真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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イスラエルの入植活動は国際法に違反

2024年07月31日 | 国際・政治

 下記の「新・現在アフリカ入門 人々が変える大陸」勝俣誠(岩波新書)からの抜粋文にあるように、南アフリカの白人政権によるアパルトヘイトが国連総会で、「人道に対する罪」とされたのは、1973年のことです。それから20年あまり後の1994年、南ア全人種の参加する議会選挙で、ANC(アフリカ民族会議)が大勝し、ネルソン・マンデラが大統領に就任して、やっと南アのアパルトヘイトは終わります。

 そして、現在早急に解決されるべき問題は、イスラエルによるパレスチナ人に対する「人道に対する罪」です。先日、やっと国際司法裁判所(ICJ)が、”イスラエルによるパレスチナ自治区の占領および入植活動は国際法に違反であり、可能な限り早期に明け渡すべき”、との勧告的意見を出しました。当然の勧告であり、人種差別や隔離政策をやってはいけないということは、子どもにでもわかることだと思います。

 アメリカを中心とする西側諸国は、ロシアを侵略国とし、プーチン大統領を悪魔の如き独裁者として描き出して、逮捕状を出すまでに至っていますが、パレスチナ人の土地を奪い、抵抗するパレスチナ人を数え切れないほど殺害し、「ハマス殲滅」を掲げつつ、実は「パレスチナ人殲滅」の作戦を進めるイスラエこそ侵略国であり、ナチス・ドイツとかわらない残虐な国だと思います。

 「アラブとイスラエル パレスチナ問題の構図」(講談社現代新書)で高橋和彦氏が書いてたように、”ユダヤ人をドイツ社会から排除するというナチスの発想は、ユダヤ人を集めてユダヤ人だけの国を打ち立てるというシオニズムの目標と相通ずるものがあった。シオニズムを裏返すとナチズムになる” というのは鋭いとらえ方であり、ユダヤ人である世界的科学者、アイシュタインも、イスラエル建国初期のデイル・ヤシーン村の村民皆殺しに怒り、「その組織、手法、政治哲学、社会的訴えにおいてナチスやファシスト党と酷似している」と批判したことを忘れることができません。

 でも、そうした残虐な人殺しをなくすことができないのは、自らの利益のために法を無視して行動しつつ、それを正当化したり、不都合な事実を隠蔽したり、嘘をついたり、不当な権力を行使したりする人たちがいるからであり、また、主要メディアが政治的問題に関する客観的事実を報じず、公平な報道をしないからだと思います。

 

 朝日新聞は、先日、”ハリス新風、沸き立つ民主”と題する記事を掲載しましたが、そのなかに、”ロイター通信の世論調査では、ハリス氏が支持率で、44%で、トランプ氏の42%を上回った”とありました。世論調査には、トランプ氏有利のものもあるのに、なぜ、ハリス氏有利のものだけを取り上げるのか、と思いました。
  米エマーソン大学と議会専門紙ザ・ヒルが25日公表した世論調査によると、トランプ氏とハリス氏の支持率はアリゾナ州でそれぞれ49%と44%、ジョージア州で48%と46%、ミシガン州で46%と45%、ペンシルベニア州で48%と46%と、激戦州のうち4州でトランプ氏がリード。ウィスコンシン州では両氏が47%で並んだというのです。
 さらに、ロスアンジェルス・タイムズには、下記のような記事がありました。”423日現在、登録有権者の39%がハリスに好意的な意見を持ち、55%が好ましくない意見を持っており、…”というのです。移民問題の取組みなどで、あまり人気がなかったようなのです。
”What does America think of Kamala Harris?
By Matt Stiles, Ryan Murphy and Vanessa Martínez
Last updated April 23, 2024
Note to readers
This story will no longer be updated. For the latest on the vice president, check out Covering Kamala Harris.
The Times is tracking the latest national opinion polls to help gauge how voters view Vice President Kamala Harris. A California native, Harris is the first female, Black, and South Asian American to serve as the nation’s second in command.
As of April 23, 39% of registered voters had a favorable opinion of Harris and 55% had an unfavorable opinion — a net rating of -16 percentage points, according to a Times average. This page will update as new poll”

 また、ハリス氏は今まで副大統領であった人であり、「新風」というような存在ではないような気がしますし、民主党が沸き立つような要素もあまりないように思います。

 一方、トランプ氏に関する報道はイメージダウンにつながるような内容ばかりで、なぜ根強い支持があるのかというようなことに関する、突っ込んだ記事はほとんど目にしませんでした。トランプ氏は、前回の米大統領選における敗北を受け入れず、選挙結果を覆そうと画策して、支持者に呼びかけ議会襲撃事件を起した犯人であり、不倫の口止め料問題や事業記録の改ざん問題などをかかえる犯罪者であるとして、くり返し民主主義の敵であるかのように報じてきたと思います。大統領選前の報道としては、不公平だと思います。
 トランプ氏の言動には、確かにいろいろな問題があるように思いますが、バイデン大統領やハリス氏に拮抗する支持がある大統領候補であることを忘れてはならないと思います。

  過去をふり返ると、アメリカ国内のみならず、国際社会でも、さまざまな嘘やプロパガンダが、決定的な事件や戦争に結びついてきたと思います。
現在、世界中で、パレスチナ自治区ガザに対するイスラエルの攻撃に批判の声が高まっています。だから、アメリカは懸命に対応しているように思います。
 例えば、ブリンケン米国務長官が、国際社会でイスラエルやアメリカに対する批判的な声が拡大すると、イスラエルを訪れ、ネタニヤフ首相らと会談し、「ガザ最南部ラファへの侵攻に反対する」考えを示したり、ヘルツォグ大統領と会談し、「停戦を今すぐ実現させたいと強く望む」と主張したり、また、アメリカ政府が、自ら人道支援物資の搬に取り組んだりしました。さらに、人道支援物資を運んでいたトラックを襲撃したイスラエルの組織に制裁を科したりもしました。
 でも、こうした対応は、アメリカ政府の基本方針とは関係なく、世論操作のためのものであろう、と私は思わざるを得ません。なぜなら、アメリカは、現在に至るまで、イスラエルのさまざまな国際法違反や人権侵害には目をつぶってきたからです。   また、国際刑事裁判所(ICCが、戦争犯罪などの容疑で逮捕状を請求しているのに、米議会の上下両院合同会議で演説し、「イスラエルはガザの民間人を守っている」、「ガザで拘束されている人質の解放に向け集中的な取り組みを積極的に行っている」、「米国とイスラエルは団結しなければならない」などと主張したネタニヤフ首相に、多数の議員が大きな拍手を送っているからです。  ネタニヤフ首相は、パレスチナ自治区ガザでのイスラエルの軍事作戦に対する批判や抗議を一蹴しつつ、作戦継続を主張し、米国の兵器供給をはじめとするイスラエル支援強化を訴えましたが、そんなネタニヤフ首相に拍手を送るとともに、アメリカ下院は、イスラエル支援に263億ドルを投じる予算案を可決しているのです(日本円にしておよそ4兆円余り)。 だから、アメリカの基本方針は、イスラエルのアパルトヘイト(「人道に対する罪」)の現実的な解決ではなく、ハマス殲滅を意図するイスラエルの支援なのだと思います。   朝日新聞は、724日、米大統領選で民主党の候補指名獲得が確実視されるカマラ・ハリス副大統領が、パレスチナ自治区ガザで続くイスラエルとイスラム主義組織ハマスの戦闘を巡り、「あまりに多くの罪のないパレスチナ人が殺されている。明らかに人道的な大惨事だ」と、パレスチナ寄りの発言をしたことを伝えましたが、こうした報道も、大統領選を睨んだ世論操作で、アメリカ政府の方針には決してならない、と私は思います。アメリカのイスラエル支援は、カマラ・ハリス個人の判断で変わるようなものではないと思うのです。   また先日、イスラエル当局が、”イスラエル占領下のゴラン高原にあるサッカー場で27日、ロケット砲が着弾し、12人の子供や若者が殺害され、数十人が負傷した”、と発表しました。 イスラエル国防軍(IDF)によると、”レバノンに拠点を置くイスラム教シーア派組織ヒズボラが発射したロケット砲が、ドゥルズ派の多く住むマジダル・シャムス村のサッカー場に着弾した”というのですが、 これまでの戦闘をふり返ると、イスラエルのこの主張を、そのまま信じることは危険だと思います。ヒズボラは否定しているからです。  イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は、ヒズボラが「重い代償を払う」ことになると報復を約束したということですが、ゴラン高原のマジダル・シャムスの犠牲者の遺族は、イスラエルのガラクタ・ドームから落下したミサイルが民間人を殺害したとして、スモトリッチを含むイスラエル政府大臣らを葬儀場から追い出したという情報もあります。確かめる必要があると思います。 国際社会で孤立しつつあるイスラエルが、自らを正当化するためにやった可能性を考慮すべきだと思います。  The Cradleは、下記のような記事を掲載しました。ワシントン(アメリカ政府)が、イスラエルのレバノンへの戦線拡大に全面支援(full backing)をネタニヤフに約束したというような内容です。 Washington gives Netanyahu ‘full backing’ to expand war on Lebanon: Report Hebrew media reports that the army is urging Tel Aviv that ‘now is the right time’ for escalation against Hezbollah and Lebanon 

 下記は、「新・現在アフリカ入門 人々が変える大陸」勝俣誠(岩波新書)から「4章 ポスト・アパルトヘイトの今」の「2 アパルトヘイトをどうなくしたのか」を抜萃しました。

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                  4章 ポスト・アパルトヘイトの今

                  2 アパルトヘイトをどうなくしたのか

 

 世界の中の反アパルトヘイト運動

 1973年、国連総会において「人道に対する罪」とされたアパルトヘイトは、アフリカ現在史に刻まれる負の歴史であるが、この体制はどうしてなくすことができたのか。

 筆者は、この国を90年代初めまで訪ねたことがなかったが、70年代、アパルトヘイト体制最盛期の頃、日本で何人かの南アフリカの専門家にアバルトヘイトはなぜなくならないのかと聞いたことがあった。

 ある専門家は、この体制は強固に組織されており、そう簡単には崩壊しない、反対するよりも、体制内で住宅建設など黒人の生活を改善する努力をする方が現実ではないかと筆者に忠告した。また、ある専門家は、南アフリカは冷戦下ではインド洋と大西洋をのぞむ地政学的に重要な国で、ハイテクノロジーに不可欠な希少金属もあり、西側は安易にこの国を見放すことはできないとした。いずれの識者も、本心ではこの差別政策は良くないと考えていたが、だからといって具体的かつ明確な差別撤廃を提示することはなかった。

 それに対して、世界各地で、市民や国レベルでの反アパルトヘイトの動きが起こり、とりわけ80年代に入って活発化した。欧米では、南アフリカ産のオレンジやレモン、アップルジュースなどのボイコット運動が始まった。南アフリカの白人大農場主が、安い黒人の労働力を使って作るこれらの柑橘類などの輸出による収入は、人種隔離政策維持のために必要とされる治安関連支出を支えている、というのがその理由であった。

 

 その他、市民によるさまざまな南ア製品ボイコット運動や欧米日政府による投資、貿易、スポーツ交流などの制限措置が取られたが、86年に強力な制裁措置を打ち出した米国を除き、多くの政府は必ずしも積極的でなかった。しかし、アパルトヘイト下の特権維持層には自分たちの国の仕組みは国際的に評価されていないことを、圧倒的多数の黒人層には、国際社会は黒人たちの権利回復の側についているというメッセージを伝える事には成功したと言えよう。

 また、アフリカ諸国も、黒人側の大義を支持し、しばしば多大な犠牲さえもいとわなかった。実際、これらの諸国の独立自体が、ヨーロッパの植民地支配から脱却するという意味をもっていた中で、この人種差別体制に賛成する国は一カ国もなかった。しかし、具体的に南アフリカのアパルトヘイト勢力を支援するとなると、消極的な政府、積極的な政府と、その具体的支援には温度差があった。

 

 南部アメリカの連帯

 なかでも南アフリカの反アパルトヘイト組織をもっとも熱心に支援したのは、第二章で言及した同じく白人中心の国づくりを進めていたジンバブエにおいて、黒人による解放運動を支援するために発足した「フロントライン諸国」と呼ばれた南部アフリカ諸国であった。南アフリカと国境接するモザンビーク、ボツワナ、そして1980年に独立したジンバブエ、さらに、国境は接しないタンザニアと75年に独立したアンゴラの五カ国である。これら各国には、ANCPACの事務所や基地が置かれ、タンザニアでは軍事ゲリラの訓練センターさえ設置された。南アメリカの白人政府は、これらの事務所や基地対する破壊活動や空爆さえもためらわなかった。

 また、七年間に及ぶ独立戦争をへて、62年に独立したアルジェリアやエジプト、エチオピアなどは、ネルソン・マンデラなどの反アパルトヘイト運動家を資金面や組織づくりの面で支援した。たとえばアルジェリアは独立戦争の時からマンデラを支援し、軍事訓練も提供した。

 だが、アパルトヘイト廃絶に対して、何よりも決定的役割を果たしたのは、南アフリカ国内での黒人を中心とする実に多様な反政府運動であった。

 この廃絶への道のりを他のアフリカ諸国の独立性へのプロセスと比較する時、この国は新しい国づくりにおいて実に広範な人々を巻き込んでいったことがわかる。その意味では、変革へ向けての民主主義の実践の広がりと質、および内戦という究極の暴力を回避したという二つの点が注目に値する。  

 政府が打ち出す体制の維持・強化政策の対象となる黒人層は、ある時は国外に亡命していたANCなどの呼びかけに応じて、またある時は、若者を中心として生活苦から家賃の支払いを拒否するといった形で、団結していった。

 

 一方で、79年に黒人の労働組合の結成が認可されて以来、鉱山部門で働く黒人労働者を中心とする労働組合も、経済闘争だけでなく、大規模な反政府ゼネラルストライキを繰り返していた。82年、南ア政府は、高まる反アパルトヘイト運動を懐柔し分断するために、従来の白人のみの国会に加えて、カラードとインド人向けの人種別議会を設置しようとして三院制導入のための新憲法を制定しようとした。この動きに対し、83年に結成された連合組織は国外のANCと協調して、この新議会選挙を多くのカラードやインド人にボイコットさせることに成功した。

 そして忘れてはならないのがキリスト教会の存在である。この国に最初に入植したオランダ系東インド会社と共に持ち込まれたオランダ改革派教会は、アパルトヘイト体制を正当化したアフリカーナを支援していた。当初は、黒人白人共に礼拝を行っていたが、19世紀半ばから、人種別教会に分離していった。しかし、80年代に入り、この差別は聖書の教えに背くのではないかという見直しが本格的に行なわれた。85年、キリスト者は解放への戦いに参加するべきでないと示唆する「カイロス文書」が南アフリカの白人と黒人双方の聖職者によって発表され、採択された。これは南アフリカ版「解放の神学」(1960年代中南米のカトリック司祭を中心にキリスト教を社会的実践を通じて深めようとした神学アプローチ)ともいえる。カイロスとはギリシャ語で、「今こそ」ないし「チャンス」の意味で、信仰による目前の不正義と戦う義務を訴える文章であった。2009年末に、エルサレムの聖職者がパレスチナ自治区を分離壁によって分断するイスラエル国家のアパルトヘイト型差別をなくすべきとする「パレスチナ・カイロス文書」を発表したのもこの南アの先例に啓発されたものと考えられる。

  反アパルトヘイト運動の主要メンバーのなかには、「反アパルトヘイト国内市民団体民主戦線連合(UDF)」の議長を引き受けたカラードのアラン・ブサックやソウェト(South West Townshipの略 SOWETO)生れフランク・チカネなどの宗教界のリーダーがいた。そして84年に、ノーベル平和賞を受賞した英国国教会のデズモンド・ツツ大司教も、南アに対する経済制裁を明確に呼びかけ、90年代初頭の新生南アフリカに向けての政府とANCとの間の交渉役として大きな貢献をした。

 

 内戦をどう避けたのか

 1990年、国民党のフレデリック・デクラーク大統領が27年間獄中にあったネルソン・マンデラを釈放し、それまで非合法化されていたANCPAC、南アフリカ共産党などの政治団体を合法化したことによって、交渉によるアパルトヘイト廃絶への道筋が一気に開かれた。以来、幾度となく交渉の危機をへて、94年、全人種の参加する議会選挙が実施された。この選挙戦は基本的に、二つの世界をどう一つの国としてまとめ上げていくかというシナリオをめぐって戦われたと言っても過言ではないだろう。

 この過程で、もっぱらエスニシティのみに基盤を置こうとしてきたアフカーナーの民族主義者による保守党(CP、選挙をボイコット)、黒人政党のPAC、当初ボイコットを表明していたが選挙直前に参加したインカタ自由党などは、南ア人の支持を充分に得られるず、政治的に少数派へと追いやられた。

 選挙は実質的には、全ての南ア人の政党であることを前面に出したANCと、国民党との戦いとなった。国民党は、人種融合を建前としながらも、アパルトヘイト体制故に実現した白人の既得権は守るという、きわめて両立が困難な課題を背負った。他方、ANCは、反アパルトヘイト運動の長い経験のもとで編み出された組織力を背景に、大企業の資産と大都市所有を中心とした白人の特権にはすぐには手をつけないが、黒人を中心とする圧倒的貧困層の生活向上は必ずや実現したいという、やはり苦難に満ちた妥協路線を選んだ。

 選挙結果は、48年以来アパルトヘイト政策を実施してきた与党国民党が得票20.4%ANC62.6%と、ANCの大勝となった。同時に行われた九つの州選挙でも、ANCは七つの州で首位となり、残りの二州(西ケープ州、クワズールー・ナタール州)のみは、国民党がそれぞれ首位を占めた。

 もっとも、ANCのこの地滑り的勝利は選挙前から十分に予想されていた。内外の南ア関係者が懸念していたのは、むしろ、全人種選挙に向けての各勢力の枠組み交渉過程において、早くもさまざまな暴力事件が発生していたことが示唆していたように、選挙そのものが平和に行われるかどうかであった。すなわち、選挙の結果如何というよりも、選挙という手続きがまがりなりにも「成功」したことこそが世界の称賛の対象となったと言える。

 

 黒人が白人を解放した?

 内戦を避けてとにかく選挙を行ない、すべての南アの人々の平和共存のチャンスを作ること。これがアパルトヘイトの維持に見切りをつけた南アの人々の広範な願であった。とりわけ、アパルトヘイト廃絶を復讐の論理に従わせてはならないと人種間の和解を強く訴えた新生南ア初代大統領マンデラ

の果たした役割は、いくら強調しても強調しすぎることはないであろう。

 マンデラ政権発足直後のインタビューで、なぜ国民統一政府を決意したかという問いに対し、マンデラ大統領は、その経緯を次のように明快に語っている。

「これには、私達が監獄にいた時の経験にまでさかのぼる長い歴史があります。私たちがロベン島(アパルトヘイト下で政治犯を収容した監獄島)に着いた時、アフリカーナの看守の間で論争がありました。ある看守は、こいつら(政治犯)は手荒く扱ってやれば、白人の優越性を受け入れざる得なくなる、と言いました。また、別の看守はやつら(政治犯)が勝った時、自分たちに対する報復のための政権が生まれないようにと考えてやつらを扱ってやらなければならない、と主張しました。私たちとしては、看守に対して話しかけ、私たちを人間として扱うように説得するポリシーを採用しました。これは、私たちの持つ最強の武器の一つは対話であることを教えてくれる教訓です」(ファイナンシャルタイムズ』紙、1994718日)。

 すでに見てきたようにアフリカ現代史を振り返れば、ヨーロッパ人の大量移住型の植民地支配からの脱却には、しばしば内戦に近い形態を伴ってきた。50年代白人入植者の土地収奪に、武力によって抵抗し、最近の研究では、数10万の死者を出したと推定されるケニアのマウマウ戦争、数十万の死者を伴った50年から60年代初頭にかけてのアルジェリア戦争、1980年、数十万人の白人による人種差別政策に武力対決し独立にこぎ着けた南アの隣国ジンバブエの独立戦争……。いずれも肥沃で住みやすい土地に居座った白人の特権を自ら放棄させることは容易ではないことを示している。

 新生南アが移住型植民地を脱植民地化していく際の土地問題と言う、もっとも困難な課題を当面先送りし、ともかく多大の犠牲者を出すことなく新国家体制に移行できたことは、アフリカ現代史に興味深い出来事として刻まれるであろう。

 

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国民の思いから離れる広島平和記念式典

2024年07月27日 | 国際・政治

 広島市は今年の平和記念式典で、入場規制エリアを昨年まで対象外だった原爆ドーム周辺を含む公園全体に広げる「安全対策」を発表しました。当日は、午前59時に入場規制し、6カ所のゲートで手荷物検査を行うといいます。

 併せて発表された、園内での禁止行為は、平和記念式典が、被爆国日本の国民の手を離れ、アメリカを中心とする西側諸国のための式典に変わりつつあることを示しているように思います。

 「式典の運営に支障を来す」としてマイクや拡声器のほか、プラカード横断幕の持ち込み、はちまきゼッケンの着用まで禁じ、従わなければ退去を命令することがあるというのです。

 松井一実市長は記者会見で、「参列する市民の安全を最優先に考えての措置」と強調したということですが、驚きました。市民の安全のために、どうしてプラカードや横断幕の持ち込み、はちまきやゼッケンの着用まで禁じる必要があるのか、と思ったのです。

 私は、”市民の安全”を口実に、被爆国日本の平和記念式典の在り方を変える意図を感じました。「原爆ドームや供養塔の周辺で毎年、慰霊に関する行事をしている団体もあると思うが」と問われた松井市長は、「今までのような集会はできなくなるかと思いますね」と淡々と応じたということですが、そうした発言にも、平和記念式典の在り方を変える意図が示されているよう思いました。

 

 さらに、今年の平和記念式典に広島市がパレスチナではなくイスラエルの代表を招待していることにも、そうした姿勢があらわれていると思いました。

 先日、国際司法裁判所(ICJは、”イスラエルによるパレスチナ自治区の占領および入植活動は国際法に違反であり、可能な限り早期に明け渡すべき”、との勧告的意見を出しました。法に基づけば、当然の勧告だと思います。

 また、国際刑事裁判所(ICCは、パレスチナ自治区ガザでのイスラエルの戦闘に関し、イスラエルのネタニヤフ首相ガラント国防相戦争犯罪などの容疑で逮捕状を請求しているのです。

 駐日パレスチナ代表部は、「被害者が招待されず、加害者が招待されている」として広島市の対応を非難したといいいます。

 被爆から79年となる原爆の日の平和記念式典に、ロシアとベラルーシの代表は招待せず、ガザ地区での戦争犯罪を続けるイスラエルの代表を招待するというのは、明らかに広島の平和記念式典が、アメリカを中心とする西側諸国の政治的意図に基づく式典に変わるということだと思います。

 極論すれば、原爆の日の平和記念式典で、アメリカが糾弾されたリ、非難されたリしないように、核兵器廃絶運動や反戦運動につながる考え方を抜き取り、消し去ろうとする意図があるように思うのです。そういう意味で、広島平和祈念式典は、「原爆投下終戦記念式典」にされつつあるとも言えるように思います。

 そのアメリカを中心とする西側諸国が、アフリカで何をやってきたのか、を知るために、今回は、ザイールの独裁者モブツ大統領の支援に関する部分を「新・現在アフリカ入門 人々が変える大陸」勝俣誠(岩波新書)の「第三章 独立は誰のために」から抜萃しました。ザイールの独裁者モブツ大統領支援は、なかったことにしてはいけないと思います。

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                     第三章 独立は誰のために

                    2 欧米を信じたモブツ大統領

 

 冷戦が独裁大統領を生んだ

 モブツ体制は、1997年に、ルムンバ派の流れをくむロラン・カビラがコンゴ民主解放勢力同盟(AFDL)を率いて東部から侵攻し、主要都市を制圧するまで続いた。

 30年以上にわたってモブツ体制下、フランスと米国は、旧宗主国であったベルギー以上に熱心にモブツ政権にテコ入れを行った。とくにフランスは、68年以来分離独立を唱えていた「カタンガの憲兵」と呼ばれた反政府組織が、77年アンゴラ領から外国企業は操業していたザイール南部のシャバ州(71年に改名されたが、97年に再びカタンガ州戻る)に侵攻して、鉱山都市コルベジを占拠するに至ってベルギー軍と共に軍事介入している。フランスによるザイールへの2回目の軍事介入は、91年夏、モブツ大統領が一度は約束した民主化が混迷をきわめ、生活苦から生じた首都キンシャサにおける都市暴動に際して、自国フランス人の避難を名目として実行された。

 

 西側諸国はそこまでモブツ体制を支えたのは、冷静下、この国の”スキャンダラスなまでの”豊富な鉱物資源を何としても東側に渡してはならないとされたからである。その背景には、アフリカ大陸における米国とフランスの確執を超えた西側同盟国としての了解があった。

 実際、モブツ大統領ほど、米ソの対立において西側陣営に貢献しようとした人物はいない。もともと、モブツ大佐(当時)は、60年代初頭のコンゴ動乱において、親ソ連政権の誕生を抑えるために米国の肝いりで登場した人物であった。彼は60年代に展開されたポルトガル領アンゴラの反植民地闘争においては、独立を成就した東側の解放組織に対抗して、当時、親米・親中国の解放組織に加担し、アパルトヘイト体制をしいていた南アフリカ白人政権とともに、西側陣営にとっての南部アフリカの。橋頭堡役を務めたのである。

 

 このように、コンゴの独立はコンゴ動乱を経て、親欧米モブツ体制のもとで、欧米によって”外から支えられた”独立であったと言えよう。

 しかし、冷戦が終わりを告げる90年代に入るや、アフリカ諸国に広がっていた折からの民主化の嵐の中で、四半世紀にも及んだモブツ体制の経済的・政治的ほころびが目立ち出す。それを機に、この国は、対外的には一応主権国家として位置づけられるものの、国内においては、領域内の国民に安全と福祉を提供する近代国家の役割を果たすことができなくなっていく。

 以下では、97年にモブツ体制が完全に崩壊する前夜の90年代のこの国家の実情を見ていこう。

 

 国家はこうして崩壊する

 半世紀以上国内で直接動乱を経験してこなかった我々には、国家が崩壊の危機に瀕するとは具体的にどんなことなのか想像しにくいが、政治と経済の破局が同時進行する国が多いアフリカではかなり容易にその兆しを目にすることができる。

 ザイールは、アフリカの中央部に位置し、広大な国土面積を擁し、九つの国境(コンゴ共和国、中央アフリカ、スーダン、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニア、ザンビア、アンゴラ)を有する。その地政学的位置づけに加えて、世界有数の主要鉱物資源の産出国でもあり、その意味ではいまだ古典的大国の条件を備えている。その「大国」が崩壊することによって周辺諸国に与える経済的、政治的、社会的影響の大きさは計り知れないものがある。

 まず挙げなければならないのが、国家財政の完全なる破綻であった。ザイール国家が重度の対外累積債務を抱え、返済不能に陥りながら何ら改善努力をしていないとして、早くも92年にはIMFとの関係はほとんど断絶され、世界銀行も94年初頭に、駐在事務所を閉鎖した。

 

 これら二つの国際金融機関から見放されるということは、欧米日からの新たな資金の流入は得られないことを意味した。国家の体制を少しでも立て直すには、紙幣を大量に印刷し、年一万%のハイパーインフレ(94年)を覚悟するか、住民や企業から税金を取り立てる選択しかなかった。しかし、徴税能力は衰退し、歳入は94年には国内総生産の2.3%という水準にまで下がっていた。ちなみに税圧力が弱いとされるサハラ以南のアフリカ諸国でさえ、この比率は平均して16%前後であった。

 

 第二の兆しは、この極端な財政難で、公共と名のつく住民へのサービス機能がほとんど停止してしまうことであった。公務員の給料の支払いはもとより、初等・中等教育は機能低下をおこし、保健・医療はたとえ医師が診断したとしても、薬品・資材不足で治療はできないというありさまであった。当時の『世界の軍事支出と社会支出 1996年』(ワールドプライオリティー社)によれば、ザイールは94年において一人当たりの公共支出はわずか1ドルで世界最下位を占め、保健サービスにアクセスできる人々は人口の四分の一程度に過ぎなかった。

 

 第三は、やはり絶望的な財政収入の不足により、軍と警察という治安機構が住民の財産を守るどころか、逆に財産や人権を侵害する、いわば「合法的」暴力犯罪組織となったことである。ザイールモブツ元帥・大統領はこの軍の統制にさえ給与未払いで失敗し、軍人はそのユニフォームを使って、村民や通行人から生活資金を調達するはめとなった。

 当然ながら、こうした軍の規律は乱れ、戦闘における士気は低い。96年末に生じたザイール東部での反乱軍との戦闘で、ザイール国家軍がいとも簡単に潰走してしまったのは、国軍とは名ばかりで、その内実は毎日、住民や通行人からの金品を強奪することばかりに熱心で、よく訓練された敵軍と戦った経験は皆無に近かったからである。モブツ大統領自身もこうした国軍を信用できず、同郷人でまとめた親衛隊をつくっていたほどである。

 こうして「ネーション」の軍隊を作ることに失敗した同政権は、政権末期には反乱軍の侵攻に対し、蓄財を崩して、外人傭兵を投入すること以外、軍事的窮地を打開することはできなくなっていた。

 

 第四の兆しは、国内交通網が未発達であり、そのうえ補修がないためズタズタにされ、領土の実質的分権化が進行していたことである。

 ザイールの公用語はフランス語であるが、西部ではリンガラ語が広範に話され、東部ではタンザニア、ウガンダ、ケニアル、ワンダ、ブルジンなどでも通用するスワヒリ語が存在している。他方、交通の面では、首都キンシャサから北部の農業地帯を通ってザイール第二の都市キサンガニまでのザイール川(現コンゴ川)の航路と、南部の鉱物資源を南アフリカ方面に搬出する鉄道路という二つの主要網しか存在しないと言っても過言ではなかった。

 独立以来、「南」の国々の指導者が夢見た、単一かつ同質空間を目ざす「ネーション」ないし「国民」の形成は、何よりもまず、モノとヒトが国内において不自由な形でしか移動できないことによって著しく妨げられていたのである。

 

 それでもザイールは残る

 西側諸国は「内政不干渉」という都合のよい外交用語で、国内における正当性の根拠は不問に付した。軍事援助から政府開発援助資金による民生援助まで、ひたすらモブツ政権を支援し続け、内乱に対しては軍まで送って政権維持に努めた。

 実際、ザイールのみならず、旧フランス植民地を中心とするアフリカにおいて、ヨーロッパの権益には正面切って手をつけない政権は、たとえ民衆の支持をどんなに失っていたとしても、こうしたフランスの軍事的・経済的支援によって維持されてきたのである。

 モブツ政権が存続の危機に直面する緊急時の支持の手段を軍事介入とするならば、平常時において国内の徴税能力が極めて低いこの政権に栄養剤を与えてきたのが、国際金融機関や商業銀行からの資金借り入れ、外国援助実施にまつわる「手数料」ないしヤミ資金の流れである。実際、この国では製鉄工場から巨大な橋や水力発電所まで、外国援助よって建設され、施設が未利用のまま放棄され、後には借金のみが残った例をいくつも見ることができた。

 モブツ体制による公的資金の不正流出の暴露情報は、欧米のジャーナリストによってたびたび報じられていた。元ザイール亡命政府高官や外交官を経てザイールの中央銀行に出向したIMFのスタッフまで、告発材料には事欠かなかった。モブツ大統領自身、国内の集会で、私的蓄財について「諸君もうまくやれ、しかしやり過ぎは良くない」と、公務員の汚職を容認するともとれる発言をしたエピソードがある。

 このようなモブツ体制の汚職、特に大統領個人の権力欲や資質を批判することは容易い。しかし、根本的に問われなければならなかったのは、むしろそういったモブツ体制の存続を支えたのはいったい何であったのかということではないか。探るべきは、政治指導者個人の行為に対する道徳的判断を越えて、その行為を見ないふりをしたり、可能にしてきた国際的仕組みの方ではないか。金を渡す側なくして、受け取る側は存在しないことも事実である。

 その意味で、冷戦後、西側にとって、もや地政学的な価値も、資源確保のための利用価値もなくなり、見放されたセセ・セコ・モブツの存在こそ、西側が管理・運営する国際的仕組みの論理に最も翻弄された「南」の地域の被害者としても位置づけられないだろうか。

 そして今日もこの仕組みの下では、「南」の政治指導者が国内で「北」社会では到底許されないことを犯しても、政権が「北」にとって有用である限り、黙認するか、それに抗議する声の弾圧に協力さえするが、いざそれを有用性がなくなれば、いとも簡単に交渉先を変え、それ以前の「北」の共犯ないし協力関係は問われることはない。問われるのは生き残った「南」の不運なリーダーたちばかりなのである。

 

 

 

 

 

 

 

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ディープステートとトランプ前大統領

2024年07月24日 | 国際・政治

 【米大統領選2024】討論会や銃撃事件によって、いままで囁かれていた「もしトラ」が「確トラ」に変わったと言われています。日本でも、その「確トラ」に対応すべく、準備が進められているようです。

 ふり返れば、アメリカの大統領で、トランプ前大統領ほど、大手メディアの非難や批判を浴びた大統領はいなかったと思います。重要問題でアメリカに追随する日本でも、トランプ前大統領に関してだけは、非難や批判が許され、民主主義の危機であるかのように、非難や批判がくり返し行われました。過去に例のないことであったと思います。

 

 アメリカの連邦最高裁判所は先日、ドナルド・トランプ前大統領ら歴代大統領について、刑事責任が部分的に免責されるとの判断を示しましたが、その判断に反対した判事の一人は、「法の上に立つ者はいないという、わが国の憲法と行政制度の根幹をなす原則を愚弄するものだ」との考えを示したといいます。法的には、それは正しいと思います。政敵の暗殺を命じたり、政治権力を保持するためにクーデターを組織しても、刑事訴追を免れるというようなことはあってはならないことです。

 だからこそ、この件に関するオーナ・ハサウェイ・イェール大学ロースクール国際法教授の下記の指摘は見逃せません。

「世界の他の国々にとって、米大統領は常に法の上にある」にあるように、「何十年もの間、アメリカの大統領は違法な戦争を行い、外国の指導者の暗殺を企て、人々を不法に拘束し、拷問し、民主的な政府を倒し、抑圧的な政権を支援してきた」のである。”

For the Rest of the World, the U.S. President Has Always Been Above the Law

Americans Will Now Know What a Lack of Accountability Means

By Oona A. Hathaway

July 16, 2024


 トランプ前大統領は、法を犯しているという大手メディアの非難・批判の報道をフェイクだと切り捨て、大手メディアと一体となった「ディープステート(DS」の解体を掲げています。

 だから、日本を含めて、西側諸国の大手メディアは、過去に例がないようなかたちで、彼を非難し、批判するのだと思います。

 ディープステート(DSは、「闇の政府」ともいわれますが、アメリカ合衆国政府の一部(特にCIAFBI)が、大手企業(特に軍事産業やエネルギー産業)・金融機関の上層部、軍部、大手メディア(CNNMSNBC、ニューヨークタイムズ、ワシントンポスト)等と協力して極秘でネットワークを組織し、政府を動かしたり、時には密かに権力を行使する「もう一つの政府」だと言われています。

 日本の政府や主要メディアは、そうした「ディープステート」は存在せず、「陰謀論」だと切り捨てていますが、その切り捨て方が、私は逆に、その存在を裏づけているように思います。実態がはっきりしないから「ディープステート」は陰謀論だというのも、いかがなものかと思います。

 また、ドナルド・トランプは世界を支配する「ディープステート」と戦う救世主であるとしている極右Qアノンの言動と結び付けて、「ディープステイト」の存在を「陰謀論」だと切り捨てることが、私は気になるのです。「ディープステート」は存在せず、そういう「陰謀論」を信じてはいけない、と多くの人に信じ込ませる情報操作は、CIAお得意の技術だと思います。 

 

 アメリカは、第二次世界大戦後も戦争をくり返してきましたが、大統領が変わっても、政権が変わっても、「戦争屋」と揶揄されるような外交政策や対外政策が変わらないのは、やはり、ディープステートの存在があるからだろう、と私は思います。戦争や武力紛争によって利益を得ることができるような企業や組織が、ネットワークスを構成し、米国政府を戦争に駆り立てている側面は否定できないだろうと思うのです。

 トランプ前大統領は、自らの退任演説で「私は新たな戦争を始めなかった、ここ数十年で初の大統領となったことを特別に誇らしく思う」と述べたことはよく知られていますが、かつて上院民主党の院内総務であったチャック・シューマー氏が、CIA批判を繰り返したトランプ前大統領を「本当に間抜けだ」と罵り、「言っておくが、情報機関を敵に回すと徹底的な復讐にあうぞ」と述べたといいます。そうした発言は、ディープステートの存在を裏づけるものだろう、と私は思います。

 また、トランプ政治を阻止するために、裁判所・司法省・報道機関などが連携したから、トランプ前大統領はしばしば、その苛立ちを過激な言葉で表現したのではないかと思います。実態ははっきりしませんが、アメリカ政府内外の利害関係者のネットワークが、アメリカ政府の表向きの政治活動とは別に、アメリカ政府の政策に決定的な影響力を行使していることは否定できないと思います。誰がアメリカ大統領になっても、そうした利害関係者のネットワークが要求する政策を拒否することは難しいのだと思います。先日のトランプ前大統領銃撃事件は、単なる個人の犯罪であったかどうか、銃撃犯が射殺されていますので、真実はわかりませんが、疑わしいと私は思います。

 元NSA職員で内部告発者のエドワード・スノーデンも、ディープステートが存在し、一部職員が関わっていると主張していました。

 

 だから、トランプ前大統領の”政府の官僚機構が「ディープ・ステート」に牛耳られている”という主張は、大統領だった4年間、みずからの政策が、官僚の抵抗によって阻まれたことによるものであり、陰謀論で片付けることのできない問題だと思います。

 2020年の「大統領令(Schedule(区分)F”」を再び発令し、政府機関の職員を大幅に入れ替えると主張するのは、そういうことだと思います。

 

 下記は、「新・現在アフリカ入門 人々が変える大陸」勝俣誠(岩波新書)から「第三章 独立は誰のために」の 「1 早すぎたのか、遅すぎたのか」 の一部を抜萃しましたが、西側諸国の植民地支配は、アフリカ諸国の独立後、”「独立」を与えるが、富は渡さない”というような新植民地支配に変わっただけであったことがわかります。

 そして、下記のような記述が、オーナ・ハサウェイ・イェール大学ロースクール国際法教授の指摘が正しいことを示していると思います。

” この間、西側にとって危険人物と見做されたナショナリストのルンバは、61117日ベルギー当局と米国の了解のもとに2人の同志とともに殺害された。加えて、事態の収拾に当たろうとした国連の事務総長ダグ・ハマーショルドは、国連軍の介入によってカタンガ州の分離独立はかろうじて中止させたものの、61917日ルムンバ政権の支援要請には応えられないまま、乗っていた飛行機が墜落し、死亡している。

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                      第三章 独立は誰のために

                    1 早すぎたのか、遅すぎたのか

 

 キューバン・ミュージックで始まった「独立」

 一国の独立ということが、その国の統治がその時代の列強による植民地支配から国内出身者による統治へと移行することを意味するならば、今日、アフリカのすべての国々は、紛れもなく「独立」国ということになる。まがりなりにも、国家元首はアフリカ人によって占められているからである。

・ 他方で、「独立」が、旧宗主国との政治的・軍事的・経済的・文化的見直しを通じて、国際社会の中なか、何よりも国民の利益のために自らの国の方向を主体的に選び取れることを条件とするならば、今日のアフリカは、世界のどの地域に比べても、限りなくグレーゾーンに突入している国々が続出している地域と言えよう。

 アフリカ近代史については、アフリカ人の間で、「アフリカには富があったが、十字架はなかった。しかし、ヨーロッパ人が来てから、富はなくなり、十字架だけが残った」という巷間の評価がある。 

 木材、銅、金、ダイヤモンド、ニッケル、石油、天然ガス、そしてひたすら「北」の諸国の食卓へ供されるコーヒー、カカオ、茶……。アフリカには、今日も膨大な天然資源がある。にもかかわらず、なぜアフリカはかくも貧しいのか。アフリカの富はなぜ、アフリカ人のために利用されないのか。半世紀前、アフリカ人の人々の圧倒的熱気に支えられた、指導者たちの描いた「独立」の青写真は、今日のアメリカの現実ないし実像とどう乖離してしまったのいるのだろうか。「独立」とは果して何だったのか。

 アルジェリアに次いで、アフリカで二番目の国土を有する、赤道をはさんで広がるアフリカ中央部のコンゴ民主共和国(1971─96年は、ザイール共和国)を見てみよう。

 1000万人以下の国々が圧倒的に多いアフリカ諸国のなかにあって、7000万人近い人口を擁する同国は、その豊かな天然資源からして、本来大国の名にふさわしいはずの存在である。

 まずはアフリカ三大河川の一つ、コンゴ川流域の高温多雨のコンゴ盆地に位置しているため、主食のコメやトウモロコシやイモ類から、輸出もできるバナナ、コーヒー、パイナップルまで農業生産の潜在力は限りなく高い。そして鉱産物、とりわけ航空機などの先端技術に必要なチタン、コバルト、タルタル、ダイヤモンドは世界有数とされている。

 しかし、2009年の推計では、一人当たり国民総所得は100ドル弱で、この国はアフリカ諸国のなかでも最下位を占めている、世界の最貧国のである。

 今日のアフリカ大陸の富と貧困についての基本的な問いを考えるのに、コンゴ民主共和国ほど、その富の膨大さと貧困の広がりという矛盾の大きさからして、現代アフリカの半世紀にわたる「独立」の矛盾に満ちた軌跡を強烈に示している国はない。

 19591月、ベルギー国王は、1885年のベルリン会議以来、当初は王の私有地、次はベルギーの植民地として支配してきたコンゴに独立を与えると宣言した。それに向けて、翌年1月から3月にかけて、ベルギー政府とベルギー領コンゴの領内のアフリカ人諸政党との間で円卓会議が開催された。 

 当時のコンゴ人の独立に向けての喜びの歌は、リンガラという同国の西方地域で話される言葉で歌われ、今でも、60年代のアフリカ諸国の独立を象徴する歌として広く聞かれている。

 そのテンポはキューバンミュージックのチャチャで歌詞はざっとこんな内容だ。

 ・・・(略)

 ポリカンゴ、カサブブ、ルムンバ、チョンベは、いずれも当時の政党リーダーの名で、これ歌は円卓会議でともに一つの国づくりに集結したことへの賛歌であった。

 ジャン・ポリカンゴは赤道州出身で、独立前年、ベルギー植民地行政職で二人しかいないアフリカ人最上級職に就き、独立後は親ベルギー派として反ルムンバ議員として活動。

 ジョセフ・カサブブは、1950年、コンゴ川下流域のバコンゴ人の伝統を守ろうとする「文化団体」として、「バコンゴ同盟(ABAKO)」を結成した。同同盟はその後、この地域を基盤とする地域政党として、ベルギーの植民地支配を公然と非難するようになる。60年の議会選挙では、三位の得票数を得て、カサブブは「独立」時には大統領に任命される。

 パトリス・ルムンバは、ベルギー領コンゴからの「独立」の内実をもっと明解に理解し、しかもそれをただちに実現しようとした人物であった。50年代、反植民地運動に身を投じたルムンバは、独立プロセスにおいて、地域を基盤とする運動よりも全国レベルの運動を重視する「コンゴ民族運動(MNC)を結成する。円卓会議後の議会選挙では過半数に達しなかったものの、最大の得票数を得て、彼は首相に任命された。

 モイゼ・チョンベは、カタンガ州の裕福な家庭に生まれた。高校も大学も出ておらず、60年にベルギーのブリュッセルで開催された円卓会議に参加するまで国外に出たことすらなかった。カタンガ州ある大鉱山会社とベルギー当局によってもっとも重用された人物で、やがてルムンバの殺害に直接手を下すことになる。

 こうした新しい国のリーダーが出席する1960630日の独立式典において、ベルギー国王ボーデゥアンとカサブブ大統領およびルムンバ首相の三者が行ったそれぞれの演説のトーンは、この国のその後の有り様を極めて予言的に示していた。

 まず、国王が、今回の「独立」は、コンゴ自由国を創ったレオポルドⅡ世の偉業の到達点であると位置づけた。そしてベルギーの残した諸制度をそのまま活用して、性急な改革はしない方がアフリカ人にとって得策であると、まるで教師が教え子の卒業式にはなむけの言葉として与えるような説教じみた演説を行った。

 次のカサブブ大統領は、国王に向かって、この”与えられた独立”に感謝の意を表し、臨席していたベルギー人たちを安心させた。

 

 これだけは言いたかった

 一方で、ルムンバの演説は、先の二人の演説のトーンとはまったく異なるものであった。ルムンバは国王たち、旧植民地において支配する側にいた人々に向けてではなく、「コンゴの男性、女性諸君」とアフリカ人に向けた原稿を読み出した。

 彼は、コンゴの独立は、ベルギーによって寛大にもたらされた贈り物などではなく、何よりもコンゴ人が自ら多大な犠牲を払って勝ち取ったものであることを強調し、その屈辱的植民地時代を克明に描写した。

「我々が経験したのは、まともに食べることも衣服を身につけることも住むこともできないような低賃金と引き換えに要求された過酷な労働であった。……我々は、黒人であるというだけで、朝も昼も、軽蔑・罵倒・体罰を味わってきた」

 彼の演説は会場にいたコンゴ人たちによる拍手喝采で、8回にわたり中断された。この演説は同国の津々浦々までラジオで流され、聞いていた数千のコンゴ人は、ルンバこの発言を歓迎し、口々に語り伝えたと報じられている。

 ベルギー国王の方は、感謝を示される場となるはずであった独立式典が逆に植民地支配への告発の場となったことに対し不快感を隠さず、ルンバの登場に強い危機感を抱いた。また出席した多くのベルギー人や、米国を筆頭とする西側外交団は、この発言を自分たちへの脅威と受けとめ、やがて彼の抹殺計画が着々と準備されていく契機となった。

 実際、独立とは言っても、とりわけ旧ベルギー領コンゴの場合、形式としての主権はアフリカ人側に渡すが、旧宗主国と西側が開発投資した鉱物資源などのコンゴの富の配分に関しては、アフリカ人側の関与はほとんど認めないというものであった。したがって、ルンバに代表されるような、独立を実質的なものにしようとするアフリカ・ナショナリズムは、「文明をもたらしてやった」と自負する植民地行政側にとっても、キリスト教を伝導することでアフリカ人を救済するとする教会側にとっても、自分たちが開発した資源は自分たちのものであると考える欧米大企業側にとっても、到底受け入れがたものであった。

 

 「独立」を与えるが、富は渡さない

 同国最大の鉱物資源である銅の産出地カタンガ州は、この観点からしてベルギー側にとって決して手放すことができないものであった。そのため、地元CONTACT党の党首モイゼ・チョンベによる州独立宣言からわずか11日目の711日、特権を維持しようとベルギー軍が地元のアフリカ人勢力を利用して動き出し、一方的に同州の分離独立宣言を行ったのであった。

 つづく89日には、ダイアモンドの主要産地である南カサイ州で、MNCの州リーダーのカロンジが独立を宣言した。同州では、ベルギーのソシエテ・ジェネラル社の子会社であるコンゴ森林鉱山協会が絶大な利権を独占していたため、この国には、同協会略称ッフォルミエール(Formiere)をとって「フォルミエール共和国」というあだ名が付けられたくらいであった。

 他方、6074日には、独立後も留任したベルギー人将校のもとに置かれていたコンゴ人兵士らが昇格・昇給を求めて蜂起し、その一部が暴徒化したため、ベルギーは自国民保護を口実に、新国家に相談することなく、一方的に軍を投入した。

 それ結果、ルンバ政権は独立十数日にして早くも主権の侵害を受けることとなったのである。

 この旧ベルギー領コンゴは、独立直後のこの6月から以降、冷戦下に西側への奉仕者として絶大な支援を受ける軍人ジョセフ・デジレ・モブツがクーデターにより全権を掌握する1965年まで、国連を巻き込んで政情不安が続くことになる。この期間は日本人では「コンゴ動乱」と呼ばれる時期にあたる。

 この間、西側にとって危険人物と見做されたナショナリストのルンバは、61117日ベルギー当局と米国の了解のもとに2人の同志とともに殺害された。加えて、事態の収拾に当たろうとした国連の事務総長ダグ・ハマーショルドは、国連軍の介入によってカタンガ州の分離独立はかろうじて中止させたものの、61917日ルムンバ政権の支援要請には応えられないまま、乗っていた飛行機が墜落し、死亡している。

 コンゴの、コンゴ人による、コンゴ人のための独立は、早すぎたのか、遅すぎたのか……、コンゴ動乱のコンゴは、その答えを出せないまま、今日も現代史に名を残す未完の国づくりの典型例として残り続けている。

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国際社会を欺瞞する政治、いつまで

2024年07月20日 | 国際・政治

 718日朝日新聞は「オピニオン&フォーラム」という欄に、政治学者の境家史郎(サカイヤシロウ)東京大学教授に対するインタビュー記事を掲載しました。”55年体制」の行方”と題されていました。そのなかに、「非常に逆説的ですが、支持率が低く、人気のない政権であっても、あれだけのことが出来てしまうことは、首相、あるいは政権与党中枢へ権力がいかに集まっているかを示しているともいえるでしょう」という指摘がありました。そして、「長期的には、憲法改正問題が政党間の大きな争点であり続けていることをどうするかが、日本の政治にとって大きな課題ではないでしょうか。改憲発議を阻止するには国会議席の三分の一超を占めれば足りるわけですが、このことが過半数を取れない野党にある種の満足感を与えていて、現状維持的な路線を採らせ、結果として政権交代を遠ざけています。『ネオ55年体制』を本当に終わらせるためには、避けて通れない課題だと私は思います」とありました。

 私は、日本の政治課題に関し、敢えて、的を外したことを言っているのではないかと思いました。なぜ、”政権与党中枢へ権力が集まっているのか”を明らかにすることが大事であり、その権力集中を何とかしないと、憲法改正問題がどうなろうと、日本が大きく変わり、民主的な国になることはないと思いました。

 そして、現在の日本の重要問題は、日米関係であり、「日本国憲法」の上にあると言われる、「日米安保条約」や「日米地位協定」を放置せず、日本を利するものにすることだと思います。そこに踏み込まなければ、日本が大きく変わることはないと思うのです。

 1994年、社会党は「55年体制」で対決してきた自民党と連立を組み、村山富市委員長が首相に就任しました。でもその時、村山氏は「自衛隊は合憲」とし「非武装中立は政治的役割を終えた」と表明して、社会党の基本政策を大転換しました。なぜでしょうか。

 また、立憲民主党政権は、自民党時代の日米密約の問題の調査に取組みましたが、事実を明らかにしただけで、現実的な日米関係の見直しや、沖縄の在日米軍基地問題については、何も踏み込んだ政策に結びつけることができませんでした。なぜでしょうか。

 私は、そうしたことが、「日米安保条約」や「日米地位協定」が、現実に、「日本国憲法」の上にあることを示しているように思います。

 

 現在、岸田政権が進めている中ロを敵視する日米や近隣諸国との関係強化の政治は、日本の外交はもちろん、国内政治の大枠を決定し、日本人が日本の針路を自由に決められない状況をつくりだしていくように思います。

 先だって、国の指示権を拡大する改正地方自治法が成立しましたが、国だけではなく、地方も独自の政策決定ができない状況に陥る可能性があると思います。とくに有事の場合は、地方の自治権はなくなるように思います。すべて「アメリカまかせ」になるような気がします。

 したがって、日本のことは日本人自身が決める、あるいは、自分のことは自分が決めるという、民主主義の大原則に立ち返り、軍事同盟や特定の国を敵視するような対外関係を解消していくことが、日本の課題であると思います。そして、それが、政治に対する日本人の関心を高め、日本人の政治的主体性を復活させることにつながると思います。

 現状を追認すると、日本が独自の外交や政策決定ができず、日本人の政治に対する関心は薄れ、民主主義が意味を持たなくなると思います。

 また、メディアが西側諸国を主導するアメリカの戦略に追随するような報道しかしなければ、政権が変わる可能性は少なく、たとえ政権が変ったとしても、その政策に大きな変化は期待できないと思います。

 現在国際社会は、アメリカを中心とする西側諸国とブリックス(BRICS)や上海協力機構(Shanghai Cooperation Organization、略称: SCO)に結集する国に分かれつつあるように思いますが、それは、大雑把に言えば、かつて植民地支配をした国々(欧米)と支配された国々および社会主義革命を経験した国々に分かれつつあるということだと思います。

 

 下記抜粋文で、ケニアにおいてイギリスが何をしたのか、また、ケニアの人たちの思いがその後どのような政治活動につながっていったのかを知ることができるように思います。私は、下記のような記述を見逃すことが出来ません。

若者層の怒りは、ケニアの現代史において常に極めて決定的な意味をもってきた。その典型的な例として、1950年代末、英国が白人入植事業で、ケニアの最も肥沃な土地が集中するケニア山周辺の地域をギクユ人から奪ったことに抗議した、英国当局がマウマウと呼んだ蜂起(ないし戦争)がある。

 ギクユ人は、ケニア中央部に住むバントゥー系農耕民だといいます。その農耕民から、ケニアに入り込んだイギリス人が土地を奪ったから、彼らは「ケニア土地自由軍」を組織し蜂起しました。でも、ギクユ人の蜂起は、イギリス植民地当局の圧倒的な軍事力で潰されてしまったのです。そうした歴史が現在につながっていることを忘れてはならないと思います。

 アメリカを中心とする西側諸国が、国際社会に素晴らしい文化・文明をもたらしたことは誰も否定できないと思いますが、それを支えたのが、現在の法や道義・道徳に反する植民地支配新植民地支配であったこと、そして、そうした搾取・収奪に基づく他国支配が、もはやできない状況に変わっていることは、アメリカを中心とする西側諸国が封建的・絶対主義的国家体制を解体する市民革命を経て発展させた、文化・文明、法や道義・道徳が示していると思います。

 今もなお、ケニアにおけるイギリスのような振る舞いが、西側諸国によって、国際社会を欺瞞するかたちで続けられているために、著しい経済格差が生まれ、国際社会が対立を深めているのだと思います。イスラエルによるパレスチナにおける蛮行が、許されないことは、西側諸国が発展させた法や道義・道徳が示していると思います。西側諸国が中心のICJが、イスラエルのパレスチナ占領を違法と判断するに至っているのです。

 岸田首相は先だって、アメリカのワシントンで開かれた北大西洋条約機構(NATO)首脳会議で演説し、NATO加盟国がインド太平洋への関心と関与を高めていることを歓迎したといいます。どのように中国やロシアと関係を改善し、平和的に共存するかという視点を欠落した法や道義・道徳に反する演説だと思います。

 下記は、「新・現在アフリカ入門 人々が変える大陸」勝俣誠(岩波新書)から「第二章 民主化20」の 「4  ケニアの民主化と暴力の系譜」 の一部を抜萃しました。

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                    第二章 民主化の20

                 4  ケニアの民主化と暴力の系譜

 

 マウマウ戦争の現代的意味

 若者層の怒りは、ケニアの現代史において常に極めて決定的な意味をもってきた。その典型的な例として、1950年代末、英国が白人入植事業で、ケニアの最も肥沃な土地が集中するケニア山周辺の地域をギクユ人から奪ったことに抗議した、英国当局がマウマウと呼んだ蜂起(ないし戦争)がある。マウマウの語源は諸説あるが、ケニア人はケニア土地自由軍と呼び、その戦いはケニア人なら誰でも知っている出来事である。

 白人入植者に土地を奪われたギクユ人、とりわけ土地へのアクセスがほとんどなくなってしまったギクユ人の若者にとって、それは何よりも将来への絶望につながった。土地を持ち、結婚し、親孝行をするという男子のメンツが、この植民地政策下では実現不可能になったのだ。

 彼らの武装蜂起は一時広がりを見せ、英国民植民地当局は、村落の空爆、マウマウの活動地域での強制移動、拷問など、その後のアルジェリアやベトナムでの民族自決運動抑圧のお手本となるような過酷な措置に出た。結果、この蜂起は、植民地当局の圧倒的な軍事作戦で潰されてしまう。

 1956年の英国植民地当局の発表によれば、マウマウの戦死者は約1万人、ヨーロッパ人95人、さらに2000人近いアフリカ人やインド系などのアジアの死者が出たとされた。しかしマウマウ戦争を検証した歴史家キャロリン・エルキンズは、アフリカ人側の犠牲者は実際は数十万人に上ると示唆している。 

 これを機に、ケニア社会には世代間対立の種が蒔かれていった。すなわちマウマウ蜂起が鎮圧され、ケニアが63年に英国植民地から独立して行くプロセスの中で戦って、結局報われなかった若者と、英国の植民地総局と妥協することによって、自らの地位を維持・拡大していった新興政治エリートとの間の亀裂である。この亀裂は、今日のケニアの政権の性格を規定する重要な要因であろう。

 

 盗まれ続ける若者の革命

 他の多くのアフリカ諸国のポスト独立期と同様、ケニアのポスト独立期も、独立期の権力のとり方によってその方向が決められたと言っても過言ではない。

 独立時に「英雄」として登場した穏健派のケニア政府ケニヤッタ政権は、マウマウ戦争の犠牲者の名誉回復を葬り去ろうとした。それを受け継いだモイ政権時代。マウマウの復権を一応はかりながらも、同じ民族集団の貧困層からは必ずしも支持されなかったキバキ政権……。これらすべてが、独立以降の国富の処分と私物化に膨大な権力を行使できる政治エリートという特権層と、選挙のたびに期待を裏切られた若年層との溝を深めたと言っても過言ではないであろう。

 マウマウ蜂起に参加した人々が要求した土地は、独立後、政治エリート主導でほぼ私物化され、命を落とした戦士はほとんど得ることがなかった。この現実は、2007年の「ポスト選挙暴動」後、ライバル同士が権力を分ち合う政権を発足させ、政治エリートは一応利害を調整したが、より公正な選挙で、よりましなケニア社会を求めた若者は、相変わらず貧しいという現実と重なり合う。

 ケニア地域を専門とする人類学者小馬徹は、この2007年の危機を「盗まれた若者革命」と名づけた(『神奈川大学評論』2008年第61号)

 2008年、以前マウマウの戦士が隠れたケニア山の麓を案内してくれた元戦士の孫である案内人の青年は、戦争が終わって、何ら報償らしい恩典もなく、現在にいたるも細々と農業を続ける祖父から聞いた言葉を筆者に教えてくれた。

 「マウマウの戦士は土を掴んで死んでいった」

 かくして、ケニアは90年代の民主化、07年の「ポスト選挙暴力」で大きな挫折を味わうことになった。そこで改めて浮き彫りになったのは、独立以来の政治エリート中心の議会民主主義の限界とともに、自国の富の分配の民主化こそが、独立以来、未完のアジェンダになっているということである。

 

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なぜ、ウクライナ戦争を支援するのか

2024年07月18日 | 国際・政治

 第三次世界大戦が迫っていると指摘する人がいます。私も、国際社会での西側諸国の動きが、それを示しているような気がします。日本の戦争準備もますます加速しているように思います。

 にもかかわらず朝日新聞は、714日朝刊の一面トップで、「刑務所か戦場か迫った警察」と題する記事を掲載しました。「ロシアの突撃兵 ウソつかれ前線へ」とか、”部隊8割死亡「死ぬために送られる」”などという副題が挿入されていました。

 また、その記事は2面に続き、”占領していない所に「旗立ててこい」”とか、”31歳「前進を偽装する撮影のためと気づいた」”、”34歳「誰も突撃の準備なんてできてなかった」”、「戦死者いとわぬロシア軍、東部戦線で攻勢強める」、”容疑者や移民に軍との契約を迫る「隠れ動員」も”と題する記事もありました。

 私は、徹底したロシア敵視の記事であり、プーチン社会主義政権を転覆しようとするアメリカの戦略に基づく記事だと思いました。

 これらの記事は、ウクライナ戦争の激戦地で捕らえられたロシアの突撃兵が、捕虜の一時収容施設で、朝日新聞の取材に応じ証言したものだということです。ロシア国内の反発をできるだけ小さくして、有利に戦いを進めるためには、あり得ることかも知れないと思います。でも、ウクライナの管理下に置かれたロシア兵の証言ですから、そのまま事実と受け止めることはできないところもあると思います。

 そして何より、こうした記事は、ウクライナ戦争の停戦を遠ざけ、ロシア領内へ攻撃を広げて、プーチン政権を転覆しようとするゼレンスキー大統領の主張(アメリカの戦略)を後押しする記事だと思います。対ロ戦争支持の記事だと思うのです

 逆に、ウクライナでは、暴力的な徴兵に遭遇したという動画の投稿が、ツイッターにしばしば投稿されています。(一例、https://twitter.com/i/status/1746829070992875715)。また、先日は、徴兵を逃れるために、国外に脱出しようとしたウクライナの男性が射殺さたとAFPBBNewsが報じました(https://www.afpbb.com/articles/-/3529140)。徴兵に関しては、ウクライナの方が苦しいだろうことは、明らかだと思います。いずれにしても戦争を続ければ、両方にさまざまな悲劇が起きるのであり、停戦すべきなのです。ウクライナの人々も、停戦を望んでいるという下記のような記事が、プラウダ(english.pravda)に掲載されていました。

 多数のフォロワーを持つウクライナのブロガーが、ゼレンスキー大統領に、できるだけはやく戦争を終わらせるよう呼びかけているというのです。ウクライナの人々は、戦争にうんざりし、失った領土を取り戻す必要性ではなく、「皆殺しになる」なる前に、戦争を終わらせる必要性について語っているというのです。だから、プーチン政権の転覆を意図するアメリカの戦略に従ってはいけないと思います。

Ukrainian bloggers with millions of followers call Zelensky for peace

Ukrainians sick and tired of war, call Zelensky for peace

https://english.pravda.ru/world/160031-ukrainian-blogers-peace/

 私が、アメリカの戦略に従ってはいけないと考えるのは、アメリカが戦争してでも、他国から利益を吸い上げないと国を維持できない体制になっていると考えるからです。以前取り上げましたが、エドワード・スノーデンが所属した国防総省の情報機関、国家安全保障局( National Security Agency:NSA)には、莫大な資金が投じられています。軍やCIAと連携する組織のようですが、アメリカは世界中から利益を吸い上げることによって、それらを維持し、世界中のあらゆる国に対して影響力を行使することができる体制にあるのだと思います。でも多くの場合、社会主義政権の国や反米政権の国は、利益を吸い上げられること、言い換えれば、搾取・収奪されることを拒否します。だから、アメリカはそうした国の社会主義政権や反米政権の転覆を意図し、戦争をくり返してきたと思います。

 西側諸国では、悪質な独裁者として知られるジンバブエフのムガベ大統領は、南アフリカの反アパルトヘイト運動を積極的に支援し、アフリカで絶大な尊敬を得ていたといいます。でも、南アフリカの白人政権は、一度ならず、ジンバブエの要所に対する爆弾テロや空爆などを行い、ジンバブエの不安定化を図ったといいます。

 下記抜粋文の記述を見逃すことができません。

南部アフリカ諸国がムガベ政権を支持し、欧米諸国が反ムガベ勢力を支持した「民主化のねじれ現象」の背景には、こうした経緯がある。支援公約を覆した英国政府と、ジンバブエを「ならず者国家」に仕立て上げ、反ムガベ勢力に多大な資金援助をする一方で食糧援助への反対さえも辞さなかった米国のジョージ・ブッシュ前政権のパフォーマンスも、一体誰のための援助か疑念を残した。

 下記は、「新・現在アフリカ入門 人々が変える大陸」勝俣誠(岩波新書)から「第二章 民主化20」の 「2 ジンバブエの政治経済危機」の一部を抜萃しました。

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                   第二章 民主化の20

                 2 ジンバブエの政治経済危機

 

 南部アフリカでのムガベ像

 第一は、ムガベが、ヨーロッパによる植民地支配に対して自らの力で独立を勝ち取った、アフリカ全体でも数少ないカリスマ的アフリカ人リーダーの一人であることだ。

 ジンバブエはかつて、英国の植民地推進者セシル・ローズの名にちなんで「ローデシア」と呼ばれた、白人中心の実質的アパルトヘイト国家だった。1960年代、ムガベは他のナショナリストと共に反植民地闘争を開始し、前出のジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線(ZANUPF)という名称でゲリラ活動を展開した。

 79年、ムガベは英国と停戦し(ランカスター合意)、翌80年、新生国家「ジンバブエ」の首相そして大統領になり、その後、2013年現在に至るまでその座にとどまってきた。

 80年代、ムガベ大統領は、首都ハラレに隣国南アフリカでは非合法とされていたアフリカ民族会議(ANC)の拠点を提供するなど、南アフリカの反アパルトヘイト運動を積極的に支援し、アフリカで絶大な尊敬を得た。これに対して南アフリカの白人政権は、複数回にわたり、ジンバブエのANC事務所への爆弾テロや空爆などで応酬し、ジンバブエの不安定化を図った。南アフリカの反差別運動に対するムガベ大統領の揺るぎなき支援は、南部アフリカでのジンバブエの評価を確固たるものにした。

 

 かつてANCのリーダーだったタボ・ムべキ元南アフリカ大統領が、数回にわたりジンバブエでの与野党間の対立の調停活動を行ったが、ムガベを説得できず、欧米のメディアにはムベキの軟弱な態度を非難する声さえ出た。しかし、その背景には、以前のムガベ支援へのANCの恩義あったと思われる。実際、60歳代でゲリラ戦の経験のないムベキが80歳代で独立戦争を戦ったベテランのムガベ大統領に向かってどこまで強い発言ができたであろうか。

 それどころか、かつて南アフリカのアパルトヘイト勢力を支援した諸国が加盟するSADCでは、2007年の首脳会議において、ムガベ大統領に対しては野党との対話を促す一方で、英国など欧米諸国による経済制裁を批判し、その圧力にアフリカ人として毅然と立ち向かっているとして、ジンバブエ支持が満場一致で再確認されたほどである。

 冷戦下に植民地支配に対して武力闘争によって独立を勝ち取った国が多い南部アフリカの現代史の文脈を見ないと、ムガベ独裁に対する欧米とこの地域の間の温度差は分かりにくい。

 

残る英国の公約反古ツケ

 危機が長びいたもう一つの要因として、白人入植者の土地問題に対する英国の対応がある。

 前述した1979年のランカスター合意の時点で、ジンバブエでは、わずか6000人の白人入植者が最も肥沃な土地のほとんどを所有し、450万人のアフリカ人が、残りのより生産性の低い土地での伝統的農業に押しやられている状況だった。英国政府は同合意で、白人の売り手とアフリカ人の買い手の合意による土地改革を、資金援助によって支援すると公約した。

 しかし実際には、それから10年たっても合意よる土地改革は進まず、それに追い打ちをかけるかのように、97年、英国のトニー・ブレア政権は、土地改革問題は植民地問題ではないとして土地改革支援の打ち切りを通告し、歴代の政権が継承してきた公約を覆してしまった。

 このとき、ジンバブエの国家財政は、IMFに課せられた経済改革の不調と旧解放軍戦士に対する大盤振る舞いによって、危機的状況にあった。そのため、ブレアの通告を受けたムガベ政権は、2000年になるや白人大農場を補償なくして接収。政権維持に功績のある軍人や与党関係者と貧農への再配分を強行したのである。こうした経緯から、身内への配分は良くないとしても貧農への補償なき土地接収自体は支持する、というジンバブエ人は、今日でも少なくない。

 南部アフリカ諸国がムガベ政権を支持し、欧米諸国が反ムガベ勢力を支持した「民主化のねじれ現象」の背景には、こうした経緯がある。支援公約を覆した英国政府と、ジンバブエを「ならず者国家」に仕立て上げ、反ムガベ勢力に多大な資金援助をする一方で食糧援助への反対さえも辞さなかった米国のジョージ・ブッシュ前政権のパフォーマンスも、一体誰のための援助か疑念を残した。

 

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独裁者一族の復権と、対中国、訓練円滑化協定

2024年07月14日 | 国際・政治

 79日、朝日新聞は一面トップで「日比、準同盟へ深化」と題する記事を掲載しました。「対中国、訓練円滑化協定に署名」との副題がついていました。

 日比両政府は、自衛隊とフィリピン軍が共同訓練などで相互に訪問しやすくする「円滑化協定(RAA)」に署名することによって、東シナ海や南シナ海で、”海洋進出を強める中国”に対抗するため、米国とともに、フィリピンとの安全保障面での連携を強化し、比との関係を「準同盟」級へと格上げを図るというのです。海洋進出を強める中国”という言葉を、自らの戦略に基づく言葉であるかのように使い、軍事的連携を深化させるというのは、日本国憲法の平和主義の精神に反する攻撃的な話だと思います。そんな話が、何の議論もなく進められていることに、愕然とします。

 ”海洋進出を強める中国”というのは、具体的にはどういうことなのでしょうか。また、そのことに関して、中国と何か話し合いをしたのでしょうか。中国の海洋進出が違法であるというのであれば、きちんと指摘して、法的に解決する努力をするべきではないでしょうか。そういうことを無視して、軍事的関係を強化するということは、やはり、中国の影響力拡大を阻止しないと、アメリカの覇権と利益が損なわれるということを踏まえたアメリカの戦略なのではないかと疑わざるを得ないのです。戦争を必要としているのは、アメリカではないかと思うのです。

 

 そういう意味で、現在のフィリピン大統領が、かつて戒厳令布告による強権政治を続けた独裁者フェルディナンド・マルコス大統領の息子であることも、私はとても気になっています。フェルディナンド・マルコス大統領は、当時、東南アジアにおける共産主義勢力の拡大を恐れたアメリカと手を結び、約20年間にわたって独裁政治を続けた政治家ですが、マルコスの独裁政権下では、政敵が拷問を受けたり、裁判なしに即決処刑されたり、失踪したりするケースが相次いだといいます。また、厳しい報道統制や不当なマスコミ弾圧もあったと言われています。

 不満を募らせたフィリピン国民によってマラカニアン宮殿を包囲されたマルコス一家は、ヘリコプターでクラーク空軍基地から逃れ、亡命に追い込まれました。そして、自らの不正行為を認めないまま、亡命先のハワイで亡くなったということですが、「クローニー(縁故・取り巻き)資本主義」という言葉が生まれるほど、彼の統治は、不正にまみれていたといいます。

 選挙で当選したとはいえ、フェルディナンド・マルコス・ジュニアの大統領就任は、.独裁者一族の復権といわれおり、とても気になるのです。そのフィリピンで、アメリカが最近、「防衛協力強化協定(EDCA)」に基づき、新たに4か所に基地を設け、台湾には大量の武器を売却し、韓国や日本と共同の軍事訓練も実施していることも、”海洋進出を強める中国”を理由としているようですが、緊張を緩和し、平和的に共存しようとする姿勢を示すことなく、中国を敵とし、近隣諸国で軍事的連携を深化させるということは、アメリカの戦略に従って、中国との戦争に向かうことだと思います。

 一貫しているのは、中国を敵視し、武力的に屈服させようとする戦略で、それは、アメリカ離れが進み、覇権や利益が危うくなっているアメリカの戦略からくるものだと思うのです。「対中国、訓練円滑化協定」で、アメリカの武力主義政策が強化されるということです。

 にもかかわらず、朝日新聞のこの記事には、批判的な記述はありませんでした。だから私は、朝日新聞をはじめとする日本の主要メディアは、日本国憲法の平和主義の精神をかなぐり捨てて、事実上武力主義のアメリカ政府、ホワイトハウスの広報機関になっているように思います。

 

 そうした姿勢を正当化するかのように、朝日新聞は 7月11日の社説で「ウイグル弾圧 文化と尊厳を奪う暴挙だ」という中国敵視の記事を掲載しました。こうした記事はくり返し目にしています。書き出しは、”イスラム教の礼拝所であるモスクが次々と取り壊され、空き地になる。そんな無残な光景が中国の新疆ウイグル自治区のあちことで広がっているという”ということなのですが、記事を書いた本人が確認したわけではなく、現地入りした本紙記者が、”一部の地域”で破壊の事実を確認したということです。だから、弾圧の実態はよくわかりません。とにかく自らの覇権と利益を維持しようとするアメリカの戦略に従って、中国を敵視する意識を広めるために書かれた記事だと思います。

 

 また、朝日新聞は710日の朝刊に、「病院や学校に攻撃ウクライナ死者啓46」という記事を掲載しました。記事の中に、”各地の当局によると、死者はキーウ32人、中部クリビーリフ10人、東部ドネツク州ポクロースク3人、中部ドニプロ1人。ゼレンスキー大統領は、医療機関や教育機関を含む100近くの建物が被害を受けたと指摘。「ロシアのミサイルを撃墜し、戦闘機を破壊しなければならない」とし、欧米に対し、供与された兵器を使ってロシア領内を攻撃することへの認可を求めた。”とありました。

 ロシアは否定しているのに、何の確認もせず、ウクライナ側の主張をそのまま事実として受け止める記事だと思います。また、ゼレンスキー大統領が、平和を取り戻す努力を求めたのではなく、戦線の拡大に理解を求めたということに対する朝日新聞の主張はありません。これも、ロシアを孤立させ弱体化したいアメリカの戦略に従っているからだろうと思います。

 

 この件に関し、ロシアのネベンジャ国連大使は、”一般のウクライナ人さえ疑問を呈しているのに「キエフ政権とそのスポンサー」はブチャやマリウポリの産院の時と同様、真実には全く興味を示さない”などと批判したということです。メディアきちんと確かめる責任があると思います。

 私は、日々の日本の報道に、アメリカの「善悪を逆様に見せる」( ジャフロミー氏)戦略、あるいは、「黒を白に変える」戦略を感じています。

 下記は、「日123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」青山透子(河出書房新社)の中から、日航123便墜落の目撃情報が明らかにしている事実に関する部分をところどころ抜萃したものです。下記のような多くの目撃情報から、日航やボーイング社、自衛隊や米軍関係者、日本やアメリカの政府関係者、報道各社の関係者などが、そろって真実の隠蔽に加担しているということがわかります。恐ろしい力が働いているのだろうと想像します。

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                 第四章 三十三回忌に見えてきた新たな事実

               1 事故原因を意図的に漏洩したのは米国政府という記事

 

●人命救助よりも大切だったのは赤い物体か?

 墜落現場がわかっていたにもかかわらず、人命救助をせずに、一晩中隠蔽工作をしなければならなかったとすれば、その突発的事態とはなんだろうか。これは目撃情報を繋ぎ合わせて考えるしかない。 ・・・

 本書では、日航123便墜落前に目撃されているファントム二機のみならず、赤い物体の目撃情報や遺族提供の写真に映った黒点の画像解析から分かった事実にもとづいて推測をしてきた。この点を重視しながら、さらに考察を進めてみたい。

 新聞報道や上野村の子どもたち、大人も含めた地元の人々が語る中では、「赤い閃光」、「ピカピカ光るもの」、「赤い流れ星」「雷のような光」、「真っ赤な飛行機」という表現が出てくる。私が直接インタビューした小林さんが見たものは、「ジャンボ機の腹部左側に付着して見える赤色のだ円、または円筒形のもの」という表現であった。赤のだ円または円筒形のものが付着……?

 高速で飛んでいる飛行機に付着したままということは考えにくい。

 そうなると低空で右旋回中の飛行機の左側腹部にピタッとついてきた物体、とするといくつか可能性のあるものが考えられる。誘導弾、いわゆるミサイルではないだろうか。

 ・・・

〇相模湾上空で機外を写した写真に映り込んでいるオレンジ色の物体。

〇静岡県藤枝市上空で低空飛行中の日航123便の胴体腹部に付着しているように見えた赤いだ円や円筒形のもの。

〇赤い飛行機を目撃した地元の人たち。

 

 これらの目撃情報の点をつなぐと、日航123便の動き方からも真実が見えてくる。

 ・・・

 その赤い破片(ミサイルの痕跡)を消すこと、それを最優先にして人命救助を後回しにした。遺体の状況から推定すると、その際、現場を破壊して何らかの証拠を消すためにゲル状燃料の武器を使用したのではないだろうか。このように結果からさかのぼって考えると、色々な場面の説明がつく。

 ・・・

〇完全炭化した遺体から推測できることとして、ガソリンとタールを混ぜたゲル化液体を付着させる武器を使用した可能性があるのではないだろうか。

〇非発表のファントム二機による墜落前の日航123便追尾が明確になった。

〇集落直前に赤い飛行機と思われたダ円や円筒形に見える物体を目撃した人がいる。

 

 この三点が物語ることは、武器を持つ自衛隊や米軍が関係していると思わざるを得ない、ということを明記しておきたい。

 

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自分の頭で、格差社会の世界を捉え直す 

2024年07月11日 | 国際・政治

 ウクライナやパレスチナで戦争が続く今、メディアの報道を鵜呑みにせず、自分の頭で世界情勢を捉え直す努力が大事だと思います。そうしないと、「台湾有事」などが現実のものとなり、悲惨な戦争に否応なく巻き込まれることに気づくべきだと思います。

 

 先日、アメリカのバイデン大統領が、「私が日本の防衛予算を増額させた」 と語ったことが「失言」として報道されました。バイデン米大統領がアメリカのABCテレビとのインタビューで、「私が日本の防衛予算を増額させた」と語ったのみならず、2021年に発足した米国、英国、オーストラリアの3カ国の安全保障枠組み「AUKUS(オーカス)」なども成果として挙げたといいます。また、「北大西洋条約機構(NATO)を団結させた」とか、「欧州以外の国々にウクライナを支援させた」などとも語ったということです。こうした発言は、バイデン大統領の高齢を不安視する、「あと4年を務めきれるか」との記者の質問に対し、大統領としての外交成果を誇る文脈で飛び出したということですが、バイデン大統領は、アメリカが帝国主義的影響力の行使によって、国際社会を動かしている現実を語ってしまったということだと思います。

 バイデン大統領が、中国に仕掛けるために、日本の防衛予算の増額を提案し要求したから、それを受けて、岸田首相が、2023年度から5年間の防衛費を総額43兆円とするよう財務大臣と防衛大臣に指示したのだと思います。日本はバイデン大統領の発言に対し、「わが国自身の判断」 だと申し入れをしたようですが、増額決定の経緯を踏まえれば、そうでないことは明らかだと思います。

 だから、こうしたアメリカの帝国主義的影響力行使に目をつぶるようでは民主主義を語る資格はないと思います。また、日本の防衛予算の増額が、国会はもちろん、閣議での議論もなく決定されたことを「民主主義の否定」として問題視しない日本のメディアは、日本政府同様、すでにアメリカの忠僕に成り下がっていると思います。

 

 先日の東京都知事選挙で、蓮舫氏が大敗したことを受けて、立憲民主党関係者が、野党共闘のありかたに言及し、共産党との共闘を見直すことも検討課題になるというようなことを口にしたようです。それは、連合の芳野会長が、たびたび「連合は共産党とは考え方が全く違う。そこの考え方を再度、立憲民主党には申し上げることになる」と語ったり、国民民主の関係者が「共産党と堂々と連携する人は応援できない。共産党と連携する人が東京の知事では困る」と述べたりしていたからだと思います。

 でも立憲民主党が、そうした考え方を受け入れることは、日本の戦後史や現状を客観視しない人気取りの党になってしまうことだと思います。アメリカの戦略を見すえて対応しない限り、日本の発展や民主化はないことを忘れてはならないと思います。

 

 戦後、日本を統治したGHQの「逆コース」といわれる対日占領政策の転換以来、日本は客観的な歴史認識や情勢認識が受け入れられない状況にあると思います。 

 当時、すでに米ソを軸とする東西の冷戦が始まっており、朝鮮半島では、南北朝鮮が対立し、中国では、毛沢東率いる共産党軍が、蔣介石の国民党軍を追いつめていました。

 だから、共産主義勢力の台頭を恐れたアメリカの占領政策は180度変わり、「マーシャル・プラン」によるヨーロッパ復興援助計画の反共政策とリンクさせた政策を日本の占領政策にも適用したと言われています。

 それは、戦犯の公職追放を解除し、一線に復活させたことにあらわれているように、戦後の民主主義を否定し,戦前への復帰を促すものでした。

 1948年、アメリカのロイヤル陸軍長官は「日本を共産主義の防波堤にする」と宣言したことはよく知られていますが、それは、日本を東アジアにおける主要友好国と位置付けつつ、ほんとうは「反共の防波堤(属国)」にすることであった、と言ってもよいと思います。

 以来日本人は、戦前の治安維持法時代と同じように、「共産主義者は怖い」「共産主義者は暴力革命を意図している」「共産主義国には自由がない」というような意識をいろいろなかたちで、持たされてきたのではないかと思います。

 思い出すのは、下山事件、三鷹事件、松川事件という「国鉄三大ミステリー事件」その他、連続的に発生した凶悪事件です。当時の日本人に、治安維持法時代の反共意識を復活させたといえる事件だったと思います。そう言う意味で、松本清張が『日本の黒い霧』で指摘したことは、きわめて重要だと思います。当時の「国鉄三大ミステリー事件」をはじめとする事件は、さまざまな事実が、日本を反共国家にするための、CIAの謀略であったことを示してると思います。それらの事件が、日本人の反共意識を復活させたといえると思うのです。また、レッド・パージも、日本人の反共意識を高めることにつながったのではないかと思います。

 そして現在も、日々中国やロシアを敵視する報道のなかで、くり返し日本人に反共意識が刷り込まれていると思います。

 そうした背景を無視して、反共的な連合幹部や国民民主党にすり寄れば、立憲民主党の存在意義はなくなってしまうと思います。日本では、保守の政治家のみならず、主要メディアの中枢、そして、労働組合の組織のリーダーさえも、アメリカの戦略を受け入れてしまっているように思います。

 

 でも、NATOが、日韓豪NZと連携強化目指すというのも、中国やロシアを敵視するアメリカの戦略に基づくものであり、決して平和な国際社会をつくろうとするものではないことを見逃してはならないと思います。

 戦争をくり返してきたアメリカの戦略が、国際社会の平和に逆行するものであることを見逃してはならないのです。 

 

 最近、ヨーロッパ諸国では右翼の抬頭が著しいようですが、その背景は、経済の行き詰まりや格差による移民問題ではないかと思います。

 最近の国際社会のグローバル化により、人やモノ、お金、情報や文化などが国境を越えて行き来するようになりました。だから、経済成長や技術革新などが進んだ一方で、人や国家の間の格差も拡大し、貧困問題や移民問題が大きな問題になってきているのだと思います。

 言い換えれば、それは、マルクスの指摘した窮乏化の問題であり、人類がいまだに「窮乏化」問題を乗り越えられていないということだと思います。格差の解消に成功していないといってもよいと思います。

 なぜ、アフリカや中東を中心とする国々から、大勢の人々が命を懸けて、西側諸国を目指すのか、また、その実態はどうなっているのか、ほとんど議論や報道がありません。でもそれは、西側諸国の植民地主義や新植民地主義に基づく長期間にわたる搾取や収奪の結果であることは明らかだと思います。でも、西側諸国は、そのことを自覚し、対応しようとせず、不法入国者を東アフリカのルワンダに移送する計画などを進めているといいます。とんでもない、人権無視の計画だと思います。

 中国によるウイグル人への実態不明の人権侵害に関する議論や報道はくり返されているのに、毎年多くの死者が出ている西側諸国の不法移民の問題は、ほとんど議論されず、報道されないのはなぜか、

アフリカや中東の窮乏化の問題や経済格差の問題を乗り越えようとせず、不法移民の強制送還で対応しようとすることが許されてしまうのはなぜか、考える必要があると思います。

 そして、国際社会をリードするアメリカは、窮乏化や格差の問題に向き合うことなく、固定化しようとさえしていると思います。アメリカという国は、圧倒的な覇権や利益の維持を続けなければならない仕組みになっているのだと思います。

 だからアメリカは、戦争してでも、ロシアや中国の影響力拡大を阻止する必要に迫られているということができると思います。

 

 先日、トヨタ自動車の子会社が「下請けいじめ」”との報道がありました。公正取引委員会が下請法違反を認定したというのです。そしてそうした違反が、2024年に入ってから急増しているというのです。

 また、”働き手1人あたりの5月の「実質賃金」は、前年同月より1.4%減り、過去最長を更新する26カ月連続のマイナスとなった”との報道もありました。

 こうした現実は、日本の政治家や労働組合のリーダーが、きちんと日本の働き手を代表せず、搾取や収奪をする側に立っている結果だと思います。

 また、NATOも、基本的に搾取や収奪をする側の軍事組織であるといってもよいと思います。NATOはかつて植民地支配をした国々の組織であり、現在も、新植民地支配というかたちで、多くの国々から利益を吸い上げている国々の組織だということです。

 本来、窮乏化を乗り越え、格差を解消するためにはどうすべきか、答えをださなければならない立場の国や組織や人が、自身の延命しか考えなければ、国際社会で、悲劇がくり返されることになると思います。

 下記の「日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」青山透子(河出書房新社)からの抜粋文に、”この話を元自衛官にしたところ、「核心に近づくと妨害や脅迫が増えてくるから気を付けた方がよい」という丁寧なアドバイスまで頂いた”とあります。日本という国がどういう国であり、日米関係がどういうものであるかを示していると思います。

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              第三章 「小さな目は見た」というもう一つの記録

              3 ガソリンとタールの臭いが物語る炭化遺体と遺品

 

●検死に関わった医師たちの証言

 乗員4名と乗客1の司法解剖を担当した群馬大学医学部の古川研教授は、遺体の状況を衝撃的に記述している。

『(機体)前部の遺体には損壊や焼損が目立ち、衝撃の凄まじさと主翼の燃料タンクの火災の影響を受け、焼損遺体の中には部位も判然としないものがあり、通常の家屋災現場の焼死体をもう一度焼損したように見えた(略)』(群馬県医師会活動記録『日航機事故に対する法医学の対応』昭和61101日発行)

 通常の家屋火災現場の焼死体をもう一度焼損したという遺体……。

それほどまでにジェット燃料は凄まじいのか」

 取材の際、医師、歯科医師、消防団の人たちから逆にそういう質問を受けたことを思い出す。一度焼けた遺体がもう一度焼損することは、まったく別の何かによって再び燃えたという意味にとれる。いずれにしてもジェット燃料だからという理由では説明がつかないのではないか。

 エンジンもそれぞれがバラバラの位置に落ちており、翼にある燃料タンクから漏れ出たとしても、それよりも遠いところまで燃焼した痕跡がある。

 この墜落現場の状況の地図(次ページ参照・略)に関しては、上野村消防団や営林署、群馬県警も同様に確認していることからほぼ正確である言える。

 次頁の地図の破線で囲ってある部分が焼損区域である。確かに広範囲に燃えたことはわかる。

 生存者が発見されたスゲノ沢第三支流周辺に、No1エンジン(第一エンジンナン)、No2エンジン(第二エンジン)、後部胴体が沢を滑落して落ちている。左右の主翼内部が燃料タンクであるにもかかわらず、実際にはここだけ全く火災が生じていない。完全遺体百体ほどあった場所である。この一帯は40度近い急勾配で、沢も山頂からはまったく見えないところである。

 ところが山頂の激突した周辺および、左主翼もエンジンも何もないところがひどく焼けている。地図では前部胴体と書かれているところから機首部周辺である。左と右の主翼が落ちた部分ならまだわかるが、エンジンもないこの場所が著しく燃えていた。

 実際に医学的資料として撮った検死写真にも、ポロポロと崩れるほど炭化した遺体が写っている。これは消防団にも確認したことだが、雷や夕立の多い湿った夏山であることから、通常の火災はそれ

ほどまで広範囲に広がらないという。ましてや重要なのは、ジェット燃料のケロシンは灯油とほぼ同じ成分ということだ。名古屋など他の航空機火災で真っ黒になった遺体あったという報告書もあるが、これは煤の成分が付着した状態で黒くなったものである。

 1986年にまとめられた群馬県医師会活動記録には、『筋肉骨の完全炭化が、著明であった』という記述がある。

 完全炭化という言葉を使って医師たちが指摘しているように、歯や骨の中心まで炭化した状態であったのはこの事故が初めてといえる。

 これは歯型から検死を行った群馬県警察医で、現在84歳の歯科医師である大國勉氏にもを確認した。 その完全炭化というのは、「黒いコロコロとした塊があるだけで、人としての原型をとどめておらず、歯を含む骨まで完全に炭化した状態」ということであった。身元確認のためにそっと手で触るとポロポロと崩れてしまうので、どうしようかと思案しながら検死を行ったのだが、本当に大変な作業だったと語ってくださった。

 どうやら緑多く、木々が茂る山中に放り出された生身の肉体が、炭化するほど焼けるのが最大の疑問である。飛行機の燃料は灯油の一種だという話をしたところ、かつて灯油を何度もかぶって自殺した遺体を検死したことがあるが、ここまで焼けていなかったという。医師たちはこの炭化状態になった遺体がジェット燃料によるもの、と思い込んでいたようだ。しかしながら、科学的にその成分から考えると、炭となった結果との整合性がつかないとのことであった。

 ・・・

ーーー

      第四章 三十三回忌に見えてきた新たな事実 ~目撃証言からの検証~

   1 事故原因を意図的に漏洩したのは米国政府という記事

 ●ガソリンとタールの異臭について。

 事故当日の朝、極めて早い時間に現場に足を踏み入れた消防団の人々による証言をもとに、現場に漂っていた臭いから推定されるものについて、元自衛隊関係者、軍事評論家、大学の研究者などに質問をぶつけてみた。なお、その臭いの現場が日航123便の墜落現場ということは伏せて質問をした。

質問1  ガソリンとタールの臭いが充満し長時間燃える物質は何か。その結果、人間の体が炭のようになる状態(完全炭化)のものは何か。

 このシンプルな質問に対して、共通する答えは次のとおりである。

 答え ガソリンとタールを混ぜて作ったゲル状燃料である。

 

質問2 なぜそれが人間の体を炭にするのか。

 答え、化学薬品によってゲル状になったガソリンであるため。これが服や皮膚に噴射されて付着するとそのすべてが燃え尽き、結果的に炭状になる。

 

質問3 これはどこで手に入るのか。

 答え 一般にはない。軍用の武器である。その武器は、燃料タンクを背負い、射程距離は約33mで歩兵が用いるものである。第二次世界大戦中は米軍で使用された。M1M22種類がある。昔の武器というイメージがあるが、戦後は米軍から自衛隊に供与されていた。現在も陸上自衛隊の普通科に携帯放射器として配備されている。これはM2型火炎放射器の改良型である。噴射回数10回まで可能。噴射用の圧縮空気タンクを連結している。今でも駐屯地祭でデモンストレーションしている。

 

質問4、それはどこにあるのか。

 答え、陸上自衛隊普通科歩兵、化学防護武器隊で、相馬原普通科部隊にもある可能性が高い。

 

 1985年当時に実際に確かめたわけではないので、確実とはいえない。しかし、いずれにしてもその臭いがガソリンとタールということから、この武器を使用したとすると筋が通ってくる。

 ちなみにこの話を元自衛官にしたところ、「核心に近づくと妨害や脅迫が増えてくるから気を付けた方がよい」という丁寧なアドバイスまで頂いたが、逆に核心はこちらだ、ということを暗示されたようなものだった。

 こういった武器を平時に使うとはどういうことなのだろうか。

 完全なる証拠隠滅を狙った指令が出て、それに従ってしまったのだろうか。

 万が一、このような状況を作り出した人たちがいたとすると、恐ろしいなどということを超えて背筋が凍るような話である。もしこの武器によって遺体が完全炭化してしまったとすると、それを命じた人、それに従った人たちは今どうしているのだろう。この事実を闇に葬ってしまうことで、罪ら逃れたと勘違いしているのではないだろうか。その危険性をしっかりと認識せず、検証することもないままだとすると、次の事故、事件につながる可能性は非常に大きい。

 今こそ事故の原因を明らかにしなければならない理由はそこにある。

 それではなぜ炭化状態にする必要があったのだろうか。そのいきさつと理由を考えてみる。

 

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すべての個人情報を差し出すのか?

2024年07月07日 | 国際・政治

 さまざまなところでモラハラや企業従業員のモラルの低下が問題になっています。私は、それは長期にわたる自民党政権の悪政の結果ではないかと思っています。

 先日、朝日新聞は、川崎重工業が海上自衛隊の潜水艦乗組員らに対し、下請け企業との架空取引で捻出した裏金で物品を購入したり接待したりしていた事実を報じました。20年も前からのようだといいます。またか、と思いました。

 政治家や大手企業の不正は、途絶えることがありません。改善の兆しがないばかりでなく、年々悪化しているように思います。発覚しなければ何をやってもよい、というような状況になってきていると思うのです。

 だから、情報処理サービスなどを手掛けるイセトー(京都市)がランサムウエア(身代金要求型ウイルス)に感染し、およそ150万件の個人情報が流出したというようなことも、これから増えるのではないかと心配です。

 

 にもかかわらず、河野太郎デジタル相は、マイナンバーカードを、健康保険証やお薬手帳、診察券や、運転免許証、外国人在留カード、公金受取口座などと一体化する方針を強引に進めています。しばらく前には、マイナンバーカードと健康保険証の一体化に向けた取り組みを前倒しするために、「保険証を廃止する」方針を示しました。私は、とんでもないことだと思いました。また、マイナンバーカードの健康保険証としての利用登録公金受け取り口座の登録でポイントを付与するなどというのも、いかがなものかと思いました。そんなことまでして、計画を進める理由はいったい何か、と思ったのです。

 また、国家が国民の個人情報すべてを一括して握ることには、モラルの低下が著しい時代だけに、大きな不安があります。権力やマイナカードの関係者がカードの個人情報を恣意的に利用する不安があると思います。また、ランサムウエア(身代金要求型ウイルス)に感染した場合、どういうことが起きるのかもよくわかりません。

 さらに、国民皆保険制度の日本で保険証を廃止し、マイナカードと一体化するという方針は、事実上マイナカード取得を強制することだと思います。当初、カードの取得は「任意」とうことだったと思います。だからマイナカードは本人が申請し、受領することになっていると思います。河野デジタル相が、マイナカードを扱う現場の実態や保険証を使い続けたいという人たちの思いを理解して進めているとはとても思えません。だから、今までの保険証を廃止し、マイナカードに諸情報を一体化させる計画を進めようとすることには、何か別の目的や意図があるのではないかと疑います。

 全国民が所持することになるカードに関わる企業にとっては、きわめて大きな永続的仕事でしょうし、莫大な利益がともなうと思います。だから、計画を進める政治家と企業の関係も気になるのです。

 しばらく前にもとりあげましたが、アメリカ国家安全保障局 (NSA) および中央情報局 (CIA) の元局員、エドワード・スノーデンは、NSAによる国際的監視網(PRISM)の実在を、告発しました。

 また、「スノーデン 監視大国日本を語る」エドワード・スノーデン、国谷裕子、ジョセフ・ケナタッチ、スティーブン・シャピロ、井桁大介、出口かおり、自由人権協会監修(集英社新書)では、スノーデンが、インタビューのなかで、次のようなことを語ったことが明らかにされています。

 

 国谷裕子 ─ アメリカはマルウェアを作動させて日本のインフラを大混乱に陥れることができるというのは本当のことでしょうか。

 スノーデン ─ 答えはもちろんイエスです。

 

 さらに、2017年、日本関連の秘密文書が新たに暴露されたということですが、そこには大量監視システムXKEYSCORE(エックスキースコア)が、アメリカ政府から日本政府に譲渡されていることが記されていたといいます。

 だとすれば、もはや日本には、プライバシーなど存在しないということではないかと思います。きちんと議論すべきで、黙殺してよいということではないと思います。

 そんな状況のなかで、さらにマイナカードによる全国民の諸情報の一体化を進めことは、合意なく一方的に進めてよいことではないと思います。

 アメリカ兵が少女に暴行した罪で今年3月に起訴された事件は、政府から県へ情報提供がされなかったといいますが、その他にも隠蔽された犯罪があったといいます。米軍をかばい、沖縄県民の人権を蔑ろにする政府のもとで、マイナカードによる諸情報の一体化を進めることには、慎重であるべきだとと思います。

 

 下記の「日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」青山透子(河出書房新社)の抜萃文のなかに、日航高木社長の「そうしたら私は殺される」という言葉が出てきます。重大な意味を持つ言葉だと思います。日本人は、その意味を深く考え、法治国家日本のモラルの立て直しに生かす必要があると思います。

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                第二章 新たに浮かび上がるあの日の証言

               1 遺族となった吉備素子氏の体験と記憶。

 2011826日(金)は、午前中の晴天から急激な雲に覆われて、恐ろしいほどの強い雨と稲妻が鉛色の空にピカピカと不気味な光を放っていた。

 吉備素子氏(現在74歳)が出版社の会議室に入った直後のことだったため、無事に東京駅から神保町まで雨に打たれることはなく来られてほっとしたのを覚えている。そのとき録音された会話の合間に雷鳴が響きわたり入ってる。それはまるで天からの520名の怒りに満ちた相槌のごとくであった。

 小柄な吉備さんは股関節脱臼で少々足が不自由になり、左手に杖を右手にステッキバックを引いていらした。夫の吉備雅男さん(当時45歳)は塩野義製薬次長として出張中に事故に遭遇した。私の本を読み進めているうちに、その中で記述された学生が持つ疑問と自分のいくつかの疑問が一致し、すっきりと解消されたという。そして即、出版社に連絡を入れたのです、ということだった。

 私が日本航空にいた人間だということで、笑顔で逆に気を遣ってくださりながら、この一言から始まった。

「私ら子どもたちも整備から来たという日航の世話役のKさんには、本当にお世話になりました。子どもたちもkさんのお陰で救われた、といっています。顔を真っ赤にしながら、寝ないでお世話をしていただいた、とてもよい方でした。でも世話係で遺族が喜んでくれるような本当に良い人、そういう人は会社では不利になったみたいで、その後あちこち飛ばされる、と聞いていたから気の毒でねえ。もう日航に戻っていいよ、って遠慮してこっちから言ったぐらいです」

 整備出身の世話役ということであれば、まさに事故原因に直結する部署だから、よほど気を配ったのだろう。遺族の方から感謝という言葉を頂くと私も嬉しかった。ただ、遺族のために尽くすのが当然の世話役の仕事である。それが親身になってくれる人ほど社内で不利になるとはなんということだろうか。まるで逆ではないかと唖然とせざるを得なかった。それも実際に多くの事例があったと聞いている。この期におよんで組織の利益を優勝させてきたということだ。当然のことながら、この社風は後の倒産にもつながったのだろう。

 

 ・・・

 

 吉備さんは、遺体安置所で部分遺体となった夫の身元確認をしながら、その一部を荼毘に付して、夫の社葬、日航の合同葬と日々過ぎてゆく。会社の書類が入ったカバンはほぼ無傷のまま見つかった。 928日に大阪にて49日の法要、929日に藤岡市光徳寺でも同じく49日の法要が行われた。日航の女性社員18名を含んだ社員百名で法要や藤岡の体育館清掃を手伝った。105日、藤岡市民体育館にて施主を黒澤丈夫村長として、身元不明者のご遺体出棺式、1022日大阪城ホールにて大阪地区追悼慰霊祭、1024日、日比谷公会堂にて東京地区追悼慰霊祭が行われた。

 そんな慌ただしい日々の中、吉備さんは日航本社(建て替え前の東京ビル、千代田区丸の内二ノ七ノ三)に一人で高木社長を訪ねている。そのいきさつについて話をしてもらった。半官半民の日本航空では、歴代の社長はすべて経済界や運輸省からの天下りであった。その中、高木氏は日航生え抜きの社長である。

9月ごろに遺族に対して日航の方から、身元不明の部分遺体や炭化が著しいもの、骨粉など10月中にすべてを荼毘に付すとの連絡があってね。検死の困難さも見ていたから、それも仕方がない、やむを得んなあと思っていたけど、104日に群馬入りしたら、血液検査を頼んでいた主人の足と思われる右大腿部の大きなものまで、荼毘にされていて、アッ無くなっているって驚いたんです。事前の連絡とちがう。ひどいって、私は警察ともめだした。世話役が間に入って、警察と掛け合ってくれたけど、日航は警察の検死現場に入るなと言われたのを見ていたしね。現場責任者の日航重役の人も『僕らは何もできない』と、私らと一緒に泣いて、泣いて……。でも、泣いていたって、こんな状態で10月中に全部荼毘に付すのはいかん、あなたらができんのならば、直接、高木社長に会いに行きましょう。本社に行きましょう、と言って東京に行ったんです。その時について来んでもええ、と言ったのに、何やら女性的な雰囲気の世話役の人が『ふいふい』言いながら(内股で歩いて)ついて来た。吉備さんって男性的ですねえ、って」

日航本社の社長室に通されて、高木社長と実際に会って話をすると、山中の墜落現場にも行っていない、黒焦げの遺体も見てない、彼はまったく現場を見ていない様子だった。

 そこで「あのような状態で、遺体を荼毘に付しては520名が浮かばれない。私と一緒に中曽根首相のところに行って直訴しましょう。あんたの命をかけても首相官邸に行ってください、そう言ったんです。そしたら、急に高木さんはブルブルと震え出して『そうしたら私は殺される』そない言うて殺されるってね。何って思ったら、隣に座っていた女性的な世話役も震え上がっている。なんで? と思った。一緒になってフルフルしている。本当に怯えていた。殺されるって、命かけての意味わからんのか、おかしい、これはもうどうしようもない状態だった」と語る。

 高木社長が首相官邸に行ったら殺されると怯えていたということは、一体どういうことなんだろうか。この時すでに後部圧力隔壁の修理ミスということで97日にボーイング社より手落ちがあったと報道されている。日航だけのせいではないと事故原因もはっきりしたはずである。それなのに中曽根氏のところに行ったら殺されるとは穏やかではない言動だ。ましてや日航の社長として事故についてまず詫びるのが先ではないか。この振る舞いは、遺族を前にして恥かしい失態だと片付けるだけであまりにもお粗末である。

 もしかすると町田副社長が遺族に叫んだ『北朝鮮のミサイル』をネタに中曽根氏から、「正直に何かしゃべったら恐ろしい人が来るよ」とでも聞かされて、脅されていたのだろうか。今でこそ、新型の弾道ミサイル実験として、時おり日本政府の都合にタイミングを合わせたように、日本海に飛んできている状態であるが、1985年当時に北朝鮮から領空侵犯して相模湾まで入ってピンポイントで日航機を撃ち落とすほどの技術があるはずもない。当時、そんな高度な技術があれば、いまさら実験などしているわけがない。例えば、1983年の大韓航空機爆破事件のように、北海道より北のルートでソ連(当時)にやられたというなら話は別だが、単に北朝鮮の怖い人、という話にひっかかったかかとすると、当時の社員としてはあまりに情けない。しかしながら、普通に話ができないほど怯えている高木社長を目の当たりにして、吉備さんは気丈に言った。

「それなら私の一人で行きます、って、そう言ったら、二人とも、えっ、 て顔を見合わせて。そうしたらしかたがないから、政府に対して口が利ける人、日航の社員の中で、公家さんかなんか出身の人が付いていくからって。その公家さんは私を先導して一緒にタクシーに乗って行ったんです。だけど、私は首相官邸に行くって言ってるのに、知らないまに着いたのが運輸省だった。東京の地理に不案内だったから、結局運輸省に連れて行かれた。会議室のようなところに通されて、そこである程度権限を持った人が出てきたと思う。

 その男の人に『あんな遺体の扱い方ではいけない、遺族は納得しませんよ。身元を確認してない人も多いのに、すぐ荼毘に付すとは、裁判でも何でもしますよ』って言ったら、その人は『僕は東大の法科を出ている。法学部出身者です』と、やれるもんならやってみろ、といった顔つきで言い返してきた。そこで『ほんなら話は早い、わかってるならなおさら』と私も言った。逆にぎょっとしたような呆れた顔してはったね。『何か問題があるの? 法的に問題ありませんよ。まったく問題ない』ってすぐに答えた」

 日航の大株主で監督責任もある運輸省の官僚であるならば、東大云々といった話を出すよりも、まず遺族の気持ちを汲み、哀悼の意を持って誠心誠意接するのが当たり前ではないか。なぜすぐに自分たちの身を守ることを前面に出して防衛姿勢をとるのだろうか。事故原因に関しても10月の時点では全てが明らかになってないし、事故調査報告もまだまとまってない。「まだ今は詳細に調査中ですが、全力を挙げて対処します」というように当たり前の受け答えがまったくできていないではないか。

 それとも女性が一人で乗り込んできていることへの男女差別的偏見が先に立ったのだろうか。または必死に何かを隠そうとしていたのかもしれない。その真意はわからないが、いずれにしても高圧的で通常の人間の受け答えとは思えない振る舞いに遺族として怒りがこみ上げて当然だろう。

 

 さらに吉備さんは、運輸省の官僚にまだ身元確認が終わってない遺体をさっさと荼毘に付そうとしている姿勢について意見を述べたという。

「それじゃ、今の遺体の管理はどうですか? 私の夫のように保存して検査を依頼していてもさっさと荼毘に付されたり、遺体を取り違えたりしている。そんな警察の失態を話し始めたら、『それはいかん、わかりました』と青い顔して。『そういうことでしたら、善処します』と。今から私が群馬に帰るというと、『急いで何とかする』という話でした」

 この遺体取り違えに対しては、極めてまともな判断がなされたといえる。

 群馬に戻る、と急に命令があったのか、警察は突如全部の遺体を写真に撮っていたそうである。荼毘に付す日は延期されることになり、12月まで冷凍保存することになった。

 1220日、施主を上野村とする身元不明のご遺体出棺式が群馬県スポーツセンターで行われ、1221日には群馬会館にて収骨供養、光徳寺での仮安置ご遺骨とともに上野村役場に仮安置された。

吉備さんは、12月に入っても連日、夫の部分遺体を探し続け、最後にようやく足首を見つけ出した。  

 保存されていた身元不明の遺体を荼毘に付すという日の前日、警察の中にも吉備さんの行動をわかってくれる人もいて、真夜中まで待っていてくれたそうである。吉備さんは全部の遺体を両手でさわって、「見つけてあげることができなくてごめんなさい」と、おわびをしながら、最後のお別れをしたという。

 そこで私はあえて「事故原因を追及したら戦争になる」という話について聞いたことがあるかを尋ねた。

「それはねえ、警察で河村んと10月中に荼毘に付すという話をしていたら急に『戦争になる』という言葉が飛び出てきた。え? なんで? おかしいでしょう。私の父も戦死しているから、私も幼い時に朝鮮半島から屍乗り越えてきた引揚者で、ようやく生きて帰国した。そういう話なのかなと思ったけど」

 確かにボーイング社が修理ミスを認めているのだから、いまさら何も戦争にはならない。事故原因の話と戦争の話が一緒になるのは筋が通らない。

 河村一男氏といえば、群馬県警察本部長で日航機事故対策本部長を務め、1224日の事故対策本部の解散まで135日間にもわたり前例のない過酷な状況の下、捜査の総指揮を執った方である。責任感が強い人らしいが、事故原因の圧力隔壁説以外の説を荒唐無稽と断言していた。その人が、圧力隔壁だと言いながら、事故原因を追究すると戦争になると言うのはどういうことなのだろうか。米ボーイング社も日航もすべて認めているではないか。戦争になる要素など一つもなく、まったく辻褄が合わないではないか。この河村氏は警察を退職し、再就職をして大阪に行き、その後神戸に住いを構えた。この再就職先から吉備さんに電話がかかってきたという。その内容とは……

「私のこと、新聞や本とか名前が出ると、電話がかかってきてね。私を監視するためにわざわざ大阪に来たんやっていうてね。ずっと見てるぞという感じの話しぶりでした。あれえ? まったく不思議なこと。事故はきちんと解明されていると信じ込んでいるからね。監視はなんで? 高木社長に会いに行ったり、運輸省に一人で乗り込んだりしたからやろうか? 今思えば、そんな程度の問題とは違うやろ。きっと政府から何か言われてたんだろうなって。私らは国を信じ切っているからね。でも本当は違うんやなあって、そう思ったわ」

 警察を辞めたからといって、元群馬県警察本部長として立派な事故関連の本も書かれて人が、再就職したとはいえ、監視をほのめかすとはどういうことか。まず、監視そのものが通常では考えられない行為である。平成22年前後の話というから、すでに事故経緯が明確にわかっており、本人も他の説を荒唐無稽と否定しているにもかかわらず、アメリカと戦争になる、という話はまったく意味が通じない。それにしても時々電話がかかってきたというが、なぜ遺族である吉備さんを監視する必要があったのだろうか、元警察官部だった人がとるべき態度ではない。実におかしな言動だ。吉備さんの話が続いた。

「とにかく、おかしな話はたくさんあって、遺族もみんな連携してるわけではないのでね。日航の世話役の中でも、Oさんのように表向きはいい人なんやけど裏ではねえ。実際はあることないこと私らの悪口を言う人もいて……。それぞれが陰で何言われたかわからない。遺族間で、相手と組まないように散々吹き込まれている。横のつながりがいまだに持てないんですよ。日航はいまだに私たち被災者と呼ぶし、主人は(山で)遭難したままだから、何ぼ言っても直さない。私らは遺族でしょう。被災者やない。これも政府から日航が言われたのかなあ、わからへんけど」

 ・・・

 

 

 

 

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目を背けたくなる企みを凝視する

2024年07月04日 | 国際・政治

 名護市辺野古の新基地建設現場で死傷事故がありました。また、沖縄では、米兵による未成年の少女に対する性的暴行事件がありました。こうした悲しい事件が延々と続くことは、日本人には耐え難いことです。

 でも、事件に向き合わない日本政府の姿勢が明らかになっています。

 今年3月に起訴された事件では、政府から県へ情報提供がされなかったというのです。そして、同種の事件が他にもあったというのです。政府は、再発防止の措置など考えていないということではないか、と私は思います。

 この件に関し、小林外務報道官は、

常に関係各所への連絡通報が必要であるという風には考えておりません

 などと述べたことが報道されています。平然とこうしたことが言えるのは、沖縄の人たちの人命や人権を蔑ろにしているからだ、と私は思います。

 だから私は、こうしたことをなくすために、現実を直視し、総合的に情勢を認識して対応する必要があると思います。「見たくないものは見ない」、という姿勢では、こうしたことをなくすことはできないと思うのです。

 現在も、国際社会の声を無視するかたちで、ウクライナ戦争が続き、パレスチナのガザを巡る戦争も拡大傾向にあります。

 また、2023年度から5年間の防衛費を総額43兆円とすることは、国会はもちろん、閣議での議論もない岸田首相の「独裁的」決定でした。そして、それに基づく政府の「防衛力整備計画」は、円安や資材高などの影響で装備品の単価が跳ね上がり、既に計画額より8000億円以上超過する恐れがあるといわれています。

 そんな莫大なお金を費やして、着々と、アメリカの戦略に基づく「台湾有事」作戦の準備が進んでいるのだと思います。悪質な企みだと思います。

 だから、「見たくないものは見ない」という姿勢では、悲惨な戦争はなくせないと思うのです。人を疑うことはよいことではありませんが、権力を握る者や軍人のことばは、やすやすと信じてはいけないと思います。

 

 下記の「日航123便墜落 疑惑のはじまり 天空の星たちへ」(河出文庫)からの抜粋文のなかで、著者の青山透子氏は、

あの晩、目撃した子どもたちの小さな目は、未来に向けられている。

 私たちは誠実で嘘偽りのない子供たちの文章を読みながら深く、深く考えなければならない。32年後の今は、彼らが思い描いた未来と言えるのだろうかと自問自答しなければならない。特に長い間、為すべきことを為してこなかった関係者は心の底から詫びなければならない。

 あの日、あの時の記憶。それは地元の子どもたちのみならず、この事故に関わった人々の記憶に残り、受け継がれていくのである。

 と書いています。日航123便の墜落は、圧力隔壁が壊れて、垂直尾翼を吹き飛ばした、というような単純な整備ミスによる事故などではないのです。恐ろしいことですが、そこには目を背けてはいけない数々の事実があるのです。

 

 また、俄かに信じ難いことですが、同じように、下記のような報道にも目を向ける必要があると思います。

 世界中を震え上がらせたテロ集団(ISISは、”アメリカが供給した武器、アメリカが訓練した戦闘員、ワシントンDCの銀行から送られた資金を使ってイラク第二の都市を征服し、スンニ派イスラム教徒の住民を恐怖に陥れた”、というのです。

The notorious terror group used US-supplied weapons, US-trained fighters, and funding sent from banks in Washington, DC, to conquer Iraq’s second-largest city and terrorize its Sunni Muslim inhabitants.

 そしてその狙いは、シリア東部とイラク西部のスンニ派多数派地域に、これらの過激派勢力による国家を樹立させ(イスラム国)、シリアを、地域の主要な支援国であるイランから領土的に孤立させることだったというのす。「ザ・クレイドル」の関係者が、モスルを訪れた際の住民との議論を綿密に検討する と、この集団を最終的に破壊すると言った当時のアメリカ大統領バラク・オバマのことばや対応は、まったくの欺瞞であったというのです。

 思い出すのは、1979年、ソ連のブレジネフ政権が、政権転覆の危険が迫っているアフガニスタンの社会主義政権を支援するため、ソ連軍を侵攻させた時、アメリカのカーター大統領が、ソ連の武力侵攻を批判するだけでなく、ソ連を「悪の帝国」と呼び、経済制裁を発動するとともに、まさに、”アメリカが供給した武器、アメリカが訓練した戦闘員、ワシントンDCの銀行から送られた資金”をアフガニスタンの反政府勢力「ムジャヒディンに提供したのです。その中枢にいたのが、アルカイダのウサマ・ビン・ラディンだったことは、いろいろな人が指摘していることです。「ムジャヒディン」に武器や資金の提供を行ったアメリカ合衆国中央情報局 (CIA) のこの計画に対するコードネームは、イクロン作戦(Operation Cyclone)と呼ばれているということです。

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                 第3章 『小さな目は見た』というもう一つの記録。

                1 上野村小学校中学校の文集が語る235名の目撃証言

 ・・・

 その他にも、小学五年生のSM君は、ニュースでジャンボ機墜落報道があった時に、外で飛行機が追っかけっこしているぞ、と父親に言われて見たら、電気のついた飛行機が二機飛んでいた、と書いている。こちらはニュース速報後であるから、これは公式発表のファントム二機の可能性が考えられる。当日少なくとも墜落前に二機、墜落後に二機、合計四機のファントム機が飛んでいたということになるのではないか。

 墜落場所については父母と具体的な話をしている子どもが多い。例えば小学校六年生のEKさんは730分頃、『自分の家の上が何かうるさくなったため、外に出て見るとヘリコプターが何機も飛んでいた。夏期講習に行ってる兄からの電話で、飛行機が長野県北相木村に墜落したと聞き、びっくりした。夜中一時頃に姉がNHKに電話をして「絶対に日航123便は上野村に墜落していますよ」と伝えたところ、NHKの人が「はい、ありがとうございましたと」言った』とまで記述している。これは大変重要なことである。『次の日、姉はやっぱり私の言ったとうりに上野村だったじゃないと言いました』とも書いている。

 他の地元民も報道機関に電話しているが、テレビでは別の地名を報道し続けていた。小学校三年生でも、大人と地図を見ながら、『スゲノ沢に落っこちた』と書いている。

 当日、ドカーンという音が聞こえるほどの距離で、その前後に飛行機や自衛隊機を目撃し、さらに五機以上の多数のヘリコプターも目撃している。ぐるぐる回り、右から左へいったりきたり、という表現も多数ある。墜落した場所はお父さんが20年前に植林した場所だ、という子どもいて、その日のうちに上野村だとわかって現地に行く用意をしている。これでなぜ上野村という地名が墜落現場として挙がらなかったのだろうか。子供たちの目はしっかりと見ていたのである。

 さて中学校の生徒87名はどんな目撃情報を記しているのだろうか。

 それの目撃者は63%とこちらも多い。墜落現場については、中学校一年生のTN君が『お父さんが営林署の山に落ちたのかなと言いながらテレビを見ると、三国山とかブドウ峠とか言ってるので、実際に行ってみた。「どうもあの辺は木谷だなあ」と言っていた』と記している。そして『車のラジオでは長野県北相木村付近だと言っていたので、あまりラジオあてにならない』と書いている。ヘリコプターが山の陰に消えたりしているので、『もうこの時は、上野村だと思った。一刻も早く見つかって、生存者を確認してもらいたいとずっと思っていた』と、墜落地名不明の報道にもどかしさを感じている。さらに『学校がはじまって千羽中鶴を作り、航空史上最大ということがとてもショックだった』と書いている。

 中学校の文集には、ヘリコプターの数も、三機、十機と見た数を具体的に記述している。場所も木谷、時計山、御巣鷹山の方といった地名が出てくる。親戚や近所の人たちの会話、さらに場所について電話しているという記述もある。

 墜落前に見たものとして小学校でも記述があったが大きい飛行機と二機のジェット機が目撃されている。中学校三年生のYK君である。

『その日はやたら飛行機の音がしていた。父ちゃんがおかしく思って外に出て行って、「おいY、、飛行機が飛んでいるぞ。来てみろ」と言ったので行ってみた。飛行機は大きいような飛行機と小型のジェット機が二機飛んでいた。5分以上も経っているのに、さっきからぐるぐる回ってばかりいた。外に居ると蚊に刺されるので家の中に入った。そしてテレビを見ていたら「キロリン、キロリン」と音がして、なおいっそうテレビに注目した。ニュース速報で大阪行き日航ジャンボジェット機123便が、レーダーから消えましたと書いてあった』とある。

 これも大きい飛行機と二機の小型ジェット機である。二機はファントム機に間違いないが、大きい飛行機はアントヌッチ氏が後ほど手記を書いたように、墜落地点を探しにきたC─130の輸送機ではないか、という説もあるが、アントヌッチ氏は自衛隊の飛行機は見なかった、ということである。二機のファントム機と日航機による追いかけっこ状態だと推定さっる。

 

墜落現場となった村でしっかりと目撃されていた事実が書いてあるこの文章を残した意義は大変大きい。しかもどこか遠い国の出来事ではない。ましてや戦争でもなく、平時のこの日本において、群馬県の山中にある農村の子供たちが見たものである。

 目撃情報の重要な点を整理してみると次のようになる。

1 墜落前に大きい飛行機と小さいジェット機二機が追いかけっこ状態であった。

2 真っ赤な飛行機が飛んでいた。

3 墜落前後、稲妻のような閃光と大きな音を見聞きした。

4 墜落場所は上野村と特定できて報告したにもかかわらず、テレビやラジオでは場所不明または他の地名を放送し続けていた。

5 墜落後、多数のヘリコプター、自衛隊の飛行機、自衛隊や機動隊の車どなどを目撃した。

6 ヘリコプターは墜落場所をサーチライトのような強い明かりで照らしながら、多数行き来していた。7 煙と炎上がった山頂付近をぐるぐると回りながら何かをしている何機ものヘリコプターがブンブン飛でいた。

 

 これで墜落場所が不明だった当時はしかたがなかったとメディアも政府も言い張ることができるのだろうか。逆に何らかの作為があったと思われても仕方がない。

 子どもたちの父親には山を管理する営林署で仕事をしていた人も多い。数十年前の山火事で焼失した部分に新しい木を植林した父親もおり、その植林した木によって落合さんら四名は生還することができたということに感慨深い思いを抱いている子供もいた。文中に一番多く名前が出てきたのは、生存者の川上慶子さんで『助かって本当に良かった。お父さんもお母さんも妹も死んじゃったって悲しいだろうが、頑張って生きてほしい』と自分と同じくらいの年齢の子ども達にとって最も身近に感じたようであった。そして次のようなことばが一番重い。

「(前略)人の命、命というものはいくら高いお金を出しても買えません。お願いします。一生のお願いです。もうこんな惨酷な事故はおこさないでください。お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、友達、親友を亡くした人はどうするんですか。この事故で助かった人達、これからどうするんですか。『一生懸命生きてください。なくなった人のためにも。これが私のたのみです』」(原文、ママ 小学六年生MNさん)

 あの晩、目撃した子どもたちの小さな目は、未来に向けられている。

 私たちは誠実で嘘偽りのない子供たちの文章を読みながら深く、深く考えなければならない。32年後の今は、彼らが思い描いた未来と言えるのだろうかと自問自答しなければならない。特に長い間、為すべきことを為してこなかった関係者は心の底から詫びなければならない。

 あの日、あの時の記憶。それは地元の子どもたちのみならず、この事故に関わった人々の記憶に残り、受け継がれていくのである。

 

 

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ボリビアの反米政権転覆未遂とリチウム、

2024年07月02日 | 国際・政治

 下記の画像のなかに、

04/24/2024 - #Bolivia hopes to join BRICS.

06/26/2024 - coup attempt.

Bolivia also has loads of lithium.

 とありますが、ブリックスに加盟することを希望していたボリビアのクーデター未遂事件に関わって、私は、「メキシコ革命物語」渡辺建夫(朝日選書285:朝日新聞社)の記述を思い出しました。
この強力な軍事独裁政権の出現をいちばん歓迎したのは、メキシコ駐在アメリカ大使ヘンリー・レーン・ウイルソンだった。彼はマデロ夫人(当時のマデロ大統領夫人)に夫の命を救うため援助してほしいと懇願されたとき、厚顔無恥にも内政干渉することはできないと答えてつっぱねている。が、彼ほどアメリカの巨大な国力を背景に最大限メキシコの内政に干渉しつづけた男もいなかった。


いまも昔も、ラテン・アメリカで頻発する政変、クーデター、反革命の背後には必ずアメリカ合衆国政府の黒く大きな影があったのである

 だから南米のボリビアは、CIAの工作に負けず、クーデターを阻止し、ボリビアの貴重な資源、リチウム(lithium)が収奪されることを防ぐことが

できたのだと思います。

 

 ウクライナ戦争以後、アメリカと手を結んでいるG7NATO諸国は疲弊し、政権の支持率は低下して、どこも極右の台頭が著しいようです。見通しが暗いからではないかと思います。

 そして、日本にはますます戦争の危機が迫っているように思います。先日、朝日新聞のトップ記事は、”自衛隊70年、加速する「日米一体」 中国念頭、「列島線防衛」訓練に初参加”、と題されていました。

 訓練は「中国」を敵とするものです。でも、日本が中国を敵視することは間違っている、と私は声を大にして言いたいと思います。

 日本政府は、防衛力強化を正当化するために、しばしば「自由で開かれたインド太平洋」(Free and Open Indo-Pacific)という言葉を使いますが、その言葉は、中国の勢力拡大を止めたいアメリカの戦略からくる言葉であって、なかみが曖昧であり、日本が同調すべき戦略ではないと思います。

 アメリカのインド太平洋軍司令官、ジョン・アキリーノ氏は、しばらく前、「中国人民解放軍が2027年までに台湾に侵攻しようとする習近平国家主席の目標を達成しつつある」などと語ったようですが、私は、根拠のない「作り話」のように思います。

 アメリカはいつもそうやって、事の「善悪を逆さに見せる」(イラン政府報道官ジャフロミー氏)情報を流し、自らの対応を正当化して、有利な立場に立とうとしてきたからです。

 でも、中国が主導するブリックス(BRICS)や上海協力機構(SCO)は年々拡大しているのです。 台湾に侵攻する必要性などまるでないと言えると思います。わざわざ、台湾や周辺国を敵にまわすような侵攻などするわけはないということです。

 一方、世界中でアメリカ離れが進んでいることは、誰にも否定できない事実だと思います。だから、アメリカは中国の拡大を阻止するために、何としても、中国を「悪の枢軸」に加え、習近平を「極悪人」にしたいのだと思います。

 メディアの報道を鵜呑みにせず、情勢の変化を注視していると、”中国の軍事的台頭を背景に2010年の「防衛計画の大綱」で部隊配備が明記された 九州南端から台湾へと連なる南西諸島で、自衛隊の体制を強化する”という「自衛隊南西シフト」の政府の方針は、実は、中国を挑発するのが目的のアメリカの戦略なのだろうと思います。また、自衛隊の島嶼防衛( Defense of remote islands)策は、現実にはあり得ないことを想定している愚策だと思います。だからそれは、中国を挑発するアメリカの戦略に基づくものだと思うのです。 

 

 そして、日航123便墜落事故の対応にも、「アメリカ合衆国政府の黒く大きな影」が見えるのです。  

 だから、アメリカとの同盟を強化すれば、日本独自の外交が出来ず、日本の労働者が真面目に働いて得た富を吸い取られ、日本の国土がアメリカの覇権と利益のために利用されるのみならず、アメリカの戦争に協力させられることになると思います。政治家や大手企業の不正が横行するのも、そうした流れと無関係ではない、と私は思っています。

 

 下記は、「日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」青山透子(河出書房新社)から、政府関係機関の圧力隔壁破壊説を覆す、目撃証言の部分を抜萃しました。

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            第二章 新たに浮かび上がるあの日の証言

               3 目撃者たちの証言

 ファントム二機と赤い物体の目撃者

 20159月、「青山さんに聞いてもらいたい目撃証言がある」ということで突然出版社を訪ねてきてくれた女性がいる。その人は、1985812日に目の前を異常なほど低空で飛ぶ日本航空123便を見た、とのことだった。担当編集者がたまたま在籍していたが、次の予定があって私の代わりに少し話を聞いて職場の名刺と連絡先を受け取り、そのままになってしまっていた。今回の出版が決まって連絡をすると快く対応してくださり、改めて話を聞く機会を得た。

 現在は東京にて福祉関係の仕事をしていらっしゃる小林美保子さんは1985年当時22歳で、実家から静岡県藤枝市にある運輸関係の会社まで車で通勤していた。812日のあの日は、お盆前で仕事が忙しく、いつも17時半で終わる予定が1830分頃になってしまった。

 タイムカードに打刻して階段を下りて外に出た瞬間、「キャーン、キャーン」と二度、凄まじい女性の金切り声のような音を聞いた。絶叫マシーンに乗った人の悲鳴のような凄い高音で、驚いて頭上を見上げると目の前を低く右斜めに傾きながら飛行しているジャンボジェット機が見えた。

 ちょうど会社の敷地内で前方に東名高速道路が見える位置だった。自分の背中側から飛んできたジャンボ機は白い塗装に日航のシンボルカラーである赤と紺色の線が入っていた。駿河湾の方向から富士山のある北の方角に向かって、ゆっくりと右旋回しながら飛行しており、はっきりと窓も見えるほど高度が低い状態だった。飛行そのものは安定している感じだった。それにしても、いつもの航空路でないこの場所で低空飛行のジャンボ機を見るとは思ってもいなかった。

 そして、その時あることに気づいたのである。

「それはですね。機体の左下のお腹です。飛行機の後ろの少し上がり気味の部分、おしりの手前ぐらいでしょうか。貨物室のドアがあるような場所、そこが真っ赤に抜けたように見えたんです。一瞬火事かな、と思ったけど、煙が出ている様子もない。ちょうど垂直尾翼のあたりがグレー色でギザギザのしっぽみたいだったので、それが煙に見えたけど、煙ならたなびくけど、それは動かなかった。今思うと、千切れたしっぽのギザギザが煙のように見えたんですね」

 真っ赤というと火事かと思いきやそうではないという。

 そのお腹の部分、つまり飛行機の左側のお腹の部分、45mぐらいになるのかなあ。貨物室のドア二枚分ぐらいの長さでしょうか。円筒形で真っ赤。だ円っぽい形でした。濃いオレンジ色、赤という色です。夕陽を浴びて赤い、という感じでもない。夕日は機体の背を照らしていたので、逆にお腹は薄暗く見えました。円筒形のべったりとした赤色がお腹に貼り付いているイメージ。言葉で伝えるのは難しいけど、絵に描くとこんな感じかなあ」

 次頁に飛行機の模型を使って、絵に描いてもらったものを再現してみる。

 機体に穴が開いているのでもなく、腹部にべっとり貼りついているように見える。

 赤色とは何だろうか。ずっと気になって疑問に思っていたという。

 その機体を見た後、いつもどうりの道を車に乗って帰宅途中、今度は目の前を飛ぶ二機のファントム(F─4EJ)を見た。時間は先ほどのジャンボジェット機を見て5分ぐらい過ぎてからだという。田舎なので高い建物はなく、突然視界に入ってきた。浜松の方向、西の位置から飛んできたと思われるファントム二機はジャンボジェットが飛び去った方向に向かい、それを追うようにして、今では新東名(第二東名)高速道路の方向、山の稜線ギリギリの低空飛行で飛び去っていった。時間は1835分頃である。まだこの時点で日航機墜落していない。しかも公式発表で195分に出動となっているファントムが、すでに実際に飛んでいたことになる。

 小林さんは子どもの頃から近くにある航空自衛隊第十一飛行教育団静浜基地のこどもの日イベントや航空祭で、よくブルーインパルスなどを見ていたという。航空祭の前日にはいついろいろな飛行機が飛んできていたし、ファントムの展示もあったのですぐわかった。ファントム二機が少し斜めぎみに頭を上げた状態で飛んで行った。

「場所は大洲中学校あたりの道路を西に向かって走行中に見えてきました。ずいぶん低い高度で北の方向に稜線ギリギリで飛んでいった。日航機の飛び去った方向でした。その後、家に着いたのが1850分より前だったので35分ごろに見たのは間違いない。きっとニュースで放送されるから見なくちゃって思いながら帰りました。そして家に着いたら、まだ7時のNHKニュースが始まっていなかったので、時間はよく覚えています」

 それではNHKの臨時ニュースで「あ、この飛行機を見た」と思いびっくりしたでしょうと話すと「いいえ、違う飛行機のことだと思っていました」という。その理由について尋ねると、

「だって私が見たジャンボジェットのほうはすぐにファントム二機が追いかけていったから。大きなトラブルではなかったからニュースにならなかったんだと思っていました。それよりも今日はとても大きな事故があったんだと思った」そうである。

 なるほど、ファントム二機がすぐに後を追っていたので助かったと思い込んでいたということだった。つまり、さっき自分が見た飛行機はまだ明るいうちにファントムが追尾してくれたので、当然のことながら何が起きたかわかるし、着陸地点もわかるので、報道された行方不明機ではないと思い込んだそうである。その後、いろいろな本や報道で特集されたものをみているうちに、もしかして自分が見たものは日航123便ではないかと気付いたが、何か見てはいけないものを見たような気がして、恐怖心が出てきたこともあり、記憶を遠ざけていたということであった。

 その後、何年か経って東京で暮らすようになり、「青山さんの本を手に取ってみて、身近な同僚を亡くされたということに、読んでいて同じ気持ちになって……、これはぜひわたしが目撃したことを青山さんに聞いて頂きたいと思いました。それに女性だと話しやすいし、勇気を振り絞って、いつか話しに行かなきゃって、思い切って会社に行ったのです」ということだった。確かにご遺族以外の女性がこの事件を書いた本は他に見当たらず、先輩を亡くした当事者意識が共感を呼ぶと言っていただいたことはうれしい一言だった。

 それにしてもべっとりと貼り付いたように見えた真っ赤な火事のように見えるオレンジ色のものはなんだろうか…。

 だ円や円筒形のような形で、まるで絆創膏を貼っているように見えたそうだ。そうなると、5分後に追尾していたファントム機の乗務員も、その物体をしっかり見たであろう。そしてそれをどのように理解し、どのように報告し、どのような命令を受けたのだろうか。

 ファントム機が追尾したならば、それによって墜落地点が早急にわかり、すぐに生存者を救出することが可能となろうが、小林さんが子どものころから身近に感じて信頼してきた自衛隊のお手柄。という結果にはつながらなかった。

 目撃者にとっては救助してくれたと思って安堵した存在であったファントム機が、なぜ公式記録には出てこないのかもいまだに不思議な話である。

 小林さんにとって、何年経ってもあの時の飛行機が発した悲鳴にも近い高音が忘れられないという。「キャーン、キャーン」と女性の悲鳴に似た甲高い音は、おそらく機体の音ではなく、機内の人たちの悲鳴だったのではないだろうかという思いが胸に残る。その時、123便からの「助けてほしい」という心の声を聞いた気がする、と語っていた。

 

 心の悲鳴が聞こえた……。機内の人たちはこの声を誰かに聞いてほしかったのだ。

 

 1830分頃というと遺書を書いた人たちも多かった時刻である。

 まだあの時点では、飛行にも支障がないように安定して見えたとのことで、着陸を予定して徐々に高度を下げて低空飛行をしていたのだろう。

 その時、垂直尾翼の部分がギザギザに壊れた状態であったことが目視できたということだが、事故調査で発表された静岡県焼津付近の高度は24,900フィート(7470m)である。その高度では、お腹も垂直尾翼も地上からはあまりに遠すぎてクリアに見えない。しかし、現実には他にも東名高速道路や新幹線の駅でも超低空飛行するジャンボ機が目撃されている。1985815日付毎日新聞には、当日、新幹線広島発東京行きひかり252号に乗っていた埼玉県大宮市の主婦SIさん(37歳)の証言として『午後6時半ごろにジャンボ機が超低空で山側へ向けて飛んで行った。やや右下がりの飛行であんな場所でジャンボ機を見たのは初めて』という記事がある。

 目撃者たちの見た高度は、群馬の山々の稜線から見て1000mちょっとの低さであろう。

 小林さんにはっきりと見えた超低空飛行中のジャンボ機、その左腹部にあった赤色の正体は何か。彼女が抱えてきた長年の疑問として、とにかくこれを誰かに解明してほしいというのが切実な願いであった。

 それが「心の悲鳴」を聞いてしまった人としての役割だということで話に来られたのだろう。

 一体何がそこにあったのだろうか……。

 しかも破壊された垂直尾翼でなく、胴体部分に位置する赤色の物体である。例えば、貨物室のドアが開いて室内にあった何か赤色のものがはみ出したとも考えられない。それならばドアオープンのサインが出て、すぐコックピットで分かったはずである。そうなると機体外側に付着していた、またはそのように見えた、と考える方が自然と筋が通る。これについて考えられる仮説を第四章で提示したい。

  もうひとつの疑問。ファントム二機についてであるが、これも墜落前の時刻に自衛隊員によって明確に記述された目撃証言がある。

 群馬県警察本部発行の昭和6010月号『上毛警友』という冊子は日航機墜落事故特集号として、警察関係者のみならず、救助や捜索に関係した、医師、日赤、報道、地元消防団、ボランティアなどあらゆる部署、現場の人々の手記が掲載されている。表紙が生々しい煙が立つ上野村の墜落現場の写真である。それぞれが経験した「あの日」のことが書いてあり、仕事や役割といえ、これほどまでに大変な思いをして任務に当たったのかと本当に頭が下がる思いで読んだ。

 その122ページに『日航大惨事災害派遣に参加して』というタイトルで、自衛隊第十二偵察隊(相馬原)の一等陸曹、MK 氏手記がある。その出だしを読んだとき、これは確実な目撃情報だと確信した。

812日私は、実家に不幸があり吾妻郡東村に帰省していた。午後640分頃、突如として、実家の上空を自衛隊のファントム二機が低空飛行していた。その飛行が通常とは違う感じがした。『何か事故でもあったのだろうか』と兄と話をした。午後720分頃、臨時ニュースで日航機の行方不明を知った。これは出動になると直感し、私は部隊に電話をしたが回線がパンク状態で連絡がつかない」(原文ママ、以下略)

 この後タクシーで向かったが、所属部隊はすでに20時半に第一次偵察隊として先遣されていたという。

 自衛隊がファントム機を見た、ということで見間違いはあり得えない。警察の編集する冊子に、当日自分が経験したままを書いたのだろう。この記述によって、群馬県吾妻郡上空を1840分頃ファントム機二機が飛行したていたことが明らかになった。そうなるとやはり、小林さんが語ってくれた。静岡県藤枝市上空を1830分頃にファントム二機が通過したという目撃情報と一致する。したがって、明確にしておかなければいけないことは、まだ明るい墜落前に、航空自衛隊では日航機を追尾して飛行状況を確認した。さらに墜落するその時までしっかりと見ていた、という事実である。もはや墜落場所は一晩中特定できなかったという言い訳は当然のことながら通用しない。

 問題なのは、なぜ墜落前に飛んでいたファントム二機の存在を隠し続けているのか、ということである。どうしてもそうしなければいけない理由があったとしか考えられず、それがこの事故を事件ではないかと感じた理由である。

 さらに目撃者を続く。墜落現場となった上野村では多くの人たちがあの日の晩、いろいろなものを目撃している。特に注目すべきは子どもたちの目である。子どもたちはその目で真実を見たのである。

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