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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「地図にないアリラン峠」の話と日本の人権問題

2020年01月27日 | 国際・政治

「地図にないアリラン峠 強制連行の足跡をたどる旅」(明石書店)の著者・林えいだい氏は長く強制連行された朝鮮人の証言を取り続けて、様々な事実を明らかにされていますが、同書の「第一章 筑豊と私」の「(4)地図にないアリラン峠」の中で、子どもの頃に自分自身が目撃した、下記のような衝撃的な事実も書いています。
「これから病院に連れて行ってもどうせ助かるまい、早うそこらに穴を掘って埋めておけ!」
義兄は持っているピッケルで坑口近くの辺りを指した。二人の朝鮮人坑夫は、まだ生きているのに病院で治療も受けさせず、坑口付近に掘られた穴に生き埋めされてしまった。

 また、朝鮮人だといって差別せず、戦時下、逃亡してきた朝鮮人抗夫に手を差し伸べた両親の強い影響を受け、朝鮮人強制連行の問題に取り組むようになったとして、両親に手を貸した事実の一端を書いていますが、それは、戦争だから仕方がなかったなどと言って済ますことのできない差別的で野蛮な犯罪的仕打ちに対する命がけの抵抗だったのではないかと思います。
 さらに、私が見逃すことができないのは、こうした戦時中の犯罪的事実を明らかにしようとするジャーナリストや研究者、歴史家などを脅す人たちが、戦後の日本に多数存在することです。林えいだい氏も脅迫されたことを書いていますが(下記に抜粋)、本人はもちろん、家族にまで危害を加えるというような脅しはほんとうに卑劣だと思います。実際に家を焼かれてしまったという人の話も聞いたことがありますが、それは、明らかにされた事実が嘘ではないことの証だと思います。
 またそうした脅しがくり返されるのは、戦前・戦中、指導的な立場にあった人たちが、責任を追及されることなく、戦後の日本でも大きな影響力を持ったからだと思います。
 だから、日本はいまだに戦前・戦中の差別性や野蛮性をきちんと克服できていないので、「人権後進国」などと言われたリするのではないかと思います。

 例えば、ゴーン容疑者の逃亡によって、「人質司法」といわれる被疑者の長期拘留の問題が注目を集めました。特に被疑事実を否認した場合、別件逮捕などを交えて長期間身柄を拘束される問題は、以前から指摘はされていましたが、改善されていないと思います。また、被疑者の取り調べに弁護士の立ち会いが認められていないことも、主要先進国の中では異例だといいます。「密室」の取調べでは、捜査側による強引な取り調べや誘導がなされ、冤罪を招くとの指摘も、以前からくり返されてきました。こうした弊害を防ぐため取り調べの録音・録画が導入されましたが、その対象はいまだ一部に限られています。
 さらに、被疑事実を否認したり、黙秘したりする被疑者には、弁護人以外の接見が認められないことが多いのも、日本の刑事司法の異常な側面の一つだといわれます。ゴーン容疑者もそのことを訴えたようですが、家族(妻)との接見が許されなかったようです。家族を通じて証拠を隠滅する可能性があるということが優先され、被疑者の人権は後回しにされる傾向が強いのだと思います。
 こうした被疑者の取扱いは、世界人権宣言の理念を現実化するため1966年、国連総会で採択された人権に関する規約、すなわち、「国際人権規約」に反するのではないかと思います。

 国際人権規約B規約14条2項に
刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する。
 とあるのです。これは、「仮定無罪の原則」とか「無罪の推定」とか、「推定無罪」とかいわれるようですが、日本では無視される傾向が強いのではないかと思います。警察に逮捕された瞬間、被疑者が「推定有罪」の扱い受ける日本の刑事司法は、非人道的でこわいと思います。特定の個人を意図的に犯罪者にしてしまうことも可能ではないかと思われるからです。そういう意味で、日本の警察や検察は、戦後も「疑わしきは罰せず」とか「疑わしきは被告人の利益に」という考え方にはなっていないように思います。
 
 また、日本の入国管理局の人権無視もくり返し指摘されています。国連の規約人権委員会の総括所見や、国連の拷問禁止委員会の総括所見で、日本の入国管理手続や入国管理局の収容施設の処遇について懸念や勧告が出され、国際人権機関から批判されているのです。難民申請者をあたかも犯罪者のように扱う日本の入国管理局の人権無視の一因は、その組織の歴史的経緯によるということを聞いたことがあります。
 戦前・戦中、日本の入国管理は、警視庁や各都道府県の特別高等警察(特高)と同様に内務省が所管しており、警察行政の一環として入国管理が行われていたということですが、大日本帝国での市民だった朝鮮人、また外国籍の人たちや共産主義者らを取り締まっていた役人たちの多くが公職追放を免れ、戦後の初期から出入国管理業務に携わったために、日本国憲法の精神に基づく人権意識が希薄で、入管業務対象者に対して、戦前・戦中同様、公安的な発想で接してきたというわけです。
 上記の拷問禁止委員会は、日本の入管施設内における「多数の暴行の疑い、送還時の拘束具の違法使用、虐待、性的いやがらせ、適切な医療へのアクセス欠如といった上陸防止施設及び入国管理局の収容センターでの処遇」について懸念を表明し、さらに、「入国管理収容センター及び上陸防止施設を独立して監視するメカニズムの欠如、特に被収容者が入国管理局職員による暴行容疑について申立てできる独立した機関の欠如」への懸念も表明し、「処遇に関する不服申立を審査する独立した機関の設置」を勧告したといいます。収容されている人たちの人権が守られる体制になっていないということです。
 そうした実態を裏づけるような記事が、先日の朝日新聞「ひと」欄に出ていました。茨城県牛久市の東日本入国管理センターを望む高台からメガホンで「ハロー。また来たよ。みんな愛してるよ」と呼びかけるナイジェリアの少数民族出身女性が紹介されていたのです。その女性は、今は「仮放免」の身ですが、彼女自身がかつて”劣悪な環境に閉じ込められ、適切な医療が受けられず、職員による暴力的な制圧を目撃したため、毎日のように入管施設に通い、仲間を励ましているのだということです。そういえば、昨年、長期間収容されていることに抗議して、ハンガーストライキを行っていた中年のナイジェリア人男性が死亡したという事件があったことを思い出します。 

 さらに私が気になっているのは、外国人技能実習生の問題です。外国人技能実習生の労働条件について、法令違反が後を絶たないのはなぜでしょうか。日本で働くことが「薄給で奴隷のようにこき使われること」という認識が世界中に広まってもいいのでしょうか。日本の高度な技術を学びたいと、アジア諸国から技能実習生として来日した若者が、差別や偏見や過酷な労働環境に苦しみ失踪したり、自殺したりするというようなことがあっていいのでしょうか。法務省の「聴取票に係る技能実習生の失踪事案に関する調査結果」には、技能実習実施機関の”最低賃金違反、契約賃金違反 賃金からの不適当な控除、時間外労働等に対する割増賃金の不払い、暴行・脅迫・監禁、違約金・強制預金、旅券・在留カード・預金通帳等の取上げ、帰国の強制、不当な外出制限”等が報告されています。また、平成24年から平成29年までの6年間で、171人もの技能実習生が死亡しているという調査結果には驚きます(平成24年24件、平成25年23件、平成26年29件、平成27年35件、平成28年25件、平成29年35件)。
 28万人に満たない技能実習生の若者たちのうち、171人が日本の各地で死亡するのは異常だと思います。自殺や実習中の事故死はもちろんですが、病死もその多くが劣悪な労働環境や差別が影響していると思われるからです。技能実習制度は、「現代の奴隷制度」だと指摘する声もあるようですが、まさに戦中の徴用工問題と変わらない側面があると思います。戦後レジームからの脱却を唱える現政権のもとで、こうした人権無視や人命軽視が、見逃されているのではないでしょうか。
 だから、徴用工問題は「解決済み」、韓国最高裁の判決は「国際法違反」という日本政府の主張は、日本の人権無視・人命軽視の傾向に拍車をかけるものだろうと思います。

 下記は、「地図にないアリラン峠 強制連行の足跡をたどる旅」(明石書店)から抜粋しました。
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                    第一章 筑豊と私

                (4) 地図にないアリラン峠           
 地獄谷
 筑豊の炭鉱地帯には、いくつもの地獄谷と呼ばれるところがある。そうした地獄谷には、きまってアリランがある。大正時代に集中的に渡航して、炭鉱の周辺に住みついたものか、あるいは解放後に炭鉱から追い出されて、帰国もできずにいた朝鮮人が集まりスラム化したものである。
 私が住む福岡県田川郡香春町のすぐ隣の田川市にも地獄谷と呼ばれるところがあり、アリランとその近くにアリラン峠がある。もちろん約二十八か所のアリラン峠は、筑豊の地図には載ってはいない。
 近くに三井田川鉱業所第六坑のボタ山が三つ聳え立って、セイタカアワダチソウがおい茂っている。よく見ないとボタ山だと分からないほどの荒れ果てようである。その第六抗の前身は、私の姉の嫁ぎ先で当時系飛炭鉱といった。
 四、五歳の頃、母と一緒に角銅家によく遊びに行った。満州事変以後、石炭景気が上向き始めて、兄一家は豪勢な生活を送っていた。
 昼食をとっていると突然慌ただしい足音がして、労務係が二人顔色を変えて入って来た。
「大将! 非常や! 早うきてくだっせ!」
「何や、非常か! 誰じゃそいつらは!」非常やとは、方城大非常のような坑内爆発事故(667人死亡)のことで、炭鉱にとって非常事態である。
「落盤事故で半島が…」
 事故の連絡にきた労務係は「半島」といった。半島とは朝鮮半島出身の朝鮮人の通称で、当時の筑豊では工夫として大勢働いていた。近くの地獄谷にも、系飛炭鉱の半島納屋があった。
 私は義兄の後を追って坑口へと走って行った。坑口には事故を知った坑夫の家族が黒山のように集まって、担架の上でのた打ち回っている二人を見つめていた。側で見ると一人は眼球がたれ下がり、もう一人は腸が飛び出していた。
 口髭を生やした男が、義兄のところに近づいた。
「大将、半島はまだ生きちょりますばい。どうしまっしょうか?」
「これから病院に連れて行ってもどうせ助かるまい、早うそこらに穴を掘って埋めておけ!」
義兄は持っているピッケルで坑口近くの辺りを指した。二人の朝鮮人坑夫は、まだ生きているのに病院で治療も受けさせず、坑口付近に掘られた穴に生き埋めされてしまった。
 私はそれを見て子供心になんとひどいことをするのかと、義兄の顔をにらみつけたことを覚えてい、る。半島という言葉が、いまも私の脳裡に焼きついているのも、こうした体験があったからである。
 炭鉱事業のためなら人を殺しても平気な義兄のやり方に抗議して、姉はそののち離婚し、子供を連れて家に帰ってきた。
 
 逃走した朝鮮人
 私の父は林寅治といった。明治の社会主義者堺利彦やプロレタリア文学者の葉山嘉樹を生んだ豊津中学(現7・豊津高校)出身で、校内で教師排斥のストライキをやり退学になった男である。1918年(大7)8月のシベリア出兵で、第十二師団北方連隊の一兵士として行き、コミンテルンの反戦ビラを読んで感激したそうである。
 そのビラには「日本の兵士よ、お前たちは何のために誰と戦うのか」と書かれていたと、私に何度も教えてくれた。兵士たちに反戦を扇動したことで重営倉にぶち込まれ、除隊後は主義者なみに就職はできなかったという。
 たまたま家が奈良時代から続いた神主で、それを隠れミノにロシア語を独学した。二階の書斎にはマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』もあった。まさに父は非合法時代を生きてきた。
 日中戦争から太平洋戦争にかけて、私の住んでいる村からは、多くの若者たちが出征して行った。神前では武運長久を祈るために、村長はじめ国防婦人会のたすきをかけた婦人、国民学校の児童たちが集まって祈願祭をした。
 父は神前で祝詞を奏上すると出征兵士に対して「絶対に死んではならない。絶対に家族のもとに帰ってこい」と挨拶した。天皇のために死んでこい、とは一言もいわなかった。それが原因で後藤寺警察署の特高に逮捕され、一週間後に釈放されて家に帰ってきた。左手の指先は紫色に腫れ上がり、拷問の跡が生々しかった。そのうち指二本の爪が落ちた。傷のことは私には話さなかったが、母はその理由を知っていたようで。

 1942(昭和17)年頃、釈放後少し身体の弱った父を助けて、私は毎朝、神前に供える御供米を持って参道を登った。
 その頃、福智山脈を越えて、炭鉱から朝鮮人が逃げてきていた。村役場から回ってくる隣組の回覧板には、「不審な半島を見つけたら、すぐに村の駐在所へ知らせるように」と書いてあった。
 ある日、拝殿の床の下で変な物音がするので、父が私に対して誰かおるのか見てこいと命じた。私は恐る恐る床の下に潜ると、そこにはあきらかに朝鮮人と思われる五、六人の若者が震えていた。
 「みんな出てきなさい。父ちゃんが呼んどるばい」
 と呼びかけた。 
 床の下から出てきた彼らの服は破れ、足は素足で血まみれだった。顔は恐怖でおののいていた。山を越えた向う側は筑豊の炭鉱地帯で、大手炭鉱の三井田川鉱業所、三菱方城炭鉱、明治赤池炭鉱、古河大峰炭鉱をはじめ、中小炭鉱など約350坑が群集していた。
 食糧不足、強制労働、自由を拘束された寮生活に耐えかねて、彼らは危険を冒して脱走してきたのだった。土地勘がないのに、最初に日本に着いた下関を目指した。北へ行けば下関へ行けると思い込み、山岳地帯を駆け登って、私の村へと降りてきたのだった。
 それまでに脱走した者が村人たちの密告で駐在所の巡査に捕まり、炭鉱へ送り返されて、みせしめのためにみんなの前で拷問される姿を見てきている。拷問で殺された同胞は数知れないのだった。
 「心配するな、俺のところでよかった。お前たちは何処の炭鉱からきたのか?」
 父は、彼らの恐怖心を解きほぐそうと、笑いながら話しかけた。何処の炭鉱から逃走してきたのかを恐る恐る説明した。シベリア出兵の時、現地の朝鮮人から朝鮮語を習っていたので、彼らのいうことは理解できた。
 「お前、早う帰って井戸の水をバケツに一杯と、今朝炊いた麦飯をお母さんにいうてから、握り飯にしてお宮まですぐ持ってこい」
 私はいわれるままに、水と握飯を持って参道を登った。彼らはごくごくと水を飲み、あっというまに握り飯を平らげた。母は備えつけの薬品箱と富山の薬売りの薬袋を抱えて登ってくると、タオルにオキシフルをひたして消毒し、赤チンを傷口に塗ってやった。言葉の分からない彼らは、両手を合わせて両親を拝んだ。
 早くなんとかしなければ、神主といえども村人に知られるとまずいことになる。父には前科があるだけに、こんど逮捕されると刑務所送りになることは確実だった。脱走した朝鮮人をかくまったとなると国賊とか非国民だといわれかねない時代である。
 「お前、石灰山の杉坂のおいちゃんを呼んできてくれ。何も説明せんでもよか、父さんがよんでいると」
 石灰山の杉坂のおいちゃんとは、香春岳の三ノ岳で、石灰石の原石を採って、石灰をつくる石灰工場の経営者だった。原石山では、働き盛りの人夫が出征して人手がなく、村の女が大勢働いていた。体力のある朝鮮人が一人でも欲しかったのである。まもなく四人の朝鮮人は、杉坂のおいちゃんに引取られて行った。彼らが引き取られて住んでいた飯場は、今でも線路の側に残っている。
 残った二人は、家族が病気なので、どうしても朝鮮へ帰りたいと必死になって父に哀願した。父は二人を家に連れて帰ると二階に案内して、仕事着を与えて着替えさせ、数日間かくまっていた。
 当時の小倉鉄道は(現・日田彦山線)は、戦時中のことで切符制限があって、いつでも自由に乗車することはできない。駅長と交渉して、やっと東小倉までの切符を手に入れた。貧乏神主なのに、その切符代をどう工面したか私は知らない。
 下関に着くと、父の友人の駅員に頼んで関釜連絡船の切符を手に入れた。下関駅からは高くて長い桟橋を歩いた。途中でサーベルを腰にした下関水上警察署の巡査と、鳥打帽を被った巡査らしき男に呼び止められた。
 「この朝鮮人は、自分のところの作男に使っていた者で、国に帰りたいというから見送りにきました。
 「巡査の前で父は二人の朝鮮人のことを説明した。友人の駅員と側に小学生の私がいたので安心したのか、それ以上の追及はされず無事にその場を通過した。
 1943(昭和18)年以後、山越えをして炭鉱から脱走してくる朝鮮人が急に多くなった。だが、食糧不足もあって彼らに握り飯もつくってやれなくなった。村の信用できる友人に手配して彼らを作男につかってもらったり、山の中の炭焼小屋で働かせた。他の者は下関までの道順を教えたり、大阪など遠方に行く者は日本語を話せる者に限って行かせ、父はそれなりの苦労をしていたようだ。
 下関駅の父の友人が軍隊に出征してからは、関釜連絡船で帰せなくなったが、それまでに私は四、五回見送りに行った記憶がある。
 帰国後、彼らがどういう人生を送ったのか、いっさい知ることはできないが、再び日本へ強制連行されたものと思われる。帰国させたことが彼らにとって幸せであったかどうか、それを考えるといまでも胸が痛む。
 1944年5月、父が心臓麻痺で急死すると、私たち母子だけではどうすることもできず、助けを求められても水を与え、傷口を手当てしてやることしか方法はなかった。
 捕まえられるのではないかと床の下で脅え、空腹を訴える彼らの姿は永久に忘れられない。私の心の中に刻み込まれた、そうした幼いときの原体験が、こんにちの朝鮮人強制連行記録の取り組みになっていると思う。それは一つには、朝鮮人だといって差別せず、あの戦時下に手を差し伸べた両親の強い影響を受けたからであろうか。

  忘れた日本語
 ・・・
 あれは過去のことだ、戦時中だったから仕方がないとか、朝鮮半島は日本国であったとか、日本人も同じように徴用されたと、いいわけをして責任を逃れようとする 
 昨夜も一昨夜も真夜中の二時、三時に脅迫電話がかかってきた。
 「お前は日本人か、日本人なら朝鮮人強制連行のことをやるな」
 「そんなに韓国人のことが好きなら、韓国へ行ってしまえ」
 「お前は国賊だ。殺してしまうぞ」
 「強制連行を天皇の責任にするな、これ以上朝鮮人にかかわるなら、家を焼いてしまうぞ」
 といってたぐいのものである。手紙の脅迫もあり、カミソリを一枚入れて、これで自決しろというものもあった。
 ・・・
 これらの日本人の根底にあるものは、やはり朝鮮人に対する差別意識と偏見があるからである。と同時に彼らは、戦前・戦中から戦後と、一貫して考えがひとつも変わっていないことの証明でもある。日本人の中のたとえ一部ではあっても、そうした意識が根強く残っていることは否定できない。
 ・・・
 
 
 


 

 

 

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徴用工問題 実態と証言

2020年01月23日 | 国際・政治

 戦時中、連行されて来た徴用工を含む多くの朝鮮人が、様々な差別を受けながら、劣悪な労働環境の鉱山や土木工事現場などで長時間強制的に働かされたことはよく知られていると思います。

 だから、朝鮮人労働者の事故死が少なくなかったことは、下記の洪象寛(ホンサングァン)氏の文章からわかります。また、金蓬洙氏の文章からは、事故死や病死だけではなく、多くの自殺者があったこともわかります。特に下記は、当時の朝鮮人の生活状況がいかなるものであったかを考えさせる文章ではないかと思います。

時間的制約から残念にも書き取っては来られなかったが、多くの朝鮮人同胞の赤児の死に私は涙せずにはいられなかったのだ。私が書き取って来た成人同胞41名に対し、その書類中に確認した同胞幼児の死亡は実に80の多数であった。この小さな鉱山町神岡にて、1940年から45年の間に朝鮮人の子供達が少なくとも80人死んだのだ。

 こうした過酷な状況を考えると、朝鮮人の労働現場からの逃亡や強制連行されてきた人たちによる暴動も当然だろうと思います。

 でも、現在の日韓外交をみると、日本の多くの政治家が、こうした過去の事実を踏まえているとは思えません。それどころか、今なお、当時の差別を引き継いでいるようにさえ思います。

 安倍総理は、元徴用工への賠償を日本企業に命じた韓国最高裁の判決に対し、
今般の判決は、国際法に照らせばあり得ない判断であります。日本政府としては国際裁判も含め、あらゆる選択肢を視野に入れて、毅然として対応していく考えでございます。

などと発言したことがありましたが、法に基づく正当な国際裁判がなされるならば、日本は恥ずかしい思いをすることになると思います。
 なぜなら、人間が人間らしく生きていくために必要な基本的な権利、すなわち思想の自由・信教の自由、表現の自由などの自由権、また、そうした自由権を現実に保障するための政治的基本権(選挙権,請願権など)や生存権などの社会経済的基本権などが「基本的人権」として認められている社会では、国家といえども個人の権利をむやみに制限したり、ましてや同意なく消滅させたりはできないはずだからです。
 戦後の国際社会では、元徴用工個人の請求権を国家が勝手に消滅させることはできないわけで、当時の日韓請求権協定で放棄したのは、国家の外交保護権なのです。それを無視して、「解決済み」ということこそ、国際法違反なのだと思います。
 さらに、韓国最高裁の判決に対し、韓国政府に圧力を加えるという政治的姿勢は、三権分立を否定するものであり、安倍一強の日本では通用しても、国際社会では受け入れられないのではないかと思います。
 私は、日本政府がきちんと過去の事実を踏まえて元徴用工に対することなく、日韓の政治家同士で相互に利益がらみの交渉をして、経済協力だけで、無理矢理「解決済み」にするというようなことはあってはならない野蛮なことだと思います。
 下記の文章でも明らかですが、当時の労働者に対する日当の差別、食べ物の差別、労働内容の差別は否定しようがない事実だと思います。だから、日韓友好のために、野蛮で差別的であった戦前・戦中の日本のあやまちを認め、誠意をもって過去の事実を明らかにし、元徴用工やその家族を含めた交渉によって真の解決をめざすべきだと思います。
 戦前・戦中の日本の人命軽視や人権無視や差別は、きちんと乗り越えなければならない大きな問題であるにもかかわらず、安倍自民党政権は朝鮮人徴用工の問題の本質には眼を向けず、「戦後レジームからの脱却」をかかげて、逆に戦前回帰の政策を進め、再び人命を軽視し、人権を無視する新しい「皇国日本」をつくりあげようとしているように見えます。
 麻生副総理兼財務大臣の「…2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありませんから。いい国なんだなと。そんな国は他にない。…」というような発言も、「戦後レジームからの脱却」の方向性を示す発言ではないかと思います。
 私にはそれが、「尊王攘夷」を掲げ、嘘と脅しとテロによって幕府を倒した薩長および討幕派公家による明治維新とダブって見えるのです。 
 明治政府は、皇室神話を背景に、国民による批判を許さない体制を整えて膨張政策をとり、琉球を強制併合した後、台湾出兵、江華島事件、朝鮮王宮占領、日清戦争、日露戦争、韓国併合、山東出兵…、など領土拡張のために武力衝突をくり返しました。そして、そうした姿勢が、日本の敗戦に至るまで変わることがなかったことを忘れてはならないと思います。

 徴用工の問題は、単なる未払い賃金の問題ではなく、戦時中の日本の人命軽視や人権無視や差別の問題でもあり、日韓請求権協定による経済協力によって「解決済み」にはできない問題を含んでいると思います。日本の針路に関わる問題なのだと思います。
 
 下記は、いずれも「朝鮮人強制連行論文集成」朴慶植・山田昭次監修:梁泰昊編(明石書店)から抜粋しました。
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(長野)
           戦前・戦時下の下伊那における朝鮮人労働者の実態の掘り起し
                                              原 英章
   洪象寛(ホンサングァン)氏からの聞き取り調査(1986年8月)
 洪象寛氏は、1921年生まれ、現在65歳。高森町で焼肉屋を経営している。出身は済州島、朝鮮では一番暖かい所だ。
  象寛の子供の頃は、今のブタよりもひどい生活だったという。学校なんか全然行けない。私たちの年代が一番学校へ行っていない人が多いのではないか。兄弟のうち長男だけを学校へやった人もいる。植民地だったからやりにくかったこともあるが、親の考え方もよくなかったのではないか。60軒あるのうちで、学校へ行ったのは9人だけだった。当時の学校は、校長は全部日本人で、警察も部長級以上は全員日本人であった。私は学校へ行けなかったが、冬になると村の人が四ヶ月くらい夜学をやってくれたので、なんとか字だけは読めるようになった(当時の学校では日本語を教えていた)。
 当時、50~60軒あったの半分くらいが日本へ渡って来た。まず一人が先に働きに来て、家族を呼んだりするのが多かった。とにかく、収入より支出が多くて朝鮮ではやっていけなくなってしまっていた。募集で日本へ来る人が多かったが、連れて来られた人もいた(強制連行)。南部の人たちは日本へ多く来たが、北部の人は満州へ行った人が多かった。満州へ行った朝鮮人は100万人を越えるといわれている。北部から来た人は現在の在日朝鮮人・韓国人70万人のうちの一割足らずだ。樺太にも朝鮮人が7万人もいる。
  象寛は兄が東京にいたので、15、6歳の頃兄を頼って日本へ来た。東京から名古屋へ行き、3年ほどいた後、昭和19年(1944)に木沢(現在の南信濃村)へ来た。隧道(ズイドウ:トンネル)の工事をやっており朝鮮人が100人くらいいた。日本人は現場の監督とかコンプレッサーの見回り役程度で、ほとんどいなかった。その頃はどんな工事でも朝鮮人がいなければできない状態であった。昭和19年の2月か3月頃、木沢の掘割の工事場でうしろの山がくずれてきて、休んでいた4、5人の朝鮮人が生き埋めになって死んだ。
 飯島の発電所から木沢の堰堤(エンテイ)までの隧道は朝鮮人がみな工事した。和田の前の隧道を私らがやった。今考えてみると危険な仕事であった。が、あの頃は一人や二人死んでも当たり前というくらいの感覚だった。
 穴を掘ったり、ダイナマイトをかける仕事。私ら(自由労働者)は一日の日当が5円だったが、連れて来られた人は賃金が安く、日当は3円ぐらいだった。5円の日当でも、お金が残るということはなかった。朝7時に仕事に就くと夜の7時までの12時間労働で昼夜二交代制だった。一週間して交代する時には、朝の7時から翌朝7時まで働いて2日休むというやり方だった。
 木沢でも逃げ出す人がいた。しかし、地理がわからないので逃げ切る人は少なくてつかまることが多かった。つかまえてきて、飯場頭(朝鮮人)に制裁されるのを一年足らずの間に何回も見た。逃げ出すのは仕事がきついというより、朝鮮で募集した時と話がちがうので逃げる人が多かったのだと思う。日本人の中にはいい人がいて、握り飯を作って逃げ道を教えて応援してくれた人もいたそうだ。
 和田、平岡の工事場では、朝鮮人が同胞をいじめる奴が多かった。自分が日本人によく見られたいために。そんなこともあって終戦後に朝鮮に帰る船の中で、もとの飯場頭の兄弟が海中へ投こまれたという話を聞いたこともある。
 昭和20年(1945)5月に平岡に来た。8月までの3ヶ月間居た。その頃は平岡ダムの工事が一時中止になって、遠山の発電所(飯島発電所)を早く完成させて電気を起こすという時期であった。中国人もいたが朝鮮人の方が多く。1000人くらいいたように思う。  
 食べ物が、朝鮮人、中国人、捕虜と三段階に分かれていた。朝鮮人は配給でくれた。中国人はパン食。捕虜はいちばんみじめだった。米ぬかやフスマのお粥だけで生きていける訳がない。200人近くいたアメリカ人捕虜のうち、生き残った人は20~30人いたかいないかぐらいだった。捕虜はセメントかつぎやレールかつぎなど一番えらい仕事をさせられていた。可哀相に思って、余ったご飯をそっと捕虜にやったのを日本人の監督に見つかり、ひどくおこられたこともあった。
 終戦後2~3日以内にアメリカ軍が、飛行機で食料や物資を運んできた。
 私らより北海道のタコ部屋へ連れていかれた人たちは可哀相なものだったようだ。大島(松川町)にいた、2~3年前に亡くなった洪覚文(ホンカクムン)という人はタコ部屋から逃げ出してきた人だった。
 飯田線の工事の話を聞くと大変だったらしい。80歳のおじさんの話では、飯田線の木材会社の所に飯場があって、朝鮮人を70~80人収容し石を積んで逃げ出せないように庭をこしらえてあったそうだ。
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(岐阜)
                     神岡にて
                                        金蓬洙(キム・ボンス)  
 ・・・
 夜、私は朝鮮総聯飛騨支部の副委員長氏の案内で神岡町内に住む同胞の家を訪れた。
 金茂竜氏は相当高齢で別にこれといった病名はないが、ずっと寝たきりの日々である人だった。
 老人は解放前神岡鉱山で働いていた人だった。
 老人は私の来意を聞くと、部屋の真ん中に敷かれた布団の中に寝たまま苦しげに口を開いた。
「ある夜、わしらが寝ている所へ、表の戸をたたく音で起こされ、はき物もはかず戸の所へ行って表の様子を伺うと、尚もしつこく戸をたたくので誰だと声を掛けると、いきなり朝鮮語で『サルリョヂュショ』とはね返って来た。わしはすぐ募集人が逃亡を計ったな、外の若い衆はまた、戸をたたきながら、『助けて下さい。戸をあけて入れてください』と、ずっと朝鮮語でたのみこんだんだよ。それでもわしは黙っていると、『チョソンサラムの家だと知ってきました。助けてください』と、言うから、まったく困ってしまったさ。その若い衆を助けてやってばれたら、わしもただではすまん。もし、南方にでも送られたらな、家族のことなんかも考えると、口惜しいが助けてやれなかった。それでわしも朝鮮語でたのんだよ。助けてやりたいのは山山だが、それがばれたらわしも困る。お願いだから早く行ってくれ、と。若い衆はだんだん切羽つまった泣き声で、強く戸を打ちながら、『サルリョヂュショ』とやるし、わしはわしで考えると情けなくて、ついわしも泣きながら『たのむから早く遠くへ逃げてくれ。夜中にそんなにさわぐと隣近所が起き出すと大変になるから、早く逃げてくれ』と、しまいにはこちらがお願いしたさ。結局、その若い衆はあきらめて立ち去ってくれたが。ああ情けない話だ。恥ずかしい話だ。現在でもその晩のことを想うと、胸が詰まって死にそうだ。恥ずかしいことをしたと、顔があかくなる。けどあの時はああせんかったら、わしもどうなったやら」
 老人は一気に話すと、天上を見すえて黙りこくった。私も、副委員長氏も言葉をさしはさまず重苦しい一時の狭間に沈み込んだ。
 私達の思いを断ち切るかのように、老人はまた話を続けてくれた。
 「坑内に入って仕事をする者達は弁当を持って坑に入るんだが、若い連中は腹がへってしようがなくて、昼飯時までしんぼうができずに、坑に入るが早いか、トロッコのかげなんかにしゃがみ込んで弁当を喰っちまって、昼飯は抜きで仕事をするんだから、夕方になると腹がへって力がでなくなってしまうわさ─。それを見てウェノムの監督がなぐる、けるしやがって!アイゴーおぞましい奴らだった」
 ここで老人は起き上がりたいと言ったので、私達も手を貸して彼をふとんの上に座らせた。チャプ(嫁)に手掛けられたチャンチャンコに包まれるようにして、老人の語気は次第に熱っぽくなるのだった。
「そんなだったから、暴動が起きてしまったんだよ。その時わしは、仕事を終って社宅の山へ登ってみると募集人(彼は強制連行された人達をそう呼んでいた。呼ばされたというべきだろう)達が暴動を起こして、それぞれに鍬やら、のこぎりやらを振りかざして、事務所はもう壊してしまってありもせんかったし、舎監達はどいつもこいつも逃げてしまって、ものすごかったな。事務所をたたっこわす時は、まず電話器からからぶっこわしたんだそうだ。あれこれしておる内に、いくらもせんうちにスンサノム(巡査奴)が来るし、憲兵隊まで来てから、びくともできんように押さえつけてしまいよった。とにかく社宅三棟を空けて巡査がいっぱい入ったんだよ。そんな時は岐阜県中の巡査がみんなここへ集まったみたいだった。この時逃げた人も多勢だったし、殺された人も多かった。逃げる途中に捕まった人はみんな南方へ連れていかれて、みんなそこで死んでしまったんだろうな……。わしが直接見たんじゃないが、しばらくしたらそんなうわさで持ちきりだったな。
 その暴動の後からは、それまで一個ずつだった握り飯が二個ずつもらえるようになったよ。けど、これをいくらももらって喰わんうちに、以前よりもっと飯が悪くなってしまったから、人間がどうして暮らすかね。それだから、真実腹がへって動くこともできんから、事務所の前にへたり込んでしまって『飯くれ! 飯さえくわせたら働くじゃないか!』と言うわけよ。それを監督共はトーントーンなぐるし、足でけっとばしやがって、アイゴー!身にふるえがくる話だよ。
 同胞老人の話を聞いて、私は重苦しい気持ちでおいとまをした。
 翌日の朝一番に若田氏から紹介を受けた、共産党の神岡町議会員の吉田秀次郎氏の家を訪れた。顔の浅黒い吉田氏は非常に気さくな感じの人で、私が玄関先で来意を告げると、まだ役場へ行くには早過ぎるからと、私を応接間に招じ入れ、小一時間にわたって、神岡における現政治情勢を話してくれた。中でも、多数の鉱山労働者達が選挙において共産党や社会党にではなく、保守党に投票する現実を慨嘆されたのが印象に残った。
 そこそこの時間になって吉田氏は神岡町役場まで私を伴ってくれた。そして、係りの吏員に私が見たいという書類を見せてやってくれと声をかけてくれたのである。 
 私はまず役場の吏員に、朝鮮人強制連行に関する記録はないかと、実にばかげた愚問をしてみた。もちろん即座に、そういうものはありません。かつてはあったでしょうが、とっくに処分されてしまったでしょうからね。との返答が返ってきた。仕方がないので、では1940年頃から、45年までの埋火葬許可受付簿を見せてくれるようにたのんだ。まだ若い吏員は、あるかないかわかりませんが、捜して来ますからと、広い役場の執務室の一角に椅子を一つあてがってくれて、奥の方へ姿を消した。
 たくさん机が並んでいて、それぞれに男女役人達が位置について事務をとっている。そんな中に折りたたみ椅子を置いて座っている様は、はた目にばかみたいな光景だろうが、それでも私は気恥しさなどは覚えなかった。そもそも、そんな事には慣れているから。外国人登録証の書替えのつど、ここよりよほど広い市役所の市民課の一角にぽつねんと座らされ、その時には犯罪者のように指紋まで取られるんだから。いいかげんばかばかしさにも慣れてくるものだ、などと思っている内に、さき程の吏員が見るからに古ぼけた書類をかかげるようにして来た。
 彼はその辺の空いている机を探すと、ここで見て下さいと大部の書類をおろしてくれた。
 黒っぽい程に黄ばんだ紙表紙に毛筆で「船津町埋火葬認許願綴」とある書類をめくってゆくと、多くの日本人に混じって、すぐにそれと分かる名前が、多分ガラスペンで書かれたであろう、硬い文字の形で私の眼を射抜いた。
 金 伊 女 大正2年4月18日生 職業日雇 本籍 慶尚南道成陽郡席卜面熊谷里 現住所 船津町東町 死因変死(入水) 死亡場所 船津町内高原川流域 死亡日時 昭和15年5月16日午後10時
 なんということだ! 朝鮮の婦は自殺などしないと聞かされ、また、私自身もかたくそう思って来たのに。この大部の書類をめぐって最初にこんなことを見るなんて、ばかな、私はいささか面喰い、そして心のうずきを押さえ切れなかった。
 5月16日の夜の高原川。月が川面を照らしていただろうか。彼女に残された子供はいなかっただろうか。何が彼女を死に追いやったんだろう。
 しかし私は限られた時間内で独り感傷にふけってばかりも居られないので、思い巡る心を押さえ込む様にせっせと書類をめくり、朝鮮人の名前を見つけては、メモ用紙に書き取る作業に励んだ。
 私はこの作業を涙なくやり通せなかった。右手にペンを持ち、左手にタオルを持って時にはすぐまわりに居る役場の職員達を意識しながら、額の汗をぬぐうかのように目頭を何度もぬぐう羽目になってしまったのだった。
 時間的制約から残念にも書き取っては来られなかったが、多くの朝鮮人同胞の赤児の死に私は涙せずにはいられなかったのだ。私が書き取って来た成人同胞41名に対し、その書類中に確認した同胞幼児の死亡は実に80の多数であった。この小さな鉱山町神岡にて、1940年から45年の間に朝鮮人の子供達が少なくとも80人死んだのだ。私は1943年生まれだから、それらの子供達はつまり私と同世代の者達である。子供達はほとんどが零歳、若しくは一歳の年月で物心がつき、アボジ、オモニと呼ぶでもなく、チョーセンジンとさげすまれることさえもなく、それはあまりにも生命を育くまれないままの一生である。私は現に生きて同世代の累々たる死を一冊の記録の中に見ているのだ。私は生きているのだ。彼等のように死んでしまったのじゃない。
 「どうぞ」と、若い女子職員がお茶まで持ってきてくれた。私はあわててタオルで顔を包みながら礼を言った。それはなぜか甘い茶でった。砂糖の甘さとは違う甘さだった。どうしてこのお茶は甘いのか聞いてみる余裕はなかったのである。
 生きていればこその被差別の痛みもあれば、甘いお茶の甘みもあるのだ。
 私は初めから終わりまで乱れながら半日がかりの作業を終え、逃げるように町役場を出ると、真っすぐに高原川へ向かった。
 高原橋に立たずんで見下ろすと、流れは前日同様澄んでいた。まるで過去の出来事なぞ素知らぬ風にゆったりと美しく流れていた。
 趙東植   男 溺死 高原橋下流約50間
 金海容熙  男 鉱山坑外運搬夫 変死 溺死
 三井原杓  男 鉱山坑外雑夫  変死 溺死
 亀村点岩千 男 鉱山選鉱雑夫  溺死 高原川
 私は叫びたい衝動でいっぱいだった。
 高原川よ! 真実を語れ、知っているのなら教えてくれ。この人々が自ら君の所へ飛び込んだのか? それとも酒によって足踏みはずしたのか? 君は水。流れ去ってしまったのか。岩達も矢張り黙り込んでしまうのか。ああ! 高原川。

 以下に提出する朝鮮人犠牲者名は1965年8月、神岡町役場に残存した、旧船津町、旧阿曽布村埋火葬認許願綴から書き写したものである。複写機などという文明の利器も出まわっていなかった頃の事で、同胞幼児や、連合軍捕虜までは書き写せなかったのが残念であるが、わずかに知り得ている同胞犠牲者を明らかにして、チョル(礼)に替えたい。
 記載にあたっては、姓名、生年月日、職業、本籍地、現住所、死亡原因、死亡年月日、死亡場所の順にする。
 江本鐘安 1908年9月9日生 鉱山坑内運搬夫 全羅北道錦山郡富利面冠川里 船津町東茂住「変死 墜落死」1945年5月17日午後5時(推定) 富山県上新川郡福沃村長棟字タレゴ割松尾
 金光容錫 1908年7月10日生 鉱山坑外雑夫 全羅北道淳昌郡仁渓面雙岩里 船津町東町「自殺・溺死」1945年6月1日午前6時30分(推定)鹿間

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朝鮮人労働者の証言と麻生発言

2020年01月17日 | 日記

 再び閣僚の重大な問題発言がありました。麻生副総理兼財務大臣が、福岡県直方市で開かれた会合で、「…2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありませんから。いい国なんだなと。これに勝る証明があったら教えてくれと。ヨーロッパ人の人に言って誰一人反論する人はいません。そんな国は他にない。…」と言ったのです。

 私は、この発言を二つの点で受け入れることができません。
 その一つは、報道でも明らかなように、この発言がアイヌ民族の存在を無視するものであるということです。この発言は、アイヌ民族を「先住民族」と明記し、”アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される社会の実現”をめざすとした「アイヌ施策推進法」に反します。
 現在、アイヌ民族が北海道・樺太・千島などに先住し、固有の文化を発展させていたことを否定する人はいないと思います。
 そのアイヌの人たちが先住していた「蝦夷」と呼ばれた地域は、明治政府によって「北海道」と改称され、本格的な開拓が開始されて、大勢の和人(アイヌ以外の日本人)が本州から移り住みました。移り住んだだけではなく、当時の政府がアイヌ語やアイヌの生活習慣を禁止し、アイヌの人たちが伝統的な方法で利用してきた土地を取り上げたり、サケ漁や鹿猟を禁止したりした事実は忘れられてはならないことだと思います。こうした明治政府の同化政策の結果、アイヌの人々は、その後長く貧窮を余儀なくされ、差別され続けることになったのです。

 現在を生きる私たちが、そうした事実を正しく受け止め、継承していこうとすることなく、「…2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありませんから。いい国なんだなと。…」などと、あたかも現在の日本が「単一民族国家」であるかのように言うことは、事実に反するのみならず、法的にも道義的にも許されないことではないかと思います。

 もう一つは、この発言が明治政府によってつくられた「皇国日本」、すなわち大日本帝国憲法や教育勅語、軍人勅諭等の考え方を受け継ぐものではないかということです。先の大戦で、日本を滅亡の淵に追い込んだ「皇国日本」の”あやまち”を、無かったことにするような考え方ではないかと思うのです。かつて他民族を抑圧し支配した貪欲で差別的だった日本をきちんと認め、反省することなく、ただ長く続いているから”いい国”などと言うことは、私は許されないと思います。また、「皇国日本」では、天皇が「現人神」とされたが故に、様々な不幸の源となったのではないかと思います。そうした天皇家が126代続いていることを日本の誇りにしようとする考え方は、まさに「皇国日本」の考え方であり、日本を特別な国とするものではないかと思います。
 そういう意味では、同様の発言が過去もあったことが看過できません。
 かつて中曽根元総理は、「知的水準」発言で、アメリカから猛烈な反発を受けたとき、その言い訳に日本が「単一民族国家」であると主張したことがありました。それが私が記憶する「単一民族国家」発言の最初です。
 中曽根元総理は、アメリカには黒人や中南米・カリブ海地域などからの移民が多数混在しているため、平均的な知的水準は日本の方が高いと発言し、米下院に中曽根批判決議が提出される事態を招きました。そして、中曽根総理の公式謝罪と発言の撤回を求める激しい動きがあり、アメリカの黒人やヒスパニック系諸団体が、アメリカの有力新聞各紙に全面広告を出したりして、中曽根批判を行ったことがあったのです。
 その謝罪会見の際に、中曽根元総理は、米国は「複合民族国家」なので、教育など手の届かないところもあろうが、日本は「単一民族国家」だから手が届きやすいのだ、というような言い訳をしたのです。それが、今度は日本国内で、北海道ウタリ協会などの反発を招いたのです。
 同じ政党に属し、80歳近くになる麻生副総理兼財務大臣が、大きな問題となったそうした事実を知らないはずはないと、私は思います。だから、私は「皇国日本」復活の意図を感じ、受け入れることができないのです。

 戦前の「皇国日本」は、韓国を併合し、朝鮮人を抑圧し差別しつつ、アイヌに対するのと同じように同化政策を展開しました。
 そうした事実の一端は、下記のような朝鮮人労働者の実態の掘り起しや朝鮮人労働者の証言で明らかだと思います。多くの朝鮮人を強制的に連行し、タコ部屋と呼ばれるようなところに住まわせ、奴隷のように酷使した歴史の事実をきちんと踏まえれば、麻生発言はありえないと思います。

 下記は、「朝鮮人強制連行論文集成」朴慶植・山田昭次監修:梁泰昊編(明石書店)から抜粋しました。
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(長野)
            戦前・戦時下の下伊那における朝鮮人労働者の実態の掘り起し

   はじめに
 戦前から戦時下にかけて、飯田・下伊那地方においても、かなりの数の朝鮮人労働者が鉄道工事やダム工事に従事していた。しかし当時の記録はほとんど残っておらず、また当時労働に携わった人々も老齢を迎え、このままでは、朝鮮人労働者の苛酷な労働の実態はいつしか歴史上から消えてしまう恐れがある。
 当時、日本の男たちが兵士として召集され、また満洲へ「開拓移民」として流出したため、不足した国内労働力を安く補うために、多数の朝鮮人労働者が補填(ホテン)された。これらの朝鮮人労働者の実態を掘りおこすことは、次のような意味をもっている。
 第一に、当時の日本帝国主義の他民族侵略・抑圧・支配の忘れてはならない事実を、身近に再確認できること。もう一つは「在日朝鮮人・韓国人がなぜ多いのか」という、戦後世代の素朴な疑問を解きあかし、在日朝鮮人・韓国人に対する偏見や差別をなくし、両民族の理解と連帯の礎(イシヅエ)にもなると思う。
 以下、このような立場から、私たちが二年ほどとりくんできた聞きとり調査をまとめたささやかな報告である。

   史料による朝鮮人労働者の実態
 戦前、戦時下における長野県下の在留朝鮮人労働者についての史料は、県や特高警察の史料の他はまだほとんどなく、今後民間での史料の掘りおこしが急務である。県や特高警察関係の史料は「長野県史 近代史料編第八巻社会運動・社会政策」に掲載されている。その中の「昭和十年、知事事務引継書」によると、長野県下の在留朝鮮人の人数は次の通りである。
 昭和二年(1927)末   2697人
 昭和五年(1930)末   3873人
 昭和八年(1933)末   4209人
 昭和九年(1934)末   5700人余
 昭和十五年(1940)   8381人
(注)昭和十五年の人数は「長野県史」掲載の「長野県特高警察概況書」による。
 このように年を追って増加している背景には「募集」に応じて自分の意志で渡来した人の他、太平洋戦争の末期には日本国内の労働力補給政策によって「徴用」の名のもとに強制的に日本に連行された人も数多くあった。そして、その多くは炭鉱や鉱山での労働に従事し、県下では水力発電所工事や、鉄道工事など土工が主であった。
 下伊那地方においても、三信鉄道(現在の飯田線)敷設工事や、矢作(ヤハギ)水力発電工事(現在の泰阜ダム、平岡ダム)が行われ、多くの朝鮮人労働者が従事していた。その数は「長野県特高警察概況書」によると次の通りである。
  飯田署管内   321人
  富草署      93人 
  和田署     191人
                                  (以上昭和15年)
また、同書の「昭和7~10年泰早村門島発電所工事争議についての県特高警察調」によると、使用労働者数は「内地人700人、鮮人2、300人、計3000人」とあり、泰阜ダム工事の時には、2000人をこえる朝鮮人労働者が働いていたことがわかる。これは、後出の朴氏の証言「泰阜ダム工事には2000人~3000人の朝鮮人がいた」と一致している。
 当時、朝鮮は日本の植民地下にあり、在日朝鮮人の賃金は低く、苛酷な労働条件のもとでの生活は悲惨なものであった。事故や病気で亡くなった者も数多くいたはずである。県や特高関係の史料では、それらの実情については明らかでない。そこで私たちはさまざまなつながりをたよって、在日朝鮮人・韓国人の方々や日本人で当時ともに働いた方などから聞きとり調査をすることにした。

  朴斗権(パク・トゥグォン)氏からの聞きとり調査(1968年1月)
在日朝鮮人・韓国人で当時の様子を知っている人はいないかと調べていくうちに、平岡に長く在住していた朴斗権氏の名前が出てきた。ところが、朴氏は現在は平岡を離れ、松本市郊外に移り住んでいた。
 朴氏は1910年生まれ、現在75歳。50年以上も平岡に在住していた。朴氏は快く、若い時からの苦労のようすを淡々と語ってくれた。
 朴斗権氏は「日韓併合」が強行された1910年、朝鮮慶尚北道慶山郡の農家の末っ子として生まれた。父は1歳半の時に亡くなった。 斗権が20歳のころ、朝鮮の耕地の七割がたは「土地調査令」によって、日本人のものとなっていた。昔、朝鮮では「一年豊作になれば、二年は何もしなくてもよい」といわれるほど豊かだったが、日本の植民地になってからは、税金もはらえなくなった人々が多くいた。
 家が貧しく、学校へ行くこともできなかった斗権は、20歳の時に先に来ていた兄を頼って日本へ渡った。栃木県─茨城県─三河川合へ来て、三信鉄道(現在の飯田線)の工事に従事した。
 三河川合には、当時600~700人の朝鮮人労働者がおり、一日につきⅠ円50銭の日当だったが、三ヶ月も賃金をくれなかった。8月にストライキが起きて、斗権も警察に検束され、岡崎へ連行されて拷問を受けた。敷居の上に正座させられ、膝の裏に竹の棒を入れさせられたり、手の指の股に棒を挟ませて、指を絞めつけられた。結局、賃金は一割引きで支給された。当時、日当が1円50銭で、飯代は70銭であった。雨の日は収入がないので借金がふえていく仕組みだった。
 昭和8年(1933)泰阜の門島発電所工事へ来た。門島には、2000~3000人の朝鮮人がいた。日本人は主に世話役や監督で、工夫として働いている者は一割もいなかった。労働組合もあり、地下にもぐって活動している人もいて、夜に日本語の学習会もあって、若い人で勉強している人たちもいたが、疲れてしまって出ることはできなかった。眠ったと思えば朝、そんな毎日だった。
 朝鮮人のほとんどは、ボス(日本人)によって強制的に連れて来られた人たちだった。ボスは朝鮮に行き、警察に頼んで人を集める。朝鮮の警察や役場は、協力しなければならないようになっていた。
門島では一日、2円80銭の日当、80銭の飯代で酒を飲むこともできなかった。しかし、朝鮮におれば日当はもっと安かった。当時、日本人の日当は工夫で7~10円、世話役で15円ぐらいであった。朝鮮人は三分の一の賃金しかもらえなくとも、仕事は倍もしなければならなかった。
 昭和10年に平岡に移った。道造りや鉄くず買いをしているうちに昭和14年(1939)からダムの段取り工事が始まった。仕事はモッコかつぎとトロッコ。トロッコではなかされたものだった。朝四時半起床。朝食のあと六時前に出かけて、徹夜組と交代する。昼夜二交代制で夕方は六時まで働く。昼も夜も、人でいっぱいであった。夜も飯場から自由に外出できない。日本人の見張りが一晩中いた。食物は米二合配給。一日に一升三合くらい食べなくては力がでないのに、二合きりでは腹がへって仕事ができない。千切りの大根の入っているみそ汁も半分は塩の味がした。漬物(ナンバ)や、時にはマスがついたこともあった。他に欲しければ自分の金で買う。卵や酒を買えば赤字になって、朝鮮への仕送りができなくなってしまう。
 死んだ朝鮮人も多くいた。病気の人もいたが、多くはけがで死んだ。トロッコから落ちるとか、トンネル工事をきりっぱなし(木の防禦枠)をしないで作業をやったりして。死者をかついでいくのは何十回、何百回も見た。温田(ヌクタ)のトロッコの作業中、スコップの柄があたって死んだのを直接見たことがある。死ぬと親方によっては、酒代として15~20円くれたが、知らんふりしている親方もいた。死体は自分たちで焼いたが、木がなくて一人焼くにもえらかった。遺骨は飯場頭がいい人ならばお寺へ納骨されたが、なかなかそんな余裕はなかった。死んだ人の家族に知らせてやりたくとも、住所や名前のはっきりわからない人が多くいた。(逃げてきた人が多いから、わからない)中国人捕虜の三倍も死んだと思う。全体の人数もニ倍以上多かったし、期間も長かったから。
 逃げ出す者もあとを絶たなかった。逃げ出してつかまると警察に連行され、一週間くらい置かれて、親方から制裁を受けた。
 平岡には昭和17年(1942)に、アメリカ、イギリスなど連合国の捕虜が、続いて昭和19年(1944)には中国人の捕虜が送りこまれてきた。中国人の捕虜が一番苦労していた。連合国軍の捕虜は、今の天竜中学のグランドにあった建物に収容され、窓にはガラスが入っていた。中国人・朝鮮人はうすい板をはりつけただけの建物だった。食物を与えずに仕事をやれ、といったって無理だ。焼いたパンみたいな物を三コ、おかずは生のニンニクだけだった。これで力が出る訳がない。
 世話役たちがステッキみたいな棒を持っていて、たたいたりしていばってしようがない者もいた。捕虜たちはなかなかいうことをきかなかった。冬、川ばたに線路をひくのに、玉石を片づけるのを素手でやっていた。玉石は持つと水より冷たい。一つやっては手をこすっていた。死者が出た時は毎日死んだ。全部で八十数人死んだそうだ。中国人は袋にするような(麻袋か?)荒い目で風がみな通ってしまうようのものを着ていた人もいた。
 終戦。「戦争に負けたので、日本人はヤケクソになっているから気をつけるように」「仇を返すようなことをすると、いつまでもあとが切れない。一般国民には罪はない。警察や官庁の者がいばったら知らせてほしい」という連絡が連盟から来たように思う。だから平岡には暴動のようなことはなかった。
 その後、兄家族は朝鮮へ帰ったが、斗権は帰らなかった。先に帰った兄たちからも「帰ってこい」とはいってこなかったし、今から思うと帰らなくてよかったと思う。

 

 

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朝鮮人徴用工の証言 タコ部屋での労働と生活

2020年01月07日 | 国際・政治

 私は、最近の日韓関係の悪化は、日本側に責任があるのではないかと思います。日本政府は、韓国最高裁判決の”国際法違反”をくり返し、韓国側に責任があるように言っていますが、徴用工問題に関する日本政府の見解にはおかしなところがあると思からです。日本側の見解は、概ね下記のようなものではないかと思います。

 二次世界大戦中、韓国人労働者は、国民総動員下で日本に渡航・就労し“徴用工”といわた。戦後、その徴用工が受け取っていなかった賃金などの支払いを求め訴訟を起こしたが、日韓の裁判所はどちらも、「問題は国交正常化の際の日韓請求権並びに経済協力協定で終わっている」とし、個人の補償要求は認めなかった。ところが今回、韓国の最高裁が「個人の日本企業への補償請求権はある」として補償裁判のやり直しを命じた。それは、国際法的には解決している問題を、国内裁判で覆したもので、国際法違反である。

 しかしながら、個人の補償請求権について、日本政府はかつて、”両国間の請求権の問題は最終的かつ完全に解決した”けれど、”いわゆる個人の財産・請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない”と主張していました。
 そうした見解に至るきっかけは、サンフランシスコ平和条約に”連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し…”という条項があるため、広島の原爆被爆者が日本国に対して補償請求の訴訟を起こしたり、シベリア抑留被害者が日本政府に補償を要求したからです。その時、日本政府が放棄したのは、”外交保護権”であって、個人の請求権は放棄していないから、日本政府は補償することはないということだったのです。”外交保護権”に関する日本政府の主張は、その時その時の事情によって変わっているといえるのではないかと思います。

 また、そうした法律的な問題以前に、日本政府の徴用工問題や日本軍”慰安婦”問題に関する姿勢そのものに、私は誠意が感じられません。きちんとした調査や関係者の聞き取りをしたわけでもないのに、安倍首相はかつて、日本軍”慰安婦”の問題に関し、”狭義の強制性を証明する証言やそれを裏付けるものはなかった”というような発言をし、日本側の強制性を否定しています。朝鮮人徴用工の問題に関しても同様に、徴用はあったが、”強制連行や強制労働の記録はない”というようなことを言って、政治家同士では謝罪めいたことを言っても、直接被害者に謝罪しようとはしません。歴史家や研究者が資料を基に明らかにした事実、また、被害者の証言などによって明らかになった事実を無視していると思います。安倍首相は、被害者の手記や証言集、今回抜粋した”聞き書き” などもほとんど読んではいないのだろうと思います。そうした被害者の証言をあたかも虚偽であるかのように扱い、被害者に直接向き合うことをしない話し合いでは、両国政治家同士の相互の利益を考慮して政治決着がはかれても、根本的な解決にはならず、したがって、日韓の真の友好関係は築けないだろうと思います。

 現在は強制労働は法律で禁止されています。日本の労働基準法5条には
使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意思に反して労働を強制してはならない。
とあります。
 また、労働基準法第17条には、
使用者は、前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金を相殺してはならない。
とあります。
 こうした法律は、戦後、国際労働機関(ILO)が提案し、1930年に採択された『強制労働ニ関スル条約(第29号)』(1932年に日本も批准しています)に基づくものであると思います。
 この条約の第一条は、
”1 本条約ヲ批准スル国際労働機関ノ各締盟国ハ能フ限リ最短キ期間内ニ一切ノ形式ニ於ケル強制労働ノ使用ヲ廃止スルコトヲ約ス
 とあり、また、第二条には、
”1 本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右ノ者ガ自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務ヲ謂フ
とあります。

 朝鮮人徴用工の問題が、こうした国際労働機関(ILO)が提案した『強制労働ニ関スル条約(第29号)』の精神に全く反するものであったことは、下記のような証言で明らかだと思います。単なる賃金”未払い”の問題ではなく、奴隷労働ともいえる”強制労働”の問題です。
 だから、きちんと被害者に向きあい、謝罪と補償をすることなく、日本の韓国に対する経済協力によって、”完全かつ最終的な解決” などできるわけはないと思います。

 誠意をもって対応し、関係改善をすべきだと思います。

 下記は、「朝鮮人強制連行論文集成」朴慶植・山田昭次監修:梁泰昊編(明石書店)から、「いまも忘れぬタコ部屋での労働と生活」(聞き取り:平林久枝)と題された文章の、「飯場の一日」を中心に抜粋しました。
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                         三 聞き書き(地域別)
(北海道)
           いまも忘れぬタコ部屋での労働と生活
  はじめに
 ・・・
李さんは現在54歳になり、タコ部屋生活のときからすでに38年の歳月が経っているのであるが、現在でもまだ当時の恐ろしかった生活が夢に現れて、苦痛にゆがんだ同胞の顔や人間の声とも思えぬような暗いうめき声におびやかされるという。わたしはタコ部屋についてはほとんど何もしらなかった。李さんはわたしの幼稚な質問にもていねいに答えてくれた。以下は李さんの語ったところをまとめたものである。

  故郷のこと
 私の故郷は全羅南道 和順郡 清豊面 車里である。車里は道庁所在地の光州を南下して宝域市と結ぶ鉄道のだいたい中間地点で山の中の村だった。村の戸数は400戸ぐらいで村民は水田と畑をやっていたが、どこの家も貧しくて、米をたべている家は少なかった。
 ・・・
しかし家に帰っても仕事がなかったから、またすぐ京城に出てきた。京城の街角にはあちらこちらに「産業戦士募集」という大きな看板がたっていて人目をひいていた。そこでわたしもその看板につられて、指示されている職業紹介所へ行ってみた。わたしのような若者が二日間で93人集まった。ほとんどがニ十歳前後だった。
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 帯広の飯場
 帯広は飛行場の街だった。航空隊の宿舎があり、飛行機を守っていた。ほかに陸軍もいた。「熊」部隊といっていたような気がする。わたしたちのつれていかれた飯場はその近くにあった。1棟百人くらいが入る飯場のバラックが5棟あった。わたしたちがついたとき、すでに働かされていたものがある。飯場は大倉組のものだった。
 ついた日、反抗的なものや、ちょっとなまいきなやつだとにらまれたものは組のものに徹底的になぐられた。「やきをいれる」といわれた。それは二度と反抗する気を起させないようにするための見せしめ的なものだった。はじめてこんな情景をみたものは、一様におそろしいところにつれこまれてしまったことを知って畏縮した。そのあとで、ここからは絶対に逃げ出せない。いまは戦争中だから、この戦争に勝つためには、どんな苦労にも耐えて目標の作業を必ずやりとげなければならぬというお説教をされた。それから、自分の名前はなくなってしまった。その日から名前のかわりにわたしは「13番」と呼ばれた。くにから持ってきた本や金銭はとりあげられてしまった。
 わたしはここにきてはじめておそろしい「タコ部屋」の存在を知った。(古川善盛氏によるとタコ部屋とは、北海道および樺太─現在のサハリンに特徴的な、監獄部屋とも呼ばれた土工部屋のことである。北海道鉄道敷設法施行(1869)や拓殖計画の実施<1901>により、北海道の土木工事とそれに伴う土工夫の需要は、1900年代から急速に拡大されていったが、遠い「エゾの奥地」の土工夫確保は容易ではなく、あいだに周旋屋が介在、活動し、その結果前借金でしばりつける飯場、タコ部屋制度がうまれた。

  タコ部屋の組織
 わたしのいた大倉組の「タコ部屋」の組織はこんなものだった。(図略、但し分団長とタコの部分には横にも数列:組長─分団長─週番─棒頭─飯台主─タコ)
 この組織はあとでつれて行かれた三菱の美唄炭鉱でもだいたいおなじようだった。分団長が大倉組の下請けでタコ部屋をつくるのである。…
 週番は棒頭の中から成績のよいものがえらばれてなる。…
 棒頭は十人いた。現場で指揮をとったり監視したりするタコの見張り役である。タコは棒頭のことを幹部さんと呼んでいた。朝鮮人が一人いて通訳をかねていた。

  飯場の一日
 帯広の大倉組の飯場の現場は飛行機の滑走路をふやし飛行場を拡張することだった。わたしたちは、その工事を早く仕上げるための応援隊だった。私たちの仕事は滑走路を雪が降る前にニ面つくることだった。
 飯場の一日は、すべてが命令、号令の指揮ですすめられた。命令、号令は週番がかける。
 「起床」朝四時すぎると大声の号令で起こされる。夏でもまだうす明るいだけである。すぐ起きて、ふとんをたたみ、歯をみがき顔を洗う。まごまごしていると怒鳴られる。起きてから十分ぐらいでやってしまう。
 「めし」の号令で土間に並んだ細長い木のテーブルの前に並ぶ。「めし」は木の弁当箱に、米、ジャガイモ、キントキ豆(大豆の一種)の混じった御飯が一合五勺弱と生みそが少々、それにみそ汁。といっても、汁の実(ミ)はなくてお椀になまみそをといたお湯が一杯。昼飯も同様の弁当箱と他に水が一合つくだけで汁はなし。夕飯は朝飯と同じ。一年中この「めし」に変わりはない。「めし」の量が少なくて質の悪いことはいうまでもないが、それ以上にみんなが苦しめられたのは、水が自由に飲めないことだった。水は朝、昼、夜茶碗に一杯(約一合)きりくれなかった。飯場には井戸がなくて遠くの川から汲みあげてくる貴重品だったのだ。朝飯がすむと土間に向かって、タタミのふちに腰をかけて、夜があけるのを待った。
 「出発」の号令で全員宿舎の外に出る。現場で使う道具などを持って整列する。点呼をとってから現場に向かう。
 飯場から現場まで約2キロメートルある。その間往復には軍歌をうたわされた。「勝ってくるぞと勇ましく」が多かった。歌わなかったり、声が小さく元気がないと「元気を出せ」となぐられた。朝の往き道はまあ歌えたが、帰りにはくたびれて声も渇れてしまったので、なぐられる者が多かった。
 滑走路をつくる仕事といっても、当時は現在のような大型の土木機械は何もなく、ほとんどが人夫の腕の力一つに頼られていた。道具といってはスコップと掘った泥土を運ぶ車だけだった。
 作業はまず土を掘ることである。滑走路にする場所をまず六尺(二メートル)掘る。そこへ一番下に隈笹を敷く。次に砂を八分目入れてからバラスをまいて、その上にコンクリートを打つのである。
 仕事は毎日ちがう相手と二人ずつに組まされて、ばらばらに散らばると勝手に各組が好きな場所(滑走路予定地)を掘った。そしてその堀った土を泥車に積みこんで一キロメートルほど離れた場所に捨てに行くのである。この泥運搬車の大きさはタタミ一畳分くらいである。土を掘ってそれに積む。まずタタミ三畳の広さを二尺の深さに掘って、それによってでた土を車に積めるだけ積んで運ぶのだからものすごく重い。車に入れる土の量が少ないと「盛がわるいぞ」と打たれた。また土を運ぶときは往復かけ足でなければならない。掘った土を運び終わるとまた三畳分を二尺の深さに掘る。これのくり返しである。運搬する道筋のところどころに、むちを持った棒頭が見張っていて、のろのろしていれば「それ走れ、それ走れ」と、持っているむちや棒で、タコの背中や腰をどやしつけた。棒頭も走っていて追いまくる。牛馬よりひどい扱いである。二人で土を掘り、積んで走り、土をあけては走った。これを一日最低60回やらされた。見張りはむちを持って追いまわす棒頭のほかに高い櫓を組んでその上から見張っているのもいた。ここからは現場の全体が見渡せたから、脱走や事故にそなえた。そのほかにもいつも軍隊が見回っていて、何か起こると鎮圧にのり出してきた。しかし毎日異なる相手と組んであとはバラバラで追いたてられていたから、何か相談したり、暴動を起こすことなどはまったくできなかった。
 仕事のつらさに、指が使えなければ休めるだろうと、自分の指を泥運搬車の下においてひきつぶしてしまった者がいたが、そんな事ぐらいで仕事は休めなかった。けがや事故はたるんでいるからだと打たれた。またスピードの出たはずみで泥車の車輪がはずれて積んだ泥をぶちまけてしまったりすると、死ぬほどむちでたたかれた。
 「昼飯」の号令がかかる。昼飯は十二時から三十分間である。朝の弁当と同じものに一合の水。この水が一合きりというのが実につらかった。汗をかき、息がきれるからどうしても水が飲みたかった。もちろん腹もすいたが、それ以上に水が飲みたくて、めしと水をとりかえる者さえいた。水は反場から四斗樽を二人でかついで川に降りて運んでくるのだから貴重品なのである。昼飯のほかに三時に、立ったままたばこを一服吸うだけの休みが一回あった。それは文字通り一服の時間、五分もなかった。
 タコはいつも空腹だったから、口に入れるものがあれば何でも食べた。現場に生えているタンポポの白い根、からすの実と呼んでいた草の実など、これは毒があるといわれたがみんなかまわず食べた。玉ねぎの皮などが落ちていれば争って拾った。棒頭にみつかるとまたなぐられた。こうした粗食と重労働、体罰のくり返しでみんなたちまちのうちにやせこけてしまった。ニ十歳前後の若者が骸骨のようで、骨の上に皮をはりつけただけになり、目もくぼんで老人のようなしわが顔中にでき、息をふきかけただけでも倒れてしまいそうに衰弱していった。
 仕事場での服装は往復着ていた服はぬいでしまい、ふんどし一つにわらじばきである。わたしは後になって写真でみたのだが、ナチスの収容所で虐殺される寸前のユダヤ人と当時のわたしたちがそっくりだと思った。みないつも心の奥に脱走への願望をかくしていた。作業をしているところからずっと遠くに雪をかぶった十勝岳がみえた。その雪の山をみると、あの山の下にはきっと冷たい水が流れているだろう。あの山の下に行けば水が腹一杯飲めるだろうと水を飲みたい一心で脱走するものがいた。しかしみんな失敗した。原野でかくれるところがないからだ。脱走者が出ると櫓の上で見張っている棒頭が「飛びっちょうだあ」と大声でわめく。すると軍用犬(大きなセパード)や自動車に乗ったもの、馬に乗ったものなどがどこまでもどこまでも追って行ってつかまえるのである。たいてい一キロメートルも逃げないうちにつかまってしまった。脱走者がつかまってくると、その場ですごいリンチをうけた。また夜飯場にもどってから連帯責任だといって他のみんながなぐられたが、だれもうらみごとなどいわなかった。
 わたしも水が飲みたい一心で脱走して失敗した。朝飯をたべて現場へ行く途中でやった。現場では櫓の見張りにみつかってしまうと思ったから。帯広についてから一ヶ月くらい経った六月の中ごろだった。少し暑くなっていた。故郷の近い6番と38番がいっしょに脱走した。十勝岳をめざして夢中で走ったが四、五百メートルさえ逃げないうちにつかまってしまった。あと四、五百メートル行けば背の高い草のはえているあたりにもぐりこめたのだが、その手前でつかまってしまった。わたしと38番はつれもどされたが、6番は帰ってこなかった。しかし6番はとても弱っていたのでつかまらないはずはないから、つかまった場所で殺されてしまったのではないかと思う。わたしたちも、つかまった場所でまずさんざんなぐられて息もたえだえにさせられたから。それから現場までひきずるようにしてつれてこられ、梁瀬と言う見習士官に刀のさやでなぐられた。よろよろしながら、それでも仕事をさせられ、夜飯場に帰ってきてからまた食卓のそばの土間に引きずりだされて帯剣バンドでめちゃくちゃになぐられた。まず帯剣バンドで背中の皮が割けて背中じゅうが血だらけになるまでなぐられる。すると、体を裏返しにして胸や腹をやられる。そのうちに口から血が流れ、次に肛門からも血がしたたる。咳をすると耳や鼻からもかたまった血が飛び散った。意識不明になると水を頭からざぶざぶかけられた。最初は痛くても、やがて感覚がなくなって痛みもその当座は大して感じなくなってしまう。しかし、寝床へつれもどされると、ひと晩中痛みで眠れなかった。うめき声をころして一夜明けると次の日は同じように作業に行かされた。動けなくても引きずりだされて現場まで何としてでも連れ出される。他のたとえば病人などでも、決して飯場に休ませて寝かしておくということはしなかった。どんな場合でも現場まで引っ張り出され、病人などは現場にすわって作業をみていなければならなかった。寒い日には、そのことは働く以上につらいことにもなった。
 仕事の終了時間は六時ときめられていたが、暗くなるまでやらされた。みな運搬を60回から62回はやっていた。帰りは道具を持ち軍歌を歌いながら帰った。どんなにつかれていても声をふりしぼって歌った。歌わないとなぐられたから。
 七時頃飯場にもどると、晩の食事である。朝飯とまったく同じものを食べる。
 「入浴用意」風呂場の湯舟は四畳半ぐらいあった。五人ずつ並んで、「入れ」「交代」の号令がかかる。号令に従って、手拭いを以て湯につかる。入る順番があとになれば、まっくろいどろどろの湯になってしまう。上がり湯などない。その湯で顔をひとなでして首筋でもこすればもう交代である。そのきたない湯さえ飲むものがいる。しかしみつかれば又なぐられた。どろと汗とでしょっぱい湯。出てみれば体にどろの縞がついていることもある。わらじが足の指のまたに食いこんで、ただれて血を流すものもいた。でも薬などない。ふろから出ると順番に便所に行く、風呂に入るのも順番で、棒頭などが入ったあとに、タコが順番に。今日は一斑が早く、明日は二班が早くというように入った。
 「寝具の用意」八時になると寝る仕度をする号令がかかる。土間をはさんで両側に長く続いたタタミの上にふとんを敷いて寝る仕度をする。自分の衣類をまるめて枕にする。飯場で使っていたふとんは帯広の町から軍隊が没収してきたものだったから、最初のうちはきれいだったが、たちまちのうちにぼろぼろになってしまった。寝る仕度がすむと、ふとんの上にあぐらをかいて二列に並んで坐る。
「点呼」の号令がかかる。はじから「一、二、三、四、…」と番号をいってゆくが、日本語になれない者がもたついていえなかったりするとまたなぐられる。隣のものがそっと教えてやる。それがわかればまたどなられる。それから説教がある。きょうは能率が悪かったとか、戦争を続けるために一日でも早く滑走路の完成を急がなければならぬとか、脱走などがあったときには、そのことについて延々と聞かされた。
「就寝」で床に入る。たいていのものは昼間の疲れで何を考える間もなく眠ってしまう。それでも中に何人かがひそひそと隣同士でしゃべっているのがきこえれば「雑談するな」とどなられる。話し声はしなくなる。しかし声を殺したすすり泣きやうめき声がどこからともなく起こる。元気なさかりのはずの若者が百人もいるというのにすこやかな眠りはない。みんな故郷のことを考えると、それからそれへといろんな事が考えられて悲しさがこみあげてくるのだ。わたしはまず国のお母さんのことを思った。思ったというより自然にこころに浮かんでくるのだ。お母さんの顔が。それから国をうらんだ。何でこんなことになってしまったんだ。日本を憎むより自分の国をうらむ気持ちがつよかった。犬の遠吠えのように気味の悪いひくいうめき声が「アイゴー、アイゴー」ときこえてくる。それはだれかが怖ろしい夢の中でうなされている声なのか、考えごとをしながら思わずもらしたさめているものの声なのかわからなかった。しかし、そのたまらなくいやな声は今でも耳の底にくっついて離れない。こんなことが毎晩だった。
 帯広の仕事は約五ヶ月かかって終わった。その間休みは一日もなかった。報酬ももらわなかった。一銭ももらわなかった。送金したといわれたが、返事もこなかったし、結局、故郷にも送金しなかったと思う。滑走路作業が終わったとき、みんなを集めて週番が話した。
「おまえたちをこれからとてもいいところへ連れて行く。北海道は寒いが、あったかいところだ」あったかいというのは炭鉱の坑内のことだった。帯広駅からまた監視つきで汽車にのった。たいした所持品もなく体一つで移動した。一緒に出発したのは60人ぐらいだった。引率して行ったのは高橋五郎という名前だったが朝鮮人である。

  三菱美唄炭鉱 (以下略)  

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