下記は、「木戸孝允文書二」日本史籍協会編(東京大学出版会)の「巻七 慶応三年 四十七 品川弥二郎宛書簡 慶応三年十一月二十二日」に書かれている文章です。私は、薩長など尊王攘夷急進派による明治維新との関わりで、この文章は、極めて重大だと思っています。
これは、長州藩の木戸孝允が、同じ長州藩の品川弥二郎に宛てた書簡の文章ですが、尊王攘夷急進派の本音をうかがい知ることが出来る文章だと思うのです。
それは「乱筆御免御熟読後御投火可然と奉存候」とあることからも察せられますが、熟読語は”火に投げて然(シカ)るべしと奉(タテマツ)り候(ソウロウ)”というのですから、他人に知られてはいけない内容であるということだと思います。次のような内容です。
”…此度之御上京も兼て申承り候辺とは余程旁不平之次第に候呉々も御抜目なく御迫り立申も疎に御座候今日之体たらくにては大機を失し候事は眼前之被思いかにも不安心の至に御座候實以皇国之御大事に相係り申候間誓而御油断無之様奉祈念候此段大略任幸便得御意置候〇至其期其期に先じ而甘く玉を我方へ奉抱候御儀千載之一大事に而自然万々一も彼手に被奪候而はたとへいか様之覚悟仕候とも現場之處四方志士壮士之心も乱れ芝居大崩れと相成三藩之亡滅は不及申終に皇国は徳賊之有と相成再不復之形勢に立至り候儀は鏡に照すよりも明了に御座候間此處は詰度乍此上岩西大先生達ちへも御論し一歩一厘は御拔り無之様御盡誠尤肝要第一之御事に御座候諸子よりも西翁などへも得と相論し置
世子君よりも西翁へ御直々に被仰聞何分にも此儀真之大眼目に付返す々々も御丹誠御盡力千禱萬祈之至に御座候ちら々々と風説書上など一見候處に而も彼も余程こゝへは惣に心を用ひ気を着け居候處趣相顕れ懸念に堪へ不申候誓而御抜り無之様蒼生挙而奉祈候…”
見逃すことができないのは、”玉を我方へ奉抱候御儀千載之一大事に而自然万々一も彼手に被奪候而はたとへいか様之覚悟仕候とも現場之處四方志士壮士之心も乱れ芝居大崩れと相成三藩之亡滅は不及申終に 皇国は徳賊之有と相成再不復之形勢に立至り候儀は鏡に照すよりも明了…” というところです。
玉(天皇)を我が方へ抱き奉り、万々一も彼手(幕府)に奪われては、その計画は大崩れとなって、三藩(長州、薩摩、土佐)の亡滅は申すに及ばず、皇国には、徳を損なう者があるということになって、再起不能になることは明らかだというような内容だと思います。
”玉(天皇)を我が方へ抱き”幕府を倒して権力を手にしようという重大な政治的意図を伝えているので、他人に知られてはいけないということなのだと思います。
だから、それが、其の後の薩長の数々の策謀の疑念とつながるのです。
討幕のために、「孝明天皇を毒殺」し、戊辰戦争では「偽錦旗」を使い、また「討幕の密勅(偽勅)」を利用し、討幕のために働いた「赤報隊」を、その後「偽官軍」として主要メンバーを処刑し、守る意志のない「攘夷」を掲げて幕府を倒したということです。そして、明治維新以後の日本の歴史は、まさに薩長の計画通りに進んだといえるように思うのです。
桂太郎の自伝からは、それを裏づけるような内容を読み取ることができるように思います。
山縣有朋を支えて参謀本部を設置し、それを天皇の直轄とすることによって、「統帥権独立」に道筋をつけ、軍部大臣現役武官制を定め、反立憲的制度を創始した意図の背後に、権力を保持しつづけるための長州藩の政治的意図が見えるような気がするのです。”玉(天皇)を我が方へ抱き”つつ、軍を天皇の直轄とし、軍の権力を保持し続ければ、たとえ議会や内閣が、自由民権派その他の影響下に入っても、明治維新を成し遂げた長州藩を中心とする尊王攘夷急進派が、日本を動かす影響力を行使できると考えたのではないかと思います。そして、事実そのようになったのではないかと思うのです。
桂は、”参謀本部は天皇の直轄たらしめざるべからずとし、純然たる軍事を陸軍省と引分け、軍命令は直轄となり、軍事行政は政府の範囲に属すべしといふ自然の空気が起りしなり”と書いているのです。でも、その”自然の空気”は、尊王攘夷急進派だけのものだと思います。
「自伝巻一」で、長州藩が1861年には”西洋式の銃陣(当時西洋式の調練を伝ふ)”を兵制に加えたことがわかります。すでに、西洋の先進的な軍制を取り入れる必要性が認識されていたのだと思います。
また、桂は、馬関に於て米・英・蘭・仏四国の軍艦と戦いに足軽隊二番小隊の小隊長として参加していることも見逃せません。戊辰戦争の記述のなかには、”君の為、国の為に討死せんことは、士たる者の本分なり、唯々児が未練の最期を遂ぐるが如き事あらば、一家の汚辱これに過ぎたるはなし”などと、後の戦陣訓を思わせるような考え方が読み取れるように思います。
「自伝巻二」で、近衛兵の暴動、「竹橋事件」に触れていますが、それが参謀本部の天皇の直轄とそれに伴う統帥権の独立に影響を与えたことも分かります。また、”西南の役に参謀事務の不完全なりし為、大に陸軍に不利なりし故に、参謀事務を改良せざるべからずとの論起れり”とも書いています。竹橋事件や西南の役が、日本式の軍制を考えるきっかけになっているのだと思います。
参謀本部の設置と関わって、”教育の事に就ては、兎に角独逸といひ仏蘭西といふ如く、碌々他に模倣して事を成さんとする如き考案にては到底不可なり。断乎として一の方針を執て進まざるべからず。一の方針とは何ぞや、則ち独逸に取るに非ず。畢竟独逸を基礎としたる日本式を創制せざるべからず。若し日本式にして未だ定らざれば、其目的基礎の始動動揺する弊を免かれざればなり。”と書いているのです。
桂は、”我の海外に留学せしは、明治三年の秋にて、同じ六年の暮に至りて帰朝せり。”と書いていることでわかるように、先進的な海外の軍制を学んでいいます。
にもかかわらず、大日本帝国憲法に定められた”天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス”や、軍人勅諭の”天皇躬(ミ)つから軍隊を率ゐ給ふ御制(オンオキテ)”ということをその中心とする日本式の軍制でなければならないと考えたのだと思います。
だから、”非常の異変に方りては、天皇に直隷する師団長たる者、自ら責を引て所信を実行する”ことは当然なのだと師団条例を越えた行動をするのだと思います。それは、”明治二十三年帝国議会開会の暁には、陸軍経費の点に就て、議会の協賛を求むるといふことは、即ち内部の協議にあらず、即ち他人の検査をうけて我が目的を貫ぬかんとする場合に当り、不可なるべしと固く信じ”と同様、「統帥権の独立」の考え方だと思います。
また、人材登用にあたって、”薩長人を排斥すべしとの論”があったことも分かります。それは、ほとんどの要職を、薩長出身者が占めたからだと思います。いろんな差別や不都合があったのではないかと思います。そうしたところに、何があっても、軍権を掌握し続けようとする薩長政権の意図が読み取れると思うのです。
下記は、「桂太郎自伝 東洋文庫563」宇野俊一校注(平凡社)から「自伝巻一」と「自伝巻二」の一部を抜萃しました。
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桂太郎 自伝巻一
我が歳萌て甫(ハジメ)て十三歳なりしとき、本藩に於て西洋式の銃陣(当時西洋式の調練を
伝ふ)を兵制に加へらる。其時父の仰せられけるは、従来の兵器のみを用いて戦場に臨まんことは、将来に於て甚だ覚束なきわざなれば、必ず西洋の銃器を携帯し、西洋式の訓練に依らざるべからずと。
父は、従来の武芸には、錬磨の功を積み熟達の域に到りし人にて、最も槍術に長ぜられけるが、時勢に応じて兵制を改革するの已むべからざることを夙に看破せられなければ、西洋式の操練を学ぶことを今より心がけずばあるべからずと、指導したまひけるなり。我も亦父の指教に随ひて自ら志を立て、西洋流の節制を訓練するに努めたり。
文久三年(1863)癸亥(ミズノトイ)の夏、我が十七歳の時なりき。本藩の兵、馬関に於て米・英・蘭・仏四国の軍艦と戦へり。これを俗に馬関の攘夷といふ。翌元治元年甲子の春、我は諸友と謀り、攘夷の為めに馬関に赴かんと欲し、父に請ひて許可せられたりしかば、直に馬関に到り、足軽隊二番小隊の小隊長となりて、暫く該地に駐屯したりき。
明治元年(1868)戊辰の夏、我の奥羽鎮撫副総督に従ひて羽州に在る頃、奥羽諸藩同盟して官軍に抗敵し、鎮撫総督の一行は全く賊中に陥りたる事あり。父は其一行の死生の消息すら定かならずと聞きたまひしかば、我が児の危難に陥りしことを案じ煩ひたまふ中にも、我が児に万一卑怯未練の挙動もあらんかとて 深く心を痛められ 常に人に向ひて語られけれるは、君の為、国の為に討死せんことは、士たる者の本分なり、唯々児が未練の最期を遂ぐるが如き事あらば、一家の汚辱これに過ぎたるはなし、児が討死はもとより覚悟せる所にて、聊(イササ)かも哀み傷むべきにあらずと雖も、唯々其死を潔くせんことを希ふのみと仰せられたりと、後に人の我に語るを聞きたりき。我の奥羽より凱旋して、明治二年郷里に帰りたるとき、父は少しく異例の気味にておわせし由なるが、我を玄関に出迎へて、先づ第一に我が戦争中の動作を聞き、且つ我の恙(ツツガ)なく凱旋して再び相見るを得たることを深く喜びたまひき。これより病蓐(ビョウジョク=病床)に就き、荏苒(ジンゼン)重症に陥りて、今は頼みすくなげに見えたまひしが、湯薬に侍すること三月にして、遂にはかなくなりたまひぬ。
我が父はかくの如き性行の人にておはしき。概言すれば、忠愛の年深く、忍耐の力強く、時勢を達観するの見識を具へ、家庭に於ては児子を教誨すること厳正に、一家を率ゐるに温和なりし人なり。
我が母におはせし人は ・・・
又我の父の許しを得て馬関に赴かんとする時にも、母は、速に馬関に到り、尊王攘夷の志を果し遂げよと、父もろともに励まされたりき。又戊辰の年に我の奥羽に赴きて敵中に陥りたる際には、或る神社に日参せられたりと聞けり。而して祈願の趣旨は、我が子の無事ならんことを禱られしにはあらで、我が子が其任務を全くし、苟も未練の最期を遂げ、家名を汚すが如きことなからんやう、祈請に丹誠を抽んでられしなりけり。
我の海外に留学せしは、明治三年の秋にて、同じ六年の暮に至りて帰朝せり。翌七年八月に我が母亡せたまひぬ。その頃我は僅に陸軍少佐たりしが、母は今はの際に臨みて、最早心おくことなしと宣ひしとぞ。不幸にして母の臨終に其側に侍する能はざりしは、深く遺憾とする所なれど、身を立て家名を興さん者ぞと思ひ定めたまひけん、心おくことなしと宣ひしと聞くこそ、せめてもの孝養なりけんかしと、聊か心安う覚えたりき。
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桂太郎 自伝巻ニ
・・・
公使館附武官は参謀局の所轄なれば、我は帰朝後再び参謀局に勤務す。此時は恰も行政各部の事をも充分の調査を遂げて、改良せざるばからずといふ議論ありし時とて、我は太政官少書記官兼勤を命ぜられ、陸軍の調査漸く終りて後、我が希望する所の意見を陳べ、陸軍に法則係といふを置き、山縣陸軍卿が曩に我の企たる如く、実地と学理とを研究し、漸次陸軍の改良に着手するの方鍼(ホウシン)を執れり。
此年(明治十一年)の八月二十三日に於て近衛兵の暴動あり(竹橋事件)。此の暴動は種々の原因より起りしものなるが、茲に記する必用なければ之を記せず。此の事あるに際し、軍事の改良を以て急務とし、中に就て西南の役に参謀事務の不完全なりし為、大に陸軍に不利なりし故に、参謀事務を改良せざるべからずとの論起れり。然れども其論者と雖も、参謀事務とは如何なるものなりやは、未だ其脳裡に明々白々にはあらざりしならん。兎に角参謀事務の不完全といふ点より、参謀本部を置かざるべからずといふことゝなれり。此参謀本部設置を唱和したる人々と、我が参謀本部を置くといふ論とは、大に逕庭(ケイテイ=へだたり)ありしものゝ如し。然れども陸軍の一大改革を為すべき機運の来りしには相違点無かりしなり。
此に依て従来参謀局は陸軍省に隷属せしが、此の年の十二月に、参謀本部は天皇の直轄たらしめざるべからずとし、純然たる軍事を陸軍省と引分け、軍命令は直轄となり、軍事行政は政府の範囲に属すべしといふ自然の空気が起りしなり。然れども未だ如何なる方法、如何なる組織といふ研究をなして此の論を立てたるにはあらず。而して愈々参謀本部を置き、軍事命令は天皇の直轄と為さざるべからずといふ事となり、其年の十二月を以て参謀本部を置くことに決し、我は参謀本部の方に従事することゝなり、如何にして参謀本部を組織すべきやの諮問をうけたり。本来我が計画は軍事行政を整頓し、その残余の事務が即ち純然たる参謀本部の事務なりと推考せしに、この全体の意嚮とは反対したれども、俗にいふ田を往くも畔を往くも同じ道理なりと決心し、最初参謀本部御用係を命ぜられ、同本部の組織に参与し、此時を以て陸軍中佐に進み、次で同本部管西局長に補せられたり
管西局より各鎮台に命じて、参謀本部員に充るため、少佐大尉中尉各一人宛を徴し、成るべく
硬骨なる人物を選抜して上京せしむべき旨を以てせり。而して此時その選に当りし輩は他日み
な有為の将官たるに至りしも亦奇なり。
此の時山縣陸軍卿は参謀本部長に転ぜり。又当時参謀本部の組織は、別に条例ありて明かなれば茲に記せず。而して一般の取調事務は、依然継続せられたれば、我が太政官権大書記官を兼ね、山縣参謀本部長は参事院議長を兼ねぬ。我はまた参事院員外議官補を兼ね、軍事と政治とに従事したり。
・・・
此の時歩兵科の大佐として、川上近衛歩兵聯隊長(子爵・操六)が随行を命ぜられけるが、之より前川上大佐は所謂実地的の人にて、我が学理的応用を為す考察とは殆んど正反対なりし。然るに大山陸軍卿は、到底川上と桂とを和熟せしめ、共に陸軍に従事せしむることを謀らざれば、一大衝突を来すべし、是非この両人を随行せしめんとする意思ありしと見えたり。又川上大佐も大に其点に見る所あり、我も亦大に川上大佐に見る所ありて、此の随行を命ぜらるゝと同時に、川上と我と両人の間に誓ひて、前に大山陸軍卿の意思ならむと思ふ如く、我々両人の間が将来相衝突することあれば、我が陸軍の為に一大不利益なれば、冀(ネガ)はくば将来相互に両人の肩頭に我が陸軍を担ふべしと決心し、互ひに長短相補ひ、日本帝国の陸軍のみを眼中に措かば、毫も帯芥(タイカイ=わだかまり)なきにらずやと。我又曰(イワク)、子は軍事を担当せよ、我は軍事行政を担当せんと。この時初めて二人の間に此
誓約は成立たり。而して明治十七年のニ(一)月、横浜を解纜(カイラン=船出)するより、川上と船室を共にし、欧州巡回中も、殆んど房室を同じくし、互ひに長短を補ふの益友となり、我は渠儂(彼?)が欧州に於て必要とすべきものには、充分の便利を得る様に力を添え、兎に角我等両人にて陸軍を担うべしとの考案は、相互に脳裡に固結するに及べり。
伊仏独露墺等欧州大陸諸国の軍事を視察し、又英国及び米国を視察し、明治十八年ニ月を以て帰朝したり。同年五月我は陸軍少将に任ぜられ、陸軍省総務局長に補せらる。川上も同時に陸軍少将に任じ、参謀本部次長に補せられたり。爾来我と川上と互ひに相提携して、大に軍事上に尽すことを得たるの第一着なりき。是全く大山陸軍卿の処置の公平なりしのみならず、斯くあらざれば大に軍事上の進歩を計ること能はざりしなり。然るに我と川上とは新参将校中より擢用せられて、枢要の地位を占めたるより、物論囂々(ゴウゴウ)ともうふべきありさまなりし。時恰も本邦の陸軍に在りては、参謀本部設立巳来学理上の研究漸次に勢力を得るに至り、我々が明治十七年の一個年間海外に在りし中に於て、学理の必要といふ風気を、希望以上の程度にまで上進せしめたりき。
この物論囂々といふことも、事実に於ては当時陸軍卿の人材を登用したることゝ、他の一方に於ては薩長人を排斥すべしとの論を唱和せしに依れり。而して其論は新進有為の輩の賛同し結合する所にして、有為の輩がその結合中に在る野心家の為に利用せられたる事実ありしは、後に至りて大に明瞭なるを得たり。又是等の輩は如何なる方法を以て当局者に反抗を試み来りしやといふに、野心家が野心家を利用し、当時の将官中却て排斥せらるべき部分に属する某々等を首領とし、此の人を利用して当局に反抗するものにて、其表面より観れば、学派の競争の如く、独逸派、仏蘭西派と二派に分かれたる如き気味あり、又其二派分立の状を来したる原因は、前にいふ如く学理の進歩を謀らんが為に、独仏の兵書を得るに任せて翻訳せしめ、原書の何物たるを玩索(ガンサク)せず、主義の奈何を問わず、雑然として純駁を混淆したり。是即ち我が所謂希望以上の点まで、学理を重んずる風気が上進即ち暴進し来たりしなり。之に加ふるに前のニ個の原因を裏面に包含するを以て、一時は非常に困難なる事態なりし。更に他の一方に於ては、政府が行政の整頓上より財政整理問題の起りたる時に際したれば、軍事費も成べきだけ削減して、経費節約の実績を挙げざるべからずとの論が陸軍以外に起りて、彼れと此れと混合して、一時に論難鋒起し、更に一層の困難を加へたり。此に於て如何なる方法を設け、如何なる処置をなすべきかは、大体の軍政上の改良よりも、一時はこの鋒起を鎮圧して善後の策を講ずるの必用を見るに至れり。殊に当時陸軍大学校には独逸人の教師を雇聘し、又士官学校戸山学校等には仏蘭西人の教師を雇聘しあり。その教師の間に勢力上の軋轢を起したるも、亦一の困難なりし。我は此時に於て如何なる決心を以て、如何なる方法に依り、以て長官を輔佐して陸軍部内の紛雑を処理せんか、又予て眼目とする所の軍政の改良は、如何なる方法に依て着手すべきかといふに就ては、左の方法に依てこの二つの問題を解決することゝなしたり。
先づ軍政上の改良は、従来我が目的となし来りし初心を貫徹ぜざるべからず。其方法如何と云に、学術并行せしめて軍事教育の改良を謀る事、軍事行政の乱雑を整頓して、一般行政と齟齬無く進行せしめんことを期せざるべからず事、この二事を遂行するを要す。教育の事に就ては、兎に角独逸といひ仏蘭西といふ如く、碌々他に模倣して事を成さんとする如き考案にては到底不可なり。断乎として一の方針を執て進まざるべからず。一の方針とは何ぞや、則ち独逸に取るに非ず。畢竟独逸を基礎としたる日本式を創制せざるべからず。若し日本式にして未だ定らざれば、其目的基礎の始動動揺する弊を免かれざればなり。之に依て従来陸軍省に管轄したる所の軍事教育の一切を、尽(コトゴト)く担当すべき一部を組織するを必要と認む。是即ち監軍部がすべて軍の教育を担任することゝ定められたる起原にして、曩に陸軍省より軍事を引離して参謀部を置き、第二に同省より教育行政を引離し、学術は一切監軍の下に統べしむることゝする計画なり。(監軍部の組織は、別に条例あるを以て茲に掲ぐるをも須(モチ)ゐず。)
軍事行政の事は、既に明治廿三年には帝国議会を開設すべき大詔を煥発(カンパツ)せられたるを以て、議会の開くるまでには渾(スベ)て整頓せざるべからずとして、着々整理の歩を進むべきものなれば、第一着に行政機関の改良を謀らざるべからず。故に陸軍省は各兵科毎に局を置き(兵部局・騎兵局の類なり)たるを廃し、軍務局を置き、各兵科をその内の一課として縮小し、即ち陸軍省には単に軍務局・経理局・医務局の三局のみとし、之に数課を設けて組織する事とし、此を以て教育の統一と行政の統一を謀る方法とす。而して其内部に起れる各種の教育問題を一にし、又行政の区画を簡明にし、事務の繁閑を謀り、行政の整理を為すべしとの考案なり。此の意見を以て大山陸軍大臣に提出せり。然れども其改革の小事に非るのみならず、大山伯は新進の我を抜擢して枢要の地に挙げたりと雖も、其改革を遂行し得るや否やは、稍遅疑する所ありしことを疑わず。殊に従来は将官を以て各局長に任じたりしを、次官兼軍務局長をして一括統管せしむることは、甚だ前途を危ぶむ内外の情況を斟酌して、陸軍大臣が断行し得ざりしも其理(コト)はり無きにしも非ず。然れども我は是ほどの事をも断行せざるときは、内部の混雑を整頓しがたく、又明治二十三年帝国議会開会の暁には、陸軍経費の点に就て、議会の協賛を求むるといふことは、即ち内部の協議にあらず、即ち他人の検査をうけて我が目的を貫ぬかんとする場合に当り、不可なるべしと固く信じたるを以て、強(アナガ)ちに之を陸軍大臣に勧めしによりて、先づ監軍部を置くことのみは、此時を以て断行し得たれども、陸軍省の改革に至りては、一時我が意見と大臣の意見とを折衷したるものを実施する事となり、我が課とまで縮小すべしとせし各局をば、そのまゝ存置し、将官の局長を罷めて大佐を以て其任に当らしむる事となり、而して大臣も我が意見をば他日必ず採用すべしと雖も、暫く折衷の組織を以て施行するとの条件を付したり。我は殆ど進退を賭して此の改革を行はんとせしが、斯る理由に依て長官の意に随ひ、その組織成て発表せられ、事務に着手するに及べり。其各種の条例は、当時の官制に詳かなれば茲に贅せず。此の際に在て我は陸軍次官に任ぜらる。即ち明治十九年三月なり。
軍事教育と軍事行政との刷新を遂るに就ては、陸軍省・参謀本部・監軍部鼎立したるものが、合体して其事業に着手ぜざるべからず。参謀本部には川上少将あり。監軍部参謀長には児玉大佐(男爵・源太郎)あり。我は陸軍次官たるを以て、この三人が方針を同じくする必要あり。幸ひに川上参謀本部次長は、前に云如く将来我と共に帝国の陸軍を担はんとする同志の人なり。又児玉大佐は我と志を同じくする人にして、殊に監軍部の長官には山縣伯の其任に当るあり。先づ参謀本部に雇聘せし独逸人メッケル少佐を一標準となし、
此の人は曩に大山陸軍卿が欧州に趣きし時、独逸政府に依頼して雇聘したる人にて、殊に我が
旧友たり。且独逸軍隊中に於ても最も卓抜なる将校にして、中に就く教育軍政に於ては異常の
技量を擅有(センユウ)したる人なり。
而して陸軍省・参謀本部・管軍部より、将校を選抜して各種の委員を置き、児玉大佐を以て委員長とし、此の委員に於て陸軍各種の事項を調査せしめ、その成案を以てメッケルに諮問し、其の結果として教育即ち学校の組織系統、行政の組織系統、全く調査を了へて、秩然たる組織を成すことを得たり。…
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右の如き方法を以て、陸軍内部の改良を成し、又経費の整理をなし、各種の方面に向ひて整頓し得たる所以のものは、第一に我が登用せられし後、大山陸軍大臣の信任をうけ、又外に在ては山縣伯の信用を得たるに在り。并せて川上・児玉両少将と心を一にし、私を棄てゝ公に奉ずる決心より、此結果を収むることを得たり。…
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全体師団長は職権を以て擅(ホシイ)まゝに兵を動かすことを許されず。師団条例の規定する所に拠れば、地方の擾乱若は事変といふ場合には、地方官の要求に拠て初て兵を出すことを得る外、師団長は兵を出すを得ざるの制たり。我が所為は少しくその範囲外に逸したり。左れば我は此の手段を執るに方(アタ)りて、自ら以為く、師団条例には斯る非常災異の場合を示さゞれば、或は越権の責を免かれざるべし。然れども地方鎮護の為に常置せられたる兵は、斯の如き災異の起りたる場合に於ては、此に応ずるの処置を為すべきは勿論にして、師団長の決心に依らざるべからず、即ち自ら責任にあたりて其職務を実行せんか、若しくは条例の命ずる所に随ひ、地方官の要求を待て、平々凡々初めて手を下さんか、死守と活用との由て分かるゝ所なり。非常の異変に方りては、天皇に直隷する師団長たる者、自ら責を引て所信を実行するは、唯其決心に在りと。是我が最初より覚悟したる所にして、また師団長たる重大な責任ある者は、斯る決心のなかるべからずとの模範を示すに足るべきを信ぜり。