冀東防共自治政府は、当時の土肥原奉天特務機関長が、親日政治家・殷汝耕に通州で自治宣言を発表させ発足した冀東防共自治委員会が、後に改組されたものであるといわれます。その冀東防共自治政府の保安隊が一斉に蜂起し、多くの日本人を虐殺したのが「通州事件」ですが、発端は7月27日、関東軍の爆撃機が冀東保安隊幹部訓練所を爆撃し、保安隊員に死傷者を出したことであるといいます。でも、保安隊の蜂起はまた、当時全国に波及しつつあった抗日の気運を受けて、国民政府配下の冀察政務委員会委員長・宋哲元が発した7月29日午前2時の「一斉蜂起」の指示によるものであったともいえるようです。
日本の配下にあった冀東防共自治政府保安隊も、国民政府とともに抗日戦を展開している第二十九軍に連帯して戦うべく、立ち上がりつつあったところに、保安隊幹部訓練所を日本軍に爆撃されて死傷者を出したため、一気に蜂起に至ったということではないかと思います。
宋哲元率いる第二十九軍とともに、日本軍と戦おうとする姿勢は、当時の通州の中国人や冀東防共自治政府保安隊員の、日本人密輸業者や麻薬業者対する反発も背景にあって、抗日戦の広がりや激化とともに強まっていったと考えられますが、その根拠となるやり取りが「聖断の歴史学」信夫清三郎(勁草書房)に掲載されています。
「通州事件」に対する山川均の『支那軍の鬼畜性』題されたエッセイと、それを真っ向から批判した中国の作家、巴金(パキン)の公開状『山川先生に』です。このやり取りは、「通州事件」を客観的に理解する上で、とても重要なやり取りであると思います。
哲学者久野収は、山川の論文について、きびしい言論統制のもとにあった当時の状況をふまえ、「まくらとしては統制を消極的に認めたようなことをいいながら、後半において自分の前論をくつがえして、国策を批判するという、一面既成事実承認、他面既成事実批判という両面的態度」から出たものであろうと弁護しつつも、「日本の読書界をこえて、相手方の中国という側から見れば、山川さんの論文はなんとしても全然弁解の余地はないですね」と言っています。
「聖断の歴史学」の著者も、
”…通州事件における中国人の行動を「鬼畜以上」と形容したり、中国人を事件に駆り立てた「支那国民政府のそういう危険な政策」を強調したりした言葉は、すべて山川自身のものであり、そのような言葉をつかった文章を中国人がどういう感情をもって読むか、山川は考えていなかった。山川に対する巴金の批判は、山川を含めた日本の社会主義者が日本帝国主義の侵略にたいして「抗日意識」「抗日感情」にめざめつつ自由をもとめてたたかっている中国の民衆に連帯の感情をもつことができないでいることへの警告であった”
と指摘しています。社会主義者、山川均でさえ、当時そうした「連帯」の意志を表明することはもちろん、そうした感情をもつこと自体が、極めて難しい状況にあったのだろうと思いますが、久野収が言うように、山川均の『支那軍の鬼畜性』の文章は、まさに「弁解の余地のない」とらえ方をし、表現をしている文章だと思います。
特に、巴金が「公開状」の中で、通州事件でねらい打ちにされた人々に関して「まして、このたびの死者は、ふだんからその土地で権柄ずくにふるまっていた人たちでしたし、しかもその大半は、ヘロインを売ったり、モルヒネを打ったり特務工作をしたりしていた人たちなのです。」という指摘をしていることをふまえれば、もう少し、情勢を見極め、中国人に寄り添ったとらえ方ができなかったものか、と考えさせられます。
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第一章 日中戦争
9 通州事件(六)
雑誌『中央公論』とならぶ評論雑誌『改造』は、1937年9月号で『北支事変の感想』を特集し、知識人に感想をもとめて13名の寄稿を掲載し、検閲で鈴木茂三郎、水野広徳、鈴木安蔵、杉森孝次郎の四編が削除処分をうけた。山川均は、『支那軍の鬼畜性』と題して通州事件を問題とした。全文つぎのようであった。
「通州事件の惨状は、往年の尼港事件〔1918年から1922年にかけて日本がロシア革命を圧殺するために行ったシベリア出兵のなかでニコラエフスクを占領していた日本軍がソビエト・パルチザンの攻撃をうけて捕虜となり、パルチザンが日本の援軍が来襲したと知って日本軍捕虜を日本人居留民とともに殺害した事件〕以上だといわれている。つぎつぎと発表される遭難者の報告は、読む者をして思わず目を蔽わしめるものがある。新聞は<鬼畜に均しい>という言葉を用いているが、鬼畜以上という方が当たっている。同じ鬼畜でも、いま時の文化的な鬼畜なら、これほどの残忍性は現さないだろうから。
こういう鬼畜に均しい、残虐行為こそが、支那側の新聞では、支那軍の×××(三字伏字)して報道され、国民感情の昂揚に役立っているのである。
北支事変の勃発そのものがそうであるように、通州事件もまた、ひとえに国民政府が抗日教育を普及し、抗日意識を植えつけ、抗日感情を煽った結果であるといわれている。
文化人を一皮剥けば鬼畜が出る。文化人は文化した鬼畜にすぎない。支那の抗日読本にも、日本人の鼻に針金を通せと書いてあるわけではない。しかし人間の一皮下にかくれている鬼畜を排外主義と国民感情で扇動すると、鼻の穴に針金を通わさせることになる。
通州事件の残虐性と鬼畜生に戦慄する人々には、むやみに国民感情を排外主義の方向に扇動し刺戟することの危険の前に戦慄せざるをえないだろう。支那国民政府のそういう危険な政策が、通州事件の直接の原因であり、同時に北支事変の究極の原因だと認められているだろうから。」
山川のエッセイは他のエッセイと同様、8月の上旬に書いたものであろうが、それから一ヶ月半後の9月19日、中国の作家巴金(パキン)は、山川に反論する長文の公開状『山川先生に』を上海で起草した。巴金は、つぎのように書き出した。
「夜は静まりかえって、すべてのものが暗闇のなかに落ちこんでしまったかのようです。重砲の音がだしぬけに殷々とひびき始めたかと思うと、そのあとから、機関銃を立てつづけに射つ音がひとしきり続いています。わたしの部屋もかすかに振動していますが、このような時に、わたしはあなたの『北支事変の感想』を読んでいるのです。わたしがあなたの文章を読むのは、あなたが中国の友人であると考えるからではなく、あなたがかつて科学的社会主義者であったことを知っているがために、あなたの書かれるものならば、いくらかでもわたしたちに理のあることをみとめていただけるだろうと期待していたからなのです。ところが、いささかの取りつくろうところもなく、あなたのもう一つの顔をさらけ出しました。あなたがいわれるように、<一皮剥ぐ>時がくると、<文化人>もまたたちまち浪人やごろつきと変わりはてるということが本当であることを、私ははじめて知りました。そのことに対して、わたしはただ嫌悪を感じるだけです。」
巴金は、1904年に四川省成都に生まれ、本名を李芾甘(リフツカン)といったが、五四運動から思想上の影響をうけ、フランスに留学し、バクーニン(巴枯寧)とクロポトキン(克魯泡特金)から一字ずつをとって、「巴金」を筆名とし、作家として青年子女のなかに多くの読者を獲得し、1934年11月から1935年7月まで東京に滞在し、1930年代の日本をみつづけていた。山川均と会ったことはなかったようであるが、山川の著作は何冊か中国語訳となっており、巴金も読んで山川の論策を<科学的社会主義者>が書くものとして注目していたのであろう。そしていま日本の新たな侵略を山川がどう批判しているかという期待をもって読み、逆に山川の<もうひとつの顔>をみた怒りから、山川に対する公開状という形をとって日本に抗議すると同時に世界にうったえる文章を書きはじめた。
巴金は「わたしたちのがわにいる4億5千万人は、誰もがおなじように、ただひとつのつつましやかな目標を持っているにすぎません。それは、わたしたちは、わたしたちの自由をかち取り、わたしたちの生存を維持していかなければならないということです」と強調し、それが中国人の「最低限度の要求」であると指摘し、通州事件の本質をつぎのようにとらえた。
「通州事件の起こりも、そのようなところから、一つの解釈をくだすことができます。<皇軍>の威圧とあなたの国の官民の辱めのもとで2年近い屈辱の日々をすごした保安隊が、反乱の籏じるしをかかげ、もはやこれ以上はとても我慢ができないというところまで、ついに悲憤の炎を燃えあがらせたのです。人数も少なく、ろくな武器もない軍人たちが、置かれた状況の劣悪さを顧みるいとまもなく、血と肉とをもってみずからの自由と生存とをかち取るために立ち上がったのです。混戦のさなかには、一人一人の生命が傷つき失われることはすべて一瞬の出来事です。細かいことにまで気を遣ってはいられなくなって、復仇の思いがかれらの心を捉えてしまったのでしょう。血がかれらの眼をふさいでしまうこともありうることです。抑圧されていた民衆が立ち上がって征服者に抵抗する時には、少数の罪もない者たちが巻き添えをくって災難に遇うということも、また避けがたいことです。まして、このたびの死者は、ふだんからその土地で権柄ずくにふるまっていた人たちでしたし、しかもその大半は、ヘロインを売ったり、モルヒネを打ったり特務工作をしたりしていた人たちなのです。」
巴金は、フランス革命における「九月の虐殺」を想起した。1792年9月、内外からの反革命の切迫で危機を感じたコミューヌの闘士たちは、1100名以上の反革命容疑者を殺害した。革命史家アルベール・ソブールは、「庶民の一女生」が「恐怖で慄えながらも、人びとはそれらを正しい行為だとみなしていた。」と語ったことを記録した。
巴金は、危機に際しての「虐殺」については「どう考えても<残虐性>を持ち出す必要はないわけです」と強調し、山川にたいして「あなたは社会主義者でありながら、あなたの国の新聞記者の尻馬に乗って、悪罵と中傷の言葉をもって、人々の偏狭な愛国心にうったえているのです」と指摘し、さらに論難をつづけた。
「通州事件を生み出した直接の原因は、それこそ、あなたの国の軍閥の暴行なのであって、抗日運動もまた、あなたの国の政府が長年のあいだつづけて来た中国の土地に対する侵略行為によってうながされたものなのです。あなたがたの<皇軍>こそが、みずから抗日教育を普及し、抗日意識を植えつけ、抗日感情を扇動したのです。あなたがたこそが、飛行機を使い、大砲を使い、刀を使って、中国の民衆を教育し、かれらに<抗日>が生存するための第一の手順であることをはっきりさせたのであって、決して中国人が生まれながらにして抗日の感情を持っているわけではありません。」
巴金は、機銃掃射で上海の非武装の住民を殺傷した「冷静な計画的殺人」が「もっともひどい鬼畜生と残虐性」を発揮したことを指摘し、「通州事件の残虐性はどう見てもこの十分の一にも及ばないのではないでしょうか」と問いつめながら、最後の結論を述べ、勝利は抗日をつらぬく中国のものであり、「日本帝国の崩壊こそ指呼のあいだにある」ことを強調して筆を擱いた。
巴金の文章は、格調の高いものであり、中国民衆の抗日の意識と感情を正確に表現し、通州事件の意味も情報に制約あるなかで正確にとらえていた。山川の論策は、日本人にとって大きな問題を残した。
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