明治天皇は、孝明天皇が亡くなったため、慶応3年(1867年)2月13日、元服前の満14歳で践祚の儀を行い皇位についたといいます。今なら中学生の年齢です。その明治天皇が、みずからの父親である孝明天皇の意に反する「討幕の密勅」を下すことがあり得るでしょうか。
孝明天皇は、いやがる妹和宮を説伏せ、江戸降嫁を求める幕府からの申し入れを受け入れて、和宮を徳川家茂(14代将軍)に嫁がせた関係で、一貫して公武合体を主張し、過激な討幕運動には反対だったといいます。
ところが、「討幕の密勅」の文章には、”賊臣慶喜を殄戮(テンリク)し…”とあります。「殄戮」というのは、「殺し尽くす」というような意味だといいます。満14歳で践祚した明治天皇が、討幕の密勅に書かれているような、孝明天皇とは著しく異なる思いを、どのようにして持つにいたったのか、とても疑問です。
朝廷や天皇と幕府の間に深刻な対立があり、それを聞かされて育ったというのなら、話はわかりますが、孝明天皇は幕府の要請を受けて妹和宮を降嫁させ、その後も和宮を気遣っていたといいます。攘夷を望みつつも、公武合体の立場をとっていたのです。だから、その内容からして「討幕の密勅」は「偽勅」であろうと、私は考えるのです。
さらにいえば、討幕の方針で手を結んだのは、「関ヶ原の合戦」で敗戦した藩が中心であったといわれています。だから、ながく反幕府の精神を持ち続けたといわれる長州藩が、「討幕の密勅」が下るまえに、くりかえし幕府と衝突していることも見逃すことができません。長州藩は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、幕府から長州征伐の軍を送られているのです。
そうしたことを考えると、薩長両藩に下された「討幕の密勅」は、幕府と折り合いのわるい長州藩や孝明天皇の死後復活した尊王攘夷急進派公家が画策したものだろうと、私は思います。「四奸二嬪」の弾劾やその後の処分も、そうした動きとひとつのものではないかと思います。
「討幕の密勅」に関しては、「王政復古 慶応三年十二月九日の政変」井上勲著(中公新書)に、密勅が下る経過や、偽勅であると考えられるいくつかの証拠、また、「討幕の密勅」の目的が記されていますが、著者は、同書のなかで、「討幕の密勅」が「偽勅」であるとしたうえで、
”討幕の密勅にかかわる一連の行為、作成と交付と受諾の一連の行為は、共同謀議というに等しい。密勅が偽勅であれば、こら等の作成は犯罪である。 これにかかわった者は、いわば共同正犯である。”
と書いています。まさに天皇の名を利用した犯罪だということです。
この文章と関連して思い出されるのが、孝明天皇毒殺説です。「天皇家の歴史(下)」ねずまさし(三一書房)には、孝明天皇の死後”ただちに毒殺の世評おこる”と題して
”このように順調に快方に向かっていたにもかかわらず、天皇は突然世を去った。典医の報告は重要な日誌を欠いているため疑惑を一層深めるが、これと符節を合わせたように、毒殺説が早くも数日後廷臣の間にあらわれた。”
とあります。そして、”典医の報告でも毒殺を暗示する”として、毒殺が疑われる事実をいくつかあげ、”天皇は討幕派の闘争の血祭りにあげられたといってよい”と結論しているのです。
尊王攘夷急進派の、こうした討幕に関わる一連の事件を考えれば、「明治時代は、嘘と脅しとテロによって始まった」と言わざるを得ないと思います。
下記は、「王政復古 慶応三年十二月九日の政変」井上勲著(中公新書)から、一部を抜粋しました。
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第五章 慶応三年の冬
1 討幕の密勅
経過
慶応三年十月十三日、島津久光・忠義父子に討幕の密勅が下った。同日、毛利敬親・定広の父子に対して、官位復旧の沙汰書が下った。ここに長州藩は、全面復権をとげたということになる。そして翌十四日、毛利敬親・定広に討幕の密勅が下った。これに付随して両藩主父子に、松平容保と松平定敬(サダアキ)の二名の討伐を命ずる沙汰書が下った。
討幕の密勅を中心に、この一連の文書については、疑問が多い。とくに討幕の密勅について、文書の様式からみて詔書(ショウショ)か綸旨(リンジ)か、また真勅か偽勅か、何ゆえに十月十三日・十四日なのか、くわえて目的は、等々、多くの疑問が呈せられている。ともあれ、討幕の密勅の全文を掲げる。
詔す。源慶喜、累世(ルイセイ)の威を藉(カ)り、闔族(コウゾク)の強を恃(タノ)み、みだりに忠良を賊害し、しばしば王命を棄絶(キゼツ)し、ついに先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝壑(コウガク)に擠(オトシイ)れて顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆すべからん。朕、今、民の父母たり。この賊にして討たずんば、何を以ってか、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎(シンシュウ)に報いんや。これ、朕の憂憤の在る所、諒闇(リョウアン)にして顧みざるは、万やむをえざる也。汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(テンリク)し、以って速やかに回天の偉勲を奏し、しこうして生霊を山嶽の安きに措くべし。此れ朕の願、敢えてあるいは懈(オコタ)ることなかれ。
密勅降下の経緯について述べる。九月の、第一次出兵同盟にもづく武力討幕の戦略構想に、勅諚降下があったことは、充分に想像できる。京都で一挙奪玉の政変があり、時をおいて大坂城攻撃がある。そしてその双方を、天皇の名において正当化する文書が必要だからである。
小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通の三名が相当の宣旨を要請して、その趣意書と上書とを提出した日時が十月八日であったことは、たしかである。そして相当の宣旨が、討幕の密勅と同じ文面である可能性もたかい。けれども、十月八日の上書にいう相当の宣旨と討幕の密勅とは、たとえ同文であっても、その性格を異にする。以下のように、その性格を異にする
この日、十月八日は、大久保利通・広沢真臣・植田乙次郎の三名の薩長芸三藩の藩士が中山忠能(タダヤス)と中御門経之を訪うて、挙兵討幕への決意を述べた日である。そして、この二人の廷臣に、即応の朝廷工作を要請した日である。その朝廷工作の一つに、上書にいう相当の宣旨の降下があった。相当の宣旨は、失機改図(機会を逃した為の計画の変更)以前の、九月の討幕の戦略構想におけるそれであった。
したがって相当の宣旨は、薩長芸三藩の藩主に布達されるべき文書である。そのことは、宣旨を要請する上書がよく示している。上書は三藩出兵同盟の成立をさして、両三藩制すべからざるの忠義暗号と形容している。ここでいう両三藩は、薩長芸の三藩のことである。だから、十月八日の大久保利通は、広沢真臣に加えて、安芸藩士の植田乙次郎に同道を求めたのである。もしかりに、相当の宣旨が討幕の密勅であるのなら、大久保が植田をともなうことはなかっただろう。安芸藩士をともなって中山と中御門の二人の廷臣に面会しながら、同時に、薩長二藩への討幕の密勅を奏請することは、奇妙というより他あるまい。
相当の宣旨は、密勅ではなくして、外に公示されるべき性格の文書であった。京都での政変と大坂で挙兵と、これに正当性を付与する役割を期待されているわけだから、外に示されるべきなのである。そして、これが発令される日は、三藩の兵が大坂に上陸してよりのちの何日かであって、十月十三日でもなければ十四日と定まっていたわけでもなかった。
以上のこと、つまり相当の宣旨と討幕の密勅とが異なる性格をもつ文書であったことは、さらに広沢真臣の行動がこれを裏づける。くり返すが、宣旨降下を要請する上書が提出されたのは、十月八日である。広沢は、その夜に京を去っている。宣旨をうけることなく、帰国の途についている。
広沢は、木戸孝允とならぶ長州藩の指導者である。出兵同盟の遂行について、木戸がいわば後方の指導にあたっていたのに対して、薩芸両藩との交渉を担当したのは広沢であった。もし相当の宣旨が討幕の密勅であれば、広沢に交付されていてしかるべきだろう。けれども交付されなかった。相当の宣旨は、十月八日のこの時点で、広沢──というより長州藩主に交付されるべき性格の文書ではなかった。三藩の兵が大坂に上陸してのちに、交付されるべき文書なのであった。ちなみに、長州藩主父子への官位復旧の沙汰書、討幕の密勅、松平容保・定敬を討伐することを命ずる沙汰書、これらの一連の文書が交付される時には、大久保と広沢とはつねに行動をともにしていて、安芸藩士をともなうことはなかった。
討幕の密勅は、十月八日以降に生じた何かの事情により、急ぎそして秘密の裡に作成され、そして交付された文書なのである。八日から十四日にいたる四日間、朝廷、幕府、土佐藩に、とくに新たな行動の兆しがあったわけではない。十三ないし十四日という日付は、大政奉還のあった十五日と関係づけて説明されることがあるけれども、これが成立しないことは後記する。
情況の変化は薩長の側に生じていた。福田侠平が入京して、薩摩藩兵が三田尻に到着していないとの情報をもたらしたのが九日の夜、広沢が大坂からふたたび京に入ったのが十日の夜、広沢と福田との協議ののち、小松・西郷・大久保の三名が改図の方向を定め、藩主の率兵上洛を戦術構想の基本にすえたのが十一日である。十二日が過ぎた。
十月十三日の夜、大久保は広沢をともなって岩倉具視を訪うた。岩倉は、広沢に長州藩主父子への官位復旧の沙汰書を交付した。本来であれば、中山忠能から手渡されるべきはずのものだがと、このような言葉を添えながら交付した。翌十四日は、徳川慶喜が大政奉還の上表文を朝廷に提出した日である。この日、小松・西郷・ 大久保は協議して、大政奉還の速やかな実現をはかるための行動に着手した。小松は二条城に徳川慶喜への面会を求め、ついで二条斉敬(ニジョウナリユキ)を訪い、大政奉還の上表文の受理を要請した。大久保は、広沢と同道して正親町三条実愛(オオギマチサンジョウサネナル)を訪うた。正親町三条は討幕の密勅を手渡し、請書の提出を求めた。請書が提出された。これに署名した者は、小松・西郷・大久保および広沢・福田・品川の薩長両藩士の六名である。
十月十五日、朝廷は大政奉還の上表を受理した。大政奉還である。十六日が過ぎた。そして十七日、先の六名の薩長両藩士は、ともに京を去って帰国の途についた。では、改めて討幕の密勅とは何なのか。
偽勅か
討幕の密勅は詔の字ではじまる。詔で始まる文書は、詔書である。けれども密勅は詔書ではない。詔書は価値の高い文書であるから、相応の手続きが必要である。律令法の効力が失われて久しい幕末の朝廷においても、少なくとも次の手続きを要した。原案が作成され天皇のもとに提出される。承認すれば、天皇はみずからの筆で、日付の一字を記入する。御画日(ゴカクジツ)である。ついで、この写しが摂政ないし関白に送られる。摂政ないし関白は朝廷会議を開いて、これを検討する。妥当であるとの結論を得たならば、これの施行を奏上する。天皇は可の一字を記入して施行を許可する。御画可(ゴカクカ)である。討幕の密勅には、御画日も御画可もない。正親町三条実愛によれば、討幕の密勅は綸旨(リンジ)であるという。綸旨は、蔵人と限定しなくとも側近の者が、天皇の意向をうけて発行する文書である。したがって文章は、伝聞形の間接の表現となる。書き出しは、綸旨を被(コウム)るとか、あるいは末尾に綸言此の如しとか、天気此の如しとか、そのような表現が用いられる。けれども討幕の密勅は、天皇が直接にことを命じているような文体で、詔書に近い。
密勅の文章を草したのは、玉松操(タママツミサオ)である。堂上家の父をもつ国学者、そして慶応三年二月いらい、岩倉具視の側近にあった人である。討幕の密勅について、玉松操は意を込めて詔書の文体を用いて作成したのだろう。
密勅の内容からして、詔書の手続きをとれるはずはない。摂政は二条斉敬である。二条斉敬が徳川慶喜の追討を許可するはずはない。許可しないばかりか、これの作成にかかわった廷臣を処分するかもしれない。事実、詔書の手続きはとられなかった。だから正親町三条実愛は、密勅を綸旨というのである。
これを綸旨とすれば、側近の者が天皇の意向をうけていなければならない。発行の事前に、天皇からの了解をえておく必要がある。そうでなければ、偽勅ということになる。
討幕の密勅は、中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之の三名が、天皇の意向をうけたという形式になっている。この三名の廷臣のうち、中山が秘かに天皇のもとを訪い、奏上し裁可をえたと、かかる伝承がある。
けれども、中山は密勅の作成にかかわることが少なかったとの証言がある。王政復古が過去の事件となって、これによって生まれた国家が強力な骨格をもちつつあった明治二十四年のこと、正親町三条実愛は質問に答え、中山が名ばかりの参加であること、くわえて、密勅が秘密の裡に作成されたことを、次のように証言している。
問 討幕の勅書を薩長二藩に賜わりしは、如何なる次第に候や。
答 余と中御門との取計なり。
問 中山公の御名もあり、是は如何なる次第に候や。
答 中山故一位は名ばかりの加名なり。岩倉が骨折なり。
問 右は二条摂政、または親王方にも御協議ありしことにや。
答 右は二条にも親王方にも、少しも洩さず、極内のことにて、自分等三人と岩倉より外、知るものなし。
そのとおりである。薩摩藩主父子への密勅は、その全文を正親町三条実愛が書いた。三名の廷臣の署名も、実愛の筆である。長州藩主父子への密勅は、中御門経之が書いた。三名の署名も、経之の筆である。二通の密勅の文面に、忠能の筆は加わっていないのである。ただし、これを天皇に密奏する役割が、忠能に求められた。中山忠能は、天皇の外祖父だからである。そして、忠能は天皇に密奏した、そのように推測されることがある。
中山忠能は、天皇の外祖父であるけれども、なにかの職にあるわけではない。いわば無職の廷臣が、自由に参内することはできない。参内できたとしても、天皇に単独で面会できるはずもない。昼は、摂政・議奏・武家伝奏が御所内につめている。夜は、典侍局(スケノツボネ)・内侍局(ナイシノツボネ)などの女官が奥向につめている。これらの人々の目をさけて、天皇に単独で面会することは不可能にちかい。
外祖父であるから、密奏が可能であるかのような印象がある。だが、ことは逆なのである。四侯会議のとき、薩摩藩が中山忠能を議奏の職に推薦したことがある。二条斉敬の朝廷首脳部は、これを拒否した。その主たる理由は、中山忠能が天皇の外祖父だからであった。外祖父であるから天皇を訪うことが容易なのではなくして、外祖父であるから、天皇への接近が拒まれるのである。中山忠能が残した史料のうちに、密奏を挙証する文書はない。
それでも、密奏はあったかもしれない。一度くらいであれば、その可能性を否定することもできまい。中山忠能が密奏したとされる案件は、討幕の密勅、これの中止を命じた沙汰書、王政復古の構想、これの決行を十二月九日に定めること、以上の四件で、その回数は四度にわたっている。一度であればともかく、四度とも密奏があったとは考えにくい。四度にわたって密奏があったように強調されればそれほどに、密奏なるものは一度も行われなかったように思えてくる。
密奏があったとする。けれども、密奏は逆の効果をもたらしかねない。密奏をうけたとして、天皇がその内容を二条斉敬に伝えぬという保証はない。二条斉敬は摂政である。何かの奏上をえた場合に、天皇がその内容を摂政につたえることは制度上の慣行だからである。二条斉敬が密奏の内容を知ったならば、これを徳川慶喜に通告する可能性なしとしない。そして関係の廷臣を処分する可能性もまた、なしとしない。密奏は、むしろ、なすべき行為ではなかった。
中山忠能が密奏して天皇の許可をえたというのは、仮構であろう。これども、討幕の密勅には必要な仮構であった。これがなければ、明らかな偽勅になる。討幕の密勅は真勅である必要はないけれども、明白な偽勅であってはならないのである。
岩倉具視は、天皇の外祖父というそれらしい理由から、中山忠能に密勅を要請した。忠能が密奏しうるか否かにかかわらず、要請した。そして、なされたと否とにかかわらず、忠能からそれらしい言辞をえて、密奏と天皇の裁可があったかのように見なした。岩倉は、中山忠能が密奏する機会をもたなかったことを知っていたにちがいない。また、密奏した場合の、逆の効果も考慮のうちにあっただろう。岩倉にとって必要なことは、現実に密奏があり、天皇がこれを裁可したか否かにはない。中山が、かのような言辞を洩らせば、それでことは済むのである。そして、他に対しては、密奏があり天皇がことを裁可したかのように仄めかした。そして、これをうけた小松・西郷・大久保も広沢も、それらしく密勅に接した。
長州藩主父子へ、官位復旧の沙汰書が交付された。そして、薩長藩主父子へ、討幕の密勅が交付された。しかして、同じ内容の文書が、後に、改めて発行されている。同じ内容の朝命が、二度にわたって発行されている。前者は十二月八日の官位復旧の沙汰書であり、後者は、よく慶応四年一月七日の徳川慶喜追討令である。このこともまた、十月十三・十四日の沙汰書と密勅の性格を示して印象的なのである。
十月十三日に官位復旧の沙汰書があった。けれども、これに関与した者はだれも、この沙汰書の効力を信じていなかったようである。小松・西郷・大久保の三名は、これは先に記したことだが、大政奉還が実現されることを予測して、その上で、できるだけ早い時期に長州藩の権利が回復さるべきことを、徳川慶喜ついで二条斉敬に申し入れている。岩倉もまた二条斉敬にたいして、同様な進言を行なおうとしていた。小松・西郷・大久保そして岩倉は、十月十三日の沙汰書が効力をもたず、また公表することのできない文書とみて、行動しているのである。
そして十二月八日である。この日の朝廷会議は長州藩主父子の官位復旧を決定し、これの沙汰書を布達した。もしも、十月十三日の沙汰書が効力をもち、公表に耐える文書であれば、十二月八日の朝廷会議も無用なら、そこでの決定も不要のはずである。
長州藩は、十二月八日の沙汰書を正式の文書とみなした。この沙汰書の正本が京から山口に届けられた時、長州藩主毛利敬親・定広の父子は沐浴して正装に威儀をただして、これを拝受した。そして、官位復旧の沙汰書をうけたことを藩内に布告し、歴代藩主の墓前に報告し、吉田廟に代表の使者を送った。吉田廟は、藩祖毛利元就を祭る社である。
十月十三日の官位復旧の沙汰書は、長州藩に討幕の密勅を交付するための文書である。長州処分はいまだ解除されていなくて、藩主父子は、いうところの勅勘の身である。討幕の密勅を下すためには、その前提として、処分を解除しなくてはならない。官位復旧の沙汰書は、そのための文書であった。
十月十三日の沙汰書は、効力をもたない、そして公表を憚られる文書であった。したがって、これを前提として布達された討幕の密勅も、薩摩藩主父子へのそれを含めて、効力に問題があり、公表に耐えうるか否かの疑問が生ずるわけである。
討幕の密勅の内容は、いわば徳川慶喜追討令である。徳川慶喜追討令は、鳥羽・伏見に戦争が起ったその当初から、西郷と大久保そして岩倉が、求めてやまなかった朝命である。けれども反対の声がつよくて、一月七日に漸く発行されたのだった。もしも討幕の密勅を公表することができるのであれば、改めて、慶喜追討令を必要とすることもあるまい。西郷・大久保そして岩倉は、討幕の密勅を公表せずに追討令を要請したのである。
討幕の密勅は、奇怪な文書という他はない。朝廷会議での決定をへて作成された文書ではない。中山・正親町三条・中御門そして岩倉の手によって、秘密の裡に作成された文書である。様式からみれば、詔書のようにもみえ、綸旨のようでもある。異態の様式文書である。さらに、正親町三条実愛の回想に信憑をおけば、天皇の裁可をうけているわけではない。その意味は、偽勅である。偽勅であるから、これを公表することはできない。
偽勅であろう。けれどもこれに、密奏と宸裁の仮構が施されている。密勅にかかわった者は、仮構を、あたかも真実であるかのようにみて行動した。だが、仮構であることは認識のうちにある。だから、討幕の密勅、そして長州藩への官位復旧の沙汰書、くわえて松平容保・松平定敬への討伐の沙汰書、これらの一連の文書を他に示すことができなかった。官位復旧の沙汰書も徳川慶喜追討令も、改めて、これを得なければならなかった。
目的
では、討幕の密勅が作成された目的は何か、また、それが果たした役割は何か、これについて、しばしば大政奉還と関係づけて説明される事が有る。大政奉還に先んじて武力討幕の名分をえるために、討幕の密勅が作成されたと説明されることがある。だが、かかる解釈は誤りである。大政奉還に抗して名分をえようというのであれば、討幕の密勅に記された日付は、十月十五日より以降でなければならない。討幕の密勅と大政奉還の許可と、ともに朝廷もしくは天皇の意志に出ているとする。十月十三日と十四日の日付をもつ討幕の密勅があり、十月十五日に大政奉還への勅許があった。したがって、朝廷もしくは天皇の最終意志は後者、日付の遅い方、つまり大政奉還にあったということになる。あるいは、大政奉還が勅許されることによって、討幕の密勅は否定されたことになる。名分をえようというのであれば、発行の日付は、大政奉還より後でなければならない。だが事実は、そうではない。
だから、 密勅によってあたえられた討幕の名分は、大政奉還によって消滅したと解釈されることがある。これも誤りである。討幕の密勅の日付は十月十三日と十四日であり、大政奉還は十五日である。小松・西郷・大久保は、大政奉還が行われたことを目に見て、そして、十七日に京を去っている。したがって、密勅によって討幕の名分をえようというのであれば、その日付を十五日以降におけばよい。そのことは、決して不可能ではなかった。
小松・西郷・大久保そして広沢は、大政奉還にいたる政情の推移を悠然と見て、たじろぐことはなかった。そして十月十三日と十四日の日付の討幕の密勅をたずさえて、京を去って帰国したのだった。討幕の名分をうるか否かなど、問題ではなかったのである。討幕の密勅が作成され、これが交付されること自体が、必要だったからである。密勅の日付が、大政奉還の前であろうと後であろうと、問う処ではなかった。
討幕の密勅について、これの猶予を命ずる沙汰書がでている。奉勅者として名を連ねているのは、討幕の密勅と同じ三名の廷臣、日付は十月二十一日である。徳川慶喜に悔悟の色がふかいというのが猶予の理由である。ここには、大政奉還が行われて、密勅における討幕の名分が消滅したとの感覚が働いている。小松・西郷・大久保そして広沢は、傲然とこれを黙殺した。
では改めて、討幕の密勅が作成された目的は何か。また、それが果たした役割は何か、これが問題となる。このことについて、ふたたび正親町三条実愛の回想をひけば、こうである。
勅書を賜らねば、方向の決し様なきと言う申し出で故、賜わりたることなり。右の勅書にて薩長二藩とも方向は決したるなり。
密勅によって、薩長両藩ともに方向が決したという、方向とは、武力討幕のそれである。薩摩藩にそくして言えば、藩主島津忠義の率兵上洛の方向である。
薩摩藩内に出兵に反対する意見が根強くあったことは、くり返し述べてきたとおりである。これが藩主の率兵上洛ということにでもなれば、反対論が噴出して、藩内を混乱にみちびきかあねない。反対派が勝利を収めたとすれば、小松・西郷・大久保の指導力は一挙に低下するだろう。そのおそれも、決してなくはない。反対論は、これを抑えなければならない。
説得の方法がある。藩主父子に進言し、反対派に説得を重ね、率兵上洛を実現にみちびく方法がある。だが、これに費やすことのできる時間はない。また、説得が成功する保証も充分ではない。とすれば、天皇の権威を動員して、なかば強要して、藩主父子の意向を率兵上洛、ついで武力討幕に方向づけるより方法はあるまい。討幕の密勅は、そのための用具であった。
討幕の密勅が長州藩に交付されたのは、出兵への反対論を抑えるというよりも、その地位の保証のためであろう。薩長両藩には、文久二年いらいの抗争の歴史があり、慶応二年一月にはじまる同盟の関係がある。この両藩をならび重用することは、岩倉具視の持論であった。薩摩藩へのそれと同文の密勅を長州藩に与えることによってって、地位の対等を承認したのである。
討幕の密勅にかかわる一連の行為、作成と交付と受諾の一連の行為は、共同謀議というに等しい。密勅が偽勅であれば、こら等の作成は犯罪である。 これにかかわった者は、いわば共同正犯である。作成にかかわった廷臣と密勅をうけた薩長両藩の藩士はとは、密奏があり宸裁があったかのように振舞っているいる。けれども、密奏がなく、したがって宸裁が下っていないことは、暗黙の共通の了解であった。密勅が偽勅であるらしいことは、暗黙の共通の了解であった。だから、密勅を外に示すことはできなかった。
討幕の密勅は、内に使用さるべき性格の文書であった。密勅の作成にともなって犯罪が生じた。犯罪が生じていることは、密勅にかかわった者の暗黙の了解である。ここに、つよい凝集力をもつ集団が成立する。密勅の作成という犯罪と、作成にまつわる秘密を共有することによって、うちにつよい凝集力をもつ集団が成立した。
作成にあたっては、中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之そして岩倉具視が関与した。密勅をうけて、これの請書に署名した者は、小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通そして広沢真臣・福田侠平・品川弥二郎の六名である。密勅の宛名は、薩摩藩主島津久光・忠義の父子および長州藩主毛利敬親・定広父子である。その誰もが、共犯の意識から逃れることはできない。
正親町三条実愛は、薩長両藩の方向を決するために討幕の密勅を交付したと語った。けれども密勅によって方向を決せられたのは、薩長両藩だけではなかった。関係の廷臣も、そうであった。密勅にかかわった廷臣は、この事実から逃れることはできない。武力討幕の戦略にしたがって、宮中政変の工作に参加せざるをえない。
討幕の密勅は、これの作成にかかわって誕生した集団に凝集力をあたえ、その持続を、いわば内から強制する文書であった。これを示して、一方では、薩長の両藩主から武力討幕と出兵への同意をうることができる。他方では、関係の廷臣に強いて、宮中政変に参画させることができる。密勅作成にかかわって生まれた集団は、きたるべき王政復古と武力討幕を推進する中核であった。そのまた中心に、岩倉具視そして西郷隆盛・大久保利通がいた。討幕の密勅は、これによって誕生した集団のなかでの岩倉・西郷・大久保の指導力を保証する文書でもあった。
このような役割を担わされた討幕の密勅は、むしろ、純然たる真勅であってはならなかった。真勅であれば、関係の廷臣を拘束するだけの、共犯の意識は生まれないからである。また、純然たる偽勅であってはならなかった。薩長両藩の藩主を説得することが困難になるからである。外にあらわれれば偽勅であるけれども、内には真勅であるかのように流通する、そのような文書であることが望ましかった。いいかえれば、密奏と宸裁の仮構をともなった偽勅であることがのぞましかった。
討幕の密勅は、幕末の政治社会の表面にあらわれることはなかった。秘密の裡に作成され、武力討幕の戦略とその遂行の裏に流通し、そして、慶応四年一月七日に徳川慶喜追討令が布達されて、あたえられた使命をおえたのだった。討幕の密勅の存在が知られるようになったのは、明治十年代の末だった。写真版としてではあれ、この実物が公表されたのは、昭和十一年、二・二六事件のあった年に出版された『維新史料集成』においてである。
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