吉田松陰は「幽囚録」に
”蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と比(ヒト)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾・呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし”
と、四囲の国や地域を日本の支配下に入れていくべきことを書いていました。
また、吉田松陰は、幕府が安政5年(1858年)日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明の為に上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが容れられなければ殺害することを決めています。そして、計画を実行するため大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出ています。またその後、藩に倒幕を持ちかけたりもしたため、自らの属する長州藩にさえ危険視され、野山獄に幽囚されているのです。吉田松陰は優秀な若者ではあっても、あまりに過激であり、野蛮だったのだと思います。
その吉田松陰の松下村塾には、大勢の若者が結集し、尊王攘夷の思想を共有しました。そして、尊王攘夷を掲げて、幕末に多くの幕府要人を暗殺するとともに、「異人(外国人)は神州を汚す」として、いわゆる「異人斬り」をくり返しました。
倒幕を主導した長州藩士を中心とする尊王攘夷急進派は、慶喜が大政奉還をしたにもかかわらず、諸侯会議が自分たちの思うような方向に進められないことがわかると、諸侯会議を無視して、突然王政復古の大号令を発し、その後、狡猾な手段を使って武力で幕府を倒して権力を手にしました。
そうした野蛮で狡猾な側面を持つ尊王攘夷急進派が明治新政府の要職を占めたこと、特に、”陸軍長州、海軍薩摩”と言われるような軍閥を形成したことが、私は、その後の日本に大きな不孝をもたらすことになったのではないかと思います。
そのことは、戦争に関する著書がたくさんある「半藤一利」と「保阪正康」の二人の対談、「賊軍の昭和史」(東洋経済新報社)でも、明らかにされていると思います。対談の中で、
”太平洋戦争を批判するとき、実は薩長政権の歪みが継続していた点は見逃せないのではないでしょうか。”
ということが語られていますが、私も、それを見逃してはならないと思うのです。
尊王攘夷を掲げ、様々な策謀によって幕府を武力で倒し、明治維新を成し遂げた長州藩士を中心とする尊王攘夷急進派が、維新の成功体験に力を得て、朝鮮半島や大陸に進出していった歴史は、吉田松陰の説いた教え通りではないかと思います。
下記の対談で明らかなように、明治の政府や軍隊は、日本の政府、日本の軍隊というより、薩長の政府、薩長の軍隊といっても過言ではないほど片寄っています。それが、その後の日本の針路に影響しないはずはないと思います。
また、戦前・戦中、佐藤信淵の『宇内混同秘策』や吉田松陰の「幽囚録」其の他が、軍人を中心に、多くの人たちに読まれていたということも、見逃してはならないことだと思います。
だから
”昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だった”
などというのは、日本の侵略戦争を認めようとしない人の主張であり、歴史の修正だと思います。
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陸軍長州、海軍薩摩という軍閥
保阪 明治六年(1873)から明治十年(1877)くらいまでの間、日本の軍隊には海軍が陸軍よりも重視された時代がわずかにありました。いわば海主陸従です。本来なら日本の軍事学が確立されるべきでした。これは明治六年(1873)の使節団の頃ですから、西郷が進めたんでしょうかね。
半藤 いや、勝海舟でしょう。国防の要は外で守る、そのためには海軍だと海舟がいって、力をいれたんじゃないですか。面白いことに、薩摩そのものも海軍に熱心だったんですよね。だから西郷さんが実権を握っていた時代には、海舟の意見に賛同する人が薩摩にたくさんいたんじゃないですか。
保阪 ところが、岩倉使節団が日本に帰ってきたら、ころっと変わってしまう。
半藤 西南の役の前の前原一誠の乱など、士族の反乱がいろいろありました。これは国内戦争ですから、治安維持のためには陸軍の兵隊を増やさなければいけなくなったんです。
保阪 西南の役で、陸軍重視の姿勢がより固まってしまったんですね。
半藤 そのとき、出てきたのが山縣です。陸軍の天下を取り、陸軍の長州閥を作っていったわけです。海軍のほうは、勝海舟に賛同した人たちの流れを汲んで、薩摩が実権を握りました。
陸軍長州、海軍薩摩という体制が日露戦争まで続くんですよ。
実例として、日清・日露戦争の頃の陸軍大将を出身地別に挙げてみます。
長州出身が山縣有朋、佐久間左馬太、桂太郎、山口素臣、岡沢精、長谷川好道、児玉源太郎の七人。
薩摩出身が、西郷従道、大山巌、野津道貫、川上操六、黒木為楨、西寛二郎の六人。
そのほかは、福岡県出身の奥保鞏が一人いるだけです。
全部で十四人いた陸軍大将のうち、薩長が十三人も占めていたんですね。
さらに、明治期の総計でいうと、陸軍大将は三十一人いました。そのうち、皇族が四人、山口県が十一人、鹿児島県が九人、福岡県が二人、秋田、三重、静岡、愛知、徳島がそれぞれ一人となります。
旧薩長が圧倒的に多く、長州がトップでした。
中将で見ると、明治の後期、三十一年(1898)から四十五年(1912)までに、長州が二十四人、薩摩が十一人、高知が七人、福岡、佐賀、熊本が一人ずつ。このほか、東京が五人いますが、これはみな技術者で、幕府出身が多いんですね。技術の将官というのは中将が限度で、大体は少将で辞めてしまいます。
少将をみると、長州が三十六人と圧倒的に多く、薩摩が二十二人で続きます。
こう見ると、やはり陸軍長州というのは、はっきりしていますね。
続いて海軍を見てみますと、陸軍よりも世帯が小さくて人間が少ないですから、明治期の大将は、総計で十四人しかいません。そのうち、皇族が一人で、あとは全員が鹿児島県の出身なんですよ。
保阪 やはり陸軍長州、海軍薩摩なんですね。こういうデータを実際に確認していくと、ここまで露骨なのかという気がしますね。明治のある時期、陸軍大学校の試験に「長州出身」と書いたら加点されたという話まで流れているんです。加えて長州では、在郷軍人会のような組織が村々のなかにまで目を向けて、優秀な生徒がいれば陸軍幼年学校などを受験させて閥を維持するのに必死だったといわれている。
半藤 そうなんです。明治期の将官クラスの出身地を見れば明らかなように、陸軍は長州閥でなければ出世はしないし、海軍の場合は薩摩出身でないと出世しないというのはたしかだったんですよ。そうしたほうが組織をまとめやすかったんです。
薩長閥打倒を叫ぶ中堅幕僚
保阪 陸軍省や海軍省の人事ですが、佐官クラスは人事局の差配になるわけですね。部長や局長くらいになると、参謀総長や軍大臣、教育総監、そういう人たちが動いて決めたようですね。
半藤 そうです。大佐までは、陸軍も海軍も人事局が軍の大臣と相談して決めるんですね。局長以上になると、参謀総長などが決めます。
保阪 人事を決めるとき、上の人間の感情の入り方で処遇が違ったんでしょうかね。
半藤 全然違ったんじゃないですか。よく軍人がいうんですが、「人事と予算を握れば、こっちのもの」ということです。
後で詳しく話が出るでしょうが、陸軍では昭和が始まる頃、長州閥を倒すために若手の幕僚たちが立ち上ります。永田鉄山、東條英機といった人々です。その時、彼らは人事を握る補任課長の席を取るために、大変な努力をするんですよ。
課長クラスまでの人事は陸軍大臣と補任課長の相談ですから、補任課長の一存で大体決まっていた。そこで、彼らは大臣を誰にするか、補任課長の席をどうやって確保するかで凄い努力をするわけです。
保阪 大正の第一次世界大戦が終わった頃、陸軍の若手だった永田鉄山や岡村寧次、小畑敏四郎が、いわゆるバーデン・バーデンの密約をする。そのとき、人事の公正さを目指して、長州閥打倒を叫びますね。打倒したのはいいけれど、結局、彼らは成績至上主義を採ってしまい、別の意味で弊害が出ますけれどね。
長州閥打倒を叫んでいた頃、永田や岡村、小畑、それに東條らがバカにしていたのは、「長州の三奸」といわれた将官でした。山縣有朋の引きで、能力もないのが将官になっていると怒っていた。無能で何の功績もないのに、長州出身というだけで出世している、けしからんとね。
半藤 私が秦郁彦さんたちと陸軍大将総覧を作ったときに調べたんですが、大正のときに長州出身の大将が五人いるんです。大井成元、大庭二郎、田中義一、菅野尚一、森岡守成の五人です。
このうち、田中義一と大庭二郎は、少しはまともなことを喋れるんですが、ほかの三人は陸軍大将なのに、ろくに喋れもしなかったんですよ。これを実感したとき、私も正直にいって、長州閥というのは本当にあったんだなと思いました。
保阪 中堅幕僚はバカにしていたんでしょうね。
半藤 いくら何でもあんまりだと、思ったのではないでしょうか。極端にいえば、バカでも長州出身ならば大将になれるのかなと (笑)
薩長閥の日清・日露の功績を、昭和の日本は乗り越えられなかった
半藤 薩長閥にも、日清戦争、日露戦争で勝った功績はあるんですよね。
明治四十年(1907)に公侯伯子男(コウコウハクシダン)と叙爵され新しく華族となった人は、陸軍から六十五人、海軍から三十五人、文官三十一人となっていて、日清・日露戦争で功績が認められて、軍人が大半を占めています。
そして結局、明治年間を通してみてみると、叙爵された人の出身地別の内訳は表(略)のようになります。(旧大名家まどは除く)。
公爵と侯爵を見ると、全部が薩摩と長州なんですよ。さらに全体を見ると、長州派は圧倒的に多いんですね。侯爵が三人、侯爵が二人、伯爵が七人、子爵が十五人、男爵四十八人という凄い数です。
鹿児島も多い。公爵二人、侯爵四人、伯爵十二人、子爵十八人、男爵三十五人。
賊軍出身では、会津が男爵五人で、私の家の出身である越後では前島密の男爵が一人だけです。
つまり、官軍である薩長出身と賊軍藩の出身では、歴然とした差があったんです。
保阪 この時代に生きていたら、賊軍とされた人たちはみんな心底から立腹していただろうなと思います。
半藤 頭に来たでしょうね。
例えば、司馬遼太郎さんが小説で悪口を書いた日露戦争の第三軍参謀長の伊地知幸介なんか薩摩の出身ですが、明治四十年(1907)に男爵になっているんですよ。
このくらい、少なくとも大正時代までは薩長の天下だったんです。
ただ、薩長の天下がおかしいと今になっていうだけであって、当時としては、日清戦争、日露戦争はたしかに薩長の将官たちの指揮の下に、戦略戦術を巧みに駆使して勝ったという正当性はあるわけです。現実に薩長に指揮された軍隊の勇戦力闘で日清・日露の国家的危機を乗り越えたんだから、薩長の連中が「俺たちがこの国を作ったんだ」と思ったとしても、文句がいえないところはあったんですね。
保阪 けれど、太平洋戦争を批判するとき、実は薩長政権の歪みが継続していた点は見逃せないのではないでしょうか。日中戦争、太平洋戦争と無軌道な戦争を始めてしまった昭和の日本軍と政界官界について、薩長閥の延長にある軍部を(賊軍の官軍的体質といったものまで含めて)批判するという視点がそのまま持ち込めるように思います。
半藤 同感ですね。それが今回の対談の主眼というわけです。
どうも終始薩長の悪口になるのでやりづらいですがね。ま、いまの山口県や鹿児島県出身の人には関係ないといえば関係ないかもしれません。
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