真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ドイツの「戦後補償」 NO2

2014年03月22日 | 国際・政治
 2014年3月19日、朝日新聞朝刊は「中国、戦後補償で転換」との見出しで、中国の裁判所が強制連行の提訴を受理したことを報じた。戦時中に、中国から日本に強制連行されたとする中国人元労働者らの損害賠償を求める訴えの受理は、はじめてのことであり事実上の方針転換であるとのことである。今回訴えを起こしたのは元労働者と遺族の40人であるが、被告の三菱マテリアルと日本コークス工業(旧三井鉱山)で働いた労働者は9400人余りに上る。そして、強制連行の被害者は中国全土で約3万9000人に達し、日本企業35社が関与しているという。

 日本政府は、1972年の日中共同声明で、戦時中の日本の行為に対する賠償請求権は個人も含め「放棄された」との立場であり、最高裁も強制連行の事実を認めつつ「中国は個人の請求権も放棄した」との判断を示しているわけであるが、戦後68年が経過している現在、再びこうした問題が浮上してきた背景には、安倍首相の「侵略の定義は定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかで違う」と言うような発言をはじめ、「南京大虐殺はなかった」というような日本国内の議論や報道の過熱、首相や閣僚等の靖国神社参拝、日中で合意がったと言われる尖閣問題「論争棚上げ」方針を無視しての尖閣諸島国有化などがあるのであろうが、何より日本の戦争賠償が、戦争被害者個人に対する「戦後補償」につながるようなものではなかったからではないかと思う。

 戦争被害者個人に対する「戦後補償」は、日本国内でも繰り返し争われてきた。そこに日本とドイツの戦後補償の違いがある。日本の最高裁判所は、名古屋空襲訴訟の判決で「戦争犠牲、戦争損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民のひとしく受忍しなければならなかったところであって、これに対する補償は憲法の全く予想しないところ」という判断を下し、民間人戦争被害者は戦後補償の対象とはしないことを合法とした。ところが、軍人・軍属は、戦傷病者戦没者遺族等援護法で補償され、その遺族も「受忍」を免れたのである。 また、この援護法による補償は、その国籍条項で、旧植民地出身の軍人・軍属は排除しているが、ドイツでは、軍人も民間人も等しく補償される上に、国籍による排除もない。ドイツの兵役に服した該当者に対しては、国籍の有無にかかわらず、また、国外にいる外国人に対してさえも、居住する政府を通して補償されているという。ドイツの賠償や「戦後補償」にも、まだ、様々な問題が残されているようであるが、学ぶべきではないかと思う。

 日本と同じように、戦時中、ユダヤ人や政治的迫害者を強制労働をさせたドイツのダイムラー・ベンツ社やフォルクスワーゲン社は、補償金を出すとともに、強制労働させられた人々を忘れることがないようにと、記念碑や彫刻物を設置し、加害の事実を継承しようとしているという。日本には、戦争の加害責任を継承する記念館や設置物がほとんどないのではないか、と考えさせられる。

 第2次世界大戦直後は、国家主権の原則に基づき、賠償は国家間の問題であって、個人は自国の裁判所に外国政府を訴え、裁判で争うことはできないとされていたが、最近は海外でも、人権侵害被害者が訴えを起こすケースが出てきているようである。やはり、国境を超えて、戦争被害者個人が、公平に「戦後補償」を受けられるようにするべきではないかと思う。下記は、ドイツの「戦後補償」の後半であり、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)からの抜粋である。
---------------------------------
              第3章  外国の戦後処理

4 外国人被害者に対する補償

 ナチスによって被害を受けた外国人は上記のユダヤ人ばかりではない。
 ドイツの補償法は、その請求権者について属地主義をとっている。連邦補償法で定めている1952年12月31日にこの法律の有効区域に住所を持っていないためにこの法による補償を受けられない者がある。その補いとしてドイツ政府はそれらの者が現に滞在しているルクセンブルク、ノルウェー、デンマークなど12の国と1959年から1964年の間に各々条約を結び、総額8億7600万マルクの一括戦後補償協定をした。これを受領した各国政府が国内措置としてそれら被害人個人に支給している。フランス関係では、連邦補償法から洩れた者に対する政府との間の包括処理と適用被害者に対する個別支払いとが併用されている。

5 強制労働従事者に対する補償 

 ナチスは戦時中の労働力不足を補うために、ドイツ軍の占領地域から多数の住民・捕虜を強制連行して、国内企業の事業場で就労させた。その数は1944年の秋には26カ国790万人に及んだといわれる。その中でポーランド、ソ連からのものが過半数を占めていた。これらの連行、強制労働は、ハーグ陸戦法規、ジュネーブ条約に違反するものであった


 占領地等から強制連行され、ドイツの企業で強制労働させられた外国人労働者に対するドイツ政府の補償は、これまでなされてきていなかった。ドイツ統一後、この補償問題をめぐる交渉がはじまり、1992年3月ポーランドとの間にその被害者救済の「和解基金」が設置され、ドイツ政府から5億マルクが拠出された。チェコスロバキアでも強制労働被害者の組織がつくられた。ロシア、ベラルーシ、ウクライナ政府とドイツ政府の間にソ連侵攻により残された残虐行為被害者・遺族に対しての10億マルクの補償協定が最近締結されたことが報道されている。

 これら強制労働に従事させられた者から強制労働させた企業に対して裁判が起きたのを契機に、私企業と被害者団体の間の協定が成立し、支払いがなされている。ベンツなど7社から88年までに7000マルクが「ユダヤ人会議」などに支払われている。フォルクスワーゲン社も1200万マルクを関係国の青少年交流基金に支出している。しかし、これら各社は、その拠出は法的責任に基づくものではないとしている。


6 ナチス被害者に対する補償の補完

 ナチス時代の1933年7月の立法である「遺伝病的子孫忌避のための法律」によって、身体・精神障害者等に強制的に断種手術をされた。これらの人々は、社会的に不要であり、国家にいたずらに負担をかけるもので生存の価値がないとされた。39年以降人体実験の対象にされ、「安楽死」させられるにいたった。

 定住地を持たないロマ(ジプシー)の中で、強制収容所に収容された者がいたが、その収容のための理由とされたものが、反社会的行為、スパイ行為となっていたため、この強制収容に対する補償がなされなかった。このようになってきた客観的事由は、これらの人々の生活態様が、補償実現のための要求運動の結集を困難にしてきたことにあった。しかし、この問題についても見直しが行われている。


7 ドイツの補償支払額

 1993年1月1日現在の既支払総額は、次のとおりである。
連邦補償法(BEG)     …………… 7,104,900万マルク
連邦返済法(BRuG)    ……………   393,300万マルク
イスラエル条約       ……………  345,000万マルク
12ヶ国との包括協定    ……………  140,000万マルク
その他の給付        ……………  780,000万マルク
州法の規定による給付  ……………  221,700万マルク
苛酷緩和最終規定     ……………   64,400万マルク
                     計   9,049,300万マルク

 同日ドイツ連邦政府財務省が今後続けられるであろう支払いによる見積補償支払い総額は次のとおりである。

連邦補償法(BEG)      …………… 9,500,000万マルク
連邦返済法(BRuG)     ……………   400,000万マルク
イスラエル条約        ……………  345,000万マルク
12ヶ国との包括協定     ……………  250,000万マルク
その他の給付         …………… 1,200,000万マルク
州法の規定による給付   ……………  350,000万マルク
苛酷緩和最終規定      ……………  181,500万マルク
                      計   12,226,500万マルク

※参考 「過ぎ去らぬ過去との取り組み 日本とドイツ」佐藤健生 ノベルト・フライ編(岩波書店)には、

 連邦補償法および連邦返還法による支給の17%は国内に、40%はイスラエル、残り43%は国外に連邦補償法に基づく年金の支給は、15%が国内に、85%が国外に

とある。

     
 ドイツにおいては、本来の戦争被害者補償措置とは別に、重度身体障害法、社会扶養法等の社会保障制度がある。これらは戦争によって困難な状態に陥った者にも適用があるから、重合的に、あるいは補充的に戦争被害の救済に役立っているので、広義の戦争被害対策措置といってよい。

 また公務員関係の年金法では公務員、軍人等の戦争中のナチス政権時代の勤務期間も通算して支給がなされている。日本の恩給法が戦没者戦傷病者遺族援護法と連結されて戦争被害補償法の一種と考えられているのに対し、ドイツでは年金法は公務員法として、戦争被害補償法とは法的性格を異にするものとして截然と区別されている。したがって、もしドイツにおいても年金法による支給額を、日本で論じられているように、戦争被害補償額に算入するとすれば、今日議論されている日本・ドイツ両国の間の戦争被害についての支払の格差はさらに拡がることになる。
 


8 当面の課題

 ドイツにおける戦後措置は、西ドイツ政府によって戦後間もなくから開始され、約20年前にその体系的整備が一応終わり、実施されてきている。1990年のドイツ民主共和国(東ドイツ)の解体、ドイツの統合にともない、両地域で異なった体系でなされてきた施策間の調整、未実施部分の施行などの問題が浮かび上がってきている。
 また、これまでその処理が延ばされてきている旧東ドイツ地域でおきた被害に対する補償、ドイツ企業で強制労働させられた周辺諸国民から補償要求、東欧諸国との補償問題などが残されている。これらについてはドイツ連邦会議内に補償小委員会が設置され、これに当たっている。なお、ドイツ国と旧連合国間の賠償問題も最終的決着には至っていないのである。




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ドイツの「戦後補償」 NO1

2014年03月20日 | 国際・政治
 第2大戦後、ドイツは日本同様敗戦国としてスタートした。しかしながら、戦後の歩みにはかなりの違いがある。特に近隣諸国との関係で、「過去」をめぐって今なお深刻な対立を抱えている日本と違って、ドイツは今や欧州連合(EU) の中核国である。それは、連合国(戦勝国)の戦後処理の違いによる面も大きいのであろうが、両国の過去との向き合い方の違いによる面を見逃してはならないと思う。その一つが「戦後補償」の問題である。

 日本の7倍を上回るというドイツの「戦後補償」は複雑でわかりにくいが、それは、複雑に絡み合った様々な被害や損害に対して法的措置を講じ、もれなく対応しようとしたからでもあると思う。

 それに比して日本は、アメリカが主導したサンフランシスコ講和条約によって、「…日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分ではないことが承認される」と規定されたのみならず、再軍備と安保条約によるアメリカ軍に対する軍事基地提供と引き換えに、戦争賠償の大幅な軽減を得た。米ソ冷戦の激化や朝鮮戦争に対応するためであろうが、日本に再軍備を求めたJ.F.ダレスは、「日本は戦争賠償をしなければならないから再軍備する金がない」と答えた吉田首相に対し「戦争賠償はしなくてもいいから再軍備せよ」と言ったという(古関彰一獨協大学教授の研究による)。 そして、日本を極東戦略の要と位置付けたアメリは、アジア諸国との個別交渉を引き延ばし、戦争賠償を値切る日本を後押しするかたちで、その賠償要求を抑さえたのである。

 さらに、戦後の中国では国共内戦が続き、朝鮮半島では朝鮮戦争があった。また、その他のアジアの国々も、条約締結当時、自国の民間人戦争被害者の実態などを正確に把握できる状況にはなかった、ということもある。そんな中で日本は、その賠償を東南アジアに対する経済的再進出の足がかりを得るような賠償支払いや有償・無償の経済協力のかたちで進めたため、アジアの国々では、先の大戦による戦争被害者個人に対する補償は、ほとんどなされていないといっても過言ではないという。にもかかわらず、日本は、今なお戦争被害者個人の補償要求を拒否し続けている。法的にはそれで通るということなのであろうが、理解が得られるとは思えない。なぜなら、ドイツと違って、日本の賠償が、ほんとうの意味の戦争被害に対する賠償や補償になっておらず、また、その謝罪が不十分であり、歴史認識や歴史教育の面でも、たびたび批判や非難を受ける状況が続いているからである。 
 
 日本国内でも、様々な戦争被害者の補償要求があるが、戦傷病者戦没者援護法は軍人・軍属のみが対象で、民間の戦争被害者はその対象ではない。唯一例外的な補償は、原爆被害者に対するものであろうか。 

 ここでは、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、ドイツの戦後補償に関する部分を前半・後半の2回にわけて抜粋することにした。下記は、その前半である。
---------------------------------
               第3章 外国の戦後処理
第1 ドイツ

1 補償の理念

 ナチス政権のとった戦争政策と侵略の結果は、ドイツ国の内外に物心両面にわたる莫大な損害として残された。敗戦の惨禍からドイツを再建するためには「過去の克服」が必要であった。それはナチスの犯罪政治を、国民がその出現を許し、それに従ってきた歴史を心に刻みつけるとともに、戦争被害者に国の責任として償い、国民の間に戦争被害の衡平化をはかる必要があった。内外の被害者に対して真摯な謝罪の意を表明し、その具体化として被害について可能な限りの補償をすることであった。戦後のドイツの再建には、これらのことを実行することが何よりも必要であったし、そのような誠意の披瀝によってのみ近隣諸国のドイツ国およびその国民に対する信頼が回復されたのであった。
 ドイツの戦後補償のための法制化は、1949年にはじまり58年までの間に集中的に行われた。その後も補充的措置が引き続いて行われている。


2 補償の体系

 ドイツにおける戦争被害に対する国家補償は、人的損害と物的損害に及び、補償の受領者としては外国人にたいして行われるものもある。その補償の体系は次のように構成されている。

(1) 国の戦争行為によってひきおこされた結果責任補償理念に基づき、国民間
   の被害負担の衡平化をはかる。
① 人的損害に対する措置として戦争犠牲者援護法(BVG,1950)がある。
② 物的損害に対しては負担調整法(LAG,1952)、その前段階として、即時援護法
   (SHG,1949)がある。
   これらの法とその施行法令は戦争被害補償の一般法的地位にあり、その戦
   後処理の中心になっている。
③ 難民及び引揚者に関する法律(難民法 BVFG,1952)
  第2次大戦の結果、ドイツの東部領土の一部が、ソ連邦またはポーランド領と
  なったこと及び東西ドイツに分かれたことにより、そこから西ドイツに避難してき
  た人々の損害にたいする援護法である。 
④ 帰還者法(HKG,1950)捕虜補償法(KgfEG,1954)  
  前者は軍隊等に所属していたため捕虜になった者が帰還した場合の援護法で
  あり、後者はその補充をなすものであって、1947年1月1日以降外国の抑留か
  ら解放され、西ドイツに居住した者に対する援護法である。  
⑤ 賠償補償法(RepG)
  ドイツは敗戦直後、ここで述べる個人補償のほかに、工場施設の接収や海外
  資産の没収などのかたちで連合国側に約2,000億マルクと計算された国家間賠
  償を行っている。
   この補償は連合国により現物賠償として接収された物、接収後返還されたが
  現状回復不能の物、破壊されてしまった物の権利保有者への補償である。
   この法律は、国の利益のために個人の財産を失わせる結果となったことに対
  する補償であるから、公共収用補償の意味をあわせもっている。

(2) ナチス権力の不法行為についての国家賠償
 これは、ナチス政府とそれに従う徒が、世界観、宗教、政治的立場、人種を理由として人びとに加えた生命、身体、健康、自由、所有権、財産への侵害行為から生じた損害および職業的または経済的生活におよんだ不利益に対する国家賠償責任に基づく補償である。
① 連邦補償法(BEG,1956)
   ナチスの迫害による犠牲者のための補充法(BEngG)を先行法として、この法
  の制定により請求権者の範囲、損害の要件および給付内容が拡大された。連
  邦補償法終結法(1965)により請求権者の範囲は一層拡大されるとともにこの
  法による補償の終結がはかられた。 
   人的損害を主な対象とするが、連邦返済法によって補償を受けられない物的
  損害に及ぶ。
② 連邦返済法(BRuG,1957)
   不法に奪われた所有物の現物返還、それが不能の場合あるいは物ではない
  資産についての損害について一時金、年金の支払、低金利貸付などが行われ
  た。
   この法律によって返還・補償を受けた総額は3兆135億マルクにのぼり、その
  4分の3は不動産であるという。
③ ユダヤ人賠償条約(ルクセンブルク協定,1952)
   この条約は、連邦補償法の適用から洩れたナチス被害者に対する補償とし
  て1952年に調印された。その理由は「ドイツ民族の名で名状すべからざる犯罪
  が行われた。これから道徳的かつ物質的な償いの義務が生じた」(アデナウア
  ー首相,1951年9月27日の国会演説)とされている。
④ 一般戦後処理法(AKG,1957)
   ナチス犠牲者以外に国家的不法行為によって、生命、身体、健康、自由の侵
  害をうけた被害者に対する補償である。

3 主要な補償法の内容と問題点
 上記補償法の内容の概要とそれに関係する措置について、日本の対応被害と
関連してのべる。

(1) 戦争犠牲者援護法
 軍事上もしくはこれに準ずる任務にともなう事故及びそれと特有な関係による健康障害を受けた者に対して支給がなされる。そのなかには捕虜、抑留等による健康障害者も含まれている。空襲によって生じた市民の被害についても均しく適用されるが、戦時中のドイツでは市民にも防空義務が課されていたために、この法によって援護を受ける市民の範囲は広い。
 支給の内容は、治療、看護、戦争犠牲者への扶助、障害者への年金支給、死亡の場合の埋葬手当、遺族への年金支給である。
 この法律による既支出額(1988年)は829億マルクであり、現在も年間16億マルクが支出されている。
 日本の戦没者戦傷病者遺族援護法と異なり、市民であろうと軍人軍属であろうと等しく適用を受ける。このドイツ法では、市民に適用された場合、軍事上もしくはこれに準ずる任務に関してという条件があるが、これは専ら被害当時の行動の態様についての客観的事実が基準であって、雇用その他の身分関係は必要条件ではない。
 日本の援護法では国籍条項があって、被害当時日本国籍を有していてもその後外国籍に移った旧植民地出身者は、この法律による援護を受けられない。これに対して、ドイツでは国の外にいるドイツ人(ドイツの国籍を有しない)、ドイツ国内に住む外国人の該当者にも適用がある。なおドイツの国外にいる外国人でドイツ兵役に服していた該当者に対しては、その国の政府と条約の締結によって外国政府に支払いがなされ、それから本人に年金等が支給される。これらの者がドイツ国内に移住すれば直接適用者となる。在韓被爆者、その他の韓国、朝鮮国民、台湾出身者の戦後処理について考えるべきところである。

(2) 負担調整法

 戦闘による破壊(都市爆撃による被害を含む)、旧ドイツ領からの追放、引揚げ等によって財産を失った者に対する対物補償である。
 その支出総額は1987年末で1,165億マルクにのぼる。この適用者の中で旧ドイツ領内から西ドイツに移った者は約、1,000万人に達すると言われ、それらの者に対する給付額はその支出総額の3分の2を占める。これらの者に対しては、難民法、引揚者援護法によって居住地、職業、資金の借入、税法上の取扱い等についての援助がなされている。
 その負担調整法の財源は戦中、戦後に財産を失わなかった自然人、法人が1948年時点で保有していた全財産保有額の2分の1に当たる額を財産税として30年賦で連邦政府におさめ、連邦予算からの支出額とあわせて被害者に支給するものである。この納付金は基金として蓄積されていたが、79年をもってこの基金はなくなり、現在は連邦予算によって支給がなされている。

 なお、この法律は現在も作用していて、東ヨーロッパの各地域からドイツに移ってきたドイツ人にも適用されていた。ただし、移住にあたり前住地で財産を処分してきた者には財産的損失をともなわない場合が多い。その場合は支給はされないことになる。
 東ドイツ地域内でおきた当該損害については、この法律の適用はなかったのであるが、ドイツの統一後、これに対してどのような処置がとられるのか注目されるところである。


 (3) 賠償補償法

 ドイツ政府は外国に対して今次の戦争に関する請求権を放棄した。そのような請求権の中には国民の受けた私的損害から生ずるものがあった。その被害国民は外国政府からドイツ国に対する賠償を通して補償を受ける可能性があったが、ドイツ政府の請求権放棄によりそれが失われた。ドイツ連邦政府は、それら国民の外国による被害に対する補償が請求権放棄により実現しなくなったことの代償としてこの法律を制定、適用して補償を行った。公共収用補償にあたる。

 その補償内容は負担調整法による場合と同額である。ただし、これらの場合、被害評価は市場価格より低いといわれている。両法は法的性格の相違はあるが、国民の間の戦争被害の負担を均しくするための措置であることでは相違がない


(4) 連邦補償法

 ナチス等による被害者に対する補償立法である。直接的身体的な害悪を受けた者ばかりでなく、強制収容所に入れられた者、医学的実験被害者も含まれる。
 適用対象者は1947年1月1日まで西ドイツ地域に居住していた者、1937年当時のドイツ領内の居住者である。したがって1935年のニュルンベルク人種法発効前にドイツを去ったユダヤ人等は除外される。この法律によって支払われた額は、一時金、年金で1991年1月までに約864億マルクである。現在の年金受領者は約15万人、月額総計約1億2,000万マルクである。

 この法律の適用については問題が多いとされている。例えば、被害者の社会的地位によって補償額が違うために、支給をうける者の間のアンバランスが指摘されている。また、死因と受傷との因果関係が証明される場合以外の死亡者の遺族に対して、支払いがなされないことも問題とされている。


 この法律の関連法として
① 「公務従事者のためのナチスの不法行為に対する補償規制法」(BWGOD,1951)
 ナチス体制下で公務から遠ざけられ、諸権利を失った公務従事者のための法である。再採用の請求、停滞させられた昇進の回復等であるが、早く退職させられた公務員とその扶養家族の救済のためにも適用がある。再雇用に適さなくなった状態にある者に対しては、在職時同じような条件にあった退職者に支給される年金と同額の給付がなされる。

② 「社会保険に関するナチスの不法行為に対する補償についての諸規則の改正・補正のための法律」(1970)
 この種の補正は1949年に始まる。ナチス関係諸機関による逮捕、失業、余儀なくされた外国滞在のための期間の欠落等のため、社会保険給付で損害を受けた分についての補償措置である。事故保険、年金保険等について迫害を理由に支払いを停止された者に、後から支払われるべきこととなった。
 日本の治安維持被害者は弾圧に基づく失職などにより在職期間通算上の不利によって恩給等の支給を受けられない状態にあり、それが戦後措置として回復されず、現在に及んでいるのと対象的である。
 この補償法は、西ドイツの自由、民主的基本秩序に敵対する者には適用しないとの条文の存在と、1956年8月の憲法裁判所の共産党(KPD)禁止判決により、ナチスに抵抗した被害者でありながら、その適用をはばまれている者があることが問題となっている。
 連邦政府の補償とは別に11の州政府が独自にこの種の補償をしており、上の除外者でこれにより補償を受けている者もある。



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三・一運動と高宗前皇帝の急逝(毒殺?)

2014年03月06日 | 国際・政治
 三・一運動とは、日本統治時代の朝鮮で、1919年3月1日に始まった運動であり、独立万歳運動や三・一独立運動などと呼ばれることもある。また、万歳事件、三・一事件などと呼ばれることもあるという。数ヶ月に渡って朝鮮半島全土で展開されたが、朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たったという運動である。

 そして、その三・一運動が、民族挙げての運動になったのは、高宗前皇帝(太皇帝・光武帝)の急逝という事件が導火線になったという。ながらく抑圧されてきた民族の力が公憤として爆発したのは、当時のアメリカ大統領ウィルソンが主張した民族自決主義の考え方に感化されたからではなく、また、難解な漢文で書かれた独立宣言文に共感したからでもなく、殉死を覚悟して韓国の主権守護にあらゆる手を尽くしていた高宗前皇帝が疑問死をとげたからであるという。もちろん、ウィルソンの民族自決主義の主張や独立宣言文も様々なかたちで影響を与えたであろうことは否定できない。しかし、大衆動員の起爆剤となったのは、あくまでも条約批准の拒否や国書の下達、ハーグ特使派遣など主権守護に手を尽くしていた高宗前皇帝の疑問死である、というのである。日本の支配に不満を募らせていた朝鮮民族が、高宗前皇帝の急逝を、日本人による毒殺と見なして不満を爆発させ、起ち上がったということである。
 当時、第2次日韓協約(乙巳条約)が不法に強制されたものであること、また、皇帝が主権守護の意思を持ち、ねばり強い外交交渉を続けて抵抗していることなどについて、韓国国民は新聞報道などでよく知っていたという。したがって、毒殺が疑われる高宗前皇帝の急逝を知らされたとき、君主の仇をうたなければならないと立ち上がった、というわけである。
 
 それは、三月一日の早朝、東大門と南大門などの主要地域に張り出された下記のような壁新聞にはっきりとあらわれているという。

 ああ、わが同胞よ! 君主の仇をうち、国権を回復する機会が到来した。
こぞって呼応して、大事をともにすることを要請する
   隆煕13年正月
                                   国民大会


 また、ソウル以外の地方大都市での集会は、大部分「奉悼会」を開催するとの名文で、大衆が動員されたという。

 米高官に「日韓関係改善は米国外交の優先課題」と言わしめるほどに、現在の日韓関係は冷え込んでいるようであるが、歴史認識の問題として、日本人はこうした事実にも、目を向けなければならないと思う。総督府の日本人関係者が、高宗皇帝の妃である明成皇后(閔妃)を殺害し、高宗皇帝を強制退位させたばかりでなく、日本の植民地支配に抵抗し続けた高宗前皇帝を毒殺したと疑われているのである。
 高宗前皇帝の急性が毒殺であると考えられた根拠は、以前にも触れたが、要約して下記の4つに整理されている。

 (1)崩御後、即時に玉体に紅斑が瞞顕し糜爛した。
 (2)侍女二人が同時に致死した。
 (3)尹徳栄、尹沢栄は当日、晨4時に諸貴族を宮廷内に請激し、日本人が弑殺
    したのではないという証書に捺印しようとする運動に尽力したが、朴泳孝、李
    戴完の両人の反駁によって証書がならなかったのはなぜか。
 (4)閔泳綺、洪肯燮が玉体を歛襲するとき糜爛が早すぎるのを不審に思い、こ     れを外に伝えたところ日本人警官がただちに右の2人を拿致、詰問して激論    した。


 当時、すでに、パリ大学の国際法学者レイ教授が、第2次日韓協約(乙巳条約・乙巳勒約)が無効であると指摘しており、国際法学界でも受け入れられていたということが「日韓協約と日韓併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)で明らかにされている。下記は、その一部抜粋であるが、だとすれば、高宗皇帝の抵抗は当然のことであり、その毒殺説についても、歴史認識の問題として、真摯に向き合わなければならと思う。
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         Ⅴ 光武帝の主権守護外交1905-1907年

2 対米交渉と米国の違約:1905年親書・電報・白紙親書


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 …乙巳勒約の強制直後、『ロンドン・タイムズ』は条約締結の事実を報道した。この記事は主に日本の資料を用いたもので、日本の公式立場を代弁していた。それにもかかわらず、大臣らが調印を頑強に拒むと伊藤が長谷川を動かして武力を行使し、介入した事実が報道された。この報道と、その後明らかにされた光武帝の勒約無効の外交交渉の事実を知るようになったパリ大学の国際法学者レイ教授は、1906年に『国際公法総合雑誌』に「韓国の国際状況」という論文を発表した。この論文で、彼は光武帝の勒約無効の外交交渉の事実と乙巳条約の不法性について、次のように指摘した。


 ところで、極東の急送公文書の結果、先月11月の条約は、日本のように文明化した国家の精神的かつ肉体的な不当な脅迫によって韓国政府に強要されたのであった。この条約の署名は、日本の全権大使である伊藤公爵と林氏を護衛する日本軍兵士たちの威圧の下で、大韓帝国皇帝と諸大臣から得られたものにすぎない。2日間の抵抗の後、閣議はあきらめて条約に署名したが、皇帝はただちに強大国へ特使、とくにワシントンには大臣を遣し、加えられた脅迫に対して猛烈に抗議をするように命じた。
 署名が行われた特殊な状況を理由に、われわれは1905年の条約が無効であることを確認することに躊躇しない。実際、私法の諸原則の適用により、公法においても、日本の全権大使による個人に加えられた脅迫は、条約を無効とする、同意不備にあたるものと認められる。


 要するに、締結過程で強迫が加えられ、また皇帝がただちに勒約無効化の外交交渉を試みたという事実を根拠に、レイは乙巳条約が無効であることを明らかにした。この論文が発表されて以来、乙巳条約は強迫によって締結されたために無効となる条約の、代表的な事例として国際法学界に知られるようになった。この論文以後、他の国際法の論著にも、この事実が紹介されている。だが、日本の国際法学者である有賀長雄だけがレイの主張を受け入れなかった。彼は日本の侵略をごまかすために、1906年に書いた『保護国論』で、レイ教授の主張と、その根拠となった『タイムズ』記事のように強迫が行使されて条約が締結されても、ほかの国家も類似の行為をしたのだから「おれだけに殺人強盗の罪を問わないでほしい」という詭弁を弄した。その後、この詭弁は国際法学者の論議で一度たりとも受け入れられなかった。後述するが、レイの法律的解釈は、その後、国際法学会で検討が重ねられ、その正当性が再確認されて今日に至っている。

 ・・・(以下略)

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