真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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韓国、深刻な与野党対立の源

2025年01月19日 | 国際・政治

 尹錫悦大統領の支持者の集会では、いつも太極旗だけでなく、星条旗が見えます。香港の雨傘運動のデモでも、たびたび星条旗を目にしました。

 それは、尹大統領や大統領の支持者が、アメリカの影響下にあることを示しているのではないかと思います。だから、尹大統領の「非情戒厳」宣布の問題は、簡単に解決することはないように思います。アメリカが絡んでいるのではないかと思うからです。

 

 共同通信は、19日、「尹氏の支持者激高、地裁を破壊 ガラス割れ、崩れる外壁」と題して、下記のようなことをつたえました。

窓ガラスが割れ、建物の外壁が崩れ落ちる音が断続的に響き渡った。韓国の尹錫悦大統領の逮捕状を発付したソウル西部地裁では19日未明(日本時間同)、激高した尹氏の支持者が敷地内に侵入し、破壊行為に及んだ。何者かが噴射した消火器の煙が漂い、地面には粉々になったガラスが散乱した。一帯は不穏な空気に包まれた。

地裁の裏門が開け放たれ、なぎ倒された「ソウル西部地裁」の看板に男性が立ち足を踏みならす。「防犯カメラを切った。みんな入ってこい」。誰かが声を上げると、敷地外にいた一部が門からなだれ込んだ。

”保守系の尹政権と対立する革新陣営を敵視する群衆は、最大野党「共に民主党」の李在明代表を「逮捕しろ」「国籍を剥奪しろ」などと叫んだ。徐々に殺気立つ現場。男性の一人は止めてあった報道陣の車に殴りかかった。居合わせた人を「左派がいるぞ」と指さし小突き回す集団も出た。

 韓国メディアによると、逮捕状を発付した裁判官の名前を叫び、どこにいるのか捜す支持者らもいたという。”

 

 こうした尹大統領支持勢力の暴力的な対応は、韓国の民主主義を破壊しても、自らの利益を守ろうとする尹政権の体質のあらわれであり、その源は、戦後の対ソ戦略に基づくアメリカ軍政にあるのではないかと、私は、思います。

 だから、「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健(総和社)から、そう考える根拠ともいえる部分を抜萃しました、

 戦後、南朝鮮に軍政を敷いたアメリカは、対ソ連の戦略的前線として南朝鮮を位置付け、朝鮮人民にとって怨嗟の的であった日本人官吏などの旧朝鮮総督府体制の温存、既存組織や既存社会体制の継続活用を進めたのです。当時の朝鮮一般市民の感情は、旧植民地時代の痕跡を一掃することであり、朝鮮社会の抜本的改革でした。そして、民族自決原則に基づく独立朝鮮国家の樹立を強くもとめていたのです。

 でも、アメリカは当時の朝鮮一般市民の感情を蔑ろにし、対ソ戦略で、旧時代の対日協力者である朝鮮人、いわゆる「民族反逆者」と当時呼ばれていた人物や彼らの組織を復活させ、反共的な親米政権をつくりあげるために利用したのです。以後、アメリカは、尹政権に至るまで、反共親米政権を支援しているのだと思います。

 また、第四節の(二)には、

これは、日本占領統治の遂行にあたって、日本の戦争責任を処断するよりも、米ソ対立状況の戦後世界において、天皇制度を含む日本の既存体制を温存し、それをアメリカ指導下で再編することによって、対日占領統治と以後の極東政策のために活用しようとした戦略傾向と共通するともみられた。”

 と、アメリカが、日本に対しても同じような対ソ戦略に基づく政策をとったことに触れています。

 それは具体的には、戦犯の公職追放解除や、レッド・パージによって進められたということだと思います。

 戦後、アメリカが日本と韓国で進めた対ソ戦略に基づく軍政は、日本や韓国のためではなく、アメリカのためであり、「カイロ宣言」の「同盟国は、自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない」という内容に反すると思います。

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                 第一章。戦後、米ソ対立と南北体制の起源

                   第三節 米ソ両軍の南北朝鮮占領

 (八)米ソ軍事占領初期政策の相違

 だが、これは、解放者としてアメリカ軍を迎えようとしていた南朝鮮市民にとって、まったく予想外の展開として衝撃を与えた。とくに、朝鮮人民にとって怨嗟の的であった日本人官吏などの旧朝鮮総督府体制の温存と、アメリカ軍政での既存組織と既存社会体制の継続活用は実質上外国勢力による朝鮮支配体制の延長であり、また、直接的には、日本敗戦以後も 総督府の日本人官吏が、依然、朝鮮行政の中心となる形の意外なものであった。

 また、アメリカ軍の南朝鮮進駐最初の布告とソ連軍の北朝鮮進駐最初の布告を比較してみると、少なくとも、この19458月、9月における米ソ両軍の対朝鮮方針の、その内包する精神の落差は大きかったようだ。一方のソ連は、少なくとも表面的には慈愛的な解放者のポーズをとった。だが、もう一方のアメリカは厳罰主義を前面に出して、露骨な戦勝支配者としての軍政統治を表明した。さらに、この1945年夏から秋の米ソ両軍の南北朝鮮分割占領の当初の時点では、アメリカ軍とソウルのアメリカ軍政庁が行った占領支配政策、それも日本人役人・警官の継続雇用等の旧植民地統治機構をそっくり温存しての南朝鮮に対する直接軍政よりも、北朝鮮各道の人民委員会に自治を委ねて、その後方に退いて間接統治をしていたソ連軍の政策のほうが、解放と新時代への変革を求める朝鮮人民の願望に遥かにそったものであったことは、これは間違いなかったとされた。また、ソ連軍は、その軍内に多数の朝鮮系ソ連人を帯同しており、それもソ連の占領軍政を希薄化する効果を果たしたとみられた。

 

 すなわち、ソ連軍は北朝鮮における人民委員会を北朝鮮の自治行政組織として公式に受け入れて活用しようとした。これとは逆に、南朝鮮におけるアメリカ軍政は、対ソ連の戦略的前線として南朝鮮を位置づけ、そこに旧朝鮮総督府などの既存体制を維持利用したまま、直接軍政を施行しようとした。こうして、南朝鮮は「太平洋地域において本格的な軍政が実施された唯一の国」となり、日本占領のために用意されていた軍政班、民政班が南朝鮮に配転されて送り込まれることになった。

 

 だが、このような南朝鮮におけるアメリカ軍政庁の設置と、旧総督府日本人官吏の継続登用、旧植民地時代の朝鮮人官吏の継続登用などの方針は、ほとんどの朝鮮市民に失望と反発の感情を生じさせた。

 815日の解放以後の一般市民感情の趨勢は、旧植民地時代の痕跡を一掃する朝鮮社会の抜本的改革と旧体制の積悪の清算 民族自決原則に基づく独立朝鮮国家の樹立などをもとめていたのであった。また、その感情とエネルギーは各地の建国準備委員会・地方人民委員会に結集され、その夏から秋の時期では、それらの上部組織である朝鮮人民共和国が事実上の国民政府として全土の隅々まで影響力を持ち始めていた。

 しかし、この人民共和国勢力は、アメリカ軍政庁ホッジ中将とその幕僚たちからは左翼勢力、あるいは親ソ的な共産主義革命勢力とみなされていた。そのため、この系統の政治勢力は、ソ連勢力の南下を阻止するために南朝鮮に緊急展開したアメリカ軍の根本方針と、アメリカの国益にそうものではなかった。

 したがって、ホッジ中将とその指揮下の軍政班にとっては、南朝鮮占領統治開始にあたって、利用できる現地政治勢力が存在しなかった。そこでカイロ宣言などの国際公約を踏まえながらも、既存の旧朝鮮統治体制(朝鮮総督府)を維持継続させて運用しながら、その間に、朝鮮人に、しい親米的社会体制を育成することにしたとみられた。これは当然に反共反ソ的な性格のものである必要があった。そのため、当時の南朝鮮政情での最大の政治勢力であった人民共和国系や各地方人民委員会と、アメリカ軍政方針との衝突は避けられないことになった。

 このような1945年夏が過ぎて秋から冬にかけての数ヶ月の、以後の南北朝鮮の決定的な枠組みが形成される時期に、アメリカ軍の取った戦勝国軍としての占領軍政統治政策、すなわち既存組織(旧朝鮮総督府機構)と人員を流用しての直接軍政方針と、ソ連軍のとった人民共和国・人民委員会の立場と機能を認めて、それに表面的な自治行政の実権を与えての間接統治政策とでは、大きな差異があった。

 そして、より後者の方が、解放後の政治の季節での、一般朝鮮市民大衆の感情にそうものであったことは間違いないとされた。この米ソ両軍の分割占領政策における南北朝鮮管理方針の差が、以後の、1945年から46年にかけての、南北の新体制建設と政治的安定におけるポイントとなった。

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                     第四節 分割占領下における政情の混乱。

 (一) アメリカ軍政の人共否認と韓民党登用

 一方、米ソ両軍による38度線を境界とする南北朝鮮分割占領の、その当初の時期での朝鮮政情においては、すでに呂運亨率いる建国準備会とその後身である「朝鮮人民共和国」勢力が事実上の初期国民自治行政組織として、すでに目覚しい活動を展開していた。

 すなわち、815日以降の朝鮮全土を政治の嵐が吹きつづけた時期に、ほとんどすべての朝鮮大衆がもとめていたのは、過去の植民地時代の社会的不正の是正、旧体制の清算と新しい抜本的な社会改革であり、民族自決の原則にもとづく国民政府の創建であったからであった。その結果、南朝鮮での圧倒的大衆、すなわち圧倒的な比率を占める貧困な無産階級、旧日本統治時代に犠牲を強いられていた多数派は、解放後社会の抜本的改革をもとめて、結果として左派の指導する朝鮮人民共和国、その傘下の地方人民会を支持する形となった。

 しかし、このような人民共和国勢力と地方人民委員会の革命的、容共的な性格は、明らかにアメリカ政府の極東政策にそぐわないものであった。また、きわめて強固な反共主義者であるマッカーサー司令部の意向にも反するものであった。さらに、人民共和国勢力の主張する「朝鮮人民共和国」としての自治「政府」としての機能は、ルーズベルト構想にもとづく戦勝四大国による朝鮮への国際信託統治プランと相反する部分もあった。

 その結果、南朝鮮占領米軍は、この上級司令部など意図にそって、以後、「朝鮮人民共和国」なる朝鮮人民からの発生した自主的政府機能を否認するとともに、親米的朝鮮政権の養成に進もうとしたとみられた。こうして、南朝鮮を占領したアメリカ軍政の方針が、この系統の左派的な革命勢力より、既存の旧統治体制、すなわち旧植民地統治機構である朝鮮総督府組織維持利用にあることが、明確になって来る情勢となった。それは、旧時代における日本人総督官吏・警官をも継続利用する方向のものであった。また、旧時代においての対日協力者である朝鮮人、いわゆる民族反逆者と当時呼ばれていた人物集団、階級をも吸収しながら、反共的な親米政権をつくりあげるために利用するものとの印象を一般に与えたような方向の政策であった。

 

  (二) 派遣米軍の長期的占領政策の欠如 ・・・ 略

  (三) アメリカ反共軍政の開始

 そこで、ソウルに設置されたアメリカ軍政庁は、南朝鮮諸政党を軍政の便宜のために活用するに当たって、当然のごとく左派の、彼等から見てソ連勢力指導下にあると認識されていた呂運亨指導下の朝鮮人民共和国系を排除しようとした。逆に、右派の保守系であり、旧体制・既存体制の受益者でもある宗鎮禹、金性洙などの韓国民主党勢力を、左派への対抗勢力として育成、活用としようとした。 

 これは、日本占領統治の遂行にあたって、日本の戦争責任を処断するよりも、米ソ対立状況の戦後世界において、天皇制度を含む日本の既存体制を温存し、それをアメリカ指導下で再編することによって、対日占領統治と以後の極東政策のために活用しようとした戦略傾向と共通するともみられた。そのようなアメリカ極東政策の南朝鮮における結果として、解放直後の一時期逼迫していた旧植民地時代の対日協力者、買弁資本家、植民地官吏、職員、警官などが以後のアメリカ軍政時代において、結果として。保護温存されて、行政の全面に返り咲き、解放後社会において新受益層・権力者集団として復活して行くことになった。

 ・・・以下略

 

 

 

 

 

 

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尹錫悦大統領は自ら「出頭」したのか?

2025年01月17日 | 国際・政治

 混乱が続く韓国で、とうとう尹錫悦大統領は、官邸で捜査官に捕らえられて高位公職者犯罪捜査処(公捜処)に護送されました。

 でも、尹大統領は、大統領室と弁護団が公開した映像では、「望ましくない流血事態を防ぐため、ひとまず違法捜査ではあるものの、公捜処の出頭(要求)に応じることにした」と述べています。「出頭」したのではなく、官邸に入った捜査官に捕らえらにもかかわらず、「出頭」という言葉を使っています。公捜処の捜査員は、大型車によるバリケードや鉄条網などをはしごを使って乗り越え、公邸に入って拘束令状を執行したのです。「出頭」というのは、自ら出向くことだと思います。

 韓国が収拾できない混乱状態にあったわけでもないのに、「非常戒厳」を宣布し、権力を行使したのみならず、「出頭」することを拒否していたのに、拘束されたら「流血事態を防ぐため、公捜処の出頭(要求)に応じることにした」などと誤魔化す尹大統領を日本は高く評価し、「関係改善」とやらを進めていたこと、私は、きちんと反省する必要があると思います。

 野党が自らの政策を受け入れないからといって「非常戒厳」を宣布するのは、相手が言うことを聞かないからということで暴力を振るうのとかわらないと思います。

 

 裁判所が発付した逮捕状の執行については「銃器を用いてでも防げ」と指示していたという話もあるようですが、「出頭」という言葉遣いにも、尹大統領や、彼を支える側近・支持者などの非民主的な姿勢が読みとれるのではないかと思います。

 また、公捜処の出頭通知に応じなかったために、逮捕状が発付され、官邸に入った捜査官に捕らえられた事実を、日本のメディアも正しく伝える必要があると思います。

 

 また、見逃せないのは、こうした混乱状態が続く韓国を、岩屋外務大臣が訪れ、趙兌烈(チョ・ヨテル)外相と会談していることです。

 日本では、

 岩屋外務大臣とチョ外相は会談のあと、共同記者会見に臨んだということで次のようなことを伝えられています。

岩屋外務大臣は「日韓関係の重要性は変わらないどころか増してきている。日韓関係の改善の基調を維持・発展させるべく、引き続き、外相間でも緊密に意思疎通をしていきたい。状況が許せば、首脳間のシャトル外交もぜひ復活させていきたい」と述べました。

 また、アメリカのトランプ次期政権との連携について「諸般の事情が許せば、トランプ大統領の就任式に出席する方向で調整しており、その際に日韓米の戦略的連携がこれまでになく重要だということを、アメリカの新政権側にしっかりと伝えてきたい。これはチョ外相とも認識をしっかり一致させた」と述べました。

 

 また、岩屋外相は、韓国国会の禹元植(ウ・ウォンシク)議長とも面会し

日本と韓国は価値や原則を共有するパートナーで、国際社会のさまざまな課題にともに協力していける関係だ。現在の韓国国内の状況は重大な関心を持って注視しているが、私は韓国の民主主義の強じん性を信頼している

 と述べたといいます。

 さらに、岩屋大臣は14日には、大統領の職務を代行する崔相穆(チェ・サンモク)副首相兼企画財政相との面会もするというのです。

 

 また、「ソウル聯合ニュース」は

韓国国防部は15日、チョ・チャンレ国防政策室長が同日、北大西洋条約機構(NATO)のルーゲ事務総長補と面会したと発表した。

 両氏は北朝鮮とロシアによる実質上の軍事同盟・包括的戦略パートナーシップ条約の批准やウクライナに侵攻するロシアを支援するための北朝鮮軍派遣などの違法な軍事協力が朝鮮半島と欧州の安全保障に及ぼす否定的影響に深刻な憂慮を表明し、即時中止を求めた。

 また、韓国とNATO間の安保・国防協力の重要性を再確認し、「国別適合パートナーシップ計画(ITPP)」の国防分野履行のために努力することで一致した。

 ITPPは協議体の運営、サイバー防衛、軍備管理と不拡散、相互運用性、対テロ協力、気候変動と安保、新興技術、女性と平和など11分野における韓国とNATO間の協力の枠組みを規定した文書だ。

 チョ氏は韓国とNATOが防衛産業分野で協力を拡大できるよう、関心と協力を呼びかけた。”

 と伝えています。

 混乱さなかの韓国、尹政権高官に対するこうした西側諸国の要人の接触は、表向きの内容とは別に、尹政権支援のありかたを詰める意図があるのではないかと疑います。

 

 偶然か、意図的かはわかりませんが、朝日新聞15日、”根深い「女嫌」、見えた韓国社会の溝、「非常戒厳」と抗議 ジェンダーの視点で読み解く”と題する崔誠姫・大阪産業大准教授の記事を掲載しました。そこには

植民地期からの影響」ということで下記のように記されていました。

「女嫌」の背後にある軍隊文化、男尊女卑には、日本植民地からの影響も読み取れる。

 45年に大日本帝国が解体した後成立した韓国では、急ごしらえで軍隊を整える必要があった。朝鮮戦争では、旧満州国軍出身の朴正煕(パク・チョンヒ)ら、旧日本軍にルーツを持つ若手軍人が軍の主力として活躍し、朴が率いた軍事政権では国家の中枢を担った。教育でも植民地期の教員経験者が多く採用され、戦時下を背景に植民地期の制度が引き継がれることが黙認された。軍政下の学校では植民地期を思わせる軍事教練も行われた。今も多くある男子校や女子校は、植民地期の男女別学制度の名残りでもある。

 

 また、”にじいろの議”という欄に、”非常戒厳招いた韓国の権威主義、支えた思想 日本に源流” と題する郭旻錫・京都大学大学院講師の記事も掲載されていたのです。そこには、次のようにありました。

今回の戒厳が戦後韓国の権威主義的な政治体制の遺産であることは間違いない。この点からも戦後民主主義を謳歌してきた日本と明らかに違う。しかし、韓国の権威主義を象徴している朴正煕元大統領(191779)が帝国日本の体制下で満州国陸軍軍官学校を首席で卒業し、関東軍の将校として務めた歴史的な事実を想起すると、ただのひとごとではなくなる。しかも朴正煕が独裁色を強めた政権後期の「維新体制」を思想面から支えようとした哲学者朴鍾鴻(パク・チョンホン:190876)が、戦前日本哲学の有力な潮流だった京都学派にその根を持っていたとすればどうか。”

 

 いずれも、今回の尹大統領の「非常戒厳」宣布の背景に、植民地期の日本の影響があることを指摘しているのです。

 でも私は、その日本の影響の具体的な経緯や歴史が、そういうこと以上に重要だと思います。

 なぜ、日本の植民地期の制度が、民主化される筈だった戦後の韓国に引き継がれたのか、ということがこそが重要であり、そこに焦点を合わせなければ、問題は克服できないのではないかと思います。

 尹錫悦大統領は暴力的に「非常戒厳」を宣布し、権力を行使したのみならず、「出頭」することを拒否して、法の支配に背きました。

 また、先だって日本では、岸田首相が、突然、浜田防衛相と鈴木財務相に対し、来年度から5年間の防衛費の総額について、およそ43兆円を確保するよう指示しました(その後、バイデン米大統領は、ABCテレビのインタビューで、自身の功績として「日本に予算を増額させた」と述べました)。

 この防衛費増額の指示は、国会はもちろん、閣議でも議論されていない独裁的決定でした。自衛隊からの要求さえなかったのです。でも、メディアが追及したのは、財源の問題であり、手続きの問題ではありませんでした。それが常々、中国やロシアに対しては、「法の支配」や「民主主義」を要求する日本の実態です。

 こうした韓国や日本の「法の支配」や「民主主義」に反する政治は、戦後、アメリカが韓国や日本に軍政を敷き、反共政権を誕生させたことに端を発するのだと思います。それが、現在もなお続いているのだと思います。

 以前取り上げたことがありますが、朝鮮半島の38度線がいつどのように、なぜ設けられたのか、また、すでに建国委員会が建国を宣言していた「朝鮮人民共和国」が、まったく支援されることなく潰され、38度線を国境とするようなかたちで、韓国が独立したのはなぜなのか、というようなことを調べれば、それが、アメリカの対ソ戦略からきていることがわかると思います。

 言ってしまえば、韓国や日本におけるアメリカの軍政は、韓国や日本の民主化のためではなく、実は、アメリカの対ソ戦略に基づき、反共右翼政権を育てることにあったということだと思います。

 

 

 

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搾取・収奪による格差拡大がもたらす悲劇

2025年01月13日 | 国際・政治

 下記は、再び「ルポ 資源大陸アフリカ 暴力は結ぶ貧困と繁栄」白戸圭一(朝日文庫)から、「終章 命の価値を問う ~南アフリカの病院から~」の一部を抜萃しました。南アの「経済格差」が、医療現場における深刻な差別につながっているという現実がよくわかると思います。

 問題は、同じ人間なのに、なぜ、こんな差別・選別が行われているのか、ということだと思います。

 前回取り上げた白戸氏の、”私の心には、常に一つの問題が影を落としていた。”という言葉も、”経済成長と異様な格差の拡大が進行する南ア” は、今のままではいけないのではないかということだと思います。

 そして、私はそれが搾取や収奪を伴う資本の論理の必然的な帰結である側面を見逃してはならないと思います。

 

 21世紀の資本』 で知られる トマ・ピケティは、国際社会は富の再分配や資本への課税など、制度的な改革が必要であると主張しています。真剣に受け止めるべきだと思います。

 バブル経済崩壊後、日本経済は長期のデフレに陥り、企業はコスト削減のため、賃上げを抑制し続けました。また、非正規労働者を増やしました。だから、実質賃金はずっと減少傾向にあります。でも最近の日本は、企業の収益が向上し、内部留保が増加しているにもかかわらず、なお実質賃金の低下が続いています。それを乗り越える改革はなされていません。だから、富の集中や格差の拡大が、不平等拡大につながり、南アのように差別や選別などの道徳的頽廃をもたらして、さまざまな問題を生みだしていくと思います。

 搾取や収奪を放置せず、富を分け合う制度をしっかり確立しないと人間性は失われていくように思うのです。奪い合ってばかりでは、戦争もさけられないと思います。

 だから、高所得者や大企業への累進課税の強化、不動産や金融資産などに対する財産税の導入などを制度化し、富の極端な集中を止め、格差の解消ができるかどうか、人類は問われていると思います。

 富の偏在や極端な格差は、資本家や経営者の人間性も蝕み、社会不安が深刻化する原因にもなると思います。イスラエルの戦争犯罪やイスラエルを擁護するアメリカの政治姿勢、また、南アの格差は、そうした資本主義の矛盾と無縁ではないと思うのです。

 だから、富の集中を止め、格差を解消する制度改革が国際的レベルできなけれれば、ふたたび戦争への道を歩むことにもなるように思います。

 労働者は賃金に注目し、資本家や経営者は剰余価値に注目するのは、資本の論理の当然の帰結ですが、最近の日本では、資本家や経営者が労組を抑え込み、労働者の組織も自らの影響下に置くようになっているように思います。内部留保にさえ課税できず、労組が資本家や経営者の手先として働くようでは、富の集中が一層進み、格差がさらに拡大し、南アやガザにおけるような不道徳がまかり通ってしまうことになると思います。

French economist Thomas Piketty caused a sensation in early 2014 with his book on a simple, brutal formula explaining economic inequality: r is greater than g (meaning that return on capital is generally higher than economic growth). Here, he talks through the massive data set that led him to conclude: Economic inequality is not new, but it is getting worse, with radical possible impacts. "

フランスの経済学者トマ・ピケティは、2014年初頭に、経済の不平等を説明する単純で残酷な公式に関する著書でセンセーションを巻き起こしました:rgより大きい(つまり、資本利益率は一般的に経済成長よりも高いことを意味します)。ここでは、彼は「経済的不平等は新しいものではなく、深刻化しており、根本的な影響をもたらしている」という結論に至った膨大なデータセットを通じて語っています。(機械翻訳)。

 

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                 終章 命の価値を問う ~南アフリカの病院から~

 

 四年に及んだヨハネスブルグの暮しの間、我が家にはずっと住み込みのメイドがいた。黒人の女性で名前をリリアン・モガレという。私が着任した2004年に55歳を迎えた彼女は、16歳のときからいくつかの白人家庭でメイドとして働いてきたメイド歴40年の大ベテランだった。アバルトヘイトが終わった今でも南アの白人家庭や我々外国人の家ではメイドを雇用することが普通で、私は前任の特派員から彼女を引き継いだ。

 サラリーマン記者の家に「メイドがいる」などと書くと、日本では贅沢だと批判を浴びそうだが、解雇すれば困るのは私の方ではなく彼女の方だという問題があった。南アの失業率は常時40%前後の高率で推移しており、道端でタバコなどを売るインフォーマルセクターの労働者を「雇用あり」とみなした場合でも25%前後に達していた。十代前半までの教育しか受けてない50歳を超えた彼女が一度職を失ったら再雇用は絶望的だろう。

 リリアンは我が家の片隅にある台所、トイレ、風呂を備えたメイド用の部屋で暮らしており、毎月最後の週末にヨハネスブルグの西約300キロのメフケンという町の弟一家が住む実家へ帰省していた。彼女には4人の子供がおり、その内の一人は不幸にも殺人事件の被害者となって他界していた。他の3人の子供はいずれも成人していた。その中にグラッドネス(29歳)という娘がおり、ヨハネスブルグ近郊の旧黒人居住地区ディーエップに建つ8畳一間ほどのバラック小屋で娘のタバン(6歳)と暮らしていた。リリアンは普段の週末はグラッドネス宅へ顔を出し、気分転換しているようだった。

 私の南アの暮らしが始まったばかりの20045月のことだった。夕食の皿洗いを終えたリリアンが「クラッドネスの具合が悪いので様子を見にいきたい」と言った。ディーエップスルートまで乗り合いタクシーを乗り継いで行くので片道一時間半はかかる。

 メイドが個人的な窮状を訴えたからといって、いちいち取り合わないのが南アの白人家庭の一般的な対処法である。普通なら「行っておいで」と送り出すだけだろうが、南アに着任して間もない私はリリアンに同行して夜の旧黒人居住区の様子を見てみたくなった。治安の悪い黒人居住区に非黒人の私が夜間出向くのは危険だったが、リリアンを車の乗せてディーエップスルートへ向かった。夜のヨハネスブルグの道は交通量が少なく、幅の広い直接道路を時速100キロで前後で走ることができる。北西に30分ほど走ると人家が途絶え、さらに草原の真っ暗な一本道を5分ほど走ると左手の平原にディーエップスルートの明かりが見えてきた。

 アパルトヘイト時代に造られた旧黒人居住区は、街全体が緑に覆われた白人の居住地域とは対照的に、砂埃の立つ乾燥した荒れ地にある。

 ほとんどが街の中心から離れた場所に立地しており、街と居住区を結ぶ道路は大抵、一本しかない。アパルトヘイトという単語はオランダ語系白人の言葉アフリカーンス語で「隔離」という意味なのだが、あの悪名高い人種差別政策が文字通り黒人を「隔離」して搾取するものだった事を実感する。平原のただ中にマッチ箱のような小さな民家が立ち並ぶ光景は、アパルトヘイト時代を今に伝える象徴的な光景である。

 グラッドネスが住むトタン造りの小屋に着くと、彼女は薄暗い裸電球の下のベッドで唸り声をあげていた。のぞき込むと、顔全体が試合に負けたボクサーのように腫れ上がっている。瞼の腫れで目を開けることができないほどだ。「夕方仕事を終えて家に帰ったら急に気分が悪くなって顔が腫れ上がり、熱も40度くらいありそうだ」と言う。

 グラッドネスは「公立の診療所は閉まっている。朝まで我慢する」と言ってきかない。車でヨハネスブルグまで戻れば、我々在留邦人が利用する私立の総合病院サントンクリニックがある。私が「朝までに、もしものことがあったらどうするんだ。サントンクリニックへ連れて行ってやる」と言うと、今度はリリアンが「そんな金を誰が払うんですか」と肩をすくめた。6歳の一人娘タバンが目に涙を浮かべながら大人たちのやり取りを聞いている。

 南アには日本のような国民皆保険制度はない。正確に調べ上げたわけではないので断定はできないが、サハラ砂漠以南のアフリカに皆保険制度の国があるとは到底思えない。保健の恩恵に与るためには、自分で民間の保険会社に毎月保険料を払わなければならない。低所得者層は保険料を払う余裕がなく、南ア保健省の統計では、総人口(約4800万人)のおよそ7割にあたる3300万人が無保険状態という。こうして少数派の中間層以上の国民は医療水準の高い私立病院へ、多数を占める低所得者層は無料診療が原則の公立病院へという一種のすみ分けができていた。

 

 リリアンの月給は、前特派員の時には1300ランド(約23千円)。ヨハネスブルグで働くメイドの平均的な金額だったが、私はこれを月給2000ランド(約36千円)にまで引き上げた。南アのメイドとしては誰が聞いても驚く最高水準だが、彼女が南アにおける典型的な低所得者であることは変わりなかった。白人が経営する文房具店の店員だったグラッドネスの月給は3000ランド(約54000円)。都市部の黒人労働者階層の平均的な金額だが、こちらも低所得者であることに変わりはない。

 当然ながら、そんな2人が保険に加入しているはずがない。私立病院のサントンクリニック行けば治療の内容によっては月給の何倍もの金を請求される可能性があり、リリアンが肩をすくめるのも無理はなかった。

 風船のように腫れた顔を見かねた私はグラッドネスとリリアンを車に押し込み、サントンクリニックへ向かった。夜間の急患窓口では10人ほどが診察を待っていたが、私たち以外は全員白人だった。私立病院ではまず、診療申込書の「支払い責任者」の欄に署名しなければならない。高額の出費が予想される時には、前金で支払いを要求され、私がマラリアで入院した際は入院前に日本円にして20万円ほどを前金で支払った。診療後や退院時に金を払えずトラブルになるのを防ぐためで、逆に言えばそれだけ払えない人が多いということでもある。

 この日は私が支払い責任者となり、実際に全額を支払った。医師によるとグラッドネスの顔の腫れと高熱は、埃に混じって吸入した何かよって生じた急性アレルギーショックの疑いがあるとのことだった。注射してショック状態を鎮め、一晩入院することになった。

 支払いは400ランド(約7000円)だった。思いのほか低料金だった、と言いたいところだが。それは私にとっての話だ。400ラッドはグラッドネスの月給のおよそ七分の一、リリアンの月給の五分の一に相当する。ちなみに、この年の4月に発表された国連の推計では、南アの総人口の48.5%は毎月350ランド(約6300円)の所得で暮らしていた。国民の半分は、一か月の所得がこの日の診療代にも満たないのだ。

 グラッドネスのアレルギー騒ぎ以来、私は黒人低所得者が頼りする南アの公立病院の実態に関心を持った。我々在留邦人は「病気になっても怪我をしても、必ず私立病院に行くように」と前任者などから助言されてはいるが、公立病院の内情を知ってる人となると実はほとんどいない。そこで他の仕事の合間を縫って取材しようと考えていたところ、思いがけないことでその実態を垣間見ることになった。きっかけは、今度リリアンの親族であった。

 アレルギー騒動から三か月後の8月末のことだった。リリアが険しい顔をしているので声をかけると、「入院中の姪の具合が悪いので見舞いに行きたい」と言う。ヨハネスブルグ市内のヘレン・ジョセフ公立病院に、ヘリエットという名の32歳の姪が交通事故による怪我で入院しているという。

 公立病院の内情に興味を抱いていた私はリリアンを車に乗せて病院へ向かった。車中でリリアンに聞いたところによると、ヘリエットはヨハネスブルグの南西側に位置する南ア最大の旧黒人居住区ソウェトに14歳の娘と2人で暮らしていたという。「高等専門学校を卒業して、そこそこ大きな会社で働いていた」というから、低所得者ばかりのリリアンの親族の中ではやや例外的な存在だ。

 超格差社会の南アでは、学歴と職種による給与の差が日本と比較にならないほど大きい。メイドや工場現場の作業員は月収千数百ランドもらえれば御の字だ。スーパーマーケットの店員が3000ランド(約54千円)を超えることはまずない。一方、例えばトヨタのような自動車会社の工場の製造ラインで働く労働者の場合職種や経験によって違いはあがるが、6000ランド(約108千円)から1万ランド(約18万円)ぐらいの人が多いようだ。これが大企業に就職した大卒者になると、月給1万ランド前後からスタートし、四十代では日本の大企業に勤める大卒サラリーマンとほぼ同じ給与水準に達する。

 ヘリエットは黒人女性では珍しく自家用車を運転していたので、1万ランド近い月収があったのではないだろうか。高度成長期の日本で自動車、クーラー、カラーテレビの「3C」が庶民の憧れだったように、経済成長著しい南アの新黒人中間層もローンを組んではこぞってマイカーを購入し始めていた。国内自動車販売台数はうなぎ上りで、2004年の年間約48万台は06年には70万台を超えるまでになった。新車購入者の四分の一、中古車購入者の約4割が黒人だという統計を見たこともあった。

 だが、現在は年間6000台まで下がった日本の年間交通事故死者数が高度成長期には15000人を超えていたように、急激な自動車社会の到来は往々にして莫大な犠牲を伴う。歩道の未整備、歩行者保護やシートベルト着用などの安全意識が未熟なこと、事故の際の救命体制の整備が追いつかないことなどが相俟って、南アの2005年の交通事故死者は14,316人に達した。人口十万人当たりの死亡率30.5人は統計が存在する世界の44カ国でワーストワンである。

 ヘリエットは7月下旬、ヨハネスブルグ市内の幹線道路で購入したばかりのマイカーを運転中に正面衝突し、シートベルトを締めてなかったためにフロントガラスで頭部を強打していた。

 この時、彼女が医療保険に加入していなかったことが運命の分かれ目になったと言えるかもしれない。保険に加入していることが何らかの方法で確認されれば、救急車は保険会社と提携している近くの私立病院へ自動的に向かう。だが、現場に到着した救急車は公立病院へ向かった。発送先では頭部のレントゲン写真が撮影され、医師は「異常なし」と判断。なんと彼女を帰宅させた。交通事故で頭部を強打している状態でCTスキャンによる検査もしないなど、日本の読者には信じられない話かもしれない。だが、これが南アの公立病院の実態であった。

 帰宅後、ヘリエットは吐き気と目眩(メマイ)を訴えて床に倒れ、今度は自宅から比較的近いヘレン・ジョセフ病院(公立)へ救急搬送された。病院の検査についての知識を持たないリリアンは、ヘリエットがどのような検査を受けたのか正確には知らないが、親族の話を総合すると、彼女はここで初めてCTスキャンの検査を受けたようだ。検査の結果、脳に重大な損傷があることが判明し、緊急手術が行われたが、状態は悪化の一途で危険な状態に陥った。

 私とリリアンが病院に着いたのは夕方6時頃だった。冬の南アは日暮れ早く、外はすでに真っ暗だ。レンガ造りの古い病棟は、昭和2030年代の建物のようだった。先に到着していた親族の案内で薄暗い廊下を歩いて行くと、短い蛍光灯が一本あるだけの暗い病室のベッドにヘリエットが横たわっていた。酸素吸入器をつけ顔はむくみ、紫色に変色している。マラソンを終えた後のような荒い呼吸を続け、静かな部屋に「ゼーゼー」という呼吸音だけが響いた。医学に詳しくない私にも、彼女は危険な状態にあることは即座に分かった。だが、病室には医師も看護師もいない。点滴一本を施されておらず、それどころか病棟全体ががらんとしていて、我々以外に人の気配がないのだ。

 ヘリエットの様子を見るなり、リリアンは手で顔を覆って泣き出した。我々より一足先に病院に来ていた娘のタバホ(14歳)は、変わり果てた母親の姿を見て号泣し、親族の男性に抱きかかえられてようやく立っていた。

 病棟の看護師詰め所をのぞきに行くと、太った黒人の女性看護師が2人でケラケラと笑いながら、おしゃべりの真っ最中だった。無性に腹が立った私は「ドクターを呼べ」と2人に詰め寄った。妙なアジア人の登場に、2人は一瞬、キツネつままれたような顔をしたが、一人が椅子に座ったまま机に肘をつき、ふてくされた表情で「ドクターはいない。夜は緊急の時しか呼ばない」と言った。「素人の俺が見ても患者は危ないと思うが、あれは緊急じゃないのか?」と言うと、同じ看護師が「うるさいわね。あたしの仕事じゃないわよ。あっちへ行きなさいよ」 と逆上して声を張りあ上げた。

 彼女たちの名誉のために言えば、南アの公的機関では、彼女たちの対応は特別でもなんでもない。警察署、入国管理事務所、自動車車両登録のオフィスまで、こんな対応はザラにある。

 私はリリアンを連れて家帰った。翌朝8時ごろ、ヘリエットが息を引き取ったとの電話がリリアンのところにあった。その日の夕方、再びリリアンを乗せて病院へ向かい、前日と同じ病室へ入った。亡くなってから半日近く経つというのに、遺体は同じベッドに寝かされたままだった。

 

 

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世界の犯罪首都、ヨハネスブルグの格差と暴力

2025年01月10日 | 国際・政治

 下記は、毎日新聞社ヨハネスブルグ特派員・白戸圭一氏が、駐在当時のヨハネスブルグの驚くべき状況について綴った文章です。

 驚くべき状況の一つは、”我々は敷地面積600坪はあろうかという支局兼住宅に住むことになった”という、まさに「セレブ」の仲間入りといえるような生活環境と地元民との歴然とした「格差」です。

 驚くべき状況のもう一つは、”特にヨハネスブルグは「世界の犯罪首都」と呼ばれるほど治安が悪化し、手の施しようがない状態であった。”という日本では考えられないような犯罪多発の問題です。

 

 大事なことは、白戸氏が、セレブの生活を謳歌しつつ、”私の心には、常に一つの問題が影を落としていた。”として、”経済成長と異様な格差の拡大が進行する南アは、治安の崩壊という深刻な問題に直面しているのだ”という問題意識を持ったことです。

 欧米の人たちの多くは、そういう捉え方をしないのだろうと思います。

 大航海時代以来、世界中で植民地を広げ、国際社会をリードしてきた欧米人の多くは、文化的に遅れている人種や民族は、欧米人の支配に服して当然だという意識を持っているのではないかと思います。だから、先住民と欧米人の生活レベルの違いを「格差」とは受け止めないのではないかと思います。

 また、白戸氏は、「格差」と「暴力」も関連付けて考えています。それも重要な視点だと思います。

 私は、南アのアパルトヘイト政権下で非暴力の抵抗運動を貫いたネルソン・マンデラ率いるアフリカ民族会議(ANCが、その後も政権を維持してきているのに、暴力がなくならない理由は、南アだけを見ていてはわからないと思います。

 マンデラは、暴力は新たな憎しみを生み出し、問題解決には繋がらないと主張し、アパルトヘイトという不正義な制度に対して、平和的な手段で対抗することを求めました。対話を重視し、 法の支配や民主主義を追求していたのです。

 でも、マンデラ大統領誕生後、20年以上経過しているのに、暴力がなくなりません。それは、外部勢力がその「暴力」に関わっているからだと思います。

 私は、「格差」と「暴力」と「欧米の関わり」を追及すれば アフリカや中南米、中東やアジアにおける国々の諸問題が見えてくるのではないかと思うのです。

 

 先日アメリカのバイデン大統領は、日本製鉄による米鉄鋼大手USスチールの買収を阻止する命令を出しました。私は、暴力的な命令ではないかと思います。バイデン大統領は買収を禁止した理由について、国家安全保障への脅威を挙げ、”アメリカの鉄鋼業界とそのサプライチェーンを強化するためには、国内での所有が重要だ” と述べたということです。でもそれは同盟国日本に対する差別であり、自由貿易の考え方にも反する、不当な政治介入だと思います。

 アメリカ企業による日本企業の買収を、同じようなかたちで、日本の総理が阻止できるかどうかを考えれば、その差別性は明らかではないかと思います。

 日本を信用しないアメリカに、日本は基地を与え、特権を与えて、命を預けているという状態であることを忘れてはならないと思います。”国家安全保障への脅威”などというのは、現実を無視した差別的な言いがかりだと思います。でも、バイデン大統領はその差別性を意識してはいないのではないかと思います。

 日本には、北海道から沖縄まで、全国各地に130か所の米軍基地1024平方キロメートル)があるといいます。そのうち米軍専用基地は81か所で、他は自衛隊との共用だということです。

 安保破棄中央実行委員会によると、

日本の主な米軍基地は、三沢空軍基地(青森県三沢市)、横田空軍基地(東京都福生市など)、横須賀海軍基地(神奈川県横須賀市)、岩国海兵隊基地(山口県岩国市)、佐世保海軍基地(長崎県佐世保市)と沖縄の米軍基地群があります。

 また基地以外に、訓練空域、訓練水域が米軍に提供されています(公海、公空を含む)。面積は、九州よりも広大なものです。”

 ということです。自らの利益を顧みず、日本はアメリカに尽くしていると思います。でも、アメリカは、そんな日本の企業、日本製鉄による米鉄鋼大手USスチールの買収を政治的に阻止するのです。

 だから私は、日本の米軍基地の存在が、日本の外交関係一般を規制し、また、ロシアや中国、北朝鮮との関係改善を不可能にしているばかりでなく、緊張をもたらいることを踏まえて、日米関係を捉え直すことが必要ではないかと思います。

 

 アメリカを中心とする欧米の政治家は、現実に存在する差別を差別と意識しないで、当然のこととして対応してきていると思います。アフリカや中南米、中東やアジアの国々に対しさまざまな差別をしていると思います。

 ヨハネスブルグにおけるような極端な「格差」、他民族を蔑視する姿勢、また、それにも増して、南アのような非米や反米の政権に対するアメリカを中心とする欧米諸国の関与、特に、反政府勢力に対する武器供与を中心とする支援が、治安の悪化にいろいろな影響を与えているのではないかと思うのです。

 

 下記は、「ルポ 資源大陸アフリカ 暴力は結ぶ貧困と繁栄」白戸圭一(朝日文庫)から、「序章 資源大陸で吹き上がる暴力」の一部を抜萃しました。

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                      序章 資源大陸で吹き上がる暴力

 

 20081月初め。毎日新聞社ヨハネスブルグ特派員の私は、大統領選挙を取材するためにケニアに出張していた。首都ナイロビのホテルで原稿を書いていると、南アフリカ共和国のヨハネスブルクの自宅で留守を預かる妻から電話がかかってきた。

「精神的なショックが心配なの。事件の後、とても怖がっていて、夕方になると家中の戸締りを確認して回ったりするのよ。仕事は大変だと思うけど、できるだけ早く帰って来て欲しい」

 ヨハネスブルグの地元の小学校に通う二年生の長女が、一人で同級生宅に遊びに行ってたところ、銃を持った黒人の男五人が塀を乗り越えて、その家に押し入った強盗事件の発生を報せる電話だった。事件の発生は午後一時ごろ。5人組は家の中にいた娘、同級生、同級生の家族3人の計五人を銃で脅し、現金や車を奪って逃走したという。

 この時点で私たち家族のアフリカ暮らしは三年十ヶ月に及んでいた。東京の本社からは3月末には帰宅してもらう方向で調整中との話が聞こえてきており、我が家は住み慣れたヨハネスブルクの家を引き払う準備を始めていた。

 身辺で日常的に凶悪犯罪が起きるヨハネスブルグではほぼ四年間、私を除く家族のだれも犯罪被害に遭わずにいたことの方が奇跡的とも言えたが、任期の最後の最後に、よりによって娘が被害に遭うとは──。電話を切った私は天を仰ぎ、その場に居合わせた誰にも怪我のなかったことに胸をなで下ろした。

 我が家を含む日本企業の駐在員は、ほとんどがヨハネスブルグ北部のサントンと呼ばれる高級住宅街に住んでいる。初めて南アを訪れた人は、サントンの景観に「ここがアフリカ?」と目を疑うに違いない。ハリウッド映画に登場するロスアンジェルス郊外のビバリーヒルズの豪邸。サントンの住宅街ではあれが普通だ。南アの「本当の豪邸」は、森にたたず欧州の古城とても形容するほかない。

 東京でマンションを借りるのとさして変わらぬ家賃を払った結果、我々は敷地面積600坪はあろうかという支局兼住宅に住むことになった。庭は一面の芝生で、片隅には澄んだ水をたたえたプールがあった。私たち夫婦は長女と長男が通う地元の私立校の保護者達と親しくなり、彼らを呼んでパーティーに興じたこともあった。邸宅の片隅にはメイドが住み込んでおり、室内の掃除、洗濯、皿洗いなどをやってくれる。広大な庭に群生する木々の手入れは素人の手に余り、週に一度は大家宅に住込んででいるマラウィ人男性の庭師がやって来て、手入れに勤しんでくれた。

 だが、そんな暮らしを謳歌する私の心には、常に一つの問題が影を落としていた。

 家族団欒の時、レストランでの食事中、車の運転中、子供を学校へ送り出した後、そして就寝時も、決して心の底からリラックスすることはできない。経済成長と異様な格差の拡大が進行する南アは、治安の崩壊という深刻な問題に直面しているのだ。娘が巻き込まれた事件など、南ア国内で起きている天文学的な数の犯罪の氷山の一角に過ぎないが、それでも個々の被害者と家族にとっては深刻な話である。

 経済成長が続けば雇用機会や所得の増加で犯罪は減少していく、というのが一般的な理解であろう。だが、南アでは成長が持続していたにもかかわらず、治安情勢に改善の傾向はないのだ。1994年の民主化後には、凶悪犯罪の発生率が世界最悪の状態となり、今に至っている。特にヨハネスブルグは「世界の犯罪首都」と呼ばれるほど治安が悪化し、手の施しようがない状態であった。

南ア政府が毎年発表する犯罪統計が、絶望的な治安状況を何よりも雄弁に物語る。2005年度の殺人事件の認知件数は18,545件、06年度は19,202件、07年度は18487件とほとんど横ばい状態であった。この殺人認知件数がどれほど凄まじい値なのかは、発生率を諸外国と比較して見れば分かる。例えば、南アの2016年の人口10万人当たりの殺人発生率は40.5 件。これは日本の約40倍。英国の約28倍都市部を中心とした凶悪犯罪発生率が高い米国に比べても約7倍の高率なのだ。サッカーワールドカップ開催を控えた国のイメージに気をつかう南ア政府は「治安の改善」を強調するのに躍起だ、その結果、時には情勢操作すれすれの発表も行なわれている。

 一例を挙げると、捜査当局によって認知された殺人事件の発生率の問題がある。

先述した通り、2006年度の南アの人口十万人当たりの殺人発生率は40.5件。一方、南米のコロンビアでは2000年に十万人当たりの殺人発生率が61.78件に達したことがあり、この両方の数字を比較する限り、南の殺人発生率はコロンビアよりも低いとの印象を持つ。だが、ヨハネスブルグの民間シンクタンク「南ア人種関係研究所」のカーウィン・リボーン氏は、この数字の出し方に巧妙なトリックが隠されていることを見抜いた。

 同氏によると、殺人事件の件数を発表する際、国際的には殺人未遂事件の件数も含めて「殺人認知事件数」と発表するのが常識となっているのだが、南政府は意図的に殺人未遂事件の検証を除外して発生件数を発表しているのだ。国際的な常識に従って、「未遂」を含めて殺人発生率を計算し直すと、2006年度の南家の殺人発生率は十万人当たり82.9件。2000年のコロンビアをはるかに上回る脅威的な発生率になるのだ。

 強盗事件はどうか。日本では近年、年間5000件超程度の強盗事件の発生が報告されている。これに対して南アの場合、年間20万件前後が発生している。南アの人口は日本のおよそ三分の一だから、発生率はおよそ120倍だ。ちなみに南アでは、よほど社会的に注目される事件でもない限り、日常発生する強盗事件では捜査自体が行われない。私の娘が巻き込まれた事件でも、警察官は一応現場に来てくれたが、被害者から簡単な聞き取りをして終わり。犯行現場で指紋や足跡を採取する鑑識捜査が行われることもまずない。ショッピングセンターで激しい銃撃戦が行われ、警察への緊急通報が相次いでも、警察官の現場到着が一時間後だというケースもざらだ。こうして私は日本で生涯に見聞するであろう犯罪被害の何百倍もの犯罪被害を、わずか4年の南ア駐在のうちに見聞することになった。

 私達家族がヨハネスグループで最も親しくしていた日本人家族の場合、奥さんと小学生の娘さんが日曜日の朝、教会で礼拝中に強盗団に襲われた。強盗団は、信仰の場だからといって容赦しない。銃もった数人が教会に押し入り、その場にいた数十人を床に腹ばいに寝かせ、この奥さんは結婚指輪を奪われてしまった。

 英文書類の翻訳のアルバイトを頼んでいたヨハネスブルグ在住の日本人青年は、自宅にいたところを侵入してきた4人組に襲われた。拳銃を口に突っ込まれた状態で室内を案内させられ、現金や貴金属を奪われた挙句、最期は粘着テープで全身を縛られた。

 私の仕事を手伝ってくれる黒人男性、我が家の大家、近所の住人たち、親しくしていた南ア人と日本人双方の家族。4年間の駐在の間に、こうした身近な人々の大半が、なにがしかの形で強盗被害に遭っていた。我が家の玄関前では白昼に拳銃強盗があり、子供達の通う学校に警察に追われた武装強盗が逃げ込んだこともあった。身の回りの犯罪被害を詳しく書いていけば、それだけでこの本は間違いなく終わってしまう。

 私自身は一度、車を低速で運転中に運転席の窓を叩き割られたことがあったが、これは南アでは犯罪被害とも言えない体験である。

 「芝生の庭」や「プール」のある暮しと書けば、大方の日本人は南アの人々羨望の眼差しを向けるかもしれない。一介のサラリーマン記者の私も、ヨハネスブルグで「にわかセレブ」のごとき暮らしを実際に始める前はそうであった。

 だが、この暮らしは、半ば要塞化された警備体制の上に、かろうじて成り立っているのが実情であった。

 拙宅の通りに面した塀の上には、電流フェンスが張り巡らされ、塀を乗り越えることができないようになっていた。玄関と勝手口にはいずれもドアが二枚あり、外側は鋼鉄製の格子状のドア、内側は分厚い木製ドアだった。全部で24ある家の窓はすべて頑丈な鉄格子で覆われていた。

 室内には赤外線センサーが張り巡らされ、就寝時には寝室を除いてセンターのスイッチを入れる。室内で何かの「動き」を感知すれば、100m離れていても聞こえる警報が鳴り響き、契約している民間警備会社から銃を持った警備員が駆け付ける仕組みであった。家の中では全部で七つの非常通報ボタンがあり、これを押しても警備員が駆け付けるようになっていた。

 ここまで警備体制を固めれば、賊の侵入は不可能と思われるかもしれないが、こんな警備体制を突破することなど、南アのプロの強盗団にとっては赤子の手を捻るようなものであった。最後の頼みは、犬の放し飼いであったが、いずれ帰国する外国企業の駐在委員にとって、犬の飼育は容易ではない。そこで南アには、訓練された犬を貸し出すビジネスがあり、我が家も三頭のシェパードを借りて放し飼いにした。とはいえ、なにせ広大な庭である。雨の夜などシェパードの耳と鼻をもってしても侵入を感知することは難しく、三頭でも充分とは言えなかった。何よりも、毒を混ぜた肉やチョコレートを庭に投げ込まれれば、番犬の効果も無きに等しかった。自宅を鉄壁の要塞にしてみたところで、犯罪被害から逃れることはできない。外出先で襲われれば手も足も出ない。

 外出先から車で自宅に戻り、入り口の電動式ゲートが開くのを待つ数秒間は、最も襲われやすい瞬間だった。ほんの数秒だが、ゲートが開き終わるまで路上で停車しなければならない。すると、木陰などに隠れていた男たちがガラス越しに銃を突きつけ、財布や携帯電話、そして車を奪う。外出先から戻る際には車で追尾され、ゲート前で停車したところを襲われる事件も後を絶たなかった。私の前々任者の家族やヨハネスブルグに支局をを置く他の日本メディアの特派員も、自宅に戻ったところを強盗に襲われていた。

 ・・・

 

 

 




 

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「力の支配」、阿諛追従(アユツイショウ)の国際社会

2025年01月05日 | 国際・政治

 下記は、「報道されない中東の真実」国枝昌樹(朝日新聞出版) の「あとがき」の一部ですが、シリアを知る人の「本音」が書かれていると思います。注目すべきことは、10年以上前に書かれた文章なのに、ガザに関することも、シリアに関することも、現在の状況を伝えているかような内容であることです。ガザの人たちが、”イスラエル軍のなすがままに殺され続けている”とか、”平和だったシリアがなぜ今これほどの破壊と絶望に襲われなければならないのか、無数の「なぜ」が心の底から噴出してくる? ”とか、そこここに、心に刺さる文章や言葉があります。

 

 それは、国際社会が、アメリカやイスラエル、また、西側諸国の「権力」の戦略で動いきたことを示していると思います。多くの国や国際組織が、「阿諛追従」しているような状態にあり、「力の支配」が続いてきたことを物語っているように思います。

 西側諸国の権力は、ロシアや中国を批判するとき、しばしば「法の支配」という言葉を使いますが、自らの「力の支配」をまず改めるべきだと思います。

 

 イラク戦争に反対して設立されたというアメリカの非営利団体「Win Without War(戦争なしに勝つ)」から、次のようなメールが届きました。

Win Without War

You know the story, Syunrei: For well over a year now, Israeli PM Netanyahu has used U.S. weapons to hold on to power, drive incomprehensible levels of human suffering, and push an entire region toward all-out war — all while failing to bring the remaining hostages home safely.

 But undeniable momentum is building against that blank-check approach. Late last year, 19 senators sent a clear message to President Biden and the incoming Trump administration: It’s time to use U.S. leverage to end the horrific war in Gaza, protect innocent people across the Middle East, and get the hostages back to their families.”

1年以上もの間、イスラエルのネタニヤフ首相は、権力にしがみつき、理解しがたいレベルの人間の苦しみを引き起こし、地域全体を全面戦争に追いやるために、アメリカの兵器を使用してきました。

 しかし、その白紙委任のアプローチ(無制限の資金提供や条件なしの支援)に反対する勢いが高まっていることは否定できません。昨年末、19人の上院議員がバイデン大統領と次期トランプ政権に明確なメッセージを送りました。ガザでの恐ろしい戦争を終わらせ、中東全域の無辜の人々を保護し、人質を家族に戻すために米国の影響力を行使する時が来ました。(一部機械翻訳)”


 日本のメディアも こうした声を伝え、国際社会の「法の支配」を実現するべく、努めるべきだと思います。ウクライナの人たちばかりでなく、ガザやシリアの民間人にも寄り添ってほしいと思います。

 また、私は、アメリカ主導の密室の「停戦協議」ではなく、多くの国が関わる国際組織主導の「開かれた停戦協議」を進めるべきだと思っています。

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                           あとがき

 

 イスラエルはふたたびガザに対して空爆を行った上で地上軍を送り、激しい戦闘を行っている。200812月から翌年1月にかけて行った軍事行動を繰り返している。

 ガザ170万人余りの人々は東と北をイスラエルにアリが出入るする穴さえ閉ざされて、南はエジプトに抑えられ、西を地中海に閉ざされ、東京都23区の6割の地域に閉じ込められて窒息しそうになりながら必死に生きてきていたら、ふたたびイスラエルから逃げ場のない場所でいいがかりをつけられ、イスラエル軍のなすがままに殺され続けている。ただ、イスラエル側の死者は前回に比しかなり増えている。

 国際社会は黙り、手をこまねいている。ハマスの狭隘(キョウアイ)な考えとその行動が友人を失い孤立化を招いたとはいえ、国際社会の反応の鈍さは尋常でない。

 現在アラブ連盟が毒気を抜かれている。カタールのハマド・ビン・ジャセム首相兼外相(当時)が手続きも何も無視してかき回した後遺症が出ているのか。イスラエルが軍を送ってガザの人々を虐殺しているとき、そしてアルカーイダ流の過激な保守イスラムの動きと対決なければならないときに、アラブ連盟は毅然と元気に活躍する必要があるのに、これでは非常に困る。

 シリアの国外避難民は4家族のうち1家族の割合で生活費を稼ぐ男手はなく、女性一人で家族を養っているのが現状だと国連難民高等弁務官事務所関係者が叫ぶ。異郷の地で仕事とてない彼女たちは家族を養うために、自らの命を絶つに等しい決断をして恥辱を堪え忍ぶ。生きるため、生き残るために涙を枯らして彼女たちはSuvival Sex(生きるために行う性行為)に向かう。誰が彼女たちを咎められよう。ヨルダンに避難した家族の主婦が得たのは1人を相手にして7ドル。トルコではトルコ人男性たちから襲われ、娘たちは家族の窮状を救うためだけに言葉もわからない相手と結婚する。サウジアラビアにはシリア人女性に対する憧れで、わざわざ男が女性を求めにくる。

 シリア情勢を含めて、アラブ世界の情勢は軍事政治面だけではなく社会のあり方も含めて、これからも神経を研ぎ澄まして注視していかなければならない。

 このほどシリアに17年間定期的に通いシリア砂漠のあるベドウィン家族を撮りつづけた写真家吉竹めぐみさんが「ARAB」という写真集を出版した。216枚の写真を見ていると、平和だったシリアがなぜ今これほどの破壊と絶望に襲われなければならないのか、無数の「なぜ」が心の底から噴出してくる?

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覇権大国による国際刑事裁判所に対する制裁と力の支配

2025年01月03日 | 国際・政治

 先月末、朝日新聞は「ガザの乳児3人が寒さで死亡」と伝えました。また、しばらく前には、「ガザ全域を飢餓が覆い、子どもが次々に餓死している」と伝えていました。いずれも緊急の対応が必要なのに、停戦の話は一向に実現せず、私は最近、停戦の話がでるたびに、それが国際世論を惑わすためのイスラエルとアメリカによる引き伸ばし作戦のような気がしています。停戦、停戦と言って多くの人々に期待を持たせ、その間に、ガザやヨルダン川西岸地区のパレスチナ人殲滅・追い出しを進めようとしているように思います。ほんとうは、停戦する気がないのではないかと疑っているのです。

 それは、イスラエルの国会が、国連パレスチナ難民救済事業機関 (UNRWA)の国内活動・接触禁止法案を可決していることに示されているように思います。

 また、見逃せないのは、国際刑事裁判所(ICCが、イスラエルのネタニヤフ首相やガラント前国防相らに、ガザにおける戦争犯罪などで逮捕状を発行したことに、イスラエルはもちろんですが、イスラエルを支援するアメリカも反発して、アメリカ下院がICCへの制裁法案を可決し、上院でも超党派で制裁法案を可決する動きが本格化しつつあるという事実にもあらわれているように思います。

 

 先日、朝日新聞でも、その件が取り上げられていました。こうしたイスラエルやアメリカの動きに関し、ICC赤根所長は、”制裁の対象が、ICCの限定された職員だけでなく、複数の検察官や裁判官、赤根所長に拡大されたり、ICCそのものが対象になれば、アメリカの銀行だけでなく、欧州にある銀行もでICCとの取引が停止される可能性があり、そうなれば、職員への給与も払えず、ICCの活動の機能停止に追い込まれる”と懸念を示したといいます。

 国際刑事裁判所(ICCは、国際連合全権外交使節会議において採択された国際刑事裁判所ローマ規程(ローマ規程または、ICC規程)に基づき、オランダのハーグに設置された国際裁判所です。そのICCの判断を無視したり、自らの方針と異なるからということで制裁を科したりすることは、民主主義の否定だと思います。

 だから私は、イスラエルやアメリカは武力主義の国であり、法や道義・道徳ではなく、力で自らの主張を通そうとする国だと思うのです。

 赤根所長は、イスラエルやアメリカの対応を踏まえ、”国際社会で『法の支配』がないがしろにされ、『力による支配』が横行すれば、戦争犯罪の被害者たちは報われない”と訴えたことが伝えられています。

 その通りだと思いますが、「力による支配」は、今に始まったことではなく、欧米諸国による植民地支配以来、途絶えることなく続いてきたように思います。覇権大国アメリカが、有志連合などを組織して、戦争をくり返してきたことも、「力による支配」を意味していると思います。

 

 下記は、「報道されない中東の真実」国枝昌樹(朝日新聞出版)から、「第一章 シリア問題の過去・現在・未来」の「少年は拷問死か銃弾の犠牲か」と「政府側要員120人の殺害」と題する記事を抜萃したのですが、敵対するアサド政権を転覆するために、アメリカが、反政府勢力支援の一環で大量の武器を与えたこと、また、アサド政権側の情報を排除し、虚偽情報を国際社会に広めたことなどが、明らかにされていると思います。

 こうした虚偽情報の拡散や反政府勢力に対する武器をはじめとする様々な支援で、今回、とうとうアサド政権が崩壊に至ったのではないかと思います 

 だから私は、先日、CNNが、”Palestinian Authority freezes Al Jazeera operations in the West Bank.(パレスチナ自治政府がヨルダン川西岸地区でのアルジャジーラの業務を凍結)”と報道したことも気になっています。まだ詳細はわかりませんが、アルジャジーラが、パレスチナにとって不利な情報を拡散したのではないかと思うのです。

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                    第一章 シリア問題の過去・現在・未来

 

 少年は拷問死か銃弾の犠牲か

 民衆蜂起を押し込めよう、デモ隊を規制しようとする治安警察軍と民衆側との衝突で犠牲者は増えるばかりだった。レバノンの日刊紙「デイリー・ニュース」は201159日付でレバノンの武器市場が異常な過熱状態であるという調査記事を報道した。同紙はシリア政府に対して批判的立場にある。

 

 ベイルートの武器取扱業者によれば、シリア向けは異常だ。在庫武器を全部売っても注文が残り、いくつも仕入先に当たったが、どこでも在庫に余裕がない状態にある。2006年には一丁500600ドルだったカラシニコフA-4720114月には1200ドルに急騰し、5月に入ると1600ドルに達した。短銃身型A-474月以来20%値上がりして3750ドルなった。米軍が使用したM-16攻撃ライフル銃は15000ドルする。政府関係者と治安当局の情報ではレバノン北部の都市トリポリでは大量の武器が市場に搬入されているという。

 その後も同紙はときどき同じような調査報道を行ない、シリアからの法外な注文で武器価格が継続的に高騰し続ける状態を報道した。トリポリは、シリアの反体制派グループのレバノンにおける拠点に発展して行く。

 政府はデモ隊に紛れる武装集団と治安警察部隊との衝突で犠牲者が増えているとする姿勢をとり、5月に入ると武装集団と国民を分断するために、国民に向けて無許可の集会やデモの自粛を訴えて、本来ならば処罰されるべき行為を働いた者でも自首すれば放免されるとして懸命に広報するのだった。さらに、シリア国営TV局は英国のBBCアラビア語衛星放送局の番組に、現場から70キロ離れた自宅にいながら現場報告者と偽って電話でホムス市内での騒擾を治安当局が弾圧する模様を「実況報告」した若者の告白を詳細に放映した。

 そのような中でハムザ・ハティーブ少年(13)の死亡事件が発生した。シリア政府に批判的なアルジャジーラなどの衛生TV局はこの事件を積極的に取り上げ、少年の拷問虐待死として大キャンペーンを張った。

 2011429日、ダラアの各所では金曜日のモスクでの祈りを終えると民衆はスローガンを叫びながら街路に出た。少年たちも加わっていた。デモ隊は治安当局と衝突した。その日少年は帰宅しなかった。それから3週間後の521日(当局側発表)、少年は死体となって帰宅した。少年の死体は動画に撮られユーチューブに掲載された。

 アルジャジーラは言う。少年はひと月近く治安当局に捕らわれた揚げ句、524日(アルジャジーラ)になって帰宅した。その死体には激しい拷問の跡が残されていた。切り裂かれた跡、火傷。これらは電気ショックやむち打ちの跡だ。目は黒ずんでくぼみ、いくつかの弾痕があった。胸部も黒ずんで火傷の痕がある。首の骨は折れ、ペニスは切断されていた。従兄弟は言う。

429日には皆が抗議に立ち上がるようだったので、皆と一緒に12キロの道のりを歩いて町まで行った。混乱が生じて、何がなんだかわからない状況の中でハムザが見えなくなってしまった」。現地の活動家は言う。「ハムザは悪名高い空軍情報局によって51人が捕まった中にいた。捕まったときには皆生きていたのに、今週になって13人が遺体で返却された。数日中には他の12人ほどが死体で返されるはずだ」。ハムザの従兄弟によれば、死体の返却後、治安当局はハムザの両親を外部には話さないように脅迫したという。

 2011531日、アサド大統領は死亡したハムザ少年の家族をダマスカスに招待して会見し、直接哀悼の意を表した。同日、国営TV放送はハムザ少年死亡事件解明委員会の発表を報道してこう述べた。

 

 429日、守備隊施設を襲った群衆の中に武装グループが紛れ、双方の間での発砲により犠牲者が出た。犠牲者は病院に運ばれて検死が行われた。ハムザ少年の遺体もその中にあり、早速検死が行われたが、死体には何の拷問の跡も見られず、衝突の際に受けた3発の銃撃によって現場で死亡したものと断定された。それ以外に死体の損傷はなく、検死当局が所有する死体写真は、死体が病院に到着した際に撮影された。死体には身元を示すものが何もなかったために身元特定に時間を要し、死体の返却が遅れた。

 

 この事件は政府による象徴的な拷問死事件として、国際社会で繰り返して取り上げられた。国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の報告書なども拷問致死事件として大きく取り扱う。だが、それらの文書は政府側の検死報告にはまったく言及しない。同年12月には米国ABCTV局の著名なキャスターであったバーバラ・ウォルターズがアサド大統領にインタビューし、その中で政権による子どもの虐殺事例としてハムザ少年に事件に言及した。大統領が直ちに、少年の遺族に直接自分から哀悼の意を表したと応答すると、ウォルターズは意外だとの反応を示して、この問題には深入りすることなく次の話題にさっと移行してしまった。彼女には大統領の応答が予想外で、深入りすることの不利を悟ったのだろう。彼女は事件に対する政府側の対応について事前にスタッフから説明を受けていなかったようだ。

  米国のファッション雑誌として有名なヴォーグ誌は20113月付紙面で「砂漠に咲くバラの花」と題するアスマ・アサド大統領夫人の記事を掲載した。まったく予期しなかったシリア情勢の展開で、ヴォーグ誌にはまことに悪いタイミングでの掲載になってしまった。記事を書いた記者はアラブの春を抑圧する独裁者の妻を美化することは何ごとかと批判されると、失地回復とばかり翌1286日付のニューズウィーク誌で「シリアのいかさま大統領家庭──悪評嘖々(サクサク)の私のインタビュー:地獄のファースト・レディー、アサド夫人──」と題してヴォーグ紙で書いた記事とは正反対の内容を書いて自己弁護している。同じ対象について昨日はなめらかな筆致で称賛記事を書き、都合が悪くなると今日は力強く能弁に罵倒記事を書いて、物書きとしてまことに類まれな能力を披露している。その記事の中でハムザ少年事件にも言及してシリア政府の残虐さに言及するのだが、もとよりそんな記者は政府の検証報告があったことなど知らない、知ろうともしないで記事を書く。

 

 政府側要員120人の殺害

 201166日、トルコ国境に近いジスル・アッシュグ-ル町で1日のうち120人もの治安軍関係者が一方的に殺されるという政府にとっては驚愕の事件が起きた。トルコとの密輸で知る人ぞ知るこの町は19803月にも政府側によるムスリム同胞団取り締まりの際に、激しい戦闘が起きている。

 今回の事件を政府側は深刻な事態と認識して態勢を十分に整えた上で反体制派武装グループの掃討に乗り出した。多くの町民は、政府の治安警察が来る前にこぞって町を去り、近隣の国境を越えてトルコ領内に避難した。

 実はこの事件が起きる直前からトルコ領内ではシリア人難民を受け入れるキャンプが国境近くに開設され、トルコ側の動きは事件発生のタイミングと合いすぎるとして、一部シリア人関係者の間では事件とトルコ側との関係に疑念が持たれている。シリア政府は反体制派武装グループによる周到な計画の上での治安警察軍への攻撃であったと断定して、同町の平定作戦が終了すると外国メディアとダマスカスの外交団を現場に招待した。

 これに対して反体制派側は、事件は軍離脱兵と政府軍との衝突であると主張するのだったが、20122月に筆者の照会に対し米国系メディアのシリア人記者は現場を視察した後、そこで撮影した何枚もの写真を示しながら、この事件はどう見てもかなり高度の組織的攻撃的だったと理解せざるを得ないと断定するのだった。この事件については、ごく短期間話題にされただけで、その後は反体制派も欧米諸国も忘れてしまったようだ。反体制派と欧米諸国の理解によれば、この時期、民衆蜂起はまだ平和的に行われていて、こんな事件は政府側の自作自演以外に起こるはずがない。

 このころ、すでにアルジャジーラの報道姿勢が反体制派に極端に傾斜し、アルジャジーラが、どの町のどこそこでデモが行われていると報道すると、その時点ではそこには民衆の動きは何も見られなかったが1時間後にデモが起きるというような事例が何件も発生し、シリア政府は抗議を繰り返した。アルジャジーラ本部ではユーチューブやフェイスブックなどをモニターして、そこに掲載される画像とニュースを、その信憑性を確かめることなく定時ニュースで流し、またシリア国内にばらまいた携帯電話などを使って「現場目撃者」と称する市民からの怪しげな「現場報告」をそのまま取り上げるのだった。

 20114月、アルジャジーラの一連の報道姿勢に抗議してベイルート支局長バッサン・ベン・ジャッドが辞職した。その後任となったアリ・ハシェム支局長は着任直後の4月にはカラシニコフ銃や旧ソ連製の携帯式対戦車砲で武装したレバノン人グループがシリア国内で武力活動をするために国境を越えてシリア国内に出入りしている事実を取材し、5月には映像とともに報道したが、アルジャジーラ本部では映像をすり替えたりして放映しなかった。その後も同支局長はレバノンの武装グループがシリアで活動している様子を報告するのだったが、本部の幹部は取材を不必要と指示する。アラブ世界で真のジャーナリズムが生まれたとして期待をもってBBCからアルジャジーラに移籍した同支局長であったが、やがてアルジャジーラは結局資金提供元のカタール首長の影響下にあり、報道の独立性はまったく確保されていないとして抗議の辞職をした。2011年と2012年にかけて、アルジャジーラの報道姿勢のあり方に幻滅して同TV局から辞職した有力な記者は13人余りに上った。

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