2014年年11月15日、下村博文文部科学大臣は会見を行い「教科書改革実行プラン」を発表した。そして、今後はこのプランに沿って必要な制度改正を行っていく予定だと語った。その内容に驚かされる。
文部科学省は社会科、特に近現代史が基準改定の対象であるという。そして、教科用図書検定調査審議会において、下記のような改定が了承された。
1、愛国心・郷土愛など改定教育基本法に盛り込まれた目標をどのように教科書に反映しているかを教科書会社に書面にて提出させる。
2、「通説的な見解がない事例」や「特定の見解を特別に強調して記述をする場合」には「バランスのとれた記述」とすること
3、政府見解や確定判例がある場合、教科書に記載すること
4、改定教育基本法や学習指導要領の目標に照らして欠陥がある場合を不合格要件とすること
安倍政権は、いよいよ国家主義的な色彩を前面に出した教科書づくりに取り組み始めたということではないか、と思う。
そしてすでに、昨年7月の「集団的自衛権の行使を容認する」という安倍政権による憲法解釈変更の閣議決定が、教科書の記述に大きな影響を及ぼしているという事実が報道された。それは、改定に、上記3の「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解や最高裁判所の判例がある場合には、それらに基づいた記述がされていること」を入れたからである。
「政府見解」を教科書に記載させることは、ある意味で教科書の国家統制であり、日本の過去の過ちを再び繰り返すということではないか、と思う。
国益や一部集団の利益を念頭に置いて、学者や研究者の客観的な歴史研究の成果とは異なる次元で議論される政府や特定の政治勢力の主張を、あたかも史実のごとく教科書に記載させることが、大きな問題であることは、領土問題に限らず、「従軍慰安婦」の問題や「南京大虐殺」の問題をめぐる最近の議論を考えれば、明らかだ。日本国内だけではなく、海外からも懸念の声があがっているようであるが、安倍政権の歴史修正主義的な主張を考えれば、当然のことだと思う。
まさに、特定の政治勢力による教育の「不当な支配」にあたると思うのである。そして そうした安倍政権の姿勢に引きずられて、社会全体に再び、政治的に自由な言論が許されない雰囲気が広がりつつあるような気がしてならない。
例えば、先だって「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」と詠んだ市民の俳句を、さいたま市大宮区の三橋公民館が「公民館だより」への掲載を拒否した問題があった。全国から抗議の声が相次いだようだが、市や市教育委員会は掲載拒否を撤回しようとしなかったという。これは、安倍政権の意向を敏感に感じた公民館側の自主規制なのではないか、と思う。
NHK籾井会長の「政府が右と言っていることは左とは言えない」などという主張は論外であるが…。
「南京事件」については、多くの被害証言はもちろん、下記のような加害証言が相当数あるにもかかわらず、今、日本ではそうした証言をほとんど無視した主張が繰り返されている。もはや引き返すことが難しい状況になっているのではないかと心配である。
下記は『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)からの抜粋である。
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第3部 証言
2 南京陥落前後──城内や城門付近での虐殺
太平門で敗残兵を処分せよと言われた
大東真一
1906年7月生まれ
南京戦当時 第16師団歩兵三十三聯隊第二大隊
1998年5月取材
昭和3年1月10日久居33聯隊に入隊。鳥羽から奉天駐箚。昭和5年1月10日除隊。以後6年間青年学校の指導員をし、初年兵の指導の功績を認められて表彰されました。
昭和12年8月30日に県下で一番大きい第5動員〔26日から開始〕の召集を受けました。わたしは砲兵でしたが、村から近い久居に変えてもらい、第33聯隊に行きました。うちの村で50人くらいが召集を受け、歩兵は久居に、砲兵、輜重は京都の16師団の各聯隊へ入営しました。ずっと百姓や土方仕事をしていたので体は丈夫でした。
南京攻略の時、紫金山へは登り降りしました。中国人百姓の鍋でご飯を炊き、分隊全員の分を飯盒につめて糧秣を運んだり、戦死者を運び降ろしたりしました。斥候にでて分隊の者が戦功により5級をもらいました。六中隊長の辻四五郎は、工兵の援護射撃を断り、独断で夜襲をかけました。激戦で夜明けに天文台の方からチェッコ銃の側射を受けて、山の中腹で一歩も動けず、岩山で身を隠す穴も掘れず難儀しました。自分の分隊12人のうち3、4人が戦死。うちの中隊だけでかなりの戦死者が出ました。
夜が明けてから太平門に攻め下りる時、敵の工兵を捕まえました。地雷を撤去させながら、道案内をさせ紫金山から太平門まに進んだんです。太平門では、敗残兵がかなりいてね。
あそこで虐殺があったと言うが、わしは行かなんだけれど、好きな人は見に行ったな。太平門で虐殺したかもしれん。太平門で敗残兵を何したかもしれない。しっかり覚えてないが、そこで中隊長が処分せいと言ったのを聞いていました。でも、わしはそんな所へ立ち合わなかったですよ。中国人を切ったり突いたりするのが好きな人はやりました。捕虜は次々捕まえ太平門の外にいました。あんまり覚えてません。
その後、わしらは下関に向かい残敵掃蕩しました。掃蕩のことも覚えてないなあ……。六中隊には第二機関銃がついていました。私の初年兵の教官だった重機関銃の隊長がいた。
入城式には参加しました。各聯隊からたくさんの聯隊旗が立っていて、あんなにたくさんの軍旗を見たのは初めてでした。中隊は玄武湖の近く太平門の警備に一週間ほどいました。あたりに手榴弾がいくつも落ちていて玄武湖に放りこむと爆発して魚が浮いてきて、いっぱい取りました。
掃蕩もあったけど、城外に出かけるだけで、を回ってくるだけで敵はいなかったです。女がおるくらいでほとんどからっぽでした。分隊で難民久区に入った時、塔の中にひっぱり込まれたクーニャン〔娘〕2人を救けてくれと中国人に頼まれ救けだしたことがありましたな。
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敗残兵に石油をかけて焼き殺した
大沢一男
1916年12月生まれ
南京戦当時 第16師団三十三聯隊第二大隊
2000年12月取材
●──紫金山ではえらかった
家は百姓で、両親がいて、3人兄弟の長男でした。甲種合格だったので、もう諦めてますわな。親に元気でやってこいと言われました。昭和12年1月10日、現役で久居の33聯隊に入営しました。昭和11年兵です。
私らの中隊長は志願して上がってきた人で、歩く歩兵操典といわれた人でしたな。
12年8月、私らの中隊が編成されました。聯隊本部を出て大阪で2泊、それから北支に行きました。子牙河というところで戦闘がありました。また大連に戻ってから上海ですわ。敵前上陸といっても第一戦やないからもう落ち着いておって、銃の音も聞こえませんでしたよ。南京行くまで道路道路で敵にあって、うちの中隊も戦死者がありました。
紫金山では、3日ほど攻撃しましたかなあ。うちの中隊が第一戦となってそれはえらかったですわ。五中隊と先陣を争っていました。紫金山は、私らは正面から登ったんで、上から手榴弾をぽんぽんぽんぽん投げてくるんですわ。大きな石の山で手榴弾が跳ねますねん。中隊長が自分らの小隊に「突撃せい」と、言うたんですわ。それで、代理小隊長が、「突撃、突撃」言うて進んでも、上から石がごろごろ落ちてくるわ、人間が落ちてくるし、小隊長の声が聞こえんようになりましてな。またしばらくしたら、「上がっていくんや」の怒鳴り声がしましてな。ダーと行きましてん。そしたら、てっぺんにずうっと壕が掘ってあって兵隊がいる、そこへ飛び込んで、銃剣で敵を突きましたよ。紫金山の時は、擲弾筒を使いませんでしたよ。トーチかには、逃げやんように足を鎖で繋がれているのもいて、死ぬまで闘ってるのやね。びっくりした。大勢の中国兵はやられてるし、素早いのは逃げて、もう山の上には中国兵はおらへんの。山から見た南京は大きな街でそれはきれいやった。
●──城内に入ると、焼殺、強姦、掠奪
夜明けに突撃して、紫金山からまっすぐ下りて、太平門に向かいました。大きな門は開いていて門を入ったところに敗残兵がたくさんおりました。敗残兵はあかんと思ってかどんどん手を上げて出てくるんですわ。次の日ぐらい、それは大勢の敗残兵を城壁の角っこに全部集めてぐるりを鉄条網で囲みました。城内の防空壕、要塞の中にはなにやらいっぱいありますねん。石油をとってきて城壁の上から敗残兵の頭にぶっかけました。支那人ちゅうのはあきらめがいいんやね。じっとしている、火をつけたら逃げた者もおりましたで。それでもくすぶって人間なんて燃えませんで。死体はそのままでほっていました。
正月は南京城内で過ごしました。城内は荒れていました。家はどこも荒らされていました。支那人というのは道具をあまり持ってなくて、鍋釜ぐらい持って逃げてたようですな。駐屯は小隊単位でしたが、分隊で一軒家に固まりになって民家に駐屯していました。城内へ入っても危ないので、2人や3人ではぶらぶら歩けないでな。なにがおるかわからないから。掃蕩は分隊単位で行きました。
揚子江の集団虐殺は、中隊長の命令でやったんや。「敗残兵は揚子江のふちに立たせて機関銃で殺せ」というのを聞いたことがある。私らの分隊は実際にはやってないけどな。揚子江に行ったとき、汚い河で渦が巻いとった。
城内の死体は臭いにおいがするので、向こうの中国人を使って死体処理をしました。おかしな形でな、木の一輪車というのかそんなのに乗せて運ばせて、穴を掘って埋めました。私らは一日だけやったので、後は他の部隊がやったようですな。
兵隊が南京の女学校に入ってそうとう悪いことしたと聞いてますな。駐屯するとな、一週間ぐらいもせんうちに慰安所ができますねん。韓国人がやってきます。支那人は支那人でそうゆう遊商売人がおりますねん。外からの慰安所ができる前は、部隊で女の子を何人か捕まえて連れこんで慰安所にするのもあります。駐屯してると、いつの間にか准尉さんが気をきかせて、女の子にお金を払って兵隊にあてがう。それは仕方ないわな。言うにいえんことやってる。敗残兵が隠れておったりした家をそのまま火をつけて焼いたりして、南京ではたいがい悪いことしたな。
兵隊かどうかは目つきでわかるな。びくびくしたら兵隊や。20歳前後の人はまあ兵隊にとられとるからあやしい。怖がってびくびくしてるのは運が悪いんやね。あやしいと思った男という男は引っ張っていった。南京では、ほとんどの兵隊が虐殺をやってますやろ。
今夜はここで一泊すると命令が出ますやろ、そしたら、みんな散らばって徴発に出かけて、家をバーと開けて、鶏盗ったり、卵盗ったり鍋やら釜、野菜を盗ったり、そういうことをするんですわ。どこの部隊もやります。略奪やわな。だせへんかったら殺してしまう。ほとんどの人は逃げてますわな。怖がってわらの中でごそごそ隠れてるのもいます。娘さんなんかは墨で顔を真っ黒に塗ってな。だれも鍋の墨塗って化けとるねん。若い女ってすぐわかるから捕まえて悪いことする兵隊はほとんどや。支那事変ではほとんどやっていた。風紀を乱したらあかんと言うのは、南京を出発する前のころはありましたで。それまでは、(戦闘状態で)こちらの兵隊が倒れたりやられたりすると、お互いワーとケンが立ってきますやろ。それでやられるとやりますがな。中国人だから殺す。酷いことしました。
●──戦争は負けてよかった
昭和13年ごろ、大別山の戦闘では、聯隊で一個中隊のガス中隊をつくった。各中隊から何名かいきなり呼び出され、洗面器に顔をつけろと言われました。若いわしらは洗面器のなかに顔をつけて息を止めて長い時間できたので、お前はガス中隊に行けと言われた。それで、マスクつけてガスを撒きに行った。ガスはボンベを持ってガスマスクと手袋をつけてシューと播きました。風向きが大事で、撒くとすぐに逃げました。この時も第一戦でしたわ。ガス中隊には、中隊長がいてその下にすぐ分隊が5つありました。そのうちマラリアにかかって入院していました。
中国、フィリピン、ビルマと外地ばかり戦争に行きました。今から見ると、あの戦争に勝っておったらもっと苦しいやろ。若い者が内地におらんやろ、外へ出ていかなならんで、負けてよかった。この戦争は東条さんに騙されとったんや。軍部が権力をもったらあかんのや。天皇陛下も言いなりやったな。天皇陛下万歳なんていう人おらんで。ビルマ行くときなんて木の大砲つんで、7歳下の弟も一緒だった。負けることはわかってた。こんなことは二度と繰り返してほしくない。私らで十分経験してるんでな、こんなことはあかん。
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