真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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通州事件 江口圭一の記述

2016年12月13日 | 国際・政治

 通州事件に関して、ネット上で目にする文章には違和感を感じるものが多いのですが、小名木善行という人の「通州事件とその背景」と題する文章も、その一つです。(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2718.html)。

 下記のような文章があります。

「かつて日本が支那を侵略した」という人がいます。けれど、歴史を冷静に振り返ってみれば、日本は北京議定書に基づいて、いわば現代で言うところの国連PKO部隊と同じカタチで支那に軍を派遣していたのです。それを一方的に襲い、戦乱へと導こうとしたのは、日本ではありません。

 支那に派遣された日本軍が、”現代でいうところの国連PKO部隊と同じ”には驚きます。
 「現代史資料(9)日中戦争(二)」「北支ニ兵力ヲ行使スル場合対支戦争指導要綱(案)」が取りあげられています。通州事件前、昭和12年7月17日付で参謀本部第一部第二課が出したものです。それには、「中央政権ノ覆滅ヲ目的」とした「全面戦争」に備え、「必要ナル兵力ヲ初動ヨリ使用スル」準備について、下記のように書かれています。どう考えても、「国連PKO部隊」とは異なるものではないでしょうか。

    方針
一、初期ノ武力行使ハ第二十九軍ノ敵対並不信行為ニ対スル報復膺懲ヲ目的トシ同軍ノ撃破ニヨリテ北支問題ノ解決(別ニ定ム)ヲ図ル
 此間事態次項ニ進展スルコトアルヲ考慮シ所要ノ準備ヲナス
二、中央軍トノ交戦ハ彼側ノ敵対行動明瞭トナリ已ムヲ得サル場合ニ於ケルモノトス此場合ニ於テハ排、抗日ノ根源タル中央政権ノ覆滅ヲ目的トシ全面戦争ニヨリ日支ノ問題ノ抜本的ナル解決ヲ期ス
三、何レノ場合ニ於テモ目的達成ニ必要ナル兵力ヲ初動ヨリ使用スルト共ニ政治的、経済的等ノ謀略手段ヲ併用シ努メテ短期間ニ敵側ノ交戦意志ヲ挫折センコトヲ図ル
、・・・略
    第一 武力行使ノ意志決定及作戦行動ノ発起
一、中央交渉ニ於ケル先方ノ態度ニヨリ我武力行使ノ意志ヲ決ス
二、現地実行不誠実ノ確認ニ依リ天津軍ヲシテ作戦ヲ発動セシム
第二
一、初動ヨリ第二十九軍ニ対シ優勢ナル兵力ヲ使用シ作戦ノ地域ハ北部河北省トシ急速ニ大打撃ヲ与ヘ其影響ニ依リ中央軍戦闘加入ノ意志ヲ放棄セシム
二、・・・略
三、内地ニハ別ニ中央軍ノ戦闘加入ニ応スルノ兵力ヲ動員シ逐次満洲及冀東ニ前進セシメ以テ同軍ノ戦闘加入ニ備ヘシム
四 ・・・以下略

 当時の梅津陸軍次官が、条約上の問題から通州には日本軍兵力の配置を認めなかったということですが、結果的に通州の代わりに豊臺に兵を置いたことが事変につながったと、石原完爾(当時参謀本部第一部長)が証言しています。さらに言えば、豊臺も基本的には議定書で駐留が認められた場所ではなかったといいます。軍の派遣は、第二十九軍のみならず中央軍との戦争を想定して、日本の都合で派遣されたということではないでしょうか。
 
 また、小名木氏は「蘆溝橋事件」当時の日本が”平和を愛する国”だったと主張し、盧溝橋事件は、日本と国民党軍閥を衝突させるために、「コミンテルン」が「支那共産党」に命令して起こしたもので、廊坊事件も広安門事件も同じ目的であったと書いています。ところが、”そこまでしても、日本は戦争を避けようとしました。当時の日本陸軍の思惑も、仮想敵国は支那ではなく、むしろその背後にいるソ連でしたし、大東亜の平和と独立を回復することこそが日本の理想とするところでもあったからです”として、通州事件は、”ダメ押しで起こされた”と、下記資料1のように書いています(一部抜粋)。

 日本が、満州を”日本の発展になくてはならないもの”として、謀略によって支配下に入れようとし、日本軍の都合で、武力行使の領域を広げつつあった事実や、日本軍による通州の冀東防共政府保安隊幹部訓練所爆撃の事実についての考察がなされていない上に、通州を拠点とする日本のアヘンなどの麻薬密売の盛行などに対する中国人の憤激が、通州事件に発展したというような指摘も考慮されていないように思います。

 また、もし一連の事件が「コミンテルンの命令」であるというような主張を、憶測や創作ではなく、歴史的事実として語るのであれば、コミンテルンの「支那共産党」に対する命令文書、または、命令を受けて動いた人物や組織、団体などの記録、関係者の証言などを提示しつつ、論証を進めてほしいと思います。

 通州事件が残虐な事件であったことは否定できませんが、その残虐性の背後にあった日本人の差別的振る舞いなどに対する中国人の恨みなども見逃すことはできない、と私は思います。その他、通州事件に関わる周辺事情についてふまえておくべき文章が「十五年戦争 小史」江口圭一(青木書店)にありましたので、関係部分を抜粋しました。それが資料2です。

 同書には、陸軍中将・斎藤恒が、「満州国家の認識」に書いていること、執政溥儀の回想、元満鉄理事・貴族院議員・大蔵公望が「満州視察報告書」に書いていること、第十師団長・広瀬寿助中将が談話で述べたという日本人の行状などが取りあげられていますが、しっかり受け止める必要があると思います。
 
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
”・・・ 共産党の予定では、盧溝橋事件で日本対国民党軍閥のドンパチがはじまっていなければならないのです。
それがスターリンのコミンテルンからの命令です。
スターリンは、「日本と国民党軍を衝突させろ!」といっているのです。
これは厳命です。
逆らえば、毛沢東の命はありません。

そこで、なんとかして日本と支那共産党を激突させるためにと仕掛けたのが、7月25日の廊坊事件であり、26日の広安門事件でした。

7月11日の停戦から、25日の廊坊事件まで、まる2週間が空いていますが、これは支那共産党に、新たな作戦のための準備期間が必要だったこと、コミンテルンと支那共産党とのやり取りが交されていたと見れば、辻褄があいます。

ともあれ、こうして廊坊事件、広安門事件が起こりました。
前にも述べたし、これからも何度でも述べますが、盧溝橋事件にせよ、廊坊事件にせよ、広安門事件にせよ、いわば騙し討ちで10倍する兵員で日本に対して戦闘をしかけてきた事件です。
これだけで、日本は支那と開戦するに足る十分な理由となる事件です。

実際、第一次世界対戦にしても、第二次世界大戦にしても、ほんのわずかな衝突が、世界を巻き来んだ大規模簿な戦争に発展しています。
日本には、この時点で支那に対して大規模な軍事的攻撃を仕掛け、徹底して支那を撲滅するだけの十分過ぎるくらい十分な理由となる事件だったのです。

ところがそこまでしても、日本は戦争を避けようとしました。
当時の日本陸軍の思惑も、仮想敵国は支那ではなく、むしろその背後にいるソ連でしたし、大東亜の平和と独立を回復することこそが日本の理想とするところでもあったからです。

 日本は、平和を愛する国です。
支那と戦う気など毛頭ありません。
むしろ日本陸軍に限らず、日本人の誰もが願っていたのは、支那の大地に戦乱のない平和な社会の回復そのものです。
だからこそ、日本は、明らかな開戦理由となる事件が起こっても、支那の兵士たちを蹴散らしただけで、それ以上の追撃戦、掃討戦をしていません。

これでは、「日本と国民党軍の衝突」など、到底起こりません。
そこでダメ押しで起こされたのが、人類史上類例のない残虐事件である「通州事件」であったのです。
これが起きたのが7月29日です。

廊坊も、広安門も、通州も、等しく北京とその近郊です。
そして通州事件が起こる前、通州城界隈に終結したのは、廊坊や広安門で蹴散らされた支那国民党の残兵たちと、支那共産党の工作員たちでした。その数、約3000人です。

この日の午前2時、突如、支那人たちが北京郊外50キロの地点にある通州にいた日本人居留民385名を襲撃しました。
そして223名の日本人居留民が、きわめて残虐な方法で虐殺されました。
女性はほとんど強姦されて殺害されました。” 

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     Ⅱ 華北分離
                       第8章
「王道楽土・五族協和」の実態
 満州国の発足にあたって、「五族協和」をうたい、「王道楽土」を実現すると称したが、その実態はこれらのスローガンとはかけはなれたものであった。
 満州国には、1932(昭和7)年3月9日公布の政府組織法・諸官制によって、参議府(執政の諮問機関)・国務院(行政府)・法院などが設けられ、国務院におかれた行政各部(民政・外交・軍政・財政・実業・交通・司法)の総長(大臣)には、日本と協力した旧軍閥などの中国人が任命された。しかしその実権は日本人の次長(当初は総務司長)以下の日本人官吏に握られ、総務長官(当初は総務庁長・駒井徳三)が日本人官吏を監督し、さらにそれを関東軍司令官が「内面指導」した。斉藤内閣の閣議決定「満州国指導方針要綱」(1933年8月8日)は、「満州国に対する指導は現制に於ける関東軍司令官兼在満帝国大使の内面的統轄の下に主として日系官吏を通じて実質的に之を行はしむるものとす」と定めた。

 このため、満州国を視察した予備役陸軍中将斎藤恒(サイトウヒサシ)によると(32年7月末)、
 イ、各総長の印は日本人総務司長之れを保管し捺印もなす(此の件は満州国総長の感情に偉大なる悪影響を与へあり)。
 ハ、総長の知らざる事が総長の名により発布または指令せらる。…
 ヘ、満州新政府は寧ろ純然たる日本新政府なりとの考へを起さしむる影響甚大なり。
という、状況がみられた。執政溥儀の回想によれば、

 私と鄭孝胥は名目上の執政と総理であり、総長たちは名目上の総長だった。国防会議なるものも形式をふむものにすぎなかった。国防会議で討論される試案は、「次長会議」がすでに決定したものばかりだった。次長会議は「火曜会議」とも呼ばれ、総務庁が毎週火曜日に招集する各部次長の会議で、これこそが本当の「閣議」であり、これはもちろん「上皇」たる関東軍司令官にたいしてのみ責任を負う会議だった。

 満州国の実権を掌握したもとで、日本人は征服者・支配者として君臨した。大蔵公望(元満鉄理事・貴族院議員)は、33年11月の「満州視察報告書」で、「一般に日本人の対満州国人の態度は頗る不遜であって、日本人に家を貸すと家賃を払わないものが多く、今では満州国人は日本人に家を貸すことを嫌ふ傾きが少なくない。……日系官吏は誠に横暴で……満州国の高等官は伝票がなくては役所備付の自動車に乗れないのに、日本人は属官でも勝手に之を使用し、又新京に於ける主なる役所に於いては、その食堂は日系官吏の手に依って悉く日本人の経営を許可せられ、此の食堂に入ると食物は日本食、言葉は日本語で、全く満州国の役所と思はれず」と指摘した。

 第十師団(姫路)長広瀬寿助中将は、32年10月の談話で、日本人の行状について、
 悪いのは紳士も苦力も見分けなく支那人を侮蔑する。これが為、四月以来反日の気分が漲って来た。
 町の中で支那の立派な婦人にからかふ。停車場で入場切符も買はずに入る。何だ俺の顔を見ろ、日本人 だぞと、怒鳴る。汽車の一等車へ入る。……食堂車を占領して大酒盛りをやる、拳を打つ、歌を歌ふ。… …ハルピンの郵便配達がいた、日本人が来て、その中に俺の郵便があるだらう、見るから下ろせと云ふ た、それはいかぬ、と云ふことから殴って大怪我をさせた。
 と述べたが、34年1~3月に満州視察に派遣された日本陸軍将校もこれとほとんど同一の行状を目撃して おり、「戦勝者たり大和民族なるが為の優越感」(久米本三大尉)にかられた「傍若無人の振舞」(西原修 三少佐)は日常的光景であった。
 
 しかし中国人をもっとも残酷に抑圧したのはなによりも日本軍であった。日本による占領と抑圧に抗して東三省では反満抗日運動が展開されたが、日本側はこれはすべて「匪賊」と称し、「討伐」に奔走した。その討伐の状況について関東軍参謀河辺虎四郎大佐は「匪賊は地方住民と常に密接なる関係を維持しているから討伐隊の動静手に取るごとく判るに反し、討伐隊の方では全く反対の立場にあるから捕捉殲滅ができない。……地方によっては未だ匪民の識別は極めて困難」であると書き、はしなくも日本軍が東三省の全住民と敵対していることを告白したが、このような状況での討伐はしばしば一般住民にたいする虐殺となった。1932年9月15日撫順炭鉱を遼寧民衆自衛軍に襲撃されたことへの報復として、16日撫順守備の日本軍が行った平頂山の全住民虐殺(800~3000人)はその最大のものであった。

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                   第11章 日中戦争の全面化
 第二次上海事変から支那事変へ
 日本軍が華北で新しい侵略を開始したことは全中国に抗日の気運を燃えあがらせた。とくに上海をはじめ揚子江流域でははげしい抗日運動がおこされた。華北での総攻撃を開始した7月28日、日本政府は揚子江流域の日本人居留民の上海への引き揚げを指令した。
 華中・華南を作戦領域とする海軍はこの方面での戦闘について積極的であり、8月8日長谷川清第三艦隊司令官は「事態拡大に応ずる一切の準備を迅速に整えん」ことを麾下に指示した。翌9日、上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫中尉と水兵一名が中国保安隊に射殺される事件(大山事件)が発生し、緊張は一挙にたかまった。海軍は兵力を増強し、中国側も増兵した。12日海軍は陸軍に上海派遣を要請し、13日の閣議は第三(名古屋)・第十一(善通寺)師団の上海派遣を承認した。この日、上海で日中両軍は交戦状態に入った。14日、中国空軍は第三艦隊・陸戦隊を爆撃し、一方、日本海軍航空隊は台湾基地から杭州などを爆撃した。15日、長崎県大村基地から首都南京への渡洋爆撃がはじめられ、第三・第十一師団からなる上海派遣軍(軍司令官松井石根大将)が編成された。同日、政府は「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断乎たる措置をとる」旨の声明を発表した。
 一方、華北では日本軍は7月30日までに北平、天津を占領した。その間29日冀東政権の保安隊が反乱を起こし、中国民衆も加わって、日本人居留民223名を惨殺する通州事件が発生した。
※ 保安隊は関東軍飛行隊に兵舎を爆撃されことに憤激して反乱したといわれる。また中国民衆は通州を拠点とする日本のアヘン・麻薬密売の盛行にたいして憤激を爆発させ、報復した。この事件は日本国民の敵愾心をあおるために利用された。※(信夫清三郎『通州事件』『政治経済史学』2978号)

 また関東軍は蘆溝橋事件がおこるとただちに出動態勢を整え、内蒙古における兵力行使を軍中央に強く要請し、参謀本部の抑止方針を押し切って、8月5日多倫(ドロン)、8日張北に部隊を進出させた。9日参謀本部はチャハル作戦の実施を支那駐屯軍・関東軍に命じた。関東軍は参謀長東条英機中将の指揮のもとに、支那駐屯軍に増派された第五師団(広島、師団長板垣征四郎中将)と連繋して、チャハル省内に侵攻し、8月27日張家口を占領した。
 8月31日支那駐屯軍は北支那方面軍(軍司令官寺内寿一大将)に改組され、その後の増兵を加えて八個師団を基幹とする兵力となった。9月2日政府は「北支事変」を「支那事変」と改称した。
 蒋介石は華北での日本軍の総攻撃をみて「最後の関頭」に直面したことを認め、国民政府は全面抗戦にふみきった。8月14日国民政府は抗日自衛を宣言し、15日全国総動員令を下し、蒋が三軍総司令官に就任した。22日西北の紅軍は国民革命軍第八路軍(総指揮朱徳)に改編され、9月23日には第3次国共合作が正式に成立した。
 満州事変の発端となった柳条湖事件が関東軍幕僚によって仕組まれた計画的謀略であったのにたいして、日中戦争全面化の発端となった蘆溝橋事件は非計画的な偶発的衝突が全面戦争に発展した根底的事情は、日本が華北分離・支配の欲望を強固につのらせる一方、中国では抗日救国への民族的結集がすすみ、日本のさらなる侵略を容易に許さない情勢が形成されていたにもかかわらず、日本が中国を軽侮し、一撃論のもとに安易に武力を発動したからであった。こうして蘆溝橋事件は満州事変と日中戦争の接点となり、限定戦争から全面戦争への転換点となった。

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