このところ、ガザの悲惨な実態と国内の自民党安倍派の裏金問題が毎日報道されています。
イスラエル軍による病院や学校、難民キャンプの爆撃および掃討作戦は、ハマスのメンバーのみならず民間人をも対象にた戦争犯罪だと思います。にもかかわらず、国際社会の人道的停戦の声さえ無視して、イスラエルは作戦を続け、アメリカは、イスラエル支援をやめません。
イスラエルのネタニヤフ首相は、先日、党首を務める与党リクードの会合で、”パレスチナ自治区ガザの住民を地区外へ自発的に移住するよう促す方針を示した”と言います。とんでもないことだと思いますが、それが、ネタニヤフ政権、あるいは、リクードの当初からの基本方針であることはすでに取り上げてきました。ガザに対する無差別爆撃や地上侵攻による攻撃は、パレスチナの地から、パレスチナ人を追い出すことが目的であるということです。
パレスチナ自治政府は「イスラエルの目的がパレスチナ人の存在を消し去ることだと明らかになった」と反発し、国際社会に対し「民族浄化」をやめるよう求める声明を出したとの報道もありました。パレスチナ自治政府は、イスラエルの意図を正しくとらえていると思います。
パレスチナの地に移住したユダヤ人が、「パレスチナの地」を「イスラエルの地」に変え、パレスチナ人を追い出そうとしているのですから、とんでもないことだと思います。旧約聖書にカナンの地は神がイスラエルの民に与えると約束したとあるからと言って、何世代にもわたって住み続けてきたパレスチナ人をパレスチナの地から追い出すことが許されるわけはないと思います。
また、見逃せないのは、イスラエルによるガザの無差別爆撃や地上侵攻による民間人殺害は、下記の「パレスチナ紛争地」横田隼人(集英社新書 0244D)の「第七章、イスラエルの論理」が示しているように、今回が初めてではないということです。イスラエルの右派政党リクードに結集する人たちは、一貫してパレスチナの地からパレスチナ人を追い出そうとしてきたのだと思います。共存する気がないということです。
また、国際社会の声を無視して、イスラエル支援を続けるアメリカに関し、私が、気になっているのは、今盛んに報道されている裏金問題です。
私は、戦後日本の歴史は、アメリカによって著しく歪められたと思っています。GHQによって民主化されたというのは表向きで、実は、日本はアメリカに都合の良い国にされてしまったと思うのです。
アメリカは、戦争指導層の公職追放を解除し、復活させて政治的に利用したり、レッドパージで日本の真の民主化を阻止したり、また、戦後三大事件といわれる下山事件、三鷹事件、松川事件などの連続的な事件を画策して、日本を反共の防波堤する政策を進めたと思っています。
さらには、日米地位協定の規定に基づき設けらた「日米合同委員会」という協議機関を通じて、日本の政治に深く関与し続けてきたと思っているのです。もちろん確定的な情報はありませんが、諸情報を考え合わせると、そう受け止めざるを得ないのです。
だから私は、今問題になっている自由民主党安倍派の裏金問題についても、アメリカの関与を疑わざるを得ません。自由民主党安倍派の策謀が、アメリカに察知され、今回の裏金問題の発覚にいたったのではないかと疑っているのです。
日本の政権を牛耳ってきた安倍派の主要メンバーを一気に要職から追い落とすような力が、東京地検特捜部にあるとは思えません。
全ての検察庁の職員を指揮監督する権限を有しているのは、検事総長だということですが、その任免は内閣が行うのです。だから、東京地検特捜部に権限があったとしても、現実的に内閣を崩壊させかねない政権中枢の主要メンバーを要職から追い落とすことはできないだろうと思うのです。
自由民主党は、自らの政策を都合よく進めるために、あらゆる組織の人事権を握ろうと努めてきたと思います。例えば、「任免協議」という規定を駆使することによって、官僚の人事をブラックボックス化し、官僚支配を強めたと言われています。また、本来関与すべきでない組織の人事にも関与してきたと思います。日銀やNHKや学術会議などの人事も、問題になりました。
だから、普通に考えれば、東京地検特捜部に、将来の総理候補ともいわれるような自民党安倍派の主要メンバーを、一気に要職から追い落とす力がある筈はないと思うのです。
そういう意味で一強の自由民主党を率いてきた安倍派を潰すことができるのは、アメリカをおいて他にないと私は思います。自由民主党安倍派の策謀が、アメリカの逆鱗に触れたのではないかと想像しています。中国やロシアなどとの秘かな交渉による裏切りの策謀によって・・・。
アメリカの覇権が衰退傾向にあり、世界中でアメリカ離れが進んでいるとは言え、アメリカは今も、圧倒的な軍事力と経済力で、実質的に世界を支配しているのだと思います。各国に深く入り込んだアメリカの組織も、圧倒的な力を持っているのだろうと思います。時には、工作部隊や謀略部隊が動くこともあるのだろうと思います。だから、国際社会もイスラエルの戦争犯罪を止めることができないのだと想像します。アメリカに逆うことになるからです。
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第七章、イスラエルの論理
難民キャンプ侵攻
ヨルダン川西岸、パラタ難民キャンプ。主要都市ナブルスに隣接する西岸最大のパレスチナ難民キャンプを、イスラエルはイスラム過激派ハマスなどが潜伏する「テロの基地」と見ていた。2002年2月28日早朝、ヘリコプターの支援を受けた空挺部隊、機甲部隊、工兵部隊などがパラタ難民キャンへの侵攻を開始した。アラファト議長が過激派の摘発に動かないのに苛立つシャロン・イスラエル首相は、議長に代わって直接パレスチナ自治区での過激派摘発に本格的に乗り出したのである。
他の難民キャンプもそうだが、わずか0.25平方キロほどの地域に2万人近くが暮らすバラタ難民キャンプには、入り組んだ狭い路地を挟んでコンクリート造りの粗末な建物が並ぶ。圧倒的な軍事力を持つイスラエル軍も、キャンプ内で身を潜めるパレスチナ武装勢力の銃撃にさらされる恐れが強い。このためイスラエル軍がとったのは、民家の壁を壊して侵入し、家々を伝いながら虱潰しに過激派の隠れ家や武器工房を摘発するという作戦だった。イスラエルはキャンプ内の住居を接収して拠点を設け、そこ足がかりとして民家への破壊・侵入を繰り返し、キャンプ全域を制圧した。
イスラエル軍は約3日間の作戦でハマスが開発したロケット砲「カッサム2」の工場のほか、爆弾・武器の製造拠点及び貯蔵庫14ヵ所を押えた。イスラエルによると同時に侵攻したジェニン近郊の難民キャンプでの作戦と合わせ、約30人のパレスチナ人が死亡、イスラエル兵2人も死亡した。
パラタ難民キャンプ制圧後、イスラエル軍は装甲兵員輸送車を連ねて、ジャーナリストをキャンプ内に設けた拠点まで案内した。キャンプの内部は、時々遠くで乾いた銃声が聞こえる以外、ひっそりと静まり返っていた。イスラエル軍に一方的に占領されたアパートの前には。十代近い装甲車がずらりと並ぶ。隣の民家では、それまで息をひそめていたパレスチナ人の家族が「敵」ではない外国人を含む記者団が来たと知って、玄関口に現れてそっと様子を窺っていた。外出禁止令のためか、町は完全なゴーストタウンと化していた。
ナブルス市街とバラタ難民キャンプを見下ろすイスラエル軍陣地で、作戦を指揮した空挺部隊司令官アビブ・コハビ大佐は「バラタという名の虎は(おとなしい)猫になった」と作戦の成功を強調、「イスラエル軍は、あらゆるテロの源を叩くだろう」とパレスチナ側に警告した。
しかし、多数の死者に加え200人以上の負傷者が出たとするパレスチナ側は、シャロン首相が20年前に責任を問われたレバノンでの難民キャンプ虐殺事件になぞらえて「新たな虐殺事件だ」と強く非難した。突然、家の壁を壊され。住居侵入を受けた住民らの間では、強い反発が広がった。しかし、これは次の大きな作戦の前触れにすぎなかった。
守りの壁作戦
イスラエル中部ネタニアのホテルで30人が死亡するテロが起きたのを受け、シャロン首相は1982年のレバノン侵攻以来の大規模作戦を敢行する。2002年3月29日未明にかけ、戦車など装甲車輛約百両が、パレスチナ自治政府議長府あるヨルダン川西岸のラマラに向けて突然進軍を始めた。
アラファト議長は、この前年の12月から、イスラエル軍によってラマラからの移動を禁じられていた。世界各地を飛び回ってパレスチナ側の主張をPRして回るアラファトの動きを封じると同時に、テロや銃撃を抑え込むよう圧力をかけるのが狙いだった。
アラファトはラマラとガザの二カ所に議長府を持つ。ガザには議長府と私邸を構える。ラマラにある議長府は、元々刑務所として使うために英国委任統治下の1930年代に建てられ、イギリス当局の事務所として使われてきた建物である。67年にイスラエルがヨルダン川西岸を占領した後は、イスラエルの軍政に反対するパレスチナ人を収容する刑務所としても利用されていた因縁の施設。しかし94年にチェニスからパレスチナ自治区戻ったアラファトは、もっぱらガザで執務する一方官邸と公邸を兼ねるラマラの議長府も「別宅」として利用してきた。アラファトがこの二ヶ月前に記者のインタビューに応じたのも、このラマラの議長府執務室だった。
議長府に到着したイスラエル部隊は、議長護衛隊「フォース17」メンバーらの銃撃を受けながら、戦車による砲撃を加えて敷地内に入り込み、装甲仕様の軍用ブルドーザーで外壁を破壊した。最終的にアラファトを側近らと共に議長府本館にある執務室などの数室に閉じ込めてしまった。
作戦に先立って半ば徹夜で開いたイスラエル閣議は、「アラファトはイスラエルに対するテロ連合を築いた敵だ」と決議した。イスラエルが「ホマット・マゲン(守りの壁、または盾)作戦」と名付けた大作戦の始まりだった。
アラファトは、「パレスチナ人は決して降伏しない。我々は殉教者になるだろう」と反発。指導力低下が顕著だったアラファトは、イスラエルの思惑とは逆に抵抗する指導者としてのイメージを高め、民衆の支持を回復した。30日にはアラファト幽閉に反発するパレスチナ勢力による自爆テロが、テルアビブのレストランで発生、32人が巻き込まれて負傷した。31日にハイファで起きた自爆テロでは15人が犠牲となり、40人以上が負傷した。
一方、イスラエル軍は議長府に続いて、ラマラ全域やカルキリア、ナブルス、ジェニン、ベツレヘムなど西岸主要都市のほとんどを次々に制圧。過去に例がない大規模な「テロ掃討作戦」に乗り出した。
ジェニン虐殺疑惑
西岸の各都市に侵攻したイスラエル軍は電気や水の供給を止めて完全に閉鎖した上、外出禁止令を出して、拡声器で「違反した者は撃つ」と警告した。さらにジェニンなどを「軍事閉鎖地区」に指定し、ジャーナリストや援助関係者を締め出した。
過激派一掃作戦に乗り出したイスラエル軍は、活動家がいると思われる民家を事前警告しただけで、軍用ブルドーザーで潰すといった荒っぽい作戦を展開する。約1万4千人が住むジェニン難民キャンプではパレスチナ人が抵抗したため激しい戦闘が起き、双方に多くの死者を出した。パレスチナ人数百人が死亡したと伝えられ、イスラエル軍が虐殺者したのではないかとの疑惑も持ち上がった。結局、ジェニンでの虐殺疑惑はおおむね否定されたものの、作戦はパレスチナ人のイスラエルに対する憎悪を一層かき立てる結果になった。
常々イスラエル寄りと批判される米国だが、ジェニンの現場を訪れたバーンズ国務次官補は、瓦礫の山と化した街を目の当たりにして、「ここで起きたことが数千のパレスチナ市民に多大な苦痛を与えたことは明らかだ」と、思わず本音を漏らした。
7日間に及んだジェニン難民キャンプでの戦闘では、イスラエル軍にも大きな犠牲が出た。兵士23人が死亡、うち15人は予備役兵だった。男性で三年、女性で約二年の兵役があり、必要に応じて招集をかける国民皆兵制のイスラエルでは、予備役兵とはつまり、一般市民であることを意味する。この「守りの壁作戦」のために2万人の予備役が追加招集され、その多くが最前線に投入された。
ベツレヘムでは、イエス・キリストが生まれたとされる場所に立つ「聖誕教会」に武装パレスチナ人ら200人以上が立てこもり、欧州への国外追放で決着するまで、イスラエル軍との間で約40日間に及ぶ睨み合いが続いた。戦闘で死亡したパレスチナ人の遺体が搬出されずに放置されて悪臭を放つなど、教会内部は悲惨な状態となり、イスラエルは再び国際的な批判を浴びた。
約一か月間の「守りの壁作戦」で、イスラエルは武装パレスチナ人約240人を殺害し、テロに関与した疑いがあるなどとして、パレスチナ人約1800人を逮捕した。最初の10日間だけで、自動小銃約2000挺、ベビー・マシンガン26挺、ロケット弾49発と発射装置五基などを押収した。
イスラエル軍幹部はもう逮捕するテロリストはいないと豪語しイスラム原理主義組織ハマスやイスラム聖戦といった過激派に大きな打撃を与えたと作戦の成果を強調した。治安筋は作戦で活動家の80%が殺害されるか逮捕された地域もあったと指定していた。しかし、これだけ大きな作戦を展開しながら、実際にはテロを抑える効果は限定的なものに留まった。
5月7日、早くもテルアビブ郊外のリションレツィオンで自爆テロが起き、15人が巻き込まれて死亡する事件が発生する。それ月の19日には中部のネタニアでイスラエル人3人が死亡する自爆テロが、27日にはテルアビブ郊外のペタハティクバで、幼児を含むイスラエル人2人が死亡する自爆テロが起きた。その後も自爆テロは続き、「守りの壁作戦」は、むしろパレスチナ側の反発を煽る結果に終わった。
一方イスラエル軍によって監禁状態に置かれたアラファトは、米国の仲介で5月2日までに解放された。側近らとともに一ヶ月以上の監禁生活に耐えたアラファトは、「インティファーダの象徴」として低下した影響力を一時的に回復した。作戦は成功だったとのイスラエルの主張とは裏腹に、「守りの壁作戦」は実際収拾にはほとんど貢献しなかった。
圧倒的な力を誇示するイスラエルのやり方は、アラブ諸国による軍事的侵略を防ぐ事には貢献したかもしれないが。パレスチナ人に対するイスラエルの過剰な報復は「憎しみの連鎖」に一段と拍車をかけ、結果的により、多くのイスラエル人が命を落としているだけだった。