「百人斬り競争」とは、南京攻略戦のさなか、大日本帝国陸軍の野田毅少尉と向井敏明少尉が、「南京入りまでに日本刀でどちらが早く100人を斬るか」を競ったとされる行為であり、戦後、南京大虐殺を象徴するような残虐事件として話題になることが多い。
ところが、『新「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明(飛鳥新社)には、この件に関して、下記のように書かれている。
”どちらにしても、アメリカ当局はこの「百人斬り」については、「東京裁判」の本裁判では無論のこと、個人の犯罪を裁く「戦時法規を無視したC級裁判」としても、このことを立証し、有罪に持ち込むことは不可能である、と判断し、起訴はしないことにした。”
であれば、その根拠となる文書や関係者の具体的な証言などを示してほしかったと思う。本当に「東京裁判」の検察側が有罪に持ち込むことは不可能であると判断し、起訴はしないことにしたのかどうか、疑問が残る。
また、下記の野田・向井両少尉の遺書を読んでも「百人斬り競争」がまったくの「虚構」であるとか、「東京日日新聞」の浅海記者が創作した」ものであるとは思えない。野田少尉は
”つまらぬ戦争は止めよ。曾つての日本の大東亜戦争のやり方は間違つていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思つたところに誤謬がある。日本人全部がそうだつたとは言わぬが皆思い上つていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。”
と書いている。「間違つていた」というのである。「百人斬り競争」に関しては、
”只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断り致します。”と正当化はしているが、それは、関係指揮官や戦友が裁かれ罪に問われる可能性、また、戦後の日本の立場を慮ってのことではないかという気がするのである。
死刑を潔く受け止めることができるは、自らの過ちを認めているからではないかと思う。「百人斬り競争」が、もし虚構であり浅海記者の創作であれば、やってもいない創作記事のために裁かれることに関して、もう少し踏み込んだ記述があって然るべきではないか、とも思う。
向井少尉も同様に
”我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。”
と書いているが、あまりにも潔い。そして、
”公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。”
と書いているのであるが、この文章で「百人斬り競争」の事実を否定しているのではないことがわかる。「戦闘行為」であり、「捕虜住民を殺害せる犯罪」ではないというのである。
しかしながら、向井少尉も、野田少尉も、戦場で連日日本刀を振り回す白兵戦を強いられるような立場になかったことはよく知られている。2人は同じ第十六師団・第九連隊・第三大隊所属であり、野田少尉は第三大隊の副官、向井少尉は歩兵砲小隊の小隊長である。
また、第十六師団を率いた中島今朝吾師団長(陸軍中将)が、その日記に「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共…」と書いていることもよく知られている。そして、多数の第十六師団諸聯隊の将兵が陣中日記等に捕虜殺害の事実を書き留めている(452南京事件 第16師団歩兵第33聯隊 元日本兵の証言・453南京事件 師団命令の虐殺 元日本兵の証言・454南京事件 陥落後も続く集団虐殺 元日本兵の証言等参照)。したがって、「百人斬り競争」は「捕虜殺害」の可能性が大きいのではないかと思う。
ただ、関係指揮官や戦友が裁かれ罪に問われる可能性、また、戦後の日本の立場を考えれば、どうしても「捕虜殺害」を認めることは出来ないため、「捨て石」やむなしとして、「捕虜殺害」の「処刑」を受け入れながら、「戦闘行為」と主張したのではないか。死刑を潔く受け入れているのは、そういうことではないかと推察する。
少なくても、「百人斬り競争」がまったくの虚構であるとか、「東京日日新聞」の浅海記者が創作したものであるということは、下記を読めば、あり得ないと思われる。向井少尉は、「野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり……」と書いている。また、「浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です」とも書いて言いる。さらに「浅海様にも御礼申して下さい」とまで書いているのである。浅海記者の創作記事によって処刑されることになったのであれば、そういう言葉は出てこないであろう。
下記、資料1、野田少尉の遺書は12月20日から1月28日の日記の一部を、資料2、向井少尉の遺書は全文を、『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)から抜粋した。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日支の楔とならん
野田毅
鹿児島県出身 陸軍士官学校卒業 元陸軍少佐
昭和23年1月28日、広東にて銃殺刑。35歳
遺書(日記より)
昭和22年12月20日
公判は12月18日南京市の公会堂の様な処でありました。雪の降る寒い日でしたが聴衆が一杯でした。女子供もいました。
日本男児として恥ずかしくない態度で終始しました。「今迄の戦犯公判では一番立派な態度でした。」と後から通訳官や其他の人から聞きました。最後の檜舞台のつもりで大音声で答弁致しました。従来の公判では死刑を宣告された瞬間拍手があつたり、或は民衆の喧々轟々たる声があつたらしいですが吾々の時は終始静粛でありました。中国の民衆も耳を傾けて吾々の云ふ事を聞いていた様で吾々に対する悪い感情といふ様な雰囲気は別に感じられませんでした。最終発言では一言一句力をこめて申し上げました。一緒に公判を受けた向井君(向井敏明少佐)は長時間ねばつて答弁しました。田中さん(田中軍吉少佐)は聴衆の方々に向かつて「私の死刑は問題ではありません。中国と日本との親善の楔となれば幸いです」と云ふ意味の熱弁を振い、将に鉄火が白熱して飛び散る観がありました。
公判の最後に死刑の宣告がありましたが別に感動も何もなく、まるで他人事の様な気がして、自分で自分が不思議な位平然としていました。田中さんは私と同じく身動きもせず毅然としていました。帰途の自動車(トラック)の上では田中さんが「海ゆかば」を歌い向井君も之に和していました。
12月30日
今日は30日明31日を1日余すのみとなつた。向井君は昨夜一睡もせず田中さんは徹夜して遺書を誌した由。私は太平記を読み疲れて寝てしまつた。
私は幼時は負け嫌いで、そのくせよく泣く神経の鋭い男だつたと思う。だが、何時の間にか神経の鈍い男になつてしまつた。寸前の死の観念が心臓にも神経にも何等響きを持つて来ない。死に対する恐怖がない。死が直前にぶらさがつていても食事前の気分、読書の気分と何等変りがない。と云つて全然死を忘却しているわけでもない。面白い心理だ。
戦争では気がたつて興奮しているから死を考えもしなければ、たとえ死を考えても尽忠報国の気分が之を圧倒していた。
然し平静な時に死刑を宣告されて平静心のままで居られることは私も35才にして初めて到達し得た大丈夫の心境だと思う。古今東西の聖人、賢士、哲人、高僧、偉人、武将、も結局私と同じ心境だと信ずるに到つた。
つまらぬ戦争は止めよ。曾つての日本の大東亜戦争のやり方は間違つていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思つたところに誤謬がある。日本人全部がそうだつたとは言わぬが皆思い上つていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。
愛と至誠のある処に人類の幸福がある。
死刑執行の前日である。爪を取る。故郷への形見である。
天皇陛下万事!
中華民国万歳!
日本国万歳!
東洋平和万歳!
世界平和万歳!
死して護国の鬼となる。
絶唱
君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
昭和22年12月31日 朝
死刑執行の日 野 田 毅
我は日本男児なり
昭和22年12月31日
1月28日
南京戦犯所の皆様、日本の皆様さようなら。雨花台に散るとも天を怨まず人を怨まず日本の再建を祈ります。万歳、々々、々々
死刑に臨みて
此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事につき厚くお礼申し上げます。
只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断り致します。死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願ひ致します。
宣伝や政策的意味を以つて死刑を判決したり、或は抗戦8年の恨みを晴さんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。
我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願致します。
中国万歳
日本万歳
天皇陛下万歳
野 田 毅
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
向 井 敏 明
千葉県。元陸軍少佐。昭和23年1月20日 南京に於て銃殺刑。36歳
時世
我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。
我が死を以て中国抗戦8年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨て石となり幸ひです。
中国の奮闘を祈る
日本の敢奮を祈る
中国万歳
日本万歳
天皇陛下万歳
死して護国の鬼となります。
12月31日 10時 記す 向 井 敏 明
遺書
母上様不幸先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐ろしい国です。
野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集つて語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御詫びして置きました。
公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが、公判に間に合いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。富山隊長の証明書は真実で嬉しかつたです。厚く御礼を申上げて下さい。浅海氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものゝ、人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。今となつては未練もありません。富山、浅海御両人様に厚く感謝して居ります。富山様の文字は懐かしさが先立ち氏の人格が感じられかつて正しかつた行動の数々を野田君と共に泣いて語りました。
猛の苦労の程が目に浮び、心配をかけました。苦労したでせう。済まないと思います。肉親の弟とは云い乍ら父の遺言通り仲よく最後まで助けて呉れました。決して恩は忘れません。母上からも礼を言つて下さい。猛は正しい良い男でした。兄は嬉しいです。今回でも猛の苦労は決して水泡ではありません。中国の人が証明も猛の手紙も見たのです。これ以上の事は最早天命です。神に召さるゝのであります。人間のすることではありますまい。母の御胸に帰れます。今はそれが唯一の喜びです。不幸の数々を重ねて御不自由の御身老体に加え孫2人の育成の重荷を負せまして不孝これ以上のものはありません。残念に存じます。何卒此の罪御赦し下さい。必ず他界より御護りいたします。二女が不孝を致しますときは仏前に座らせて言い聞かせて下さい。父の分まで孝行するようにと。体に充分注意して無理をされず永く
生きて下さい。必ずや楽しい時も参ります。それを信じて安静に送つて下さい。猛が唯一人残りました。共に楽しく暮して下さい。母及び二女を頼みましたから相当苦労する事は明らかですからなぐさめ優しく励ましてやつて下さい。いせ子にも済まないと思います。礼を言つて下さい。皆に迷惑を及ぼします。此上は互いに相助けていつて下さい。千重子が復籍致しましても私の妻に変りありませんから励まし合つて下さい。正義も二女もある事ですから見てやつて下さい。女手一つで成し遂げる様私の妻たる如く指導して下さい。可哀想に之も急に重荷を負わされ力抜けのした事、現実的に精神的に打撃を受け直ちに生きる為に収入の道も拓かねばなりますまい。乳呑子もあつてみれば誠にあわれそのもの生地獄です。奮闘努力励ましてやつて下さい。恵美子、八重子を可愛がつて良き女性にしてやつて下さい。ひがませないで正しく歩まして両親無き子です。早く手に仕事のつくものを学ばせてやつて下さい。入費の関係もありますので無理には申しません。猛とも本人等とも相談して下さい。
母上様敏明は逝きます迄呼んで居ります。何と言つても一番母がよい。次が妻子でしょう。お母さんと呼ぶ毎にはつきりとお姿が浮かんで来ます。子供等も家も浮んで来ます。ありし日の事柄もなつかしく映つて
来ます。母上の一生は苦労心痛をかけ不孝の連続でたまらないものを感じます。赦して下さい。私の事は世間様にも正しさを知つていたゞく日も来ます。母上様も早くこの悲劇を忘れて幸福に明るく暮らして下さい。心を沈めたり泣いたりぐちを言わないで再起して面白く過ごして下さい。母の御胸に帰ります。我が子が帰つたと抱いてやつて下さい。葬儀も簡単にして下さい。常に母のそばにいて御多幸を祈り護ります。御先に参り不孝の罪くれぐれも御赦し下さい。石原莞爾様に南京に於て田中軍吉氏野田君と3名で散る由を伝達して生前の御高配を感謝していたと御伝へ願います。
日記の中より
今日31日執行せられると言ふ朝は何一つとして頭心慾と言ふべきものは無かつた。然し之も正確には言へない弱さがある。血の流れある限りとも言ふべし。立派に武人らしく斃れよう安らかに我家に還らんと服装を正して待つた。思つたより平静で居られたのは不思議でならない。時間の経つのも長い様にも短い様にも思つた。正確には判断が出来ない。合掌をして居たと言ふ事より記憶がない。唯日常より真剣に合掌が出来たと言ふ満足があるのみで陽が西に廻つて来た頃今日はもう無いよと野田君が言ふと田中氏が奇蹟現出だ、我々は助かると喜びの声が震えて壁に打ち当つて聞える。突然生への愛着を覚えて来た。空腹を感じる。今朝向ふの人に渡した味噌が欲しくなつて来た。生きていると美味い煙草だと田中氏が笑つて呼びかけて来た。本当だ、自分も同調、明日は正月だ、3日間は大丈夫と言い合つたら各々御馳走が来るだろうと楽しみにした。楽しみつゝ早寝した。精神的の疲れとでも言おうか追ひ込まれるような眠たさだ。何時か誰かに聞いたが死ぬ前は馬鹿にねむたいと言ふ事を思ひ出した。或はそうかなとも思ひうとうとする。
元旦、気が抜けた。未だ奥歯に物の在る元旦で限られた3日正月の様に淋しい感じがする。声を張り上げて君が代を唱つた。野田君の部屋からも聞えて来た。念仏を暁方から始めて居たが念仏を念ずるときが一番幸福だと感じた。君が代を唱つて番兵に階上に上官が寝て居るので静かにせよと注意される。やつぱり念仏に限る楽しさが増して来る。朝食前マンヂウが5ヶ宛来た、万寿とは上々と田中氏喜ぶ。味は全然無いが美味しかつた。2つは本当に呑んだやうだつた。料理が十時頃来たが獄舎で作つたとの事。80万元か90万元の料理だと言つて居たが成程とうなづけるものばかりだ。碗一杯と小皿一杯ではあつたが3人喜んで喰ふ。生きて居ないと駄目だよ、マンジウも喰はないで供えて貰ふところだつたねと、田中氏のにこにこ笑う顔が見える様だ。満腹すれば寝正月より他になし。29日、30日夜寝ずに遺書を書き念仏を唱えて居たので風邪を引き咳が出て苦しめられる。3日目の今日あたり少々楽になつて来た。3日間喰つては寝るの正月だつた。この3日が人生の一番ゆつたりとした日になるだろう。生きて居れば思い出の日だ。
昭和23年1月28日、様子が変である。最後の様である。28日午前12時南京雨花台にて散る。
母上様、妻子元気で幸福に生きて下さい。頑張つて下さい。さようなら。
母上様御恩の万分の一も尽されず、先立つ不孝を御赦し下さい。孫等のためいついつまでも永生きして下さい。後をたのみます。
皇室のいや栄を護り奉る
天皇陛下 万歳
日本国 万歳
平和日本の再建
国民一同の御奮闘を祈る
誓つて国家を護り奉る
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