私は、現在の日本の歴史教育には問題があると思っています。特に近現代の歴史、すなわち明治維新からアジア太平洋戦に至る歴史が、一部の勢力によって、歪められていると思うのです。
学校で日本の歴史を学んだ人たちは、薩摩藩が1863年(文久3年)、イギリス艦隊と戦った薩英戦争で敗北し、また、1864年(元治元年)、長州藩が、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊を砲撃した下関戦争で敗北し、欧米の軍事力を実感していたにもかかわらず、薩長が「攘夷」をかかげて幕府を倒したことを、そして権力を手にするや、直ぐに幕府の政策を引き継いで開国に転じたことを納得できているでしょうか。すでに、開国政策を進めていた幕府が「大政奉還」をし、諸侯会議で話し合いが進んでいたにもかかわらず、その諸侯会議の話合いを無視して、討幕の密勅(偽勅)を根拠に武力討伐に至ったことを納得できているでしょうか。
津田左右吉は、「明治維新の研究」(毎日ワンズ)「第三章 維新前後における道徳生活の問題」で、”彼等が国賊と呼び極悪無道の朝敵として甚だしき悪罵を加えた幕府の定めた国策を遵奉することによって、明治の新政府を立て新政権を握ったものが、彼ら薩長人であった。幕府の定めた国策を攻撃して悪罵しておきながら、事実においてそれを遵奉したからこそ、彼らはその地位を得、その権力を得たのである。孝明天皇に政治上至重至大の責任を負わせ奉りながら、一方ではこういうことをしたのが、薩長人であった。日本人はこのことをどこまでも銘記しなければならぬ。”とか、”いわゆる王政の復古は幕府の権力を破壊して皇室に政治上の権力をもたせようとする主張であったが、それは事実上実現せられず、また実現し得られることでもなかった。”と、様々な事実をもとに、強い調子で書いていますが、現在の歴史教育では、そうした視点はほとんどないように思います。
それは、明治維新によって権力を手にした、薩長を中心とする尊王攘夷急進派が、先の大戦における敗戦に至るまで、みずからに都合のよい歴史を語り、政権運営を続けた結果であり、また、戦後もなおその影響力を失っていないからだと思います。
だから私は、津田左右吉の下記の記述(「明治維新の研究」(毎日ワンズ)から抜粋)は、しっかり受け止められる必要があると思います。そして、憲法改正などを主張し、戦前回帰を進めようとする勢力を政権から遠ざけ、真に日本国憲法に基づいた国にしなければならないと思います。
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第三章 維新前後における道徳生活の問題
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そこで問題を当時の政治上の変動に向けてみる。志士輩浪人輩の行動の主旨は初めから決まっていたので、要するに幕府を擁護するかそれを倒そうとするか、二つのうちのいずれを採るかにあり、そうしてこれまでの彼らの言動によって推測すれば、尊王思想はいうまでもなく、攘夷の主張とても、幕府を倒す方法としての謀略に利用せんとするのが主意であったに違いない。謀略を要する如く思われたのは、幕府が現存するために、言論のその存亡に触れることを避けたのであるが、それを避けたところに謀略があったと考えられる。そうしてそれを避けたのは、一つは当時の志士輩に権力争い・党派争いが多く、その争いにおいて自派の勢力の弱く見える場合には、世の批評なり藩論なりを動かすだけの権力か勢力かをもっているものが横暴惨酷な処置をする習いがあったために、その害にかかることを避けようとしたからでもあるが、大局から論ずれば、幕府を倒すべき時機の来ることを予想していたためでもある。だから尊王思想の鼓吹者は、後からいえば、明治以後に実現せらるべき思想の趣向を空想としてもっていたというべきであろう。というよりも、それを実現するがために行動していたのだと、いうべきである。
かつてはタカヤマヒコクロウ(高山彦九郎)の如き南朝の狂信者があり、当時においてはマキ・イズミ(真木和泉)やヒラノ・クニオミ(平野国臣)などや、またはタママツ・ミサオ(玉松操)やの如きものがあったことを思うと、かかる教信者に追従するものも志士輩浪人輩の間には少なくなかったであろう。後に思想問題としての南朝の再現を空想するようになるのもその仲間であった、と考えられる。志士輩浪人輩はかかる狂信的妄想者、それは狂信すること妄想することに興味をもっているとともに、即時にもそれが実現し得られるものの如くも思っていたものである(南北朝正閏論の如きは過去の歴史上の問題であって、事実は南北朝の合一によって遠い昔に既に解決していたことである。思想的にではあるが、いまさら南朝の復活を思うのは、過去を再び現在に見ようとするものに過ぎない。南朝は詩人の懐古で十分であり、夢に見ることによって足れりとしなくてはならぬ)。要するに討幕の主張者は南朝の思想的復活を妄想するものに他ならず、歴史の展開を全く理解しないものである、というべきである。
さてもとへ立ち帰っていうと、孝明天皇は安政年間における幕府の上記の意義での尊王の態度及び諸般の施政を嘉納せられ、志士輩浪人輩の煽動撹乱を喜ばれなかったことが、文久頃から後の御言葉によっても明らかに推測せられるので、天皇は彼らのいうが如き意義での尊王及び攘夷、一言にしてこれを掩えば王政復古を欲せられなかったのである。
外交問題についていうと、アメリカとの通商条約が成立した初めからこう明らかな御考えがあったかどうかは、外聞から窺知しがたいところもあったろうが、温和な天皇の御性質から見ても、こう解せられる。かかる尊王論・攘夷論を含む王政復古論は、大政を幕府に委任せられている長い間の習慣を変更せんとするものであり、またその尊王は天皇親政の意義での王政復古を実現せんとするものであるが、天皇にはそういう御考えは全くなく、王政復古は欲せず大政は幕府に委任する、と明言せられていたのである。それにもかかわらず、志士輩浪人輩及ビ一部の宮廷人はかかる意義での尊王が叡慮であるが如く世上に宣伝することを努めたが、当時の宮廷の組織及び宮廷人の状態において、どうしてそういうことが実行できるのか、もしそれを実現せんとして、例えば天皇がいわゆる攘夷の意見を有せられ、攘夷の勅命を発せられるようなことがあるならば、それは日本を亡国の域に陥れるおそれの多いものであって、いわゆる攘夷を(※外国船に対して)実行した長藩の敗戦はそれを証するものであるが、もしそれが勅命によって行われたとするならば、それを命ぜられた天皇の責任のいかばかり重大であったかは、いうまでもあるまい。幸いに天皇は無謀な攘夷はすべきでないとしばしば仰せられていたが、この叡慮を解するものは、志士輩にも浪人輩にも一部の宮廷人にもなかったのである。だから、マキやヒラノの徒の無謀の攘夷論及びそれに伴う王政復古論が志士浪人の間に横行したのであるが、実は攘夷論のすべてが無謀なものであって、有謀な攘夷論というものは当時には存在しなかったのである。従って攘夷がもし叡慮であるとしたならば、それは叡慮を本来無謀なものとすることを示すに他ならなかったのである。
攘夷がそうであれば尊王もまた同じであって、上記のマキやあヒラノやその他の、長藩人及び浪士輩の言動もすべてがそうであり、元治年間における長藩兵皇居の乱入の企てはそれを明示するものであった。後に政府を建設して政権を握るようになった薩長人は、国策としてはこれら無謀の徒の行動を抑制した幕府の開国及び尊王の国策を実行したものであり、それによって政府を建立し、その実権を握り、維新の経綸を行なうことができたのであるが、思想的にはいわゆる王政復古の意義での尊王の主張を追従し、それに伴う無謀な攘夷の実行を宣伝して、それによって世に勢力を得たものである。空言を弄して徒らに大声疾呼したものが政府の実権を獲得したのである。
彼等が国賊と呼び極悪無道の朝敵として甚だしき悪罵を加えた幕府の定めた国策を遵奉することによって、明治の新政府を立て新政権を握ったものが、彼ら薩長人であった。幕府の定めた国策を攻撃して悪罵しておきながら、事実においてそれを遵奉したからこぞ、彼らはその地位を得、その権力を得たのである。孝明天皇に政治上至重至大の責任を負わせ奉りながら、一方ではこういうことをしたのが、薩長人であった。日本人はこのことをどこまでも銘記しなければならぬ。
いわゆる王政復古は現実には行われなかったが、しかし皇室による国家統一の要望は暗黙の間に国民の間に生じ、人知れぬ間にそれが次第に実現に向ってきた。戦国割拠の空気がようやく世に広まり、国家の統一がまさに崩壊せんとする情勢の間にかくの如き要望が具体化せられんとするに至ったのは、矛盾のようであるが、そこに皇室がおのずから有せられる精神的権威、国家統一の象徴としての権威が、何人にも明らかに意識せられないながら、はたらいてきたのである。幕府の力によって長い間維持せられた国家の統一がまさに崩壊せられんとするに当たって、否むしろそれが破壊せられんとすることによって、皇室による統一が漸次成立の勢いを示してきたのでもあり、破壊せられんとしたことが成立の勢いとなって更新したのである。そうしてそれは日本の国家統一の真の精神の現われであった。
いわゆる王政の復古は幕府の権力を破壊して皇室に政治上の権力をもたせようとする主張であったが、それは事実上実現せられず、また実現し得られることでもなかった。そうして皇室が、政治的権力ではなくして、国家統一の象徴であられるという、上代から継承されてきた思想に立ち帰ったところに、当時の政治家にも国民にも十分に理解のできなかった新精神、むしろ上古から持続せられてきた旧精神が、昔ながらにはたらいていたのである。
ところが、よし明らかな意図がなく意識せられた政治運動でないにせよ、国民をしてその向うべきところに向かわせるには、時勢の趨くところを見抜く明識と、真に国を憂うる誠実なる心情とを有する優れた思想家、その意義での一世の指導者がなくてはならぬ。けれどもそれは容易には求め得られぬ。フジタ・トウコ(藤田東湖)やサクマ・ショウザン(佐久間象山)や、またヨシダ・ショウイン(吉田松陰)の如きが、多くの書生輩に指導者として仰がれていたようにも見えるが、彼らは、あるいはあまりにも偏狭なシナ式慷慨家であり、あるいは功名心に富んだものであり、またいずれも時勢を達観する思想の深さを欠いていた。
やむなくんばアベやホッタの如き幕府の当局者、すなわちそれらに信任せられ重用せられて、国家の枢機にも参じ世界の形勢も知っていた有力な事務官たちを挙げねばならぬが、しかし彼らの多くは幕府の重要な地位にありそれぞれ職務をもってもいて、静思する遑がない。要するに彼らは時務には通じ政治上の形勢に対する識見をば豊かにもっていたが、思想家としての日本の指導者たる資質には幾分欠けているところがあった。
そこで世の中は磁針のない船の如く風向き次第でどちらにも動くか、また国家を盲目的な志士の徒の暴動に委するか、の他はないような情勢になった。多くの武士を含めて一般の民衆は、知力が足らず識見もなく、志士輩の宣伝に乗せられたり、世間の噂話に動かされたりするのみであったから、思想上のよき指導者がない限り、彼らみずから健実な世論を打ち建てることができなかったのである。 マキやヒラノや、サツマのサイゴウ及びオオクボ(大久保利通)やチョウシュウのカツラ(桂小五郎=木戸孝允)や、彼らの行動が、如何に軽浮であり無思慮であったか、また彼らが幕府とその政治とに対し、何事についても甚だしき猜疑の目をもってそれを見ていたか(これは小人どものすることである)あるいはまた一部の宮廷人が安政年間に開港はキョウト付近を避けよといったり、文久年間に老中のオガサワラが兵を率いて上京しようとしたときにそれを阻止しようとしたり、アイヅの武士が御所で旧式の訓練を行って天皇に供したときに発砲を禁じようとしたり、チョウシュウの兵のキョウトに乱入したときに慌て蓋めいて御所を逃げ出そうとしたりそういうことをしたのでも知られる如き怯懦の言動、またはマツダイラ・シュンガクの宮廷に対する曖昧な態度などを知るものは、上記の推測に誤りがないことを感ずるであろう。なお志士輩が「鎖国和戦紛紛議、多在偎紅倚翠中(※多くは偎紅倚翠の中に在り。偎紅倚翠中とは、遊女と戯れること)」といわれたのも、また私刑を加えて殺害したものの耳や腕を斬り取ってそれを政敵と思ったものの家に送致するような残忍なことをしたのも、彼らの人物の如何に低劣であったかを示すものである。
しかし世間の情勢がこういうものであったにもかかわらず、それによって国家の大本を誤まることが少なかったのは、上にも述べた如く皇室のおのずから有せられる精神的権威の故であった、と考える他はあるまい。昔から幾たびも皇室内部に種々の紛争が生じ、時には兵乱となるようなことがあり、または天皇もしくは上皇の播遷(ハセン)もしくは幽囚というような異変があったにしても、皇室の地位にも声望にも豪末の動揺がなく、かかる異変もいつとなく人の記憶から失われて、皇室はむかしながらの皇室として国民の尊崇の対象であったのも、このことと深い関連がある。
ここで一応日本の国学のことを考えてみよう。アブチ(賀茂真淵)、ノリナガ、アツタネ(平田篤胤)、及びそれらの門下から出た人々は、皇室尊崇の思想を鼓吹したが、如何にそれを尊崇すべきかには多く注意せず、そうしてまたトクガワ氏歴代の将軍をば、政権の掌握者として深くそれを敬重した。しかし皇室とトクガワ氏との関係については、明らかな考えをもっていなかったように見える。
彼らの最も重きを置いたのはシナの思想、特に儒教思想の排斥であって、儒者が道として説くことは真の道ではなく、王室に易姓革命の行われるのがその明証であるという。真の道は我が国の皇祖から神代のままにいまに伝えられているものであり、その意味でそれが神の道であるといわれたが、それを具体的に説くことはほとんどせられていないので、その点では儒教道徳の思想と同じく抽象的概念に過ぎず、従って現実の国民生活を指導するはたらきのないものである。国学は種々の面で儒教の影響を受けているが、ここにもその一つがあるといってよかろう。
シナの儒者は、儒教思想におけるかかる抽象概念を、一方では単なる文字上の知識としてそれを語りそれを論ずるけれども、実生活はそれとは別のものとして取り扱う場合と、それとは反対に概念をそのまま現実の生活に当てはまるものと思ってみずから欺いている場合とがあるが、それとともに、他方ではかかる概念にも実生活に何ほどかの由縁のあるものもあって、政治上における王室の易姓革命や家族生活における大家族的風習の如きがそれであるとし、そういうものにおいては概念そのものがそのまま現実の生活を示すものではないにしても、心理上それを連想し得る点があると見る。ところが日本の儒者は、シナの社会において実生活上の根拠のない、もしくは甚だ少ない概念を、シナ人の現実の生活を表示しているものの如く思いなすことが多く、国学者の儒教排斥にもそれが少なくない。そうしてそこからこういう排斥にはいろいろな錯誤が生ずるのである。
しかし国学者の意向は、マブチやノリナガの主張したような意味での儒教主義でもなく、ノリナガのいうような平安朝式「もののあはれ」でもなく、政治思想としてのトクガワ氏賛美でもなく、またアツタネ流の世界包容の思想でもなく、当時の政治問題としての王政復古の主張などとも連結の少ないものであった。いろいろの世情の動きや政治的勢力の盛衰や権力者の権力の趣向や一般の思想界の情勢やに引きずられて、彼らの思想そのものが混乱もし動揺もし、畢竟は時の権勢に左右せられていたのである。要するに復古でも維新でもなく、はっきりした志向をもたないものが国学者には少なくなかった、というべきであった。国学者というものの性質上、王政復古を喜ぶ傾向があったことは事実であろうが、こういう思想は水戸学のものももっていたから、必ずしもいわゆる国学者に特有のことではなかったようである。
こういうようにして儒教の道徳論にもそれを排斥する国学者のにも多くの錯誤があるが、ヨーロッパやアメリカから伝えられた道徳思想についても、またそれに似たことがある。フクザワは、西洋からは書物によっていろいろの新知識を得たが、ただ修身を教え道徳を説いた書物はまだ見たことがなかった。ところが、明治元年に慶應義塾の人が偶然書肆の(ショシ)の店頭でアメリカで出版せられたウェーランドという人の編纂した修身書を見つけ、こういうもののあることをいままでは知らなかったといって、さっそくそれを求め、塾の教科書としてそれを使うことにした、ということをいっている。
フクザワの書き方で見ると、人の道徳は家庭の教養や世間の風尚やによって、つまり日常の生活によって、自然に養われてゆくものとは思わず、やはり書物によって教えられる知識として考えていたのではないか、少なくともそういう傾向が、たぶん無意識の間に、彼の思想の一隅にあったのではないか、と感ぜられる。道を教えるものとしての儒教の書物などを読み慣れていた彼には、そういうところがあったとしても不思議ではないであろう。ウェーランドのこの書は今日いう倫理学を講じたものでも研究したものでもないが、題号を道徳學としてあるのでも知られる如く、単なる教訓の書ではなくして、ある程度に体系を整えて一般道徳の要綱を述べたものであるから、こう考えられたことにも一理由があるけれども、そればかりではないように思われる。なお西洋の道徳の書がどのような形で日本に入ってきたかについては、別に述べる機会があろう。