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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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麻山事件 NO2

2016年09月14日 | 国際・政治

麻山事件 

 昭和24年12月11日、毎日新聞が”婦女子421名刺殺、敗戦直前東安省の虐殺を参院に提訴”という見出しで、元満州国哈達河開拓団の「麻山事件」に関する下記のような記事を掲載したといいます。いくつかの誤りや混乱が含まれているということですが、

 「──日ソ開戦直後の8月9日満州東安省鶏寧県庁から哈達河開拓団本部に避難命令が発せられた
がすでに空襲により混乱の極に達し鉄道は遮断されていたので開拓団員約一千名は荷馬車で牡丹江
(ボタンコウ)に向け徹夜で行軍、12日ごろ麻山に達したとき満州治安軍の反乱部隊が来襲、前方にソ連戦車隊があり進退きわまる状況になった団長貝沼洋二ー東京出身ーは最悪の事態に陥ったと推定し団員の壮年男子十数名と協議し、”婦女子を敵の手で辱められるより自決せよ”と同日午後四時半ごろから数時間にわたって男子十数名が銃剣をもって女子供を突き殺した。これら壮年男子はその過半
数は新京、ハルビンへ逃れあるいはシベリアで収容されて帰還している──」

 という内容です。
 大戦末期、満州においてソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、大部分開拓移民の人たちを中心とする日本人居留民でした。ソ連侵攻当時、戦死や自決によって全滅した開拓団は十指にもおよび、一全滅や十名以上の犠牲者を出した開拓団を加えるとその数は数百を数え、犠牲者の数は一万人にもなるということです。自決者の大部分は女子供です。満州における悲劇の象徴として「麻山事件」は語り継がれなければならないと思います。

 哈達河開拓団の避難行では、軍の残留部隊が、ソ連軍と戦闘を交えながら撤退しつつありましたが、後退してくる日本軍をつかまえては、「せめて一個小隊の兵でもよい、安全地帯まで護衛につけてもらえないだろうか」との開拓団団長の懇願をすべて拒絶し、さらに開拓団の伝令として、後方待機中の部隊を見つけて、「哈達河開拓団の者ですが、団長の命令でお願いに来ました。団員全員を安全地帯まで護送願いたい」と繰り返し頼む納富善蔵に対し、「我々の任務は開拓団の保護ではない」とはっきり断って、避難する開拓団員の保護や護衛について一顧だにしなかったことを見逃すことができません。

 また、自決する日本人に別れを告げて、哈達河に向かった現地人傭人とは別に、自ら自決を志願し、日本人とともに逝った李壮年「満人」)」という人物がいたことも、考えさせられることではないかと思います。

 下記は、著者が13年の歳月をかけて生存者の証言を集め書き上げたという「麻山事件 満州の野に婦女子四百余名自決す」中村雪子(草思社)から、「第二部 事件」の「第五章 麻山 その一」の「5 麻山谷」から自決に至る一部分を抜粋したものです。
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                    第五章 麻山 その一
5 麻山谷
 ・・・
 後尾集団が集結した高梁畑からさらに一キロほど前方の、三方を山に囲まれた地点を「麻山」の男たちは「麻山谷」と呼ぶ。
  二反半くらいの広さ(600坪。高橋秀雄談)の緩い傾斜地で、その右手には沢があって水が流れている。
 そこに、団長を囲んで中央集団の四百余人と、いまは数十台になった馬車が集結していた。
 そこは山かげになっているので被弾こそないものの、先刻から機関銃や迫撃砲の炸裂する音も間近に聞こえ、前方での戦闘の激しさが想像された。
 前方から一人の兵隊が走ってきた。
 落着かぬ目で「責任者は誰か」と息をはずませている。
 兵隊は「ソビエトの戦車がすでに前方にいる。わが軍も応戦しているが戦死者も多く、これ以上の前進は無理である」と貝沼団長に伝えた。この情報に、人々の顔から血の気が退いていった。
 先夜、開拓団を追い抜いて撤退していった部隊の兵隊たちも後退して来た。
 「数十台のソ連戦車と遭遇して敗れた。その戦車が今ここに来る。国境からの戦車群も来る。もう袋の鼠だ。残された脱出口は、裏山を縫いつつ、麻山を大きく迂回して林口に向かう道しかない。部隊はその方向にいく」
 と兵隊たちは言った。
 それしかあるまい。だがこの疲れ切った婦女子に、この戦闘地帯となった山中から脱出が果たして可能だろうか。それに林口も砲撃されており、日本軍は牡丹江に向けて撤退しているとも兵隊は言う。 団長は、後退してくる日本軍をつかまえては、「せめて一個小隊の兵でもよい、安全地帯まで護衛につけてもらえないだろうか」と懇願するのだが、すべて拒絶された。
 「戦闘力がある兵隊が後退し、戦う力のない開拓団は一体どうなるのだろう。兵隊は何のために存在していたのだろうか。当時の私には理解できなかった」
 と納富善蔵は書いているが、すでに戦意を喪失した敗残退却中の部隊ではあっても「牡丹江に向けて転進を命ぜられている」という日本軍に、自分の願いが聞き入れられる筈もないことを団長は確認する。
 絶望していたものの、それでもなお貝沼団長は、後方待機中の部隊を見つけて開拓団の護衛を頼むように、納富善蔵を伝令として出発させたのであった。
 後尾集団の笛田道雄が退避途中で出会ったのは、この時の納富善蔵である。
 「馬二頭を選び白だすきをかけて伝令に出た。ぬかるみの道を十粁ほど飛ばして、山中に日本軍が退避しているのを見つけた。”哈達河開拓団の者ですが、団長の命令でお願いに来ました。団員全員を安全地帯まで護送願いたい”再三お願いするも聞き入れてくれない。隊長らしき人が出て来て”我々の任務は開拓団の保護ではない。気の毒だが、そのように伝えてくれ”とすげない返事であった。それでも何とかできないでしょうか、と必死にお願いしたが駄目であった。あまりにしつこいので或る兵隊の如きは国賊呼ばわりをして銃殺寸前までいった」
 「私の力が足りず、ついに兵隊の保護は受けられなかった。今にして思えばあの時寛大な気持ちの兵隊が開拓団の保護を引き受けてくれたら、あのような惨事は起こらなかったのではないどろうかと残念でならないと同時に私の力の足りなかったことに責任の一端を感じております」
 「二頭の馬もついに一頭は斃れた。肩にかけた白襷も真黒になり、流れ弾をくぐり抜け開拓団員の避難所に帰って、この旨を団長に報告する」(『麻山と青年学校生徒』)
 納富善蔵から報告を受けて団長は、「わかった」と沈痛な面もちで言葉すくなにうなずいた。
この時、すぐ上の山の斜面を、草をはね散らしながら、遠藤久義、吉岡寅市の二人が駈け降りてきた。彼らはこの避難集団の最先端を行っているはずである。
 何ごとか!
 二人とも顔面蒼白で、ただならぬ気配である。
 みなが彼らのまわりに集まった。
 二人は団長の前に立つが、大きく見開かれた目と口もとが痙攣するのみで、声にならなかった。
 「どうしたのかッ」
 鋭くうながされて、二人はようやく、前方にて突然攻撃を受け、団員多数が戦死または四散して行方不明となり、自分たちは家族一同を処置して報告に戻った旨を伝えた。

 ・・・

 遠藤、吉岡両名の報告を、終始、無言で聞き終わった団長は、納富善蔵ほか青校生二、三名を連れて、みずから偵察のために山を登った。
 この偵察地点から、直接、敵の姿は見えなかったが、銃声は前方からだけのものでなく、さらに右翼側面にも拡がりつつあり、戦場の広がりを感じさせていた。麻山にいたるこの軍用道路にも、時を経ずしてソ連戦車がやってくるに違いなかった。(事実、この時、先頭集団では貝沼団長夫人や上野菊枝らがかくれていた包米畑から何人かが軍用道路に追い立てられ、山形の植松慶太郎ほかが射殺されている)
 「その時団長は何を考えていたのだろう。察するに余りあります」(納富善蔵・手記)深い絶望感をその背中に見せながら「厚い唇を噛みしめ、腰に吊した軍刀をひきずる様にして斜面をおりて来た」(衛藤通夫「参議委員証言速記録」)団長を、待ちかまえていた一同がさっととりまいた。
 団長は今までに見せたことがない厳しい表情で、重い口を開いた。
 「自分たちは、今来た道を残すのみで、完全に包囲されている」
 中央集団にいた及川頼治が、記憶の中からこの時の貝沼団長の言葉を記録している。
前方にはソ連機械化部隊が砲門を開き、後方にはまたソ連戦車が迫っている。日本軍さえ敗走するこの状態の中で、脱出する道はほとんど断たれたといってよい。
 もし脱出するにしても全員が行動を共にすることは先ず不可能であると思う。
 この際自分には二つの方法しか考えられぬ。その一つは、入植以来一家のように親しんできた人達がつらいことだとは思うがばらばらになって脱出することである。
 もう一つの道は生きるも死ぬも最後まで行動を共にすることである。何れを取ったらよいか意見があったら聞かせてほしい」(『麻山の夕日に心あらば』)
 身近に迫る銃砲弾の響きも人々の耳から消え去り、<ついに来るべきものが来た!>という感慨の中で、重苦しい沈黙が人々の間を流れた。
 やがて嗚咽(オエツ)と慟哭(ドウコク)が津波のように広がって、その中から「私を殺してください」と、まず女たちが声をあげた。
 同時に男子団員からも「自決だ!」の声があがった。
 「自決しよう」
 「日本人らしく死のう」
 「沖縄の例にならえ」
 「死んで護国の鬼となるんだ」
 そんな言葉がつぎつぎと発せられた。
 団員がそれまで肌身につけていた故郷の父母の写真、応召中の夫の写真、貴重品、さらに奉公袋などの軍関係の品も山と積まれて、火がつけられた。
 及川頼治の妻が、荷物の中から晴れ着を出して子供たちに着せ、自分もまといつつ、夫に向かっては新しい下着を取り出して渡した。
 何も語らずとも、すべて通じ合う夫婦の姿であった。
 あちこちで同じの者同士が円陣をつくり、荷物を解いて白鉢巻き、白襷をしめ、沢の水で、親子、の人々と水盃を交わしていた。死を前にした最後のひとときである。

 木村辰二警察隊長の記録。
 「其の時まで冷静であった応召者の婦人たちは、夫の写真に頬ずりせんばかりに別れを惜しみながら火の中に投じ、燻る写真を見守り、流れる涙を拭きもせず泣き崩れる姿が私の心に強く残されている。私も管内の人々と運命を共にして此の場に於いて自決することに決めた。妻も言わず語らず既に覚悟を決めていた。
 自分も所持していた現金、時計、警察手帳など全部焼き捨てた。
(哈達崗空襲時に馬が狂奔し)家族全員が着のみ着のままになっていて、妻の乱れた髪をさばく櫛さえなく、三日二晩の強行軍と一夜の土砂降りの豪雨で、泥に汚れた惨めな姿で最後を遂げることがあまりに可哀想であっ。た。
 この哀れな妻の姿を見兼ねて開拓団の一婦人より晴れ着を与えられ、服装を整えられた。他の婦人からは死出の化粧品まで恵みを受けた」
 「お先にまいります」
 「お世話になりました」
 東海警察隊長着任以来三ヶ月を経たばかりで、いまだに顔さえ知らない人々が、つぎからつぎから挨拶に来た。
 木村辰二はその一人一人に、自分もまたすぐ後から追死することを約束するが、この時、貝沼団長のまわりに集まっていた団員の中から斬込隊結成の声が上がった。声の主哈達河小学校長の衛藤通夫であった。
 自分ももちろん自決することに賛成である。しかし男としてなすこともなく、このまま自決することは何としても口惜しい。一人でもよいから敵を倒し、それが叶わないまでも、敵の足一本、腕一本でもよい、敵に一矢報いてから死にたいというのがその趣旨であった。
 団員の間に多くの賛成者が出た。
 瞑目してそれらの声を聞いていた団長が、最後の断を下した。
 「自分としても今となっては死ぬのが最善の方法かと思う。沖縄の人達も最期を飾って自決した。捕虜となって辱めを受けるよりは自決の道を選ぶのが祖国に復帰する最善の道であると思う。しかし、男子は一人でも多くの敵を倒してから死ぬべきであるかもしれない。
 最後迄行動を共にできないのは残念だがそうすることが日本男子の義務であろう」(『麻山の夕日に心あらば』より・及川頼治)
 と言いつつ、自分は開拓団の責任者として、女、子供たちと行動をともにして、死出の途への先導をする旨披瀝(ヒレキ)した。
 貝沼団長は斬込隊長に木村隊長を要請し、南郷開拓団の桜井広人ほかと、納富善蔵ら青校生四名を自決完了までこの地の警備に当たらせるにして出発させた後、一同とともに東方を遙拝、万歳を三唱し、右手に持った拳銃でみずからのこめかみを撃ち、どうと倒れた。
 あたかも、自決の作法を示すような、また死への先導に価する従容とした姿であったという。
 「最後の決心がきまると一同団長の周りに集まりお互いに別れの挨拶を交し、十年間のお礼を言い合った。
 私に”お先に──と涙を浮かべて挨拶にくる者、中でも教え子達は真白な鉢巻きをしめて、先生、
お先に、と涙も見せず挨拶する。私は一人一人に”立派に死んでくれ、私もすぐ行くからね”と立派に言ったつもりが、かすれて声にならなかった。 
 私はそれまで携行していた学校関係の重要書類と貴重品を焼き捨てた。
 馬車から取り出した毛布をしいて一家三人その上に坐った。いまが最期と思えば腹も据わり気も落ち着く。
 妻と顔を見合わせる。妻は淋しく笑って、小さな声で”幸福な十五年でした”、悔いなき一生だった”と私はつぶやいた。それだけが二人の最後の会話になった。
 妻が最後まで手離さず持っていた振り袖を着せてもらって大喜びの数え年七歳の真知子を膝の上に抱き上げると真知子は私の耳に口を寄せて”あのね、お母ちゃんが良いところへ連れて行くって……そこには飛行機ないね”と言う。
 この三昼夜の爆撃に防空頭巾の中で怯えていた娘がいじらしくて仕方がない。
 私が本部詰めで傍らにいてやれなかったので、敵機の来る度に母親と二人でどんなに心細いおもいをしていたことか。
 十一日に私が妻子の馬車の側に来たら、私のこの娘は私を離そうとしなかった。
 そして今日はお別れだ。
 ”父ちゃんも少し遅れるけどすぐに追いつくからね”と私の銃で倒れた真知子。そして妻も胸に一発受けながら”もう一発”と叫んで倒れていった」(衛藤通夫「参議院証言速記録)

 つぎは南郷開拓団で使っていた現地人傭人の李壮年に関する記録である。これによると、これまでの危険な難行軍の途中でほとんどの傭人たちは逃亡したが、何人かの者たちが麻山まで従って来ていたことがわかる。
 この中の李壮年の場合は特殊な例であり、笛田道雄が資料探しの中で死亡者名簿によってその事実を確認している。
 前出、高橋庄吉の「哈達河(南郷村)開拓団避難概況報告書」にはつぎのようにある。
 「茲ニ至リテ之迄団員輸送ニ従事シタル満人達ヲ即刻解散サセル可ク其ノ意ヲ打明ケ、何レ捨テルベキ金品ヲ全部与エタリ。満人達ハ何レモ喜ビ謝シツツ之ヲ受ク。李壮年モ金品ヲ受ケタリシモ各団員ノ自決ヲ決セシ態度ト其荘厳サノ感ニ打タレ、一時ハ帰宅セントセシガ心ニ決スル所アリテカ自ラ自決ヲ志願ス。
 貝沼団長ハ再三、再四帰宅ヲ促シタルモ聞キ入レズ止ムナク自決ノ員ニ加エタリ。実ニ満人トハ言イナガラ団ノタメニ忠実ニ働キ然モコノ変ニ際シテモ之マデヨク団員ノ為ニ尽力シタル上、出発当時ノ約束ヲ実行セルガ如キ、実ニ日本人同様ノ精神ト全員深ク頭ヲ垂レテ尊敬ノ念愈々厚シ。
 他ノ満人達ハ全員ニ別レヲ告ゲ一路哈達河ニ向ケテ出発ス。
 貝沼団長ハ此ノ李壮年ノ自決志願ニ、僅カ二ヶ月ノ短期間、南郷開拓団ノ苦力トシテ働キシニ過ギヌニ、皆川団長ノ彼ニ対スル使イ方、且ツ他ノ満人達ニ対シテモ、如何ニ温愛情味ニカラレル使イ方デアッタカ、其ノ様ガ思イ出サレルト感嘆ノ度ヲ洩ラス」

・・・以下略

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麻山事件 NO1

2016年09月11日 | 国際・政治

麻山事件 満州の野に婦女子四百余名自決

 大戦末期、満州においてソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、大部分満蒙開拓移民の人たちをはじめとする日本人居留民でした。
 満洲国を防衛する日本の関東軍は、ソ連参戦直後に撤退を決定し、司令部をいち早く通化に移転たのです。これによって関東軍は、「開拓移民を見捨て逃げ出した」と非難されることとなりました。軍が撤退してしまった地域に残された開拓移民の人たちをはじめとする日本人居留民は、ソ連軍の攻撃に直面したのですから、その非難を逃れることはできないと思います。また、秘密裏に軍が撤退したこと、さらに、軍人や官吏の家族が、先に列車を仕立てていち早く避難していることなども、見逃すことのできない問題ではないかと思います。

 満洲に攻め込んだソ連軍の攻撃に直面した満蒙開拓移民の人たちをはじめとする日本人居留民には、麻山事件をはじめ、様々な悲劇が発生しました。

 麻山事件とは、敗戦間近の昭和20年8月12日、「満州の東部国境に近い麻山において、避難途上にあった哈達河(ハタホ)開拓団の一団がソ連軍の包囲攻撃を受け、婦女子四百数十名が自決」した事件のことです。介錯は四十数名の男子団員が行ったということもあり、日本人が忘れてはならない悲劇ではないかと思います。
 下記は、著者が13年の歳月をかけて生存者の証言を集め書き上げたという「麻山事件 満州の野に婦女子四百余名自決す」中村雪子(草思社)から、「第二部 事件」の「第五章 8月11日、12日-泥濘の避難行-」の一部を抜粋したものです。開拓団の「避難行」が、どんな酷いものであったのかが伝わってくると思います。語り継がれなければならないと思うのです。
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                       第二部 事件

                     第五章 麻山 その一

4 8月11日、12日-泥濘の避難行-
 西鶏寧を過ぎるころから降り出した雨は、11日午前中は何とか小康を得たものの、午後はふたたび驟雨となり、夜にいたって沛然たる豪雨となった。
 道は満州名物の泥濘である。
 8月といいながら、北満の雨の夜は骨身にしみるほどに冷え込んだ。
 女たちはかじかんだ手に手綱を握りしめ、真黒な闇の奥に眼を据えながら、前車の轍の音をたよりに慣れぬ馬車をあやつった。
 轍の跡がつくる深い溝に車輪を落として立往生する馬車があるかと思うと、前日の空襲によってできた2メートル余りもあるすり鉢状の穴に、馬もろともに落ち込むものもあった。哈達河開拓団と行動をともにした南郷開拓団の高橋庄吉も、この逃避行をつぎのように記録している。
 「隊伍モ乱レ前馬ト後馬トノ差ハ約3里モ距リ、連絡意ノ如クナラズ且ツ暗夜ノタメ断崖ヨリ転落シ何処ノ者カ悲鳴ノミ残シテ哀レ谷間ニ落チテ負傷セルモノアリ。且ツ又破損セル橋梁アリ、為ニ前進ノ人馬共ニ之ガ修理シテ身心ノ疲労ソノ極ニ達ス」(註1 「哈達河(南郷村)開拓団避難概況報告書」ヨリ)
 故障する馬車も続出した。切れた手綱の代わりに、女たちの帯や手拭が用いられた。
 放置せざるを得ない馬車の人員を収容するために荷物が捨てられたが、しかし、収容限度をこえた馬車の足は重く、行路はさらに困難の度を増した。
 暴民に襲撃されて重傷を負った安東達美の妻(麻山にて死亡)や、避難途中、城子河(ジョウシガ)開拓団で出産した小川美枝子(麻山にて死亡)を収容してきた本部のトラックも前進不可能となった。ついに見沼団長は、現在地において一時行動を中止するという指示を出した。

 ほとんどが雨中に立ったまま、寒気に震えながら夜明けを、待った。
 雨除けのために覆った布団もぐっしょり水を含み、そのかげで、子どもたちは飢えと寒さと疲労にふるえながら無言で眼を伏せていた。
  哈達崗(ハタカン)の空襲で馬車を失った笛田道雄と応召家族の一群は、一人一人が豪雨の中を泳ぎ、泥濘の中を這ってようやくここまで追尾してきた。
 先を急ぐ避難行の中では、小休止も後尾集団が追いつくための時間かせぎにはならなかった。小休止の地点に到着した時には、すでに先頭は出発しているという状態で、彼女たちには食事をとる時間さえなかった。
 一時行動を中止する、という知らせに、彼女たちは崩おれるように膝を折り、眠りに入った。
 子供も土砂降りの雨に中にうつぶして眠った。笛田道雄の妻米子は、乳呑み児の飢えに覆いかぶさるようにしてかがんだ。
 馬車を失ったこの集団には、雨除けの布団はもとより、衣類さえなかったのである。
 そしてこの時、体力のない乳呑み児がまっさきにまいった。
 丸山キクエの一歳になる男の子が、母親の背中で死んだ。
 時々細い泣き声が聞こえていたようであったが、母親とともに豪雨と闘って、力尽きたような死であった。
 乳を飲ませてやることもできなかった─背中から、濡れたもんぺの膝に抱きとって、丸山キクエの顔は茫然と、しかしきびしく睨みつけているようにも見えた。
 
 明けて8月12日、哈達河開拓団は雨足の弱まるのを見て、ふたたび行動を開始した。
 丸山キクエも、黙々と、死児を背負って隊列に加わっていた。
 そして、これもまた昨夜消えた幼い命なのだろう、列を抜け出して道端に小さな死体を置き、毛布をかけてそっと手を合せ、ふたたび隊列にもぐり込む母親もあった。
 滴道附近で夜明けを迎えた。
 雨は上がったものの、道は相変わらずの泥濘だった。出発以来餌を与えられていない馬は、弱って足をもつれさせている。
 女たちも馬車を降りて歩こうと心がけ、道端に捨てられる荷物も数を増した。ここまで運んできた仏壇も、そして布団も捨てられた。
 やがて、昨夜の雨がまるで嘘のように、美しい朝焼けの中を太陽が昇りはじめると、たちまち大陸の炎暑がやってきた。
 30分ほどの小休止の時、笛田道雄は団長をつかまえて言った。
 「林口に着いたら汽車に乗れるのですか」
 顔を上げた団長の面に、苦渋の色が浮かんだ。
 「われわれがこの調子で林口に着くころには、林口もすでに爆撃されているだろうが……。とにかく一刻も早く林口に到着、女と子供を逃がしてやらなければ……」
 語尾はむしろ自分に向かって言い聞かせるように弱々しかった。身心ともに疲労したようすが、その語尾にも現れていた。延々長蛇の婦女子の列を引き具して行く見沼団長の心境は、ただ悲愴の二次につきる。
 昨夜から今朝にかけて、隊列は、各の馬車が入り混じっていよいよ混乱した。
 このころから、開拓団を追い越して国境から撤退する軍のトラック、日本兵の数がふたたびふえてきた。
 疲労困憊する開拓団の行列に「元気を出して」と力づけて行く兵隊もあり、ただじっと無言で顔を曇らせていく兵隊もあった。
 笛田道雄と女たちの集団は、またしても最後尾になってしまった。
 妻の米子が元気を装って、それぞれの間を励まして歩くが、丸山キクエも、河横貞子も、精も根も尽きたようすである。
 「家を出るとき履いて出たズックの短靴などは、とっくに履ききれてしまって足の保護には役に立たず、皮はさけ、足は傷つき、丸太棒のように腫れあがってしまった痛々しい足もあった。頸から幾条もの血を流している者もいた」
 と笛田道雄は書き、さらにつけ加えて、
 大変生意気なお願いなので申訳なく、幾度か考え抜いたのです。他の部分は抜かしてもかまいません。お願いします。お願いします。実際にこのとおりだったのです。
 実際に丈夫な足は米子と平田君子さんの足だけだったのでしたから────」(私信)
 体験者にしかわからぬ、せっぱ詰まった場面を再現してほしい。それが亡くなった者たちを生かす道であり、遺族にも知ってもらい赦していただきたい、と笛田見道雄は訴えるのである。
 あまりにも哀れな彼女たちの姿に、通りすがった及川頼治の妻よしみ(麻山にて死亡)が見かねて、作業衣ほか衣類数点を与えてくれた。
 馬車で通りかかった東区の金杉よし江(夫は応召中。奉天収容所にて死亡)が、みずからも幼い子供二人を連れ、その上、本部勤務員で未亡人の星野とき(麻山にて死亡)を同乗させながらも、河横貞子の幼い子供二人を自分の馬車に抱きとってくれた。この時は、さすが気丈な彼女たちも、他の人々の好意に涙をポタポタこぼしながら歩いた。
 長女を連れて徒歩で来た横関はる子を見つけて、手島金五郎の馬車に乗せてもらっている末っ子の美智子が、濡れた布団から顔をのぞかせて「母ちゃん、みっちゃん頭が痛い」と細い声で訴えた。
 横関はる子は「我慢していれッ」と怒るようにきびしくそれを押さえた。だが後に、彼女は「優しい言葉もかけてやれなかった」と後悔し、その時の幼い心細げな顔が、戦後30年を経て、いまだはる子に涙を流させるのである。
 哈達崗の空襲で馬車を暴走させてしまい、妻子を開拓団の馬車に乗せてもらった警察隊長・木村辰二も、つぎのように記録している。
 「私は哈達河を離れて以来、乗馬にもろくに餌も与えず、馬車群の前後の警戒に走り廻る任務のため、気は焦り家族には附き添ってやることも出来なかった。たまたま横を通ると昌子(長女五歳。麻山にて死亡-筆者)が「母ちゃん、父ちゃんが馬に乗って来たよ」と知らせる。妻(フサエ。麻山にて死亡-筆者)は少しやつれた顔に微な笑顔をしながら、つとめて私が心配せぬよう心遣う気持ちが伝ってくる。長男公一郎(七歳。麻山にて死亡-筆者)は妻により添って私を見つめている」(『私の65年』)
 満拓派遣の農事指導員である高橋秀雄は、家族を哈達河開拓団地域内に居住させていた。ソビエトが宣戦布告をした8月9日には鶏寧に出張中であったが、立寄った開拓団のトラックで急ぎ帰団し、哈達河開拓団と行動をともにする。
 男手の足りないこの避難行ではつねに家族と別行動をとり、トラックに乗って開拓団本部の物資輸送の任務に就いていた
 家族は妻の貞子(三十六歳)と子供たち、秀嗣(十四歳)、秀昭(十二歳)、幸子(十歳)、政子(七歳)、和子(五歳)、秀典(三歳)、久子(一歳)の7人であった。この中の母子6人は麻山で死亡し、幸子、政子の姉妹が奇跡的に救出されている。
 つぎは高橋秀雄の記録である。
 「妻はドロンコ道を子供を背負って黒川さんの馬車の馬の轡(クツワ)をとって無言で通り過ぎて行く。子供達は皆ずぶ濡れで笑いさえない。私も無言で送ってやった。
 七時間後には永遠の別れになることを誰も知らなかった」(手記『麻山の記録』)

 すでに民家も耕地も視界から消えて、行く手には、さほど高くはないが完達山脈の裾をひく山々が連なっていた。
 灌木の生い繁る中を抜けると、五メートルほどの朽ちた木の橋があり、その橋を渡ると道はだらだらの上り坂にかかった。 
 右手の野地坊主(草の密生した大小無数の土地が水の中に散在している。浮動生で北海道の釧路湿原などにも見られる)のある湿地帯の向こうには、穆棱(ムーリン)河にそそぐ滴道河が流れているはずであり、右側の山腹から頂上にかけては、日本軍の対戦車壕が掘られている。
 新しい木造の監視哨もあるが、すでに監視兵の姿はなかった。
 やがて滴道河と湿地の向うの山裾に、青竜の信号所が見えてきた。
 麻山はもう目と鼻の先であり、道は山腹を上ったり下ったりしながら、曲がり曲がってゆっくり麻山の駅におりてゆく。
 11時近く、前方の馬車がつぎつぎと停止した。
 本部のトラックが停まっていて、その横に見沼団長、福地医師、武田清太郎、馬場栄治、及川頼治が集まっており、団長の命を受けて高橋秀雄がトラックから荷物を降ろし、馬車に積みかえていた。
 開拓団の購買部から運んで来た食糧、日用品なども分配され、小銃弾も追加配分された。軍用トラックに挟まれ、馬車にもつぎつぎと追い抜かれる状態の中で、ついにトラックの放棄が決定されたのであった。
 前方に偵察に出ていた木村隊長から、伝令が駈けてくる。青校生である。
 待ちかねていた見沼団長が、つと立ち上がってそれを迎えた。
 青校生が持ち帰ったのは、「前方に優勢なる敵が進出。日本軍も待機中である。開拓団の男子はすみやかに前進し、軍に協力すること。トラックは現在地にて焼却、婦女子はただちに退避せよ」という軍からの要請、指示であった。
 前方ではすでに戦闘が始まったらしく、しきりに銃声が聞こえる。
 団長命令で、上野勝は人々を山腹に避難させた後、ようすを見るために山頂に上った。」
 「銃声は熾烈で、軽機関銃のような連発音もする。後方より日本軍の一個小隊くらいが散開体形で前進して来た。おそらく対戦車壕あたりからこの山上に展開したのだろう。」
 「向こうの高い山が匪賊か反乱軍の陣地らしく、時々迫撃砲の爆発音も低い山々に響く。今前進して行った日本軍も目標にされているのではないか」(「記『麻山』)
 状況偵察に前進する見沼団長を目送しながら、上野勝は、前方の敵は匪賊かまたは満州国軍の反乱ではないかと判断したが、この時点ではみながそう思っていた。
 及川頼治、馬場栄吉、武田清太郎らは、物資の分配を終えた後、見沼団長を追って前進した。
 まさか、後方から追い迫るとばかり思っていたソビエト軍が、自分たちを追い越して麻山に進出しているなどとは考えられないことであった。
 後に遠藤久義は筆者に「梨樹鎮(リジュウチン)から良い軍用道路ができていたから、そういうこともあり得るのだなあ」と語ったが、第一極東方面軍作戦概要図(戦史叢書『関東軍』)によると、東部国境線を突破したソビエト極東方面軍第五軍の戦車を含む狙撃軍団が、11日には梨樹鎮(リジュウチン)を抜き、12日にはすでに麻山にいたり、13日には林口に達している。
 いま 哈達河開拓団は、前方、後方をソビエト機械化部隊によって押さえられたのであった。

 前項「まぼろしの関東軍」で、筆者は滴道の野砲126連隊が、哈達河開拓団と同じく12日にこの麻山街道を牡丹江に向けて移動中で、4キロ以上にも延びた隊列の先頭はすでに麻山のに入り、後方の連隊行李や落伍者の一群は、まだ青竜附近の道路上を行進中であった、と書いた。
 時を同じくしてこの街道を行く哈達河開拓団も、これまでの難行軍の中で多数の落伍者を出しつつ、自然に三つの群を形づくっていた。
 まず笛田道雄の率いる応召家族たちはどうなっていたか。今までにもたびたび触れてきたように、女たちは疲れ切って、今は落伍寸前の状態にあり、最後尾を気力だけで歩を進めていた。また、先刻見沼団長から婦女子の退避、誘導を命じられた上野勝、高橋秀雄、負傷者・妊婦に附き添って来た開拓団の医師・福地靖も、この後尾集団の中にいた。
 後尾集団の約1キロ前方にいたのが見沼洋二団長、衛藤通夫小学校校長、木村辰二警察隊長を中心とする中央集団の一群で、南郷開拓団員も加えて、およそ4百余名がここにいたと思われる。
 そして「自分たちは 哈達崗の空襲でも馬をやられなかったので、どんどん先へ行くことができた」と語った遠藤久義らの率いる北大営区や東海区の応召家族たち、納富善蔵の父・吉岡寅市とその家族および畝傍区の馬車群、深渡瀬正直、見沼団長夫人、上野勝の妻菊枝の一行は、中央集団よりさらに1キロ前方に進出して先頭集団となっていた。 

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