また、「731」青木冨貴子(新潮社)には、信じられないような事実が報告されている。アメリカの人権団体から招かれ、アメリカ人とカナダ人の前で講演する予定であった篠塚良雄氏氏(少年隊として15歳で満州に渡り平房の731部隊に所属、細菌培養の仕事を手伝わされ、ノモンハンの前線基地に細菌を運んだことがあるという)が「人道に反する残虐行為に加担した疑い」で入国を拒否され強制送還されたというのである。それが1998年6月25日のことであるというから驚く。そして、戦犯として裁かれるべき当時の幹部は、過去に蓋をしたまま生き延び、要職に就き、追及もされず、アメリカへの入国も自由であるというから開いた口がふさがらない。日本政府の隠蔽体質や戦後処理の問題であると思う。補償の問題も含め、政府自らが一日も早い根本的解決に踏み出してほしいと願うものである。
「731部隊と天皇・陸軍中央」吉見義明/伊香俊哉(岩波ブックレットNO389)から、ノモンハン事件での細菌攻撃の部分を抜粋したい。
ノモンハン事件(細菌攻撃開始)--------------------
平房で細菌などを使ったさまざまな攻撃方法が模索されているさなかの'39年3月26日、参謀本部作戦課と関東軍防疫部との間で会議がもたれた。出席者は、作戦課側が課長の稲田正純大佐と課員の井本熊男少佐・荒尾興功少佐、防疫部側が部長の石井四郎軍医大佐、北条円了軍医少佐、パイロットであり石井の娘婿でもある増田美保薬剤大尉、石井の右腕とも称される増田知貞軍医中佐などという顔ぶれであった。
この会議で参謀本部側は「○○〔細菌〕作戦研究の結果」を石井部隊側から聴取したが、会議後井本は日誌に「さらに研究を重ね自身を得たる後実地試験に取りかかることが肝要なり」と記した(「井本日記」)。参謀本部内で細菌戦の試験的な実施が考慮され始めたのである。そしてまもなく開始されたノモンハン事件において関東軍防疫部による細菌攻撃が実施されたのである。
'39年5月中旬「満州国」と「外蒙」(モンゴル)も国境線付近のノモンハンで日本軍とソ連・モンゴル人民共和国軍の衝突が起きた。この第一次ノモンハン事件は、日本側の敗北でまもなく終結したが、関東軍はソ連軍への報復を企図し、6月末に第二次ノモンハン事件を開始した。しかし8月20日に開始されたソ連軍の総攻撃の前に、関東軍諸部隊は総崩れとなった。日本側の敗北が決定的となったこの8月末に細菌攻撃が実施された。
この攻撃に参加した石井部隊の元少年隊員は1989年に次のように証言している。攻撃部隊を率いたのは、関東軍参謀の山本吉郎中佐で、攻撃の目的は「日本軍の陣地に近いホルステン川(ハルハ川の支流)の上流から病原菌を流し、下流のソ連軍に感染させる。」ことにあった。8月末に二度の出撃がなされたが、菌液投入に成功したのは9月に入った三度目の出撃であった。この時15名ほどの攻撃隊は、22~23個の腸チフス菌入りの石油缶をを携行し、腸チフス菌を培養したゼリー状の液を川にぶちまけたのである。(『朝日新聞』1989年8月24日)
この山本中佐の攻撃以外に、碇常重軍医少佐率いる決死隊による同様の決戦が行われたとの供述が戦後のハバロフスク裁判においてなされているが、詳細はいまだ不明である。
ノモンハン事件での細菌攻撃は、効果がなかったようである。石井部隊長はチフス菌を川に撒いても効果がないことを知っていながら、作戦を実施したとさえいわれている。効果があるかどうかという問題よりも、細菌を兵器として使用してみせるというデモンストレーションが石井にとって必要だったのかもしれない。しかしとにかくこのノモンハン事件での使用は、現在のところ日本側での証言のある最初の細菌攻撃であることに間違いない。なおノモンハン事件自体は、日本の惨敗のまま終結へ向かった。
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日本軍関係者の細菌戦実施事実関係記録文書(業務日誌)は、下記の四つである。
●参謀本部作戦課員 井本熊男大佐 業務日誌
●陸軍省医務局医事課長 金原節三軍医大佐 陸軍省業務日誌摘録
●陸軍省医務局医事課長 大塚文郎軍医大佐 備忘録
●参謀本部作戦課長 参謀本部第一部長 真田穣一郎少将 業務日誌
これらの日誌では、細菌戦攻撃作戦は「ホ号」「ほ号」「保号」「○ほ」などと暗号で呼ばれていた。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/
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