最近、日本の戦後史を考える上で注目を集めている本がある。「戦後史の正体 1945ー2012」孫崎亨(創元社)である。同書は「日本の戦後史を動かす原動力は、米国に対するふたつの外交路線です」という文章から始まる。そしてそれが、米国に対する「追随」路線と「自主」路線であるとして、米国からの圧力や裏工作と絡めて、ふたつの路線対立による日本の戦後政治の裏面を、びっくりするような資料も 交えて明らかにしている。
安保条約に関しては、戦前外務省アメリカ局長で、1946年には外務次官であった寺崎太郎の言葉「周知のように、日本が置かれているサンフランシスコ体制は、時間的には平和条約(講和条約)ー安保条約ー行政協定の順でできた。だが、それがもつ真の意義は、まさにその逆で、行政協定のための安保条約、安保条約のための平和条約でしかなかったことは、今日までに明らかになっている」、を引いて、旧安保条約に米軍の日本駐留の在り方について何も書かれていないことを問題とし、「条約」が国会での審議や批准を必要とするのに対し、政府間の「協定」ではそれが必要ないため、都合の悪い取り決めは、全部「行政協定」(新安保条約で地位協定)のほうに入れたのだと指摘している。そして、その行政協定(地位協定)も、密約や非公開の合意事項によって運用されているのである。下記のような事実は、そうしたことを裏付けるものだと思う。
1972年4月、毎日新聞の西山太吉記者と蓮見喜久子外務省事務官が国家公務員法違反で逮捕された。「外務省機密漏洩事件」である。沖縄返還をめぐる日米交渉のなかで、本来米国が支払うべき「補償費」400万ドル、すなわち、講和前の人身事故と土地の復元補償のなかで未処理となっていた分について、米国が支払うことを規定していたにもかかわらず、日本がそれを秘密裡に肩代わりするという「密約」の存在が指摘されたのである。でも、当時その密約は、2人のプライベートな男女関係による、機密文書の漏洩問題に封じ込められ、ほとんど追及されず、明らかにされることはなかった。その後「密約」の存在を裏付ける文書が、相次いで発見されている。
沖縄返還をめぐる日米交渉のなかで、秘密裏に進められた「財政・経済取決」の内容には、西山記者によって暴露された400万ドルの支払い肩代わりの他にも、いろいろ問題がある。その内容は、実に驚くべきものである。琉球大学の我部政明教授は、1994年以降飛躍的に進んだアメリカの情報公開によって手にすることができた数多くの米政府の沖縄関連公文書や沖縄の公文書館に保存されている公文書などをもとに、その内容を「沖縄返還とは何だったのかー日米戦後交渉史の中で」(日本放送協会)にまとめている。
下記は、その中からいくつかの項目を抜粋したものである。交渉のなかで問題となった、「移管される資産の評価額」ひとつをとっても、日米であまりに大きな違いがあり、「財政・経済取決」の内容が、公表でるものではなかった理由が察せられる。
たとえば、電力公社の日本側評価額は4,060万ドルであったが、米側評価額は2億7,000万ドルなのである。日本側が「ばかげている」と受け止めたことが、記されている。琉球電力公社より10倍の発電量、14倍の売り上げのある九州電力の市場価格の5割増しの評価だったというのである。日米の差は、総額でも5倍近いものであった。
また、資産移管の金額問題だけではなく、経費の肩代わりや通貨交換後のドルの連邦準備銀行への無利子の預金その他、納得し難い問題が含まれている。そしてそれらが、日本の国民にはほとんど知られることなく、文字通り「米戦略文書の手順通り」に進むのである。そして、財政・経済取決では、アメリカ側が総計6億9,200万ドルの要求をし、それに近い6億4,500万ドルの利益を得たというのである。そうした日米関係は、何とかならないものなのか、と思う。
註:文中のジューリックは米財務長官特別補佐官 柏木は大蔵省財務官
---------------------------------
第5章 佐藤・ニクソン共同声明
米戦略文書の手順通りに進んだ日米交渉
密約の存在とは別に、7月3日に米政府内で承認された戦略文書において予定したように、日米交渉は進んだといえるだろう。その最大の理由は、日本側の交渉戦略に求められる。返還時点に核兵器を撤去することのみを基本目標としてきたことにある。その結果、財政・経済取決や基地の自由使用保証の点で米側の要求をそのまま認めてしまうことになった。米側が返還交渉における基本目標とした軍事権、つまり基地の自由使用を日本側は交渉の当初から認めていたのである。交渉にあたる日本側において、核兵器について何らかの了解を米側からとりつけるのは困難だと自ら思い込む心理的な状態が充満していた。交渉目標への柔軟な対応を自ら放棄してしまったため、米側が核撤去の意思をもっているという情報に接しても、日本の交渉者たちは無視してしまったのである。こうした「思い込み」による硬直した状況認識は、核抜きを実現するために、どのような財政的・政治的コストも払うことに全く疑問を抱かずに自らを納得させてしまったのである。
第6章 もう一つの密約
外務省機密漏洩事件(略)
400万ドルの補償金の存在(略)
三つ目の山場
沖縄の施政権返還については、これまで核兵器の「持ち込み」、「貯蔵」にのみ関心が集まってきたように思う。「核抜き」以外に、沖縄返還交渉はいくつかの分野・作業グループから構成されている。
第2章でのべたように、共同声明の案を作成する作業グループ、財政・経済問題を担当する作業グループ、防衛の引継ぎを担当する作業グループ、そして、施政権返還そのものを扱う作業グループ、以上の4つである。
共同声明作成の作業グループは、戦略文書が共同声明作成のタイム・テーブルを明示していたので、ガイドラインを作る必要をもたなかったが、個々の交渉過程において関係省庁の了解を得る場として機能した。この作業グループは69年11月21日に共同声明発表を迎えて、その任務を終えた。これら4つのなかで最も積極的な活動をしていたのが、明確なガイドラインを設定して財務省と日本の大蔵省の間の交渉を支える財政・経済問題を担当する作業グループであった。防衛担当作業グループは交渉ガイドラインを設定したものの、佐藤・ニクソン前に対日交渉には入らなかった。民政作業は、共同声明の発表後の翌年1月から本格的作業に入った。
共同声明後の米政府の沖縄返還交渉体制は、東京大使館を軸にワシントンでの省庁間グループ、沖縄の高等弁務官、米軍沖縄返還交渉チーム、(USMILRONT)、在日米軍(USFJ)との密接な関係で構成され、返還協定作成へ向けて4つの主要分野での作業を進めた。まず、沖縄の米軍基地の使用をめぐって最大限の軍事的柔軟性を確保するため、沖縄への地位協定適用について、つぎに、沖縄防衛責任の日本への移管について、そして、施政権の返還について、最後に、財政・経済取決のほかに米企業の保護について、であった。
このように沖縄返還に向けての交渉のなかで、財政・経済取決は一貫して重要な課題でありつづけたことを物語る。この章の目的は、沖縄返還にともなう財政・経済取決の合意形成過程について検討することにある。財政・経済取決は、返還そのものを左右する分野であった。ベトナム戦争中からジョンソン政権は、国際収支が悪化する米国経済を立て直すために、米国の提供する安全保障秩序のなかで経済的に豊かになる日本に対し、後にバーデン・シェアリングとして知られることになる相応の負担を要求していた。佐藤政権の要望に応えて当時米国の保有の下にあった沖縄を返還するのだから、米政府に財政負担を一切かけることなく、返還にともなう財政負担を日本側が負うべきだとする声は、米政府内で根拠のある主張として浸透していた。
米資産の基本的データの欠如(略)
日米の評価額の差
東京での日米交渉の3日めに柏木が日本側の提案をおこなった。まず、一括払い方式は受け入れがたく、個別の評価額を積み上げる方式をとるべきである。つぎに、通貨交換後のドルは日本が受け取るが、国際収支への悪影響を避けるようにする。そして、移管される資産の評価額は、返還時の価格変動を考慮に入れて、1969年6月30日現在の帳簿価格とし、また米国の投資総額に見合うような金額とすること。さらに沖縄内での基地移転費用は、双方が合意すればという条件つきで、地位協定下と同様に、日本政府の負担とする。最後に、何がどのように移転されるのかが不明な現時点では、沖縄外への基地移転費用について検討しない。
日本側は、移管される資産の評価額をつぎのように下していた。カッコ内は米側評価。電力公社4,060万(2億7,000万)ドル、水道公社740万(5,000万)ドル、琉球開発金融公社2,630(5,600万)ドル、万琉球銀行310万(2,200万)ドル、行政ビル100万(300万)ドル、道路700万(3,900万)ドル、石油・油脂施設(P0L)や航空航路補助施設など合計9,000万(4億5,000万)ドル。総額で5倍近い日米の差が出た。たとえば、電力を2億7,000万ドルとする米側の評価を「ばかげている」と日本側は全面的に非難した。この金額は、当時、沖縄の総生産の4割に相当し、琉球電力公社より10倍の発電量、14倍の売り上げのある九州電力の市場価格の5割増しの評価だと手厳しい指摘があった。
これに対しジューリックは、米国内で要求される政治的考慮への配慮を全く欠いており「失望せざるをえない」と日本側の評価額を攻撃した。また、総額1億ドル程度と見積もられた米国の資産は10億を超えるとして、日本側の評価こそが「ばかげている」とやり返した。日米双方のこうした応酬は、決して最終的提示ではなかった。すぐ翌日非公式会談では、日本側の妥協案が明らかにされるのである。
大きく譲歩した柏木提案
沖縄返還にともなう財政・経済取決において、個別積算方式(日本側の要求)か一括公式(米側の要求)かをめぐる日米対立は、日本側の妥協によって大きく進展しようとしていた。
正式交渉としてではなく個人的な接触として同年10月24日の朝、柏木とジューリックとが会った際に、柏木が米側の要求を満たす日本側の新たな提案を明らかにした。それは、日本の主張する積算方式を放棄して、総額で2億5,000万ドルの支払い提案であった。内訳は民政用資産1億2,500万ドル、軍用資産を1億2,500万ドル。そして、ドル交換については、別途に定めることにしていた。つまり、日本側は、積算方式をあきらめる代わりに支払い総額を引き下げる戦術へと転じたのである。
ジューリックは総額では不充分だとしつつも、日本側の妥協を歓迎した。そして、財政・経済取決の3つの原則を強調した。まず、民政用資産について琉球住民の権利だとする原則は受け入れられないこと。次に、軍事資産の残存価値を評価額に盛り込むこと。さらに、通貨交換は公正に処理され、それにともなって日本が何らかの利益を得ないとする、などであった。
柏木は、福田赳夫蔵相にパッケージとして取決めると報告した。そのパッケージには、まず、水道公社、琉球開発金融公社、電力公社、道路などの買い取り費用として、1億2,500万ドルの直接支払い分。つぎに米政府所有の有価証券買い取りのかたちにし、さらに「色sweetner)」をけて1億ドル。また、社会保障費として2,500万ドル。さらに、基地の移転費(沖縄内外を問わず)として2億ドル。これらの合計4億5000万ドルのほかに、通貨交換後のドルの連邦準備銀行預金として1億ドルなどを含む提案であった。これらとは別途に、琉球銀行関連の民政用資産と石油・油脂背施設(POL)の売却益として、1000万から2000万の幅を見積もっていた。
そして、柏木は、さらに翌25日ジューリックとの非公式会談を重ねて、その後にワシントンで継続する交渉での実質的内容を詰めようと提案した。
両国で受け入れ可能な取引(略)
総計6億9,200万ドルの財政・経済取決要求
11月4日、ワシントンでの検討結果が国務・財務・国防の各省の合同メッセージとして東京の米大使館へ送られてきた。それによると、一括払いの考え方は、共同コミュニケに財政・経済取決を織り込む際に都合がよく、しかも米政府の予算上の節約を得る上でも大切だと強調されていた。そこで、日本側に対し、つぎのような対案を出すよう指示している。民政用・共同使用資産として1億8,500万ドル、社会保障費(沖縄の米軍基地で働く軍雇用員に支払われる)として3,000万ドル、返還にともなう基地の移転(沖縄内及び沖縄外)及び他のコストとして2億ドル、そして通貨交換として1億1,200万ドルなど、合計5億2,700万ドルの財政・経済取決を主張せよという。この金額以外に、米政府は琉球銀行の株式及び石油・油脂施設の売却益として1,500万ドルを得ると述べる。さらに、地位協定にもとづいて軍用地料(第24条第2項)及び労務管理費(第12条第4項)について日本政府が負担するので、5年間の節約分合計が1億5,000万ドルとなり、総額6億9,200万ドルに達する財政・経済取決要求であった。
・・・以下略
米人企業に対する特別措置(略)
共同声明前に合意していた秘密覚書
交渉のもう一つのチャンネルは、11月6日から8日にかけてジューリックと柏木の間で進められていた。そこでは、基地移転費などに2億ドル通貨交換後の預金を含む総額6億9,200万ドルの米側要求を叩き台として交渉が進行した。その結果、総額6億8,500万ドルの取決案が成立した。
その内訳は、民政用・共同使用資産買い取りに1億75,00万ドル、沖縄の基地従業員の社会保障費等に3,000万ドル、基地移転費及びその他の費用に2億ドル、そして通貨交換後の預金に1億1,200万ドル、となった(利益節約分を含む)。合計で5億1,700万ドルとなった。さらに、米民政府所有の琉球銀行の株式と石油・油脂施設売却益に加えて、返還の結果、その後5年間に得るであろう米政府の予算節約分を合計して、1億6,800万ドルが加えられた。
また、日米間で、この合意を確認する手続き作業も併せて話し合われ、11月12日に福田が口頭で了解覚書を読み上げ、佐藤ニクソン会談の数週間後に、書面にて柏木が確認することとされた。
手元に、1969年12月2日付けの文書がある。それは、米政府内で返還作業の過程で作成された文書の参照として折り込まれたようだ。3ページの文書はそれぞれのページの上段と左端の2箇所ずつ、手書きのAJJとYKのイニシャルが記されている。これらは、アンソニー・J・ジューリックとユウスケ・カシワギのイニシャルと判断してよい。
沖縄返還を政権の課題とする佐藤にとって、佐藤ニクソン共同声明以前に財政・経済取決に合意したことを秘密にしたのは「沖縄を買い戻した」という印象を日本国内でもたれないためには、柏木・ジューリック覚書の公表を避けねばならなかった。事実、12月2日に柏木とジューリックがこの覚書に署名している。この覚書の存在は、これまでの沖縄返還交渉の研究でほとんど言及されたことのなかった新しい事実である。
全部で6つの項目、3ページの文書だ。第1項が、民政・共同使用資産の買い取りを扱っている。2ページにわたり、売却対象として移管される資産のリスト、売却方法が記されている。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
安保条約に関しては、戦前外務省アメリカ局長で、1946年には外務次官であった寺崎太郎の言葉「周知のように、日本が置かれているサンフランシスコ体制は、時間的には平和条約(講和条約)ー安保条約ー行政協定の順でできた。だが、それがもつ真の意義は、まさにその逆で、行政協定のための安保条約、安保条約のための平和条約でしかなかったことは、今日までに明らかになっている」、を引いて、旧安保条約に米軍の日本駐留の在り方について何も書かれていないことを問題とし、「条約」が国会での審議や批准を必要とするのに対し、政府間の「協定」ではそれが必要ないため、都合の悪い取り決めは、全部「行政協定」(新安保条約で地位協定)のほうに入れたのだと指摘している。そして、その行政協定(地位協定)も、密約や非公開の合意事項によって運用されているのである。下記のような事実は、そうしたことを裏付けるものだと思う。
1972年4月、毎日新聞の西山太吉記者と蓮見喜久子外務省事務官が国家公務員法違反で逮捕された。「外務省機密漏洩事件」である。沖縄返還をめぐる日米交渉のなかで、本来米国が支払うべき「補償費」400万ドル、すなわち、講和前の人身事故と土地の復元補償のなかで未処理となっていた分について、米国が支払うことを規定していたにもかかわらず、日本がそれを秘密裡に肩代わりするという「密約」の存在が指摘されたのである。でも、当時その密約は、2人のプライベートな男女関係による、機密文書の漏洩問題に封じ込められ、ほとんど追及されず、明らかにされることはなかった。その後「密約」の存在を裏付ける文書が、相次いで発見されている。
沖縄返還をめぐる日米交渉のなかで、秘密裏に進められた「財政・経済取決」の内容には、西山記者によって暴露された400万ドルの支払い肩代わりの他にも、いろいろ問題がある。その内容は、実に驚くべきものである。琉球大学の我部政明教授は、1994年以降飛躍的に進んだアメリカの情報公開によって手にすることができた数多くの米政府の沖縄関連公文書や沖縄の公文書館に保存されている公文書などをもとに、その内容を「沖縄返還とは何だったのかー日米戦後交渉史の中で」(日本放送協会)にまとめている。
下記は、その中からいくつかの項目を抜粋したものである。交渉のなかで問題となった、「移管される資産の評価額」ひとつをとっても、日米であまりに大きな違いがあり、「財政・経済取決」の内容が、公表でるものではなかった理由が察せられる。
たとえば、電力公社の日本側評価額は4,060万ドルであったが、米側評価額は2億7,000万ドルなのである。日本側が「ばかげている」と受け止めたことが、記されている。琉球電力公社より10倍の発電量、14倍の売り上げのある九州電力の市場価格の5割増しの評価だったというのである。日米の差は、総額でも5倍近いものであった。
また、資産移管の金額問題だけではなく、経費の肩代わりや通貨交換後のドルの連邦準備銀行への無利子の預金その他、納得し難い問題が含まれている。そしてそれらが、日本の国民にはほとんど知られることなく、文字通り「米戦略文書の手順通り」に進むのである。そして、財政・経済取決では、アメリカ側が総計6億9,200万ドルの要求をし、それに近い6億4,500万ドルの利益を得たというのである。そうした日米関係は、何とかならないものなのか、と思う。
註:文中のジューリックは米財務長官特別補佐官 柏木は大蔵省財務官
---------------------------------
第5章 佐藤・ニクソン共同声明
米戦略文書の手順通りに進んだ日米交渉
密約の存在とは別に、7月3日に米政府内で承認された戦略文書において予定したように、日米交渉は進んだといえるだろう。その最大の理由は、日本側の交渉戦略に求められる。返還時点に核兵器を撤去することのみを基本目標としてきたことにある。その結果、財政・経済取決や基地の自由使用保証の点で米側の要求をそのまま認めてしまうことになった。米側が返還交渉における基本目標とした軍事権、つまり基地の自由使用を日本側は交渉の当初から認めていたのである。交渉にあたる日本側において、核兵器について何らかの了解を米側からとりつけるのは困難だと自ら思い込む心理的な状態が充満していた。交渉目標への柔軟な対応を自ら放棄してしまったため、米側が核撤去の意思をもっているという情報に接しても、日本の交渉者たちは無視してしまったのである。こうした「思い込み」による硬直した状況認識は、核抜きを実現するために、どのような財政的・政治的コストも払うことに全く疑問を抱かずに自らを納得させてしまったのである。
第6章 もう一つの密約
外務省機密漏洩事件(略)
400万ドルの補償金の存在(略)
三つ目の山場
沖縄の施政権返還については、これまで核兵器の「持ち込み」、「貯蔵」にのみ関心が集まってきたように思う。「核抜き」以外に、沖縄返還交渉はいくつかの分野・作業グループから構成されている。
第2章でのべたように、共同声明の案を作成する作業グループ、財政・経済問題を担当する作業グループ、防衛の引継ぎを担当する作業グループ、そして、施政権返還そのものを扱う作業グループ、以上の4つである。
共同声明作成の作業グループは、戦略文書が共同声明作成のタイム・テーブルを明示していたので、ガイドラインを作る必要をもたなかったが、個々の交渉過程において関係省庁の了解を得る場として機能した。この作業グループは69年11月21日に共同声明発表を迎えて、その任務を終えた。これら4つのなかで最も積極的な活動をしていたのが、明確なガイドラインを設定して財務省と日本の大蔵省の間の交渉を支える財政・経済問題を担当する作業グループであった。防衛担当作業グループは交渉ガイドラインを設定したものの、佐藤・ニクソン前に対日交渉には入らなかった。民政作業は、共同声明の発表後の翌年1月から本格的作業に入った。
共同声明後の米政府の沖縄返還交渉体制は、東京大使館を軸にワシントンでの省庁間グループ、沖縄の高等弁務官、米軍沖縄返還交渉チーム、(USMILRONT)、在日米軍(USFJ)との密接な関係で構成され、返還協定作成へ向けて4つの主要分野での作業を進めた。まず、沖縄の米軍基地の使用をめぐって最大限の軍事的柔軟性を確保するため、沖縄への地位協定適用について、つぎに、沖縄防衛責任の日本への移管について、そして、施政権の返還について、最後に、財政・経済取決のほかに米企業の保護について、であった。
このように沖縄返還に向けての交渉のなかで、財政・経済取決は一貫して重要な課題でありつづけたことを物語る。この章の目的は、沖縄返還にともなう財政・経済取決の合意形成過程について検討することにある。財政・経済取決は、返還そのものを左右する分野であった。ベトナム戦争中からジョンソン政権は、国際収支が悪化する米国経済を立て直すために、米国の提供する安全保障秩序のなかで経済的に豊かになる日本に対し、後にバーデン・シェアリングとして知られることになる相応の負担を要求していた。佐藤政権の要望に応えて当時米国の保有の下にあった沖縄を返還するのだから、米政府に財政負担を一切かけることなく、返還にともなう財政負担を日本側が負うべきだとする声は、米政府内で根拠のある主張として浸透していた。
米資産の基本的データの欠如(略)
日米の評価額の差
東京での日米交渉の3日めに柏木が日本側の提案をおこなった。まず、一括払い方式は受け入れがたく、個別の評価額を積み上げる方式をとるべきである。つぎに、通貨交換後のドルは日本が受け取るが、国際収支への悪影響を避けるようにする。そして、移管される資産の評価額は、返還時の価格変動を考慮に入れて、1969年6月30日現在の帳簿価格とし、また米国の投資総額に見合うような金額とすること。さらに沖縄内での基地移転費用は、双方が合意すればという条件つきで、地位協定下と同様に、日本政府の負担とする。最後に、何がどのように移転されるのかが不明な現時点では、沖縄外への基地移転費用について検討しない。
日本側は、移管される資産の評価額をつぎのように下していた。カッコ内は米側評価。電力公社4,060万(2億7,000万)ドル、水道公社740万(5,000万)ドル、琉球開発金融公社2,630(5,600万)ドル、万琉球銀行310万(2,200万)ドル、行政ビル100万(300万)ドル、道路700万(3,900万)ドル、石油・油脂施設(P0L)や航空航路補助施設など合計9,000万(4億5,000万)ドル。総額で5倍近い日米の差が出た。たとえば、電力を2億7,000万ドルとする米側の評価を「ばかげている」と日本側は全面的に非難した。この金額は、当時、沖縄の総生産の4割に相当し、琉球電力公社より10倍の発電量、14倍の売り上げのある九州電力の市場価格の5割増しの評価だと手厳しい指摘があった。
これに対しジューリックは、米国内で要求される政治的考慮への配慮を全く欠いており「失望せざるをえない」と日本側の評価額を攻撃した。また、総額1億ドル程度と見積もられた米国の資産は10億を超えるとして、日本側の評価こそが「ばかげている」とやり返した。日米双方のこうした応酬は、決して最終的提示ではなかった。すぐ翌日非公式会談では、日本側の妥協案が明らかにされるのである。
大きく譲歩した柏木提案
沖縄返還にともなう財政・経済取決において、個別積算方式(日本側の要求)か一括公式(米側の要求)かをめぐる日米対立は、日本側の妥協によって大きく進展しようとしていた。
正式交渉としてではなく個人的な接触として同年10月24日の朝、柏木とジューリックとが会った際に、柏木が米側の要求を満たす日本側の新たな提案を明らかにした。それは、日本の主張する積算方式を放棄して、総額で2億5,000万ドルの支払い提案であった。内訳は民政用資産1億2,500万ドル、軍用資産を1億2,500万ドル。そして、ドル交換については、別途に定めることにしていた。つまり、日本側は、積算方式をあきらめる代わりに支払い総額を引き下げる戦術へと転じたのである。
ジューリックは総額では不充分だとしつつも、日本側の妥協を歓迎した。そして、財政・経済取決の3つの原則を強調した。まず、民政用資産について琉球住民の権利だとする原則は受け入れられないこと。次に、軍事資産の残存価値を評価額に盛り込むこと。さらに、通貨交換は公正に処理され、それにともなって日本が何らかの利益を得ないとする、などであった。
柏木は、福田赳夫蔵相にパッケージとして取決めると報告した。そのパッケージには、まず、水道公社、琉球開発金融公社、電力公社、道路などの買い取り費用として、1億2,500万ドルの直接支払い分。つぎに米政府所有の有価証券買い取りのかたちにし、さらに「色sweetner)」をけて1億ドル。また、社会保障費として2,500万ドル。さらに、基地の移転費(沖縄内外を問わず)として2億ドル。これらの合計4億5000万ドルのほかに、通貨交換後のドルの連邦準備銀行預金として1億ドルなどを含む提案であった。これらとは別途に、琉球銀行関連の民政用資産と石油・油脂背施設(POL)の売却益として、1000万から2000万の幅を見積もっていた。
そして、柏木は、さらに翌25日ジューリックとの非公式会談を重ねて、その後にワシントンで継続する交渉での実質的内容を詰めようと提案した。
両国で受け入れ可能な取引(略)
総計6億9,200万ドルの財政・経済取決要求
11月4日、ワシントンでの検討結果が国務・財務・国防の各省の合同メッセージとして東京の米大使館へ送られてきた。それによると、一括払いの考え方は、共同コミュニケに財政・経済取決を織り込む際に都合がよく、しかも米政府の予算上の節約を得る上でも大切だと強調されていた。そこで、日本側に対し、つぎのような対案を出すよう指示している。民政用・共同使用資産として1億8,500万ドル、社会保障費(沖縄の米軍基地で働く軍雇用員に支払われる)として3,000万ドル、返還にともなう基地の移転(沖縄内及び沖縄外)及び他のコストとして2億ドル、そして通貨交換として1億1,200万ドルなど、合計5億2,700万ドルの財政・経済取決を主張せよという。この金額以外に、米政府は琉球銀行の株式及び石油・油脂施設の売却益として1,500万ドルを得ると述べる。さらに、地位協定にもとづいて軍用地料(第24条第2項)及び労務管理費(第12条第4項)について日本政府が負担するので、5年間の節約分合計が1億5,000万ドルとなり、総額6億9,200万ドルに達する財政・経済取決要求であった。
・・・以下略
米人企業に対する特別措置(略)
共同声明前に合意していた秘密覚書
交渉のもう一つのチャンネルは、11月6日から8日にかけてジューリックと柏木の間で進められていた。そこでは、基地移転費などに2億ドル通貨交換後の預金を含む総額6億9,200万ドルの米側要求を叩き台として交渉が進行した。その結果、総額6億8,500万ドルの取決案が成立した。
その内訳は、民政用・共同使用資産買い取りに1億75,00万ドル、沖縄の基地従業員の社会保障費等に3,000万ドル、基地移転費及びその他の費用に2億ドル、そして通貨交換後の預金に1億1,200万ドル、となった(利益節約分を含む)。合計で5億1,700万ドルとなった。さらに、米民政府所有の琉球銀行の株式と石油・油脂施設売却益に加えて、返還の結果、その後5年間に得るであろう米政府の予算節約分を合計して、1億6,800万ドルが加えられた。
また、日米間で、この合意を確認する手続き作業も併せて話し合われ、11月12日に福田が口頭で了解覚書を読み上げ、佐藤ニクソン会談の数週間後に、書面にて柏木が確認することとされた。
手元に、1969年12月2日付けの文書がある。それは、米政府内で返還作業の過程で作成された文書の参照として折り込まれたようだ。3ページの文書はそれぞれのページの上段と左端の2箇所ずつ、手書きのAJJとYKのイニシャルが記されている。これらは、アンソニー・J・ジューリックとユウスケ・カシワギのイニシャルと判断してよい。
沖縄返還を政権の課題とする佐藤にとって、佐藤ニクソン共同声明以前に財政・経済取決に合意したことを秘密にしたのは「沖縄を買い戻した」という印象を日本国内でもたれないためには、柏木・ジューリック覚書の公表を避けねばならなかった。事実、12月2日に柏木とジューリックがこの覚書に署名している。この覚書の存在は、これまでの沖縄返還交渉の研究でほとんど言及されたことのなかった新しい事実である。
全部で6つの項目、3ページの文書だ。第1項が、民政・共同使用資産の買い取りを扱っている。2ページにわたり、売却対象として移管される資産のリスト、売却方法が記されている。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。