尹錫悦大統領の支持者の集会では、いつも太極旗だけでなく、星条旗が見えます。香港の雨傘運動のデモでも、たびたび星条旗を目にしました。
それは、尹大統領や大統領の支持者が、アメリカの影響下にあることを示しているのではないかと思います。だから、尹大統領の「非情戒厳」宣布の問題は、簡単に解決することはないように思います。アメリカが絡んでいるのではないかと思うからです。
共同通信は、19日、「尹氏の支持者激高、地裁を破壊 ガラス割れ、崩れる外壁」と題して、下記のようなことをつたえました。
”窓ガラスが割れ、建物の外壁が崩れ落ちる音が断続的に響き渡った。韓国の尹錫悦大統領の逮捕状を発付したソウル西部地裁では19日未明(日本時間同)、激高した尹氏の支持者が敷地内に侵入し、破壊行為に及んだ。何者かが噴射した消火器の煙が漂い、地面には粉々になったガラスが散乱した。一帯は不穏な空気に包まれた。”
”地裁の裏門が開け放たれ、なぎ倒された「ソウル西部地裁」の看板に男性が立ち足を踏みならす。「防犯カメラを切った。みんな入ってこい」。誰かが声を上げると、敷地外にいた一部が門からなだれ込んだ。”
”保守系の尹政権と対立する革新陣営を敵視する群衆は、最大野党「共に民主党」の李在明代表を「逮捕しろ」「国籍を剥奪しろ」などと叫んだ。徐々に殺気立つ現場。男性の一人は止めてあった報道陣の車に殴りかかった。居合わせた人を「左派がいるぞ」と指さし小突き回す集団も出た。
韓国メディアによると、逮捕状を発付した裁判官の名前を叫び、どこにいるのか捜す支持者らもいたという。”
こうした尹大統領支持勢力の暴力的な対応は、韓国の民主主義を破壊しても、自らの利益を守ろうとする尹政権の体質のあらわれであり、その源は、戦後の対ソ戦略に基づくアメリカ軍政にあるのではないかと、私は、思います。
だから、「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健(総和社)から、そう考える根拠ともいえる部分を抜萃しました、
戦後、南朝鮮に軍政を敷いたアメリカは、対ソ連の戦略的前線として南朝鮮を位置付け、朝鮮人民にとって怨嗟の的であった日本人官吏などの旧朝鮮総督府体制の温存、既存組織や既存社会体制の継続活用を進めたのです。当時の朝鮮一般市民の感情は、旧植民地時代の痕跡を一掃することであり、朝鮮社会の抜本的改革でした。そして、民族自決原則に基づく独立朝鮮国家の樹立を強くもとめていたのです。
でも、アメリカは当時の朝鮮一般市民の感情を蔑ろにし、対ソ戦略で、旧時代の対日協力者である朝鮮人、いわゆる「民族反逆者」と当時呼ばれていた人物や彼らの組織を復活させ、反共的な親米政権をつくりあげるために利用したのです。以後、アメリカは、尹政権に至るまで、反共親米政権を支援しているのだと思います。
また、第四節の(二)には、
”これは、日本占領統治の遂行にあたって、日本の戦争責任を処断するよりも、米ソ対立状況の戦後世界において、天皇制度を含む日本の既存体制を温存し、それをアメリカ指導下で再編することによって、対日占領統治と以後の極東政策のために活用しようとした戦略傾向と共通するともみられた。”
と、アメリカが、日本に対しても同じような対ソ戦略に基づく政策をとったことに触れています。
それは具体的には、戦犯の公職追放解除や、レッド・パージによって進められたということだと思います。
戦後、アメリカが日本と韓国で進めた対ソ戦略に基づく軍政は、日本や韓国のためではなく、アメリカのためであり、「カイロ宣言」の「同盟国は、自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない」という内容に反すると思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第一章。戦後、米ソ対立と南北体制の起源
第三節 米ソ両軍の南北朝鮮占領
(八)米ソ軍事占領初期政策の相違
だが、これは、解放者としてアメリカ軍を迎えようとしていた南朝鮮市民にとって、まったく予想外の展開として衝撃を与えた。とくに、朝鮮人民にとって怨嗟の的であった日本人官吏などの旧朝鮮総督府体制の温存と、アメリカ軍政での既存組織と既存社会体制の継続活用は実質上外国勢力による朝鮮支配体制の延長であり、また、直接的には、日本敗戦以後も 総督府の日本人官吏が、依然、朝鮮行政の中心となる形の意外なものであった。
また、アメリカ軍の南朝鮮進駐最初の布告とソ連軍の北朝鮮進駐最初の布告を比較してみると、少なくとも、この1945年8月、9月における米ソ両軍の対朝鮮方針の、その内包する精神の落差は大きかったようだ。一方のソ連は、少なくとも表面的には慈愛的な解放者のポーズをとった。だが、もう一方のアメリカは厳罰主義を前面に出して、露骨な戦勝支配者としての軍政統治を表明した。さらに、この1945年夏から秋の米ソ両軍の南北朝鮮分割占領の当初の時点では、アメリカ軍とソウルのアメリカ軍政庁が行った占領支配政策、それも日本人役人・警官の継続雇用等の旧植民地統治機構をそっくり温存しての南朝鮮に対する直接軍政よりも、北朝鮮各道の人民委員会に自治を委ねて、その後方に退いて間接統治をしていたソ連軍の政策のほうが、解放と新時代への変革を求める朝鮮人民の願望に遥かにそったものであったことは、これは間違いなかったとされた。また、ソ連軍は、その軍内に多数の朝鮮系ソ連人を帯同しており、それもソ連の占領軍政を希薄化する効果を果たしたとみられた。
すなわち、ソ連軍は北朝鮮における人民委員会を北朝鮮の自治行政組織として公式に受け入れて活用しようとした。これとは逆に、南朝鮮におけるアメリカ軍政は、対ソ連の戦略的前線として南朝鮮を位置づけ、そこに旧朝鮮総督府などの既存体制を維持利用したまま、直接軍政を施行しようとした。こうして、南朝鮮は「太平洋地域において本格的な軍政が実施された唯一の国」となり、日本占領のために用意されていた軍政班、民政班が南朝鮮に配転されて送り込まれることになった。
だが、このような南朝鮮におけるアメリカ軍政庁の設置と、旧総督府日本人官吏の継続登用、旧植民地時代の朝鮮人官吏の継続登用などの方針は、ほとんどの朝鮮市民に失望と反発の感情を生じさせた。
8月15日の解放以後の一般市民感情の趨勢は、旧植民地時代の痕跡を一掃する朝鮮社会の抜本的改革と旧体制の積悪の清算 民族自決原則に基づく独立朝鮮国家の樹立などをもとめていたのであった。また、その感情とエネルギーは各地の建国準備委員会・地方人民委員会に結集され、その夏から秋の時期では、それらの上部組織である朝鮮人民共和国が事実上の国民政府として全土の隅々まで影響力を持ち始めていた。
しかし、この人民共和国勢力は、アメリカ軍政庁ホッジ中将とその幕僚たちからは左翼勢力、あるいは親ソ的な共産主義革命勢力とみなされていた。そのため、この系統の政治勢力は、ソ連勢力の南下を阻止するために南朝鮮に緊急展開したアメリカ軍の根本方針と、アメリカの国益にそうものではなかった。
したがって、ホッジ中将とその指揮下の軍政班にとっては、南朝鮮占領統治開始にあたって、利用できる現地政治勢力が存在しなかった。そこでカイロ宣言などの国際公約を踏まえながらも、既存の旧朝鮮統治体制(朝鮮総督府)を維持継続させて運用しながら、その間に、朝鮮人に、しい親米的社会体制を育成することにしたとみられた。これは当然に反共反ソ的な性格のものである必要があった。そのため、当時の南朝鮮政情での最大の政治勢力であった人民共和国系や各地方人民委員会と、アメリカ軍政方針との衝突は避けられないことになった。
このような1945年夏が過ぎて秋から冬にかけての数ヶ月の、以後の南北朝鮮の決定的な枠組みが形成される時期に、アメリカ軍の取った戦勝国軍としての占領軍政統治政策、すなわち既存組織(旧朝鮮総督府機構)と人員を流用しての直接軍政方針と、ソ連軍のとった人民共和国・人民委員会の立場と機能を認めて、それに表面的な自治行政の実権を与えての間接統治政策とでは、大きな差異があった。
そして、より後者の方が、解放後の政治の季節での、一般朝鮮市民大衆の感情にそうものであったことは間違いないとされた。この米ソ両軍の分割占領政策における南北朝鮮管理方針の差が、以後の、1945年から46年にかけての、南北の新体制建設と政治的安定におけるポイントとなった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第四節 分割占領下における政情の混乱。
(一) アメリカ軍政の人共否認と韓民党登用
一方、米ソ両軍による38度線を境界とする南北朝鮮分割占領の、その当初の時期での朝鮮政情においては、すでに呂運亨率いる建国準備会とその後身である「朝鮮人民共和国」勢力が事実上の初期国民自治行政組織として、すでに目覚しい活動を展開していた。
すなわち、8月15日以降の朝鮮全土を政治の嵐が吹きつづけた時期に、ほとんどすべての朝鮮大衆がもとめていたのは、過去の植民地時代の社会的不正の是正、旧体制の清算と新しい抜本的な社会改革であり、民族自決の原則にもとづく国民政府の創建であったからであった。その結果、南朝鮮での圧倒的大衆、すなわち圧倒的な比率を占める貧困な無産階級、旧日本統治時代に犠牲を強いられていた多数派は、解放後社会の抜本的改革をもとめて、結果として左派の指導する朝鮮人民共和国、その傘下の地方人民会を支持する形となった。
しかし、このような人民共和国勢力と地方人民委員会の革命的、容共的な性格は、明らかにアメリカ政府の極東政策にそぐわないものであった。また、きわめて強固な反共主義者であるマッカーサー司令部の意向にも反するものであった。さらに、人民共和国勢力の主張する「朝鮮人民共和国」としての自治「政府」としての機能は、ルーズベルト構想にもとづく戦勝四大国による朝鮮への国際信託統治プランと相反する部分もあった。
その結果、南朝鮮占領米軍は、この上級司令部など意図にそって、以後、「朝鮮人民共和国」なる朝鮮人民からの発生した自主的政府機能を否認するとともに、親米的朝鮮政権の養成に進もうとしたとみられた。こうして、南朝鮮を占領したアメリカ軍政の方針が、この系統の左派的な革命勢力より、既存の旧統治体制、すなわち旧植民地統治機構である朝鮮総督府組織維持利用にあることが、明確になって来る情勢となった。それは、旧時代における日本人総督官吏・警官をも継続利用する方向のものであった。また、旧時代においての対日協力者である朝鮮人、いわゆる民族反逆者と当時呼ばれていた人物集団、階級をも吸収しながら、反共的な親米政権をつくりあげるために利用するものとの印象を一般に与えたような方向の政策であった。
(二) 派遣米軍の長期的占領政策の欠如 ・・・ 略
(三) アメリカ反共軍政の開始
そこで、ソウルに設置されたアメリカ軍政庁は、南朝鮮諸政党を軍政の便宜のために活用するに当たって、当然のごとく左派の、彼等から見てソ連勢力指導下にあると認識されていた呂運亨指導下の朝鮮人民共和国系を排除しようとした。逆に、右派の保守系であり、旧体制・既存体制の受益者でもある宗鎮禹、金性洙などの韓国民主党勢力を、左派への対抗勢力として育成、活用としようとした。
これは、日本占領統治の遂行にあたって、日本の戦争責任を処断するよりも、米ソ対立状況の戦後世界において、天皇制度を含む日本の既存体制を温存し、それをアメリカ指導下で再編することによって、対日占領統治と以後の極東政策のために活用しようとした戦略傾向と共通するともみられた。そのようなアメリカ極東政策の南朝鮮における結果として、解放直後の一時期逼迫していた旧植民地時代の対日協力者、買弁資本家、植民地官吏、職員、警官などが以後のアメリカ軍政時代において、結果として。保護温存されて、行政の全面に返り咲き、解放後社会において新受益層・権力者集団として復活して行くことになった。
・・・以下略