朝日新聞は2月2日、「地下鉄サリン事件30年」ということで、オウム真理教に関するドキュメンタリー映画や著書のある映画監督、森達也氏の主張を掲載しました。そこに、見逃すことのできない重要な指摘がありました。
”オウムを取材した「A」は当初、民放テレビ局で放送するために始めた撮影でした。教団施設に潜入して驚いたのは、出会った信者たちが穏やかで善良だったこと。邪悪で凶暴な集団、あるいは洗脳されて理性や感情を失った集団。どちらでもない姿は、社会のイメージではなかった。結局、テレビでは流せず、映画として発表しました。本来はなぜ普通の人があれほど残虐な犯罪を起こしたのか。その煩悶を検証すべきでした。
今回、お会いした永岡さん夫妻は被害者ですが「自分たちも加害者の側になり得る」という視点を持っていた。メビウスの輪のように、加害者は被害者に入れ替わることもあるかもしれないと感じました。
社会は何か問題が起きると、一つの見方に染まりがちです。戦時中の日本やナチスなど群れることで失敗した例はいくらでもあります。そうならないためには、まず、歴史をしること。そして、集団で共有されている見方を疑い、自分なりの視点を持つことが必要なのでしょう。僕自身、オウムへの取材を通じて学んだことです。”
私は、現在の日韓関係の問題も、政府や主要メディアが、過去の事実をを無視するかたちで、国民を「一つの見方」に誘導していると思います。文在寅前大統領が、あたかも日本を憎む「反日」大統領で、尹大統領こそ、日本との根本的な関係改善に前向きな大統領であるとする主張は、両国の一般国民が本来求めている思いや利益に反する主張であると思います。
なぜなら、韓国も日本も、多くの国民の思いを圧殺するようなかたちで、米軍政庁やGHQによって、アメリカのために無理矢理つくられた「反共国家」であり、戦後80年を経過しているのに、いまだに数多くの米軍基地をかかえ、影響下に置かれ続けているからです。韓国と北朝鮮は一日も早く統一されるべきだと思うのですが、尹大統領を相手に関係改善を進めると、それが不可能になるばかりでなく、北朝鮮との軍事的衝突の危険が大きくなると思います。
1948年、ロイヤル・アメリカ陸軍長官は「日本を反共の防壁に」と演説したということですが、韓国も同様で、38度線で朝鮮を分断し、南朝鮮で軍政を敷いたのは、「反共の防壁」にするためであったと思います。
下記の「韓国政府の反共対策」の他の抜粋文は、その戦略がどのように展開されたのかをよく示していると思います。
すでに建国されていた朝鮮の人たちの悲願、独立「朝鮮人民共和国」を解体し、米軍の支援のもとに、南朝鮮の左翼勢力を一網打尽にするような数々の政策が、連続的に実行されたのです。済州島における政府軍、警察及び反共団体による大弾圧は、「済州島事件(済州島虐殺事件)」として知られています。日本の「治安維持法」と同じような「国家保安法」に基づく強引な検挙や取調べは民主主義を踏みにじる不当な弾圧であったと思います。だから、ロイヤル陸軍長官の「日本を反共の防壁に」というのは、単なる構想ではなく、左翼一掃の過酷な弾圧によって韓国や日本で実行され、現在に至っていることを忘れてはならないと思います。
日本も、GHQによるゼネストの中止命令のみならず、レッド・パージで左翼勢力を一掃し、戦争指導層の公職追放を解除して、事実上政権を担わせました。そういう意味で戦後の韓国や日本は、韓国人や日本人が、自らの意志で作った国ではないといえるように思います。そして、韓国や日本は、「反共の防壁」国家として、アメリカに尽くしていると思います。圧倒的な軍事力と経済力を有するアメリカの搾取・収奪体制を維持するために、日本や韓国は、ロシア、中国、北朝鮮を敵視し、挑発する「反共国家」でなければならないのだと思います。
文在寅前大統領は、アメリカの関与がなければ、南北朝鮮の統一が可能であることを示したと思います。
だから、下記に記されているような事実を無かったことにしてはならず、自らの考えを持つ必要があると思うのです。下記は「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健(総和社)からの抜萃です。
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第四章 南北政権の樹立と一般情勢
五節 朝鮮戦争直前の韓国情勢
(七)韓国政府の反共対策
また韓国においては、すでに米軍政庁時代以来、共産党は事実上非合法化されていた。韓国政府の成立後には、その反共政策が一層徹底していた。韓国の各地では、反政府分子の逮捕が行われ、また北朝鮮を賛美し、韓国政府に批判的な新聞数紙も発行を停止させられた。
とくに麗水・順天事件以後には、反体制派を粛清しようとする政府の対応は極めて強化した。李承晩大統領は1948年11月初め、この反乱事件を受けて、政府はまず各学校、中央や地方の政府機関、社会団体の指導者以下男女児童に至るまで残らず思想調査を行ない、反逆思想の蔓延を防ぐ旨の談話を発表した。
一方、ソウルの人首都警察庁は同年48年11月5日、非常警戒を行うとともに、社会民主党党首呂運弘、韓国独立党宣伝部長、厳恆變、合同通信社主筆を含む約500名を検挙した。これは11月7日のソビエト革命記念日に前後して、暴動を企てているのを探知したためと称されたが、尹致暎内務部長官は1500名の逮捕が予定されていたと語り、取り締まり、弾圧の大規模なことを示唆した。
また、麗水、順天の軍隊反乱事件を直接の契機として制定され、共産党を完全に非合法化した思想犯弾圧法である「国家保安法」が施行された48年12月1日以降は、反政府分子の処分はもっぱら同法によって相次いで行われた。
ソウルでは12月3日朝、反体制派700名が一斉に警察に逮捕された。また、韓国政府は4日には、政府管轄下の一切の政府機関、団体、銀行、会社から、忠誠ではない左翼分子を一掃することを決定した。李範爽国務総理はこれに基づき、全政府機関が全職員の忠誠調査を行うよう命令を発した。さらに12月7日には、政府は共産分子及び反政府追放の手を学校にものばし、反政府的な政治的信念を抱く教師の罷免を命令した。また、韓国軍参謀長崔秉徳が49年3月3日に発表したところによれば、軍当局者は反乱事件後思想不穏分子を軍隊内ら一掃するため、将校170名、兵1026名を粛清したとされた。
こ、のような韓国政府の反政府分子に対する取り締まりは1949年にはいっても引き続き行われた。
その主なものとしてはまず、ソウルの首都警察庁は49年1月3日過去数日間に右派の指導者の暗殺を計画中であったと称して、400名の共産分子を逮捕したと発表した。ついで、ソウルおよび仁川の主要建物に放火し、政府要人を暗殺することにより、韓国の撹乱を謀ろうとした左翼勢力の3月攻勢が発覚したとして、南朝鮮労働党、人民共和党、民主愛国青年同盟等の非合法組織に属する指導者40名がソウル市警察局に逮捕された。また、左翼系の地下新聞二紙が没収された。3月30日、ソウル市警察局長は、ソウル市内で南朝鮮労働党員を始め190名の共産分子を検挙し、目下取り調べ中であると発表した。さらに、メーデーをひかえてソウル市警察局は、4月26日から28日までの間に、朝鮮労働組合全国協議会系の労働者100名を検挙した。8月3日には、ソウルの新聞記者グループが検挙された。これらは南朝鮮労働党に入党していたといわれ、国会、政府、政党、言論界等各方面の情報を出入り記者として収集していたといわれた。
同49年8月15日の韓国独立一周年記念日に前後して逮捕された左翼分子は京畿道だけで478名にのぼった。南朝鮮労働党ソウル市支部執行委員会の副委員長以下5名は9月16日、逮捕された。そして、警察内で南朝鮮労働党脱退宣言を発表するとともに、南朝鮮労働党は9月20日の全朝鮮選挙ということで武装蜂起の開始を指令していたが、最近の検挙旋風で、この計画は実行不可能になったと警察で転向表明をした。
韓国政府の法務部が発表したところによれば、韓国の49年1月から9月末までの起訴裁判件数は32329件で、その8割までが国家保安法違反事件であった。
(八)祖国戦線と金九暗殺
だが一方、1949年5月12日、韓国内の政党及び社会団体の8団体は、北朝鮮の民主主義民族戦線中央委員会にたいし、祖国統一民主主義戦線の結成を提唱した。中央委員会は16日に回答して8団体の提唱に応じた。6月25日、祖国統一民主主義戦線結成大会が平壌で開かれ、南北から71政党および社会団体を代表する704名が集まった。大会は、祖国戦線の綱領を決定したが、それは平和の方法で祖国統一を解決することを述べていたが、李承晩政権の打倒も明確に打ち出していたものだった。
だが、この大会に民族主義者の立場から参加していた、かつての中国重慶亡命臨時政府の主席であり、帰国後は右派の有力指導者として南北協商路線を進んでいた韓国独立党首の金九は、1949年6月26日、平壌での祖国統一民主主義戦線結成大会からソウルに帰ったところを、陸軍少尉安斗煕によって暗殺された。これは一般に李承晩派によるライバルの抹殺と考えられており、この事件には国防長官申性模、憲兵司令官田奉徳が関わっていたとも当時噂されたが、暗殺者安斗煕は短期の拘束のち釈放されて、政府当局と軍の保護のもとに、やがて全羅道有数の資産家となることになった。だが、金九暗殺により、祖国戦線の活動は、早くも大きな打撃を受けた。この祖国戦線による平和統一との宣伝活動は、以後も強力にすすめられ、韓国社会あるいは50年5月30日の韓国総選挙にも、ある程度の影響(李承晩派72・野党137の逆転)を与えたとみられた。
(九)保導連盟と社会取締
すでにみたように、韓国政府の左翼、反体制側勢力に対する処置は過酷を極めたが、その49年10月に至って新たに緩和政策が取られるようになった。それは、国民保導連盟という団体の主催の下に、同年10月24日から30日まで行われた南朝鮮労働党員自首運動である。
これは、この週間に自首したものは無罪釈放し、更正の道を開くというものであった。権承烈法務部長官の発表によれば、週間中に1835名の自首者があり、優秀な成績を収めたので、この運動は11月10日まで期限を延期することになったとされた。これはさらに11月末までに延期され、11月7日には転向者の示威行進と自首者歓迎、南朝鮮労働党根絶大会が開かれ、李大統領に送る感謝文と金日成に対する声明書が採択された。結局、保導連盟は11月末までに、転向者39、986名の多数加盟させるのに成功したとされた。ソウル市内だけでも12196名が転向を申し出たとされた。このうちには、国会議員3名、学生2418名が含まれていた。政府はこの運動の完了をまって、自首しなかった分子の徹底的な一掃に乗りだした。同49年12月の初頭の間に1000名以上の容疑者を大量検挙した。
その結果、そのうち300名を危険分子として拘束し、他は保導連盟に引き渡してその監視と指導を受けさせることにした。このような自首運動は、同年11月末に韓国軍内部においても試みられた。
また、50年2月15日には、3・1独立運動記念日を期して一斉蜂起を企てていたとして、南朝鮮労働党員の196名が検挙された。さらに、2、3月はじめには、11名の記者を含む30名の新聞関係者が検挙された。韓国の警察は同50年3月26日に李舟河、28日には金三竜を逮捕し、その他南朝鮮労働党執行委員13名を3月下旬の間に検挙した。これによって、南朝鮮における共産主義運動に大打撃を与えた。李舟河は南朝鮮労働党中央執行委員会の副委員長で、委員長の朴憲永が47年に北朝鮮に移って以来、南朝鮮における地下組織の首脳であった。金三竜は南朝鮮労働党の組織部長で、李舟河に次ぐ地下幹部であった。
このように党幹部が逮捕されたことは、ゲリラ活動の閉塞状態と相まって、南朝鮮の共産勢力を解放後最低の状態に追い込んだ。韓国警察当局の推定によれば、南朝鮮労働党員はその活動の活発なものを2000名、不活発なもの5000名という僅かな数になったという。
なお、48年11月以来国家保安法により共産系活動のかどで逮捕され、裁判を受け、判決を下されたものは1万3000名にのぼったが、50年3月末現在、なお刑務所には1万4000名近くが裁判を待機しており、その司法処理にはは少なくとも後一年は要するとされた。裁判所も刑務所もその能力の限界点に達したという状況であった。
(十) 韓国政府のゲリラ掃討作戦
また、韓国に対する北朝鮮政権からの秘かな破壊活動、あるいは南朝鮮左派による反体制運動は、韓国政府樹立以後も続いていたが、その後、韓国軍、警察が掃討に努力したにもかかわらず、武装ゲリラ活動は49年の春から夏にかけて各地に蔓延するようになった。
また、麗水の軍反乱参加者1000人に以上が智異山の山岳地帯に逃れ、そこのゲリラ隊に合流したが、その後間もなく48年11月、韓国各地で大規模なゲリラ戦が始まった。
その地域、江原道、慶尚南北道、全羅南北道の各道にわたった。ゲリラ部隊は、太白山脈、小白山脈の山間地帯によって、軍、警察と交戦し、北朝鮮の旗をかかげ、交通、通信網を破壊、切断し、右翼の指導者、青年団員、対日協力者、官吏の暗殺を行ない、反政府宣伝ビラを散布してきた。特に49年6月末、北朝鮮で祖国統一民主主義戦線が結成されてのちには、ゲリラは襲撃した部落で民衆大会を開き、北朝鮮が唱える平和統一方針の宣伝を行ない、全朝鮮統一選挙を実施すると呼びかけるようになった。同時に、永続して占拠していた山岳地帯においては、農地を没収してこれを農民に再分配し、人民委員会を設置するなどの行政的措置を講じたと伝えられた。
この当時活動したゲリラの勢力は、一万から二万にわたる程度と推定された。そのうち武装された組織部隊は2500から3500とみられて比較的少なく、ただ挑発、運搬に加わるため、攻撃部隊に従って時々ゲリラとなるものがその二倍前後、最も多数にのぼるのは、これらに隠れ家を提供し、便宜を供与している共産系シンパであるとみられていた。
1949年のはじめに2人のアメリカ副領事が全羅道、京畿道を視察したが、例えば全羅道では「政府が掌握しているのが都市と大きな町に限られている状況だった。一般に「昼は大韓民国、夜は人民共和国」と言われていた。
これに対して、韓国政府はゲリラの跳梁が政情不安の要因の主な一つをなしているため、治安問題の根本解決をはかるため、1950年3月までにゲリラを掃討する計画を立てた。そして、49年9月から米軍事顧問の指導の下に、大規模な作戦を開始した。これは冬期に入り、山中の樹木が落葉するととに一層進捗し、多数のゲリラが殺傷、逮捕され、弾薬も捕獲された。捕らえられたゲリラ、関係者はほとんど射殺され、地区は焼き払われた。1950年にはいって、ゲリラの活動はとみに衰え、治安の回復は著しかった。智異山、太白山地区を除き、掃討はほとんど完了した。同50年3月末に至り、政府軍は太白山脈を北上中のゲリラの集団を撃破し、その指導者を倒すのに成功した。こうしてゲリラは残存する者数百名いう閉塞状態に陥り、組織を失い、山中の各所に取り残されることになった。
だが、その後、再びゲリラ部隊が江原道に南下してきていたとみられた。また、のちに50年5月上旬以来、江原道春川地区。慶尚北道地区のゲリラも再び活発な活動を示し、智異山の部隊も活動しているようになった。
韓国政府当局者は50年5月中旬、江原道地区で北朝鮮からの挑戦が頻発している事実を認め、北朝鮮軍が38度線付近に集結していることを警告した。だが、これは一般には50年5月末の選挙に対する北朝鮮側の牽制であるとみられ、南朝鮮のゲリラ組織とは関係なく、また、それは殆ど勢力を失ってしまったとみられた。事実、50年5月30日に行われることになる韓国国会の総選挙にあたっても、その前日、智異山のゲリラ部隊30名が慶尚北道の山清を襲ったにとどまった。北朝鮮からの選挙妨害を扇動する宣伝が繰り返えされたにもかかわらず、ゲリラや民衆の蜂起は、ついに起らなかった。