真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカ国家安全保障会議極秘文書が示す現実

2025年03月01日 | 国際・政治

 ブルース・カミングスの著書『朝鮮戦争の起源』は、膨大な第一次史料を駆使した大著です。彼の考察や分析は、すべて第一次史料をもとにしたものだと言ってもよいと思います。 

 ブルース・カミングスによると、朝鮮に進駐したアメリカ軍が、日本植民地化の朝鮮で日本の戦争に協力した指導層と手を結び、「朝鮮人民共和国」の建国に尽くした人たちを共産主義者と見なして弾圧・排除に動いたことが分かります。それは、カイロ宣言やポツダム宣言に反することだったと思います。

 そして、1949年に中国共産党率いる人民解放軍が国民党軍に勝利し、中華人民共和国を建国すると、アメリカは、はっきりと反共的なアジア戦略を策定します。それが、「アジアにおいて共産主義の力を封じ込め(Cntainment)可能なところまで減退させる」こととしたNSC-48(国家安全保障会議報告第48)というアメリカの国家安全保障会議極秘文書です。この文書は、194912月に、トルーマン大統領に提出されたというのです。

 そして1950年に入ると、アメリカの戦略はさらに進んで、「ソビエト勢力のいっそうの膨張をブロックし」、「クレムリンの支配と影響力の収縮を促し」、「ソビエト・システム内部の破壊の種子を育てる」という積極的な封じ込め、巻き返しの戦略に進むのです。そのために、NSC(国家安全保障会議)は「平時においても大規模な軍事支出を行い」同盟国と連携することによって、圧倒的な軍事力を持つことを求めたのです。それが19504月にトルーマン大統領に提出された、NSC-68(国家安全保障会議報告第68号)という極秘政策文書に示されているということです。

 こうしたアメリカの極秘政策は、決して表に出てきませんが、アメリカの政権が韓国や日本の搾取・収奪する側の人達と手を結び、今も反共的な政策を続けていることは、ロシア敵視、中国敵視の現実が示していると思います。

 だから、こうしたNSCの文書からも、アメリカ中央情報局(Central Intelligence Agency, 略称:CIA)の活動内容に

アメリカ合衆国に友好的な政権樹立の援助

 アメリカ合衆国に敵対する政権打倒の援助

 とあるというのは事実であり、決して陰謀論などではないということだと思います。

 

 下記は、「鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から第二部、第五章の一部を抜萃しました。

 ブルース・カミングスは、アメリカの軍政関係者の自らに都合の良い情勢分析や強引な決めつけを明らかにしつつ、ベニングホフの報告書に関し、

の時点におけるアメリカの政策が不干渉主義であったというのは眉つばものであろう。

と批判していますが、”眉つばもの”はひかえめな批判であり、現実的には、きわめて欺瞞的だ、と私は思います。

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              第二部 中央におけるアメリカ占領軍の政策 1945年─1947

          第五章新しい秩序の創出─アメリカ軍の上陸と官僚機構 警察、軍に対する政策

 

 仁川とソウル── 新しい敵と味方

 ベニングホフはさらにアメリカ軍政と韓民党の結びつきの始まりを次のように示唆している。

 

 政治情勢のなかでもっとも勇気づけられる唯一の要素は、ソウルに練達の士でかつ高学歴の数百人の保守主義者が存在していることである。彼らの大部分は対日協力の前歴をもつ者であるが、しかしその汚名は究極的には消えるだろうと思われる。これらの人々は「重慶臨時政府」の帰国を支持しているし、よしんば多数派ではないにせよ、一つの集団としてはおそらく最大のものである。

 

 韓民党に対するこのような率直な親近感の表明は、アメリカ軍の高級将校の多数の見解を示したものであった。しかし、この報告はセシル・ニスト大佐の情報を潤色したに過ぎないものであった。ニストにしろベニングホフにしろ民主的で親米的と称する人々をたとえ一握りの数であっても把みたかったため、ソウルにしか存在しないし、メンバーのほとんどが対日協力者である韓民党が、報告の文章のわずか一段落の中で、「数百人の保守主義者」から、「一つの集団としては最大のもの」、さらには、ニストの表現のように「朝鮮人の大多数を代表する集団」まで変えられたのである。しかし、実際にはそれはアメリカ軍が頼りにすることができるものの中で最も大きな集団であるに過ぎなかった。別の多数派の集団は、ベニングホフによれば、急進的なな共産主義的集団であって、ソ連と結びついていると考えられていたのである。

 

 共産主義者たちは日本人財産の即時没収を主張しており、法と秩序に対して脅威となっている。おそらく、充分な訓練を受けたアジテーター達は朝鮮人がソ連の「自由」と支に味方にしてアメリカに反対するようにさせるために、わが軍の管轄地域に混乱を生ぜしめんとしているのである。在朝アメリカ軍が、兵力不足が原因でその支配地域を迅速に拡大しえないため、南朝鮮はそのようなアジテーターの活動に格好な土壌となっているわけである(強調はベニングホフ)。

 

 上陸後一週間(98日─15日)にして、朝鮮にいたアメリカ軍の主要な将校たちは、自分たちを支持しているのは主にかつて日本人のいいなりになっていた朝鮮人であり、自分達に反対しているのは親ソの第五列であると考えるようになったと思われる。このことをわれわれは、ベニングホフやホッジ、そしてニストらの経験の浅薄さから説明することができるだろうか? それは難しいと思われる。外交史の権威であったハーバート・ファイス(故人)はベニングホフの上述の報告を「情勢に対する先遣の明のある報告と分析」の一例として挙げている。従って、問題はこの報告書の内容がナイーブな計画とか正常とは言えない思考に基づくものであったというのではなく、それは不慣れな国における政治的対決状況にアメリカが対応する場合、多くの人びとが先ず頭に浮かべる、例の根深い考え方に基因するものであったという一言に尽きるように思われる。ベニングホフとホッジは言うまでもなく、他の官僚達にしても、自分たちの考えを簡明率直に表現するぐらいの能力あったのであり、ことの本質を見えにくくする一切の美辞麗句を省いた上で、今まさに眼前に姿を現しつつあった冷戦の露払いの役割を彼らは忠実に果たしたということができよう。

 更に、915日付の報告書のなかでベニングホフは、ワシントンから政策の指示がないことをこぼすと同時に、ホッジが「政府の運営に経験を持ち、東洋人のことをよく知っている有能な高級官吏が自分のスタッフに加えられるよう希望している」旨を述べた。ベニングホフは新しい政策の萌芽ともいうべき考え方の一端をもってこの報告書を締めくくっている。このことについてはあから言及されることになろうが ともかくベニングホフ報告の最後の一節は次のようものであった。「[ホッジは]亡命中の重慶政府を連合国の後援の下におかれた臨時政府として帰国させ、占領期間中および朝鮮人が選挙を行うことができるほど落ち着くまでの期間、表看板として活動させることを考慮するように要求している。」

 それから2週間後、ベニングホフの考えはさらに発展していた。彼の目には、今や南朝鮮は完全に両極化されたものに映っていたのである。

 

 ソウルでは、おそらく南朝鮮全体がそうであるが、現在治勢力が二つのはっきりした集団に分かれている。この二つの集団はより小さないくつかのグループで構成されているが、しかしそれぞれのグループもはっきりした独自の政治理念を掲げている。その一方はいわゆる民主的ないし保守的集団であって、このの集団はその中に、アメリカや朝鮮にあるアメリカ系のキリスト教伝道機関で教育を受けた専門職の人や教育界の指導者たちをメンバーとして擁している。彼らの理念や政策は西欧民主主義への傾倒を示しており、李承晩(イスンマン)博士や重慶の「臨時政府」の早期帰国を一致して望んでいる。

 

 このグループのうちの最大のものは韓民党であった。ベニングホフは「韓民党は、十分な教育を受けた実業家や専門職の人々、さらに全国各地の地域指導者たちから成り立っている」と述べている。そしてもう一つの集団は「急進的ないし共産主義的なグループ」から成り立っていて、その主力は人民共和国に結集していると述べている。

 

 急進派は、その民主的反対派に対して、より緻密に組織されているように思われる……新聞等を通じた急進派の宣伝材料を見れば、その背後に明確なプログラムとよく訓練された指導系統が存在しているらしいのがわかる。

 

 人民共和国を導いている非凡な指導者は呂運亨である。…しかし、彼の政治信条はどう見てもクリスチャンとしてのものから共産主義者のそれに変わったように思われるので、人々は現在の彼をどう判断してよいのか迷っている。

 

 ベニングホフは次の文章では「……ように思われる」という表現を削っているので、今や呂は単に「共産主義者」ということになった。その上でベニングホフは、815日以来の人民共和国について自分の判断を次のように述べている。

 

 呂運亨と彼の仲間たちは、自分達が政府を構成していると考えた。彼らは政治犯を解放し、治安の維持、食糧の配給等、政府が果たすべき役割を果たしてきた。そのときがおそらく建準の権力がピークに達していた時であったが、その後共産主義的要素が主力を占めるようになり、建準内部のより保守的なメンバーが離反したことによって、この組織は急速にその影響力を失うこととなった。

 

 一方、日本側は南朝鮮を占領するのはアメリカであることを知った。また、彼らは、呂が自分たちの言いなりにならないということも知った。そこで日本側は建準の力を削ぐために建準を治安委員会に変え、3000人の日本兵を一夜のうちに民間人に変貌させてそれをもってソウルにおける警察力を増強したが、……しかし呂はひるまなかった。彼は政治活動の自由というアメリカ的な基本権を行使して、95日、自分のグループを朝鮮人民共和国の建設を目ざす政党として再編した。……一方穏健な保守主義者たちは、国民大多数の支持を自負しつつ別個の組織を造らざるを得なかったわけであるが、それは、自分らを守ると同時に、反共民主主義の信念を貫くためであった。急進派は……より緻密に組織されており、より積極的に自らの主張を宣伝している。共産主義者(ソ連)による浸透の性格とその度合いが実際にどの程度のものであるか確信することはできないが、相当なものであると考えられる。

 

 ベニングホフは、「復興のための援助と指導をどのような方式で受けるつもりなのか」急進派の態度は曖昧であると述べ、次のような確約をもってこの報告を締めくくった。

 

 朝鮮における政治状況に対しアメリカのとりうる態度は、平和と秩序が維持される 限りにおいて、一種の不干渉主義で臨むということである。朝鮮駐留のアメリカ軍はその支持を如何なる特定のグループにも与えることのできないので、不干渉主義以外の政策を採択することは賢明ではないように思われる。

 

 ベニングホフがこの報告書をしたためたのは929日であるが、この時点におけるアメリカの政策が不干渉主義であったというのは眉つばものであろう。911日、米軍司令部は各派政治指導者たちの会合を招集したが、その会議の席上、韓民党の主要な指導者趙炳玉(チョピョオク)は共産主義者と人民共和国に非難を浴びせかけ、同席していた他派の人たちからの激しい抗議を受けた。さらに921日、軍政当局は韓民党の首席総務宋鎮禹(ソンジヌ)が、公共ラジオ放送局JODKを通じての放送で人民共和国は共産主義者の集団であり、同時に親日売族的であると攻撃するのを容認している。そして927日、アメリカ人は公式的に米占領軍を歓迎するための準備会の設備を認めたが、これらの委員長は高齢の権東鎮(クォンドンジン)であり、[韓民党領袖]、副委員長と事務局長にはそれぞれ金性洙(キムソンス)と趙炳玉が据えられた。

 

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関係を強化する日米韓の関係者の実態

2025年02月26日 | 国際・政治

 韓国の尹錫悦大統領を支える政党「国民の力」は、戦後結成された「韓国民主党(韓民党)」の流れを汲む保守政党だと思います。だから、その成立過程を知ることは、現在の韓国の政治状況を理解するために大事なことではないかと思います。

 でも、アメリカの影響下にある日本では、そういう歴史を踏まえた政治情勢の考察や分析は、ほとんど表にでてきません。

 もちろん、日本の敗戦直後に結成され、組織された韓国民主党(韓民党)と「国民の力」は一直線につながっているわけではないと思います。でも、保守政党としての基本的なスタンスは同じでだろうと思います。

 ブルース・カミングスの著書の下記抜粋文の中に、

910日、韓民党を代表する趙炳玉(チョピョオク)、尹潽善(ユンホソン)、そしてTY・ユン(尹致暎か)の三人が、軍政庁の役人と会い、人民共和国は「日本に協力した朝鮮人利敵分子」によって組織されたものであり、呂運亨(ヨウニョン)は「反民族的親日派の政治屋として朝鮮人の間で悪名の高い人物だ」と告げた。

 というような韓民党関係者のアメリカ軍政庁の役人に対する欺瞞的な進言がありますが、 尹大統領の「非常戒厳」宣布やその後の対応が、私に、韓民党の成立過程を思い出させるのです。

 また、下記の抜粋文の中には、

アメリカ人は最も保守的な朝鮮人とほとんど一夜にして深い関係を結んでしまった。「現地のいかなる個人も、またいかなる組織された政治集団も、…軍政の政策決定に関与させてはならない」というのが、占領軍の原則であったが、しかし数日もしないうちに第24軍団は韓国民主党と特別な関係を結び、それ以後アメリカ人は韓国民主党的な視点から他の政治グループを眺めるようになった。

 ともあります。さらに、

無知なアメリカ人たちは、呂運亨や許憲、安在鴻のような徹底した抗日運動の闘士を痛罵している韓民党指導者の多くがつい昨日まで日本の「聖戦」を讃え、「鬼畜米英」の打倒を呼びかける演説をぶっていた人たちであることを知りえなかった。

 とあります。

 私は、朝鮮の軍政に関わったアメリカの高官は、すべて承知で韓民党と手を結んだのではないかと疑っているのですが、それは、下記のような記述があり、また、降伏後の日本で、当初民主化を進めていたGHQが、180度方針を転換し、戦争指導層と手を結んだ事実があるからです。 

Gー2の責任者であったセシル・ニスト大佐は911日に徐相日や薛義植、金用茂ほか何人かの人々と面談したのち、この人々は「一般から尊敬されてされている著明な実業家や指導者達であり」、同時に韓民党は「朝鮮の一般大衆を最もよく代表しているばかりでなく、保守層の大部分と有能で且つ人気のある指導者、実業家を擁する」政党であると記録している。”

 歴史をふり返ると、アメリカが、他国の労働者を中心とする組織や団体、一般市民と手を結んだことはほとんどなく、いつも、実業家(資本家・企業家)、またそうした人たちと一体となった政治組織や軍事組織、またそうした組織と関係の深い政治家などと手を結んできたと思います。それは、極論すれば、アメリカは、いつも搾取・収奪する側の人や組織と手を結んできたということです。搾取・収奪する側の人は、お金持ちであり、高度な教育を受け知識が豊富であるだけでなく、人間関係も広く、行動力もあるため、アメリカにとっては、いろいろな面で、好都合なのだと思います。

 そうしたアメリカの対外戦略は、戦後の日本で、GHQが戦犯の公職追放を解除し一線に復帰させたため、「巣鴨プリズン」に拘束されていた東条内閣の商工大臣、岸信介が首相として政権を担い、1960年の日米安保条約改定を強行したことが、象徴していると思います。

 だから、日本やアメリカと同盟関係を強化している尹大統領を罰し、追放することは、簡単ではないだろうと思います。

 下記は、「朝鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から第二部、第五章の一部を抜萃しましたが、無かったことにしてはいけない歴史が綴られていると思います。

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              第二部 中央におけるアメリカ占領軍の政策 1945年─1947

          第五章新しい秩序の創出─アメリカ軍の上陸と官僚機構 警察、軍に対する政策

 仁川とソウル── 新しい敵と味方

 ・・・

 アメリカ軍は午後一時上陸を開始したが、そのとき仁川の街頭には黒い外套を身に着け銃剣で武装した日本警察が整列しており、その直前、上陸するアメリカ軍を歓迎しようとしてデモに参加した2人の朝鮮人が射殺されるといった事態が生じたため、ひどく緊張した雰囲気であった。アメリカ軍の上陸がこのような殺戮の中で行われたのは皮肉なことであったが、このような不幸はホッジが言ったという無神経な発言で一層救い難いものになってしまった。仁川に上陸した後、ホッジは日本人に治安維持への協力に関して感謝の言葉を捧げた模様であり、また、アメリカ人記者に、次のように述べた。

 

 仁川港において、我々を歓迎しようとした朝鮮人グループに日本人が発砲した件を含めて、これまで数件の事件が朝鮮人と日本人の間に起こっているが、本官は民間人が上陸作戦の妨げになることを考えて、彼らを港に近づけてはならないとの命令を下しておいた。

 

 ホッジはまた、朝鮮人と日本人は「同じ穴のムジナア」(the same breed of cat)だと評したことはよく知られているが、彼自身が誤解であると主張し、何人かの人々もホッジは対日協力分子の朝鮮人をそのように称したにすぎないと弁護しているにもかかわらず、この発言は朝鮮人を激怒させると同時に、朝鮮人の熱望に対して驚くべき冷淡さをさらけだしたのもとされた。

 翌日の朝、アメリカ軍は静かにソウルへ入ったが、街頭には再び日本軍が整列しており、祝賀のパレードもなければ、歓迎の群衆もいなかった。高級将校たちは朝鮮ホテルを宿舎とし、半島ホテルには第24軍団の司令部が設けられた。その日午後、朝鮮総督府の庁舎においてホッジは正式に日本軍の降伏を受け入れたが、そのあと朝鮮人の大群衆は興奮して街頭をねり歩き、木銃を肩にした治安隊の各隊が町の治安維持に当っていた。その夜、アメリカ軍は夜間通行禁止令を公布した。

 99日、降伏の儀式が終了するやいなやホッジは、阿部信行総督を含めてすべての日本人、朝鮮人職員は現職に留まったまま、総督府は従来の通り機能を継続すると発表したのである。朝鮮人への演説の中で、彼は朝鮮人に忍耐を要求してから、次のように付け加えた。

 

 これからの数ヶ月の間、諸君は自らの行動を通じて、世界の民主主義的諸国民と、彼らの代表者である本官に対して、諸君ら朝鮮人の資質と能力を発揮し、諸君らが果たして世界諸国民の中に伍し、その一員として名誉ある地位を獲得しうる準備ができているかどうかを示すことになろう

 

 朝鮮の人々は、この陳腐極まりない尊大な言辞にがっかりしてしまった。ある新聞の社説は、朝鮮人は阿部総督よりは「どこかボルネオあたりの酋長」に支配された方がマシだと思うだろうと述べ、アメリカ軍の到着を歓迎しなければならないのはむしろ日本人ではないかと主張した 。アメリカ側の公式資料によっても、ホッジのこれらの行為が、「日本人をアメリカの味方の位置に立たせ、朝鮮人を敵に回す結果をもたらしたように思われる」と述べている。

 見苦しいほどこれみよがしのアメリカ人将校と日本人将校らの交歓がますますこのような感情を煽り立てた。一面では、これらの行為は単に戦争が終わったという安堵感と、日本人が従順で協力的であったということから生じたものであろう。しかしこの初期の段階におけるアメリカ人将校と日本人の交流が、アメリカ軍の占領の全期間を通じて示されたさまざまな偏見の始発点となったのである。勿論、こういった問題に対する判断は具体性を欠きがちであり、用心が必要であるが、しかし上陸の当初から多くのアメリカ人が朝鮮人よりも日本人に好意をよせていたらしいことは拒み難い事実である。日本人は協力的であり、規律正しく、かつ従順であるとみられたに対し、朝鮮人は強情で狂暴であり、かつ手に負えない連中と見られたからであった。このような見方は、その後様々な文献にくり返し現れるようになるが、恐らく1945年秋の朝鮮に対するアメリカ人の最初の反応にその起源があったと思われる。

 ワシントンの国務省は、日本人官吏を現職に留めておくホッジの政策に強く反対しており、『ニューヨーク・タイムズ』は、「国務省は軍部の一時的な日本人官吏留任政策に責任がないと厳命しいること……そしてこの方針は明らかに現地司令官の命令によるものであること」などを報道した。914日、国務省はこのことについて反対意見をマッカーサーに通告した。

 

 政治的な理由に基づき、貴官は阿部総督、総督府の全局長、道知事、並びに道警察部長らを直ちに解任されたし。更に、他の日本人官吏及び対日協力者である朝鮮人官吏の解任もできうる限り速やかに行うことを要望する。

 

 マッカーサーはすでに911日、日本人官吏を直ちに解任すべきことをホッジに電報で通知してあった。

 912日にホッジは自分も同じ結論に至っているが、この方針の「変更」は混乱を招くかもしれないと返事送った。ホッジが当初考えた総督府幹部の現状維持策については、公式の記録には何の説明も見当らない。しかし、それについてはおそらく二つの理由が考えられる。すなわち、(1)マッカーサーが日本では既存の統治機構を利用すると決めたために、朝鮮の第24軍の将校たちも同じように考えたかもしれなかったということ(このことは911日のマッカーサーのメッセージがなぜ政策の「変更」を意味していたのかを説明しうるだろう)、(2)人民共和国が(人共)がアメリカの上陸2日前にその成立を宣言していたので、もし日本人官吏を解任しないなら、人民共和国が権力を掌握するかもしれないと考えたことである。ホッジが混乱を恐れ、日本人と緊密に協力することにしたのは、恐らくこの革命的状況のためであった。いずれにせよ、こうした中で朝鮮人が解放者であると感じていたアメリカに対する絶大な好意は徐々にさめ始めていたのである。

 911日、アーノルド少将が阿部総督に代わった。2日後、遠藤柳作政務総監と総督府の各局長たちが解任され、「植民地統治機構」を意味していた「総督府」という名称も軍政庁に変わり、英語が軍政下の公用語となった。

・・・

 軍政の 最初の数週間のうちにアメリカ人と朝鮮人の間に進展した結びつきの在り方は、よくわからない状況の中で遭遇した朝鮮内の政治的対立にアメリカ人がどのように反応し、外国勢力の存在に対しては朝鮮人がどのように反応したかを観察するのに格好なケース・スタディーの対象である。両者の願望は同一のものでなかったにもかかわらず、アメリカ人は最も保守的な朝鮮人とほとんど一夜にして深い関係を結んでしまった。「現地のいかなる個人も、またいかなる組織された政治集団も、…軍政の政策決定に関与させてはならない」というのが、占領軍の原則であったが、しかし数日もしないうちに第24軍団は韓国民主党と特別な関係を結び、それ以後アメリカ人は韓国民主党的な視点から他の政治グループを眺めるようになった。

 910日、韓民党を代表する趙炳玉(チョピョオク)、尹潽善(ユンホソン)、そしてTY・ユン(尹致暎か)の三人が、軍政庁の役人と会い、人民共和国は「日本に協力した朝鮮人利敵分子」によって組織されたものであり、呂運亨(ヨウニョン)は「反民族的親日派の政治屋として朝鮮人の間で悪名の高い人物だ」と告げた。以後10日間に亘って、Gー2の日報に名前があげられるほどの朝鮮人情報提供者は、ほとんど凡て韓民党の指導者たちで、その中には宋鎮禹(ソンジム)、金性洙、張徳秀、徐相日(ソサンイル)、薛義植(ソルウィシク)、金用茂(キムヨンム)、金度演(キムドヨン)、その他が含まれていた。 また、ルイーズ・イム(任永信:イムヨンシン)と朴任徳(パクインドク)のような(女性の)韓民党支持者たちも同じ時期に、アメリカ軍宿舎内で話をする機会を得た。韓民党の支持者で間もなくホッジの個人通訳となった李卯黙(イミョムク)は910日、有名な料亭明月館に招致された軍政庁の役人たちに重要な演説を行った。李は呂運亨と安在鴻(アンジュホン)は著明な「親日派」であり、人民共和国は「共産主義」に傾いていると発言した〔当の李卯黙は南次郎総督が総裁であった国民総力朝鮮連盟で参事を務めた人物)後になって韓民党の公式の記録は、この時期の韓民党の活動の狙いはアメリカ軍政関係者に人民共和国は親日派、共産主義者、そして「民族反逆者」たちの集団であると確信させることであったと述べている。

 8月末頃から、日本人はアメリカ人に建準と人民共和国は共産主義者で集まりであるとくり返し中傷しつづけていた。しかし、人民共和国は親日的であり同時に共産主義的であるとすると、そこに何か矛盾が感じられたはずであるが、第24軍団の将校たちは何も感じる所はなかったらしい。むしろ彼らは、ソウルの政治状況の中で渦巻いている悪意的な宣伝を真実と思い込んだ。こうして、大衆の支持もなければ、人民共和国のような組織能力もなく、ただ必死になって生き延びる道を模索していた韓民党は、李朝時代の党争のような古くさい手法に訴える以外に手がなかった。無知なアメリカ人たちは、呂運亨や許憲、安在鴻のような徹底した抗日運動の闘士を痛罵している韓民党指導者の多くがつい昨日まで日本の「聖戦」を讃え、「鬼畜米英」の打倒を呼びかける演説をぶっていた人たちであることを知りえなかった。しかし、本質的な問題は、アメリカ人の無知ではなかった。韓民党の指導者たちは、アメリカ人の政治認識を支えている要素を正確に計測し、彼らが聞きたがっていること、信じたがっていることを彼らに話してやったまでであった。

 こうしてアメリカ人は上陸したその日から、はっきりと人民共和国に反対の態度をとった。実際ホッジは105日に至るまで呂運亨とは会おうともしなかったし、呂運亨に会った時のホッジの質問は、「あなたは日本人とどういう関係であるのか」とか、「日本人からいくら金をもらったのか」といった類のものであった。これはホッジがいかに韓民党の宣伝に乗せられていたかを物語るものであるが、呂運亨に対するこの質問が、ホッジが「親日」のことについて反感を示した唯一のケースであったことは附言しておかなくてはならないだろう。呂はその後、「アメリカ軍政は最初から自分に対して好感のようなものを持っていなかった」と述懐している。

 韓民党の情報提供者たちは、アメリカ軍政に対して、人民共和国は共産主義者と民族反逆者の集団であると(必要な水準まで)信じ込ませただけでなく、韓民党こそが南朝鮮における民主主義勢力の主力であるとも吹き込んだであった。Gー2の責任者であったセシル・ニスト大佐は911日に徐相日や薛義植、金用茂ほか何人かの人々と面談したのち、この人々は「一般から尊敬されてされている著明な実業家や指導者達であり」、同時に韓民党は「朝鮮の一般大衆を最もよく代表しているばかりでなく、保守層の大部分と有能で且つ人気のある指導者、実業家を擁する」政党であると記録している。一週間後ニスト大佐は、韓民党は「朝鮮の大多数を代表する唯一の民主政党」であると結論を出している。このような判断はすぐホッジ将軍やベニンホフ、その他とアメリカ軍政の主要な政策立案者の考え方に反映され、実際においてその後数週間のアメリカの政策決定に甚大な影響を及ぼした。

 かくて韓民党は自らの生き残りに必要な命綱をもってアメリカ軍政当局と結びつき、自国にやって来た外国権力の助力と支持を獲得することに成功した。そこでその指導者たちは、自分たちの究極的な目標を達成すべく、アメリカ人の好意を勝ち取ることに全力をつくすことになるが、その究極的な目標とはつまり、日本人が残して行った高度な中央集権的統治機構をおのがものものにすることである。この目的のために、韓民党の指導層は、少なくとも一時的には、自分達のような好運にめぐまれていない他の朝鮮人の怒りや誹謗を耐え忍ぶことにやぶさかではなかった。韓民党は予想もしなかったような大成功を手に入れたわけである。なぜなら、韓民党はアメリカ軍政に対し、自分らが信頼できる味方であるばかりか、民主主義的な仲間であると思い込ませることに成功したからである。この点については、或いは韓民党の一部の指導者でさえ。面映ゆい思いをしたのかも知れない。一方アメリカ軍政としても、朝鮮国内における革命の潮流を防ぎ止めるために頼りがいのある忠実な味方が必要だったといえる。占領の初期の数ヶ月間、韓民党は軍政のこのような目的に一番ピッタリしているように思われたし、自らを抑圧者ではなく解放者と考えていたアメリカ人がおのれの良心を慰めるためにも、実際はどうであろうと、いやおうなく韓民党は民主的であるというふうな評価を下さなければならなかったのである。

 アメリカ軍政と韓民党の関係は、国務省から派遣されたホッジの政治顧問ベニングホフによって作成された最初の重要なワシントン宛ての政治報告にはっきりと示されていた。ベニングホフメは915日付の最初の報告の中で、朝鮮の政治情勢について次のように述べている。

 

 朝鮮は点火すれば直ちに爆発する火薬樽のようなものであると言える。

 

 即時独立と日本人の一掃が実現しなかったために大変な失望がわあき上がっている。朝鮮人の日本人に対する憎悪は信じられないほど激しいものであるが、しかしアメリカ軍の監視がある限り、彼らが暴力に訴えるだろうとは考えられない。日本人官僚の排除は世論の見地からは好ましものであるが、当分その実現は難しい。名目的には彼らを職位から解除することができるが、実際には仕事を続けさせなければならない。なぜなら、政府機関、公共施設、公衆通信機関も問わず下級職員を除くと資格をもつ朝鮮人職員が存在していないからである。それに日本人の下で高級職についていた朝鮮人がいても、彼らは親日派とみなされ、ほとんど彼らの主人と同じように憎まれている。……総督と警務局長の2人の日本人の追放と、ソウル地域の警察官全員の配置転換は、たとえこれが政府機関を強化することにならなくても、激怒した朝鮮人をなだめる効果はあるだろうと思われる。

 

 あらゆる[政治]団体が共通してもっている考え方は、日本人の財産を没収し、朝鮮から日本人を追放し、そして即時独立を達成するということのように思われる。それ以外のことについては考えはほとんどない。朝鮮はアジテーターにとって機の熟した絶好の場なのある。

 

 ベニングホフはさらにアメリカ軍政と韓民党の結びつきの始まりを次のように示唆している。

 

 

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一国独占主義 と国際協調主義の対立

2025年02月23日 | 国際・政治


 下記は、「朝鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルースカミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から、米ソによる38度線南北分割占領の経緯を記した部分を抜萃しました。当時アメリカには、「一国独占主義」と「国際協調主義」の対立があり、戦後の朝鮮半島に対する政策が、原爆実験の成功がきっかけで、一気に、「一国独占主義」に突き進んでいく経緯が詳述されています。

 そして、現在、その性格をまったく逆にした「孤立主義(一国独占主義 )」と「国際協調主義」の対立が表面化しているように思います。

 アメリカのバイデン前政権は、自由主義的な国際協調主義(liberal internationalism)を進めていたと言えるのでしょうが、その内実は、圧倒的な軍事力や経済力によって、アメリカを中心に強固に統制された反共的戦争政策であったと思います。逆にトランプ大統領は、圧倒的な軍事力や経済力を背景としつつも、世界中に配置された軍隊や組織その他に費やす費用をすべて国内に向け、国内を豊かにし、戦争を終息させる平和の回復政策を進めていると思います。

 この対立は、行き詰まるアメリカの資本主義経済体制を維持し、復活させる方法の違いであると思います。

 資本主義経済は、マルクスが指摘したように、必然的に窮乏化(現代風に言えば格差の拡大)をもたらす経済体制です。

 企業家(資本家)は常に、競争に負ける恐怖と闘い、少しでも多くの利益を上げるために必死だと思います。また、企業家(資本家)は、常に労働者からより多くの利益を引き出すために、労働者に薄給を強いたり、指導的立場にある労働者を懐柔したり、労働組合に圧力をかけて分断させたりするだと思います。

 そうしないと資本主義経済体制が維持できないという苦難にも直面し続けているということです。でも、そうした 企業家(資本家)の努力は、必然的に窮乏化(現代風に言えば格差の拡大)をもたらすのです。

 だから、窮乏化(格差の拡大)を防ぐ法律や制度を、国際的にしっかり確立しない限り、企業家(資本家)は、生き残りをかけて闘わざるを得ないのだと思います。それが、ロシアを挑発し、ウクライナ戦争によってロシアの政権を転覆したり、台湾有事を誘発し、習近平政権を転覆したりして新たな市場を確保し、アメリカの苦境を打開しようとするバイデン政権の戦争政策の実態だと思います。生残りをかけた政策なのだということです。

 でも、皮肉なことに、法や道義・道徳を尊重しているとは思えない「孤立主義(一国独占主義 )」のトランプ大統領が、そうした戦争政策をやめて、そのために必要な莫大な費用を国内に還流させ、生き延びようとしているのだと思います。根本的な解決策ではないと思いますが、アメリカは、かなりの期間生き延びることができるだろうと思います。

 そういう意味で、”ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogord)で原爆実験が成功したという報に接するや、これこそはソ連と交わした外交的な約定をすべて反故にした上で太平洋戦争を短期間に終息させ、そして東アジアの戦後処理の問題に対するソ連の参加を排除し、もっと実質的にロシア人を封じ込める絶好のチャンスだと判断した”という「一国独占主義」によるアメリカの朝鮮政策の決定過程は、見逃すことができないことだと思います。

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                      第一部 物語りの背景

                   第四章 坩堝(ルツボ)の中の対朝鮮政策  

             アメリカにおける一国独占主義と国際協調主義の対立 1943年─1945

 

 ヤルタとポツダム──宙に浮く信託統治案

 ・・・ 

 朝鮮に対するアメリカの戦時計画は複雑で矛盾に満ち、しかも明確性を欠いたものであるが、この状態は日本の敗戦の時まで続いた。国務省内に一致した見解などなく、あれやこれや競合的な多くの見解が混在していただけであったのは、1945年夏に編纂されたある一つの驚くべき文書を見れば明らかであるが、この中にはアメリカ軍が占領後朝鮮とった施策とは似ても似つかないいくつかの優れた試案が含まれている。つまり、米軍政庁がとった実際の政策は、この中に含まれている対立的な代案の中から賢明でない方を選び取った結果であったのだ。この文書のタイトルは「極東における戦争が終結したあとアジア太平洋地区で起こりうる情勢の予測と、アメリカ合衆国の目的及び政策」(An Estimate of Conditions in Asia and the Pacific at the Close of the War in the Far East and the Objectives and Policies of the United States)であるが、この文書はす「凡ての人民が自らの政府の形態を選択しうる権利」の保障を謳っている。この文書はその考え方においては反帝国主義と相通じるものを持っており、西欧諸国が「戦争、戦争の脅かし、そして相手の無知につけ込むやり方」を通じて行ってきたアジアに対する侵略の歴史を説いている。この文章では、日帝支配が終わった時の朝鮮における農村状況が的確に把握されており、朝鮮農民の大多数が日本人もしくは朝鮮人地主による「苛酷な搾取」の下に苦しんできた小作農である事実が指摘されている。また、これらの農民は恐らく「抜本的な農地改革を要求するだろうし、日本人であれ朝鮮人であれ、地主階級による支配体制を破壊するべく決定的な行動をとるのは疑いを容れない」ということが述べられている。この文書は、ソ連が朝鮮でどのような態度に出てくるかについて早まった予測を立てることをしていない。ただソ連はいわゆる「友好的政府」の樹立を欲するかも知れないが、これような政府は「非常にたやすく一般大衆の支持を受けるだろう」と予測し、それは「朝鮮が経済的に政治的に共産主義理念を受け入れるのに都合のよい状況にあるから」という指摘がなされている。そして朝鮮に関する章の終りに、アメリカは「朝鮮の軍政と過渡政府の両方に関わり」朝鮮人を助けて「安定した民主的独立国家」を樹立することに力を藉(カ)すべきだということを勧告している。しかしながら、この文章は、どのようにして反帝国主義とアメリカの東アジアにおける戦後目的とを合致させることができるのか、どのようにして抜本的農地改革をアメリカの利害関係及び民主主義の定義と一致させることができるのか、アメリカとソ連がどのようにして両者のいずれとも対立しない政府を朝鮮に樹立しうるのかについては言及がない。このような点に対する曖昧さがはっきりしてくるのは、それから先の様々な出来ごとまで待たざるをえなかった。

 

 戦後最初のコンテインメント(封じ込め)作戦──朝鮮の分断 19458

 太平洋における戦況からすれば、1945年の夏の時点では、アメリカが朝鮮問題に積極的に介入する可能性はそう大きくはなかった。日本本土(九州)に対する米軍の上陸作戦は大体111日を期して始まる予定になっており、朝鮮に注意を向けるのは本土が平定されたあとだというのが軍部の構想であったからである。19457月ポツダム会談のとき、軍事状況が無視できなくなった情勢の中で、もし朝鮮に対する侵攻作戦がとられるならその責任は全面的にソ連軍に任せるというのが事実上の考え方であった。ポツダム会談の記録を検討すれば、アメリカ軍の参謀たちは日本に対する軍事作戦にはソ連の参戦が必要だという点において、まったく見解が一致していたのが分かる。重要な文献の中の一つは「アジア大陸における掃蕩作戦に関して言うならば、満洲(もし必要があれば朝鮮)におけるジャップの一掃はこれをロシア人に任せるというのを目標とすべきである」とも述べている。括弧の中に言及されたような朝鮮における軍事行動については、724日で開かれた三国〔米英ソ〕軍事会談においてより明確に話し合われたが、その時米陸軍参謀総長マーシャルは、朝鮮で米ソの共同作戦が取られる可能性を問うたソ連側の、あの質問に対し、アメリカ上陸作戦について「何も考えておらず、特に近い将来にそれを決行する計画は全くない」と答えている。彼はまた「アメリカ側には朝鮮に対する上陸作戦に廻しうるほど攻撃船艇に余裕がなく、対朝鮮作戦の可能性は九州上陸が終わった後じゃないと決められないとも付け加えた。

 19456月の時点で、満洲と朝鮮にある日本軍の実勢は875千であるとアメリカの秘密文書を判断している(しかもアメリカ人は、満州にある関東軍には畏怖の念を抱いていた)。九州における日本軍の実勢は30万と考えられていた。後日このような判断は過大評価であったのが判明するのであるが、しかし朝鮮における軍事行動とこれに対するソ連軍の参加に関するアメリカ側の構想は、19457月の時点における彼等の情勢判断を抜きにしては考えられない。あのと、本土上陸作戦に要する人員の損失は甚大なものであろうと予期されていたが、満洲と朝鮮に対する侵攻作戦にはそれ以上の損失が要求されるものと考えられていたようである。したがってアメリカ人は満州・朝鮮における軍事行動とそれに伴う損失を、ソ連軍に引き受けさせたいと望んでいたわけだ。勿論ソ連軍のこの犠牲に対しては、それなりの代価を支払うというのがアメリカ側の肚づもりであった。これより数カ月前、マッカーサーはソ連が対日戦に参加した場合の結果について、次のように述べている。ソ連は「満洲・朝鮮の全域と、恐らく華北の一部をもその支配下に収めることを望むだろう。このような領土の占拠は避けられない。しかし、アメリカは、もし

ロシアが、これだけの報酬を得たいと望むなら、一日も早く満洲に対する侵攻作戦を開始することによって、その代価を支払うよう主張しなくてはならない」ポツダム会談の段階に至ってもアメリカの軍部はまだ、かりにソ連が実際に上記のような領土的な野心を抱いているにしても、それに相応する犠牲を払う限りにおいて、その野心を許容するつもりであった。というのは、彼らは「もしソ連がすでに絶望的状況にある日本に対して参戦に踏み切るならば、それが決定的な打撃となって日本は降伏せざるを得なくなるだろう」と考えていたからである。

 アメリカの軍部は、まさか日本が一夜のうちに崩壊するだろうとは予期していなかった。8月の最初の週に至ってさえ、広島と長崎に落とされた原爆と、ソ連軍の満州における迅速な作戦行動がどのような効果を持つものであるか、予測することができなかった。恐らくソ連もこのとき同じような状況であっただろう。ポツダムでソ連の陸軍参謀総長アレクセイ・アントーヌフは「ソ連の極東地区における目標は、満州にある日本軍を消滅させることと、遼東半島を占領することだ」と述べているが、この発言はあの時点でソ連が何を目ざしていたかをかなり明確に示したものといえるだろう。

 先ほども述べたように、当時の軍事情勢から考えて、ポツダムにおいては朝鮮の中立化についての合意は十分成立しえたと思われる。勿論両者間の合意がいかになるものであるせよ、それは朝鮮内における軍事行動がソ連軍の一手に任されるものであるという事情を考慮した上でのものであっただろう。もし討議が具体的に展開したとすれば、ソ連は参戦の代価として、朝鮮における自由行動の権利を要求したかもしれない。またしかし、もしアメリカが朝鮮問題に介入しないことを約束すれば、ソ連は朝鮮の国内に足を踏み入れないことに同意したかも知れない。ともかく、ポツダムにおいてのみならず、朝鮮内で軍事力を使用する問題が討議されたときは常に──19506月ワシントンのブレア・ハウス〔大統領の迎賓館〕会議のときまで──アメリカの軍部は、世界的な大戦の中で朝鮮半島はアメリカにとって何ら戦略的価値をもたないという立場をとり続けた。もし朝鮮の防衛任務も引きうけるならば、アメリカは自らの兵力を極限まで使い果たさざるを得ないし、防衛線を引くとすればもっと有利な地点が見つかるはずだというのがその理由であった。ある一部の自由主義的国際主義者たち(liberal internationalist)は、1940年代になされた朝鮮に対する決定をアメリカの軍部のせいにし、非難の矢をそちらに向けたいと思うかもしれないが、責任を負うべきは、むしろ政策担当官たちである。ポツダム会談の真最中、ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogord)で原爆実験が成功したという報に接するや、これこそはソ連と交わした外交的な約定をすべて反故にした上で太平洋戦争を短期間に終息させ、そして東アジアの戦後処理の問題に対するソ連の参加を排除し、もっと実質的にロシア人を封じ込める絶好のチャンスだと判断したのは、他ならぬこれら政策担当官や大統領側近の顧問ないし大統領自身であったのだ。アメリカ86日と9日、広島と長崎に続けて原爆を投下したが、ソ連は間髪を入れず、アメリカの予測していなかった軍事行動をアジア大陸で開始し──そして日本は崩壊した。このような目まぐるしい事態の直後、朝鮮に38度線が引かれ、南北二つの分割地区が米ソ連両国軍の占領下におかれることになる。

 北緯38度に線を引くというそもそもの決定は全くアメリカが下したものであって、この決定が下されたの810日の夜から翌11日の未明で続いた国務・陸軍・海軍の三省調整委員会(SWNCC)の徹夜会議のときであった。この会議の模様については幾つかの報告がなされているが、その中の一つを紹介すれば次の通りである。

 810日から11日にかけての深夜、チャールズ・H・ボンスティール大佐〔後に将軍として駐韓国連軍司令官に就任〕とディーン・ラスク少佐〔後にケネディ、ジョンソン両大統領の下で国務長官に就任〕は…… 一般命令(Gneral Order)の一部として朝鮮において米ソ両軍によって占領されるべき地域確定について文案を起草し始めた。彼に与えられた時間は30分であり、作業が終わるまでの30分間、三省調整委は待つことになっていた。国務省の要望は出来うる限り北方に分断線を設定することであったが、陸軍省と海軍省は、アメリカが一兵をだに朝鮮に上陸させうる前にソ連軍はその全土を席巻することができることを知っていただけに、より慎重であった。ボンスティールとラスクは、ソウルの北方を走る道〔県〕の境界線をもって分断線とすることを考えた。そうすれば分断による政治的な悪影響を最小限にとどめ、しかも首都ソウルをアメリカの占領地域内に含めることができるからである。そのとき手もとにあった地図は壁掛けの小さな極東地図だけであり、時間的な余裕がなかった。ボンスティールは北緯38度線がソウルの北方を通るばかりでなく、朝鮮をほぼ同じ広さの二つの部分に分かつことに気づいた。彼はこれだと思い、38度線を分断線として提案した。

 その場に居合わせたラスクの話も大体において以上の記述と一致している。ラスクの書いたものによると、マックロイ(SWNCCにおける陸軍省代表)は自分とボンスティールの2人に「隣の部屋に行って、アメリカ軍ができる限り北上して日本国の降伏を受諾したいという政治的要望と、そのような地域にまで進出するにはアメリカ軍の能力にはっきりした限界があるという二つの事実を、うまく調和させる案を考えて欲しい」と求めたという。以上二つの述懐の中で注目すべき大事な点は、朝鮮分断に関するこの決定の性格は本質的に政治的なものであって、しかも国務省の代表はこの分断をもって朝鮮を二つの勢力圏に分割することの政治的利益を主張したのに反し、軍部の代表は朝鮮に足がかりを確保するだけの兵力は無いかも知れないということについて注意を促したという事実である。

 ラスクの言によると、38度線は「もしかしたらソ連がこれを承諾しないかも知れないということを勘案した場合……アメリカ軍が現実的に到達しうる限界をはるかに越えた北よりの線」であったのであり、あとからソ連がこの分断線の提案を承諾したと聞いたとき、彼は「若干驚きを感じた」ということである。もう一つの説明によると、アメリカの提案がソ連に伝達されたあと、ソ連が果たしてどう返答するだろうかについて、アメリカは「暫くの間落ち着かない状態」にあったのであり、もし提案が拒否された場合は、構わず米軍を釜山に急派すべきだという意見もあったという。こう考えてみると、38度線の選定は、ソ連の出方を試そうとするはっきりした意図を含むものであったことが分かる。ソ連軍は南下を停止するだろうか。このテストはうまく目的を果たしたと言うべきだろう。ソ連軍が朝鮮に侵入したのはアメリカ軍が上陸する一ヶ月前のことであり、もし彼らがそう欲したとすれば、ソ連軍は簡単に朝鮮半島の全土を入手しうる立場であった。しかし彼らはアメリカに与えた同意事項を遵守した。そのためにアメリカ軍はおくれて来たにも拘らず首都ソウルと人口の三分の二、それに軽工業の大部分と穀倉のほとんどを含む地帯をその占領下に収めることができた。このような結果をもたらした議論の席に、D・ラスクのような根っからの封じ込め政策の信奉者が参加していたの思い返すと、成る程という気にならざるを得ない。それより20年あと、「ベトナムにおける」17度線の不可侵性はどんな事があっても回復しなければならない」と執拗に主張しつづけたのはラスクであった 。

 スターリンがアメリカとの合意事項を遵守したのは、それなりの理由があったと思われる。38度線の目的は、代価として得られるはずの勢力範囲を厳格に規定することであると、彼は考えたに違いない。歴史を遡って見れば、ロシア人と日本人は1896年〔日清戦争終結の翌年〕、38度線を境界線として朝鮮を分離する交渉を進めたことがあり、同じような交渉は再度1903年〔日露戦争の前年〕にも行われた。スターリンは1945年、日露戦争で失われたロシアの権益は回復されなくてはならないと、はっきり言明している。アメリカと同様、ソ連もまた、自国に対して友好的な、統一された朝鮮の方がより好ましいと思っていたかも知れない。しかしたとえ朝鮮が分断されたにしても、それがソ連に対する攻撃の基地とはならないことが保障される限り、ソ連の基本的な安保の利害は充足されると考えただろう。ウィリアム・モリスが論じたように、朝鮮おけるソ連の動きにスターリンが制約を加えたのは、連合軍との協調関係を維持したいという考えからであったのかも知れない。ともかく理由はなんであれ、スターリンにとって朝鮮は完全に自らが軍事的に支配しうる国であったにも拘らず、彼はアメリカに対し共同行動を許容したのであった。

 朝鮮はいわばつい何日か前、ポツダムで事実上ロシア人に譲り渡した国であったわけであるが、突然日本が崩壊したことにより、アメリカ軍は予期さえもしていなかったチャンスをつかんで朝鮮に侵入することができた。この短い期間中に二年間にわたる戦後朝鮮に関するアメリカの計画にいつもつきまとっていた曖昧さが一気に解消したようなものだ。軍事戦略がより確実な方法であり、共同管理や信託統治は信頼性に欠けるというわけで、軍隊が現場に急派されるということになった。この決定は8月中旬のあるどさくさの中で取られたいわば突発的な、ある意味においては軽率とさえ言ってよいものであるが、しかしすでに194310日月時点で、朝鮮半島の支配を太平洋の安全に関連付けて考えていたアメリカの計画からすれば、全く辻褄の合った論理的な帰結であった。全面的にソ連の手中にある朝鮮は、太平洋の安全に対する脅威と見なされていたのである。朝鮮に軍隊を派遣するという決定は、「単に」日本軍の降伏を受諾するための便宜上のものであったというのが、1945年以来、アメリカが一貫して口にしてきた公式的な弁明であるが、実際においてこのような弁明は、一体何が当時問題であったかという点をぼやかし、糊塗するものだと言えよう。東アジアにおける国際的な力関係の発展は、どの国が、どこで日本軍の降伏を受諾するかということと密接な繋がりを持っていたのであり、またこのことは「軍事的な勝利が現地の政治を左右する」という原則に基づくものであった。

 かくして朝鮮を舞台とする第一回戦は一国独占主義の勝利に終わった。もしも国務省が、以前はアメリカの関心外の 遠い周辺地域に過ぎなかった朝鮮半島を、戦後における太平洋の安全に不可欠なものと規定しなかったとすれば、国際協調主義者たちの意見が通ったのかもしれない。すでに見てきたように、いざというときになるといつも現実主義者となる軍部の参謀たちは、もしソ連が逆らえば朝鮮半島を占領しうるような兵力は、アメリカにはないということを熟知していた。ところが国務省は、ソ連軍の南下を食い止めるという政治的な目的のために、軍に対しできる限り半島の北方に兵を集めるよう要求した。要するに国務省は、ソ連を排除し、朝鮮の全土を独り占めにするという二つの目的を同時に達成したいと望みながら。19458月、実際に手に入れることができたのは、望んだものの半分にすぎなかった。

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アメリカの軍政と朝鮮戦争

2025年02月19日 | 国際・政治

 先日朝日新聞は、韓国の弾劾審判で、当時の軍司令官が証言をしたことを、下記のように伝えました。

 ”郭種根(クァクジョングン)陸軍特殊戦司令官は昨年12月の非情戒厳の際に尹大統領から直接電話を受け、「議決定足数が満たされないようだ。早く国会の扉を壊し、中にいる人員を引きずりだせ」と指示されたと述べた。

 韓国の情勢を踏まえれば、軍司令官が尹大統領を陥れるために、そういう事実をでっち上げることは考えにくいと思います。

 また、尹大統領が、国際社会を驚かせるような「非情戒厳」を宣布したこと自体も、戦後のアメリカの欺瞞的な軍政の影響と無関係ではないと私は思います。

 だから、今回は、「鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から、当時韓国で、「自民族を裏切った利敵分子」とか「親日売族分子」などと受け止められていたような右派の人たちが、日本の敗戦後まもなく、「韓国民主党」を結成し、アメリカに取り入って、”おのれ財産を守り”、”懲罰を免れ、あわよくば日帝時代この方の社会的影響力をこれから先も持ち続けよう”としたと考えられる部分を抜萃しました。

 

 前回も触れましたが、アメリカは「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する」という内容を「カイロ宣言」に入れておきながら、すでに建国されてされていた「朝鮮人民共和国」を受け入れず、逆に否定し、関係者を排除する軍政を敷いて、朝鮮を分断する占領行政を行いました。

 その時、メリカ軍政庁が、どういう人々と手を結んだのか、歴史家ブルース・カミングスは、具体的に、名前まであげて明らかにしています。その大部分が、朝鮮を植民地とする日本と手を結び、かつて「鬼畜米英」の戦争を煽った「親日売族分子」と呼ばれるような人たちであったということ、そして戦後、手のひらを返したように、アメリカの占領行政に協力するようになった人たちであったということを忘れてはならないと思います。 

 アメリカは、本来戦犯に問い、公職を追放すべき右派の人たちの戦争犯罪に目をつぶり、朝鮮独立を達成しつつあった「朝鮮民主共和国」の推進者達を犯罪者扱いする欺瞞的な占領行政を行ったということもできると思います。

 

 そればかりでなく、アメリカは、戦後の朝鮮に関し、ソ連に分割占領を提案しておきながら、1948年の第三回国連総会を主導し、南の大韓民国のみが国連の認める唯一の正統政府であるとするような「総会決議195号Ⅲ」を採択させているのです。

 さらに、その総会決議を背景として、国連軍を組織し、国連を巻き込んで、朝鮮戦争に介入していったということ、そして それがその後の日韓条約に受け継がれていったことを、私たちは忘れてはならないと思います。

 

 膨大な一次資料を駆使し、戦後の朝鮮や朝鮮戦争の内実を明らかにしたブルース・カミングスの「鮮戦争の起源」が、韓国社会に大きな衝撃を与えたので、韓国では「禁書」とされたということが、尹大統領につながる韓国保守政党の本質をあらわしているように、私は思います。

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                       第一部。物語の背景

                  第三章 革命と反動──19458月から9月まで

 

 朝鮮人民共和国(人共) 

 ・・・

 914日の人共宣言文は次のようにのべている。

 日本帝国主義の残存勢力を完全に駆逐すると同時に、われらの自主独立を妨害する外来勢力と、反民主主義的凡ての反動勢力に対する徹底的な闘争を通じて完全な独立国家を建設し、真の民主主義社会の実現を期するものである。

 ・・・

 

 人民共和国」に対する反対

  ・・・

 韓国民主党は、解放後数ヶ月にして右翼を支える支柱的な存在として浮上し、米軍政の全期間を通じて、最大最強を誇る右翼政党として存続した政党である。韓民党は自らを「愛国者、著名人士、及び各界の知識人」の政党として規定したのであるが、この規定はある程度真実を語るものであると同時に、この集団のエリート意識を示すものである。左翼と中道穏健派はこの集団を資産家と知識人、愛国者と裏切り者、そして「純粋分子」と「不純分子」との混交物だと評した。大衆により容易に受け入れられそうな人物が全面に出されていたが、これはおのれ財産を守り通そうとする地主階級と、日帝支配から民族の独立へと移り変わる過渡期に処して、懲罰を免れ、あわよくば日帝時代この方の社会的影響力をこれから先も持ち続けようとする親日分子らをかばうための風よけだというように、一般からは受け止められていた。後のアメリカ側の資料には、韓民党は「主として大地主と富裕な企業家たち」の政党であると規定されている。韓民党創党大会に参席したあるアメリカ人は、そこに居合わせていた人たちの衣服がきらびやかであった点から、これは「金持ちの徳望家たちの政党であろう」と感じたとの証言を残している。

 

 韓民党は端的に言って、金性洙(キムソンス)と宋鎮禹(ソンジヌ)の支配下にある地主勢力、企業家、そして新聞・雑誌等言論機関の集まりがその主力である。このグループはしばしば湖南財閥の名で呼ばれるものであるが、これは第1章ですでに論じた地主企業家の集団に他ならない。このグループの人々は1920年代にさかのぼり、日本に対しては改良主義的な漸進的抵抗を試みた人々であるが、しかし日中戦争が始まった頃はそのような抵抗意識も枯渇してしまい、それと同時に総督府当局は、日本の朝鮮皇民化政策に協力するよう彼らに強力な圧力を加え始めた。このグループの連中を、自民族を裏切った利敵分子と呼びうるかどうかは、言葉の定義と、見る人の視角如何によるだろうと思う。宋鎮禹ような人物は、恐らく伝統的支配階級としての自らの正当性の根拠を、回復しないえない程度にまで汚してしまったといえないような人物であろう。彼が戦時中、積極的に日本人に協力したという批難もあるが、それについての文献上の証拠はない。一方、彼が示した抵抗の姿勢というのは、せいぜい病と称して表に出なかったという、如何にも無気力で消極的なものであったが、しかしこの程度のものであれ、保守的で伝統的な思考の朝鮮人からすれば、それは彼の地位にふさわしい愛国的な行為であったと見られるたかもしれない。金性洙が1940年代の初め頃から、演説とか寄付を通じて、そして総督府中枢院に身をおくことを通じて、積極的に日本人に協力したことについては疑問の余地がない。にも拘らず、呂運亨(ヨウニョン)は建準の創設に加わってくれるよう、数回にわたって金性洙一派に協力を要請した。公平に言って、彼らが解放後の朝鮮の政治に参与する程度のことであれば、国内外を問わず果敢に日本に抵抗した人たちを含めて、あまり反対はなかったかもしれない。しかし、新しい国造りに彼らが支配的な地位を占めるようなことは到底ありえないこととして猛烈な反対に逢ったであろうことは明らかである。一人の人間が個人として、日本人の圧力に屈したということはとも角として、それらが何ら自分の前非を反省することなく、恰もあたかも過誤は無かったかのように大手をふって解放後の社会でのさばるのは許せないというのが当時の通念であったろう。

 

 韓民党指導層のは中には、否定しえない、しかもより罪科の重い対協力の経歴をもつ人がかなりいた。例えば普成専門学校の教授張徳秀であるが、彼は戦時中、日本の「聖戦」を讃めたたえる数多くの演説を行い、李光洙(イグァンス)、申興雨(シンフンウ):ヒュー・シン)、崔麟(チェリン)、崔南善(チェナムソン)等々、著名な親日売族分子らと共に公開の席上に姿を見せたりしていた。また、京畿道(キョンギエド)の「愛国国民義勇隊」を指導していたようである。1947年暗殺されたとき、彼の狙撃者は、張徳秀の罪状をあばき、彼が日本軍の司令部付き顧問を務め、朝鮮人政治犯や「思想」犯の「再教育」のために運営されていた「大和塾」の指導者であったことを糾弾している。レナード・バーチ〔中尉〕は、恐らく当時の米軍政庁の中で朝鮮の政治情勢に最も通暁していたアメリカ人であったが、彼は張徳秀について次のように述べたことがある。「彼はアメリカの蛮行を口を極めて罵りつつ、衷心から日本人に協力した男であるが、今度は〔1946年〕アメリカ人に衷心から協力している。次に衷心から協力する相手はロシア人だろう」。韓民党のもう一人の指導者金東煥(キムドンファン)は、日本人の戦争努力を鼓舞讃揚する演説と、朝鮮人に対する熱心な動員活動をもって鳴らした人物であるが、程度の差こそあれ、日帝と協力した前非を糾弾されるべき韓民党の重鎮の中には、この他にも白楽濬(ペクナクチュン)、朴容喜(パクヨンヒ)、兪鎮午(ユジノ)、徐相日(そサニル)、李勲求(イフング)等が含まれる。韓民党指導者の凡てが親日協力の汚点を持っているわけではないが、しかし彼らの愛国的経歴は、人民共和国指導層のそれに比べると、全く見劣りするものであった。

 

 富裕な朝鮮人は、そう積極的に公然と日本の皇民化政策に同調しなかった人でさえ、一般大衆の心の中では日本人と結びつけて考えられた。前章で論じたように、多くの朝鮮人にとって、植民地主義と資本主義がいずれも、平穏なそして自足的な伝統的朝鮮の経済と社会を破壊し、崩壊に追い込んでいった日本の侵略を象徴するものであった。日帝程時代は、しばしば屈辱の思いを込めて「資本主義段階」というふうに呼ばれるばかりか、資本家となった朝鮮人自体が機会主義的成り上がり者か、日本人の手先となった卑劣漢のように思われた。従って資本主義は、伝統的思考に浸ったまま、古(イニシエ)の平穏な自足的経済体制を回復しようとする反動主義者からも、また社会問題の解決策を社会主義の中にみつけようとする進歩主義者からも、同時に反対をうけ挟み打ちにされるということになった。社会の一般的風潮がこのようであったことから、資本主義的所有の形態を解放後も引き続き維持しようとする朝鮮人は、大変な困難に直面せざるをえなかった。

 韓民党の構成員の中には、産業分野と教育界、それに植民地統治機構の中で枢要な地位を占めていた人々が含まれていた。金度演は朝鮮工業株式会社の取締役をしており、趙炳玉(チョピョオク)、は初期民族主義運動の指導者であったが、1937年から45年まで宝仁(ポイン)〔音訳〕鉱山株式会社の重役を務めていた。閔奎稙(ミンギュシク)は朝鮮屈指の大銀行である朝興銀行の重役であり、金東煥は大東亜株式会社の社主であった。趙鍾国(チョジョンググ)は製薬界の大物であり、金東元(キムドンウォン)は平安商工株式会社の社長、張鉉重(チャンヒョンジュン)は東亜企業を経営していた。教育界の重鎮で、韓民党に名を連ねていたのは、金性洙、 白楽濬、李勲求、白南薫その他である。後述する通り、朝鮮人として日帝の植民地統治機構で高位の職についていたものらも多数、韓民党と密接な関係を結んでいたが、1945年の秋の時点ではその関係を公然と明らかにしなかった。その理由は説明にも及ぶまい。しかし日本人によって任命されていた道や市レベルの顧問役等は、韓民党は大っぴらに党員としてこれを公表した。その中に含まれているのは、李鳳九(イボング)、裵栄春(ペヨンシュン)、千大根(チョンデグン)、鄭順錫(チョンスンソク)、李鍾圭(イジョンギュ)、李鍾駿(イジョンジュン)などである〔以上凡て音訳〕。これらの大部分は地主であった。実際、米軍情報機関が蒐集した個人的なデータと照らし合わせてみれば、韓民党メンバーの圧倒的多数は、地主か、企業家か、或いはさまざまな種類の事業主であった。

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米軍の韓国占領行政と右翼

2025年02月14日 | 国際・政治

 下記は、「ニッポン日記」マークゲイン:井本威夫訳(筑摩書房)から「第三章 決裁の時期」の「1948年 53日 ニューヨーク」を抜萃した文章です。

 70年以上前のことですが、現在につながっている重要な問題です。

 

 ふり返れば、「カイロ宣言」は、日本の降伏を見通して、1943年12月1日、アメリカ大統領・ローズヴェルト、イギリス首相・チャーチル、中国主席・蔣介石の三人が署名した宣言ですが、下記のように内容でした。

各軍事使節は、日本国に対する将来の軍事行動を協定した。

 三大同盟国は、海路、陸路及び空路によつて野蛮な敵国に仮借のない圧力を加える決意を表明した。この圧力は、既に増大しつつある。

 三大同盟国は、日本国の侵略を制止し罰するため、今次の戦争を行つている。

 同盟国は、自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない。

 同盟国の目的は、1914年の第一次世界戦争の開始以後に日本国が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国からはく奪すること、並びに満洲、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある。

 日本国は、また、暴力及び強慾により日本国が略取した他のすべての地域から駆逐される。

 前記の三大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する。

 以上の目的で、三同盟国は、同盟諸国中の日本国と交戦中の諸国と協調し、日本国の無条件降伏をもたらすのに必要な重大で長期間の行動を続行する。”

 

 そして、1945726日のポツダム宣言(日本降伏のため確定条項宣言)で、下記のような内容をつけ加えました。

(6)日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、 全ての時期における 影響勢力及び権威・権力は永久に排除されなければならない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである。

(7) そのような新秩序が確立せらるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定する日本領土内の諸地点は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合国軍がこれを占領するものとする。

(8) カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。

 

 連合国軍が占領するのは、「日本領土内の諸地点」であって、南朝鮮に米軍を派遣する規定はありません。でもアメリカは「連合国軍」の名目で軍を派遣し、南朝鮮で必要のない「軍政」を敷きました。そして、アメリカ単独の占領行政を開始しました。それは、アメリカのための占領行政で、カイロ宣言やポツダム宣言に反する占領行政だったと思います。

 なぜなら、朝鮮ではすでに「朝鮮人民共和国」が建国されていたからです。

 でも、アメリカは、アメリカの「利得を求め」、「朝鮮人民共和国」を受け入れなかったばかりでなく、その関係者を排除して、植民地下の朝鮮で日本に協力した戦時中の朝鮮支配層と手を結び、また、日本ではレッドパージで組合関係者を中心とする左派的な人物やその指導者を排除したばかりでなく、戦犯の追放を解除して、戦争指導層と手を結ぶという反共的占領行政を行ったのです。

 アメリカが「駆逐」したのは、「人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた軍国主義者」ではなく、「朝鮮人民共和国」の建国に尽くした民主主義者や、日本の民主化を実現しようとした人たち及びその指導者たちだったのです。

 それは、下記のような記述でわかります。

 

 例えば、

中国人や日本人や朝鮮人を裨益(ヒエキ)する進歩的政策を促進するよりは、むしろわれわれはソ連の影響を「牽制」することに日増しに多大の関心を払うようになっていった。

 とか、

われわれは、われわれが支持した政治家たちは腐敗し、かつ非民主的だったということを素直に容認した。またわれわれは、これらの男たちは進歩的革新を行おうともせず、また行いえないということも認め、さらにかかる進歩的革新なしには国内の不安は増大をつづけるだろうということも、すすんで容認した

 とか、

メリカの新しい塑像は、反動と手を握り、共産主義であれ、社会主義であれ、はたまた不正義、腐敗、抑圧に対する単純な抗議の運動であれ、中央から少しでも左によった大衆運動はことごとく鎮圧する決意を固めた強力な、富裕な、そして貪欲な国家の塑像である。

 というような記述です。

 

 そして朝鮮戦争停戦後、ソ連軍は1950年代に順次撤退したのに、米軍は駐留を続け、現在にいたっているのです。アメリカは、自ら署名したカイロ宣言ポツダム宣言を守らず、”同盟国は、自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない。”と約束したのに、現在も朝鮮や日本に広大な軍事基地をいくつも設置して、現実的に「反共の防壁」として機能させていると思います。

 だから、そんなアメリカと、”「力強く、揺るぎない日米同盟」のさらなる強化を行っていく”などという石破政権は、法や道義・道徳を尊重しない政権であることは否定できないと思います。  

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                        第三章 決裁の時期

 1948

 53日  ニューヨーク

 1945年晩秋の一日、サンフランシスコから西へ飛び立ってから、私はアジアの三主要国でわが外交政策が実地に展開されるのを注視する機会を持った。日本、中国、そして朝鮮、この三国におけるわが政策の型(パターン)は何ら異なるところがなかった。

 たとえば、三国のいずれの国においても、われわれは消極的政策を追従した。中国人や日本人や朝鮮人を裨益(ヒエキ)する進歩的政策を促進するよりは、むしろわれわれはソ連の影響を「牽制」することに日増しに多大の関心を払うようになっていった。

「牽制」という名の下に、われわれはこの三国で極右派と手を握った。右翼とその親疎の程度は、もちろん国によって異なりはする。日本ではわれわれは最上の記録を持っている。なぜならわれわれは進歩的な政策で出発したし、1947年─8年のある期間には、比較的進歩的な内閣を通じて働きかけたからである。しかし、この差異は、わが政策の型(パターン)を変えるものではなかった。われわれは、日本では吉田というような男、朝鮮では李承晩というような男、そして中国では国民党の極右翼と同盟した。

 これは自ら破産を招く政策だった。われわれは、われわれが支持した政治家たちは腐敗し、かつ非民主的だったということを素直に容認した。またわれわれは、これらの男たちは進歩的革新を行おうともせず、また行いえないということも認め、さらにかかる進歩的革新なしには国内の不安は増大をつづけるだろうということも、すすんで容認した。下院外交問題小委員会の報告はおそらくこの典型的な容認を示すにいたるであろう。

中国では、たとえ不道徳でも自由な政策を持つことのほうが、どんなに純血で道徳的であっても共産勢力の支配下にある敵対的な政府をもつよりも、米国にとってははるかに望ましい……」 

 それは無益なそして高価な政策だった。なぜなら、われわれが保護すると声明した国民の福祉を無視した政策だったからである。それは封建的な観念と体制を通じて共産主義と戦おうと企てたのだから、二重にも無益な政策だった。中国、朝鮮における社会的不満は、封建的な土地所有制度によってはぐくまれる。中共軍の兵や南鮮の無数の暴徒は、生きるに万策つきた小作人の群れなのだ。日本ではわれわれは農民を解放しようとこころみた。しかし実際は、天皇を頂点とする封建的上部構造はまったく手を触れられずに残された。

 いずれの三国においても、共産主義者たちは反抗運動と連盟した。しかし、もし共産主義者がいなかったなら、朝鮮や中国に農民の暴力蜂起が起らなかったと考えるのは無邪気すぎる。

 一世紀半のあいだ、米国は自由と進歩思想の象徴であった。アジアにおいては、今度の戦争中ほどこの象徴が燦然と輝いていたことはかつてなかった。ところが、わずか三年たらずして、われわれはこの善意の宝物をつまらなく使い果たしてしまった。アメリカの新しい塑像は、反動と手を握り、共産主義であれ、社会主義であれ、はたまた不正義、腐敗、抑圧に対する単純な抗議の運動であれ、中央から少しでも左によった大衆運動はことごとく鎮圧する決意を固めた強力な、富裕な、そして貪欲な国家の塑像である。

 

 力と鎮圧は不安状態への解答たりえない。その解答は進歩せる社会革新である。もしわれわれがこれを提供したのだったら、われわれはなにも共産主義もソ連もおそれる必要はなかったであろう。「降伏日本に対する第一次政策」を書いた人々は、この事実を理解していた。ワシントンで引き継いだ人々や実施にうつした人々は、この事実を理解しなかった。

 その結果、われわれは中国でも朝鮮でも失敗したように、日本でも失敗した。

 中国や朝鮮でわれわれが成功したのは、単に憎悪の予備軍を製造したことだけだった。今日盲人だけが、中国や朝鮮における共産主義の勝利の可能性を否定しうる。

 大審院判事ウイリアム・ダグラスは、最近こう言った。

「われわれの最大の過誤は、わが交政策を反共主義という限度においてのみ形成せんとすることであろう。もしこの条件をみたす以上のものをわれわれが何もしないとすれば、われわれは悲惨な失敗をするであろう。けだしわれわれは、共産主義の怪物を罵り騒ぐにとどまり、共産主義を繁茂せしめる条件を除去する何ものをもなさぬからである。この進歩をたどれば、われわれのえらびうる唯一の結果として、ただちに戦争状態が出現するであろう」

「牽制」政策や「強硬」政策が、それ自身破産政策であることはすでに立証されている。かかる政策は、自らの国民から反対され、わずかにわれわれの尻押しで生存をつづける封建的な非民主的な男たちや党派と、われわれを同盟せしめてしまった。こうした同盟に基礎をおく軍事的、もしくは、政治的体系は腐朽した支柱に依存するものに他ならない。それはとうてい共産党の政策やスローガンの動態に拮抗しうるものではない。

 われわれは過去においてもいくたびか重大な危機を経験した。しかしその都度われわれアメリカの国民は、国家政策の方向を掌握し直して誤らなかった。この過去のいくたびかの危機のうち、現在わが外交関係を惑乱せしめているこの危機にまさる重大さをもった危機はほとんどないでだろう。これは行動を要求する時期である。それはまた偉大さを要求する時期である。けだし、機を失せずして政策を転換しうるならば、われわれはいまなお平和を救いうるであろうからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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GHQの政策転換「逆コース」NO2

2025年02月09日 | 国際・政治

 下記は、「ニッポン日記」マークゲイン:井本威夫訳(筑摩書房)から、「第二章。実施の時期」の「1946年 528日 東京」抜萃した文章です。

 マーク・ゲインは、シカゴ・サン紙の東京支局長で、占領下の日本を取材し、軍人や体制を支える政治家、官僚、企業関係者などとは明らかに異なる視点で、一般人は知り得ないGHQの取り組みを捉えています。

 だから、戦後の日本や日米関係を正しく理解するためには、欠かせない一冊であり、多くの研究者や学者が、彼の記述を引用しているのだろうと思います。

 

 前回も触れましたが、連合国軍が日本領土内の諸地点を占領するのは、「ポツダム宣言の執行」が目的でした。でも、米軍のウィロビーを中心とした参謀第2部(G2)は、全く異なる目的をもって臨んでいるのです。

 それは、”ポツダム宣言はいつ追放を実施すべきかということについては何にも言及していない”とか、”ポツダム宣言は不可侵の文書ではない”とか”ポツダム宣言よ、地獄へ行け!”と吐き捨てるような主張までして、ポツダム宣言の遵守に抵抗していることで分かります。

 

 そして、戦争犯罪人の公職追放が、”占領軍は現在追放実施の招く混乱を賭しうるだけの兵力を持っていない”とか、”彼らは確かに戦争犯罪人か”という疑問まで語って、追放が、”日本の最良の頭脳を敵側におき、アメリカのためにならない”と言うのです。

 見逃せないのは、具体的に名前をあげて、日本の「セメント王」浅野良三を追放させないような主張をしていることです。 マーク・ゲインは、彼が、 連合国軍官への壮大な宴会供給者であってことを見逃しませんでした。

 

 思い出すのは、岸信介元首相が巣鴨プリズンに拘束されいているとき、すでに、「アメリカとの協力は可能であり、自分は釈放されて政界に復帰できる」と確信していたということです。

 冷戦が勃発し、米ソの対立が深まっていることを察知した岸信介元首相は、「反共」の立場でアメリカとの協力が可能であり、アメリカの役に立てると考えたのだと思います。

現に、ウィロビーを中心としたGHQ参謀第2部(G2は、民政局(GS)から主導権を奪い、彼を釈放してれ公職追放を解除しただけでなく、首相に就任させたのだと思います。だから、「逆コース」の政策転換は、ポツダム宣言違反への政策転換であったと言えるように思います。

 アメリカは、親米的でありかつ「反共」であれば、相手が独裁者であろうが、テロリストであろうが、日本の戦犯のような「戦争犯罪人」であろうが、手を結ぶということだと思います。中南米やアフリカ諸国でも、似たようなことがくり返しおこなわれてきたと思います。

 「岸信介」は、かつて「鬼畜米英」を煽った戦時東条内閣の商工大臣であったことを、私たち日本人は忘れてはならないと思います。

伊藤貫教授は、陰謀論を語っているのではないと思いますし、トランプ大統領は民主主義の破壊者であるというような主張こそ、問題だと思います。

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                             第二章。実施の時期

1946

  528日  東京

 日本の経済界から戦争犯罪者を追放する指令を成文化するため、総司令部のほとんど全部局合同の会議が4日前に開かれた。総司令部のマッカーサーの部屋から呼べばこたえるるほどの距離にある農林省ビルディングの506号が会場にあてられた。昨日のダイクの演説同様、この会議も日本占領史の一里程標として永く残るべきものである。

 会場はすこぶる暑かった。そのうえ、はげしい論争がいやがうえにも会場の空気をあつくした。少なくとも6人の男があとで私のところへやってきて、会議の模様を憤慨して話すのだった。その憤慨はまったくもっともだった。侵略の資金をまかなった連中の追放を躊躇するなどは、とんでもない話である。しかしさらに遺憾なのは、この会議で「アメリカの緩衝地帯日本」とか「最上の同盟者を殺すな」とかいう考え方の再興が最高潮に達したことだ。会議のテーブルの上に置き去られたたくさんの残骸の中には、「日本国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたるものの権力および勢力は永久に除去されなければならない」というポツダム宣言の誓約もあった。

 政界人追放を議題とした昨年の会議同様、今度の会議も開会早々二つの調和しがたい陣営に分裂してしまった。一は参謀本部の四局──G1(人事)G2(情報)G3(計画並に作戦)G4(補給)──を包含する鞏固な団結で、軍部外の外交局や民間通信局などもこれに味方した。この未曽有の論争の反対陣営にややバラバラに整列したのは、事実上日本の行政をつかさどっている三局──ダイク准将のCIE、ホイットニイ准将の民生局、マーカット准将の経済科学局──の代表者たちだった。

 会議は調和音に始まった。ポツダム宣言がたしかに追放を規定していることは全員これを認めた。しかし、一致はこの点かぎり終焉した。軍側を代表する一人は、ポツダム宣言はいつ追放を実施すべきかということについては何にも言及していないと述べた。他の一人は「現存する事態下で」のポツダム宣言の効力について疑義をとなえた。国務省の役人でアチソンの右腕といわれるマックス・ビショップは、「ポツダム宣言は不可侵の文書ではない」と述べてこの見解を支持した。

 わが友クレスウエル大佐は軍側でもっとも積極的な発言者だった。

 「ポツダム宣言が世論や激情やその他の感情の圧迫をこうむることなしに、今日ふたたび書かれるとしたら、それはまったく異なったものとなるだろう」と述べ、そこで彼は思索的考察から一転して激越な語調で、

「ポツダム宣言よ、地獄へ行け!」とつけ加えた。

 この二つの陣営への分裂が明瞭となるや、軍側の陣営は日本の経済から有能な人物を取り去ってしまうような危険をおかすことはできないと言い始めた。ある将校は言った。

「いま日本の産業を職工長たちにわたしてしまうわけにはいかない」

 チェーズ・ナショナル・バンクの副頭取で、現在総司令部民間通信局長の任にあるJD・ホイットモアはこう言った

 この指令を出してみたまえ、全通信産業は大混乱におちいるだろう」

 クレスウエルは、追放に関するこの覚書草案は「時期尚早」で、マックアーサー元帥は「この指令がもたらすおそれのある混乱について熟考すべきであり、「この追放はあらゆる練達堪能の人々」を産業・金融界から「駆逐してしまう」と言い張った。

 G3代表の一大佐はこの問題を戦略的根拠からとりあげた。

「占領軍は現在追放実施の招く混乱を賭しうるだけの兵力を持っていない」

 やがて、「混乱」論は「彼らは確かに戦争犯罪人か」という議論におきかえられた。

 クレスウエルは、ポツダム宣言および類似の諸声明の基本的な欠点の一は、軍需品を製造した者はみな軍国主義者だという仮定であると言った。さらに彼は、

「一月の政界人追放の結果を見るがいい。大政翼賛会(戦時中の全体主義政党)や類似団体に属した者の活動を制限するためだけに彼らを公職不適格にしたようなものじゃないか」とつけ加えた。

 先に発言したG3の大佐もつづいてこの指令は「日本の最良の頭脳を敵側におく」ものだと言い、ビショップもこれに和して、これはアメリカのためにならないと言った。(「この追放は軍国主義に反対した人々の多くにも適用されることになるかもしれない」)。

 クレスウエルは、

「この指令によると浅野良三も追放されるそうだが、私は彼が追放されるべきでないことをたまたま承知している」と言った。日本の「セメント王」アサノは大軍需産業家の一人で、また海外膨張の勇敢な戦士でもあった。敗戦後の彼は、連合国軍官への壮大な宴会供給者である。

 ほかの将校たちも「不当にも」追放されるかもしれない財閥関係者の名前を進んで列挙した。  

 しかし、こうした議論のどれよりも、次の三つの発言は日本の政治の新しい気象配置を示度するバロメーターとして私に衝撃を与えた。

 クレスウエル大佐「強力な日本を必要とする時期がくるかもしれない」

 第二の大佐「われわれは日本経済を実験の具としてはならない」

 その三「軍人追放の結果を反省してみるがいい。ただわれわれの戦略的地位を弱化しただけではなかったか」

 日本経済改革の高遠な理想を放棄することや、あけすけに日本再武装論をやることだけでは、もはや事足れりとはしないのだ。ある人たちは日本軍隊の解体さえ誤りだったとまで考えるようになった。日本降伏の7カ月前開催された太平洋問題調査会の会議に出席した英国保守党の一代表のように、この大佐たちは「混乱期における安定勢力としての」日本軍隊の消滅を明らかに後悔している。

 

 

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GHQの政策転換「逆コース」NO1

2025年02月07日 | 国際・政治

 再び大統領となったトランプ氏に対する非難、批判は続いています。確かに、トランプ大統領の、ガザやデンマークの自治領グリーンランドをアメリカが所有するとか、パナマ運河の返還を求めるというような発言は、とんでもない発言だと思います。でも、アメリカは、公にすることなく、そういうことを続けてきたと思います。

 

 下記は、「ニッポン日記」マークゲイン:井本威夫訳(筑摩書房)からの抜萃ですが、日本の戦後史にとって、きわめて重要な事実を明らかにしています。トランプの発言とそれほど変わらないようなことが話し合われ、実行されたといってもよいと思います。

 ポツダム宣言には、 

(7) そのような新秩序が確立せらるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定する日本領土内の諸地点は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合国軍がこれを占領するものとする。

(10)われわれは、日本を人種として奴隷化するつもりもなければ国民として絶滅させるつもりもない。しかし、われわれの捕虜を虐待したものを含めて、すべての戦争犯罪人に対しては断固たる正義を付与するものである。日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。

 とあります。

 でも、総司令部の各局から代表者が全部出席した極秘の会議が行われ、”日本の政界から戦争犯罪人を追放する指令案”についての議論のなかで、ポツダム宣言とは関係のないアメリカのための主張がなされているのです。
 ポツダム宣言は、連合国軍が日本領土内の諸地点を占領するのは、「ポツダム宣言の執行」が目的であることを規定ています。

 にもかかわらず、戦争犯罪人の追放が、日本を混乱させ、革命を招くおそれがあるとか、追放は最高指導者に限られるべきであるとか主張して、実は、戦争犯罪人を擁護し、彼らと手を結んで、日本を「反共の防壁」とするための主張をしているのです。

 だから、GHQの政策転換である「逆コース」は、当初からウィロビーを中心とした参謀第2部(G2)が準備していたことがわかると思います。

 そして、最終的には、ポツダム宣言通り日本の民主化や憲法改正を推進しようとしたケーディスなどを中心とした民政局(GSを、参謀第2部(G2)が抑え込んだといってもよいと思います。

                                         チャールズ・ウィロビー - Wikipedia

 だから、現在も日本は、自民党政権のもと「反共の防壁」国家として、アメリカに尽くしているのだと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                        第一章 期待の時期

 1220日 東 京

 夕べは、国務省や総司令部の人たちを招いて、クラブで晩餐会を催した。食事後、ロビーで酒を飲みながら新聞記者や将校や婦人たちの群れを眺めていたが、必然的にマックアーサー元帥論が始まった。元帥はつとめて舞台を離れて、またそのはるか上方にいるようにしているのだが、その存在は、いつもわれわれの身近に感じられ、彼と、その政策に関する議論が、このクラブで行われずに済む晩はほとんどない。ここにいる連中は、今のところ外国特派員というより戦時特派員と行ったほうが良さそうな連中なので、議論の的になるのは、元帥の日本における政治記録よりも軍人としての統帥力の方が多い。多くの特派員は海軍に従軍したので、元帥に対する海軍側の尖鋭な反感をうけついでいる。元帥麾下の広報部がレイテ島の勝利の日に発した命令の話などは、少なくとも十何回かは聞かされた。命令は海軍側のラジオ放送を禁止し、そのうえ、「この勝利の日は総司令官の記念日である」との説明を加えた。ある特派員たちは、元帥のきどった態度、文章、彼をと取りまく人々をひやかす。またさらに、兵隊たちの苦労を記憶するものは、元帥を「防空壕のダグ」なんていうあだ名で呼ぶ。

 が、ゆうべは戦争の話は出なかった。日本の占領は元帥麾下の宣伝将校たちによって描き出されているような無限の成功ではないということに意見は一致した。だが、しばしば犯される誤りが、かならずしも元帥だけの責任に帰すべきものでもないという点についても意見は一致をみた。われわれの多くは、旧態依然たる日本政府を通じて事を行おうとするのが、間違いのもとだと考えている。日本政府がわれわれの目的に対してもっとも悪質なサボタージュを行ない、民主主義から日本国民を「保護」しようとした実例はたくさんある。天皇ヒロヒトの留位ははなはだしい失策であったと考えている者も何人かいる。天皇制の神話は、われわれが破壊しようとしている封建的な旧日本と固く結びついているからだ。しかしこれらはたとえ誤まりだとしてが、元帥について静かに議論することは東京では不可能だ。いちばん激烈な批評家は元帥に属して戦線に従軍した連中だ。いま、その連中はだんだん大声になって議論をふっかけ始めた。彼らにいわせると、ほかのものは総司令部の内部でどんなことが起こっているのか知りもしなければ解りもしないのだそうだ。も、マックアーサー元帥のせいではない。間違いを仕出かしたのはどこか他のところだ。

 

 局外者は整然かつ知的な仕事が行われているような印象を受けるかもしれないが、実際のところ元帥やその腹心たちはとてつもなくたくさんの問題に直面している、と彼らはいう。元帥自身の意見は、その日昼食を共にした人の意見や、彼の行動を賞賛したり非難したりする毎朝の新聞にひどく左右される。各部局は、上部からの指導がないままに、自分の考えどうりにやっては、へまをやっている。宣伝効果だけが重大な動きに対する唯一の尺度になることもしばしばだ。元帥自身の功績帰せられているいろいろな措置の中には、総司令部以外の場所で発案されたものもたくさんある。たとえば、戦犯摘発の措置もアメリカ人ではないある役人の発意によるものだし、人権に関するの指令はワシントンで生まれた。

 それはともかくとして、総司令部内部には劇的な分裂が発展し、全政策立案者を二つの対立陣営に分けてしまった、とこの批評家たちはいう。一つの陣営は日本の根本的改造の必要を確信するもので、他の陣営は保守的な日本こそ来たるべきロシアとの闘争における最上の味方だという理由で基本的な改革に反対する。日本で必要なのはちょっとその顔を上向きにさせてやることだけだというのである。

 二、三日前、この両陣営の争いは表面化した。第一ビル6階の一室で、日本の政界から戦争犯罪人を追放する指令案についての極秘の会議が行われ、総司令部の各局から代表者全部出席したが、たちまち分裂が起こった。

この案に反対の人たちは次のような論点の数々をあげた。

一、徹底的な追放は日本を混乱におとしいれ、革命さえ招く恐れがある。

二、追放を必要とするとしても、逐次に行うべきで、それ間息をつく暇を国民に与えなければならない。

三、追放は最高指導者に限られるべきである。命令への服従は規律を定めるところであって、部下は服従以外に途はなかったからである。

 軍諜報部の代表を先鋒に、軍関係の四局は固く結束して追放に反対した。国務省関係のある者もこれに味方した。追放を支持したのは主として民政局で、総司令部の他の部局もばらばらながらこれを支持した。予期しない助けが天然資源局の若い中尉から出された。天然資源局には、この男以外に追放問題に興味を持つ者がいなかったので、彼がこの会議に出席を命じられたのだった。

 4時間にわたる議論は、激烈な言葉で終始し、また当の問題からしばしば逸脱しそうになった。しかし結局妥協が成立し、追放令の原案はすこぶる水増しされた形になった。

 会議後、軍事諜報部のチャールズ・ウィロビー少将は、自分の立場に関して長文の声明を発表した。その声明は、「原則としては」追放に賛成するむねに始まり、次に何ページかをこの指令の論難に費やしている。クートニイ・ホイットニイ准将の下にある民政局では時を移さずこれに対する応答を発表し、ウイロビー少将の覚書の前の部分は、後半の意見と符節の合わぬものがあり、もしウイロビーの好むような型の追放が行われたら、日本の政府は「通訳と情婦」たちによって組織されるようなことになるだろうと、反駁した。

 数日前、われわれ特派員の全部はマックアーサー元帥の室に集まったが、元帥はその席上、彼はウイロビーの意見には反対で、ホイットニイおよび民政局の意見に賛成だと言った。

 私たちはこの追放令にからまる内輪話に傾聴した。そして言った。OK、この軋轢が大いに深刻だ、そして将来もっと激しくなるだろう。しかし業績の如何は、秘密会議の内情によってでなく、実現された成果によって採点されなければなるまい、と。

 われわれの多くは、日本降伏以後発せられたいろいろな指令は、当を得たものと考えている。今年の8月は日本の武装解除に関する基礎的な指令の月だった。十月には人間の基本的自由に関する命令が発せられた。──特高警察の追放、政治的権限および人権に対する最後の制限の撤廃、強力な労働運動に対するわれわれの期待について日本国民の関心を喚起する確固たる断言、政治犯の劇的な釈放、11月、12月には、土地の再分配、失業者の広範な救済計画、神道と国家の分離家族的大トラスト、すなわち財閥解体など根本的改革についての命令が発生られた。いまでは演説も集合も自由になった。マックアーサー元帥の総司令部のある建物の筋向いの日比谷公園には、共産党の弁士たちの嗄れ声の激越な演説を聞くために何千人もが集まり、東京の各新聞紙は極左から凶暴な国家主義に至るまでの全音階にわたって意見を述べ立てている。労働運動の組織者たちは時と追い駆けっこするように忙しがっているし、労働運動は総司令部の労働課の職員たちが統計をつくりきれないほど、急速に成立しつつある。因習に囚われた保守的な日本の農村さえ、いまや目覚めつつあり、組合組織者たちは縦横に農村をとびまわり、近く行われるであろう農地改革のニーズを伝えては農民組合への加入を説きまくっている。

 しかし、こうした自由の発現はまだまばらであり、広汎な大衆層は今もって昏睡状態にあるというのがわれわれの一致した見解だ。改革の大部分はいまだ言葉の範囲を出でず、行動の領域でには移されてないということも、みんな認めるところだ。しかし、諸般の指令の内容は創造中の新しい民主主義に感動的な形態を与えた。これはアメリカが誇ってもいいと思う。

 総選挙の期日を延期する指令を発する決定をマックアーサー元帥が与えたということを今日知った。この総選挙を大がかりな詐欺行為たらしめないように、日本政府の遵守すべき最小限度の規準も指令に示される。

 この目前に迫った指令に関する流言で、ここ3日間日本の政界は混乱に明けくれた。日本の政治家たちはひどく戸まどいしているようで、戦犯のむらがり集まる多数党の進歩党では、事実幹部たちが当の解散を協議するため、会合を後に予定している。

 この指令は確かに日本の政治に対する直接の干渉で、マックアーサー元帥は気乗りがしていなかった。しかし、こうした処置が必要なことは、すでに数週間前から明白だった。もしこうした干渉が行われなければ、次の「民主」国会がまたもや恬として悔いない国家主義者達によって占領されることは、幾多の兆候に供して明らかだ。そしてかかる国会は日本再生へのマックアーサー元帥の全計画を覆滅させることも必定だ。

 

 

 

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南北朝鮮の統一は可能・・・

2025年02月04日 | 国際・政治

 朝日新聞は22日、「地下鉄サリン事件30」ということで、オウム真理教に関するドキュメンタリー映画や著書のある映画監督、森達也氏の主張を掲載しました。そこに、見逃すことのできない重要な指摘がありました。

オウムを取材した「A」は当初、民放テレビ局で放送するために始めた撮影でした。教団施設に潜入して驚いたのは、出会った信者たちが穏やかで善良だったこと。邪悪で凶暴な集団、あるいは洗脳されて理性や感情を失った集団。どちらでもない姿は、社会のイメージではなかった。結局、テレビでは流せず、映画として発表しました。本来はなぜ普通の人があれほど残虐な犯罪を起こしたのか。その煩悶を検証すべきでした。

 今回、お会いした永岡さん夫妻は被害者ですが「自分たちも加害者の側になり得る」という視点を持っていた。メビウスの輪のように、加害者は被害者に入れ替わることもあるかもしれないと感じました。

 社会は何か問題が起きると、一つの見方に染まりがちです。戦時中の日本やナチスなど群れることで失敗した例はいくらでもあります。そうならないためには、まず、歴史をしること。そして、集団で共有されている見方を疑い、自分なりの視点を持つことが必要なのでしょう。僕自身、オウムへの取材を通じて学んだことです。”

  私は、現在の日韓関係の問題も、政府や主要メディアが、過去の事実をを無視するかたちで、国民を「一つの見方」に誘導していると思います。文在寅前大統領が、あたかも日本を憎む「反日」大統領で、尹大統領こそ、日本との根本的な関係改善に前向きな大統領であるとする主張は、両国の一般国民が本来求めている思いや利益に反する主張であると思います。

 なぜなら、韓国も日本も、多くの国民の思いを圧殺するようなかたちで、米軍政庁GHQによって、アメリカのために無理矢理つくられた「反共国家」であり、戦後80年を経過しているのに、いまだに数多くの米軍基地をかかえ、影響下に置かれ続けているからです。韓国と北朝鮮は一日も早く統一されるべきだと思うのですが、尹大統領を相手に関係改善を進めると、それが不可能になるばかりでなく、北朝鮮との軍事的衝突の危険が大きくなると思います。

 1948年、ロイヤル・アメリカ陸軍長官は「日本を反共の防壁に」と演説したということですが、韓国も同様で、38度線で朝鮮を分断し、南朝鮮で軍政を敷いたのは、「反共の防壁」にするためであったと思います。

 下記の「韓国政府の反共対策」の他の抜粋文は、その戦略がどのように展開されたのかをよく示していると思います。  

 すでに建国されていた朝鮮の人たちの悲願、独立「朝鮮人民共和国」を解体し、米軍の支援のもとに、南朝鮮の左翼勢力を一網打尽にするような数々の政策が、連続的に実行されたのです。済州島における政府軍、警察及び反共団体による大弾圧は、「済州島事件(済州島虐殺事件)」として知られています。日本の「治安維持法」と同じような「国家保安法」に基づく強引な検挙や取調べは民主主義を踏みにじる不当な弾圧であったと思います。だから、ロイヤル陸軍長官の「日本を反共の防壁に」というのは、単なる構想ではなく、左翼一掃の過酷な弾圧によって韓国や日本で実行され、現在に至っていることを忘れてはならないと思います。

 日本も、GHQによるゼネストの中止命令のみならず、レッド・パージで左翼勢力を一掃し、戦争指導層の公職追放を解除して、事実上政権を担わせました。そういう意味で戦後の韓国や日本は、韓国人や日本人が、自らの意志で作った国ではないといえるように思います。そして、韓国や日本は、「反共の防壁」国家として、アメリカに尽くしていると思います。圧倒的な軍事力と経済力を有するアメリカの搾取・収奪体制を維持するために、日本や韓国は、ロシア、中国、北朝鮮を敵視し、挑発する「反共国家」でなければならないのだと思います。

 文在寅前大統領は、アメリカの関与がなければ、南北朝鮮の統一が可能であることを示したと思います。

 だから、下記に記されているような事実を無かったことにしてはならず、自らの考えを持つ必要があると思うのです。下記は「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健(総和社)からの抜萃です。

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                      第四章 南北政権の樹立と一般情勢

                       五節 朝鮮戦争直前の韓国情勢

  (七)韓国政府の反共対策

 また韓国においては、すでに米軍政庁時代以来、共産党は事実上非合法化されていた。韓国政府の成立後には、その反共政策が一層徹底していた。韓国の各地では、反政府分子の逮捕が行われ、また北朝鮮を賛美し、韓国政府に批判的な新聞数紙も発行を停止させられた。

 とくに麗水・順天事件以後には、反体制派を粛清しようとする政府の対応は極めて強化した。李承晩大統領は194811月初め、この反乱事件を受けて、政府はまず各学校、中央や地方の政府機関、社会団体の指導者以下男女児童に至るまで残らず思想調査を行ない、反逆思想の蔓延を防ぐ旨の談話を発表した。

 一方、ソウルの人首都警察庁は同年48115日、非常警戒を行うとともに、社会民主党党首呂運弘、韓国独立党宣伝部長、厳恆變、合同通信社主筆を含む約500名を検挙した。これは117日のソビエト革命記念日に前後して、暴動を企てているのを探知したためと称されたが、尹致暎内務部長官は1500名の逮捕が予定されていたと語り、取り締まり、弾圧の大規模なことを示唆した。

 

 また、麗水、順天の軍隊反乱事件を直接の契機として制定され、共産党を完全に非合法化した思想犯弾圧法である「国家保安法」が施行された48121日以降は、反政府分子の処分はもっぱら同法によって相次いで行われた。

 ソウルでは123日朝、反体制派700名が一斉に警察に逮捕された。また、韓国政府は4日には、政府管轄下の一切の政府機関、団体、銀行、会社から、忠誠ではない左翼分子を一掃することを決定した。李範爽国務総理はこれに基づき、全政府機関が全職員の忠誠調査を行うよう命令を発した。さらに127日には、政府は共産分子及び反政府追放の手を学校にものばし、反政府的な政治的信念を抱く教師の罷免を命令した。また、韓国軍参謀長崔秉徳が4933日に発表したところによれば、軍当局者は反乱事件後思想不穏分子を軍隊内ら一掃するため、将校170名、兵1026名を粛清したとされた。

 こ、のような韓国政府の反政府分子に対する取り締まりは1949年にはいっても引き続き行われた。

 その主なものとしてはまず、ソウルの首都警察庁は4913日過去数日間に右派の指導者の暗殺を計画中であったと称して、400名の共産分子を逮捕したと発表した。ついで、ソウルおよび仁川の主要建物に放火し、政府要人を暗殺することにより、韓国の撹乱を謀ろうとした左翼勢力の3月攻勢が発覚したとして、南朝鮮労働党、人民共和党、民主愛国青年同盟等の非合法組織に属する指導者40名がソウル市警察局に逮捕された。また、左翼系の地下新聞二紙が没収された。330日、ソウル市警察局長は、ソウル市内で南朝鮮労働党員を始め190名の共産分子を検挙し、目下取り調べ中であると発表した。さらに、メーデーをひかえてソウル市警察局は、426日から28日までの間に、朝鮮労働組合全国協議会系の労働者100名を検挙した。83日には、ソウルの新聞記者グループが検挙された。これらは南朝鮮労働党に入党していたといわれ、国会、政府、政党、言論界等各方面の情報を出入り記者として収集していたといわれた。

 

 同49815日の韓国独立一周年記念日に前後して逮捕された左翼分子は京畿道だけで478名にのぼった。南朝鮮労働党ソウル市支部執行委員会の副委員長以下5名は916日、逮捕された。そして、警察内で南朝鮮労働党脱退宣言を発表するとともに、南朝鮮労働党は920日の全朝鮮選挙ということで武装蜂起の開始を指令していたが、最近の検挙旋風で、この計画は実行不可能になったと警察で転向表明をした。

 韓国政府の法務部が発表したところによれば、韓国の491月から9月末までの起訴裁判件数は32329件で、その8割までが国家保安法違反事件であった。

 

 (八)祖国戦線と金九暗殺

 だが一方、1949512日、韓国内の政党及び社会団体の8団体は、北朝鮮の民主主義民族戦線中央委員会にたいし、祖国統一民主主義戦線の結成を提唱した。中央委員会は16日に回答して8団体の提唱に応じた。625日、祖国統一民主主義戦線結成大会が平壌で開かれ、南北から71政党および社会団体を代表する704名が集まった。大会は、祖国戦線の綱領を決定したが、それは平和の方法で祖国統一を解決することを述べていたが、李承晩政権の打倒も明確に打ち出していたものだった。

 だが、この大会に民族主義者の立場から参加していた、かつての中国重慶亡命臨時政府の主席であり、帰国後は右派の有力指導者として南北協商路線を進んでいた韓国独立党首の金九は、1949626日、平壌での祖国統一民主主義戦線結成大会からソウルに帰ったところを、陸軍少尉安斗煕によって暗殺された。これは一般に李承晩派によるライバルの抹殺と考えられており、この事件には国防長官申性模、憲兵司令官田奉徳が関わっていたとも当時噂されたが、暗殺者安斗煕は短期の拘束のち釈放されて、政府当局と軍の保護のもとに、やがて全羅道有数の資産家となることになった。だが、金九暗殺により、祖国戦線の活動は、早くも大きな打撃を受けた。この祖国戦線による平和統一との宣伝活動は、以後も強力にすすめられ、韓国社会あるいは50530日の韓国総選挙にも、ある程度の影響(李承晩派72・野党137の逆転)を与えたとみられた。

  (九)保導連盟と社会取締

   すでにみたように、韓国政府の左翼、反体制側勢力に対する処置は過酷を極めたが、その4910月に至って新たに緩和政策が取られるようになった。それは、国民保導連盟という団体の主催の下に、同年1024日から30日まで行われた南朝鮮労働党員自首運動である。

 これは、この週間に自首したものは無罪釈放し、更正の道を開くというものであった。権承烈法務部長官の発表によれば、週間中に1835名の自首者があり、優秀な成績を収めたので、この運動は1110日まで期限を延期することになったとされた。これはさらに11月末までに延期され、117日には転向者の示威行進と自首者歓迎、南朝鮮労働党根絶大会が開かれ、李大統領に送る感謝文と金日成に対する声明書が採択された。結局、保導連盟は11月末までに、転向者39986名の多数加盟させるのに成功したとされた。ソウル市内だけでも12196名が転向を申し出たとされた。このうちには、国会議員3名、学生2418名が含まれていた。政府はこの運動の完了をまって、自首しなかった分子の徹底的な一掃に乗りだした。同4912月の初頭の間に1000名以上の容疑者を大量検挙した。

 その結果、そのうち300名を危険分子として拘束し、他は保導連盟に引き渡してその監視と指導を受けさせることにした。このような自首運動は、同年11月末に韓国軍内部においても試みられた。

 

 また、50215日には、31独立運動記念日を期して一斉蜂起を企てていたとして、南朝鮮労働党員の196名が検挙された。さらに、23月はじめには、11名の記者を含む30名の新聞関係者が検挙された。韓国の警察は同50326日に李舟河、28日には金三竜を逮捕し、その他南朝鮮労働党執行委員13名を3月下旬の間に検挙した。これによって、南朝鮮における共産主義運動に大打撃を与えた。李舟河は南朝鮮労働党中央執行委員会の副委員長で、委員長の朴憲永が47年に北朝鮮に移って以来、南朝鮮における地下組織の首脳であった。金三竜は南朝鮮労働党の組織部長で、李舟河に次ぐ地下幹部であった。

 このように党幹部が逮捕されたことは、ゲリラ活動の閉塞状態と相まって、南朝鮮の共産勢力を解放後最低の状態に追い込んだ。韓国警察当局の推定によれば、南朝鮮労働党員はその活動の活発なものを2000名、不活発なもの5000名という僅かな数になったという。

 

 なお、4811月以来国家保安法により共産系活動のかどで逮捕され、裁判を受け、判決を下されたものは13000名にのぼったが、503月末現在、なお刑務所には14000名近くが裁判を待機しており、その司法処理にはは少なくとも後一年は要するとされた。裁判所も刑務所もその能力の限界点に達したという状況であった。

 

   (十) 韓国政府のゲリラ掃討作戦

 また、韓国に対する北朝鮮政権からの秘かな破壊活動、あるいは南朝鮮左派による反体制運動は、韓国政府樹立以後も続いていたが、その後、韓国軍、警察が掃討に努力したにもかかわらず、武装ゲリラ活動は49年の春から夏にかけて各地に蔓延するようになった。

 また、麗水の軍反乱参加者1000人に以上が智異山の山岳地帯に逃れ、そこのゲリラ隊に合流したが、その後間もなく4811月、韓国各地で大規模なゲリラ戦が始まった。

 その地域、江原道、慶尚南北道、全羅南北道の各道にわたった。ゲリラ部隊は、太白山脈、小白山脈の山間地帯によって、軍、警察と交戦し、北朝鮮の旗をかかげ、交通、通信網を破壊、切断し、右翼の指導者、青年団員、対日協力者、官吏の暗殺を行ない、反政府宣伝ビラを散布してきた。特に496月末、北朝鮮で祖国統一民主主義戦線が結成されてのちには、ゲリラは襲撃した部落で民衆大会を開き、北朝鮮が唱える平和統一方針の宣伝を行ない、全朝鮮統一選挙を実施すると呼びかけるようになった。同時に、永続して占拠していた山岳地帯においては、農地を没収してこれを農民に再分配し、人民委員会を設置するなどの行政的措置を講じたと伝えられた。

 この当時活動したゲリラの勢力は、一万から二万にわたる程度と推定された。そのうち武装された組織部隊は2500から3500とみられて比較的少なく、ただ挑発、運搬に加わるため、攻撃部隊に従って時々ゲリラとなるものがその二倍前後、最も多数にのぼるのは、これらに隠れ家を提供し、便宜を供与している共産系シンパであるとみられていた。

 1949年のはじめに2人のアメリカ副領事が全羅道、京畿道を視察したが、例えば全羅道では「政府が掌握しているのが都市と大きな町に限られている状況だった。一般に「昼は大韓民国、夜は人民共和国」と言われていた。

 

 これに対して、韓国政府はゲリラの跳梁が政情不安の要因の主な一つをなしているため、治安問題の根本解決をはかるため、19503月までにゲリラを掃討する計画を立てた。そして、499月から米軍事顧問の指導の下に、大規模な作戦を開始した。これは冬期に入り、山中の樹木が落葉するととに一層進捗し、多数のゲリラが殺傷、逮捕され、弾薬も捕獲された。捕らえられたゲリラ、関係者はほとんど射殺され、地区は焼き払われた。1950年にはいって、ゲリラの活動はとみに衰え、治安の回復は著しかった。智異山、太白山地区を除き、掃討はほとんど完了した。同503月末に至り、政府軍は太白山脈を北上中のゲリラの集団を撃破し、その指導者を倒すのに成功した。こうしてゲリラは残存する者数百名いう閉塞状態に陥り、組織を失い、山中の各所に取り残されることになった。

 

 だが、その後、再びゲリラ部隊が江原道に南下してきていたとみられた。また、のちに505月上旬以来、江原道春川地区。慶尚北道地区のゲリラも再び活発な活動を示し、智異山の部隊も活動しているようになった。

 韓国政府当局者は505月中旬、江原道地区で北朝鮮からの挑戦が頻発している事実を認め、北朝鮮軍が38度線付近に集結していることを警告した。だが、これは一般には505月末の選挙に対する北朝鮮側の牽制であるとみられ、南朝鮮のゲリラ組織とは関係なく、また、それは殆ど勢力を失ってしまったとみられた。事実、50530日に行われることになる韓国国会の総選挙にあたっても、その前日、智異山のゲリラ部隊30名が慶尚北道の山清を襲ったにとどまった。北朝鮮からの選挙妨害を扇動する宣伝が繰り返えされたにもかかわらず、ゲリラや民衆の蜂起は、ついに起らなかった。

 

 

 

 

  

 

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日韓関係改善の本質は、

2025年01月31日 | 国際・政治

 昨年の韓国総選挙では、革新系最大野党が、保守系の尹錫悦政権や与党側を「親日」と攻撃する主張を展開し、与党は野党側を北朝鮮に追従する「従北勢力」と主張して、互いに非難し合う選挙戦でした。

 日本やアメリカの政権は、尹錫悦政権が親日的であり、親米的なので、いろいろなかたちで支援したのではないかと想像します。

 だから、日本の報道も、尹政権が日韓関係の改善に強い意欲を持ち、「自由、人権、法の支配といった普遍的価値を共有する国」ということで、関係を深めるべきであるというような内容のものばかりだったと思います。特に尹政権が、北朝鮮による核・ミサイルの脅威に対抗するため、アメリカや日本との連携強化を重視していることを評価する姿勢が鮮明だったと思います。

 だから先日、尹大統領が、国会の議決を尊重せず「非常戒厳」を宣布し、軍を動員するという民主主義の破壊ともいえる挙に出たのに日本政府は非難せず、「今後の状況を注視する」とか、「事態の推移を見守りたい」とか言って、事実上、黙認する姿勢を見せているのは、アメリカの反共的な戦略からくるものだろう、と私は思います。それは、下記の「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健(総和社)の抜粋文で、明らかだろうと思います。

 

 ふり返れば、韓国では、植民地支配時代の親日派の排斥の動きは、アメリカ軍政庁統治下の時代に既に始まっていました。1948510日、総選挙が実施され、その後、「制憲国会」が開会されました。そして、「大韓民国憲法」とともに「反民族行為処罰法」が制定されているのです。

 でも、アメリカ軍政庁やアメリカと手を結んでいた李承晩大統領は それを受け入れず、ソウル市警を動員し、特警隊を強制的に解散させているのです。米軍の後押しがなければできないことだったと思います。

 国民の支持が得られない少数与党の保守系、尹大統領が、「非常戒厳」を宣布し、軍を動員するということは、李大統領と同じように、尹大統領も、アメリカを中心とする西側諸国の支えがあるからできたことだろうと思うのです。

 だから日本人は、日本政府が、尹政権の韓国が、「自由、人権、法の支配といった普遍的価値を共有する国」などと言って、同盟関係を強化していることを、そのまま受け入れてしまってはならないと思います。現実は、尹政権の韓国が、「自由、人権、法の支配といった普遍的価値」を尊重しない国だといってもよいと思います。

 

 自民党政権も、戦後、アメリカによって戦犯としての公職解放を解除され、一線に復帰させてもらった戦争指導層の流れをくんでいる政権です。戦時中、国民に「鬼畜米英」を強要しておきながら、戦後は、手の平を返したようにそのアメリカと「日米安全保障条約」を締結し、アメリカに基地を提供し、アメリカの言い成りになる政権をつくりあげた思います。

 極論すれば、戦後間もないころの日本の自民党の政治家の多くも、一線に復帰するために、アメリカと手を結んだ売国的政治家で、韓国の「反民族行為処罰法」の対象になるような政治家だったといってもよいと思います。

 だから、自民党政権の主張する日韓関係の改善や同盟関係の強化は、アメリカの手下となった売国的政権の関係改善や強化だと思います。両国の一般国民の利益に反するものだと思います。

 

 そして、今や自民党政権のみならず、日本の主要メディアも、アメリカの手下のような報道をしていることを見逃すことができないのです。

 29日、朝日新聞は、”「反ワクチン」派ケネディ氏、政権入りの衝撃 科学への不信 陰謀論の入口” と題する神里達博・千葉大学大学院教授の記事を掲載しました。普段、学ぶことの多い学者なのですが、やっぱりアメリカの影響下にあると思いました。「陰謀論」などという言葉を使って、ケネディ氏を貶める記事を書いているからです。

 先日、取り上げましたが、世界中で「mRNAワクチン」に反対する声が上がり、日本でも「mRNAワクチン」接種後に亡くなった被害者が声を上げ、「副反応などのマイナス情報を広報せずに被害を広げた」として、国に賠償を求める訴えを起こしました。でも、メディアはそうした声にきちんと向き合い報道することはありませんでした。

 「mRNAワクチン」で、薬物のデリバリーシステムとして使用さる脂質ナノ粒子と組合せて使われるという酸化グラフェンは、血栓症が生じやすくする成分で、接種後早期の血栓症(心筋梗塞や脳卒中など)やショックなどは、酸化グラフェンという磁性体が入っているからだと言われています。国を訴えた被害者が言うように、そういう副反応などのマイナス情報は、ほとんど報道されなかったと思います。

 ケネディ氏はそういうことを指摘しているのに、神里教授は、”歴史をふり返れば、米国の大企業がさまざまな環境問題や薬害などの原因を生みだしてきたケースはいくつも見つかる”といいながら、なぜ、ケネディ氏を「陰謀論者」にしてしまうのかと思います。

 

 また、中国は、従来の製造方法で、コロナの不活化ワクチンなどを製造し、ロシアも不活化ワクチンや「スプートニクV」という生ワクチンを製造して対応し、トルコも不活化ワクチンを製造したというのに、なぜ、アメリカの影響下にある日本や韓国は不活化ワクチンや生ワクチンを製造できなかったのか、なぜ、輸入し続けたのか、も疑問です。

 日本は、ファイザー社やモデルナ社、アストラゼネカ社から、それぞれ、1億回を超えるワクチンを輸入したというのですから、大変なお金が、英米に流れたと思います。

 だから、多少時間がかかっても、従来の方法でワクチンを製造するべきだったように思います。それをせず、リスクの伴うmRNAワクチン」の輸入を続けたのはなぜなのか、と疑問に思うのです。

 下記は、「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健(総和社)からの抜萃ですが、尹政権と国会の対立は、戦後間もない頃の、李政権と国会の対立以来続いていることがわかると思います。

 アメリカとの同盟関係が続いている限り、こうした対立は終わることはないと思います。

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                  第四章 南北政権の樹立と一般情勢

                   五節 朝鮮戦争直前の韓国情勢

 

 (四)少壮派議員団の逮捕

 そこで、反民法(反民族行為処断法)が政府部内、警察、軍隊内の該当者に及ぼす不安と、それによる行政の混乱、左翼勢力の台頭を考慮すれば、まず、その適用を緩和することによって現政府の組織維持がまず優先されたようだ。

 また、対日協力者の処罰よりも、当面緊急の課題である共産主義者取り締まりと、現秩序と体制の安定を維持することの方が重要であるということであった。しかし、特別調査委員会は同4937日までの2ヶ月間に、54名を逮捕し、その後も引き続き該当者追求の手を緩めなかった。

 

 また、韓国国会にはその発足からことごとくに政府の政策を批判する先鋒に立ち、議事を操縦してきた少数のグループがあった。この、19481210日、締結の米韓経済援助協定に反対し、米占領軍の撤退要請決議案を提出し、国家保安法の制定に反対し、憲法改正運動を行ない、反民族行為特別調査委員会を動かしてきたこれらの議員は、在野独立運動家の金九(1949626日、李承晩派陸軍少尉安斗煕により暗殺)の流れを汲むといわれ、とくに少壮派と呼ばれていた。そのうち李文源および李泰奎同518日に、李亀洙は同20日に、いずれも国家保安法違反のかどで警察に検挙された。これは、政府内にあったは反民法対象となる旧親日派の反撃とみられた。

 国会では同524日、88名の議員の署名をもってこれら三名の釈放要求が提出された。また、それをめぐってはげしい論戦が行われたが、結局否決されてしまった。だが、ソウル市では31日、これら88名の議員を共産党と非難する弾劾民衆大会が開かれ、弁明に立った議員柳聖甲が群衆に殴打されるという事件が起った。これを右翼の国会圧迫工作と見る国会側は。政府のこれまでの責任を追及し、両者間の対立は一層深まった。

 

 (五)大統領と議会の対立

 国会と政府間の軋轢の要因となったものは、それだけにとどまらなかった。道知事以下の地方行政機関を公選によろうとする国会の態度にもかかわらず、李大統領はすでに2回にわたり、次期尚早を理由としてこれに拒否権を行使した。また、農地改革法、帰属財産臨時措置法も国会の前会期で通過したにもかかわらず、大統領はこれに異議を付して国会に送り返し、再審を要求した。国会が夏季穀物の強制収集を否決したのに対し、政府側それを強行する構えを示した。これよりさき、曺奉岩農林部長官はどう同49221日、糧穀収買資金の不正流用を監察委員会から指摘されて、罷免を要求されて辞職した。さらに、任永信商工部長官も、その財政上の不法行為を監察委員会から指摘されて、罷免を要求された。李大統領は、任長官の事件について、監査委員会の越権行為を非難し、その間の斡旋に努力した。だが、任長官その他の関係者は遂に528日、背任、横領のかどで正式に起訴されるに至った。これらはいずれも、政府に対する国会の批判の材料となったものである。

 

 このような政府不信の気運は、ついに62日の国会で内閣総辞職要求決議案を可決させるに至った。

 決議の直接の動機となったのは、国会がかねてから一般大衆からの寄附金募集を絶対に行わないように政府に要求していたにもかかわらず、地方において警察費の負担が民間に割り当てられている事実が明らかにされたことである。これが各道知事の罷免、内閣総辞職の要求にまで広がったのだった。少壮派の代表盧鎰煥議員が提出した国務総理以下全閣僚の引責辞任要求決議案は、出席議員144名中、8261、棄権1で可決された。韓国憲法では、国会が内閣の総辞職を行う権限を認めていなかった。実際にも、国会が政府不信を正面から決議したのはこれが最初のことであった。李大統領はこの決議に応ぜず、一部閣僚の更迭を行っただけであった。

 

 ところが、政府と国会の対立はこれにとどまらなかった。従来から両者の不和の一因となってきた反民族行為特別調査委員会所属の特別警察隊に対し、ソウル市警察局が66日に非常捜査を行ない、その武装解除するに至ったことから、さらに激しい軋轢を生じるに至ったのである。

 つまり、特別調査委員会がソウル市警察局査察課長を民族反逆者として逮捕したのに対し。市警察側は大統領に対し、特別警察隊の総退陣、特別警察隊の解散、警察官の身体の安全保障の三項目を要求した。さらに、これがいれられるぬときは総辞職することを決議するとともに、この挙に出たのである。

 この事件は同日直ちに国会で取り上げられ、特別警察隊の武装解除、解散が大統領の直接命令であることが明らかにされた結果、内閣の総辞職、特別調査委員会の現状復帰、政府責任者の処罰を要求し、政府がこの要求をいれるまで、国会は政府の提出する一切の法案および予算を拒否する決議案が8959で採決された。しかし、大統領は従来の態度を緩和しなかった。逆に、特別警察隊解散の正式声明を611日公表するとともに、同13日、再開された国会に出席し、内閣総辞職の要求は受け入れられないと述べた。また、政府、国会を超えた挙国協力の必要性を説き、責任内閣制への憲法改正工作は不可である旨を強調した。

 

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アメリカ、ソ連の同時撤兵提案を拒否

2025年01月27日 | 国際・政治

 第二次世界大戦末期におけるソ連軍の急速な南下に焦ったアメリカは、朝鮮半島を38度線で分断し、北をソ連が、南をアメリカが戦後処理するという名目で軍を進出させました。そして、すでに建国されていた朝鮮民族悲願の「朝鮮人民共和国」を解体し、軍政を敷いて、南朝鮮に李承晩・反共政権を樹立させました。

 アメリカは、南朝鮮を、対ソ連の戦略的前線として位置付け、李承晩政権の下、朝鮮人民にとって怨嗟の的であった日本人官吏や旧朝鮮総督府関係者、既存組織、既存社会体制の継続活用を進め、「朝鮮人民共和国」関係者や共産主義者的な組織、団体、指導者の排除に乗り出したのです。そして、李承晩政権を利用して、アメリカの軍政に強く抵抗する人たちを大勢殺しました。その数10万ともいわれるようですが、朝鮮戦争前のことです。

 

 また、アメリカは、南北朝鮮の戦後処理を名目に、軍を進出させたにもかかわらず、ソ連の同時撤兵提案を拒否しています。それは、アメリカが永続的に南朝鮮を影響下に置くことを意図していたからだと思います。

 ソ連がワルシャワ条約機構を解散した時も、アメリカは、ヨーロッパ諸国を影響下に置き続けるために、北大西洋条約機構(NATOを解散しませんでした。同じだろうと思います。

 戦後、ヨーロッパ諸国を中心とする権力的な植民地支配体制は、急速に姿を消しましたが、それは、搾取・収奪体制が姿を消したということではなく、新しいかたちに姿を変えたということだと思います。搾取・収奪はより巧妙になり、見えにくくなっていると言ってもよいと思います。米軍の南朝鮮駐留も、そうした側面があることを見逃してはならないと思います。

 その搾取・収奪体制は、富裕層と一般労働者の格差の拡大や、国家間の不平等の拡大にあらわれていると思います。

 

 先日、朝日新聞のオピニオン&フォーラムの欄に、政治哲学者・マイケル・サンデル教授に対するインタビュー記事が「新自由主義の欠陥 尊敬や承認の欠如 暗黙の侮蔑へ憤り」と題して掲載されていました。そこに下記のような一節がありました。

 ”── トランプ氏は総得票数でも勝ちました。「トランプ現象」は一時的・局所的な逸脱ではありませんでした。

「それどころか、トランプは米国政治を根本から再編するのに成功しました。(1930年代の)ニューディール政策にさかのぼる民主党の伝統は、労働者の代表であり、権力者に対抗する人民の代表であり、経済権力の集中に対する牽制の代表であることでした。これが2016年以降は逆転しました。共和党は富裕層を支える政策を手掛けてきたにもかかわらず、大学を教育を受けていない人々や労働者がトランプに投票しました」

「中道左派が労働者の支持を失い、権威主義的なポピュリストがそうした層へのアピールに成功しているのは、英独仏など多くの民主主義国家で見られる現象です。金融主導で市場寄りのグローバル化を、中道左派が受け入れたからです」

 

 この主張は、”民主党は変ってしまった”と言って、大統領の選挙戦から撤退し、民主党と対立する共和党の大統領候補トランプ支持を表明したケネディ候補の演説内容が、でたらめではないことを示していると思います。極論すれば、民主党バイデン政権が、トランプ氏の指摘する、いわゆる「ディープステート(DS」と一体化し、巧みに搾取・収奪をする側についてしまったというこだと思います。

 ”ケネディ家は、民主党が年来奉じてきた伝説的な偶像だ”と言われています。でも、その跡継ぎであるケネディ氏は、”私は、この大統領選において、勝利への道は現実としてもうないと信じるに至った。民主党からの絶え間のない妨害がその主要な理由なのだ”と語って、選挙戦から撤退し、トランプ支持に回ったことは、民主主義を掲げる政党にとって、重大な問題だと思います。

 でも、主要メディアは、そうしたケネディ氏の主張をきちんと取り上げることなく、くり返し、彼を「陰謀論者」として排除する報道を続けたように思います。そして、大統領選挙にはほとんど影響がないかのように装いました。

 さらに言えば、トランプ氏が、「MAHAMake America Healthy Again」を掲げるケネディ氏を厚生長官に指名した際の声明で、

アメリカはあまりに長い間、公衆衛生について、ごまかしや誤った情報、偽の情報を流してきた食品業界と製薬会社に苦しめられてきた。ケネディ氏は慢性疾患がはびこる状況を終わらせて、アメリカを再び偉大で健康な国にするだろう

 と語ったことも見逃すことができません。

 

 新型コロナに対応する「mRNAワクチン」については、世界中にその危険性を指摘する声があります。日本でも、「mRNAワクチン」接種後に亡くなった被害者が声をあげ、「副反応などのマイナス情報を広報せずに被害を広げた」として、国に賠償を求める訴えを起こしましたが、ほとんど報道されることはありませんでした。

 ”これだけ人が死んでもなおこのワクチンを勧めるのはなぜか”と厚生省職員に抗議する福島雅典・京都大学名誉教授の主張も、主要メディアで目にすることはありませんでした。人命に関わる訴えなのに、取り上げられない理由は何なのか、と思います。

 また、デンマークが、接種後の血栓症を懸念し、英オックスフォード大学・アストラゼネカ製の新型コロナウイルスワクチンの使用を完全に中止すると発表しましたが、それも報道されることはなかったように思います。

 それが、”医療制度の乱用を終わらせ過剰な企業権力を抑制する”というケネディ氏の主張の正当性を示しているように思います。

 だから、ケネディ氏の主張を、「陰謀論」で排除しようとする姿勢にこそ、問題があると思います。そして、それが、アメリカの隠然たる力の支配の結果に思われるのです。 

 

 下記は、「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健(総和社)から、「3章 冷戦激化と分断国家への道」の「(八)ソ連の同時撤兵提案と国連審議帰結」を抜萃しましたが、アメリカの反共戦略がどういうものであるかを知ることができると思います。

 尹大統領の「非常戒厳」宣布後、すぐに抗議する市民が国会前に集まったのは、「光州事件」で勝ち取った民主主義を、市民が共有していたからだとする論評がありましたが、間違ってはいないと思います。また、韓国は日本のような官僚支配の社会とは異なり、「王の間違った判断を正すことができるのは自分たちしかいない」と考える士大夫=「市民」のように、市民が現実的に権力をもつ国であるという論評も理解できるような気がします。でも、一番大事なのは、朝鮮民族の自主独立を妨げたアメリカ軍政庁の支配に対する怒りではないかと思います。

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                    3章 冷戦激化と分断国家への道

                     第二節 国連を舞台の東西衝突

 (八)ソ連の同時撤兵提案と国連審議帰結

 一方、1947926日、すなわち、国連総会において朝鮮問題付託採決がなされた923日の3日後、ソウルにおける共同委員会の席上でソ連代表シュチコフ中将は、突如、米ソ両軍が3カ月以内に同時に朝鮮から撤退しようとの提案を行った。

 この衝撃的な提案は、直ちに内外に大きな波紋を巻き起こした。

 同代表は、まず①モスクワ協定が連合国の朝鮮に対する好意ある政策を表明した基礎的文書であること、②北朝鮮においては民主的改革が進捗していること、③これに反して南朝鮮にあっては、米軍当局が人民委員会の合法性を認めておらず何ら民主的改革が行われていないこと、④ソ連は朝鮮の併合を希望しているとの噂は事実でないこと、および、⑤朝鮮に10年間の信託統治を主張したのはソ連ではなくアメリカであったこと、等をあげた。そののち、ソ連側の意見として、連合国の援助並びに参加なしに朝鮮人民に自主的に独立政府を樹立する機会を賦与するため、1948年初頭において、米ソ両軍が同時撤兵することを提案したのである。

 だが、現地米軍当局は、このソ連提案は、アメリカが国連に提訴した朝鮮問題の国連審議の回避を意図したものか、あるいは、北朝鮮労働党が全朝鮮に共産主義政府を樹立できる国力的準備を完了するに至った自信を物語るものだと見なしたようである。

 しかし、これは表面的には朝鮮からの外国軍隊撤退に直ちにつながる提案でもあり、南北朝鮮の各政党団体は直ちに反応を示した。まず北朝鮮においては労働党をはじめ各政党団体はこの同時撤兵提案に、全面的支持を表明した。また、アメリカがこれを拒絶べき理由がないとの談話も発表された。 

 これ反して、南朝鮮においては、軍政庁、警察、テロ青年団などの苛酷な弾圧下で地下に潜行している左翼系を除き、多数の右翼系政党団体がソ連の出した米ソ同時撤兵案に反対の態度をとった。すなわち、それまでの右翼の主張の一つでもあった全外国軍隊撤退のスローガンを撤去し、アメリカ軍の駐留継続を主張するようになった。もしアメリカ軍が撤退すれば、これら右翼勢力は直ちにその後ろだてを喪失し、また、アメリカ軍政庁政策と軍政庁警察の左翼弾圧の結果封殺されていた1945年以来の南朝鮮の左派の社会改革運動が再開され、その場合、朝鮮は第二のソ連占領下の満州のようになり、赤化の累を招くというのが理由であったようだ。

 

 さらに109日、モロトフ外相はマーシャル国務長官に対して、この米ソ同時撤兵案を繰り返して、即答を求めてきた。だが、マーシャル長官を首席とする国連アメリカ代表部は1012日の声明で、アメリカは近く朝鮮に関する提案を国連総会に提出してその態度を明らかにすると述べた。そして、ロベット国務次官は1018日、モロトフ外相に書簡を送り、撤兵問題もまた朝鮮問題全体との関連において国連総会の討議に取り上げられるべきだとして、ソ連側の米ソ両軍同時朝鮮撤兵案を正式に拒否した。他方、同18日ソウルでの米ソ共同委員会において、アメリカ代表ブラウン少将は、国連総会での朝鮮問題の審議中はソウルでの共同委員会を休会することを提案した。

 これに対して、ソ連代表・シュチコフ中将は翌々日の1020日の委員会本会議おいて、ソ連代表部は本国政府の命令によりソウルを引き揚げる旨を声明した。そして1022日、平壌に帰還して行った。

 

 こうして、194512月のモスクワ協定に基づき、2年にもわたる長い日時を費やしたソウルでの米ソ共同委員会による朝鮮問題処理討議は、結局、わずかの進捗も見ることはなかった。

 そして、東西対立の軋轢を南北朝鮮対立に転化させて残したまま、完全な失敗に帰したのである。マーシャル・プランあるいはコミンフォルム設立に象徴される米ソ冷戦の全面化の1947年の情勢下で、米ソ両軍当局間による交渉が、たとえどのような問題にせよ結実する可能性はすでに無かったのである。その結果、この朝鮮問題を政治的草刈場とする米ソの東西対立は、そのまま国連総会の場に移されることになった。だが、この国連自体がその加盟国の構成など自体が、アメリカ外交の主導する組織機構であったというのが当時の実態でもあった。すなわち、ソ連からみれば、アメリカは米ソの交渉を拒否してアメリカの縄張りである国連において、自己に有利な情況で朝鮮問題を処分しようとしたという解釈となり、朝鮮問題の国連移管も、その本質的解決の手段としては疑問になると当時みられていたようである。

 

 

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韓国、与野党対立の源 NO2

2025年01月23日 | 国際・政治

  アメリカの力は、世界のすみずみまで及んでいると思います。

 ハリス候補に大差をつけて大統領に返り咲いたトランプ氏を支持する主張は、日本ではほとんど表に出てきません。そして、トランプ氏の大統領に就任後も、いろいろなかたちで非難や批判が続いています。それは、日本が、トランプ大統領が指摘するいわゆるディープステート(DS)の影響下にあるからだといってもよいと思います。

 好戦的だったバイデン政権と異なり、ウクライナ戦争を終わらせると宣言したり、イスラエルによるガザの攻撃についても「あれはわれわれの戦争ではなく、彼らの戦争だ」と突き放す発言をし、さらに、北大西洋条約機構(NATO)からの離脱さえほのめかして、同盟関係を背景とした武力行使を否定する姿勢を見せ、アメリカで再び大統領に返り咲いたのに、トランプ氏を支持し、擁護する主張が出てこないのは、その証左だと思います。

 確かに、トランプ大統領には看過できない発言が多々あります。でも、世界を分断し、軍事的な同盟関係の強化や武力主義的な戦略を進めるバイデン民主党政権の欺瞞的戦略に比べたら、戦争をしないトランプ大統領の単独主義、孤立主義、保護主義は、それほど悪いものではないと思います。ベストではなくても、ベターであり、支持する主張や擁護する主張が出てこない日本は、異常だと思います。

 日本では相変わらず、トランプ大統領は、民主主義を破壊する大統領だとか、人権や環境への配慮が欠けているとか批判され、非難され続けています。バイデン民主党政権が民主的で、人権や環境への配慮できていたかどうかを不問に付して。

 

 ふり返れば、第二次世界大戦後の世界が、アメリカの圧倒的な軍事力と経済力を背景にした覇権によって支配されてきたことは、日本や韓国の現状を見ても、否定できるものではないと思います。

 それは、第二次世界大戦前のイギリスやフランスを中心とするヨーロッパ諸国の植民地支配とはちがって、直接権力を行使する支配ではありませんが、戦前の植民地支配を上回る絶大な権力に基づく欺瞞的な支配がなされてきたと思います。

 だから、アメリカの覇権放棄は、アメリカが他国と同じ立場に近づくことであり、歓迎されてよいのではないかと思います。トランプ氏の問題発言にばかりこだわって、そういう大きな流れを見失ってはいけないと思います。

 トランプ氏は大統領就任と前後して、ロシアや中国と連絡をとっているようですが、敵対するのではなく、平和的関係を深める方向へ、日本も方針転換するべきだと思います。軍事的同盟関係など強化すべきではないと思うのです。

 

 米兵による少女に対する性的暴行事件が続いても、沖縄の基地に関する県民の意志がくり返し示されても、日米地位協定見直しの声が上がっても、日本政府が対応できないのは、日本政府が、アメリカの政権に隷属しているからだとしか考えられません。

 韓国で混乱状態が続いていますが、私は、尹大統領の強引な姿勢は、緊密な関係が構築されているアメリカの支援がなければ、考えられないことだと思います。

 尹大統領は、「非情戒厳」の宣布は、「統治行為」であって、司法判断の対象ではないなどと主張しているようですが、私は、砂川事件で、当時の田中耕太郎最高裁判所長官が、アメリカとの裏取引を背景に、米軍駐留は違憲であるという「伊達判決」を覆したことを思い出します。

 現在韓国には、プサン、テグ、インチョンその他に、90をこえる米軍基地が存在するといいます。  

そして、京畿道南部の平沢市彭城地区にある「ハンフリーズ米軍基地」は、世界最大の基地だというのです。

 だから、アメリカは、韓国の人たちには、自由に政策決定をさせない力を持っているのではないかと思います。

 

 日本にも、嘉手納基地や普天間基地、三沢基地、横田基地、横須賀基地、岩国基地、佐世保基地など100をこえる基地があります。

 北朝鮮に、ロシアや中国の軍事基地があるわけではないのに、どうしてこんなに多くの米軍基地があるのかを考えれば、アメリカが、韓国や日本を、アメリカの戦略に合わせて利用するためであることは、否定できないと思います。

 

 アメリカの中央情報局(Central Intelligence Agencyには

アメリカ合衆国に友好的な政権樹立の援助

アメリカ合衆国に敵対する政権打倒の援助

 という任務があるといわれていますが(Wikipedia)、「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健(総和社)の下記抜粋文を読めば、そのことがよくわかります。

 大戦後、38度線で朝鮮を分断したアメリカは、朝鮮の人たちが強く望んだ朝鮮民族の独立を阻止し、「朝鮮人民共和国」を解体して、南朝鮮に強引に李承晩を中心とする反共右翼政権を樹立させたのです。

 朝鮮民族の悲願である「朝鮮人民共和国」がすでに建国されていたにもかかわらず、それを解体したアメリカ軍政庁の方針は、朝鮮の人たちの主権の行使を認めなかったということだと思います。

 

 日本でもアメリカは、日本人自身による重要な国策決定を封じ、レッド・パージや戦犯の公職追放を解除して、反共右翼政権を樹立させました。アメリカの介入がなければ、日本も組合労働者の支持した政権が日本の政治を動かしたのではないかと思います。でもアメリカは、それを許しませんでした。GHQの民主化政策を批判し、「逆コース」と呼ばれる占領政策の転換をもたらしたという当時のロイヤル陸軍長官の、「日本を極東における全体主義(共産主義)に対する防壁にする」という演説は、日本人の主権行使を認めないということだったと思います。

 

 以来、韓国や日本は、事実上アメリカの属国状態にあるといってもよいと思います。だから、アメリカとの同盟関係の強化など、すべきではないと思うのです。

 トランプ政権で、アメリカの属国状態を脱することができれば、日本や韓国は、もう少しまともな国になるのではないかと思います。   

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                 第一章。戦後、米ソ対立と南北体制の起源

                  第四節 分割占領下における政情の混乱

  (四)朝鮮人民共和国の解体

 だが、一方でアメリカ軍政庁とホッジ中将は、この呂運亨の軍政協力への拒否に激怒したとされ、朝鮮人民共和国勢力の政府的機能を禁圧する方針を固めたとされた。軍政庁は、きわめて強硬な人民共和国勢力への圧迫政策をとることになった。まず、109日に、アーノルド軍政長官は人民共和国指導者は幼稚であるばかりか、「自分らが朝鮮の合法政府としての機能を果たしうると考えるほど愚劣な詐欺師どもである」との露骨な悪悪罵と人民共和国の合法性を一切否定する軍政長官声明文を起草した。さらに、それを1010日付のソウルの全新聞に掲載せよとの占領軍命令を行った。

 だが、南朝鮮のどの新聞もその声明を批判した。とくに人民共和国に同情的な毎日新報は声明の掲載を拒否した。そのため、この毎日新報は、翌月に停刊処分を下されることになった。さらに、アメリカ軍政庁より、人民共和国の政府機能の停止と傘下保安部隊の解散が厳命された。ホッジ米軍司令官も1016日、南朝鮮における唯一の政府は軍政庁である旨を声明して、アメリカ占領軍の権力を宣明するとともに、人民共和国のような左派的勢力が「政府」を呼称し、行政類似行為を依然遂行していることに対する強硬態度を示した。

 

 人民共和国側は、このようなアメリカ軍政庁の態度に反発した。だが、軍政庁の人民共和国抑圧政策がつづき、その結果、人民共和国内部的にも、このような政情を睨んで、解体につながる動きが現れてきた。また、人民共和国の指導者である呂運亨が、1111日に新しい人民党を結成したことにより、それまで政府機能を維持し、議会や不安部隊をも構成、地方自治すら行っていた人民共和国は、一政党集団の位置にまで、みずから降りる方向にむかった。

 そのソウルにおけるアメリカ軍政庁と人民共和国の、せめぎ合いの山場である人民共和国の全国人民委員会代表大会が、1120日から22日までの3日間、南朝鮮全国の人民共和国参加諸団体の代表、およそ600名を集めて開かれた。その開催の注目的は、人民共和国はその名称から「共和国」という表現を取り去り、一政治団体として再編せよというアメリカ占領軍の指令に、どう対応するかにあった。

 だが、参加諸団体代表の、この3日間にわたる討議の結果、占領軍に対する支持を表明し38度線以南におけるアメリカ占領軍の権力は認めたが、「共和国」の呼称あるいは「政府」であるとの主張を禁止するとのアメリカ占領軍の要求は拒否することになった。しかし、一般的には、現状に対応して、アメリカ占領軍による具体に協力することが確認された。こうして、解放直後の一時期、南北朝鮮の国民自治政府としての萌芽をみせて広範な影響力を発揮したろ呂運亨指導下の「朝鮮人民共和国」は、その政権樹立の初期段階で終息にむかうことになった。

 それとは逆に、アメリカ軍政方針の支持のもとに、保守派の韓国民主党系などの右派的勢力がやがて南朝鮮政情の前面に出現して、徐々にその勢力を拡大するとともに、軍政下での南朝鮮行政機構の内部に浸透して行った。

 

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韓国、深刻な与野党対立の源

2025年01月19日 | 国際・政治

 尹錫悦大統領の支持者の集会では、いつも太極旗だけでなく、星条旗が見えます。香港の雨傘運動のデモでも、たびたび星条旗を目にしました。

 それは、尹大統領や大統領の支持者が、アメリカの影響下にあることを示しているのではないかと思います。だから、尹大統領の「非情戒厳」宣布の問題は、簡単に解決することはないように思います。アメリカが絡んでいるのではないかと思うからです。

 

 共同通信は、19日、「尹氏の支持者激高、地裁を破壊 ガラス割れ、崩れる外壁」と題して、下記のようなことをつたえました。

窓ガラスが割れ、建物の外壁が崩れ落ちる音が断続的に響き渡った。韓国の尹錫悦大統領の逮捕状を発付したソウル西部地裁では19日未明(日本時間同)、激高した尹氏の支持者が敷地内に侵入し、破壊行為に及んだ。何者かが噴射した消火器の煙が漂い、地面には粉々になったガラスが散乱した。一帯は不穏な空気に包まれた。

地裁の裏門が開け放たれ、なぎ倒された「ソウル西部地裁」の看板に男性が立ち足を踏みならす。「防犯カメラを切った。みんな入ってこい」。誰かが声を上げると、敷地外にいた一部が門からなだれ込んだ。

”保守系の尹政権と対立する革新陣営を敵視する群衆は、最大野党「共に民主党」の李在明代表を「逮捕しろ」「国籍を剥奪しろ」などと叫んだ。徐々に殺気立つ現場。男性の一人は止めてあった報道陣の車に殴りかかった。居合わせた人を「左派がいるぞ」と指さし小突き回す集団も出た。

 韓国メディアによると、逮捕状を発付した裁判官の名前を叫び、どこにいるのか捜す支持者らもいたという。”

 

 こうした尹大統領支持勢力の暴力的な対応は、韓国の民主主義を破壊しても、自らの利益を守ろうとする尹政権の体質のあらわれであり、その源は、戦後の対ソ戦略に基づくアメリカ軍政にあるのではないかと、私は、思います。

 だから、「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健(総和社)から、そう考える根拠ともいえる部分を抜萃しました、

 戦後、南朝鮮に軍政を敷いたアメリカは、対ソ連の戦略的前線として南朝鮮を位置付け、朝鮮人民にとって怨嗟の的であった日本人官吏などの旧朝鮮総督府体制の温存、既存組織や既存社会体制の継続活用を進めたのです。当時の朝鮮一般市民の感情は、旧植民地時代の痕跡を一掃することであり、朝鮮社会の抜本的改革でした。そして、民族自決原則に基づく独立朝鮮国家の樹立を強くもとめていたのです。

 でも、アメリカは当時の朝鮮一般市民の感情を蔑ろにし、対ソ戦略で、旧時代の対日協力者である朝鮮人、いわゆる「民族反逆者」と当時呼ばれていた人物や彼らの組織を復活させ、反共的な親米政権をつくりあげるために利用したのです。以後、アメリカは、尹政権に至るまで、反共親米政権を支援しているのだと思います。

 また、第四節の(二)には、

これは、日本占領統治の遂行にあたって、日本の戦争責任を処断するよりも、米ソ対立状況の戦後世界において、天皇制度を含む日本の既存体制を温存し、それをアメリカ指導下で再編することによって、対日占領統治と以後の極東政策のために活用しようとした戦略傾向と共通するともみられた。”

 と、アメリカが、日本に対しても同じような対ソ戦略に基づく政策をとったことに触れています。

 それは具体的には、戦犯の公職追放解除や、レッド・パージによって進められたということだと思います。

 戦後、アメリカが日本と韓国で進めた対ソ戦略に基づく軍政は、日本や韓国のためではなく、アメリカのためであり、「カイロ宣言」の「同盟国は、自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない」という内容に反すると思います。

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                 第一章。戦後、米ソ対立と南北体制の起源

                   第三節 米ソ両軍の南北朝鮮占領

 (八)米ソ軍事占領初期政策の相違

 だが、これは、解放者としてアメリカ軍を迎えようとしていた南朝鮮市民にとって、まったく予想外の展開として衝撃を与えた。とくに、朝鮮人民にとって怨嗟の的であった日本人官吏などの旧朝鮮総督府体制の温存と、アメリカ軍政での既存組織と既存社会体制の継続活用は実質上外国勢力による朝鮮支配体制の延長であり、また、直接的には、日本敗戦以後も 総督府の日本人官吏が、依然、朝鮮行政の中心となる形の意外なものであった。

 また、アメリカ軍の南朝鮮進駐最初の布告とソ連軍の北朝鮮進駐最初の布告を比較してみると、少なくとも、この19458月、9月における米ソ両軍の対朝鮮方針の、その内包する精神の落差は大きかったようだ。一方のソ連は、少なくとも表面的には慈愛的な解放者のポーズをとった。だが、もう一方のアメリカは厳罰主義を前面に出して、露骨な戦勝支配者としての軍政統治を表明した。さらに、この1945年夏から秋の米ソ両軍の南北朝鮮分割占領の当初の時点では、アメリカ軍とソウルのアメリカ軍政庁が行った占領支配政策、それも日本人役人・警官の継続雇用等の旧植民地統治機構をそっくり温存しての南朝鮮に対する直接軍政よりも、北朝鮮各道の人民委員会に自治を委ねて、その後方に退いて間接統治をしていたソ連軍の政策のほうが、解放と新時代への変革を求める朝鮮人民の願望に遥かにそったものであったことは、これは間違いなかったとされた。また、ソ連軍は、その軍内に多数の朝鮮系ソ連人を帯同しており、それもソ連の占領軍政を希薄化する効果を果たしたとみられた。

 

 すなわち、ソ連軍は北朝鮮における人民委員会を北朝鮮の自治行政組織として公式に受け入れて活用しようとした。これとは逆に、南朝鮮におけるアメリカ軍政は、対ソ連の戦略的前線として南朝鮮を位置づけ、そこに旧朝鮮総督府などの既存体制を維持利用したまま、直接軍政を施行しようとした。こうして、南朝鮮は「太平洋地域において本格的な軍政が実施された唯一の国」となり、日本占領のために用意されていた軍政班、民政班が南朝鮮に配転されて送り込まれることになった。

 

 だが、このような南朝鮮におけるアメリカ軍政庁の設置と、旧総督府日本人官吏の継続登用、旧植民地時代の朝鮮人官吏の継続登用などの方針は、ほとんどの朝鮮市民に失望と反発の感情を生じさせた。

 815日の解放以後の一般市民感情の趨勢は、旧植民地時代の痕跡を一掃する朝鮮社会の抜本的改革と旧体制の積悪の清算 民族自決原則に基づく独立朝鮮国家の樹立などをもとめていたのであった。また、その感情とエネルギーは各地の建国準備委員会・地方人民委員会に結集され、その夏から秋の時期では、それらの上部組織である朝鮮人民共和国が事実上の国民政府として全土の隅々まで影響力を持ち始めていた。

 しかし、この人民共和国勢力は、アメリカ軍政庁ホッジ中将とその幕僚たちからは左翼勢力、あるいは親ソ的な共産主義革命勢力とみなされていた。そのため、この系統の政治勢力は、ソ連勢力の南下を阻止するために南朝鮮に緊急展開したアメリカ軍の根本方針と、アメリカの国益にそうものではなかった。

 したがって、ホッジ中将とその指揮下の軍政班にとっては、南朝鮮占領統治開始にあたって、利用できる現地政治勢力が存在しなかった。そこでカイロ宣言などの国際公約を踏まえながらも、既存の旧朝鮮統治体制(朝鮮総督府)を維持継続させて運用しながら、その間に、朝鮮人に、しい親米的社会体制を育成することにしたとみられた。これは当然に反共反ソ的な性格のものである必要があった。そのため、当時の南朝鮮政情での最大の政治勢力であった人民共和国系や各地方人民委員会と、アメリカ軍政方針との衝突は避けられないことになった。

 このような1945年夏が過ぎて秋から冬にかけての数ヶ月の、以後の南北朝鮮の決定的な枠組みが形成される時期に、アメリカ軍の取った戦勝国軍としての占領軍政統治政策、すなわち既存組織(旧朝鮮総督府機構)と人員を流用しての直接軍政方針と、ソ連軍のとった人民共和国・人民委員会の立場と機能を認めて、それに表面的な自治行政の実権を与えての間接統治政策とでは、大きな差異があった。

 そして、より後者の方が、解放後の政治の季節での、一般朝鮮市民大衆の感情にそうものであったことは間違いないとされた。この米ソ両軍の分割占領政策における南北朝鮮管理方針の差が、以後の、1945年から46年にかけての、南北の新体制建設と政治的安定におけるポイントとなった。

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                     第四節 分割占領下における政情の混乱。

 (一) アメリカ軍政の人共否認と韓民党登用

 一方、米ソ両軍による38度線を境界とする南北朝鮮分割占領の、その当初の時期での朝鮮政情においては、すでに呂運亨率いる建国準備会とその後身である「朝鮮人民共和国」勢力が事実上の初期国民自治行政組織として、すでに目覚しい活動を展開していた。

 すなわち、815日以降の朝鮮全土を政治の嵐が吹きつづけた時期に、ほとんどすべての朝鮮大衆がもとめていたのは、過去の植民地時代の社会的不正の是正、旧体制の清算と新しい抜本的な社会改革であり、民族自決の原則にもとづく国民政府の創建であったからであった。その結果、南朝鮮での圧倒的大衆、すなわち圧倒的な比率を占める貧困な無産階級、旧日本統治時代に犠牲を強いられていた多数派は、解放後社会の抜本的改革をもとめて、結果として左派の指導する朝鮮人民共和国、その傘下の地方人民会を支持する形となった。

 しかし、このような人民共和国勢力と地方人民委員会の革命的、容共的な性格は、明らかにアメリカ政府の極東政策にそぐわないものであった。また、きわめて強固な反共主義者であるマッカーサー司令部の意向にも反するものであった。さらに、人民共和国勢力の主張する「朝鮮人民共和国」としての自治「政府」としての機能は、ルーズベルト構想にもとづく戦勝四大国による朝鮮への国際信託統治プランと相反する部分もあった。

 その結果、南朝鮮占領米軍は、この上級司令部など意図にそって、以後、「朝鮮人民共和国」なる朝鮮人民からの発生した自主的政府機能を否認するとともに、親米的朝鮮政権の養成に進もうとしたとみられた。こうして、南朝鮮を占領したアメリカ軍政の方針が、この系統の左派的な革命勢力より、既存の旧統治体制、すなわち旧植民地統治機構である朝鮮総督府組織維持利用にあることが、明確になって来る情勢となった。それは、旧時代における日本人総督官吏・警官をも継続利用する方向のものであった。また、旧時代においての対日協力者である朝鮮人、いわゆる民族反逆者と当時呼ばれていた人物集団、階級をも吸収しながら、反共的な親米政権をつくりあげるために利用するものとの印象を一般に与えたような方向の政策であった。

 

  (二) 派遣米軍の長期的占領政策の欠如 ・・・ 略

  (三) アメリカ反共軍政の開始

 そこで、ソウルに設置されたアメリカ軍政庁は、南朝鮮諸政党を軍政の便宜のために活用するに当たって、当然のごとく左派の、彼等から見てソ連勢力指導下にあると認識されていた呂運亨指導下の朝鮮人民共和国系を排除しようとした。逆に、右派の保守系であり、旧体制・既存体制の受益者でもある宗鎮禹、金性洙などの韓国民主党勢力を、左派への対抗勢力として育成、活用としようとした。 

 これは、日本占領統治の遂行にあたって、日本の戦争責任を処断するよりも、米ソ対立状況の戦後世界において、天皇制度を含む日本の既存体制を温存し、それをアメリカ指導下で再編することによって、対日占領統治と以後の極東政策のために活用しようとした戦略傾向と共通するともみられた。そのようなアメリカ極東政策の南朝鮮における結果として、解放直後の一時期逼迫していた旧植民地時代の対日協力者、買弁資本家、植民地官吏、職員、警官などが以後のアメリカ軍政時代において、結果として。保護温存されて、行政の全面に返り咲き、解放後社会において新受益層・権力者集団として復活して行くことになった。

 ・・・以下略

 

 

 

 

 

 

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尹錫悦大統領は自ら「出頭」したのか?

2025年01月17日 | 国際・政治

 混乱が続く韓国で、とうとう尹錫悦大統領は、官邸で捜査官に捕らえられて高位公職者犯罪捜査処(公捜処)に護送されました。

 でも、尹大統領は、大統領室と弁護団が公開した映像では、「望ましくない流血事態を防ぐため、ひとまず違法捜査ではあるものの、公捜処の出頭(要求)に応じることにした」と述べています。「出頭」したのではなく、官邸に入った捜査官に捕らえらにもかかわらず、「出頭」という言葉を使っています。公捜処の捜査員は、大型車によるバリケードや鉄条網などをはしごを使って乗り越え、公邸に入って拘束令状を執行したのです。「出頭」というのは、自ら出向くことだと思います。

 韓国が収拾できない混乱状態にあったわけでもないのに、「非常戒厳」を宣布し、権力を行使したのみならず、「出頭」することを拒否していたのに、拘束されたら「流血事態を防ぐため、公捜処の出頭(要求)に応じることにした」などと誤魔化す尹大統領を日本は高く評価し、「関係改善」とやらを進めていたこと、私は、きちんと反省する必要があると思います。

 野党が自らの政策を受け入れないからといって「非常戒厳」を宣布するのは、相手が言うことを聞かないからということで暴力を振るうのとかわらないと思います。

 

 裁判所が発付した逮捕状の執行については「銃器を用いてでも防げ」と指示していたという話もあるようですが、「出頭」という言葉遣いにも、尹大統領や、彼を支える側近・支持者などの非民主的な姿勢が読みとれるのではないかと思います。

 また、公捜処の出頭通知に応じなかったために、逮捕状が発付され、官邸に入った捜査官に捕らえられた事実を、日本のメディアも正しく伝える必要があると思います。

 

 また、見逃せないのは、こうした混乱状態が続く韓国を、岩屋外務大臣が訪れ、趙兌烈(チョ・ヨテル)外相と会談していることです。

 日本では、

 岩屋外務大臣とチョ外相は会談のあと、共同記者会見に臨んだということで次のようなことを伝えられています。

岩屋外務大臣は「日韓関係の重要性は変わらないどころか増してきている。日韓関係の改善の基調を維持・発展させるべく、引き続き、外相間でも緊密に意思疎通をしていきたい。状況が許せば、首脳間のシャトル外交もぜひ復活させていきたい」と述べました。

 また、アメリカのトランプ次期政権との連携について「諸般の事情が許せば、トランプ大統領の就任式に出席する方向で調整しており、その際に日韓米の戦略的連携がこれまでになく重要だということを、アメリカの新政権側にしっかりと伝えてきたい。これはチョ外相とも認識をしっかり一致させた」と述べました。

 

 また、岩屋外相は、韓国国会の禹元植(ウ・ウォンシク)議長とも面会し

日本と韓国は価値や原則を共有するパートナーで、国際社会のさまざまな課題にともに協力していける関係だ。現在の韓国国内の状況は重大な関心を持って注視しているが、私は韓国の民主主義の強じん性を信頼している

 と述べたといいます。

 さらに、岩屋大臣は14日には、大統領の職務を代行する崔相穆(チェ・サンモク)副首相兼企画財政相との面会もするというのです。

 

 また、「ソウル聯合ニュース」は

韓国国防部は15日、チョ・チャンレ国防政策室長が同日、北大西洋条約機構(NATO)のルーゲ事務総長補と面会したと発表した。

 両氏は北朝鮮とロシアによる実質上の軍事同盟・包括的戦略パートナーシップ条約の批准やウクライナに侵攻するロシアを支援するための北朝鮮軍派遣などの違法な軍事協力が朝鮮半島と欧州の安全保障に及ぼす否定的影響に深刻な憂慮を表明し、即時中止を求めた。

 また、韓国とNATO間の安保・国防協力の重要性を再確認し、「国別適合パートナーシップ計画(ITPP)」の国防分野履行のために努力することで一致した。

 ITPPは協議体の運営、サイバー防衛、軍備管理と不拡散、相互運用性、対テロ協力、気候変動と安保、新興技術、女性と平和など11分野における韓国とNATO間の協力の枠組みを規定した文書だ。

 チョ氏は韓国とNATOが防衛産業分野で協力を拡大できるよう、関心と協力を呼びかけた。”

 と伝えています。

 混乱さなかの韓国、尹政権高官に対するこうした西側諸国の要人の接触は、表向きの内容とは別に、尹政権支援のありかたを詰める意図があるのではないかと疑います。

 

 偶然か、意図的かはわかりませんが、朝日新聞15日、”根深い「女嫌」、見えた韓国社会の溝、「非常戒厳」と抗議 ジェンダーの視点で読み解く”と題する崔誠姫・大阪産業大准教授の記事を掲載しました。そこには

植民地期からの影響」ということで下記のように記されていました。

「女嫌」の背後にある軍隊文化、男尊女卑には、日本植民地からの影響も読み取れる。

 45年に大日本帝国が解体した後成立した韓国では、急ごしらえで軍隊を整える必要があった。朝鮮戦争では、旧満州国軍出身の朴正煕(パク・チョンヒ)ら、旧日本軍にルーツを持つ若手軍人が軍の主力として活躍し、朴が率いた軍事政権では国家の中枢を担った。教育でも植民地期の教員経験者が多く採用され、戦時下を背景に植民地期の制度が引き継がれることが黙認された。軍政下の学校では植民地期を思わせる軍事教練も行われた。今も多くある男子校や女子校は、植民地期の男女別学制度の名残りでもある。

 

 また、”にじいろの議”という欄に、”非常戒厳招いた韓国の権威主義、支えた思想 日本に源流” と題する郭旻錫・京都大学大学院講師の記事も掲載されていたのです。そこには、次のようにありました。

今回の戒厳が戦後韓国の権威主義的な政治体制の遺産であることは間違いない。この点からも戦後民主主義を謳歌してきた日本と明らかに違う。しかし、韓国の権威主義を象徴している朴正煕元大統領(191779)が帝国日本の体制下で満州国陸軍軍官学校を首席で卒業し、関東軍の将校として務めた歴史的な事実を想起すると、ただのひとごとではなくなる。しかも朴正煕が独裁色を強めた政権後期の「維新体制」を思想面から支えようとした哲学者朴鍾鴻(パク・チョンホン:190876)が、戦前日本哲学の有力な潮流だった京都学派にその根を持っていたとすればどうか。”

 

 いずれも、今回の尹大統領の「非常戒厳」宣布の背景に、植民地期の日本の影響があることを指摘しているのです。

 でも私は、その日本の影響の具体的な経緯や歴史が、そういうこと以上に重要だと思います。

 なぜ、日本の植民地期の制度が、民主化される筈だった戦後の韓国に引き継がれたのか、ということがこそが重要であり、そこに焦点を合わせなければ、問題は克服できないのではないかと思います。

 尹錫悦大統領は暴力的に「非常戒厳」を宣布し、権力を行使したのみならず、「出頭」することを拒否して、法の支配に背きました。

 また、先だって日本では、岸田首相が、突然、浜田防衛相と鈴木財務相に対し、来年度から5年間の防衛費の総額について、およそ43兆円を確保するよう指示しました(その後、バイデン米大統領は、ABCテレビのインタビューで、自身の功績として「日本に予算を増額させた」と述べました)。

 この防衛費増額の指示は、国会はもちろん、閣議でも議論されていない独裁的決定でした。自衛隊からの要求さえなかったのです。でも、メディアが追及したのは、財源の問題であり、手続きの問題ではありませんでした。それが常々、中国やロシアに対しては、「法の支配」や「民主主義」を要求する日本の実態です。

 こうした韓国や日本の「法の支配」や「民主主義」に反する政治は、戦後、アメリカが韓国や日本に軍政を敷き、反共政権を誕生させたことに端を発するのだと思います。それが、現在もなお続いているのだと思います。

 以前取り上げたことがありますが、朝鮮半島の38度線がいつどのように、なぜ設けられたのか、また、すでに建国委員会が建国を宣言していた「朝鮮人民共和国」が、まったく支援されることなく潰され、38度線を国境とするようなかたちで、韓国が独立したのはなぜなのか、というようなことを調べれば、それが、アメリカの対ソ戦略からきていることがわかると思います。

 言ってしまえば、韓国や日本におけるアメリカの軍政は、韓国や日本の民主化のためではなく、実は、アメリカの対ソ戦略に基づき、反共右翼政権を育てることにあったということだと思います。

 

 

 

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搾取・収奪による格差拡大がもたらす悲劇

2025年01月13日 | 国際・政治

 下記は、再び「ルポ 資源大陸アフリカ 暴力は結ぶ貧困と繁栄」白戸圭一(朝日文庫)から、「終章 命の価値を問う ~南アフリカの病院から~」の一部を抜萃しました。南アの「経済格差」が、医療現場における深刻な差別につながっているという現実がよくわかると思います。

 問題は、同じ人間なのに、なぜ、こんな差別・選別が行われているのか、ということだと思います。

 前回取り上げた白戸氏の、”私の心には、常に一つの問題が影を落としていた。”という言葉も、”経済成長と異様な格差の拡大が進行する南ア” は、今のままではいけないのではないかということだと思います。

 そして、私はそれが搾取や収奪を伴う資本の論理の必然的な帰結である側面を見逃してはならないと思います。

 

 21世紀の資本』 で知られる トマ・ピケティは、国際社会は富の再分配や資本への課税など、制度的な改革が必要であると主張しています。真剣に受け止めるべきだと思います。

 バブル経済崩壊後、日本経済は長期のデフレに陥り、企業はコスト削減のため、賃上げを抑制し続けました。また、非正規労働者を増やしました。だから、実質賃金はずっと減少傾向にあります。でも最近の日本は、企業の収益が向上し、内部留保が増加しているにもかかわらず、なお実質賃金の低下が続いています。それを乗り越える改革はなされていません。だから、富の集中や格差の拡大が、不平等拡大につながり、南アのように差別や選別などの道徳的頽廃をもたらして、さまざまな問題を生みだしていくと思います。

 搾取や収奪を放置せず、富を分け合う制度をしっかり確立しないと人間性は失われていくように思うのです。奪い合ってばかりでは、戦争もさけられないと思います。

 だから、高所得者や大企業への累進課税の強化、不動産や金融資産などに対する財産税の導入などを制度化し、富の極端な集中を止め、格差の解消ができるかどうか、人類は問われていると思います。

 富の偏在や極端な格差は、資本家や経営者の人間性も蝕み、社会不安が深刻化する原因にもなると思います。イスラエルの戦争犯罪やイスラエルを擁護するアメリカの政治姿勢、また、南アの格差は、そうした資本主義の矛盾と無縁ではないと思うのです。

 だから、富の集中を止め、格差を解消する制度改革が国際的レベルできなけれれば、ふたたび戦争への道を歩むことにもなるように思います。

 労働者は賃金に注目し、資本家や経営者は剰余価値に注目するのは、資本の論理の当然の帰結ですが、最近の日本では、資本家や経営者が労組を抑え込み、労働者の組織も自らの影響下に置くようになっているように思います。内部留保にさえ課税できず、労組が資本家や経営者の手先として働くようでは、富の集中が一層進み、格差がさらに拡大し、南アやガザにおけるような不道徳がまかり通ってしまうことになると思います。

French economist Thomas Piketty caused a sensation in early 2014 with his book on a simple, brutal formula explaining economic inequality: r is greater than g (meaning that return on capital is generally higher than economic growth). Here, he talks through the massive data set that led him to conclude: Economic inequality is not new, but it is getting worse, with radical possible impacts. "

フランスの経済学者トマ・ピケティは、2014年初頭に、経済の不平等を説明する単純で残酷な公式に関する著書でセンセーションを巻き起こしました:rgより大きい(つまり、資本利益率は一般的に経済成長よりも高いことを意味します)。ここでは、彼は「経済的不平等は新しいものではなく、深刻化しており、根本的な影響をもたらしている」という結論に至った膨大なデータセットを通じて語っています。(機械翻訳)。

 

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                 終章 命の価値を問う ~南アフリカの病院から~

 

 四年に及んだヨハネスブルグの暮しの間、我が家にはずっと住み込みのメイドがいた。黒人の女性で名前をリリアン・モガレという。私が着任した2004年に55歳を迎えた彼女は、16歳のときからいくつかの白人家庭でメイドとして働いてきたメイド歴40年の大ベテランだった。アバルトヘイトが終わった今でも南アの白人家庭や我々外国人の家ではメイドを雇用することが普通で、私は前任の特派員から彼女を引き継いだ。

 サラリーマン記者の家に「メイドがいる」などと書くと、日本では贅沢だと批判を浴びそうだが、解雇すれば困るのは私の方ではなく彼女の方だという問題があった。南アの失業率は常時40%前後の高率で推移しており、道端でタバコなどを売るインフォーマルセクターの労働者を「雇用あり」とみなした場合でも25%前後に達していた。十代前半までの教育しか受けてない50歳を超えた彼女が一度職を失ったら再雇用は絶望的だろう。

 リリアンは我が家の片隅にある台所、トイレ、風呂を備えたメイド用の部屋で暮らしており、毎月最後の週末にヨハネスブルグの西約300キロのメフケンという町の弟一家が住む実家へ帰省していた。彼女には4人の子供がおり、その内の一人は不幸にも殺人事件の被害者となって他界していた。他の3人の子供はいずれも成人していた。その中にグラッドネス(29歳)という娘がおり、ヨハネスブルグ近郊の旧黒人居住地区ディーエップに建つ8畳一間ほどのバラック小屋で娘のタバン(6歳)と暮らしていた。リリアンは普段の週末はグラッドネス宅へ顔を出し、気分転換しているようだった。

 私の南アの暮らしが始まったばかりの20045月のことだった。夕食の皿洗いを終えたリリアンが「クラッドネスの具合が悪いので様子を見にいきたい」と言った。ディーエップスルートまで乗り合いタクシーを乗り継いで行くので片道一時間半はかかる。

 メイドが個人的な窮状を訴えたからといって、いちいち取り合わないのが南アの白人家庭の一般的な対処法である。普通なら「行っておいで」と送り出すだけだろうが、南アに着任して間もない私はリリアンに同行して夜の旧黒人居住区の様子を見てみたくなった。治安の悪い黒人居住区に非黒人の私が夜間出向くのは危険だったが、リリアンを車の乗せてディーエップスルートへ向かった。夜のヨハネスブルグの道は交通量が少なく、幅の広い直接道路を時速100キロで前後で走ることができる。北西に30分ほど走ると人家が途絶え、さらに草原の真っ暗な一本道を5分ほど走ると左手の平原にディーエップスルートの明かりが見えてきた。

 アパルトヘイト時代に造られた旧黒人居住区は、街全体が緑に覆われた白人の居住地域とは対照的に、砂埃の立つ乾燥した荒れ地にある。

 ほとんどが街の中心から離れた場所に立地しており、街と居住区を結ぶ道路は大抵、一本しかない。アパルトヘイトという単語はオランダ語系白人の言葉アフリカーンス語で「隔離」という意味なのだが、あの悪名高い人種差別政策が文字通り黒人を「隔離」して搾取するものだった事を実感する。平原のただ中にマッチ箱のような小さな民家が立ち並ぶ光景は、アパルトヘイト時代を今に伝える象徴的な光景である。

 グラッドネスが住むトタン造りの小屋に着くと、彼女は薄暗い裸電球の下のベッドで唸り声をあげていた。のぞき込むと、顔全体が試合に負けたボクサーのように腫れ上がっている。瞼の腫れで目を開けることができないほどだ。「夕方仕事を終えて家に帰ったら急に気分が悪くなって顔が腫れ上がり、熱も40度くらいありそうだ」と言う。

 グラッドネスは「公立の診療所は閉まっている。朝まで我慢する」と言ってきかない。車でヨハネスブルグまで戻れば、我々在留邦人が利用する私立の総合病院サントンクリニックがある。私が「朝までに、もしものことがあったらどうするんだ。サントンクリニックへ連れて行ってやる」と言うと、今度はリリアンが「そんな金を誰が払うんですか」と肩をすくめた。6歳の一人娘タバンが目に涙を浮かべながら大人たちのやり取りを聞いている。

 南アには日本のような国民皆保険制度はない。正確に調べ上げたわけではないので断定はできないが、サハラ砂漠以南のアフリカに皆保険制度の国があるとは到底思えない。保健の恩恵に与るためには、自分で民間の保険会社に毎月保険料を払わなければならない。低所得者層は保険料を払う余裕がなく、南ア保健省の統計では、総人口(約4800万人)のおよそ7割にあたる3300万人が無保険状態という。こうして少数派の中間層以上の国民は医療水準の高い私立病院へ、多数を占める低所得者層は無料診療が原則の公立病院へという一種のすみ分けができていた。

 

 リリアンの月給は、前特派員の時には1300ランド(約23千円)。ヨハネスブルグで働くメイドの平均的な金額だったが、私はこれを月給2000ランド(約36千円)にまで引き上げた。南アのメイドとしては誰が聞いても驚く最高水準だが、彼女が南アにおける典型的な低所得者であることは変わりなかった。白人が経営する文房具店の店員だったグラッドネスの月給は3000ランド(約54000円)。都市部の黒人労働者階層の平均的な金額だが、こちらも低所得者であることに変わりはない。

 当然ながら、そんな2人が保険に加入しているはずがない。私立病院のサントンクリニック行けば治療の内容によっては月給の何倍もの金を請求される可能性があり、リリアンが肩をすくめるのも無理はなかった。

 風船のように腫れた顔を見かねた私はグラッドネスとリリアンを車に押し込み、サントンクリニックへ向かった。夜間の急患窓口では10人ほどが診察を待っていたが、私たち以外は全員白人だった。私立病院ではまず、診療申込書の「支払い責任者」の欄に署名しなければならない。高額の出費が予想される時には、前金で支払いを要求され、私がマラリアで入院した際は入院前に日本円にして20万円ほどを前金で支払った。診療後や退院時に金を払えずトラブルになるのを防ぐためで、逆に言えばそれだけ払えない人が多いということでもある。

 この日は私が支払い責任者となり、実際に全額を支払った。医師によるとグラッドネスの顔の腫れと高熱は、埃に混じって吸入した何かよって生じた急性アレルギーショックの疑いがあるとのことだった。注射してショック状態を鎮め、一晩入院することになった。

 支払いは400ランド(約7000円)だった。思いのほか低料金だった、と言いたいところだが。それは私にとっての話だ。400ラッドはグラッドネスの月給のおよそ七分の一、リリアンの月給の五分の一に相当する。ちなみに、この年の4月に発表された国連の推計では、南アの総人口の48.5%は毎月350ランド(約6300円)の所得で暮らしていた。国民の半分は、一か月の所得がこの日の診療代にも満たないのだ。

 グラッドネスのアレルギー騒ぎ以来、私は黒人低所得者が頼りする南アの公立病院の実態に関心を持った。我々在留邦人は「病気になっても怪我をしても、必ず私立病院に行くように」と前任者などから助言されてはいるが、公立病院の内情を知ってる人となると実はほとんどいない。そこで他の仕事の合間を縫って取材しようと考えていたところ、思いがけないことでその実態を垣間見ることになった。きっかけは、今度リリアンの親族であった。

 アレルギー騒動から三か月後の8月末のことだった。リリアが険しい顔をしているので声をかけると、「入院中の姪の具合が悪いので見舞いに行きたい」と言う。ヨハネスブルグ市内のヘレン・ジョセフ公立病院に、ヘリエットという名の32歳の姪が交通事故による怪我で入院しているという。

 公立病院の内情に興味を抱いていた私はリリアンを車に乗せて病院へ向かった。車中でリリアンに聞いたところによると、ヘリエットはヨハネスブルグの南西側に位置する南ア最大の旧黒人居住区ソウェトに14歳の娘と2人で暮らしていたという。「高等専門学校を卒業して、そこそこ大きな会社で働いていた」というから、低所得者ばかりのリリアンの親族の中ではやや例外的な存在だ。

 超格差社会の南アでは、学歴と職種による給与の差が日本と比較にならないほど大きい。メイドや工場現場の作業員は月収千数百ランドもらえれば御の字だ。スーパーマーケットの店員が3000ランド(約54千円)を超えることはまずない。一方、例えばトヨタのような自動車会社の工場の製造ラインで働く労働者の場合職種や経験によって違いはあがるが、6000ランド(約108千円)から1万ランド(約18万円)ぐらいの人が多いようだ。これが大企業に就職した大卒者になると、月給1万ランド前後からスタートし、四十代では日本の大企業に勤める大卒サラリーマンとほぼ同じ給与水準に達する。

 ヘリエットは黒人女性では珍しく自家用車を運転していたので、1万ランド近い月収があったのではないだろうか。高度成長期の日本で自動車、クーラー、カラーテレビの「3C」が庶民の憧れだったように、経済成長著しい南アの新黒人中間層もローンを組んではこぞってマイカーを購入し始めていた。国内自動車販売台数はうなぎ上りで、2004年の年間約48万台は06年には70万台を超えるまでになった。新車購入者の四分の一、中古車購入者の約4割が黒人だという統計を見たこともあった。

 だが、現在は年間6000台まで下がった日本の年間交通事故死者数が高度成長期には15000人を超えていたように、急激な自動車社会の到来は往々にして莫大な犠牲を伴う。歩道の未整備、歩行者保護やシートベルト着用などの安全意識が未熟なこと、事故の際の救命体制の整備が追いつかないことなどが相俟って、南アの2005年の交通事故死者は14,316人に達した。人口十万人当たりの死亡率30.5人は統計が存在する世界の44カ国でワーストワンである。

 ヘリエットは7月下旬、ヨハネスブルグ市内の幹線道路で購入したばかりのマイカーを運転中に正面衝突し、シートベルトを締めてなかったためにフロントガラスで頭部を強打していた。

 この時、彼女が医療保険に加入していなかったことが運命の分かれ目になったと言えるかもしれない。保険に加入していることが何らかの方法で確認されれば、救急車は保険会社と提携している近くの私立病院へ自動的に向かう。だが、現場に到着した救急車は公立病院へ向かった。発送先では頭部のレントゲン写真が撮影され、医師は「異常なし」と判断。なんと彼女を帰宅させた。交通事故で頭部を強打している状態でCTスキャンによる検査もしないなど、日本の読者には信じられない話かもしれない。だが、これが南アの公立病院の実態であった。

 帰宅後、ヘリエットは吐き気と目眩(メマイ)を訴えて床に倒れ、今度は自宅から比較的近いヘレン・ジョセフ病院(公立)へ救急搬送された。病院の検査についての知識を持たないリリアンは、ヘリエットがどのような検査を受けたのか正確には知らないが、親族の話を総合すると、彼女はここで初めてCTスキャンの検査を受けたようだ。検査の結果、脳に重大な損傷があることが判明し、緊急手術が行われたが、状態は悪化の一途で危険な状態に陥った。

 私とリリアンが病院に着いたのは夕方6時頃だった。冬の南アは日暮れ早く、外はすでに真っ暗だ。レンガ造りの古い病棟は、昭和2030年代の建物のようだった。先に到着していた親族の案内で薄暗い廊下を歩いて行くと、短い蛍光灯が一本あるだけの暗い病室のベッドにヘリエットが横たわっていた。酸素吸入器をつけ顔はむくみ、紫色に変色している。マラソンを終えた後のような荒い呼吸を続け、静かな部屋に「ゼーゼー」という呼吸音だけが響いた。医学に詳しくない私にも、彼女は危険な状態にあることは即座に分かった。だが、病室には医師も看護師もいない。点滴一本を施されておらず、それどころか病棟全体ががらんとしていて、我々以外に人の気配がないのだ。

 ヘリエットの様子を見るなり、リリアンは手で顔を覆って泣き出した。我々より一足先に病院に来ていた娘のタバホ(14歳)は、変わり果てた母親の姿を見て号泣し、親族の男性に抱きかかえられてようやく立っていた。

 病棟の看護師詰め所をのぞきに行くと、太った黒人の女性看護師が2人でケラケラと笑いながら、おしゃべりの真っ最中だった。無性に腹が立った私は「ドクターを呼べ」と2人に詰め寄った。妙なアジア人の登場に、2人は一瞬、キツネつままれたような顔をしたが、一人が椅子に座ったまま机に肘をつき、ふてくされた表情で「ドクターはいない。夜は緊急の時しか呼ばない」と言った。「素人の俺が見ても患者は危ないと思うが、あれは緊急じゃないのか?」と言うと、同じ看護師が「うるさいわね。あたしの仕事じゃないわよ。あっちへ行きなさいよ」 と逆上して声を張りあ上げた。

 彼女たちの名誉のために言えば、南アの公的機関では、彼女たちの対応は特別でもなんでもない。警察署、入国管理事務所、自動車車両登録のオフィスまで、こんな対応はザラにある。

 私はリリアンを連れて家帰った。翌朝8時ごろ、ヘリエットが息を引き取ったとの電話がリリアンのところにあった。その日の夕方、再びリリアンを乗せて病院へ向かい、前日と同じ病室へ入った。亡くなってから半日近く経つというのに、遺体は同じベッドに寝かされたままだった。

 

 

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世界の犯罪首都、ヨハネスブルグの格差と暴力

2025年01月10日 | 国際・政治

 下記は、毎日新聞社ヨハネスブルグ特派員・白戸圭一氏が、駐在当時のヨハネスブルグの驚くべき状況について綴った文章です。

 驚くべき状況の一つは、”我々は敷地面積600坪はあろうかという支局兼住宅に住むことになった”という、まさに「セレブ」の仲間入りといえるような生活環境と地元民との歴然とした「格差」です。

 驚くべき状況のもう一つは、”特にヨハネスブルグは「世界の犯罪首都」と呼ばれるほど治安が悪化し、手の施しようがない状態であった。”という日本では考えられないような犯罪多発の問題です。

 

 大事なことは、白戸氏が、セレブの生活を謳歌しつつ、”私の心には、常に一つの問題が影を落としていた。”として、”経済成長と異様な格差の拡大が進行する南アは、治安の崩壊という深刻な問題に直面しているのだ”という問題意識を持ったことです。

 欧米の人たちの多くは、そういう捉え方をしないのだろうと思います。

 大航海時代以来、世界中で植民地を広げ、国際社会をリードしてきた欧米人の多くは、文化的に遅れている人種や民族は、欧米人の支配に服して当然だという意識を持っているのではないかと思います。だから、先住民と欧米人の生活レベルの違いを「格差」とは受け止めないのではないかと思います。

 また、白戸氏は、「格差」と「暴力」も関連付けて考えています。それも重要な視点だと思います。

 私は、南アのアパルトヘイト政権下で非暴力の抵抗運動を貫いたネルソン・マンデラ率いるアフリカ民族会議(ANCが、その後も政権を維持してきているのに、暴力がなくならない理由は、南アだけを見ていてはわからないと思います。

 マンデラは、暴力は新たな憎しみを生み出し、問題解決には繋がらないと主張し、アパルトヘイトという不正義な制度に対して、平和的な手段で対抗することを求めました。対話を重視し、 法の支配や民主主義を追求していたのです。

 でも、マンデラ大統領誕生後、20年以上経過しているのに、暴力がなくなりません。それは、外部勢力がその「暴力」に関わっているからだと思います。

 私は、「格差」と「暴力」と「欧米の関わり」を追及すれば アフリカや中南米、中東やアジアにおける国々の諸問題が見えてくるのではないかと思うのです。

 

 先日アメリカのバイデン大統領は、日本製鉄による米鉄鋼大手USスチールの買収を阻止する命令を出しました。私は、暴力的な命令ではないかと思います。バイデン大統領は買収を禁止した理由について、国家安全保障への脅威を挙げ、”アメリカの鉄鋼業界とそのサプライチェーンを強化するためには、国内での所有が重要だ” と述べたということです。でもそれは同盟国日本に対する差別であり、自由貿易の考え方にも反する、不当な政治介入だと思います。

 アメリカ企業による日本企業の買収を、同じようなかたちで、日本の総理が阻止できるかどうかを考えれば、その差別性は明らかではないかと思います。

 日本を信用しないアメリカに、日本は基地を与え、特権を与えて、命を預けているという状態であることを忘れてはならないと思います。”国家安全保障への脅威”などというのは、現実を無視した差別的な言いがかりだと思います。でも、バイデン大統領はその差別性を意識してはいないのではないかと思います。

 日本には、北海道から沖縄まで、全国各地に130か所の米軍基地1024平方キロメートル)があるといいます。そのうち米軍専用基地は81か所で、他は自衛隊との共用だということです。

 安保破棄中央実行委員会によると、

日本の主な米軍基地は、三沢空軍基地(青森県三沢市)、横田空軍基地(東京都福生市など)、横須賀海軍基地(神奈川県横須賀市)、岩国海兵隊基地(山口県岩国市)、佐世保海軍基地(長崎県佐世保市)と沖縄の米軍基地群があります。

 また基地以外に、訓練空域、訓練水域が米軍に提供されています(公海、公空を含む)。面積は、九州よりも広大なものです。”

 ということです。自らの利益を顧みず、日本はアメリカに尽くしていると思います。でも、アメリカは、そんな日本の企業、日本製鉄による米鉄鋼大手USスチールの買収を政治的に阻止するのです。

 だから私は、日本の米軍基地の存在が、日本の外交関係一般を規制し、また、ロシアや中国、北朝鮮との関係改善を不可能にしているばかりでなく、緊張をもたらいることを踏まえて、日米関係を捉え直すことが必要ではないかと思います。

 

 アメリカを中心とする欧米の政治家は、現実に存在する差別を差別と意識しないで、当然のこととして対応してきていると思います。アフリカや中南米、中東やアジアの国々に対しさまざまな差別をしていると思います。

 ヨハネスブルグにおけるような極端な「格差」、他民族を蔑視する姿勢、また、それにも増して、南アのような非米や反米の政権に対するアメリカを中心とする欧米諸国の関与、特に、反政府勢力に対する武器供与を中心とする支援が、治安の悪化にいろいろな影響を与えているのではないかと思うのです。

 

 下記は、「ルポ 資源大陸アフリカ 暴力は結ぶ貧困と繁栄」白戸圭一(朝日文庫)から、「序章 資源大陸で吹き上がる暴力」の一部を抜萃しました。

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                      序章 資源大陸で吹き上がる暴力

 

 20081月初め。毎日新聞社ヨハネスブルグ特派員の私は、大統領選挙を取材するためにケニアに出張していた。首都ナイロビのホテルで原稿を書いていると、南アフリカ共和国のヨハネスブルクの自宅で留守を預かる妻から電話がかかってきた。

「精神的なショックが心配なの。事件の後、とても怖がっていて、夕方になると家中の戸締りを確認して回ったりするのよ。仕事は大変だと思うけど、できるだけ早く帰って来て欲しい」

 ヨハネスブルグの地元の小学校に通う二年生の長女が、一人で同級生宅に遊びに行ってたところ、銃を持った黒人の男五人が塀を乗り越えて、その家に押し入った強盗事件の発生を報せる電話だった。事件の発生は午後一時ごろ。5人組は家の中にいた娘、同級生、同級生の家族3人の計五人を銃で脅し、現金や車を奪って逃走したという。

 この時点で私たち家族のアフリカ暮らしは三年十ヶ月に及んでいた。東京の本社からは3月末には帰宅してもらう方向で調整中との話が聞こえてきており、我が家は住み慣れたヨハネスブルクの家を引き払う準備を始めていた。

 身辺で日常的に凶悪犯罪が起きるヨハネスブルグではほぼ四年間、私を除く家族のだれも犯罪被害に遭わずにいたことの方が奇跡的とも言えたが、任期の最後の最後に、よりによって娘が被害に遭うとは──。電話を切った私は天を仰ぎ、その場に居合わせた誰にも怪我のなかったことに胸をなで下ろした。

 我が家を含む日本企業の駐在員は、ほとんどがヨハネスブルグ北部のサントンと呼ばれる高級住宅街に住んでいる。初めて南アを訪れた人は、サントンの景観に「ここがアフリカ?」と目を疑うに違いない。ハリウッド映画に登場するロスアンジェルス郊外のビバリーヒルズの豪邸。サントンの住宅街ではあれが普通だ。南アの「本当の豪邸」は、森にたたず欧州の古城とても形容するほかない。

 東京でマンションを借りるのとさして変わらぬ家賃を払った結果、我々は敷地面積600坪はあろうかという支局兼住宅に住むことになった。庭は一面の芝生で、片隅には澄んだ水をたたえたプールがあった。私たち夫婦は長女と長男が通う地元の私立校の保護者達と親しくなり、彼らを呼んでパーティーに興じたこともあった。邸宅の片隅にはメイドが住み込んでおり、室内の掃除、洗濯、皿洗いなどをやってくれる。広大な庭に群生する木々の手入れは素人の手に余り、週に一度は大家宅に住込んででいるマラウィ人男性の庭師がやって来て、手入れに勤しんでくれた。

 だが、そんな暮らしを謳歌する私の心には、常に一つの問題が影を落としていた。

 家族団欒の時、レストランでの食事中、車の運転中、子供を学校へ送り出した後、そして就寝時も、決して心の底からリラックスすることはできない。経済成長と異様な格差の拡大が進行する南アは、治安の崩壊という深刻な問題に直面しているのだ。娘が巻き込まれた事件など、南ア国内で起きている天文学的な数の犯罪の氷山の一角に過ぎないが、それでも個々の被害者と家族にとっては深刻な話である。

 経済成長が続けば雇用機会や所得の増加で犯罪は減少していく、というのが一般的な理解であろう。だが、南アでは成長が持続していたにもかかわらず、治安情勢に改善の傾向はないのだ。1994年の民主化後には、凶悪犯罪の発生率が世界最悪の状態となり、今に至っている。特にヨハネスブルグは「世界の犯罪首都」と呼ばれるほど治安が悪化し、手の施しようがない状態であった。

南ア政府が毎年発表する犯罪統計が、絶望的な治安状況を何よりも雄弁に物語る。2005年度の殺人事件の認知件数は18,545件、06年度は19,202件、07年度は18487件とほとんど横ばい状態であった。この殺人認知件数がどれほど凄まじい値なのかは、発生率を諸外国と比較して見れば分かる。例えば、南アの2016年の人口10万人当たりの殺人発生率は40.5 件。これは日本の約40倍。英国の約28倍都市部を中心とした凶悪犯罪発生率が高い米国に比べても約7倍の高率なのだ。サッカーワールドカップ開催を控えた国のイメージに気をつかう南ア政府は「治安の改善」を強調するのに躍起だ、その結果、時には情勢操作すれすれの発表も行なわれている。

 一例を挙げると、捜査当局によって認知された殺人事件の発生率の問題がある。

先述した通り、2006年度の南アの人口十万人当たりの殺人発生率は40.5件。一方、南米のコロンビアでは2000年に十万人当たりの殺人発生率が61.78件に達したことがあり、この両方の数字を比較する限り、南の殺人発生率はコロンビアよりも低いとの印象を持つ。だが、ヨハネスブルグの民間シンクタンク「南ア人種関係研究所」のカーウィン・リボーン氏は、この数字の出し方に巧妙なトリックが隠されていることを見抜いた。

 同氏によると、殺人事件の件数を発表する際、国際的には殺人未遂事件の件数も含めて「殺人認知事件数」と発表するのが常識となっているのだが、南政府は意図的に殺人未遂事件の検証を除外して発生件数を発表しているのだ。国際的な常識に従って、「未遂」を含めて殺人発生率を計算し直すと、2006年度の南家の殺人発生率は十万人当たり82.9件。2000年のコロンビアをはるかに上回る脅威的な発生率になるのだ。

 強盗事件はどうか。日本では近年、年間5000件超程度の強盗事件の発生が報告されている。これに対して南アの場合、年間20万件前後が発生している。南アの人口は日本のおよそ三分の一だから、発生率はおよそ120倍だ。ちなみに南アでは、よほど社会的に注目される事件でもない限り、日常発生する強盗事件では捜査自体が行われない。私の娘が巻き込まれた事件でも、警察官は一応現場に来てくれたが、被害者から簡単な聞き取りをして終わり。犯行現場で指紋や足跡を採取する鑑識捜査が行われることもまずない。ショッピングセンターで激しい銃撃戦が行われ、警察への緊急通報が相次いでも、警察官の現場到着が一時間後だというケースもざらだ。こうして私は日本で生涯に見聞するであろう犯罪被害の何百倍もの犯罪被害を、わずか4年の南ア駐在のうちに見聞することになった。

 私達家族がヨハネスグループで最も親しくしていた日本人家族の場合、奥さんと小学生の娘さんが日曜日の朝、教会で礼拝中に強盗団に襲われた。強盗団は、信仰の場だからといって容赦しない。銃もった数人が教会に押し入り、その場にいた数十人を床に腹ばいに寝かせ、この奥さんは結婚指輪を奪われてしまった。

 英文書類の翻訳のアルバイトを頼んでいたヨハネスブルグ在住の日本人青年は、自宅にいたところを侵入してきた4人組に襲われた。拳銃を口に突っ込まれた状態で室内を案内させられ、現金や貴金属を奪われた挙句、最期は粘着テープで全身を縛られた。

 私の仕事を手伝ってくれる黒人男性、我が家の大家、近所の住人たち、親しくしていた南ア人と日本人双方の家族。4年間の駐在の間に、こうした身近な人々の大半が、なにがしかの形で強盗被害に遭っていた。我が家の玄関前では白昼に拳銃強盗があり、子供達の通う学校に警察に追われた武装強盗が逃げ込んだこともあった。身の回りの犯罪被害を詳しく書いていけば、それだけでこの本は間違いなく終わってしまう。

 私自身は一度、車を低速で運転中に運転席の窓を叩き割られたことがあったが、これは南アでは犯罪被害とも言えない体験である。

 「芝生の庭」や「プール」のある暮しと書けば、大方の日本人は南アの人々羨望の眼差しを向けるかもしれない。一介のサラリーマン記者の私も、ヨハネスブルグで「にわかセレブ」のごとき暮らしを実際に始める前はそうであった。

 だが、この暮らしは、半ば要塞化された警備体制の上に、かろうじて成り立っているのが実情であった。

 拙宅の通りに面した塀の上には、電流フェンスが張り巡らされ、塀を乗り越えることができないようになっていた。玄関と勝手口にはいずれもドアが二枚あり、外側は鋼鉄製の格子状のドア、内側は分厚い木製ドアだった。全部で24ある家の窓はすべて頑丈な鉄格子で覆われていた。

 室内には赤外線センサーが張り巡らされ、就寝時には寝室を除いてセンターのスイッチを入れる。室内で何かの「動き」を感知すれば、100m離れていても聞こえる警報が鳴り響き、契約している民間警備会社から銃を持った警備員が駆け付ける仕組みであった。家の中では全部で七つの非常通報ボタンがあり、これを押しても警備員が駆け付けるようになっていた。

 ここまで警備体制を固めれば、賊の侵入は不可能と思われるかもしれないが、こんな警備体制を突破することなど、南アのプロの強盗団にとっては赤子の手を捻るようなものであった。最後の頼みは、犬の放し飼いであったが、いずれ帰国する外国企業の駐在委員にとって、犬の飼育は容易ではない。そこで南アには、訓練された犬を貸し出すビジネスがあり、我が家も三頭のシェパードを借りて放し飼いにした。とはいえ、なにせ広大な庭である。雨の夜などシェパードの耳と鼻をもってしても侵入を感知することは難しく、三頭でも充分とは言えなかった。何よりも、毒を混ぜた肉やチョコレートを庭に投げ込まれれば、番犬の効果も無きに等しかった。自宅を鉄壁の要塞にしてみたところで、犯罪被害から逃れることはできない。外出先で襲われれば手も足も出ない。

 外出先から車で自宅に戻り、入り口の電動式ゲートが開くのを待つ数秒間は、最も襲われやすい瞬間だった。ほんの数秒だが、ゲートが開き終わるまで路上で停車しなければならない。すると、木陰などに隠れていた男たちがガラス越しに銃を突きつけ、財布や携帯電話、そして車を奪う。外出先から戻る際には車で追尾され、ゲート前で停車したところを襲われる事件も後を絶たなかった。私の前々任者の家族やヨハネスブルグに支局をを置く他の日本メディアの特派員も、自宅に戻ったところを強盗に襲われていた。

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