下記は、『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)から、「徴発」(略奪)や強姦についての証言がきわめて具体的なばかりでなく、その任務についも、関係者でないと語れないと思う内容を含んだ、一工兵の証言を抜粋したものである。
現在、安倍政権の進める政治を考える上で、こうした証言があることを知ることは、とても大事なことではないかと考える。
昨年末の第47回衆議院議員総選挙前、自民党が在京テレビ各局に「報道の公平中立」を求める文書を出した。放送法4条はテレビ局に「政治的に公平であること」を求めているが、「編集権への介入だ」と反発した記者が多かったという。「自民党にとって公平中立な内容しか許さない」ということであり、「政権が圧力で報道をコントロールする意図がみえる」からであると報じられていた。その文書では、細かい編集内容に言及しており、その要請内容は、ゲスト出演者の選定、番組で取り上げるテーマ、出演者の発言の回数や時間、街頭インタビューにまで及んだという。 とにかく今までにない「異例」の文書だったようである。
また、テレビ朝日の特定の番組に対し、報道圧力とも受け取れる文書を送付してことも明らかにされた。さらに、安倍政権の批判を続けるコメンテータが番組中に、突然自身の降板問題を取り上げるということもあった。その具体的経緯については、確かなことはわからないが、戦前・戦中の「報道統制」に近づきつつあるのではないかと心配である。
安倍政権が、教科書・教育への強権的介入や支配の傾向を強めていることも見逃せない。安倍政権の歴史認識については、今、国際社会に問題視・危険視する声があがっているが、そんな中で、教科書検定(検閲)という手段によって、政権の歴史認識を歴史教科書等に記述させるという政策を着々と進めているからである。
日本が、「国連・子どもの権利委員会」から、下記のような勧告を受けていることを無視してはならないと思う。
” 本委員会は、日本の歴史教科書が、歴史的事実に関して日本政府による解釈のみを反映しているため、アジア・太平洋地域における国々の子どもの相互理解を促進していないとの情報を懸念する。本委員会は、アジア・太平洋地域における歴史的事実についてのバランスの取れた見方が検定教科書に反映されることを、締約国政府に勧告する。”
メディアに対し、報道の「公平中立」を求めて圧力をかけた人たちが、教育において近隣諸国を顧慮する教育内容を認めないということは、まさに自らにとっての公平中立な内容しか許さないということだと思う。近隣諸国から非難の声があがるような歴史教育の政治的利用は、許されないことだと思うのである。
ILO・ユネスコの「教員の地位に関する勧告」(1966年 ユネスコ特別政府間会議採択)には
”教育職は専門職としての職務の遂行にあたって学問上の自由を享受すべきである。教員は生徒に最も適した教材および方法を判断するための格別の資格を認められたものであるから、承認された計画の枠内で、教育当局の援助を受けて教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて不可欠な役割を与えられるべきである。(8 教員の権利と責任-職業上の自由 第61項)”
とある。政治家が教育に介入すべきではないということであろう。
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第3部 証言
5 「徴発」と称する略奪、放火、強制労働
現場では豚でも鶏でも盗るのは当たり前
小野寺忠雄
1914年3月生まれ
南京戦当時 第16師団工兵大十六聯隊
1999年3月取材
中学校の時柔道が好きで、黒帯で初段まで取ってね。よく校長に反抗してわんぱくやったな。だから先生から見るとわしは素行の悪い子やったんやろな。
わしは昭和9年兵で現役は工兵で十六聯隊でした。当時、上官にも反抗したことがあるな。兵隊の頭を叩きながら「電気を消せ」と言ったこともある。けど、他人から言われたらすぐ殴りつけたな。昭12年9月に「大阪にあつまれ」との召集令状が来て、大阪に行ったな。2度目の召集で、工兵第十六聯隊に入った。わしらは、松井石根大将の指示を受けてたな。
●──南京に行くまでの道を造る
工兵の仕事は南京までの道が途中で破壊されたり、橋が落ちておったりするので、橋を造ったり、道を造ったりしながら進むんや。具体的に言うとな、橋を造る時、一番お大きな問題は家をつぶして、家の柱とか板とかを取ってきたり、大きな電柱を切ったりして材料を集めることなんや。これは工兵では一番大きい仕事でな。電柱の中で長いのは橋の杭になる。一つの橋を造るのはそんなに簡単やないで。上海から南京まで行く途中で、わしらが造った長い橋には3百や4百メートルのものもあったな。その上を戦車や砲車が通ったんや。かなりの工事やった。歩兵より先に行かなならんし、橋を組み立てる時はものすごう体力が必要とされたんや。工兵の仕事はなかなか多かったな。船も作ったりしたし、大きな機械は別として、基本は皆手造りで、一つの橋を架けるためにどれだけの工具が必要か、そんな何もないところで、材料を集めるのはほんまに難しかったわあ。一つの仕事を完成するまで寝られへんかったな。夜通しぶっ通しで工事をやるんで、寝る暇がなかったんや。
南京を入るちょっと手前で揚子江を渡って、敵が逃げるのを止めに行ったことがあったな。浦口まで揚子江を船で渡っていった。工兵でも船がいろいろあるんでな、一番軽い折畳式鉄舟で渡ったで。一個分隊乗るか乗らないか、10人そこそこ乗れる船で、内地から送って来たやつや。11馬力のエンジンが付いていて向こうへ着いたらすぐ折り畳むんや。それを運転するのも工兵の仕事やな。それが何艘もあったな。浦口に渡った目的は南京が陥落して支那兵が皆浦口に逃げていたんや。つまり敵兵が逃げるのを止めにため行ったんや。支那兵はたくさんいたな。止めるということは殲滅することや。とにかく日本兵は、歩兵銃や機関銃を撃ちまくっていた。
当時わしの仕事は自分たちの兵隊を浦口まで鉄舟に乗せて運ぶ仕事やったんや。浦口に着いたらまた戻って、次の兵隊を乗せて渡ったんや。揚子江を何回も往復したわ。向こうには蒋介石の兵隊がたくさんいたんでね、最初は応援してきた。どこの部隊を運んだかは分からんな。とにかくどんどん運んだ。歩兵も渡したし、砲兵も渡したね。乗せた兵隊はいつも銃を持っていて、船で逃げている支那人を撃ってたね。船は人でいっぱいで、引っくり返されると大変なので二つずつ括って渡ったね。あちこちにその括った船があった。船の数はその場に依って違うので、どれ位あったか覚えていないな。揚子江を渡って降ろしてまた帰ってくるだけで1時間ほどかかったかな。目の前には海軍の船も来ていた。払暁戦だったので夜明けと共に戦闘にいったな。夜は渡らんよ。わしら夜は橋造りの作業をしたな。
●──現地略奪と隊長の女遊び
南京の入城式には行ってないな。城内に入ったことがない。南京城近くまでは行ったけれども、揚子江の向こう岸に行って逃げている支那人を殲滅したんや。陥落から正月までの2週間は浦口でゆっくりしたな。正月は浦口で迎えた。日本から食料を送ってくる間の時間が長いので、ほとんどは現地略奪やったな。現地の支那人が住んでいる所に行って、無理やりに物を盗ってきたんや。向こう岸にも支那人がいっぱい住んでいたな。わしらは結構悪いことをした。ぱっと大きな村に入っていくらでも物を集めてくるんや。豚でも牛でも食料でもなんでも盗ってきたな。反抗したら撃つのでな、村の人は反抗なんかできないわな。
(輜重十六聯隊の)ある中隊長は女を連れて歩いたね。上がそんなんやからな。そやから、悪いことをしようとしたらいくらでもできた。わしも女が好きやった。分隊の兵隊が捕まえた女を連れてきて、「遊べ」と言うとな、女が嫌がっててもなんでも、わしらは「よしよし」と言って隠れて皆するんじゃ。わしら老年兵は悪いこともしたけれどな、ようしない兵隊もいたな。家では一生懸命神さんに拝んでいるからや。兵隊の中でも人それぞれやったな。
●──南京陥落後の掃蕩
掃蕩戦は歩兵の仕事で、工兵は銃を持っていたけれど、撃つことがなくて、歩兵を渡らせたり、戦車を通らせたりすることやった。筏に乗せた捕虜を機関銃で撃ったことはない。けど、それはありうることで他の部隊がやったかもしれんな。
仕事で材料を集める時、支那人の家をこわして、木材の部分を取る時、もちろん、その家には人が住んでいたわ。日本兵は中国人を捕まえて集めると、「お前らがいるからわしらがこんな仕事をせんならん」とか言って、刀で首を切ったりして殺したな。かわいそうやった。引っ張って来た人の中には大人もいたし子どももいたな。
地雷をひいて、その上に捕虜をのせて、工兵が地雷に火をつけて処分したということは聞いたことがあるけどわしはやってないで。
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