「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)の中に、”敗者の悲劇 ─「東京裁判」と「南京大虐殺」”と題された文章があり、その文章を読んで問題に思ったことや気付いたことをまとめています。
今回は、下記の”「大虐殺報道」で得をするのは誰か”と題された文章と”「無実の烙印」が子孫に与える悪夢”と題された下記の文章(資料1)について考えたことをまとめました。
まず、歴史の問題を論ずるときに大事なのは、「事実」だと思います。「歴史学」は社会科学の一分野であり、科学的、客観的でなければならないはずです。”「大虐殺報道」で得をするのは誰か”というような発想そのものに違和感を感じました。
そして、「南京大虐殺」には多くの資料やそれを裏づける証言があるにもかかわらず、それらの検証を自らはほとんどせず、その重要部分を他の研究者に依存し、「南京大虐殺」の報道や記事はプロパガンダであると言い切る姿勢は、「歴史」を論ずる姿勢ではないと思います。
同書に「解説 ─ 時代の底流をあぶりだす」と題して”谷沢永一”という学者・評論家が、下記のような文章を寄せておられるのですが、谷沢氏の指摘は、谷沢氏とは正反対の意味で正しいと思います。
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”解説 ─ 時代の底流をあぶりだす
谷沢永一
歴史に筋金を通した現代史の名著
渡部昇一の現代史観は、みずからの二本の脚だけで立っている。浮世のいかなる勢力にも依存していない。自説を権威に仕立て上げようなどと、卑しくも目配りなどしていない。歴史記述に筋金を通すには、孤独の美徳に徹する必要がある。何かに寄りかかって凭れてはならない。孤立を恐れぬ度胸が要る。
昭和20年代以降、おびただしく書かれた日本現代史のうち、完全にニュートラルな論述がかつて一冊でもあったろうか。迂愚な私には思いだせないのである。
現代の若く新しい世代は、率直と簡略と明快を期待している。ハッキリとカナメを指示する勇気がなく、行間を読んでくれなどと逃げるヘッピリ腰には、一瞥もくれず見向きもしない。ご機嫌とりを最も軽蔑する。
・・・以下略”
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なぜなら、渡部氏は、多くの歴史家や研究者が、様々な記録や証言をもとに論じている「事実」にほとんど目を向けず、「孤立」せざるを得ないような議論を展開しておられるからです。そう言う意味では谷沢氏のいうように、渡部氏には「度胸」があり、「勇気」があるのかも知れません。でも、それでは渡部氏の「日本史から見た日本人」は「現代史の名著」とは言えないと思います。歴史に対する自らの「思い」を書いただけでは、社会科学の一分野である「歴史学」の書ではないのであり、したがって、「現代史の名著」とは言えないと思うのです。
次に、渡部氏は
”東京裁判で「南京暴虐事件」(裁判記録翻訳の用語)が持ち出された時、充分な弁護がなされなかった。派遣軍司令官松井大将さえ、まったく知らなかった「大量市民虐殺事件」なのであるが、いわゆる証人なる者が、偽証罪の虞もなく、しゃべりまくった感じである。”
と書いていますが、事実に反すると思います。「充分な弁護がなされなかった」や「偽証罪の虞もなく、しゃべりまくった感じである」などという表現も気になるところですが、特に問題は「南京大虐殺」について”派遣軍司令官松井大将さえ、まったく知らなかった「大量市民虐殺事件」なのである”という文章です。「松井大将がまったく知らなかった…」ということが事実に反することは、すでに、当時時南京にいた同盟通信・前田雄二記者の著書「戦争の流れの中に」(善本社)の文章を引いて指摘しました。
ここでは、「巣鴨の生と死 ある教誨師の記録」花山信勝(中公文庫)から、あらためて松井大将自身の言葉で、さらにそのことを確認したいと思います(資料2)。松井大将は処刑される前に、教誨師の花山信勝氏に「日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変わっておった。慰霊祭の直後、私が皆を集めて軍司令官として泣いて怒った。…」と話しているのです。これは、明らかに日本兵が国際法に反して多数の俘虜を虐殺した事実を知っていたということではないでしょうか。「南京大虐殺」というような事実がまったくなかったのに、松井大将自身が、処刑されることを受け入れ、”私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」”などと言うでしょうか。
渡部氏は、松井大将の”当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与える”という言葉をどのように受け止めるのでしょうか。
さらに言えば、渡部氏は「大量市民虐殺事件」とくり返していますが、虐殺の対象を勝手に市民に限定するような表現も問題だと思います。日本に残されている戦闘詳報や陣中日誌、陣中日記などの「南京大虐殺」を裏づける記述の多くは、戦意を喪失し武器を捨てた敗残兵や投降兵および元中国兵と判断された市民の処刑です。
また、「作文にすぎない提出資料も鵜呑みにされた」や”「南京大虐殺」の新証拠として大きく採り上げられたものは、私の知るかぎり、一つ残らず、そのインチキ性を後に証明されている。”というような指摘は、具体例を示さなければ議論になりません。こうした重要な判断の根拠を示さず、「歴史」を語ることは、社会科学の一分野としての「歴史学」に基づく歴史ではなく、「お話」であり、「創作歴史物語」とでもいうべきものではないかと思います。
日本国民が被害者である東京大空襲や広島・長崎の原爆被害と中国人が被害者である「南京大虐殺」とを比較し、新聞社が事件後40年経ってから「南京大虐殺の新しい証拠発見」というかたちで報道したことを取りあげて、「東京大空襲の被害証拠も、広島・長崎の被害の証拠も、今さら新しいものを必要としない。」などというのも、ナンセンスだと思います。「南京大虐殺」の被害者は中国人であり、 南京戦当時は、軍による言論統制や報道統制が厳しく、日本軍に不都合な事実が日本に伝えられることはほとんどありませんでした。「我ガ軍ニ不利ナル記事」の報道がが禁じられていたのです。したがって、当時の「事実」を知るためには、関係者の聞き取り調査をくり返し、それらを生かしつつ残された記録や軍の文書を見つけ出し調べる必要があるのだと思います。「南京大虐殺」についての「新しい証拠発見」ということがあっても何の不思議もないと思います。
渡部氏が言うように、”「南京大虐殺」を振りまわすと得をするのは、いろいろな外国である”という側面はあるかもしれません。しかし、だからといって、外国人の証言をすべて否定することはできないと思います。日本人の証言は正しく、”外国人の証言はすべて偽証である”というようなとらえ方では歴史を論じることはできないのではないでしょうか。
”捏造報道がいかに多いかは、まさに驚くべきものである”というのであれば、具体的に例示して捏造を報道した関係者およびそれを受け入れている歴史学者や研究者と堂々と論争すべきではないかと思います。
”南京陥落当時は、アメリカの報道関係者や外交関係者なども多く南京城内や上海にいたから、大虐殺のデマはアメリカの良質なメディアで大きな話題にすることはできなかった。しかし、数年の後、日米開戦後は、いかなる反日デマも戦時中ということで、大量に流されたのである。”という指摘も問題があると思います。
なぜなら、アメリカではパナイ号事件発生後、パナイ号生存者の目撃・証言報道を連日写真入りで展開し、パナイ号艦長ヒューズ少佐の報告書や南京アメリカ大使館二等書記官 ジョージ・アチソン・ジュニアの報告書、日本海軍機による故意爆撃説を公式見解としたアメリカ海軍当局査問委員会の報告書等を、主要紙が次々に全文掲載したとわれているからです。そして、それのみならず、あわせて日本軍による南京の残虐事件を報道したのです。だから、アメリカ全土で日本商品ボイコット運動が広がっていったといいます。パナイ号事件が発生したのは南京陥落の前日です。パナイ号事件発生以後、すなわち日米開戦前から日本軍による南京の蛮行が報道されていたことは、下記に抜粋したようなダーディン記者やアベント記者の記事で明らかだと思います(資料3・資料4-「日中戦争 南京大残虐事件資料集-第2巻英文資料集」洞富雄編)。南京特派員のダーディン記者とともに上海支局のハレット・アベンド記者も、様々なルートで収集した情報の続報を送り続けたといいます。それらを世界に知られた、「ニューヨーク・タイムズ」が掲載しているのです。
下記の文章が示すように、すでに、日本兵による「大規模な略奪・婦女の暴行・一般市民の虐殺・自宅からの追い立て・捕虜の集団処刑・成年男子の強制連行」が報道されていたことを、渡部氏はどのように受け止めるのでしょうか。
「南京陥落当時は、アメリカの報道関係者や外交関係者なども多く南京城内や上海にいたから、大虐殺のデマはアメリカの良質なメディアで大きな話題にすることはできなかった。」などという渡部氏は、こうした報道が南京陥落直後から、したがって、日米開戦はもとより、東京裁判のずっと前からなされていたことをどのように説明されるのでしょうか。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
─── なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場が逆転したのか
(1) 敗者の悲劇 ──── 「東京裁判」と「南京大虐殺」
「大虐殺報道」で得をするのは誰か
以上の諸点を考えてみただけでも、いわゆる「南京大虐殺事件」で、一般市民が何万、何十万と殺されたというのは、戦時プロパガンダですらなく、戦後プロパガンダ、もっと正確に言えば、ポスト・東京裁判プロパガンダであったことは、動かしがたい事実である。
では、なぜこのような日本人にとって最も有害な種類の反日プロパガンダが幅をきかし続けているのであろうか。それは推理小説などで犯人を見出す方法の常道とされること、すなわち、「それによって誰が得をするのか」という考え方が役に立とう。
それには、大きく分けて二つの側面がある。
第一には、国内的要因である。
東京裁判で「南京暴虐事件」(裁判記録翻訳の用語)が持ち出された時、充分な弁護がなされなかった。派遣軍司令官松井大将さえ、まったく知らなかった「大量市民虐殺事件」なのであるが、いわゆる証人なる者が、偽証罪の虞もなく、しゃべりまくった感じである。
弁護側は証人の証言の矛盾 ─ それが多い ─ を突いたり、嘘を暴露して偽証罪にもってゆくこともできなかったし、その事実の検証の機会もあたえられなかった。
しかし、当時はその裁判の根本的な欠陥も充分認識されなかったし、作文にすぎない提出資料も鵜呑みにされた。戦時中の知られざる大事件が ─ 7、8年間もも知られなかったことは、ほんとうは存在しなかったことの有力な傍証なのだが ─ 戦後新たに発見されたということで、その新知識にみんな飛びついたのである。あたかもラジオの「真相箱」の示してくれたような事実であろうと、無邪気に信じながら。
そして、この裁判資料に基づいて、あるいは他の情報を援用して仕事をする人が出てくる。東京裁判史観は、急速に占領体制の中でエスタブリッシュメント化し、それが永続化した(400ページ参照)。すると、これに阿る南京大虐殺物の著者まで現れてくる。3冊もの実見談を書いた人が、実際は南京突入に参加していなかったことなども暴かれている。
大新聞社は、事件後40年も経ってから、「南京大虐殺の新しい証拠発見」という記事を、時々、大きく報道することがあった。それは元従軍兵士の手帳だったり、写真だったりする。しかし、「新しい発見」などということ自体、もとの証拠に大新聞も自信がなかったことを、はしなくも示している。
われわれは、東京大空襲の被害証拠も、広島・長崎の被害の証拠も、今さら新しいものを必要としない。
しかも、「南京大虐殺」の新証拠として大きく採り上げられたものは、私の知るかぎり、一つ残らず、そのインチキ性を後に証明されている。そして、門外不出になって見せてもらえなくなったものもある。あまりにもひどい捏造のため、大新聞社が訴えられて非を認めたケースもある。捏造報道がいかに多いかは、まさに驚くべきものである。それが、ことごとくインチキであることを、弁解の余地なく立証されても、その取り消し記事が大きく出ることはないのだから、一般読者は、写真(すべてインチキ)まで添えた市民虐殺のイメージが残る。
ひとたび東京裁判史観が成立してからは、それを自分に有利に使える立場にある勢力は、徹底的に利用するのだ。そして、それに乗ってしまった者は、学者も庶民も、別に東京裁判史観派というほど、思想に関心はないにせよ、虚構の市民大虐殺説を維持する無理な努力をするということになる。
また、「南京大虐殺」を振りまわすと得をするのは、いろいろな外国である。
アメリカ人やオーストラリア人は、それによって、南の島での日本人大虐殺についての良心の痛みを感じる度を減じえよう。特に、アメリカ人は無差別絨毯爆撃や原爆の正当化として便利であることを発見するだろう。イギリス人も同じことである。ドイツ人ですらも、ナチスのユダヤ人殺害と匹敵するものとしたがる。ことに中国にとっては、これは「打ち出の小槌」である。南京大虐殺を振り回せばお金になるという感じであろう。要するに、これを振り回せば、心理的あるいは物質的に利益を得る国が、多くあるのだ。
「無実の烙印」が子孫に与える悪夢
これらの外国勢力と手を組めば、あるいは連動すれば、日本国内の東京は裁判史観派は有利な立場をさらに永続させることができる。
「誰が得をするか」を考えれば、犯人は分かるのだ。彼らは、日本の犠牲において不当な利益を得ているのである。
南京陥落から50年以上経つ。東京裁判の判決が出てから40年経つ。市民大虐殺という無実の罪を烙印されたのは残念だが、戦争に負けたのだから仕方がないのではないか、という戦士的感情が湧かないでもない。しかし、われわれは、それでよいとして、われわれの子孫のために、この無実の市民大虐殺説は見過ごしてはならないのではないだろうか。
というのは、日本人は大虐殺をやった有色民族ということで、アメリカ人も原爆を落とす気になったのだと思われるからである。
南京陥落当時は、アメリカの報道関係者や外交関係者なども多く南京城内や上海にいたから、大虐殺のデマはアメリカの良質なメディアで大きな話題にすることはできなかった。しかし、数年の後、日米開戦後は、いかなる反日デマも戦時中ということで、大量に流されたのである。
そうしたデマの中では、南京は東洋のアウシュビッツになった。日本は、ナチス・ドイツの同盟国だから、そう対を作ったほうが宣伝には都合がよいし、説得力もある。
「そのような大量のシナの市民を殺しているのだから、日本の市民も大量に殺してよい」という論理が、あるいは心理が、成立したものと思われる。
今の日本は、どことも戦争をする態勢にないし、その可能性も見えない。しかし、今から一世紀後になったら、どのような国際情勢になるかは何人(ナンビト)も予測できない。その時、南京大虐殺の虚構が東京大虐殺の実話の原因にならないと、誰が言えようか。私は、それを患(ウレ)えているのである。
誤解なきよう念のために言っておけば、南京占領などという事態に至ったことは、まことに残念なことである。だがそれも、窮極的には、統帥権問題を抱えた日本の憲法機構に責任があったと言わねばならない。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「巣鴨の生と死 ある教誨師の記録」花山信勝(中公文庫)
七人との面談記録
松井石根
・・・
それから、あの南京事件について、師団長級の道徳的堕落を痛烈に指摘して、つぎのような感慨をもらされた。
「南京事件ではお恥ずかしい限りです。南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分からんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変わっておった。慰霊祭の直後、私が皆を集めて軍司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にそれを落としてしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当たり前ですよ」とさえいった。従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変嬉しい。折角こうなったのだから、「このまま往生したいと思っている」
「まことに、尊いお言葉ですね…」
「家内にもこの間、こうして往生できるは、ほんとうに観音様のお慈悲だ、感謝せねばならんといっときました」
「あなたの気持ちは、インド判事の気持ちと一しょですね」
「ああ、あのインド判事の書いたものを見せてくれたが、大変よくいっておる。われわれのいわんとするところを、すっかりいっておられる。さすがにインド人だけあって、哲学的見地から見ている。あの人たちは多年…経験しているので…」
「では、また来週…。風邪などめさぬようにお気をつけ下さい」
松井さんは、ガウンを将校から着せてもらい、仏に向って礼をして、下駄をカラカラ曳きずって、いつもの通りそろそろと去られた。戸口を出られる時「御機嫌よう」と声をかけると、振り向いてあいさつされた。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『ニューヨーク・タイムズ』南京特派員 F・ティルマン・ダーディン記者特電
1937年12月18日号掲載記事
捕虜虐殺さる
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南京における日本軍の暴虐拡大し、一般市民にも死者
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アメリカ大使館襲撃さる
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蒋介石の戦術不手際と指揮官らの逃亡により首都失陥
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F・ティルマン・ダーディン
(12月17日、アメリカ軍艦オアフ号〔上海発〕、ニューヨーク・タイムズ宛特電)
南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼をうける乏しい機会を失ってしまった。
中国当局の瓦解と中国軍の解体のために、南京にいた多くの中国人は、日本軍の入城とともにうちたてられると思われた秩序と組織に、すぐにも応じる用意があった。日本軍が城内を制圧すると、これで恐ろしい爆撃が止み、中国軍から大損害をうけることもなくなったと考えて、中国住民の間に安堵の気持ちが拡がったのである。
少なくとも、戦争状態が終わるまでは、日本軍の支配は厳しいものであろうとは思われた。日本軍が占領してから3日の間に事態の見通しは一変した。大規模な略奪・婦女の暴行・一般市民の虐殺・自宅からの追い立て・捕虜の集団処刑・成年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった。
・・・(以下略)
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『ニューヨーク・タイムズ』上海支局ハレット・アベンド特電
1937年12月19日号掲載記事
日本軍南京暴行を抑制
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なおも続く残虐行為終結のため最高司令部厳重な処置をとる
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軍隊の所業を自認
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責任ある将校ら、司令官松井に事件の隠蔽はかる
ー文官指導者ら当惑
ハレット・アベンド
(12月19日月曜日、上海発 ニューヨーク・タイムズ宛特電)
日本陸軍最高司令部は、日本の南京入城を国家的不名誉に変えた略奪・婦女暴行・殺戮の混沌たる状態を早急に終結させるために、おくればせながら、厳重な懲戒処置をとりはじめた。
中支派遣軍司令官松井石根大将にたいして、無数の非武装の戦争捕虜・一般人民・婦女子を理不尽に殺害した恐ろしい不法行為の事実を知らせないように、大変な努力が払われていると聞いているが、この策略の多い老武者はすでに、下級将校数名がまったく秘密裡の陰謀に加担していることに疑念をいだいている。
パネー号(The Panay)事件だけでも、最高司令部にとって、正式な南京入城がもたらす真の歓喜のあらゆる要素を失わせるのに十分であった。中国のもと首都に到着すると同時に、南京攻略終了後にそこで発生した事件を知るや、彼らのパネー号にたいする狼狽はさらに深刻な不安と恥辱に変わった。国家としての日本や個人としての日本人は、ながいあいだ自国軍隊の武勇と武士道のほまれを非常に誇りとしてきたが、いまやその国家の誇りは、日本兵が、中国人盗賊の群れが占領都市ではたらいたよりも一層質のわるいふるまいを南京で行ったことが露見するにおよんで、地に墜ちてしまったのである。
外国人、事件を目撃する
日本の当局は、恐るべき事実を隠蔽しようとしても無駄なことを認識し、後悔している。というのも、日本兵の行為にたいする告発が、中国人の談話に根拠を置いていないからである。中国人の談話ならば偏見と病的な興奮の影響があるとして非難を受けるだろうが、その告発は、陰惨な事件の最中に南京にとどまり、いまも滞在中の責任あるアメリカ人やドイツ人が書いた、絶え間のない不法行為にかんする日記や細心の記録にもとづくものであるからだ。
すべての新聞記者がパネー号の生存者を護送する船で上海に発った後、南京の状態はあきらかに一層悪化した。記者らはこの火曜日に去り、あらゆるたぐいの残虐行為は火曜日の夜から水曜日にかけて、印刷するには不適当なほどの最高潮に達した。規律と体面を回復せんとする試みが木曜日から始まった。
日本軍は外国人が長期間、南京に行くことを望まないし、またその許可も与えないであろうが、南京滞在中の外国人は外の世界に記事を送る手段を見つけるであろう。あらゆる証拠が調査された時、南京占領となった輝かしいキャンペーンは、日本軍の記録に名誉を付加するかわりに、陰惨な残虐行為のために日本がつねに後悔してやまない歴史の一ページを添えることになると思われる。
日本政府各部局の良心的な責任ある官吏は、発生した事件を極度に見くびろうとはせず、多くの点で事態がこれまで世間が気づいている以上に悪化したことを認めて狼狽しているのである。
日本の希望への打撃(略)
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