核軍拡競争の時代、旧ソ連の工業地帯、中部ロシア、ウラル、シベリアの工業都市の近くに、地図にはない核秘密都市が建設された。核兵器は総合的な工業製品であるため、それらは、工業都市に近く、シベリア鉄道などの幹線から曳かれた支線の終着駅に建設されたとのことである。そして、町全体が鉄条網で囲われ、厳重に警備され、管理された。その10の核秘密都市の町の名前と数字の番号をつけた暗号名が「地球核汚染 ヒロシマからの警告」NHK『原爆』プロジェクト(NHK出版)に出ている。下記である。
・クレムリョフスク(アルザマス16)核兵器の設計、研究、解体
・スネジェンスク(チェリャビンスク70)核兵器の設計、研究、解体
・オジョルスク(チェリャビンスク40、後に65)プルトニウム生産
・セベルスク(トムスク7)プルトニウム製造、ウラン濃縮工場
・ジェレズノゴルスク(クラスノヤルスク26)プルトニウム生産
・ゼリョナゴルスク(クラスノヤルスク45)ウラン濃縮工場
・ザレチノイ(ベンザ19)核弾頭組立
・レースノイ(スベルドロフスク45)ウラン濃縮工場
・ノボウラリスク(スベルドロフスク44)核弾頭組立
・トリョフゴルスク(ズラトウスト36)潜水艦用戦略ロケット
ここでは、「地球核汚染」中島篤之助編(リベルタ出版)から、そのトムスク7の再処理工場爆発事故に関する部分を抜粋する。
因みに、アメリカでも同じような核秘密都市があった。サイトXという暗号名のオークリッジ国立研究所やサイトYのロスアラモス国立研究所、そして、広大な敷地にプルトニウム生産炉や再処理工場など核兵器製造工場が点在するハンフォードは、サイトWとのことある。こうした核秘密都市周辺には、被曝による健康被害に気づかなかったり、訴えることができなかったりした住民が存在したこと、また、今なお苦しんでいる人たちが存在することを、忘れてはならないと思う。
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7 爆発した再処理工場=トムスク7
軍参複合体の化学コンビナート
西シベリアにあるロシアの古都トムスクは人口約60万人、シベリアのどまんなかに位置する交通と文化の中心地です。1604年に建設され、1880年には政治犯の流刑地となり、ロシア革命後は、一時、反革命軍の根拠地ともなりましたが、1919年にソビエト政権が樹立されました。ソ連崩壊後も市の中心広場にはレーニンの像が残され、ビルの壁には革命家キーロフのレリーフが埋め込まれています。
この平和で美しいトムスクの人々を驚かす事故が、1993年4月6日に発生しました。トムスク市の北方数キロメートルのところにあるトムスク7という核兵器開発のための秘密都市内のシベリア化学コンビナートで爆発が起こり、放射性物質が環境に放出されたのです。
トムスク7は第2次大戦中にソ連が国内に分散してつくった核秘密都市のひとつで、その存在は最近まで知られていませんでした。もちろん地図にも載っていない町でした。町の中心的存在は軍産複合体のシベリア化学コンビナートで、このコンビナートはチェリャビンスク65のマヤーク工業コンビナートに匹敵する規模を誇っています。ここには核兵器級プルトニウム生産炉5基(現在3基が閉鎖し、残り2
基もチェルノムイルジン=ゴア協定にもとづき2000年に閉鎖の予定)、使用済み燃料の再処理工場、高濃縮ウラン生産工場、放射性廃液の地下処分工場などがあります。トムスク7にはシベリア化学コンビナートに働く科学者、労働者およびその家族など約10万人が居住しているといわれています。
トムスク7にはこれらの人々の生活に必要なあらゆる施設がつくられており、商品の種類も豊富にあるといわれています。しかし、町全体がフェンスで囲まれており、軍隊の管理下にあります。犬を連れた兵士がフェンスに沿って巡回し、外部からの侵入をつねに監視しています。唯一のゲートは日本の高速道路の料金所をもっと厳重にしたような構造で、住民の出入りも身分証明書の提示を必要とし、自動車のトランクの中まで調べられます。外部からの訪問は特別の許可証がなければなりません。外国人の立ち入りはモスクワにある原子力省と内務省(旧KGB)の許可が必要です。ソ連崩壊後の現在でもそうなのですから、崩壊以前は高度な機密を要する閉鎖都市だったのでしょう。このような核秘密都市は旧ソ連に限らず、アメリカでもアルゴンヌやオークリッジなどが知られています。
爆発した再処理工場
1993年6月、某テレビ局の取材に同行して市川富士夫(元日本原子力研究所、現明治大学)は、トムスク7周辺の実情を調査してきました。また、事故原因などについて、シベリア化学コンビナートの責任者と話をする機会も得ました。市川の入手した情報をもとに、事故当時の状況を見ていきましょう。
爆発はシベリア化学コンビナートの再処理工場で起こりました。再処理工場では原子炉の使用済燃料を化学的に溶かして、いろいろな薬品を加えて処理します。その結果、燃料のなかに含まれている燃え残りのウランと新たに生成したプルトニウムと高レベル廃液とに分離します。目的のプルトニウムはさらに精製してから他の核秘密都市に輸送して核弾頭に加工するようです。
事故が起こったのは分離後のウラン溶液をさらに精製するための調整タンクでした。調整タンクは約34立方メートルの容量を持ち、建屋内の地下につくられた厚さ1.2メートルのコンクリート製のセルに入っています。タンク内の溶液に濃硝酸を注入したところ、2時間半後爆発してタンクが破裂し、さらに可燃性ガスが爆発して再処理工場の建屋の壁や屋根が破壊されました。爆発と同時に火災が発生しましたが、およそ10分以内に消火したといいます。
爆発のとき、隣の建屋で仕事をしていた技術者カタベンコは、イスから飛び上がるような衝撃をうけたといっています。しばらくのあいだ何が起こったのかわかりませんでしたが、避難するように言われたのは爆発から30分くらい経ってからだといいます。爆発したのは昼過ぎ午後零時58分、工場の技術長に報告されたのが午後1時20分ですから、避難はその指示によるものでしょう。このあいだにも、爆発で吹き飛ばされた放射性溶液は、霧のようになって周辺環境に広がっていきました。
カタベンコの働いていた部屋の中にも放射性ミストが侵入し、室内のあらゆるものを汚染させました。もちろん、その場で仕事をしていた人々は放射性ミストを吸い込んでしまったはずです。放射線下で働く労働者が被曝線量を測定するため、作業服の胸につけているフィルムバッジがあります。カタベンコの中性子線用フィルムバッジは外側がはなはだしく放射性物質(ネプツニウム237とプルトアクチニウム233)で汚染されていました。その放射能の強さは、日本の法律なら放射性物質として管理の対象にされるほどの強さでした。こんなものを知らずに身につけていたら、無用な被爆をしてしまいます。
放射性物質の一部は、高さ150メートルの排気筒からフィルターの隙間を通って大気中に吹き出しました。そのとき、風は北東に向かって吹いていました。再処理工場はトムスク7内の北の方に位置していたので、放射性物質はフェンスを超えて北東の農村の方向に広がったのです。そのため、幸いにもトムスク7の市街地とトムスク市の放射能汚染はほとんどなかったといいます。もし風が反対だったら大変なことになっていたと、トムスク7の核施設全体を管理しているシベリア化学コンビナートの責任者ハンドリンは語っていました。
寒村を襲った放射能
排気筒から放出された放射性物質は森林地帯を越えてゲオルギエフカ村一帯に広がり、折からの降雪とともに地表に降下したとみられます。幅5~7キロメートル、長さ数十キロメートルの帯状に汚染地帯が分布しているのはそのためです。放射性物質は微粒子になって飛んだらしく、ガンマ線用放射能測定器の針が振り切れるほど強い放射能を示す地点が無数に分布していました。地表から1メートルの高さでの線量率が自然放射線の数倍になっている畑がありました。このような畑は耕作禁止の措置が採られていました。
フェンスから1キロメートル、爆発地点から約8キロメートル離れたところをトムスク市からサムン市へ通ずる道路には高濃度の汚染が認められました。そのため、この道路沿いに自動車のタイヤを洗浄し放射能検査をするチェック・ポイントが何カ所か設けられていました。道路の雪は除かれましたが放射能レベルは下がりませんでした。路肩には「危険」「車外に出るな」との新しい標識が立てられていました。舗装道路の表面は削り取られ、新しいアスファルトを敷き直しました。それでも自動車でこの道路を走ると測定器の針が放射能の増加を示します。徐染したのは道路上だけで、周辺の雑草地や森林はまったく手をつけていないのですから、地域全体の放射能レベルが下がらないのは当然のことです。
ゲオルギエフカ村は人口わずか200人ほどの貧しい農村です。牧畜をやっている人もいます。事故後、子どもたちは一時的に避難させられました。若者達は出稼ぎにいっていて、終末になると戻ってきます。「トムスクからはときどき放射能を測りにくるけれども、心配ないというだけで何も説明してくれない。うちの畑でとれたジャガイモは食べても大丈夫なのかね?」と、年の頃60歳はとうに過ぎていると思われる女性グリコバが心配して話しかけてきました。グリコバの畑も放射能で汚染されていましたが、トムスク7の人は、畑を耕せば放射能はなくなる、と教えたそうです。確かに、畑の土を天地返しすれば、表面にあった放射性物質は地中に入るので、地表で測った放射能レベルは少なくなります。しかし、放射性物質がなくなったわけではありません。地中で成長するジャガイモにとっては、根から放射性物質を吸収する機会は確実に増えるでしょう。
なぜ国際的な関心を呼んだのか
環境から検出された放射性物質はジルコニウム95(半減期64日)、ニオブ95(同35日)、ルテニウム106(同367日)、セシウム137(同30年)などでした。ロシア原子力省の発表によれば、ベータ・ガンマ放射性物質が40キュリー、プルトニウムが1キュリーとなっています。しかし、これは排気塔から周辺環境に放出された量であり、タンクの破裂で再処理工場のまわりに飛散した量は含まれていません。放射能の量は後者の方がずっと多く、成分も異なります。
先に紹介したカタベンコのフィルムバッジの汚染からわかるように、爆発現場付近で検出されたのはネプツニウム237(同214万年)とその壊変生成物のプロトアクチニウム233(同27日)でした。なお、ここに示した放射性物質はガンマ線分析装置により確認されたものなので、ガンマ線を放出しないストロンチウム90、プルトニウム239やウランは直接検出できません。
爆発現場の復旧作業は何よりも優先され、突貫作業で行われました。飛散した溶液の回収、建屋内外の徐染、タンクの交換、建屋の修理などを済ませ、1993年9月頃には操業を再開したということです。最高度の核軍事施設ならではの早業といえます。
今回の爆発事故は再処理工場で発生し、環境の放射能汚染を引き起こしたという点でロシア内以外で関心をもたれました。事故発生の1時間半後にモスクワに第1報が入り、同日中にウィーンの国際原子力機関(IAEA)に通報されました。環境影響把握のためのロシア緊急国家委員会の調査団、原因究明のためのロシア原子力省の調査団が現地に派遣されました。IAEAもロシア政府の招聘により3人の専門家を現地に派遣しました。アメリカは、今回の事故と同様の施設や廃液貯蔵施設を有するところから、この事故を重視し、6月に調査団をトムスク7に派遣し、9月にはロシア原子力省の専門家をアメリカに招いて情報交換と今後の協力計画を協議しました。
情報もないまま安全PR ・・・(略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。
・クレムリョフスク(アルザマス16)核兵器の設計、研究、解体
・スネジェンスク(チェリャビンスク70)核兵器の設計、研究、解体
・オジョルスク(チェリャビンスク40、後に65)プルトニウム生産
・セベルスク(トムスク7)プルトニウム製造、ウラン濃縮工場
・ジェレズノゴルスク(クラスノヤルスク26)プルトニウム生産
・ゼリョナゴルスク(クラスノヤルスク45)ウラン濃縮工場
・ザレチノイ(ベンザ19)核弾頭組立
・レースノイ(スベルドロフスク45)ウラン濃縮工場
・ノボウラリスク(スベルドロフスク44)核弾頭組立
・トリョフゴルスク(ズラトウスト36)潜水艦用戦略ロケット
ここでは、「地球核汚染」中島篤之助編(リベルタ出版)から、そのトムスク7の再処理工場爆発事故に関する部分を抜粋する。
因みに、アメリカでも同じような核秘密都市があった。サイトXという暗号名のオークリッジ国立研究所やサイトYのロスアラモス国立研究所、そして、広大な敷地にプルトニウム生産炉や再処理工場など核兵器製造工場が点在するハンフォードは、サイトWとのことある。こうした核秘密都市周辺には、被曝による健康被害に気づかなかったり、訴えることができなかったりした住民が存在したこと、また、今なお苦しんでいる人たちが存在することを、忘れてはならないと思う。
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7 爆発した再処理工場=トムスク7
軍参複合体の化学コンビナート
西シベリアにあるロシアの古都トムスクは人口約60万人、シベリアのどまんなかに位置する交通と文化の中心地です。1604年に建設され、1880年には政治犯の流刑地となり、ロシア革命後は、一時、反革命軍の根拠地ともなりましたが、1919年にソビエト政権が樹立されました。ソ連崩壊後も市の中心広場にはレーニンの像が残され、ビルの壁には革命家キーロフのレリーフが埋め込まれています。
この平和で美しいトムスクの人々を驚かす事故が、1993年4月6日に発生しました。トムスク市の北方数キロメートルのところにあるトムスク7という核兵器開発のための秘密都市内のシベリア化学コンビナートで爆発が起こり、放射性物質が環境に放出されたのです。
トムスク7は第2次大戦中にソ連が国内に分散してつくった核秘密都市のひとつで、その存在は最近まで知られていませんでした。もちろん地図にも載っていない町でした。町の中心的存在は軍産複合体のシベリア化学コンビナートで、このコンビナートはチェリャビンスク65のマヤーク工業コンビナートに匹敵する規模を誇っています。ここには核兵器級プルトニウム生産炉5基(現在3基が閉鎖し、残り2
基もチェルノムイルジン=ゴア協定にもとづき2000年に閉鎖の予定)、使用済み燃料の再処理工場、高濃縮ウラン生産工場、放射性廃液の地下処分工場などがあります。トムスク7にはシベリア化学コンビナートに働く科学者、労働者およびその家族など約10万人が居住しているといわれています。
トムスク7にはこれらの人々の生活に必要なあらゆる施設がつくられており、商品の種類も豊富にあるといわれています。しかし、町全体がフェンスで囲まれており、軍隊の管理下にあります。犬を連れた兵士がフェンスに沿って巡回し、外部からの侵入をつねに監視しています。唯一のゲートは日本の高速道路の料金所をもっと厳重にしたような構造で、住民の出入りも身分証明書の提示を必要とし、自動車のトランクの中まで調べられます。外部からの訪問は特別の許可証がなければなりません。外国人の立ち入りはモスクワにある原子力省と内務省(旧KGB)の許可が必要です。ソ連崩壊後の現在でもそうなのですから、崩壊以前は高度な機密を要する閉鎖都市だったのでしょう。このような核秘密都市は旧ソ連に限らず、アメリカでもアルゴンヌやオークリッジなどが知られています。
爆発した再処理工場
1993年6月、某テレビ局の取材に同行して市川富士夫(元日本原子力研究所、現明治大学)は、トムスク7周辺の実情を調査してきました。また、事故原因などについて、シベリア化学コンビナートの責任者と話をする機会も得ました。市川の入手した情報をもとに、事故当時の状況を見ていきましょう。
爆発はシベリア化学コンビナートの再処理工場で起こりました。再処理工場では原子炉の使用済燃料を化学的に溶かして、いろいろな薬品を加えて処理します。その結果、燃料のなかに含まれている燃え残りのウランと新たに生成したプルトニウムと高レベル廃液とに分離します。目的のプルトニウムはさらに精製してから他の核秘密都市に輸送して核弾頭に加工するようです。
事故が起こったのは分離後のウラン溶液をさらに精製するための調整タンクでした。調整タンクは約34立方メートルの容量を持ち、建屋内の地下につくられた厚さ1.2メートルのコンクリート製のセルに入っています。タンク内の溶液に濃硝酸を注入したところ、2時間半後爆発してタンクが破裂し、さらに可燃性ガスが爆発して再処理工場の建屋の壁や屋根が破壊されました。爆発と同時に火災が発生しましたが、およそ10分以内に消火したといいます。
爆発のとき、隣の建屋で仕事をしていた技術者カタベンコは、イスから飛び上がるような衝撃をうけたといっています。しばらくのあいだ何が起こったのかわかりませんでしたが、避難するように言われたのは爆発から30分くらい経ってからだといいます。爆発したのは昼過ぎ午後零時58分、工場の技術長に報告されたのが午後1時20分ですから、避難はその指示によるものでしょう。このあいだにも、爆発で吹き飛ばされた放射性溶液は、霧のようになって周辺環境に広がっていきました。
カタベンコの働いていた部屋の中にも放射性ミストが侵入し、室内のあらゆるものを汚染させました。もちろん、その場で仕事をしていた人々は放射性ミストを吸い込んでしまったはずです。放射線下で働く労働者が被曝線量を測定するため、作業服の胸につけているフィルムバッジがあります。カタベンコの中性子線用フィルムバッジは外側がはなはだしく放射性物質(ネプツニウム237とプルトアクチニウム233)で汚染されていました。その放射能の強さは、日本の法律なら放射性物質として管理の対象にされるほどの強さでした。こんなものを知らずに身につけていたら、無用な被爆をしてしまいます。
放射性物質の一部は、高さ150メートルの排気筒からフィルターの隙間を通って大気中に吹き出しました。そのとき、風は北東に向かって吹いていました。再処理工場はトムスク7内の北の方に位置していたので、放射性物質はフェンスを超えて北東の農村の方向に広がったのです。そのため、幸いにもトムスク7の市街地とトムスク市の放射能汚染はほとんどなかったといいます。もし風が反対だったら大変なことになっていたと、トムスク7の核施設全体を管理しているシベリア化学コンビナートの責任者ハンドリンは語っていました。
寒村を襲った放射能
排気筒から放出された放射性物質は森林地帯を越えてゲオルギエフカ村一帯に広がり、折からの降雪とともに地表に降下したとみられます。幅5~7キロメートル、長さ数十キロメートルの帯状に汚染地帯が分布しているのはそのためです。放射性物質は微粒子になって飛んだらしく、ガンマ線用放射能測定器の針が振り切れるほど強い放射能を示す地点が無数に分布していました。地表から1メートルの高さでの線量率が自然放射線の数倍になっている畑がありました。このような畑は耕作禁止の措置が採られていました。
フェンスから1キロメートル、爆発地点から約8キロメートル離れたところをトムスク市からサムン市へ通ずる道路には高濃度の汚染が認められました。そのため、この道路沿いに自動車のタイヤを洗浄し放射能検査をするチェック・ポイントが何カ所か設けられていました。道路の雪は除かれましたが放射能レベルは下がりませんでした。路肩には「危険」「車外に出るな」との新しい標識が立てられていました。舗装道路の表面は削り取られ、新しいアスファルトを敷き直しました。それでも自動車でこの道路を走ると測定器の針が放射能の増加を示します。徐染したのは道路上だけで、周辺の雑草地や森林はまったく手をつけていないのですから、地域全体の放射能レベルが下がらないのは当然のことです。
ゲオルギエフカ村は人口わずか200人ほどの貧しい農村です。牧畜をやっている人もいます。事故後、子どもたちは一時的に避難させられました。若者達は出稼ぎにいっていて、終末になると戻ってきます。「トムスクからはときどき放射能を測りにくるけれども、心配ないというだけで何も説明してくれない。うちの畑でとれたジャガイモは食べても大丈夫なのかね?」と、年の頃60歳はとうに過ぎていると思われる女性グリコバが心配して話しかけてきました。グリコバの畑も放射能で汚染されていましたが、トムスク7の人は、畑を耕せば放射能はなくなる、と教えたそうです。確かに、畑の土を天地返しすれば、表面にあった放射性物質は地中に入るので、地表で測った放射能レベルは少なくなります。しかし、放射性物質がなくなったわけではありません。地中で成長するジャガイモにとっては、根から放射性物質を吸収する機会は確実に増えるでしょう。
なぜ国際的な関心を呼んだのか
環境から検出された放射性物質はジルコニウム95(半減期64日)、ニオブ95(同35日)、ルテニウム106(同367日)、セシウム137(同30年)などでした。ロシア原子力省の発表によれば、ベータ・ガンマ放射性物質が40キュリー、プルトニウムが1キュリーとなっています。しかし、これは排気塔から周辺環境に放出された量であり、タンクの破裂で再処理工場のまわりに飛散した量は含まれていません。放射能の量は後者の方がずっと多く、成分も異なります。
先に紹介したカタベンコのフィルムバッジの汚染からわかるように、爆発現場付近で検出されたのはネプツニウム237(同214万年)とその壊変生成物のプロトアクチニウム233(同27日)でした。なお、ここに示した放射性物質はガンマ線分析装置により確認されたものなので、ガンマ線を放出しないストロンチウム90、プルトニウム239やウランは直接検出できません。
爆発現場の復旧作業は何よりも優先され、突貫作業で行われました。飛散した溶液の回収、建屋内外の徐染、タンクの交換、建屋の修理などを済ませ、1993年9月頃には操業を再開したということです。最高度の核軍事施設ならではの早業といえます。
今回の爆発事故は再処理工場で発生し、環境の放射能汚染を引き起こしたという点でロシア内以外で関心をもたれました。事故発生の1時間半後にモスクワに第1報が入り、同日中にウィーンの国際原子力機関(IAEA)に通報されました。環境影響把握のためのロシア緊急国家委員会の調査団、原因究明のためのロシア原子力省の調査団が現地に派遣されました。IAEAもロシア政府の招聘により3人の専門家を現地に派遣しました。アメリカは、今回の事故と同様の施設や廃液貯蔵施設を有するところから、この事故を重視し、6月に調査団をトムスク7に派遣し、9月にはロシア原子力省の専門家をアメリカに招いて情報交換と今後の協力計画を協議しました。
情報もないまま安全PR ・・・(略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。