真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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福島第一原発は津波の前に壊れた

2019年11月26日 | 国際・政治


 私は、「文芸春秋」2019年9月号に掲載された、元東京電力・原子炉設計管理担当 木村俊雄氏の「福島第一原発は津波の前に壊れた 元東京電力「炉心専門家」が決意の告発」(下記)を読んで、日本の原発は再び大事故を起こすのではないかと、ほんとうに不安に思います。
 「炉心屋」を自称する木村俊雄氏が、事故後、東電にデータの開示を求め、過渡現象記録装置のデータを解析して分かったのは、地震の後、わずか1分30秒後に、「ドラオアウト」が起こった可能性が高いということだ、というのです。それは、メルトダウンの第一の原因が、「津波」ではなく「地震動」だったということです。そして、それは、木村氏が分析したデータや過去の故障実績から、圧力容器につながる細い配管である「ジェットポンプ計測配管」の破損が、きっかけであると考えられる、というのです。
 こうした配管の破損については、阪神大震災の直後、核化学が専門の物理学者、高木仁三郎博士(2000年死去。)が、予見していたことです。高木博士は下記のような警告をくり返し発していたのです。

考えられる事態とは、(中略) 地震とともに津波に襲われたとき 、原子炉容器や1次冷却材の主配管を直撃するような破損が生じなくても、 給水配管の破断と 緊急炉心冷却系の破壊、非常用ディーゼル発電機の起動失敗といった故障が重なれば、メルトダウンから大量の放射能放出に至るだろう。
 老朽化原発が大きな地震に襲われると、いわゆる共通要因故障(一つの要因で多くの機器が共倒れする事故)に発展し、冷却材喪失事故などに発展していく可能性は十分ある。原発サイトには使用済み核燃料も貯蔵され、(中略) 集中立地が目立つ(福島浜通り、福井県若狭、新潟県柏崎、青森県六ヶ所村など)が、どう対処したらよいのか、想像を絶する (中略) これから徹底的に議論し、非常時対策を考えて行くべき。

 また、下記のようにも書いていました。

阪神大震災は、絶対を主張する専門家の過信の根拠のなさを 天下に明らかにしたと思われたので、この大きな不幸が、技術過信へのよい反省材料になるだろうと、報道に接しながら確信した。
 ところがである。阪神大震災後に行われた耐震設計に関するいくつかの討論( 政府・電力事業者側との論争 )に出席してみてわかったことだが、行政側にも事業者側にも原発の安全性を見直して、この大災害をよい教訓にするという姿勢が少しも見られなかった。いや、非公式には、私は現場の人たちから、多くの不安や「安全神話 」の過信に対する反省の声を聞いたが、それらは少しも公式の場に現れなかった。そのことにショック を受けた。”

「原発は壊れない」という原子力産業事業者や原子力行政関係者の建て前のため、原発が被災した場合の緊急体制や老朽化原発対策などについて、真剣に議論しない現実を、事故前にきびしく批判していたのです。にもかかわらず、何の対策もないまま、事故は起きました。
 さらに、高木博士が指摘していた、原子力産業者や原子力行政関係者の「議論なし、批判なし、思想なし」の実態、また、「隠蔽・改ざん・捏造」の体質が、事故後も続いていることは、元「炉心屋」木村俊雄氏の下記の文章からも明らかだと思います。

 東京への五輪招致演説で、安倍首相は、「アンダーコントロール」という言葉を使い、「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。……」といいました。でも、地下水は山側から流れ込み、増え続けて、完全には処理できない汚染水を海に流す話も出てきている状態です。専門家が危険を指摘しているのに、どうして安倍総理が安全を保証できるのでしょうか。
 
 ほんとうに日本は危ないと思います。
 ウィンズケールやスリーマイル、チェルノブイリの事故は津波が原因ではないのです。どんな防潮堤を築いても、それで安心とはいえないのが原発だと思います。
 福島の原発事故で大勢の人たちが亡くなったにもかかわらず、高木博士や木村氏その他、原発の危険性を指摘している関係者の主張に、耳を傾けようとせず、 原発の再稼働に動いた人たちは、経済的利益を優先させ著しく人命を軽視しているように思います。
 だから、私は日本の政治や経済に大きな影響力をもつ人たちが、いまだに明治維新以来の人命軽視の思想を受け継いでいると思うのです。

 すでに取り上げたように、「幻の大戦果 大本営発表の真相」辻泰明・NHK取材班(NHK出版)に、下記のようにありました。 

人間のすることである。まして戦場という特殊な環境下である。間違うこともあろう。多少の希望的観測もあろう。また、戦争の常として情報操作も用いられるべき手段ではあろう。しかし、この場合は、その度合いがひどすぎる。
 そこには、単なる錯誤や過失にとどまらない、もっと深い理由が隠されているにちがいない。
 問題の焦点はふたつある。
 ひとつは、このような空前絶後というべき幻の大戦果が、いかにして生み出されたのかということ。実際の戦場で、報告の現場で、そして戦果確認の過程で、なにがおこなわれていたのかということである。
 もうひとつは、その大戦果が幻であるとわかったにもかかわらず、なぜ、その事実が看過され、誇大な数字がひとり歩きしたのか。その結果、そこには、単なる錯誤や過失をこえた、構造的な問題が潜んでいることがわかった。
 そして、その構造的問題は、日本の組織に特有の欠陥であり、今日頻発する企業や官庁の不祥事を生み出す土壌として、台湾沖航空戦から60年近い歳月がたった今も、私たちの社会に温存されつづけているものだということも痛感せざるをえなかった。
 台湾沖航空戦において幻の大戦果を生み出した事実誤認の実態は、解明されることなく葬り去られた。”

 戦況が悪化するにつれて、大本営発表は事実と乖離するようになっていったようですが、幻の大戦果に象徴されるようなでたらめな大本営発表は、その後、嘘の代名詞として使われるようになったといいます。
 でも、日本軍による情報の改竄・隠蔽・捏造の事実は、ほとんど問題にされることなく、戦時中の様々な不都合な事実はなかったことにされつつあります。近隣諸国との外交関係にも関わる、日本軍”慰安婦”の問題も、徴用工の問題も、南京大虐殺の問題も、学校教育の中から消えていきつつあるように思います。そして、「日本を、取り戻す。」というキャッチコピーのもと、戦前回帰の諸政策が進んでいます。それは、明治維新以来の人命軽視の考え方を取り戻すことにもなることを見逃してはならないと思います。
 そして、私は、原発再稼働の動きの中にも、その人命軽視の考え方が見えるように思うのです。電力会社による、情報の改竄・隠蔽・捏造が続いているようでは、また原発の大事故起きるのではないでしょうか。津波は想定外ではなかったし、専門家が、メルトダウンの第一の原因が、「津波」ではなく「地震動」だったといっているのです。きちんと受け止めるべきではないでしょうか。人命尊重の観点から、不都合な事実にこそ、しっかり目を向けて対応して欲しいと思います。
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 東京電力・福島第一原子力発電所の炉心溶融(メルトダウン)を伴った大事故から、八年が経ちました。
 この大事故を受けて、一時は「稼働中の原子炉はゼロ」という状態にもなりましたが、その後、再稼働が進み、現在は、玄海原発四号機、川内原発一・二号機、大飯原発四号機、高浜原発三・四号機、伊方原発三号機、計七基の原発が稼働中です。玄海原発三号機と大飯原発三号機は定期検査で停止中)。
 現在停止中の原発も、多くが再稼働に向けて動き出しています。原発メーカー日立製作所の会長で経団連会長も務める中西宏明氏も、今年四月の記者会見で「再稼働していくことが重要」と発言しています。
 かつて福島第一原発で原子炉の設計・管理業務に関わった者として、私はこの動きを非常に危惧しています。原発事故の原因の検証がいまだに十分なされていないからです。再稼働のためには、「事故原因」を踏まえた新たな「安全対策」が絶対条件となるはずです。けれども「安全対策」どころか、肝心の「事故原因」すら曖昧にされているのが現状なのです。
 事故を受けて、「国会事故調」「政府事故調」「民間事故調」「東電事故調」と四つもの事故調査委員会が設置され、それぞれ報告書を出しましたが、いずれも「事故原因の究明」として不十分なものでした。
 東電の事故報告書は、「津波想定については結果的に甘さがあったと言わざるを得ず、津波に対する備えが不十分であったことが今回の事故の根本的な原因」と結論づけています。「想定外の津波だった」という東電に無責任さを感じるとしても、「津波で電源を喪失し、冷却機能を失って重大事故が発生した」というのは、多くの人の理解でしょう。
 しかし、メルトダウンのような事故を検証するには、「炉心の状態」を示すデータが不可欠となるのに、四つの事故調は、いずれもこうしたデータにもとづいた検証を行っていないのです。
 ただ、それもそのはず。そもそも東電が調査委員会に、そうしたデータを開示していなかったからです。そこで私は東電にデータの開示を求めました。これを分析して驚きました。実は「津波」が来る前からすでに、「地震動」により福島第一原発の原子炉は危機的状況に陥っていたことが分かったのです。メルトダウンの第一の原因は、「津波」ではなく「地震動」だった可能性が極めて高い、ということです。「津波が原因」なら、「津波対策を施せば、安全に再稼働できる」ことになります。そうではないのです。

 隠されていた重要データ
「何かがおかしい」
 東電の事故調の報告書を読んだとき、そう感じました。報告書は、八百ページもあり、公開しているデータは二千ページ、事故当時の操作手順をまとめたものも五千ページあるのですが、この厖大な記録をくまなく読み込んで気づいたのです。「東電はすべてのプラントデータを公開していない」と。とくに気になったのは、炉心内の水の流れを示す「炉心流量」に関連するデータが一切公開されていなかったことでした。
 これは「過渡現象記録装置」という計算機が記録するデータで、航空機でいえば、フライトレコーダーやボイスレコーダーに相当するものです。過渡現象記録装置は、福島第一原発一号機から六号機まで、すべてのユニットについています。東電在職中、私は日々、この計算機のデータ解析を行っていました。ですから、このような重要なデータが抜けているのは明らかにおかしい、と気づいたのです。
 東電事故調報告書は、「安全上重要な機能を有する主要な設備は、地震時及び地震直後に安全機能を保持できる状態にあったものと考えられる」と述べています。しかし、「安全機能を保持できる状態にあった」と断言するには、過渡現象記録装置のデータが不可欠です。
 2013年7月、記者会見を行い、公開質問状という形で東電に不足しているデータの開示を求めましたが、「すべてのデータは開示済み」というのが東電の回答でした。
 ただその後意外なところから事態は動き始めました。東電の廣瀨直己社長が記者会見で、公開質問状の内容や炉心流量データが未開示であることについて質問された際、「すべてのデータを開示する」と表明したのです。おそらく廣瀨社長は、データの意味や未開示の理由を分かっていなかったのだと思います。
 
 燃料がドライアウト
 開示されたデータを分析したところ、過渡現象記録装置は、地震発生後、プラントの全計測データを百分の一秒周期で収集し、計算機内に保存していました。(一号機の場合で十分間)。次ページのグラフを見てください。横軸は「時間」、縦軸は「時間当たりの炉心に流れている水の量」を表しています。
 福島第一の原子炉圧力容器は、沸騰水型(BWR)で、炉心の中を水が流れ、核燃料を徐熱します。この炉心を冷却する水が、安全性を保つ役割を果たしているのです。
 グラフを見ると、地震が来る前は「一万八千トン/時」水が流れていました。そして14時46分に地震が発生し、原子炉が自動停止すると、放射線を描いて流量が下がっています。次に電源喪失によって計測値はいったんマイナスになっています。これ自体は、計測指示計の設計上生じることで、問題ありません。その後、数値はスパイク(瞬間的に上昇)して一旦上がっていますが、1分30秒前後から炉心流量はゼロになっています。
 BWRでは、水が原子炉圧力容器内で「自然循環」していれば電源喪失でポンプが止まっても炉心の熱を約50%出力まで除去できる仕組みになっています。「自然循環」は、BWRの安全性を保障する極めて重要な機能を担っているのです。
 逆に言えば、「自然循環」がなくなれば、BWRは危機的状況に陥ります。「自然循環」による水流がなくなると、炉心内の燃料ペレット(直径・高さともに一センチ程度の円筒形に焼き固めた燃料)が入っているパイプ(燃料被覆管)の表面に「気泡」がびっしり張り付きます。この気泡が壁となり、熱を発している燃料被覆管と冷却水を隔離してしまい、冷やすことができなくなり、次々に燃料が壊れてしまう。これを「ドライアウト」と言います。
 過渡現象記録装置のデータを解析して分かったのは、地震の後、わずか1分30秒後に、「ドラオアウト」が起こった可能性が高い、ということです。
 ではなぜ「自然循環」が止まってしまったのか。私が分析したデータや過去の故障実績を踏まえると、圧力容器につながる細い配管である「ジェットポンプ計測配管」の破損が原因である可能性が極めて高い、と考えられます。
 また、事故当時、運転員が、「自然循環」の停止を検知できた可能性は極めて低かったと言えます。というのも、運転手順書には、「地震時に『自然循環』の継続と『炉心流量』を確認する」とは明記されていないからです。つまり、「運転員の過失」というより、「設計・構造上の欠陥」なのです。
 いずれにせよ、津波の第一波が到達したのは、地震の41分後の15時27分ですが、そのはるか前に炉心は危機的状況に陥っていた、ということです。「想定外の津波によりメルトダウンした」という東電の主張は、極めて疑わしいのです。
 四つの事故調に参加した専門家も、このデータの欠陥には気づきませんでした。ただ、開示されていたとしても、このデータをうまく分析することは、おそらくできなかったと思います。
 「原発の専門家」と言っても、実は様々な分野に分かれています。例えば国会事故調の田中三彦さんは圧力容器の機械設計、後藤政志さんは格納容器の機械設計、小倉志郎さんはプラント全体のメンテナンス……という具合です。それぞれの分野の権威であっても、炉心内の細かい挙動に関しては、”素人”なのです。
 国会事故調の先生方から直接聞いた話です。過渡現象記録装置のデータは、実は東電のパソコン上で見たそうなのです。ただ、その画面に映っていたデータは、「単なる数値の羅列」にすぎません。私でも、その「数値の羅列」を見ただけでは、何も読み取れません。私のように、炉心屋として過渡現象記録装置を長年使用していた人間が、しかも「数値の羅列」を「グラフ化」することで、「炉心はこうなっていた」と初めて読み取ることができるのです。「炉心の管理」という仕事は、長年経験を積んだ限られた人にしかできません。私は、定期検査ごとに福島の一号機なら約四百本ある燃料集合体(燃料棒を60本から80本束ねたもの)のうち、約四分の一を新しい燃料と交換し、残りの三百本を全然違うところに配置する仕事をしていました。そして運転開始後は、毎日、炉心状態を把握するために中央制御室に行き、「設計通りに核燃料が核分裂しているかどうか」を確認し、新しい炉心の配置で次の定期検査までの十三カ月間、「燃料を壊さずに運転できるのか」と確認する仕事をしてきました。
「炉心の管理」は、通常、東京大学や東北大学などで原子力工学を学んだキャリアが担う仕事ですが、私はいわば「現場からの叩き上げ」です。東電学園高校卒ですが、柏崎刈羽原発で働いていたとき、のちに副社長になる武藤栄さんに認められ、「お前は何をしたいんだ」と聞かれたので、「炉心屋になりたい」と言うと、老舗の福島第一原発に行かせてもらえたのです。
 福島第一には原発が六基ありますが、当時、炉心屋は九人ほどしかいませんでした。それほど特殊な狭い世界で、「炉心」のことは「原発の専門家」でも一部の人間しか分からないものなのです。 ですから、四つの事故調がこの点を見落としたのも仕方がなかった面があります。
 ただ、事故調査は、形だけの調査委員会を設置して急いで結論を出せばよい、というものではありません。必要であれば時間をかけてでも徹底的に糾明すべきです。多くの人命を危険に晒す原発の事故であれば、なおさらです。

 墓穴を掘った東電
 いま福島第一原発の事故で被害に遭った住民が、東京電力を相手に、損害賠償を求めて訴訟を起こしています。そのうち福島県田村市の方々が起こした訴訟で、私は今年三月と五月の二回、証人として出廷しました。この機会に、四つの事故調で究明できなかった「事故原因」を「公判」の場で検証し、歴史に残すことには意義があると考えたのです。
 私は関連するデータや資料を徹底的に読み込んで公判に臨みました。正直に言えば、莫大な労力を費やしても私には一銭にもならない作業です。自宅で厖大な資料を広げて作業に没頭する私に、妻は良い顔をしてくれませんでした(笑)。
 しかし、「地震後に炉心内で何が起きたか」を解析できる人材は限られています。しかも現役の東電社員には不可能な役目です。「炉心屋としての長い経験も、このためにあったのだ。これも自分の宿命だ」と思うことにしました。
 私のデータ分析に対して、東電は「炉心流量の計測には、ローカットフィルタリングという回路があり、そういった処理が数値上なされているだけで、自然循環は残っている、だから地震によってドライアウトが起きたわけではない」という主張を繰り返してきました。
 ところが、五月の公判で東電側は「反対尋問用の資料」として原子炉のメーカーの設計書を出してきたのです。その設計書を読んでみると、驚くことに、私が解析した炉心流量関連データのほぼ全てが、ローカットフィルタリング回路を通す前段のデータであることが判明したのです。つまりローカットフィルタリング回路による処理のないデータでした。東電は、自分の主張を否定するような証拠を自ら提出してきたわけです。
 そこで私が、「ローカットフィルタリング処理前のデータで解析し、自然循環停止を判断している」旨を指摘すると、被告側の弁護士は困惑して汗をかいていました。おそらく炉心に詳しくない人間が、資料づくりを担当したのでしょう。まさに墓穴を掘ってしまったのです。
 東電の「企業体質」という問題も無視できません。
 原発事故後東電は、過渡現象記録装置のデータを隠蔽していたわけですが、私の在職中も、都合の悪いことは隠す体質でした。
 例えば核分裂生成物を放出する恐れのある燃料の落下事故や制御棒の破損事故が起きても、国に報告していませんでした。恥ずかしながら、私自身も事故情報の隠蔽に加担したことがあります。
 データの改竄も行っていました。例えば運転日誌の原子炉熱出力の計算値の書き換えです。
 これは、各燃料集合体の出力や燃焼状況を把握するのに不可欠なデータで、プラントのオンラインコンピューターが一時間ごとにプラントデータを基に算出します。運転日誌は法令で決められた公式記録ですが、その記録を自分たちの都合にあわせて上下させていたのです。
 「安全性」より「経済合理性」を優先する企業体質でもありました。1990年代後半から電力自由化の動きが始まると、発電単価を下げるための圧力が現場にも押し寄せてきました。そのため、法令で決められた運転期間を延長したり、二十四時間休みなしの作業で定期検査期間を短縮するような行為も日常茶飯事でした。
 実際、”重大事故”も起きました。1991年10月のことです。福島第一原発一号機の配管の腐食した部分から冷却用の海水が漏れ出して、電気ケーブルの入った電線管という別の配管を伝って、タービン建屋内に侵入してしまったのです。建屋の地下には膝の深さまで海水が溜まり、非常用ディーゼル発電機が水没して機能を失いました。
 マニュアル上、ディーゼル発電機が動かなくなると、発電所の運転を止めなくてはなりません。私は、炉心屋として中央制御室で起動停止操作に立ち合いました。その結果、一号機は六十八日間にわたって発電を停止することになりました。
 こんな大事故を目の当たりにし、中央制御室に一緒にいた上司に、ふと浮かんだ疑問をぶつけました。
 「このくらいの海水漏洩で非常用ディーゼル発電機が水没して使えなくなると、万が一、津波が来た時には、全台使えなくなります。そうなると原子炉が冷やせなくなる、津波による事故の解析をしないといけないのではないですか」
 すると上司はこう答えました。
「君の言う通りだ。鋭いね。しかし、安全審査の中で津波を想定することはタブーなんだ」
 この一言を聞いて、私は戦慄を覚えると同時に大きな脱力感に襲われました。
 この上司は、原発の設計ベースの事故事象について、「国の許認可上問題はないのか」「事故が実際に起きても問題なくフォローできるのか」などを審査(安全審査)する担当者でした。東大の原子力工学科出たエリートで、人間的にはとてもいい人でした。だからこそ、ポロリと本音を漏らしたのでしょう。
 私が原発設計の根幹にある問題に愕然とし、「ではデザインベースから駄目じゃないですか」と言ったところで、会話は終わりました。
 その後は、なおざりの報告書がつくられ、埋まっていた配管を地上に出し、配管内面の材料を腐りにくくしただけで、それ以上の対策は何も講じられませんでした。

 ”過去の話”ではない
 原発にはそもそも無理があるというのが、長年、現場経験を積んできた私の実感で、私は「反原発」です。しかし敢えて「原発維持」の立場に立つとしましょう。その場合でも、事故を教訓に十分な安全基準を設けることが最重要になるはずです。ところが安全基準づくりの根拠となるべき事故原因の究明すら、いまだになされていないのです。
 東電は「津波によるメルトダウンが起きた」という主張を繰り返しています。そして、その「津波」は、「想定外の規模」で原子力損害賠償法の免責条件にあたるとしています。しかし「津波が想定外の規模だったかどうか」以前に、「津波」ではなく「地震動」で燃料破損していた可能性が極めて高いのです。
 しかも、私が分析したように、「自然循環」停止の原因が「極小配管の破損」にあったとすれば、耐震対策は想像を絶するものとなります。細い配管のすべてを解析して耐震対策を施す必要があり、厖大なコストがかかるからです。おそらく費用面から見て、現実的には、原発はいっさい稼働できなくなるでしょう。
 原発事故からすでに八年が経ちますが、この問題は、決して、”過去の話”ではありません。不十分な事故調査にもとづく不十分な安全基準で、多くの原発が、今も稼働し続けているからです。

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大本営発表、台湾沖航空戦、幻の大戦果 NO2

2019年11月20日 | 国際・政治

 「幻の大戦果 大本営発表の真相」辻泰明・NHK取材班(NHK出版)によると、「幻の大戦果」を生んだ台湾沖航空戦の作戦は、T作戦といわれ、立案者は真珠湾奇襲攻撃成功の立役者、大本営海軍部作戦課参謀の源田実中佐であったといいます。

 T作戦は、アメリカ海軍空母部隊が台風に遭遇して、活動の自由を制限されているあいだに、その悪天候をついて奇襲攻撃をかけようというものでした。また、台風がこない場合、あるいは、あまりにも気象条件が悪い場合は、夜間攻撃をおこなうというのです。夜間ならば、敵戦闘機の行動も制限されるからだといいます。
 さまざまな条件が、日本側にだけ理想的なかたちで揃わないと成功の望めないT作戦も、立案者が源田中佐であったために、異議を唱える者がいなかったようですが、それが、壊滅的な敗北と、問題の「幻の大戦果」を生んだことを見逃すことができません。

幻の大戦果」が、どういう状況の中で、どのようなかたちで生み出されたのかは、資料2の「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」堀栄三(文芸春秋)の「Ⅳ 山下方面軍の情報参謀に」に明らかです。そればかりでなく、同書には、

この姿こそあのギルバート、ブーゲンビル島航空戦の偽戦果と同じではないか?今村大将のタロキナ上陸の米軍撃退作戦の失敗の原因となった、あれでは?

とあり、小さな損害を与えただけなのに、大戦果を報じるという過ちは台湾沖航空戦以前からくり返されていたことが分かります。とんでもないことだと思います。そういう意味で、同書にの「まえがき」に書かれている下記の文章は重要だと思います。

昭和20年の敗戦まで、軍は日本の最大の組織であった。しかも最も情報を必要とする組織であった。その組織がいかなる情報の収集・分析処理・管理のノウハウを備えていたのか、あるいはいなかったのか? いかなる欠陥をもっていたのか?──その実態を体験的に述べることは、日本の組織が内在的に持ちやすい情報に関する問題点を類推させることにも役立つのではなかろうか。
 物語の大部分は、自(オノズ)ら太平洋戦争の職場が主体であるが、企業でも、政治でも、社会生活の中でも、情報が極めて重要な役割を占めている今日、それぞれの分野や組織で情報に関係する人びとにとって、それなりの示唆を与えるものではないかと思っている。

同じような意味のことが、「幻の大戦果 大本営発表の真相」辻泰明・NHK取材班(NHK出版)にも書かれていました。下記です。

”台湾沖航空戦と、その誇大戦果創出の過程から得ることのできる教訓、あるいは、現代に通じる問題点は、大きく分けて三つある。
 第一の問題点は、よくいわれる「情報の軽視」である。が、それは、単に情報を軽視したのみとはいいきれない問題を含んでいる。むしろ情報の処理のしかたのほうに問題があるといえるだろう。情報そのものは、いろいろと摂取してはいるのだが、それが組織の中を流通していかないのである。
 陸軍と海軍のあいだで情報の共有がされず、陸軍ないし海軍の中でも、作戦部と情報部のあいだで情報がうまく伝わらない。そういう現象が台湾沖航空戦とそれにつづくフィリピンでの決戦では致命的なかたちをとって現れてしまった。
 組織を人間の肉体にたとえれば、情報は、”血液”のようなものであろう。血液がうまく循環していかない時、肉体は壊死してしまう。情報が円滑に流れない組織は、いつしか硬直化し、やがて死を迎えざるをえないのである。
 近年、頻発する企業の不祥事においても、「部門間の風通しの悪さのために、情報が一部にとどまってしまった」とか、「社長はほうとうになにも知らなかった」という発言が繰り返された。
 この点で、日本型組織といわれるものは、はなはだ脆弱な側面をもっている。公の場で議論することが少なく、どこかわからないところで意思決定がおこなわれる。会議の場で話される建前と会議以外の場で話される本音が、百八十度ちがうこともままある。
 空母はほんとうのところ、いったい何隻沈めたのか、敵の部隊はほんとうに、もう残っていないのか。現代の問題に例をとって言いかえれば、不良債権といわれるものは、ほんとうのところ、いったいどれくらいあるのか。
 当事者はわかっていても、その情報が、ほかには明かされない。その結果、曖昧な危機感ないしは根拠のない楽観だけが助長され、誤った意思決定がつづくことになる。 

 また、考えさせられるのは、幻の大戦果を生み、その結果、その後も無理な作戦が続いて、多くの犠牲者を出すことになったにもかかわらず、源田中佐(戦後、自衛隊初代航空総隊司令、第三代航空幕僚長、参議院議員)をはじめとする当時の軍人や政府の高官が、日本の戦後政治にも大きな影響力を持ち続け、戦時中の不都合な事実が、闇に葬られる傾向があることです。
 中国の戦争に関わる施設に、「前事不忘 後事之師」という言葉があったのを思い出します。 

 下記資料1は 「幻の大戦果 大本営発表の真相」辻泰明・NHK取材班(NHK出版)から、資料2は「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」堀栄三(文芸春秋)から抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                         第一章 逆転の秘策
起死回生の秘策・T作戦
 T作戦は、頭脳優秀な参謀によって練られた。きわめて複雑かつ精巧な作戦であった。その目的と戦法を理解するには、ミッドウェー海戦ののちの太平洋戦争の局面の推移を知る必要がある。
 ミッドウェーで空母四隻を失ったあと、日本軍は、ガダルカナルやラバウルでの消耗戦を余儀なくされることになった。消耗戦とは、一回の決戦で勝負が決まることなく、長時間にわたる戦いのうちに、次第に、艦船や航空機を消耗していく戦いのことである。こうなると、消耗した航空機や艦船をいかに補充できるかが、戦争のゆくえを左右することになっていく。つまりは、その国の工業生産力が最終的な勝敗の鍵を握ることになったのである。
 ミッドウェー海戦以後、空母部隊の再建に励んでいた日本海軍は、この海戦にあたって、空母九隻、艦載機四三〇機あまりを投入するまでに戦力を回復していた。だが、工業力の差はいかんともしがたく、アメリカ海軍は、日本軍をはるかに上回る空母十五隻と艦載機九〇〇機あまりを投入してきたのである。しかも、それまでの消耗戦の過程で多くのベテラン搭乗員を失っていた日本軍航空部隊の技量は高いものではなかった。
 結果は、日本海軍の惨敗であった。
 日本海軍は主力空母三隻が撃沈され、四隻が損傷、航空機三〇〇機以上を失う。これに対し、アメリカ海軍は艦船の沈没はなく、航空機一○○機を失うにとどまった。
 艦隊決戦に敗れた日本は、いよいよ追い詰められたかたちとなった。空母を十五隻も有し、かつ、着々と兵力を増強しつつある大艦隊が、日本に迫ってくるのである。洋上に浮かぶ航空基地として、敵に対し機動的に空から攻撃を加えることのできる能力をもつ空母部隊は、こんにちでいえば、戦略核ミサイルに匹敵するような、最強兵器であった。
 南方(東南アジア)の資源地帯に、石油をはじめとする軍需物資を頼っている日本にとっては、その輸送路を空から襲われれば、たちまち息の根を止められてしまう。
 なんとしてでも、アメリカ海軍空母部隊を打ち破り、その進撃を阻止しなければならなかった。
 こうした背景のもと、マリアナ沖海戦から一か月あまりのちの昭和19年7月23日、大本営での打ち合わせの席上、アメリカ海軍空母部隊撃滅の秘策が発表された。
 それがT作戦である。立案したのは、真珠湾奇襲成功の立役者であり、大本営海軍部作戦課参謀の源田実中佐。この時、出席した柴田文三大佐のメモには、源田中佐が示した目標が記されている。
「エセックス級空母十隻撃沈破」
 エセックスとは、当時最新最強のアメリカ海軍正規空母の形式名である。排水量およそ二万七千トン、速力三十三ノット、搭載機数約百機。それまでの戦訓を活かし、強固な対空火器を備えた、文字通りの不沈艦であった。
 そのエセックス級を一挙に十隻屠ろうというのである。当時、アメリカが太平洋方面の作戦で使うであろうエセックス級空母を、日本側は十隻と予想していたから、その全部を撃沈するか撃破しようというのであった。
 それが、いかに達成困難な目標であるかは、直前の6月に生起したマリアナ沖海戦の結果を考えてみれば、明らかであった。マリアナ沖海戦において、アメリカ軍空母部隊よりも先に敵を発見した日本軍空母部隊は、ただちに航空機を発進させ、先制攻撃を加えることに成功した。にもかかわらず、一隻の空母を撃沈することもできず、攻撃隊はおびただしい損害を出したのである。
 その原因は、ひとつには、アメリカ軍空母が有する戦闘機による迎撃によって、攻撃を妨害されたことであり、もうひとつは、空母をはじめとするアメリカ軍艦船の対空砲火によって攻撃隊の航空機が撃墜されたことであると考えられた。
 どうすれば、敵の戦闘機や対空砲火をかいくぐって、空母を撃破することができるのか。
 源田中佐は、そのための秘策を考え出していたのである。

 台風と照明弾
 それは、台風を利用するということであった。
 T作戦のTとは、この台風を表す英語Typhoon の頭文字をとったものだといわれている(魚雷=Torpedo のTをとったという説もある)。
 アメリカ軍空母部隊の進攻が予想される時期、つまり9月から10月にかけて、その進路にあたる西太平洋上では、台風が発生する。その台風に、アメリカ海軍空母部隊が遭遇して、活動の自由を制限されているあいだに、悪天候をついて奇襲攻撃をかけようというのである。
 台風を利用するとは、蒙古来襲の時に吹いた神風を思わせるが、源田中佐は単に縁起をかついだわけではない。台風によって、近代艦船が沈没することはないにしても、揺れが激しければ、航空機の発着艦はできなくなる。つまり、敵戦闘機がわが攻撃隊を待ちかまえていることはできなくなるはずだというのである。また、もうひとつの障害である対空砲火も、艦船の揺れによって照準が定めにくくなるにちがいない。こうして敵の戦闘機と対空砲火を封じてしまえば、空母を撃破することは充分可能になる。それが、源田中佐が着想したT作戦の骨子であった。
 だが、この構想には、難点がひとつあった。
 すなわち、台風の悪天候下で、はたして満足な攻撃ができるものだろうかということである。悪天候下においては、たしかに敵の行動も不自由ではあるが、味方の行動も不自由となる。暴風雨の中を航空機が飛んで、敵を発見し、なおかつ有効な攻撃をおこなうことができるか。
 さらにまた、台風も、そうそう都合よく発生するとはかぎらない。敵を発見し、攻撃するという際に、敵が台風にみまわれていなかったら、どうするのか。そういう疑念に対する答えも、源田中佐は
用意していた。
 台風がこない場合、あるいは、あまりにも気象条件が悪く、味方機の活動が制限されることが考えられる場合は、代案として、夜間攻撃をおこなうというのである。夜間ならば、敵戦闘機の行動も制限される。台風による荒天の時ほどではないが、昼間よりは、攻撃に有利であろう。
 が、しかし、ここでまた別に、夜間では攻撃目標である肝腎の敵艦隊が発見できないではないかという疑念が湧く。
 この疑念に対する答えもあった。
あらかじめ敵を発見する役目をになった索敵機を先行させ、後続する攻撃隊が到着するころをみはからって、照明弾を投下、その明かりに敵艦が照らされているあいだに攻撃しようというのである。しかも、攻撃隊の航空機には、当時、最新の電探(電波探知機=レーダー)を搭載し、敵の発見を容易にする準備まで整えておくというのだ。
 
・・・

 一見、周到に組み立てられていかにみえるT作戦は、きわめて脆弱な側面をもっていたのである。この作戦が成功するためには、こちらの都合のよい時と場所に台風が発生しているかどうかということを別にしても、悪天候時あるいは夜間に、味方が確実に敵の位置を捕捉すること、敵の戦闘機が遊撃してこないこと、また、敵艦船が確実に照明によって照らし出されることなどといった、さまざまな条件が理想的に揃う必要があった。ちょうど精巧につくられた模型が、一か所、部品がはずれただけで、ばらばらに崩壊してしまうように、T作戦も、これらの前提条件が揃わなかったっ場合は、すべてが裏目に出る危険をはらんでいたのである。そして、現実に、いざ実戦となった時、これらの前提条件は、次々に崩れ去っていったのである。
 しかしながら、源田中佐といえば、開戦劈頭、だれもが不可能と思っていたハワイ真珠湾奇襲計画の具体案を策定した人物であった。その源田中佐が考えた作戦に異議が唱えられる気配はなかった。また、会議の出席者にとってみれば、このT作戦だけが、追い詰められた日本を救いうる頼みの綱であるようにもみえたにちがいない。
 T作戦のための準備は、次々に進められ、部隊編成がおこなわれた。その実行部隊はT攻撃部隊と名づけられた。
 ・・・

資料ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                          Ⅳ 山下方面軍の情報参謀に

1 台湾沖航空戦の”大戦果”
 昭和19年10月、堀は完成した『敵戦法早わかり』を、第一線部隊に普及させるため、在比島第十四方面軍に出張を命じられた。
 作戦参謀なら立川あたりから専用機で発つであろうが、当時の情報参謀はそうはいかない。作戦とと情報は権力にまで段差があった。堀は汽車で宮崎に行き、新田原飛行場で南方行の便を探して、マニラに向かうことになった。
 12日の夜は車中で明かした。昼近くやっと佐土原駅に着いた。ちょうど駅前にいた軍のトラックをつかまえて、新田原飛行場に到着した。堀は一刻も早くマニラ便に乗って飛び出すことを期待していたが、意外にも飛行場は閑散として静かであった。
 汽車の中で見た新聞や、乗客たちが興奮して話し合っていた通り、台湾沖では航空戦が行われている最中であった。指揮所の入り口には貼紙があった。
『只今、台湾沖にて航空戦が行われています。沖縄、台湾には空襲警報が発令中のため、南方行の便は全便中止します』
 それでもと思って指揮所の主任将校に、予約してあるマニラ行の輸送機を尋ねたが、空襲警報である以上何ともしようがない上に、沖縄付近に低気圧があって、この分では南方行は二、三日は無理だから、今夜は旅館で泊ってくれと言う。「そうだったのか」と一度は思ったその瞬間、堀の口から別な言葉が飛び出していた。
 「俺は大本営の情報参謀だ!こんな大戦争が近くで行われているときに、どうして旅館でごろごろしていられるか、どんなボロ飛行機でもいいから鹿屋まで何とかしてくれ!」
 堀の頭の中を、稲妻のようにピリッと閃くものがあった。
 ── 航空戦だ! いままでの戦法研究で疑問符のつけてある航空戦だ。この目で見てみよう。
 いまや絶好の機会であった。「俺は大本営の情報参謀だ!」── いま想い出しても、新米愚鈍参謀の冷汗の出るような一世一代の台詞であった。戦法研究から出た危機感が、戦局を憂慮する使命感を動かして、どうしてもジッとしてはいられなかった。
  航空指揮所が工面してくれたボロ偵察機で、鹿屋の海軍飛行場に着いたのが午後一時過ぎ。飛行場脇の大型ピストの前には十数人の下士官や兵士が慌ただしく行き来して、大きな黒板の前に坐った司令官らしい将官を中心に、数人の幕僚たちに戦果を報告していた。
「〇〇機、空母アリゾナ撃沈!」
「よーし、ご苦労だった」
 戦果が直ちに黒板に書かれる。
「○○機、エンタープライズ撃沈!」
「やった! よし、ご苦労!」
 また黒板に書き込まれる。
 その間に入電がある。別の将校が紙片を読む。
「やった、やった、 戦艦二撃沈、重巡一轟沈」
 黒板の戦果は次々に膨らんでいく。
「わっ」という歓声が、そのたびごとにピストの内外に湧き上がる。
 堀の頭の中には、いくつかの疑問が残った。敵軍戦法研究中から脳裏を離れなかった「航空戦が怪しい」と考えたあれであった。そのあれが今、堀の目の前にある。
── 一体、誰がどこで、どのようにして戦果を確認していたのだろうか?
── この姿こそあのギルバート、ブーゲンビル島航空戦の偽戦果と同じではないか?今村大将のタロキナ上陸の米軍撃退作戦の失敗の原因となった、あれでは?
 堀は、ピストでの報告を終って出てきた海軍パイロットたちを、片っ端から呼び止めて聞いた。
「どうして撃沈だとわかったか?」
「どうしてアリゾナとわかったか?」
「アリゾナはどんな艦型をしているか?」
「暗い夜の海の上だ、どうして自分の爆弾でやったと確信して言えるか?」
「雲量は?」
「友軍機や僚機はどうした?」
 矢継ぎ早に出す堀の質問に、パイロットたちの答えはだんだん怪しくなってくる。『敵軍戦法早わかり』作成時に艦型による米軍艦の識別は頭にたたき込まれているから、パイロットたちの返事のあいまいさがよく分かった。
「戦果確認機のパイロットは誰だ?」
「………」
 返事がなかった。その時、陸軍の飛行服を着た少佐が、ピストから少し離れたところで沈みがちに腰を下ろしていた。陸軍にも俄か仕込みの電撃隊があったのだ。
「参謀!買い被ったらいけないぜ、俺の部下は誰も帰って来てないよ。あの凄い防空弾幕だ、帰ってこなけりゃ戦果の報告も出来ないんだぜ」
 心配げに部下を思う顔だった。
「参謀! あの弾幕は見た者でないとわからんよ。あれを潜り抜けるのは十機に一機もないはずだ」
 と、ウェワクで寺本中将が言った通りのことを付け加えた。
 ── 戦果はこんなに大きくない。場合によったら、三分の一か、五分の一か、あるいはもっと少ないかも知れない。第一、誰がこの戦果を確認してきたのだ、誰がこれを審査しているのだ。やはり、これが今までの○○島沖海軍航空戦の幻の大戦果の実体だったのだ。
 堀はそう直観した。ブーゲンビル島沖航空戦では、後になってみると、大本営発表の十分の一にも足りない戦果であった。
 航空部隊の気持ちもわからぬではない。航空戦、それも夜戦であっては、月か星に見えるだけで、戦闘の状況を逐一観察出来るはずがない。
 その上日本における指揮官は、外国型に較べて泰然とした大物でないと部下がついて来ない。細かい粗さがしは部下の失笑を買う。勢い日露戦争の大山元帥式の太っ腹な態度を指揮官像とする者が多い。
「よし! わかった、ご苦労」
 司令官にそう言わせる前に参謀の念入りな審査が必要だ。しかし、ピスト内では誰ひとり審査している者がいないのである。パイロット以外に戦場を見た者がいないのが航空隊だった。
 ピストに戻ると、内部の興奮はさらに高まって、「轟沈、撃沈」と書かれていくたびに歓声は一層大きくなっていった。
 堀が大本営第二部長宛てに(参謀は所属長に報告するのが原則)緊急電報を打ったのは、その日夕方七時頃であった。起案は薄明かりの飛行場の芝生の上で書いた。書き終わったときはもう真っ暗だった。

「この成果は信用できない。いかに多くとも二、三隻、それも航空母艦かどうかも疑問」

 これが打った電報の内容であった。
 ・・・
 海軍航空隊戦の戦果については、この一年間疑問を持ち続けてきたが、なぜ戦果が過大なものに化けるのかのからくりの真相を、目のあたりに見る思いがした。
「いま何をするのが一番大事か?」── 土肥原将軍は堀にそう教えた。
 日本は「捷号」という国運を賭けての作戦を発動するか、しないかの土壇場にきている。この一大決断のときに、判断の資料を提供するのが新米ながらも情報参謀の使命であろう。東京の作戦当事者に、ブーゲンビル島沖航空戦の結果を信じて、タロキナ大反撃を命じた今村第八方面軍司令官の轍を踏ませてはならない。それだけが堀の脳裏に残っていた。
 またその反面、「この重大なときに作戦参謀がどうして鹿屋に馳せ参じないのか、陸軍の作戦参謀の中に連合艦隊参謀を兼務してきた者もあったはずだ」そうも思った。これが作戦課の情報不感症というものだ。
 ・・・
「この戦果は怪しい」という職人的勘が走ったのは、一年の戦法の研究を通して、各種の情報、戦例、戦闘の実情、日米両軍の戦力の比較、制空制海の戦理、航空機の特性などを見てきた知識の総蓄積から出た閃きのようなものであった。問題はそのとき決して感情を入れないことである。作戦当事者が誤るのは、知識は優れているが、判断に感情や期待が入るからであった。それゆえ作戦と情報は、百年も前から別人であるように制度が出来ていたのであった。
 情報の職人には、経験と知識と、深層、本質を冷徹に見る使命感が大事である。後世史家たちが、陸大の教育に情報教育が不足していたと、批判する向きが多いが、実戦における 情報の仕事はかくも微妙なものである。

 

 

 

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大本営発表、台湾沖航空戦、幻の大戦果 NO1

2019年11月14日 | 国際・政治

 台湾沖航空戦において、実際は、撃沈した敵艦は一隻もなく、空母二隻にかすり傷らしきものを与え、巡洋艦二隻を大破させたにすぎなかっただけなのに、なぜ、”撃沈撃破したものは、航空母艦(空母)が十九隻、戦艦が四隻、その他が二十二隻、合計四十五隻”などと、アメリカ海軍の主力を全滅させたかのようなでたらめな大戦果が発表されるに至ったのか、「幻の大戦果 大本営発表の真相」辻泰明・NHK取材班(NHK出版)が、丹念にその過程を追っています。

 その大戦果の大本営発表には、無理もないいつかの錯誤も含まれていたようですが、考えなければならないことは、錯誤では説明できない大戦果の認定とその後の対応です。特に、殲滅したはずのアメリカ軍空母部隊の進撃を確認し、極秘の判定会で大戦果の誤りがわかったにもかかわらず、その事実を、国民はもちろん、関係者にさえ明らかにしなかったこと、その結果、さらなる悲劇的な作戦が展開されていくことになったということは、見逃されてはならないと思います。
 『大本営報道部』平櫛孝 (図書出版)には、下記のようにあるといいます。孫引きします。

”……日本国民をあれほど狂喜させ、興奮に追い込んだ「台湾沖航空戦」の戦果は、(中略)はなはだ怪しいものであることがわかってきた。偵察機の報告に疑問をもった大本営海軍部が調査したところ、大戦果として発表した大本営発表は、いくら有利に見ても「空母四隻撃破」した程度だという結論となった。ところが、この結論は故意か過失か、大本営陸軍部に通報されなかった

また、佐藤賢了著『大東亜戦争回顧録』(徳間書店)には、下記のようにあるといいます。 こちらも孫引きです。
 
”……詔勅をいただき、国民を熱狂させたあとで「アレはまちがいだ」といえない気持ちはわかる。しかし一般はともかく、ともに国運を背負って作戦指導に任じている参謀本部に真実を通報しなかったことは、いかに非難しても非難しすぎることはあるまい。しかし、この通報洩れは、何らかの手違いによって生じたもので、よもや故意ではあるまいと思う。

 海軍と陸軍の関係における諸問題ついては、いろいろな研究者が明らかにしていますが、「幻の大戦果 大本営発表の真相」は、さらに突っ込んで、関係者の証言をもとに、大本営や日本軍の組織の構造的問題として考察しています。そして、幻の大戦果発表やその後の対応は、大本営が二重に分裂していた結果であると結論付けています。それは、海軍と陸軍の対立のみならず、陸海軍ともに、作戦部が情報部や報道部の上に立ち、実権を握って作戦部の都合のいいように情報を判断し、報道を操作する組織になっていたということです。

 また、同書は、「付記──台湾沖航空戦の教訓」のなかで、現代に通じる問題点として三つ挙げています。
第一は「情報の軽視」、第二は「身内の利害を優先する姿勢」、第三は「リーダーシップの不在」です。

 安倍政権の「身内の利害を優先する姿勢」には目に余るものがありまが、先日の朝日新聞には、「技術判断を経営判断で覆す」と題して、「幻の大戦果」発表に至った日本軍組織の問題と似通った問題を抱える東京電力の福島原発事故に関する裁判記事がありました。東京電力原子力設備管理部の土木調査グループ元課長は、15.7メートルの津波対策を実行に移す段取りをしようとする段階で、”津波の想定高さの算定方法を研究する”との方針(常務・武藤栄の発案)が決定されたので、「力が抜けた」と証言しているのです。土木調査グループ元課長は、沖の防波堤や敷地の防潮壁など様々な検討を重ねていたのに、それが「保留」のような状態になってしまったので、「力が抜けた」というわけです。”算定方法を研究するとの方針”は、常務が15.7メートルの津波を認めたくなかったので打ち出した方針だと思います。実権を握る素人の常務が、専門部署の設備管理部土木調査グループの取り組みを無視して、自らの都合のよいように方針を変更したということが、台湾沖航空戦における幻の大戦果の大本営発表やその後の作戦決定のありようと同質ではないかと、私は思います。

 さらに重大なことは、事故直後には「想定外」が強調され、津波に対するこうした取り組みが進んでいた事実はほとんど国民に知らされず、原発の事故原因に関する国民の関心が薄れた中での裁判で、責任ある立場の人たちが無罪になるという現実です。
 政治や経済で日本を牽引するひとたちが、旧日本軍と同じような体質をもっており、司法もそれに追随しているということではないかと、私は思うのです。
 原子力安全・保安院の原子力発電安全審査課班長小野祐二氏は、女川やスマトラ島沖で起きた大地震を考慮し、東京電力の八人の技術者を前にして、「できるだけ早く想定外事象を整理し、弱点の分析、考えられる対策などを教えてほしい」と要請しているのです。そうしたことを踏まえ、東京電力土木調査グループ元課長が15.7メートルの津波対策を実行に移す段取りを考えていたのだと思います。でも、常務が逆戻りさせて、”津波の想定高さの算定方法を研究する”という方針に変更したことが、「技術判断を経営判断で覆」したということなのだと思います。幻の大戦果の発表と同様、大きな問題だと思います。
 情報を自らに都合のよいような解釈したり、不都合な事実をなかったことにするような姿勢が、さらなる悲劇を生むことにつながるのではないかと思います。
 下記は「幻の大戦果 大本営発表の真相」辻泰明・NHK取材班(NHA出版)から、プロローグの部分を抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                            大本営発表の変質
 幻の大勝利
 大本営発表と言えば「嘘の代名詞」とまでいわれている。しかし、大本営発表は、最初から嘘の固まりであったわけではない。その最初は、むしろ正確無比であり、迅速かつ確実な上、わからないことはわからないと正直に言い、誤りがわかったあとには、すぐにそれを訂正するといった誠実なものであったのだ。
 やがて、その真摯な姿勢は、しだいに変化し、みずからの損害を隠したり、不確実なものも戦果に加えるようになるが、それは、あくまで作戦遂行のためや士気高揚のための、一種の情報操作にもとづくものであった。
 ところが、その大本営発表は、ある時を境に決定的な変質をとげることになる。太平洋戦争末期の台湾沖航空戦という戦いを境にしてのことである。
「台湾沖航空戦」とは、なにか。
 今ではもう知る人も少なくなったが、昭和19年(1944)10月におきた、日本軍航空部隊とアメリカ軍空母部隊の戦いである。この戦いで、日本軍は、アメリカ軍に対して大勝利をおさめたと報じられた。
 大本営発表(昭和19年10月19日18時)
 我が部隊は、10月12日以降連日連夜、台湾及び「ルソン」東方方面の敵機動部隊を猛攻し其過半の兵力を壊滅してこれを潰走せしめたり。
 (一)我が方の収めたる戦果総合、次の如し
轟撃沈(ゴウゲキチン)航空母艦十一隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻、巡洋艦もしくは駆逐艦一隻。
撃破       航空母艦八隻、戦艦二隻、巡洋艦四隻、巡洋艦もしくは駆逐艦一隻、艦種不詳十三隻
 その他 火災、火柱を認めたるもの、十二を下らず。
撃墜 百十二機(基地に於ける撃墜を含まず)
 (二)我が方の損害
飛行機未帰還三百十二機
註 本戦闘を台湾沖航空戦と呼称す。

 撃沈撃破したものは、航空母艦(空母)が十九隻、戦艦が四隻、その他が二十二隻。合計四十五隻。
アメリカ海軍の主力を全滅させたに等しい大戦果である。この時より40年ほど前の明治38年(1905)、日本海軍は、日露戦争における日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに葬り去るという歴史的大勝利を遂げた。
 台湾沖航空戦は、まさに、その再現ともいうべき快挙だった。
 当時、大本営海軍部第三部(情報)の参謀だった吉田俊雄さん(93歳)は、そのころの海軍部内の雰囲気をこう語る。

 吉田 もう、重箱の底をひっくりかえしたような格好で騒ぎましたよ。なにしろ凄い大勝利をやったというから、しかも相手はハルゼーの空母部隊ですからね。航空母艦三隻をやったとか五隻やったとか言って、みんな沈めたというものだから、それはもう、ちょっと目の色変わったですね。
 だって空母を何隻もやっつけたなんていうのは、戦争はじまってからほとんど一度も聞いたことない。もう、喜ばないはずはないですよ、手の舞い足の踏むところを知らずというやつですよ。
 日本は、もう戦争に勝ったも同然だと思ってね。喜んだですよ。

 ハルゼーとは、アメリカ海軍の主力空母部隊である第三十八任務部隊をひきいる提督の名前である(任務部隊とは、Task Force の訳語。日本では、同様の部隊を、機動部隊と称していた)。
 昭和19年のそのころ、太平洋戦争開戦から四年目を迎えていた日本は、まさに、そのアメリカ海軍空母部隊の怒涛の進撃に追い詰められつつあるといってよかった。6月には、マリアナ沖海戦で、日本の空母部隊がアメリカの空母部隊に惨敗を喫し、7月には絶対国防圏の要であった中部太平洋のサイパン島が陥落、つづいてテニアン(旧テニヤン)島の守備隊も玉砕といったぐあいに、戦局の悪化を示す徴候が、次々に、かたちをとって現れはじめていたのである。絶対国防圏とは、文字どおり、日本軍が本土と南方の要地防衛のために、絶対に守り抜かなければならないと定めていた地域であり、そこが突破されるということは、太平洋戦争における日本の劣勢は、だれの目にも明らかになったといってよかった。サイパン陥落の責任によって、東條英機首相は退陣に追い込まれた。絶対国防圏を突破したアメリカ軍は、その空母部隊を駆使して、フィリピン、台湾、沖縄の要地に、激しい空襲を加えつつあった。いよいよ、日本本土にも侵攻の手が及んでくるのではないか、そんな不安が募りつつあった時期だったのである。
 そこにもたらされた台湾沖航空戦大勝利の知らせは、したがって、日本中を狂喜させた。作家の菊池寛と将棋名人の木村義雄がおこなった対談は、大戦果に対する国民感情をよく表している。

 菊池 サイパンやテニヤン等に対する無念を、こういう機会に晴らしてくれるだろうということは全国民期待していたが、こんなに早く来るとは思わなかったね。
 木村 それは飛行機が足りないということを聞いていたし、サイパンの時でも切羽扼腕していたのが、やはり力をぐっと貯えていたということが、ここにきて国民になるほどと納得させたからね。戦いは、やっぱり専門家だね。(中略) 
 菊池 とにかく、日本は絶対に負けないという確信を国民全体が改めて持ったね。

 これで戦争は勝ったも同然との気分が広まり、新たに作られた『台湾沖の凱歌』という歌が連日ラジオから流された。

 『台湾沖の凱歌』 サトウハチロウ・作詞/古関裕而・作曲
その日は来れり その日は遂に来た
傲慢無礼なる 敵艦隊捕え 待ってたぞ 今日の日を
拳を振り 攻撃だ 台湾東沖 時十月十二日

 海鷲陸鷲 捨身の追撃戦
慌てて遁がれ行く 敵艦めがけて 撃たずば 還らじと
体当たりの 突撃 忽ち沈み行く 我が翼の凱歌

 闘魂燃え立ち 勝ち抜くこの力 昼から夜中へと 轟沈 撃沈
今こそ 荒鷲は 神鷲とも 言うべきぞ 薫るぞその勲 我涙の感激

沈みし敵艦 その数 数えみよ 五十八機動部隊
(そのころ、日本はアメリア海軍の第三十八任務<機動>部隊の名称を第五十八任務部隊と誤認していた)
殲滅だ見よや。
この眼に、この耳に、報(シラセ)を受け 一億が 兜の緒を締めて 猶ひたすら誓う

 秋空晴れたり 心も晴れ渡る 諸人忘するるな 心に刻めよ
 決戦の 第一歩 輝かしき 大戦果 応えて皆励まん ただ皇国の為に

 この曲のレコードは、現在、CDで復刻されたものを聴くことができる。
 一聴、軍歌というものにありがちな、暗くもの悲しいイメージとはかけはなれた、明るい、ほとんど天真爛漫とすらいってよい、朗らかな曲調であることに驚かされる。戦争の先行きに、どうやら明るい兆しが見えたと、この歌の作曲者も作詞者も信じていたことがうかがえる。
 いやこの歌の作者ばかりではない。当時の国民のほとんどが、日本の大勝利を信じて疑わなかった。昭和19年10月という日付をもつ日記から、いくつか、そのころの人びとが抱いた思いを書き写してみると、次のようになる。

「空母十三隻を含み撃破じつに三十五隻という大戦果(この数字は途中発表のもの)の新聞を読んで、胸がふくらむ思い」(徳川夢声著『夢声戦争日記<五>』中央公論社より)
「……この度の台湾沖海戦によって、敵が本土沿岸に取りつくのではないか、敵の力を撃摧することが不可能ではないかというような、この頃、しきりに国民の頭に浮かんだ恐怖は霧消し去った。悪夢のように国民を圧迫していたこの頃の暗い空気は一度にとり去られ、我々には戦って勝つだけの力があるという確信が、国民の胸に甦った」(伊藤整著『太平洋戦争日記<三>』(新潮社より)
 昭和天皇は、台湾沖航空戦で大戦果をあげた部隊に対し、御嘉尚(ゴカショウ)の勅語、すなわちお褒めの言葉を賜った。
「朕が陸海軍部隊は緊密なる協同の下、敵艦隊を邀撃し奮戦、大いにこれを撃破せり。朕深くこれを嘉尚す」

 日本中が万歳の連呼につつまれ、提灯行列が企画された。これで日本は戦争に勝てると誰もが思ったのだ。
 ところが……
 この大戦果の数字には、奇妙なところがあった。
 その当時、ハルゼー大将ひきいる第三十八任務部隊に所属する航空母艦は、大型正規空母九隻、巡洋艦改造軽空母八隻の合計十七隻。
 一方、日本海軍航空部隊が台湾沖航空戦で撃沈した航空母艦は、合計十九隻。
 実際に存在していたよりも多くの敵艦を沈めてしまっていることになる。
 これは、いったいどういうことだろう。
 なにか数え間違いがあったのか、実際には沈めていないのに沈めたと勘違いしたものがあったとか、あるいは、同じ艦を重複して数えてしまったとか。
 もうおわかりであろう。
 数え間違いがあった、どころではない。
 そもそも、敵空母十九隻撃沈破という大戦果は、まったくの幻だったのである。
 現実には、撃沈した敵艦は一隻もなかった。空母には、二隻にかすり傷らしきものを与えただけ。戦果らしい戦果といえば、巡洋艦二隻を大破させたにすぎなかったのである。
 その代償として日本軍は、この時に備えて練成してしてきた航空部隊の過半を失ってしまった。
 しかも、この幻の大戦果を、現実のものとして信じた日本陸軍は、既定の方針を変更して、アメリカ軍に対し無理な決戦を挑み、悲惨な敗北を喫することになる。
 そればかりではない。
 実は、海軍の一部は、ある時点で、この戦果が幻であることに気づいていた。
 にもかかわらず、それを、国民に対してはおろか、首相にも、天皇にも、ともに戦う陸軍にさえも知らせなかったのである。
 いったい、どうして、こんなことが生じたのだろうか。

 忘れられた戦い「台湾沖航空戦」
 人間のすることである。まして戦場という特殊な環境下である。間違うこともあろう。多少の希望的観測もあろう。また、戦争の常として情報操作も用いられるべき手段ではあろう。しかし、この場合は、その度合いがひどすぎる。
 そこには、単なる錯誤や過失にとどまらない、もっと深い理由が隠されているにちがいない。
 問題の焦点はふたつある。
 ひとつは、このような空前絶後というべき幻の大戦果が、いかにして生み出されたのかということ。実際の戦場で、報告の現場で、そして戦果確認の過程で、なにがおこなわれていたのかということである。
 もうひとつは、その大戦果が幻であるとわかったにもかかわらず、なぜ、その事実が看過され、誇大な数字がひとり歩きしたのか。その結果、そこには、単なる錯誤や過失をこえた、構造的な問題が潜んでいることがわかった。
 そして、その構造的問題は、日本の組織に特有の欠陥であり、今日頻発する企業や官庁の不祥事を生み出す土壌として、台湾沖航空戦から60年近い歳月がたった今も、私たちの社会に温存されつづけているものだということも痛感せざるをえなかった。

 台湾沖航空戦において幻の大戦果を生み出した事実誤認の実態は、解明されることなく葬り去られた。
 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル、サイパン、レイテ、沖縄など、太平洋戦において、日本の運命を決定づけた戦いはあまたある。しかし、それらの戦いに比して、台湾沖航空戦という戦いの名は、ほとんど知られていない。
 世に溢れる戦史や戦記のたぐいにも、この戦いをとりあげたものは、少ない。
 この戦いに関わった人びとは、この戦いのことを、あえて忘れようとしたともいえる。戦史を書く人びとも、この戦いには、実体がほとんどないと見たのか、あるいは、あまりにもばかばかしいと考えたのか、なんらかの理由で見すごしてしまっているのだろう。
 しかし、私たちは取材を進めるにつれ、この戦いこそが、太平洋戦争と日本の運命について、きわめて重要な意義をもつ戦いであることを知った。
 戦術的には、日本軍の航空部隊が、アメリカ軍空母部隊の前に、もはや無力の存在となってしまっていることを示した戦いだった。戦略的には、日本軍が航空兵力を消耗しつくしてしまったことが、その後の戦局に決定的な不利をもたらした。以後、日本軍航空部隊は、正面きっての決戦を互角に戦う力を喪失し、生還を期さない体当たり攻撃──いわゆる”特攻”が常態化することになっていく。

 だが、そうした戦術的あるいは戦略的な意義だけではない。それ以上の意義、すなわち、日本人の本質とでもいった部分に関わる重大な問題提起が、台湾航空戦には内包されている。 
 太平洋戦争を遂行する、実質的な責任部署であった大本営。その大本営が国民に戦況を伝えるためにおこなった大本営発表は、昭和17年のミッドウェー海戦で味方の敗北を押し隠したあたりから変質を始め、昭和19年のこの台湾沖航空戦で決定的な腐食をきたして嘘の固まりとなったのである。
 過去を知らぬ者は、永遠に過ちを繰り返すという。
今こそ、私たちは、あの時なにがあったのか。あらためて振り返ってみる必要がある。日本人がもつ欠点が集約的に表れているこの戦いを、見つめなおす必要がある。
日本人が半世紀前と同じかたちの過ちを繰り返しつつあるかに見える、今こそ。
 そこにどれほど醜悪な現実が見えてこようとも、目をそらすことなく見つめつづけなくてはならない。
 台湾沖航空戦の戦果発表は、どのようになされたのか。なぜ、それが誤りとわかったあとも周知されることがなかったのか。
 これらの疑問を解くために、まずは、初期の大本営発表がどのようなものであったのか、そして、台湾沖航空戦という戦いは、どのようにして生起したのか。そこから歴史の検証を進めていくことにしたい。

 

 

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「日本国紀」が歴史書?NO2

2019年11月06日 | 国際・政治

 学校でよく耳にした言葉に「相手の立場に立って考えなさい」というのがあります。私は最近、この言葉は、子どもたちにとってより以上に、政治を志す人や、政治に影響力を持つ人に大事にしてもらいたいと思うのですが、「日本国紀」の記述は、近現代の章に入ると、日本の過ちを正当化し、中国や韓国の立場を考えず非難するプロパガンダ的性格が強くなっているように思います。だから、中韓との関係改善を進める上で私が座視できないと思う記述について、指摘したいと思います。関係改善のためには、相手を理解しようとし、また、相手に理解してもらおうとする努力が欠かせないと思うからです。   

 

第十三章 日本の復興」に「朝日新聞が生み出した国際問題」と題して、下記のように書かれています。

「WGIP 洗脳時代」(War Guilt Information Program)が社会に進出するようになると、日本の言論空間が急速に歪み始める。そして後に大きな国際問題となって日本の国民を苦しめることになる三つの種が播(マ)かれた。それは、「南京大虐殺の嘘」「朝鮮人従軍慰安婦の嘘」「首相の靖国神社参拝への非難」である。

 これらはいずれも朝日新聞による報道がきっかけとなった。”

 

 この文章には、百田氏の中国や韓国に対する誤解や無理解、また、戦後の日本社会に対する思い込みがあるような気がします。座視できないのは「〇〇嘘」とか「〇〇への非難」という、その内容です。

 

まず「南京大虐殺」であるが、これは前述したように、昭和46年(1971)、朝日新聞で始まった「中国の旅」という連載がきっかけとなった。まったく事実に基づかない内容にもかかわらず、戦後、GHQによって「日本軍は悪逆非道であった」という洗脳を徹底して受けていた日本人の多くは、この捏造ともいえる記事をあっさりと信じてしまった。

 当時、朝日新聞が「日本の良心」を標榜し、売上部数が圧倒的に多かったことも、読者を信用させるもととなった。まさか大新聞が堂々と嘘を書くとは誰も思わなかったのだ。さらに当時、マスメディアや言論界を支配していた知識人たちの多くが肯定したことが裏書きとなり、本多の記事が真実であるかのように罷り通ってしまったのだった。

 日本側のこうした反応を見た中華人民共和国は、これは外交カードとして使えると判断し、以降、執拗に日本を避難するカードとして「南京大虐殺」を持ち出すようになり四十数年後の現在では、大きな国際問題にまで発展した。情けないことに、未だに、「南京大虐殺」は本当にあったと思い込んでいる人が少なくない。いまさらながらGHQの「WGIP」の洗脳の怖さがわかる。

 

 日本人は、WGIP に洗脳されて、捏造された「南京大虐殺」が本当にあったと思い込んだ”バカ”な国民なんでしょうか。日本人であるが故に不愉快な顔をされたり、罵倒されたリしながら中国現地で証言を求めて歩いたという『中国の旅』の著者、本多勝一氏は、嘘つきなのでしょうか。また、朝日新聞は堂々と嘘を記事にしたのでしょうか。

 だとすれば、同書で取り上げられた「日本軍将校の百人斬り競争」の名誉棄損裁判で、朝日新聞、柏書房、本多勝一氏が勝訴し、原告が敗訴したのはなぜでしょうか。東京地裁をはじめ、原告の控訴を棄却した高裁、最高裁の裁判官も、みんな洗脳され、嘘を信じたバカな国民なのでしょうか。

 また、南京攻略戦における、兵站計画の不備や一番のり競争、そして俘虜対策の欠落などが、南京大虐殺につながったという証言は軍の内外にあり、歴史学者がそうした証言や様々な史料に基づいて、丁寧に南京大虐殺の実態を明らかにしていると思うのですが、それらもみな嘘で間違いだというのでしょうか。

 中国が「これは外交カードとして使える」などと、本当に判断したのでしょうか。私は、百田氏の思い込みが何の確認もされず、そのまま文章化されているのではないかと思います。

 南京戦に関して言えば、南京攻略戦当時、中支那方面軍司令官であった松井石根大将自身が「支那事変日誌」の「五、我軍ノ暴行、奪掠事件」に、下記のように書いています。

 

上海附近作戦ノ経過ニ鑑ミ南京攻略開始ニ当リ、我軍ノ軍紀風紀ヲ厳粛ナラシメン為メ、各部隊ニ対シ再三留意ヲ促セシコト前記ノ如シ。図ラサリキ、我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ、皇軍ノ威徳ヲ傷クルコト尠少ナラサルニ至レルヤ。

 是レ思フニ

一、上海上陸以来ノ悪戦苦闘カ著ク我将兵ノ敵愾心ヲ強烈ナラシメタルコト。

二、急劇迅速ナル追撃戦ニ当リ、我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト。

等ニ起因スルモ又予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス。因テ予ハ南京入城翌日(1217日)特ニ部下将校ヲ集メテ厳ニ之ヲ叱責シテ善後ノ措置ヲ要求シ、犯罪者ニ対シテハ厳格ナル処断ノ法ヲ執ルヘキ旨ヲ厳命セリ。然レドモ戦闘ノ混雑中惹起セル是等ノ不詳事件ヲ尽ク充分ニ処断シ能ハサリシ実情ハ巳ム ナキコトナリ。”

 

 また、従軍記者として「文字通り砲煙弾雨の中をくぐり抜けて報道の仕事に駆け回った人」と言われる同盟通信の記者、前田雄二氏は、その著書「戦争の流れの中に」(善本社)の中の第二部「南京攻略戦」で「軍司令官の怒り」と題して、下記のような事実を明らかにしています。松井大将の「五、我軍ノ暴行、奪掠事件」を裏づけるものだと思います。

     

18日には、故宮飛行場で、陸海軍の合同慰霊祭があった。この朝珍しく降った雪で、午後2時の式場はうっすらと白く染められていた。祭壇には戦没した将兵のほかに、従軍記者の霊も祭られていた。参列した記者団の中には、上海から到着した松本重治の長身の姿もあった。 

 祭文、玉串、「国の鎮め」の演奏などで式がおわったところで、松井軍司令官が一同の前に立った。前列には軍団長、師団長、旅団長、連隊長、艦隊司令官など、南京戦参加の全首脳が居流れている。松井大将は一同の顔を眺めまわすと、異例の訓示をはじめた。

 「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった」

 松井の痩せた顔は苦痛で歪められていた。

 「何ということを君たちはしてくれたのか。君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった」

 私は驚いた。これは叱責の言葉だった。

「諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」

 会場の5百人の将兵の間には、しわぶきの声一つなかった。式場を出ると、松本が、

「松井はよく言ったねえ」

 と感にたえたように言った。

「虐殺、暴行の噂は聞いていたが、やはり事実だったんだな。しかし、松井大将の言葉はせめてもの救いだ。

 

 こうした文書史料や数え切れないほどの証言をすべて無視して、「南京大虐殺の嘘」などという文章を「日本国紀」に書くのは、あまりに乱暴だと思います。

また、下記の文章も見逃すことができません。

 

朝日新聞が生み出したもう一つの嘘は、いわゆる「朝鮮人従軍慰安婦」問題である。

 昭和57年(1982)朝日新聞は吉田清治という男の衝撃的な証言記事を載せた。その内容は、吉田が軍の命令で済州島に渡り、泣き叫ぶ朝鮮人女性を木刀で脅し、かつてのアフリカの奴隷狩りのようにトラックに無理矢理乗せて慰安婦にしたというものだった。この記事は日本中を驚愕させた。

 以降、朝日新聞は日本軍が朝鮮人女性を強制的に慰安婦にしたという記事を執拗に書き続けた。朝日新聞は吉田証言だけでも十八回も記事にしている。ちなみに「従軍慰安婦」という言葉は、戦後、元毎日新聞社の千田夏光(センダカコウ:本名、貞晴)らによって広められた造語である。

 吉田証言が虚偽であることは早い段階から他のメディアや一部の言論人から指摘されていた。吉田自身も平成8(1996)の「週刊新潮」のインタビューで、「本に真実を書いても何の益もない」「事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやっている」と捏造を認めていた。ところが、朝日新聞がこの吉田証言に基づく自社の記事を誤りだったとする訂正記事を書いたのは、最初の記事から32年も経った平成26年(2014)である。実に32年もの間、朝日新聞の大キャンペーンに、左翼系ジャーナリストや文化人たちが相乗りし、日本軍の「旧悪」を糾弾するという体で、慰安婦のことを何度も取り上げた。これに積極的に関わった面々の中には旧社会党や日本共産党の議員もいる。

 多くの国民は朝日新聞が嘘を書くわけがないと思っていたのと、GHQの洗脳によって「日本軍ならそれくらいのことはしただろう」と思い込まされてきたため、「従軍慰安婦の嘘」を信じてしまったのだ。「南京大虐殺」も同様だ。

 こうした日本の状況を見た韓国も、中華人民共和国と同様、「これは外交カードに使える」として、日本政府に抗議を始めた。朝日新聞が吉田証言を記事にしてキャンペーンを始めるまでは、四十年間、一度も日本政府に慰安婦のことで抗議してこなかったにもかかわらずだ。

 韓国の抗議に対する日本政府の対応も最悪だった。

 平成5(1993)、韓国側からの「日本政府が従軍慰安婦の強制連行を認めれば、問題を蒸し返さない」という言葉を信じて、日韓両政府の事実上の談合による「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(いわゆる「河野談話」)を出し、慰安婦の強制連行を認めるような発信をしてしまった。途端に、韓国側は前言を翻し、これ以降、「日本は強制連行を認めたからのだから」と、執拗に賠償と補償を要求するようになる。これは八十年近くも前、大正4年(1915)の「二十一か条要求」のいきさつを彷彿させる。

 

 ”慰安婦”問題で、中国や韓国の主張に批判的な人は、必ず吉田証言を大きく取り上げます。

 国連人権委員会より任命された女性に対する暴力に関する特別報告者ラディカ・クマラスワミ氏は、「戦時における軍事的性奴隷問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」のなかで、吉田清治の証言を引用しましたが、吉田証言の虚偽が判明した時、吉田証言は報告書作成で入手した証拠のひとつに過ぎないこと、また、吉田証言は報告書の核心ではなく、元慰安婦の証言がより重要なことを主張して、報告書の見直しの必要を認めませんでした。

 私も、元日本軍”慰安婦”の証言はもちろんですが、元日本軍兵士の多くの証言、研究者が発掘した数々の軍関係資料、また、『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』<女性のためのアジア平和国民基金編(財)>の内容などを総合して考えると、元日本軍”慰安婦”の問題が、「軍事的性奴隷」の問題であることは否定できないと思います。吉田証言の虚偽によって、それらが打ち消されるわけではないのです。

 また、韓国が”四十年間、一度も日本政府に慰安婦のことで抗議してこなかったにもかかわらずだ…”などとありますが、それは元日本軍”慰安婦”が賠償や謝罪を求めて名乗り出るまで、実態がわからず、資料の収集や調査研究もきちんとされていなかったということを無視していると思います。

 それに、”韓国側からの「日本政府が従軍慰安婦の強制連行を認めれば、問題を蒸し返さない」という言葉を信じて…”というような記述も、具体的に根拠を示して書かなければ、読者は確かめようがありません。こうした文章は、歴史書のものとしては不適切だと思います。

 また、朝日新聞も、吉田証言だけに依拠して、”慰安婦”の問題を記事にしてきたのではないと思います。吉田証言の虚偽で、日本軍”慰安婦”の問題が揺らぐことはなく、大騒ぎすることではないと思います。

 

 1938年3月4日、陸軍省兵務局兵務課起案の「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」という下記文書は、”慰安婦”問題の本質を示す文書史料の一つではないかと思います。こうした文書や”慰安婦”の外出を禁じた軍の「慰安所規定」、また、近隣諸国(中国、朝鮮、台湾、フィリピン、インドネシアなど)の”慰安婦”の証言や当時現地で”慰安婦”の検診にあたった軍医、麻生徹男の軍陣医学論文「花柳病ノ積極的豫防法」などを合わせ読むと、その実態が察せられ、「慰安婦の嘘」などと、どうして言えるのか、と思います。

ーーーーーーー

           副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案

 

 支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之ガ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故ラ(コトサラ)ニ軍部諒解等ノ名義ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且(カ)ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞(オソレ)アルモノ、或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ、或ハ募集ニ任ズル者ノ人選適切ヲ欠キ、為ニ募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等、注意ヲ要スルモノ少ナカラザルニ就テハ、将来是等(コレラ)ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ、関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋(レンケイ)ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度(アイナリタク)、依命(メイニヨリ)通牒ス。

 

さらに、靖国神社参拝の問題に関しては、下記のように書かれています。

 

もう一つ、朝日新聞がこしらえたといえる深刻な国際問題は、「首相の靖国神社参拝にたいしる非難」である。

 今も、首相の靖国神社参拝を世界の国々が非難しているという報道を繰り返す新聞があるが、これは正しくない。我が国の首相や閣僚の靖国神社参拝を感情的に非難しているのは、中華人民共和国と韓国のみといっていい。アメリカや中韓以外のアジア諸国のメディアが今でも批判的トーンで靖国参拝を報じるのは、日本と隣国の争いの種になっているから、という理由が大きい。もちろん英米メディアの中には靖国神社を「戦争神社」と言い、ここに参る者は「戦争賛美」の極右で「歴史修正主義者」だという論調もあるが、そのほとんどが、1980年代の朝日新聞の報道論調を下敷きにしている。

 そもそも中国・韓国の二国は、戦後四十年間、日本の首相の靖国神社参拝を一度も抗議などしてこなかった。それまでに歴代首相が五十九回も参拝したにもかかわらずである。

 これが国際問題になったきっかけは、昭和60年(1985815日に中曽根康弘首相が靖国神社を参拝した時に、朝日新聞が非難する記事を大きく載せたことだった。直後、中華人民共和国が初めて日本政府に抗議し、これ以降、首相の靖国神社参拝は国際問題となった。この時、中国の抗議に追随するように韓国も非難するようになった。

 以上、現在、日本と中韓の間で大きな国際問題となっている三つの問題は、すべて朝日新聞が作り上げたものといっても過言ではない。三つの報道に共通するのは、「日本人は悪いことをしてきた民族だから、糾弾されなければならない」という思想だ。そのためなら、たとえ捏造報道でもかまわないという考えが根底にあると思われても仕方がない。

 

 中国と・韓国が、”戦後四十年間、日本の首相の靖国神社参拝を一度も抗議などしてこなかった”ということが、それほど重大な問題でしょうか。”それまでに歴代首相が五十九回も参拝したにもかかわらずである”などとあたかも不当であるかのようにいって、抗議しなかった理由は問わないのでしょうか。問題は抗議をした時期ではなく、抗議の内容や国家として抗議すること至った理由ではないかと思います。

 

 極東国際軍事裁判(東京裁判)において処刑されたA級戦犯が、『昭和殉難者』として靖国神社に、祀されたのは、1978年(昭和53年)です。アメリカが主導したとはいえ、国際社会が戦争犯罪人として処刑した人たちを靖国神社に合祀したのです。だから、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を抱き、靖国神社に参拝しなくなったことも明らかにされています。

 中国政府が、日本政府に抗議するようになったのは、1985年に中曽根首相が「公式」参拝をして以後です。私的にではなく、「公式」に参拝したのです。抗議内容は、A級戦犯が合祀されている靖国神社に首相が参拝することは、中国に対する日本の侵略戦争を正当化することであり容認できないというようなことです。軍国日本が平和国家に生まれ変わることを信じ、戦争被害に対する莫大な賠償や補償を全て放棄した中国にとって、侵略戦争の正当化は裏切りであると私は思います。また1972年の日中国交正常化の際には「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」という内容の共同声明を発表しているのです。だから、軍国日本を率いたA級戦犯が合祀された靖国神社に、日本を代表する首相や閣僚が公式に参拝することが、問題視されるのは当然ではないかと思います。抗議の時期や朝日新聞の報道・論調などを根拠に、中国の抗議が不当であるかのようにいうのはいかがなものかと思います。

 

 「靖国で会おう!」といって死んでいった若者がどれくらいいたかは知りませんが、靖国神社は皇軍兵士の精神的支柱であり、軍国日本の象徴といえる神社なのではないかと思います。そういう靖国神社に、A級戦犯を合祀し、日本を代表する首相や閣僚が「公式」参拝するわけですから、中韓の抗議は当然で、”朝日新聞が作り上げたもの”というようなものではないと思います。そうした考え方では、日中や日韓の関係改善はできないと思います。

 百田氏は、力づくで中国や韓国を黙らせ、日本のいうことに従わせようというのでしょうか。日本の誇りにこだわって日本の戦争を正当化し、中国や韓国を非難することによって、日中、日韓の溝を深めるような「日本国紀」の文章は、批判的に読まれないと、将来世代に不幸をもたらすのではないかと、私は思います。

 

 昨年末に安倍首相自ら、”年末年始はゴルフ、映画鑑賞、読書とゆっくり栄養補給したいと思います。購入したのはこの三冊。”と情報発信した本の中の一冊がこの「日本国紀」であることに驚きました。

 安倍首相には、中国や韓国を理解しようとし、また、中国や韓国に日本を理解してもらおうとする努力をしてもらいたいのですが…。

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「日本国紀」が歴史書?NO1

2019年11月04日 | 国際・政治

 「日本国紀」の表紙には、どういうわけか著者名の下に小さな赤い文字で「The History of Japan 」とあります。それが、私は適切ではないように思います。「The Historical tale of Japan」というような表現であればわからなくもないのですが…。

日本国紀」の「序にかえて」に、下記のような文章があります。

日本ほど素晴らしい歴史を持っている国はありません。
 もちろん世界中の国の人々が自分の国について同じように思っていることでしょう。それでも敢えて、日本ほど素晴らしい歴史を持っている国はないと、私は断言します。
 ・・・
 ところが、第二次大戦により、日本は木っ端微塵にされました。三百万人以上の尊い命が失われ、国力は世界最貧国ともいえる状況にまで落ちました。しかし、そこから世界が驚倒するほどの復興を見せます。それどころか、戦後の日本は世界の平和に貢献し、多くの発展途上国を援助します。
 これが日本です。私たちの国です。
 ヒストリーという言葉はストーリーと同じ語源とされています。つまり歴史とは「物語」なのです。本書は日本人の物語、いや私たちの壮大な物語なのです。

 この文章の言葉通り、「日本国紀」は「歴史書」すなわち「The History of Japan 」ではなく、百田尚樹氏の思いを込めた受け止め方によって歴史をとらえ、創作された日本の歴史「物語」すなわち「The Historical tale of Japan」であると思うのです。

 学問は一般的に、自然科学、社会科学、人文科学の三つに分類されのではないかと思いますが、歴史学はその中の社会科学の分野に入り、客観性が求められる学問であると思います。だから歴史は、客観的な根拠をもとに、論理的な考察によって、他者を納得させられる文章で書かれなければならないと思うのです。また、歴史研究は、すでに先人から受け継いものがあり、その研究を深化・発展させることが課題であると思います。そして、それが可能なのは、新たな史料が発見されたり、今まで知られていなかった事実が判明したりした場合、あるいは、より深い論理的考察がなされた場合だと思います。でも、「日本国紀」は、そうした歴史学のあゆみや方法論・研究法をきちんと踏まえて書かれているいるようには思えません。
 通常、歴史書は、重要な断定に関しては、その根拠となる文献史料や関係者の証言、他の歴史家の記述などを引いたり、それらを「註」などで示したりして書かれています。読む人が、その根拠を確認し、検証できるように書かれているのだと思います。でも、「日本国紀」は、そうした書き方をしていません。また、教科書風の日本通史としても、あり得ない記述が多々あり、問題があると思います。だから、そういう意味でも「日本国紀」は、百田尚樹氏創作の日本の歴史「物語」であり、「The History of Japan 」としては、客観性に欠けていると思います。

 とはいえ、「日本国紀」には、近隣諸国との関係改善を考える上で、見逃すことのできない記述が多くあります。そのいくつか拾い出しておきたいと思います。

第九章 世界に打って出る日本」の「韓国併合」に下記のような文章があります。
日本は日露戦争後、大韓帝国を保護国(外交処理を代わりに行う国)とし、漢城に統監府を置き、初代総督に伊藤博文が就いた。この時日本が大韓帝国を保護国とするにあたって、世界の了承を取り付けている。

 韓国に根強い抵抗があったこと、また、アメリカが韓国における日本の支配権を承認し、日本がアメリカのフィリピン支配権を承認するというようなかたちの取り引きがなされた結果、韓国が日本の保護国になったといえることなどに触れず、「世界の了承を取り付けている」と表現するはいかがなものかと思います。韓国における根強い抵抗の実態など、当事国に関する記述がほとんどないのも気になります。日本による韓国保護国化の一面だけを通史風に記述すれば、認識を誤ることになると思います。
 また、続いて下記のような文章があります。

日本は大韓帝国を近代化によって独り立ちさせようとし、そうなった暁には保護を解くつもりでいた。日本国内の一部には韓国を併合しようという意見もあったが、併合反対の意見が多数を占めていた。これには「朝鮮人を日本人にするのは日本人の劣化につながる」という差別的な意識もあったが、一番の理由は「併合することによって必要になる莫大な費用が工面できない」ということだった。日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行うつもりはなく、朝鮮半島は東南アジアのように資源が豊富ではなかっただけに、併合によるメリットがなかったのだ。統監の伊藤博文自身が併合には反対の立場を取っていた。

日本国紀」には、”保護を解くつもりでいた”とか、”欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行うつもりはなく”とかいような表現がたびたび出て来ますが、直接関わっていない人間が、そうした表現をすることは、歴史書としては適切ではないと思います。歴史書であれば、議論のあるこうした問題に関しては、会議録や関係者の証言、あるいは、その他の文献史料に語らせる必要があるのではないかと思うのです。また、日本通史だからそうした表現をするというのであれば、多くの人の認識をより確かなものにするために、丁寧に、その根拠を註などで明らかにする必要があると思います。
 続いて、下記のような文章もあります。

繰り返すが、韓国併合は武力を用いて行われたものでもなければ、大韓帝国政府の意向を無視して強引に行われたものでもない。あくまで両政府の合意のもとでなされ、当時の国際社会が歓迎したことだったのである。もちろん、朝鮮人の中には併合に反対する者もいたが、そのことをもって併合が非合法だなどとはいえない。”

 この文章は、日本による韓国併合を正当化する目的を以て書かれており、韓国併合がどのような過程で進んでいったのかを明らかにしていないことから、やはり日本通史や一般歴史書の文章といえるようなものではないと、私は思います。韓国併合条約に至るまでに、日朝間には江華島事件や済物浦条約、甲申政変、朝鮮王宮(景福宮)占領事件、閔妃事件(明成皇后殺害事件)、日韓議定書、第1次日韓協約、第2次日韓協約、ハーグ密使事件、第3次日韓協約締結など、重大な事件や国家間の取り決めがくり返されたこと、そして、反対する人たちを処罰し、処刑し、圧力を加えながら、外交権、司法権をはじめ、様々な権限を日本に集中させて、抵抗できない状況にしていたことを抜きに、”韓国併合は武力を用いて行われたものでもなければ、大韓帝国政府の意向を無視して強引に行われたものでもない”などと言うことは、併合を総合的にとらえておらず、日本の歴史認識を誤らせると思います。
 
 日本による朝鮮植民地化の実態は、カイロ宣言の言葉にもあらわれているのではないでしょうか。カイロ宣言には、下記のようにあります。

右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈(ヤガ)テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
 
 百田尚樹氏は、日本が”収奪型の植民地政策”を行うつもりのなかったと書いていますが、カイロ宣言には、日本の中韓に対する行為について、”奪取とか盗取(原文:seized or occupied)”また、”暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル(原文:stolen by violence and greed)”とか”朝鮮ノ人民ノ奴隷状態(原文:the enslavement of the people of Korea)”とかいう言葉が使われているのです。なぜ、そういう言葉が使われることになったのかということも考えた上で、併合をとらえる必要があるのではないかと思います。

第十章 大正から昭和へ」の「関東大震災」にも見逃すことのできない、下記のような記述があります。

なお、この震災直後、流言飛語やデマが原因で日本人自警団が多数の朝鮮人を虐殺したといわれているが、この話には虚偽が含まれている。一部の朝鮮人が殺人・暴行・放火・略奪を行ったことは事実である(警察記録もあり、新聞記事になった事件も非常に多い。ただし記事の中にはデマもあった)。中には震災に乗じたテロリストグループによる犯行もあった。

 こうした記述も問題があると思います。警察記録や新聞記事がどのようなものか、また、どのような虚偽が含まれているのか、具体的に明らかにして書くべきだと思います。議論のある問題について、読む人が検証することのできない記述は、歴史書の記述とは言えないのではないかと思います。
 また、多数の朝鮮人が虐殺されることになった要因として、東京に戒厳令が公布されたり、当時の内務省警保局長が、各地方長官に宛てて、下記のような電文を送ったことが大きいのではないかと思います(「船橋送信。所関係文書」)。そうしたことにも言及しなければ、朝鮮人虐殺に関する正しい理解は難しいと思います。また、埼玉県の町村長宛て通達も、朝鮮人虐殺の実態をつかむために見逃すことができないものだと思いますが、「日本国紀」にはそうした文書史料に関する記述がなく、歴史書としては、問題があると思います。 

朕大正12年勅令第398号の施行に関する任を裁可し、茲に之を公布せしむ。
  御名御璽
  摂  政  名
   大正12年9月2日 
                             内閣総理大臣伯爵  内田 康哉
                             陸 軍 大 臣     山梨 半造 
 勅令第399号
 大正12年勅令第399号に依り、左の区域に戒厳令第9条及第14条の規定を適用す、但し同条中司令官の職務は東京衛戍司令官之を行ふ。
 東京市、荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡、
    附則
 本令は、公布の日より之を施行す。〔震災関係法全集〕 
ーーーーーーー
   各 地 方 長 官 宛                         内務省警保局長    
 東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ、鮮人の行動に対しは厳密なる取締を加へられたし。 
ーーーーーーー
  埼玉県通達文
 東京に於ける震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又其間過激思想を有する徒之に和し以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を揮はんとする虞有之候就ては此際警察力微弱であるから町村当局者は在郷軍人会、消防手、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ一朝有事の場合には速やかに適当の方策を講ずるやう至急相当手配相成度き旨其筋の来牒により此段移牒に及び候也。
ーーーーーーー
 公的機関が虐殺を煽った側面があることを踏まえて、当時の関係者の証言や報道記事、目撃者の証言等を合わせ総合的に考察した記述がなされなければならないと思います。現在も議論の続いている問題を、客観的根拠を示さず、検証もできない文章で記述することは、問題があると思うのです。また、関東大震災当事の「テロリストグループ」という言葉も説明が必要だと思います。


 

 

 

 

 

 

 

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