「日本の阿片戦略-隠された国家犯罪」倉橋正直(共栄書房)の著者は、「日本の阿片政策」というテーマで研究を進めるかたわら、ケシ栽培農家を訪ねたり、自身で、ケシの乙種研究栽培者の許可を得て、ケシの栽培にも取り組んだようである。そして、日本の阿片政策をケシ栽培の側面からも追及している。日本のケシ栽培の普及に力を尽くし、「阿片王」といわれたニ反長音蔵(ニタンチョウオトゾウ)についても、彼のケシ栽培や阿片生産に関する著書の内容にまで踏み込んで分析・考察したり、また、新たな情報を得るべく彼の遺族を訪ねたりして、ほとんど知られていない数々の事実を明らかにしている。
さらに著者は、名古屋商工会議所図書館で、佐藤弘編『大東亜の特種資源』(大東亜株式会社、1943年9月)という貴重な書物を発見し、その内容の一部を取り上げて、考察を加えつつ紹介している。『大東亜の特種資源』によると、明治以来の日本のモルヒネ輸入量は、戦争によって急増し、1920年に最高を記録するが、モルヒネの国産化に成功すると、輸入量は急速に減少し、1930年を最後に輸入は終わる。そして、一転、日本は世界有数のモルヒネ生産国へとのし上がっていったのである。
1935(昭和10)年には、モルヒネ製造量が世界第4位となり、ヘロインでは世界第1位の製造量になっていたという。1934(昭和9)年のヘロイン生産量は、世界生産の5割近かったというから恐れ入る。技術が進歩し、阿片からモルヒネやヘロインが抽出されるようになると、阿片を吸煙する方法から、モヒ丸(モヒガン)といわれる丸薬や注射による利用が広まり、中毒者の心身の荒廃スピードが、一層早まって、数年で死にいたるケースが多かったといわれているのである。おまけに、丸薬や注射は阿片吸煙よりずっと簡単で、比較的値段も安く、中国の人々に急速に広がっていったようである。日本の阿片政策は、収益目当ての許されない政策であったが、戦後もそうした事実がきちんと明らかにされていない現実を、とても残念に思う。
日本の歴史には、隠蔽された事実が多々あるが、それらを明らかにする貴重な研究の一つだと思う。同書の中から、日本の阿片政策の問題点についてまとめている部分を抜粋する。
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第1章 国際関係の中での位置づけ
国家ぐるみの犯罪
阿片・モルヒネ類の生産配布などの仕事(いわゆる阿片政策)は、国内では、内務省(ただし、1938年1月以降は新設の厚生省に移管)が担当した。また、外地では、台湾総督府や朝鮮総督府などの植民地官庁が、阿片政策にかかわった。さたには、後になると、興亜院や大東亜などの官庁も、この仕事に加わった。この他、軍部も、この問題に深くかかわっていた。これらの官庁や組織は、みな国家組織である。国家組織が、長年にわたって、阿片モルヒネ類を大量に生産し、それを密輸出していた。
一方、1912年のハーグ阿片条約以来、一連の国際条約で阿片類の密輸出は公には禁止されていた。だから、前述のような、日本の行為は明らかに国際条約に違反していた。それに、国家組織が密接に関与していたのであるから、日本の阿片政策は、国際条約に背いた、いわば「国家ぐるみの犯罪」というべきものであった。
・・・(以下略)
国際条約を結ぶ意味
国際条約を締結し、阿片類の密輸出をしないことを、日本は国際的に約束する。しかも、たった一回限りではなく、きちんとした条約だけでも、少なくとも、4回も、ほぼ同じ趣旨の内容を国際的にくり返し約束している。従って、阿片類を中国などに密輸することは、明らかに国際条約違反であった。日本が阿片類の密輸出をしていることが暴露され、公に追及されれば、日本が国際的に激しく非難されることは目に見えていた。この件で、日本は申し開きは許されなかった。国際条約を結ぶということは、本来、それだけの厳しさを締結国に求めていた。そのことを、当時の日本の為政者は十分に理解していた。
だから、国際条約に違反するような阿片政策を進めるべきではないという、いわば良識派も、日本の為政者の中にいたはずである。彼らは、万一、阿片類の密輸出がばれた場合に受ける、ダメージの大きさを考慮し、国際条約に違反する阿片政策をやめるように主張したことだろう。しかし、結果的には、そういった良識派の主張は退けられてしまい、実際には、国際条約違反を承知の上で、日本は前述のような阿片政策を進めてしまう。
阿片の収益の大きさに目がくらむ
日本が財政的に余裕があれば、国際条約を締結した以上、それを遵守し、阿片類の密輸のような汚い仕事に、手を染めたくなかったはずである。しかし、当時の日本の財政基盤は脆弱であった。富国強兵をめざす日本の当局者にとって、たとえ、汚いものであっても、阿片政策がもたらす金を、無視することは不可能であった。
しかも、その額は、生半可なものではなかった。裏の世界においてであっても、それは財政の基幹部分を形成するといっても、決して言い過ぎとはならなかった。阿片政策の収益が、もし、とりたてていうほど大きくなければ、ばれた時の非難が恐くて、きっと、やめたことであろう。
万一、ばれた場合、国際世論から激しく非難・攻撃される危険性と、続けた時の収益の大きさを天秤にかける。後者が大きかった。前者の危険性もたしかに無視しえなかったが、しかし、後者によって得られる収益の大きさは、なお、それを補ってあまりあると判断された。結局、阿片の収益の莫大さに目がくらんで、日本は後者を選択する。
こうして日本の当局者は、国際条約違反は百も承知で、阿片類を大量に密輸出する方針を、敢えて捨てなかった。ばれて国際的な非難を浴びる危険性は十分、承知しているが、なお、国際条約違反(=非合法)で、かつ、非道徳的な汚い道を選んでしまう。いってみれば、背に腹は替えられなかったということであろうか。実力以上に背伸びして、国際社会の中に出ていった無理が、ここにも現れていた。
関係資料をひたすら隠す
こうして、日本は前述のような阿片政策を敢えて採ることになる。しかし、それが国際条約に違反した、本質的に非合法なものであることを、日本の為政者はよく承知していた。彼らにとって、それは、まさに人の目にさらしてはいけない恥部であった。
そこで国際世論をはばかるため、阿片関係の資料は意識的、かつ、組織的に隠滅させられた。それは徹底していた。阿片モルヒネ問題で、日本が国際条約に背いた行為をしていることを、諸外国に知られてはいけなかったからである。阿片に関する事項は、極力、隠された。それは、諸外国に対してというだけでなく、国民の目からも隠された。
まず、阿片関係の統計資料は、なるべく出さないようにされた。従来、主に国際聯盟に提出するために、内地だけでなく、支配する植民地まで含んだ阿片関係の包括的な統計が、内務省によって刊行されていた。しかし、この統計も、1928年を最後にして、以後、刊行されていない(ただ、地方レベルや植民地のものは、もっと後までわかるが)。また検閲によって、新聞などのマスコミが、阿片・モルヒネに関することを報道することは、ほぼ全面的に禁止された。戦前軍事関係を除けば、阿片に関する事項に対して、報道管制が最も厳しかったといっても、まず、さしつかえなかろう。それだけ、為政者は阿片問題には気を使っていたのである。
肝心の日本の阿片政策は知られていない
こうして、戦前、日本が行った阿片政策は、闇から闇へ葬り去られ、これまで、広く国民の目にふれる機会はあまりなかった。だから、国民は、戦前、日本が国際条約に背いて、中国などに阿片類を密輸出していたことをほとんど知らない。また、それと関連して、内地でも、和歌山県や大阪府で、大規模にケシが栽培されていたことさえ、一般にはほとんど知られていない。
現状では、阿片の輸出というと、日本国民は、おそらく、イギリスがインド産の阿片を中国に持ち込んだことを、すぐに思い出すことであろう。すなわち、18世紀末から、イギリスは、中国の茶を本国に、本国の綿製品をインドに、インド産の阿片を中国に運ぶ、いわゆる三角貿易を行う。それがやがて阿片戦争につながってゆく。──こういったイギリスの当時の阿片政策のことは、高等学校の世界史できちんと教えられている。だから、それはいわば国民的な歴史認識の段階に達している。
しかし、肝心の日本の阿片政策については、これまでほとんど知られていない。戦前、日本が推進した阿片政策は、これまで述べてきたように、客観的にいって、イギリスのそれよりも、はるかに大規模であり、かつ、影響はもっと深刻であった。にもかかわらず、日本国民は、日本が行った阿片政策について、ほとんど知らない。
・・・(以下略)
私の失敗──厚生省は戦前から存続
・・・
戦時体制下、阿片政策を推進してきた厚生省の責任は重い。それ以前に担当した内務省とともに、当然、厚生省もまた、その責任追及からのがれられない。ところが、後述するように、戦後の東京裁判で、内務省も厚生省も、阿片政策を担当した責任をうまくのがれる。彼らが行った阿片政策は、不問に付され、結果的に免罪される。
このこともあって、阿片政策を担当したことに対して、彼らはなにも反省していない。だから、自分たちが行ってきた阿片政策に関する資料を全く公表していない。まず、旧内務省の場合である。戦後になって、旧内務省の官僚は大霞会という団体を組織する。彼らが編纂した大霞会編『内務省史』(原書房、1980年)は、全体で4000ページにも及ぶ浩瀚(コウカン)な書物である。しかし、阿片に関しては、たった2ページ、それも法律の制定について記しているだけである。これでは、内務省が担当していた阿片政策は、その片鱗さえもわからない。
厚生省も何回か自分たちの歴史をまとめている(厚生省20年史編集委員会編『厚生省20年史』1960年。厚生省五〇年史編集委員会編『厚生省五〇年史』1988年)。しかし、これらの書物もまた、阿片政策のことをまともに扱ってはいない。
このように、阿片に関する事項は、「とにかく隠す、表に出さない」という戦前の方針が、戦後にまで、そのまま、続いている。だから、日本の阿片政策の中でも、基幹部分を占めていた内務省や厚生省の資料は、今日に至っても、全く公表されていない。今後、こういった資料の公開を求めてゆく運動が必要である。
・・・(以下略)
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さらに著者は、名古屋商工会議所図書館で、佐藤弘編『大東亜の特種資源』(大東亜株式会社、1943年9月)という貴重な書物を発見し、その内容の一部を取り上げて、考察を加えつつ紹介している。『大東亜の特種資源』によると、明治以来の日本のモルヒネ輸入量は、戦争によって急増し、1920年に最高を記録するが、モルヒネの国産化に成功すると、輸入量は急速に減少し、1930年を最後に輸入は終わる。そして、一転、日本は世界有数のモルヒネ生産国へとのし上がっていったのである。
1935(昭和10)年には、モルヒネ製造量が世界第4位となり、ヘロインでは世界第1位の製造量になっていたという。1934(昭和9)年のヘロイン生産量は、世界生産の5割近かったというから恐れ入る。技術が進歩し、阿片からモルヒネやヘロインが抽出されるようになると、阿片を吸煙する方法から、モヒ丸(モヒガン)といわれる丸薬や注射による利用が広まり、中毒者の心身の荒廃スピードが、一層早まって、数年で死にいたるケースが多かったといわれているのである。おまけに、丸薬や注射は阿片吸煙よりずっと簡単で、比較的値段も安く、中国の人々に急速に広がっていったようである。日本の阿片政策は、収益目当ての許されない政策であったが、戦後もそうした事実がきちんと明らかにされていない現実を、とても残念に思う。
日本の歴史には、隠蔽された事実が多々あるが、それらを明らかにする貴重な研究の一つだと思う。同書の中から、日本の阿片政策の問題点についてまとめている部分を抜粋する。
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第1章 国際関係の中での位置づけ
国家ぐるみの犯罪
阿片・モルヒネ類の生産配布などの仕事(いわゆる阿片政策)は、国内では、内務省(ただし、1938年1月以降は新設の厚生省に移管)が担当した。また、外地では、台湾総督府や朝鮮総督府などの植民地官庁が、阿片政策にかかわった。さたには、後になると、興亜院や大東亜などの官庁も、この仕事に加わった。この他、軍部も、この問題に深くかかわっていた。これらの官庁や組織は、みな国家組織である。国家組織が、長年にわたって、阿片モルヒネ類を大量に生産し、それを密輸出していた。
一方、1912年のハーグ阿片条約以来、一連の国際条約で阿片類の密輸出は公には禁止されていた。だから、前述のような、日本の行為は明らかに国際条約に違反していた。それに、国家組織が密接に関与していたのであるから、日本の阿片政策は、国際条約に背いた、いわば「国家ぐるみの犯罪」というべきものであった。
・・・(以下略)
国際条約を結ぶ意味
国際条約を締結し、阿片類の密輸出をしないことを、日本は国際的に約束する。しかも、たった一回限りではなく、きちんとした条約だけでも、少なくとも、4回も、ほぼ同じ趣旨の内容を国際的にくり返し約束している。従って、阿片類を中国などに密輸することは、明らかに国際条約違反であった。日本が阿片類の密輸出をしていることが暴露され、公に追及されれば、日本が国際的に激しく非難されることは目に見えていた。この件で、日本は申し開きは許されなかった。国際条約を結ぶということは、本来、それだけの厳しさを締結国に求めていた。そのことを、当時の日本の為政者は十分に理解していた。
だから、国際条約に違反するような阿片政策を進めるべきではないという、いわば良識派も、日本の為政者の中にいたはずである。彼らは、万一、阿片類の密輸出がばれた場合に受ける、ダメージの大きさを考慮し、国際条約に違反する阿片政策をやめるように主張したことだろう。しかし、結果的には、そういった良識派の主張は退けられてしまい、実際には、国際条約違反を承知の上で、日本は前述のような阿片政策を進めてしまう。
阿片の収益の大きさに目がくらむ
日本が財政的に余裕があれば、国際条約を締結した以上、それを遵守し、阿片類の密輸のような汚い仕事に、手を染めたくなかったはずである。しかし、当時の日本の財政基盤は脆弱であった。富国強兵をめざす日本の当局者にとって、たとえ、汚いものであっても、阿片政策がもたらす金を、無視することは不可能であった。
しかも、その額は、生半可なものではなかった。裏の世界においてであっても、それは財政の基幹部分を形成するといっても、決して言い過ぎとはならなかった。阿片政策の収益が、もし、とりたてていうほど大きくなければ、ばれた時の非難が恐くて、きっと、やめたことであろう。
万一、ばれた場合、国際世論から激しく非難・攻撃される危険性と、続けた時の収益の大きさを天秤にかける。後者が大きかった。前者の危険性もたしかに無視しえなかったが、しかし、後者によって得られる収益の大きさは、なお、それを補ってあまりあると判断された。結局、阿片の収益の莫大さに目がくらんで、日本は後者を選択する。
こうして日本の当局者は、国際条約違反は百も承知で、阿片類を大量に密輸出する方針を、敢えて捨てなかった。ばれて国際的な非難を浴びる危険性は十分、承知しているが、なお、国際条約違反(=非合法)で、かつ、非道徳的な汚い道を選んでしまう。いってみれば、背に腹は替えられなかったということであろうか。実力以上に背伸びして、国際社会の中に出ていった無理が、ここにも現れていた。
関係資料をひたすら隠す
こうして、日本は前述のような阿片政策を敢えて採ることになる。しかし、それが国際条約に違反した、本質的に非合法なものであることを、日本の為政者はよく承知していた。彼らにとって、それは、まさに人の目にさらしてはいけない恥部であった。
そこで国際世論をはばかるため、阿片関係の資料は意識的、かつ、組織的に隠滅させられた。それは徹底していた。阿片モルヒネ問題で、日本が国際条約に背いた行為をしていることを、諸外国に知られてはいけなかったからである。阿片に関する事項は、極力、隠された。それは、諸外国に対してというだけでなく、国民の目からも隠された。
まず、阿片関係の統計資料は、なるべく出さないようにされた。従来、主に国際聯盟に提出するために、内地だけでなく、支配する植民地まで含んだ阿片関係の包括的な統計が、内務省によって刊行されていた。しかし、この統計も、1928年を最後にして、以後、刊行されていない(ただ、地方レベルや植民地のものは、もっと後までわかるが)。また検閲によって、新聞などのマスコミが、阿片・モルヒネに関することを報道することは、ほぼ全面的に禁止された。戦前軍事関係を除けば、阿片に関する事項に対して、報道管制が最も厳しかったといっても、まず、さしつかえなかろう。それだけ、為政者は阿片問題には気を使っていたのである。
肝心の日本の阿片政策は知られていない
こうして、戦前、日本が行った阿片政策は、闇から闇へ葬り去られ、これまで、広く国民の目にふれる機会はあまりなかった。だから、国民は、戦前、日本が国際条約に背いて、中国などに阿片類を密輸出していたことをほとんど知らない。また、それと関連して、内地でも、和歌山県や大阪府で、大規模にケシが栽培されていたことさえ、一般にはほとんど知られていない。
現状では、阿片の輸出というと、日本国民は、おそらく、イギリスがインド産の阿片を中国に持ち込んだことを、すぐに思い出すことであろう。すなわち、18世紀末から、イギリスは、中国の茶を本国に、本国の綿製品をインドに、インド産の阿片を中国に運ぶ、いわゆる三角貿易を行う。それがやがて阿片戦争につながってゆく。──こういったイギリスの当時の阿片政策のことは、高等学校の世界史できちんと教えられている。だから、それはいわば国民的な歴史認識の段階に達している。
しかし、肝心の日本の阿片政策については、これまでほとんど知られていない。戦前、日本が推進した阿片政策は、これまで述べてきたように、客観的にいって、イギリスのそれよりも、はるかに大規模であり、かつ、影響はもっと深刻であった。にもかかわらず、日本国民は、日本が行った阿片政策について、ほとんど知らない。
・・・(以下略)
私の失敗──厚生省は戦前から存続
・・・
戦時体制下、阿片政策を推進してきた厚生省の責任は重い。それ以前に担当した内務省とともに、当然、厚生省もまた、その責任追及からのがれられない。ところが、後述するように、戦後の東京裁判で、内務省も厚生省も、阿片政策を担当した責任をうまくのがれる。彼らが行った阿片政策は、不問に付され、結果的に免罪される。
このこともあって、阿片政策を担当したことに対して、彼らはなにも反省していない。だから、自分たちが行ってきた阿片政策に関する資料を全く公表していない。まず、旧内務省の場合である。戦後になって、旧内務省の官僚は大霞会という団体を組織する。彼らが編纂した大霞会編『内務省史』(原書房、1980年)は、全体で4000ページにも及ぶ浩瀚(コウカン)な書物である。しかし、阿片に関しては、たった2ページ、それも法律の制定について記しているだけである。これでは、内務省が担当していた阿片政策は、その片鱗さえもわからない。
厚生省も何回か自分たちの歴史をまとめている(厚生省20年史編集委員会編『厚生省20年史』1960年。厚生省五〇年史編集委員会編『厚生省五〇年史』1988年)。しかし、これらの書物もまた、阿片政策のことをまともに扱ってはいない。
このように、阿片に関する事項は、「とにかく隠す、表に出さない」という戦前の方針が、戦後にまで、そのまま、続いている。だから、日本の阿片政策の中でも、基幹部分を占めていた内務省や厚生省の資料は、今日に至っても、全く公表されていない。今後、こういった資料の公開を求めてゆく運動が必要である。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を示します。