安倍晋三前首相を会長とする”創生「日本」”の総会で講師をつとめた長谷川三千子埼玉大学名誉教授は、その著書「民主主義とは何なのか」(文春新書)で、八木秀次氏の著書を取り上げておられました。だから、「国民の思想」新しい歴史教科書をつくる会編(産経新聞社)を読んだですが、戦争正当化を宿命づけられたと思われる人たちの、第一線での活躍に、あらためて暗澹たる気持になりました。
まず、下記、「一 ジェンダーフリーに浸食される日本」の「男女生徒が同室で寝る、着替える!」の文章に関して 私は、とても違和感を感じました。
小学生の校外学習で、男女の児童を一定の配慮をしながら同じ部屋で寝かせることが、さわぎにしなければならないほど非常識なことでしょうか。また、それはジェンダーフリー教育の結果によるものでしょうか。学校の先生方は、ジェンダーフリー教育に無自覚で、非常識なのでしょうか。男女別に布団を敷き、間に仕切りを立てているのに、それを性犯罪の多発する社会情勢と結びつけて、非常識と断定することこそ、私は非常識ではないかと思います。確かに、男女を同室に寝かせること関しては、子どもたちの発達段階との兼ね合いで難しい面があるとは思います。だから、嫌がる子どもがいるのに、無理矢理同室にしたというのであれば、問題かも知れません。でも、話はそういうことではありません。それを”「ジェンダーフリー」とは、男女の性差を無視して無差別に扱うという奇妙なイデオロギー。それに無自覚のまま染まっている教育界の現状を象徴する事件”などと騒ぎたてるのは、家父長制的な伝統的家族観をもつ人たちの、ジェンダーフリー教育に対する感情的反発であり、一種のアレルギーのようなものではないかと、私は想像します。(テーマは、小学生なので「生徒」ではなく、「児童」とすべきではないかと思います。)
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第二章 今こそ伝統的家族の強化を
一 ジェンダーフリーに浸食される日本
・男女生徒が同室で寝る、着替える!
うわさには聞いていたが、まさかそこまではないだろうと思っていた。それが、『産経新聞』(2003年9月1日、10月3日付)の記事を見て、「本当にあったのか!」と驚き、あきれた。記事によれば、静岡県沼津市の九つの市立小学校が同年夏に実施した五年生(一部は四年生と合同)を対象にした校外学習で、男女の児童を同室に宿泊させていたというのだ。
問題の校外学習は、沼津市立の全小学校が毎年行っている「高原教室」。五年生の児童が近くの「自然の家」に宿泊し、自然観察や昆虫採集、キャンプファイヤーなどを体験するというものである。市内二十五小学校の十六校がこのとき実施済みで、このうち九校が男女混合で、七校は男女別に宿泊させていた。
男女混合で宿泊させていた九校の中には、事前に保護者から「万が一のことが起ったらどうするのか」という抗議を受けていた学校もある。それに対して、男女別に宿泊させることも可能だったが、教職員が協議した結果、「ずっと同じ方法で続けているが保護44444者からの苦情はなく、今回も問題はない」と判断し、そのように回答したという。これらの学校では「広めの部屋に男女別に布団を敷き、間に仕切りを立てた」「部屋は一緒だがベッドの列を男女で分けた」「女子児童の着替えは引率教諭用の和室を使わせた」などの一定の配慮をしたというが、それならなぜ男女を同じ部屋で寝かせる必要があるのか、という疑問がわいてくる。
記事には「ジェンダーフリー教育(中略)が無自覚のまま浸透していく学校の常識不足が浮かび上がる」との解説がある「ジェンダーフリー」とは、男女の性差を無視して無差別に扱うという奇妙なイデオロギー。それに無自覚のまま染まっている教育界の現状を象徴する事件だといえよう。
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また、極めて問題があると思うのは、「ジェンダーフリーはマルクス主義フェミニズム」と題された下記の文章です。いくつかに分けて、問題点を上げたいと思います。
・ジェンダーフリーはマルクス主義フェミニズム
奇妙な「男女混合」現象が広がっているのには、組織的な背景がある。日本教職員組合(日教組)は近年、「ジェンダーフリー教育」を毎回の運動方針の冒頭に挙げている。2003年度(平成15)の「政策・制度要求と提言」の中にも「日教組は、男女平等を実現するために『ジェンダーフリー』教育を提案し」と記されている。
その日教組が出した『隠れたカリキュラムを考えるジェンダーフリーの教育を』と題する小冊子には、「子どもたちが女である、男であることで、差別されずに、ジェンダーによって生き方や行動をしばられず、一人ひとりの個性を伸ばし、可能性が発揮できるようにジェンダーフリーの教育をすすめましょう」と書かれている。そして、「ジェンダー」を「生物学的な性差(sex)ではなく、社会的・文化的につくられた性差(性役割)をいいます。長い歴史の中で『支配ー被支配』『優位ー劣位』の男女の関係の中でつくられてきた女の役割、男の役割など固定的な考え方です」と説明されている。
この冊子が問題にするのは、まず「男女を区別すること」である。「男女を分けることは長い間問題とされずにきました。しかし、男女を分けることは差別と認識されるようになりました」。つまり男女の区別は差別だというのである。そこから「特に、男子が先の男女別名簿は『女と男はちがう』『男が先、女は後』の考え方を植えつけるものとなります。女の子には『さん』男の子には『くん』、男女色分け、男女グループ分けも問題」という主張が出てくることになる。
実は沼津小学校の例は、この最後の部分を真に受けたものである。問題の小学校では六、七人ずつの班を作って同室に宿泊させたが、すべての班を「男女混合」にしていた。「男女グループ分け」は「差別だから問題だ」というわけである。
冊子はさらに「女と男を分けることをやめよう」と続き、具体例として「名簿、出席簿、指導要録(男女別にしなければならない法的根拠はない)、グループ、整列、ロッカー、靴箱、色分け、トレーニングウエア、掲示物、男女別平均、『さん』『くん』の呼び方……」を挙げている。「学校行事はジェンダー・フリーで」としながら、「入学式、卒業式の並び方、呼名、運動会の種目、並び方、応援、係、学芸会、文化祭の出し物、準備、係……」と具体例に例示している。何から何まで「男女混合」というわけである。
そして学校をジェンダー・フリーにするに際し、その第一に掲げられているのが「男女混合名簿」の導入。先に見た日教組の2003年(平成15)度の「政策・制度要求と提言」にも引用した部分に続けて「男女混合名簿の実施と隠れたカリキュラムの点検、是正の取り組みを進めてきました」と記されている。要するに「男女混合名簿」は「ジェンダー・フリー教育」の象徴であり、その第一歩と位置づけられているのである。そして「混合名簿」導入から男女同室着替えまでは一直線で結ばれていることも見落としてはならない。なお沼津市のある静岡県は1998年(平成10)、県教委が全国に先駆けて県内の公立小中高校で「男女混合名簿」を完全導入した”ジェンダー・フリー先進県”でもある。
先ず八木教授は、戦前と違って、女性の社会進出が進み、男性と同じ職場で、男性と同じ仕事をするようになった社会情勢の変化を考慮されていないように思います。私は、学校で働く女の先生の、”お茶汲みは女性の仕事なのか”というような新聞の投書を目にしたり、金融機関で働く女性の”同じ仕事をしているのに、昇進や昇給に違いがあるのはなぜなのか”という疑問の投書を目にしたことを記憶しています。当然の疑問であろうと思います。ジェンダー・フリーの考え方の広がりは、その背景に、女性の社会進出が進み、女性が男性と同じ職場で、同じ仕事をするようになった結果、不平等を感じる機会が増えたという社会情勢の変化があると思います。八木教授は、ジェンダー・フリーの考え方の広がりを、あたかも日教組の取り組みやマルクス主義者の洗脳であるかのような指摘をされていまが、それは社会情勢の変化を無視した暴論であると思います。
また、教育現場は、決して日教組の組合員が、何でも自分たちの思うようになるところではないと思います。第一、日教組の組合員の数はそれほど多くはないですし、たとえ過半数以上が日教組の組合員であるところでも、教育現場には、文部省や都道府県や市町村の教育委員会に逆らうことが難しい立場の校長や教頭等の管理職がいるのです。ジェンダー・フリー教育は、教育現場の合意に基づくものであって、合意がなければできないことだと思います。
また、ジェンダー・フリー教育は、戦前の家父長制的な考え方による根深い女性に対する差別をなくそうとするための教育だと思います。我が国で女性が初めて参政権を行使したのは戦後の昭和21年のことです。家事労働の一切を女性がやっていた戦前は、女性に参政権はなく、”女は男のやることに口を出すな!”というような社会だったのです。また、女性は家長となる資格はなく、男性が権力を独占するとともに,父系によって財産の継受と親族関係が組織化されていたのです。そうした伝統的家族観のために、現在の日本には今なお、様々な差別が残っているのだと思います。戦後、民法が改正され、家族制度は廃止されました。にもかかわらず、男女が結婚すると男性が世帯主となり、女性が姓を変えています。男性が姓を変えたり、女性が世帯主になったりすると、何かあるのか、と疑われるような雰囲気があると思います。だから、そうした伝統的家族観に基づく、数々の女性差別をなくそうと思えば、様々な取り組みが必要だと思います。しかしながら、八木秀次教授は、ことごとくジェンダー・フリー教育の取り組みを否定するばかりで、差別を克服するための取り組みを示すことなく、差別を容認するかのような主張をされていると思います。
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下記の文章で、八木教授は誇らし気に「毎日新聞」の記事を取り上げています。八木教授のジェンダー・フリー教育に対する考え方が、現実に教育現場の指導の在り方を変えたということが分かります。また、八木教授は大学で日々若者の指導に当たっていることを考えれば、その影響はとても大きいと思います。
後述するように、ジェンダー・フリー教育を無理矢理マルクス主義と結びつけて否定しているのです。私は、悪意のようなものさえ感じます。
”ところで、ジェンダー・フリー教育の象徴、男女混合名簿の廃止を打ち出した小学校がある。新潟県白根市の市立茨曽根小学校である。同校では長谷川清長校長(当時)の判断で2003年(平成15)四月から男女混合名簿を廃止し、男女別名簿に戻した。ロッカーも男女別にし、呼称も男子は「くん」付け、女子は「さん」付けに戻した。
実はこのことが三ヶ月近く経って地元紙『新潟日報』六月二十七日付で報じられ、その後、複数の全国紙が後追い報道をしたこともあって話題になった。実は長谷川校長は私の編著書『教育黒書』(PHP研究所刊、2002年)を読んで混合名簿の廃止を決断したという。そういう経緯もあって、私もいくつかのメディアから取材を受けた。そのうちの一つ、『毎日新聞』2003年六月二十八日付朝刊から、事の次第を紹介しておこう。
長谷川校長は3月、『校長室だより』で理由を説明している。高崎経済大の八木秀次助教授(憲法学)らが著書で、混合名簿の背景には男女の役割分担を否定する「ジェンダー・フリー思想」があり「根底は『マルクス主義フェミニズム』と書いていることを紹介。「マルクス主義は共産主義の根本思想」と説明した。
ジェンダー・フリー社会は▽夫婦別姓▽夫を主人と呼ばない▽男女の違いがある「ひな祭りや鯉のぼり」は不要──などを目指す社会で「このような社会をつくるための一歩が『隠れたカリキュラム』として学校に入り込んでいる」と指摘。「ジェンダー・フリー論者に加担できない」と書いてある。
同校によると、保護者からの反対はなく、げた箱やロッカーなどが男女別になった。混合名簿は99年4月から採用され、長谷川校長は昨年四月に着任した。長谷川校長は「男女差別は許されない。といって、性差を否定するジェンダー・フリーは受け入れられない。一つの思想を学校で教えるのはよくない」と語る。
八木助教授は「校長の対応を評価したい。肉体的に違いがある男女の特性を生かすのが教育だ。混合名簿を認めれば、男女に一緒の制服を着させるなどエスカレートする危険もある」と話す。
記事を書いた記者はジェンダー・フリーに不案内で、「混合名簿の背景にジェンダー・フリーあり」という長谷川校長や私などの指摘をまゆつばものであるかのように書いている。しかし、私たちは、先に見た日教組の冊子の内容などを踏まえ、極めて一般的な見解を述べたまでである。
なお、ジェンダー・フリーが「マルクス主義フェミニズム」に基づいているとの指摘については、異論が出されている。『毎日新聞』同日付でも評論家の樋口恵子氏と教育評論家の尾木直樹氏が、それぞれ「混合名簿」を「マルクス主義フェミニズムとは何の関係もない」「マルクス主義フェミニズムに基づくとする考えは多数意見ではない」とコメントしている。
まず樋口氏は「ちょっと行き過ぎ」のタイトルで次のように述べている。「ちょっと行き過ぎだと思う。名簿を性別に改めることで、どうして男女平等教育が進むのか。学校現場で性別による分け隔てをしない教育が行われるのは人権尊重の観点からで、マルクス主義フェミニズムとは何の関係もない」
「ちょっと行き過ぎだと思う」というところまで読んだ読者は、ジェンダー・フリーが行き過ぎだと言っているかと思うがそうではない。私はこのタイトルを見て、つい噴き出してしまった。「どっちが行き過ぎなんだ」と。しかし、「マルクス主義フェミニズムとは何の関係もない」とはよく言ったものである。必死でマルクス主義の色を消そうとしていることがわかる。
実は後ほど触れる少子化社会対策基本法(案)を審議した参議院の内閣委員会でもこの男女混合名簿の廃止が俎上に上げられたのだが、その際、共産党の議員までがマルクス主義とは何の関係もないかのように振舞った。私は「ジェンダー・フリーはクリスティーヌ・デルフィというフランスのマルクス主義フェミニズムの学者が提唱した考えであって」と敢えて説明したのだが、これには誰からの反論もなかった。「そんなにマルクスがお嫌いですか」と思ったものだが、今、マルキストはカール・マルクスやフリードリッヒ・エンゲルス、ウラジミール・レーニンという彼らの思想の”お里”を隠そうと必死である。であれば、その逆にその”お里”を知らせてやればいい。
話を戻すと、もう一人の尾木氏は「混合名簿がマルクス主義フェミニズムに基づくとする考えは多数意見ではない。社会の常識や良識に従って行動するのが公立の学校の校長の責務だ。ストレートに実践するのは考えものだと思う」とコメントしている。ここでも混合名簿とマルクス主義とは無関係であることをほのめかそうとしている。加えて「社会の常識や良識に従って行動する」とは、これもよくいったものだと思う。ジェンダー・フリーがどれほど社会の常識や良識に反しているかは明らかである。これまた「どっちがだ」と言葉を返さざるを得ない。
同紙は2003年七月七日付朝刊でも、大阪女子大学助教授木村涼子氏に「男女混合名簿ですら『マルクス主義フェミニズム思想だ』との強引な解釈も登場しているようだ」と批判させている。「何の関係もない」だの、「強引な解釈」だのとはよくもいえたものだと思う。私は「ジェンダー・フリー」を前出の大沢真理氏などの説明に従って、クリスティーヌ・デルフィの考えを基にしていると考え、デルフィの立場を「マルクス主義フェミニズム」と位置づけただけのことである。
ただ彼女の思想的な位置づけについては論争があり、彼女の著書『なにが女性の主要な適なのか』(勁草書房刊、1996年)の「訳者解説」によれば、「ラディカル・唯物論フェミニスト」とされている。しかし、これはマルクス主義フェミニズム」と「何の関係もない」どころか、逆にそれを一層先鋭化させたものという意味である。
事実、デルフィはその思想の多くをマルクスに依拠している。フランスの現代思想に詳しい神戸女学院大学教授の内田樹氏は、デルフィの用語や結論を「ほとんどそのままマルクスの言葉だ」「限りなくマルクスに近い」「フェミニズムは150年かかってマルクスに回帰した」と指摘しているほどである(ジェンダー概念の功績は大きい。だ、しかし自己矛盾に陥っていないか」、文藝春秋『日本の論点2003』、文藝春秋刊、2002年)。そうであれば、ジェンダー・フリーはマルクス主義フェミニズム」という表現は間違っていないどころか、控えめすぎるともいえよう。
この ”ジェンダー・フリーはマルクス主義フェミニズム」という表現は間違っていないどころか、控えめすぎるともいえよう ”という文章は、いかがなものかと思います。マルクス主義とジェンダー・フリー教育の考え方の両方を意図的に潰そうとしているのか、単なる八木教授の認識不足なのかはよくは分かりませんが、二つの点で、明らかにおかしいと私は思います。
一つ目は、「フェミニズム」をマルクス主義に限定することはおかしいということです。フェミニズムという言葉は、女性解放思想に基づく運動の総称です。性別による格差や差別を乗り越え、男女平等の権利行使ができる社会の実現を目指す思想や運動の全体をあらわす言葉です。だから「男女平等主義」と訳されたこともあると聞いています。当然のことながら、そうした思想や運動は、なにもマルクス主義者だけのものではないのです。
例えば、フェミニズムに大きな影響を与えたシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、実存主義の立場で、女性を論じました。「第二の性」という著書に、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」とあることは有名です。また、ボーヴォワールが終生の伴侶としたジャン=ポール・サルトルは一時期実存主義の哲学を牽引した哲学者ですが、その哲学は、「実存は本質に先立つ」として、自分自身を未来に投げかけ(投企)、自分の存在を発見、創造することの意味や大切さを明らかにした個人主義的なもので、マルクスの考え方とは根本的に異なります。
でも、サルトルと同じ実存主義の立場に立つボーヴォワールは、クリスティーヌ・デルフィ共に『フェミニズム問題』 および後続誌『新フェミニズム問題』 を創刊したといいます。フェミニズムは多様だということだと思います。
さらに、1960年代に欧米を中心に広がったウーマンリブ運動も、女性解放運動であり、マルクス主義とは直接関係のないフェミニズムであると思います。だから、ジェンダー・フリーの考え方をマルクス主義フェミニズムと限定することはおかしいと思います。
戦前、マルクス主義者(共産主義者)は危険思想の持ち主として、治安維持法で逮捕されることが当たり前でした。そればかりではなく、マルクス主義者でなくても、マルクス主義に関わる書物を持っているだけで捕まったといいます。そして、そうした過去は、現在もなお、マルクス主義者(共産主義者)を危険視する雰囲気として残っているのではないかと思います。八木教授は、そうした雰囲気を利用して、ジェンダーフリーの考え方を潰そうと意図しているのではないかと、私は、疑わざるを得ないのです。日々広がりをみせるフェミニズムを抑え込むために、フェミニズム全体を、無理矢理「マルクス主義フェミニズム」と限定されているのではないかということです。
もしかしたら、そういう意図はなくて、八木教授には、女性の権利や労働者の権利を主張する人すべてが、マルクス主義者に見えているのかも知れませんが…。
次に、世界的に大きな影響力をもったカール・マルクスについてです。マルクスの代表的な著書は資本論ですが、資本論は、窮乏化(今でいう「格差」)をもたらす資本の運動諸法則(資本の論理)を明らかにした経済学に関するものです。マルクスは一貫して、人間社会の精神的な活動、観念、思想、信仰、理念等々を上部構造とし、それらを決定づけるのは、資本の運動諸法則=資本の論理(下部構造)であるとして、資本の論理について研究し、明らかにしたのです。そして、人びとに語りかけた唯一ともいえる言葉が、”万国のプロレタリアートよ、団結せよ!” ということでした。団結が、資本の論理から労働者を解放するために欠かせないことだったからです。
だから、ジェンダー・フリー教育などの考え方(思想、上部構造)について論じたり、人びとに語りかけるようなことはしていない筈です。そういう意味で、マルクスは、ジェンダー・フリー教育とは直接的な関係はないのです。関係があるというのであれば、マルクスの著書から、ジェンダー・フリー教育やフェミニズムに関わる文章を抜き出し示してほしいと思います。
ただ、マルクスの経済学は、あらゆる社会科学の土台となるような原理的なものだったため、様々な領域の学者や研究者が、マルクスの経済学を土台として、自らの領域の学説を構築しました。クリスティーヌ・デルフィの教育理論もそうしたものの一つであると思います。現に、デルフィは、「なにが女性の主要な敵なのか」で、資本主義が労働者とともに、女性を抑圧・搾取するというマルクスの理論を土台としつつ、女性の「主要な敵」は「家父長制」であるとしています。マルクスにはなかった視点です。そして、資本制の階級関係を説明するために発展させられた概念は、女性に特有の抑圧を見えなくしてしまうからフェミニズムはそれらの概念を使用することはできないというのです。さらに、マルクス主義が、時として、女性解放闘争を促進するよりむしろ抑制してしまう側面があることも指摘しているのです。
「なにが女性の主要な敵なのか」クリスティーヌ・デル(勁草書房)の「第七章 私たちの友人と私たち──偽フェミニズム言説の隠された基盤」の中の「Ⅰ 新・性差別主義、または男性フェミニズム」に、下記のような文章があります。
”男性のなかに何人か親切な友人がいる。私たちは彼らをペストかなにかのように嫌って逃げだすのだが、彼らの方は無理にもわたしたちの関心をひこうと努力する。そこに真の友情のしるしを認めずにいられようか。こうした友人たち、女性解放を支持する男たちにはいくつかの共通点がある。すなわち、
1 彼らは私たちにとって代わろうとしている。
2 現に彼らは私たちの代わりに発言している。
3 彼らは女性解放に賛成し、女性がこの計画に参加することにも賛成する。ただし、解放も女性も彼らに従うのであって、けっして彼らの先には立たないという条件で。
4 彼らは女性解放についての自分たちの考えを私たちに押しつけようとしている。それは男たちの参加を含むものであり、運動とその主導権、つまり女性解放の主導権を掌握するために男の参加を無理にも認めさせようとしている。
彼らは非常に好意的で、折にふれて私たちの意見に耳を傾けてくれる。彼らは女性解放運動の理解者であり、運動が女性にのみ開かれているのを見て、「もちろん、被抑圧者たちは自ら解放しなければならない」と言えるほどなのである。そして、そう言うことによっておおかたの男たちと一線を画し、自分たちの方がすぐれていることを示す。高潔にも私たちの友人はそんな無理解な男たちと縁を切ることもいとわない。
このように私たちの友人は「開放的な」態度を示している。彼らは理解しようと努める。というのも、彼らは鋭い政治的頭脳の持ち主であって、風向きを誰よりもはやく察知できる人種なのだ。しかし、鋭い政治的頭脳の持ち主としては、鋭い政治分析をすることがまさにその任務であるから。彼らは当然、女たちの見落としていた点をあちこちに見つけだすことになる(忘れてはならないが、女たちが女性解放の主役であることに変わりはない)。ところで、そうした点を探し出したからには、女たちの見落としていた要素を指摘しないのでは不誠実だし、友達がいもないだとう。そこで彼らは親切に、ただし断固として、それらの要素を指摘してくれるわけだ。”
デルフィは、フェミニズムに理解を示すマルクス主義者でさえ、男性であれば、”ペストかなにかのように嫌って逃げだす”というのです。それほど女性の立場にこだわっているのです。まさに、フェミニズムが多様であることを示しており、マルクス主義フェミニズムとして、一括りにはできないと思います。
したがって、フェミニズムを「マルクス主義フェミニズム」と限定すれば、マルクス主義とはいったい何なのか、わけがわからなくなってしまいます。クリスティーヌ・デルフィの理論は、デルフィ主義フェミニズムと呼んだ方が正確ではないかと思います。マルクス主義そのものではないのです。さらに言えば、「マルクス主義フェミニズム」などというものは存在しないのです。デルフィの理論について語るのであれば、「デルフィ主義フェミニズム」とすべきであり、どうしてもマルクスの名前を使うのであれば、マルクス主義的フェミニズムと「的」をいれるべきではないかと思います。八木教授に、マルクス主義やフェミニズムを貶める悪意がなければ、それほど神経質になることでもないように思うのですが…。
以下の項目についても、問題だらけだと思います。
・男女共同参画社会基本法もジェンダーフリー
・自治体にジェンダーフリーの条例が続出
・ジェンダーフリー隠しを見逃すな
・石器捏造事件と男女共同参画行政
・実際に行われた性転換人体実験
・フェミニストを活気づかせた人体実験
・破綻した学説に依拠する”ジェンダーフリー”
・「男らしさ」「女らしさ」を失う日本の高校生
二 子どもを地獄に堕とす過激な性教育
・「性交」をリアルに教える小学校
・狙いはフリーセックスへの性革命
三 子どもが増えない少子化対策
・同床異夢の少子化対策基本法
・専業主婦の支援策になっていない
・年金の賦課方式を改めよ
四 新憲法に家族尊重条項を設けよ
・新憲法のあるべき姿
・「家族」軽視の憲法
五 家族解体を狙う夫婦別姓と非嫡出子「差別」の撤廃
・日本は伝統的に夫婦同姓
・イデオロギーからの夫婦別姓論
・夫婦別姓の最大の被害者は子ども
・家族こそ保守主義の柱
・嫡出子と非嫡出子の区別は不要か