーナ女帝(二世)の寵臣ポチョムキンがバフチサライを陥落させ、クリミア・ハン国は滅んだ。クリミアはロシア帝国に併合された。それまでクリミアにはスラブ系の住民は少なかったが、ロシアの併合後、ロシア化が進み、ロシア人・ウクライナ人の移住が進んだ。現在ではクリミアではロシア系の住民が最大多数を占めるに至っている(2020年のロシア国勢調査によると、クリミア半島のロシア人の比率は約68.7%、クリミア・タタール人が10.2%、ウクライナ人が6.9%・・・(http://www.hattorimichitaka.net/archives/57623948.html

また、下記のような記述もあります。

戦後の1954年、フルシチョフ第一書記の時代に、クリミアはソ連内のロシア共和国からウクライナ共和国に移管された。当時はウクライナが将来独立することなど夢にも考えられなかったので、行政上の軽い気持ちで行われたものと思われる。

 しかし1991年、ソ連が崩壊してウクライナが真の独立国となると、クリミアはクリミア自治共和国としてウクライナ内に留まることになった。ロシアもクリミアを含めたウクライナの領土保全を正式に認めたし、独立当初強かったクリミアのロシアへの復帰運動も鎮静化していき、誰もがクリミアのウクライナ残留は解決済みのこと考えるようになった。

 ウクライナが独立したとき、クリミアにはロシアへの復帰運動があったことが分かります。

 だから、マイダン革命に関わって、クリミアの活動家のみならず一般市民も、ローテーションを組んで数百人単位でキエフに行き、ヤヌコビッチ大統領を応援する示威行動を展開してもいたのです。

 ヤヌコビッチ大統領が倒れた時、クリミア人たちが、ロシアに助けを求めた側面を見逃してはいけないと思います。

 さらに、反政権デモのマイダン広場をウェスターウェレ独外相アシュトンEU外交安全保障上級代表ヌーランド米国務次官補が相次ぎ訪れていたことも問題視し、”反露的色彩が強いデモへの欧米の露骨な肩入れは、プーチンを強く刺激した”ともあります。

 だから、 プーチン大統領の、デモは「外部から入念に準備された」との主張は、事実を偽ったプロパガンダなどではないことがわかります。

 

 見逃せないのは、

ウクライナの西部には、歴史的にいくつかの民族主義組織が存在しており、その中にはナチスとの関係が指摘されるものもあります。特に有名なのは、ウクライナ民族主義者組織(OUN)とその軍事部門であるウクライナ蜂起軍(UPA)です。

 という記述です。

 UPAは、ソ連に対抗するためドイツ軍と協力関係を築いた軍事組織だといいます。現在のウクライナではUPAは、ウクライナ国家独立のために戦った組織として名誉回復されているようですが、ロシアやロシアと関係の深い国々およびポーランドなどでは、「ナチス協力者」「戦争犯罪組織」と扱われているといいます。

 

 そして「アゾフ大隊」を結成したウクライナ民族主義者組織に関して、日本でも次のようなことがありました。

 ウクライナ戦争が始まってまもなく、在日ロシア大使館は、日本の公安調査庁がウクライナの国家組織「アゾフ大隊」をネオナチ組織と認めているとSNSで拡散したのです。それを受けて、公安調査庁はホームページから「ネオナチ組織がアゾフ大隊を結成した」という記載を削除しました。

 削除の理由について、公安調査庁は、

「国際テロリズム要覧に関するお知らせ」と題し、『国際テロリズム要覧2023』から抜粋し、公安調査庁ウェブサイトに掲載していた「主な国際テロ組織等、世界の国際テロ組織等の概要及び最近の動向」と題するウェブページについては、政府の立場について誤解を一部招いたことから、当該ページは削除しましたので、お知らせします。https://www.moj.go.jp/psia/ITH/index.html)”

 と説明しました。

 かつてテロ組織と認定していたネオナチ組織が結成した「アゾフ大隊」が、ウクライナ戦争が始まり、国家親衛隊になったから、テロ組織ではなくなったということであれば、もう少し丁寧な説明が必要ではないかと思います。削除ですむことではないように思います。

 また、

「国際テロリズム要覧」は国内外の情報機関などが公表した情報をまとめたもので、独自の評価は加えておらず、アゾフ大隊をネオナチ組織と認めたものではない

 ともいうのですが、無責任な話ではないかと思います。

 

この件に関し、ウィキペディア(Wikipedia)には

日本の公安調査庁は『国際テロリズム要覧2021』において、極右過激主義者の脅威の高まりと国際的なつながりの項目でアゾフ大隊について言及した。公安調査庁は白人至上主義の過激派の動向を分析したThe Sofan CenterTSC)の報告書を元に、『2014年,ウクライナの親ロシア派武装勢力が,東部・ドンバスの占領を開始したことを受け,「ウクライナの愛国者」を自称するネオナチ組織が「アゾフ大隊」なる部隊を結成した。同部隊は,欧米出身者を中心に白人至上主義やネオナチ思想を有する外国人戦闘員を勧誘したとされ,同部隊を含めウクライナ紛争に参加した欧米出身者は約2,000人とされる』と記述していた。

 とあります。

 そして、ウクライナ戦争と関わって、アメリカが、「アゾフ連隊」に対する長年にわたる武器供給と訓練の禁止を解除したことも、忘れてはならないことだと思います。同連隊が、その起源に極右集団とのつながりが疑われ、議論があったというのです。

 だから、ウクライナの「非ナチ化」を掲げるプーチン大統領の主張も、事実を偽ったプロパガンダなどではないと言えるように思います。

 たとえ、トランプ氏の大統領就任で、ウクライナ戦争が終わっても、こうした欺瞞は、忘れ去られるのかも知れませんが・・・。

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                  一 ウクライナのシンボルと風景

                第一章 クリミア 変転極まりない歴史。

 

 クリミアは、面積27000 ㎢で、九州と四国の中間の広さを持つ。黒海に面し、幅5から7kmのペレコープ地峡によりユーラシア大陸、つまり現在のウクライナ本土と繋がっており、かろうじて半島になっている。ロシアとは地続きになっていない。北・中部はステップ地帯である。南部には、最高1545mのロマン・コシュ山を含む險わしい山脈が東西の海外沿いにそびえている。

 

 半島南部の気候は地中海性気候で、糸杉が連なり、ぶどう畑が広がり、写真だけを見れば南仏のリヴィエラ海岸かと見まちがう。極寒と思われているロシア・ウクライナの地にこのような温暖な地があることは信じられないほどだ。ロマノフ王朝の諸皇帝およびその家族もクリミアをこよなく愛し、最後の皇帝ニコライ二世も都のサンクトペテルブルクよりもヤルタに居たがったという。ソ連の時代にも人々はクリミアへ保養に行くことを何よりも望んだというのもうなずける。

 

 歴史をふり返れば、クリミアは、その特異な地理上の位置から、歴史上まことに目まぐるしい変転を重ねてきた。これほど主が度々入れ替わった半島は世界史上にも例がないのではないか。

 クリミアには紀元前10世紀頃からイラン系キンメリア人が住み始めたが、紀元前7世紀頃には同じくイラン系のスキタイ人に駆逐された。スキタイ人はこの地に多くの円形の古墳を残した。同時期にギリシャ人もクリミア海岸に現れ、ケルソネソス(現セバストーポリ近郊)、パアンティカパイオン(現ケルチ)、テオドシア(現フェオドシア)などの植民都市を作った。

 紀元前10世紀ごろには大陸部でキエフ大公国が隆盛となり、ケルソネソスは一時ヴォロディーミル大公により占領された。同大公がキリスト教(正教)に改宗したはケルソネソスであったと言われている。

 13世紀になるとモンゴルが来襲してキエフが陥落し、キエフ大公国が滅びた。クリミアもモンゴルの末裔のキャプチャク・ハン国に支配されるようになった。クリミア南部のカーファ(現在のフェエオドシア)をはじめとするソルダイア(現スダーク)、エフパトリアなどにイタリアのジェノバやヴェネチアが貿易拠点を設けた。これらの都市は自治を許され、はるか中国の元とも交易をおこなった。マルコポーロの父もソルダイアに商館を持っていた。

 

 キプチャク・ハン国の力が衰えると、15世紀中ごろクリミアのタタール人は独立し、ジンギス・ハーンの後裔と称するメングリ・ギレイはギレイ朝のクリミア・ハン国を建国した。同国はイスラームを奉じた。その都であるバフチサライには、今も純イスラーム風の木造の宮殿が残っている。ロシアの文豪プーシキンも19世紀の初めにこの地を訪れ、叙事詩「バフチサライの泉」を残した。

 15世紀後半、クリミア・ハン国はオスマン帝国の属国となった。オスマン帝国がその軍とハーレムのために奴隷を必要としていたこともあり、クリミアのタタールは大陸部で町や村を襲い多数の男女を拉致した。クリミア海岸地域には奴隷市が栄え、彼らはオスマン帝国売られていった。奴隷交易はクリミア・ハン国の大資金源であった。ただ、オスマン帝国のハーレムに売られた女奴隷の中には後にスレイマン大帝の皇后なった女性もいた。なお、ウクライナ南部でコサックが発生したのも、このタタールによる奴隷狩り対抗する面もあった。

 1783年、ロシアのエカテリーナ女帝(二世)の寵臣ポチョムキンがバフチサライを陥落させ、クリミア・ハン国は滅んだ。クリミアはロシア帝国に併合された。それまでクリミアにはスラブ系の住民は少なかったが、ロシアの併合後、ロシア化が進み、ロシア人・ウクライナ人の移住が進んだ。現在ではクリミアではロシア系の住民が最大多数を占めるに至っている。また、ロシアはセヴァストーポリに軍港を築き、黒海艦隊の基地とした。

 

 1853年から56年までクリミア戦争が起きた。英・仏がオスマン帝国を助ける形で、東欧や地中海に進出しようとしたロシアを押えるために起こした戦争で、クリミアが主戦場となったためクリミア戦争と呼ばれる。結局はロシアが敗け、ロシアの貴族・知識人はロシアの後進性を痛感してその後の改革・革命の端緒となった。また、英・仏・露がこの戦争に忙殺されていたため極東への進出に出遅れた結果、日本進出では、米国に先を越され、ペリーによる日本開国につながったとの説もある。さらに同戦争ではナイチンゲールが敵味方の区別なく傷病兵を看護したことが後の赤十字発足のきっかけとなった。若きトルストイは自らの従軍の経験を『セヴァストーポリ物語』に書き、彼の出世作となった。

 

 ロシア帝国の下、南部海岸沿いのヤルタなどは保養地として皇帝一家をはじめ多くの貴族、金持、文人、芸術家が離宮や別荘を建て、社交地として栄えた。今でも文豪チェーホフの家が残っている。彼の名作『犬を連れた奥さん』もヤルタが舞台である。

 第一次世界大戦およびロシア革命の間、クリミアはボルシェヴィキの赤軍、デニキンやウランゲリなどの白軍、ウクライナ独立軍、ドイツ軍が入り乱れて戦ったが、結局はボルシェヴィキが勝利を占め、クリミアはソ連に編入された。1921年、クリミアはロシア共和国内のクリミア自治共和国となった。

 第二次世界大戦ではクリミアはドイツ軍に2年半占領された。ソ連による再占領後、スターリンはクリミア・タタール人を対独協力の嫌疑で全員約19万人余を中央アジアに強制移住させた。その移送途中や移送後に多数が死亡した。これはスターリンの暴挙の一つに数えられている。戦後1967年になり追放措置は解除され、多くがクリミアに帰還した。現在ではクリミア人口の約1割を占めているが、元々の先住民族であるにもかかわらず、すっかり少数民族になってしまった。

 第二次世界大戦末期重要会談がクリミアで行われた。19452月のヤルタ会談である。ヤルタのロシア皇帝のリヴァディア離宮でローズヴェルトとスターリン、チャーチルの三首脳が集まり、戦後体制の大枠を決めた。そのため戦後は「ヤルタ体制」と言われるほどである。とりわけ日本にとって重要なのは、ローズヴェルトとスターリンの間で密約ができ、ソ連はドイツの降伏後23ヶ月して対日宣戦し、それを対価として日本領であった樺太南部及び千葉列島をソ連に引き渡すことを。米国が承諾したことである。

 

 戦後の1954年、フルシチョフ第一書記の時代に、クリミアはソ連内のロシア共和国からウクライナ共和国に移管された。当時はウクライナが将来独立することなど夢にも考えられなかったので、行政上の軽い気持ちで行われたものと思われる。

 しかし1991年、ソ連が崩壊してウクライナが真の独立国となると、クリミアはクリミア自治共和国としてウクライナ内に留まることになった。ロシアもクリミアを含めたウクライナの領土保全を正式に認めたし、独立当初強かったクリミアのロシアへの復帰運動も鎮静化していき、誰もがクリミアのウクライナ残留は解決済みのこと考えるようになった。

 しかるに、2014年、ウクライナで親ロシアのヤヌコビッチ政権が崩壊すると、ロシアは軍を出動させてクリミアをロシアに併合した。その詳しい経緯は第49章及び第52章に譲るが、この併合は、国連憲章の中心原則である「国際関係における武力行使の禁止」に真っ向から違反するものとして、ウクライナはもとよりG7のなど多くの国が認めていない。2018年、ロシアはクリミアとロシアを隔てるケルチ海峡に自動車橋を完成させ、クリミアを手放さないとの姿勢である。クリミアの帰属をめぐる問題は今後も長く尾を引きそうである。(黒川祐次)。

 

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”屈辱より死” 、ガザの市民の叫び

2024年11月04日 | 国際・政治

 朝日新聞は、111日「ホロコースト生還者 なぜガザ攻撃正当化」と題する記事を掲載しました。

 ナチスの強制収容所の一つ「テレジン」の悲劇を伝えてきた作家の野村路子さんが、今夏、ホロコーストを生き延びた友人とチェコで再会したときの話です。

 野村さんは、イスラム組織ハマスの急襲に対するイスラエルのガザ攻撃に衝撃を受け、すぐに知り合いにメールを送ったそうです。

 その一人がディタ・クラウスさん(95。野村さんにテレジンアウシュビッツの体験を語ってくれた友人であり、今も「語り部」として活動している人だといいます。

 

 下記のような内容です。

 しかし、その後のやるとりは険悪になった。

”<多くの子どもたちの命が奪われていくガザの現状はかなしい。一日も早く平和の訪れを>とつづったのに対し、

 <日本ではパレスチナ寄りの情報しかないのか? あの日、ハマスは多くの赤ちゃんを殺し、その親たちを拉致した><イスラエルの行為は自分たちを守る正当なものだ>と激しい言葉が返ってきた。

 「私はどちらの味方でもない。過酷な体験をしてきた彼女が、なぜ『子どもの命を大事に』という思いを共有してくれないのか」、野村さんは悲嘆に暮れた。

 同じ頃、活動を長年支援してくれた在日イスラエル大使館との関係も悪化した。野村さんが停戦を要望するなどしたせいか、それまで届いていた大使館配信のメールマガジンが途絶えたという。

 

 ホロコーストの生還者は、筆舌に尽くしがたい恐怖や苦痛、怒りや悲しみを体験したからでしょうが、冷静な判断が出来なくなっているように思います。そしてそれが、イスラエルによる「民族浄化」の戦争を進めることにつながっているようい思います。

 国際社会の声を無視し、ナチスドイツを思い出させるような残虐な民間人、特に女性や子どもの殺害をくり返すイスラエルの犯罪を直視すれば、「シオニズムを裏返すとナチズムになる」という高橋和彦氏の指摘は、単なる言葉遊びではなかったことがわかります。シニストは、現在もナチズムを乗り越えてはいないということです。

 そういう意味で、野村さんにテレジンアウシュビッツの体験を語ったというディタ・クラウスさんも、「ハマス殲滅」を主導するイスラエルの政治家や軍人と同じように、法や道義・道徳に基づく考え方ができなくなっているのだと思います。

 他人の声が耳に入らなくなっているイスラエルの人たちの過ちは、戦争や紛争の経緯の無視として、また、客観的事実の無視としてあらわれていると思います。

 バイデン大統領やゼレンスキー大統領やネタニヤフ首相は、自分の国が攻撃を受けたときから、相手国や敵対組織との対立を語ります。

 相手の攻撃による深刻な被害をくり返し語ることによって、国際社会の多くの人びとに、相手の国や敵対組織を「絶対悪の独裁国家」と印象づけたり、「恐ろしいテロ組織」と受け止められるようにするのです。自らの戦いを「善と悪の戦い」にするために、戦争や紛争に至る経緯を隠すのです。

 ハマスのイスラエル襲撃前、イスラエルが、どれくらいの土地や畑をパレスチナ人から奪ったか、パレスチナ人を分離壁で狭い土地に閉じ込め、どのような人権侵害をしてきたか、抵抗するパレスチナ人を何人くらい殺したか。

 そういうことは、すべて隠され、なかったことにして、ハマスのイスラエル襲撃を非難するのです。だから、ハマスはテロ組織ということになるのです。

 でも真実は、主として東欧系ユダヤ人アシュケナジームが、パレスチナの地に移住し、イスラエルという国を建国したときから、事実上の戦争状態が続いてきたのです。

 イスラエルが、戦争に至る経緯を隠しても、下記のような動画が、シオニストはナチストと変わらないことを示しているように思います。女性や子ども容赦しないで殺し、パレスチナ人を皆殺しにしないと、解決しないという主張をしているように思うのです。


「イスラエル、イラク、アメリカ ─戦争とプロパガンダ3─E.W. サイード:中野真紀子訳(みすず書房)に基づいて、過去をふり返れば、ユダヤ人、特に東欧系ユダヤ人・アシュケナジームが、パレスチナの地に不法に移住する前は、様々な人種や文化や宗教の人々が、多様性を維持しながらおおむね平穏に共存していたのです。

 でも、そこに先住民を抑圧する排他的なユダヤ教徒が移住してきて、家を奪い、畑を奪い、抵抗する若者を殺害したりしたから、イスラエルの不当な略奪行為や占領地支配に対し、投石などによって抵抗する民衆蜂起、「インティファーダ」が発生し、「ハマス」が生まれることになったのです。

 『「和平合意」とパレスチナ イスラエルとの共存は可能か』土井敏邦(朝日戦勝537)には、1987年12月ごろから、パレスチナ人が一斉に蜂起した自発的な民衆蜂起が、パレスチナ自治への動きの起爆剤となり、パレスチナ解放を目指すイスラーム組織ハマスが創設された、とあります。

 こうした事実は、イスラエルの犯罪性を示していると思います。それを無視してはいけないのです。

 

 同書の中には、「ハマスとは何か」と題する一節があります。

 そのなかに、「イスラム抵抗運動」というアラビア語の頭文字を取ったのが、「ハマス」という名称であると書かれています。

 また、ガザ地区で出された最初の声明の中で、ハマスは「当面のいくつかの目標」をあげていますが、それは、

被拘置者の釈放、彼らに対する虐殺の停止、

入植の拒絶、国外追放または移動禁止の政策の拒絶 占領と市民に対する暴虐の拒絶、悪徳と堕落を(イスラエルが)広めることを拒絶。不当な重税の拒絶」

 というような目標です。どの目標も実態からして当然の目標で、テロ組織の目標とはいえないと思います。

 また、その後発表された「ハマス憲章」では、

ハマスの目標を「虚偽を失墜させ、真理を優越せしめ、郷土を回復し、モスクの上からイスラム国家の樹立を宣言する呼びかけをなさしめ、人びとと物事のすべてを正しい位置に戻すこと」(九条)とし、さらに「パレスチナの地の一部でも放棄することは、宗教の放棄の一部である。またハマスの愛国主義はその信仰の一部をなす」(13条)として、ハマスが現在のイスラエルを含むパレスチナ全土の解放をめざす

 とさらに、目標を深化させているのです。

 

 上記の記事に、朝日新聞は、「復讐の連鎖を絶つ難しさを思う」というような副題をつけているのですが、ハマスのイスラエル襲撃とイスラエルの残虐行為を、同列に並べるような捉え方をしてはいけないと思います。

 軍事的に優位な立場にあること、進んだ技術や文化をもっていること、経済的に裕福であること、西側諸国の支援があることなどをかさに着て、パレスチナ人から家や田畑を奪い、狭い地域に閉じ込め、差別・抑圧するような不当な支配、言い換えればイスラエルによるパレスチナ人に対するアパルトヘイトのような政策こそが問題なのです。それらは、すべて国際法違反です。

 イスラエルが、国際法を尊重し、道義・道徳を重んじて、攻撃を停止するべきだと思います。

 

 下記のような「叫び」を無視することは許されないと思うのです。

疲れ切った北ガザの市民が叫び始めた、「屈辱より死」と。

 

 

 

 

 

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