オリンピック開催に突っ走る政府や組織委員会関係者の、国民の命と生活を後回しにしたような発言およびオリンピック開会式演出に関わる重要人物の辞任・解任が続き、やっとその背景に迫る文章を目にするようになりました。朝日新聞の”人権意識、日本の低さ露呈、歴史認識、世界標準とズレ”というような文章がその一つです。これは、高橋哲哉東京大学名誉教授や佐藤卓己京都大学大学院教授の主張を短くまとめたもののようですが、本当に深刻な問題だと思います。でも、現在の日本では、日々歴史の修正が進み、歴代最長といわれる安倍政権によって、もはや後戻りが難しいのではないかと思われるほどひどい状態になってしまったように思います。
「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれたことに象徴されるように、南京大虐殺の問題も、日本軍「慰安婦」の問題も、徴用工の問題も、まともに議論することができないような状態になり、日本人の歴史認識は、国際社会のそれと乖離する一方ではないかと思うのです。
先日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会が、長崎県の端島炭鉱(軍艦島)などからなる世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」について、朝鮮半島から連行され労働を強いられた人々についての日本の説明が不十分だとして、「強い遺憾を示す」とする決議を全会一致で採択したことが報道されました。日本政府が、犠牲者を記憶にとどめるための措置を登録時に約束したにもかかわらず、それを守らず、逆に正当化するような内容にしてしまったことが決議に至ったのだと思います。安倍前首相が会長をつとめる創生「日本」に結集する自民党員のなかには、さっそく、”政治的偏向が目立つユネスコ”からの脱退を主張する声が出ているとのことですが、政治的偏向が目立つのは、歴史の修正を進める安倍・菅政権の方だと思います。
戦時中、九州の炭鉱では、”一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島”と怖れられたといいます。
また、端島の桟橋に残る石造りの門は一生出られない”地獄門”と言われ、崎戸島は”鬼ヶ島”、高島は”白骨島”と呼ばれて脱出不可能の孤島として怖れられていたのだといいます。そんな端島の高島町役場端島支所の廃墟で、1925年から1945年に至る20年間の「火葬認許証下附申請書」と「死亡診断書」の束が発見され、それがきっかけで、島における悲惨な労働者の実態が少しずつ明らかにされていったといいます。徹底した調査と聞き取りをもとにした林えいだい氏の「死者への手紙-海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち」(明石書店)を読めば、ユネスコ世界遺産委員会の「強い遺憾を示す」とする決議を、政治的偏向などという政治家の政治的偏向こそ、救いがたいレベルではないかと思います。
日本はかつて、リットン報告書の採択と満州国不承認に関する案に、44か国中42か国が賛成したにもかかわらず(反対は日本のみ、シャム=現在のタイが棄権)、これに抗議して国際連盟を脱退し、孤立の道を歩んだことを忘れてはならないと思います。自らの意見が通らなければ脱退するということでは、民主主義国家とは言えないのだと思います。ユネスコは、195か国が加盟する国際組織です。”政治的に偏向している”というとらえ方はもちろん、分担金拠出を云々することも、恥かしいことだと思います。自らの主張が通らない時は、理解を得るために、研究会を重ねるなど、地道な日常活動をくり返すことが、文明国には欠かせないと思います。それをしようとしない政治家が、日本の政治を担っているために、現在の日本は、歴史問題の本質をみんなで考えようとする「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」のような活動が、脅しによって中止に追い込まれるようなことになっているのではないかと思います。
だから、”日本を取り戻す”などと言って戦前回帰を進め、国際社会と逆方向に進もうとする日本の現状を踏まえ、今回は、「日本国起」と「過去を見る眼」で触れたGHQの文書、「JAPAN:FREEDOM OF WORSHIP」(日本:信仰の自由)から、要所を抜萃することにしました。
この文書には「National Shinto」(国家神道)、「the nationalistic cult」(国家主義のカルト)、「danger to the peace」(平和への脅威)と刺激的な文言が並び、「Yasukuni」(靖国)の文字とともに、「…could be closed」(閉鎖できる)とあったというので、記録しておきたいと思ったのです。
先日、軍務課内政班班長の竹下正彦中佐が書いた「機密作戦日誌」の8月9日から8月15日の部分を抜粋しました。
そこには、昭和二十(1945)年、ポツダム宣言受諾のいわゆる「御聖断」が下された後、阿南陸相が自決を決断し、自決にあたって竹下中佐(阿南陸相の義弟)にいろいろ言い残している内容が、詳しく記録されていました。その中の一つに、”米内ヲ斬レ”というのがありました。ポツダム宣言をめぐる閣議や御前会議における米内海相の、和平を進めようとする主張が受け入れられなかったのだろうと思いますが、同じ日本人で、海軍を代表する海相を、“斬レ”と指示するのは、客観的に見れば、破壊的カルトと変わらないのではないかと思います。
そしてそれが、軍人勅諭や教育勅語、戦陣訓などの教えに、忠実に従おうとするが故のものであることから、日本の国自体が、明治維新以来、破壊的カルトと変わらない考え方をする国であったのではないかと、私には思われるのです。
軍人勅諭の中には、”只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ其操(ミサヲ)を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ”などと書かれています。大事なのは”皇軍の道義”であり、人命ではないのです。明らかに、人命軽視の考え方だと思います。
戦陣訓には”夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず”とありました。
こうした考え方の背景には、吉田松陰の下記のような侵略の思想があるのではないかと思います。吉田松陰の『幽囚録』には、”皇国は四方に君臨し、天日の嗣の永く天壌と極りなきもの…”などあり、さらに、”今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礮(ホウ)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と比(ヒト)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾・呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし<「吉田松陰全集第一巻」(岩波書店)>”などとあるのです。
二・二六事件の決起将校や、昭和二十(1945)年八月十三日に、地下防空壕ニ参集し、”真剣ニクーデターヲ計画”を話し合った”竹下、椎崎、畑中、田島、稲葉、南、水原、中山安[安正]、中山平[平八郎]、島貫、浦、国武、原等、二、三課、軍務課ノ面々は、皆、軍人勅諭や教育勅語、戦陣訓はもちろん、こうした吉田松陰の考え方を学んで自分のものとしていたから、死をおそれず、”仮令(タトヘ)逆臣トナリテモ、永遠ノ国体護持ノ為、断乎明日午前、之ヲ決行セムコトヲ”話し合ったのだと思います。「機密戦争日誌」の八月十四日には、”仮令聖断下ルモ、右態勢ヲ堅持シテ、謹ミテ、聖慮ノ変更ヲ待チ奉ル”とあります。まさに、”義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟”してのことであったと思います。
また、”継戦トナレバ治安ヲ維持スルコト可能ナルモ、降服トナリテハ請ケ合ヒ兼ヌル旨述ベ、且、仮令御聖断アルモ詔書ニ副書セザレバ、効力発生セズトノ意見等述ベ、又治安出兵ノ為ニハ、筆記命令ヲ貰ヒ度旨述ベタリ。”という記述や”…一方、此ノ日、畑[俊六]元帥広島ヨリ到着、次官之ヲ迎ヘ、此ノ頃陸軍省ニ出頭セラル。白石[通教]参謀随行。原子爆弾ノ威力大シタアコトニ非ラザル旨語ルヲ以テ、元帥会議ノ際、是非其ノ旨、上聞ニ達セラレ度頼ム。”などという記述もありました。
「機密戦争日誌」八月十五日には、”十一時二十分、椎崎、畑中両君、宮城前(二重橋ト坂下門トノ中間芝生)ニテ自決。”とあります。日本の軍人にとって降伏はあり得ないということだったからだと思います。「御聖断」があったから、降伏するというのでは、大戦末期に太平洋の島々はじめ、いたるところでいわゆる「玉砕戦」を展開した部隊や、万歳突撃や特攻で命を捧げた兵士に言い訳ができないということだろうと思います。
GHQの占領政策を、日本人の「精神的武装解除」であり「日本の心的去勢」を意図するものであると言った徳富蘇峰は、戦後の日本を嘆き、”此頃ハ藤田東湖も松陰モ 説ク人モナク聴ク人モナシ”という歌をよみましたが、藤田東湖の「弘道館記述義」や吉田松陰の「幽囚録」、江戸時代後期の思想家、佐藤信淵の『宇内混同秘策』などの考え方が、若き将校たちの思想の背景にあったことはまちがいないと思います。『宇内混同秘策』には、”皇大御国は大地の最初に成れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし”とありました。また、”凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。”ともありました。
だから私は、戦前の日本という国自体が、自国を神国とする優越的立場で、拡大(侵略)を意図し、人命軽視・人権無視をする国、すなわち破壊的カルトと変わらない考え方をする国であったと思うのです。そうした意味で、GHQの文書、「JAPAN:FREEDOM OF WORSHIP」(日本:信仰の自由)は、日本のカルト的側面を正しく認識していたと、私は思うのです。
下記は、「靖国 知られざる占領下の攻防」中村直文NHK取材班(NHK出版)から、関連部分を抜萃しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第一章 国家のカルト
アメリカとYasukuni
・・・
靖国神社を巡る日米の攻防をテーマにした企画が通り、私たちは本格的にロケをスタートさせていた。取材の大きな柱の一つがアメリカであった。
アメリカ側の取材の出発点は、冒頭でも触れた太平洋戦争中のアメリア政府の極秘文書である。きっかけは、占領史研究の第一人者、竹前栄治氏との出会いだった。
東京経済大学名誉教授の竹前氏は、東京都立大学大学院博士課程を修了。米ハワイ大学やカリフォルニア大学大学院に留学し、フルブライトの研究員としても渡米した経験を持つ”アメリカ通”である。連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers=GHQ/SCAP)の残した膨大な資料を翻訳・整理した研究者として名高い。また戦後、GHQの高官たちに聞き取り調査を行い、貴重な証言記録を残したことでも知られる。
その竹前氏の自宅を訪ね、「アメリカと靖国」という取材の趣旨を説明すると、強い興味を示した。
「占領史研究の分野においては、靖国神社はほとんど手つかずですね。その視点で資料をさがせば、新しい何かが出てくるかもしれない」
竹前氏はマイクロフィルム化された膨大な占領期の資料を見る作業で目を酷使し、五十歳ごろに失明した。しかし研究内容を詳細にいたるまで鮮明に記憶していて、占領期に関する人物名や資料名は即座に出てくる。竹前氏は、「靖国」に関してアメリカ側のどのような資料にあたればいいのかすぐにアドバイスしてくれた。そしてアメリカ政府のGHQの資料を探す作業に関しては、専門家の手を借りたほうが早いと、在野の研究者を紹介してくれた。
竹前氏が紹介してくれた笹本征男氏は、竹前氏のもとでGHQの膨大な資料の整理や解析に従事してきた。占領史研究者としても知られており、終戦直後、日本軍が原爆の被害調査をどのように行い、それがいかにしてGHQに渡ったのか、独自の視点で日本の敗戦処理を研究している。
指定された渋谷の喫茶店に行くと、気難し気な初老の男性が待っていた。笹本氏だった。挨拶すると、ニコリともせずに、「竹前先生にこの資料を持っていけと言われましてね」、そうつぶやいておもむろに一通の文書のコピーを差し出した。「極秘」と書かれた英文の文書である。右肩に「PWC-115」、見出しには「JAPAN:FREEDOM OF WORSHIP」(日本:信仰の自由)とある。
「PostWar Programs Committee(PWC)、戦後計画委員会というのは、太平洋戦争中にアメリカ国務省内に設置された委員会でね、日本の占領政策をどうするか、天皇制だとか教育だとか、テーマごとに分かれてひそかに議論していたわけです。それで、この『信仰の自由』なんですけどね、日本の軍国主義・超国家主義を助長したとされていた国家神道をどう扱うべきか、議論したものなんですよ」
笹本氏に手渡されたその文書の一言一句を、私は目を皿にして見つめた。「National Shinto」
(国家神道)、「the nationalistic cult」(国家主義のカルト)、「danger to the peace」(平和への脅威)と刺激的な文言が並ぶ。さらに見ていくと、「Yasukuni」の文字があった。「…could be closed」(閉鎖できる)とある。
私が驚く様子を見ながら、笹本氏は続けた。
「占領史をかじっている人間であれば、もちろんこの文書の存在自体は知らないわけではない。ただ、なぜか占領史研究においては、『靖国』はまとまった形で取り上げられてこなかったんです。いいいですか、『靖国』はまだまだ未知の領域なんです。このPWC文書も改めて『靖国』という視点で見ると、実に面白い」
強面で気難しそうに見えた笹本氏は、いったん話始めると饒舌だった。話はしだいに熱気を帯びていった。
「戦前のほかのアメリカ政府の文書もね、いろいろ調べ直したんですよ。でも明確に『靖国』のことに触れているモノはこれだけなんですね。なぜほかにないのか。『靖国』についてはこの文書が最初で最後なのか。はたしてこの文書の内容と実際の占領政策はどう関係しているのか。かえって疑問が深まるばかりなんですよ。いずれにしても、この文書を入り口に、今度は占領期のGHQ文書を『靖国』という視点で徹底的に洗わないといけないでしょうね」
私は手渡された文書の「Yasukuni」とタイプされた部分にクギづけになったままだった。驚きを禁じえなかった。文書が作成されたのは昭和十九(1944)年三月。終戦の一年半も前である。まだ戦争の帰趨も明らかでない時期に、アメリカ政府はすでに靖国の閉鎖を検討していたのである。
驚きと同時に疑問も膨らんだ。靖国神社の閉鎖を検討していたとすれば、それはなぜだったのか。
笹本氏と会った四か月後、私たちは極秘文書「PWC-115」のコピーを握りしめて、アメリカの地を踏んだのである。
・・・
国家主義のカルト
・・・
昭和十六(1941)年十二月、真珠湾攻撃による太平洋戦争が勃発すると、翌夏、アメリカ国務省で戦後政策を検討していた特別調査部領土小委員会に東アジア班が設置され、対日戦後政策の議論が本格的に始まった。アメリカは、日本との戦争に乗りだす一方で、勝利を前提に日本の占領政策を議論し始めたのである。
昭和十九(1944)年一月、陸軍省と海軍省から極東地域の占領統治に関する質問を受け、具体的な立案作業を開始する。推進したのが国務省の内部機関「戦後計画委員会」(Postwar Programs Committee=PWC)であった。PWちゃ国務長官コーデル・ハルと上級官僚によって構成され、その下部機関として「部局間極東地域委員会」(Inter-Divisional Area Ccommittee on the Far East)が置かれた。この極東地域委員会が主に対日政策を担当することになる。
中野剛創価大学教授は、「アメリカの対日宗教政策の形成」(井門富士夫編『占領と日本宗教』所収、未來社)の中で、当時国務省の立案者たちは大きく二つの立場に分かれていたとしている。一つは「天皇制の全面廃止」を主張する強硬論のグループ、一般に「中国派」と呼ばれた人々であり、彼らは、「日本の侵略思想と天皇制は不可分の関係にある」と考えていた。その一方で、強硬派の方法に疑問を挟む第二のグループが存在した。いわゆる「知日派プランナー」たちである。彼らも、日本軍国主義と侵略思想の根絶という目標においては「中国派」と一致していたが、これらの目標が天皇制の廃絶によって達成できるとは考えなかった。
PWCの下部機関、部局間極東地域委員会のメンバーは、「知日派プランナー」と呼ばれた国務省官僚や学者によって構成されており、戦後の対日政策について、「天皇制」「軍隊」「教育制度」など具体的なテーマを掲げて文書を作成した。その一つが「PWC-115」文書のテーマ「信仰の自由」だったのである。
「信仰の自由」は、当時のアメリカ政府にとって重要なキーワードの一つであった。すでに第二次世界大戦が始まっていた昭和十六(1941)年一月、ルーズベルト大統領は年頭教書の中で、日独伊枢軸国の脅威とそれに対する自由主義諸国の戦いの意義について述べた。その中で、「合衆国政府が目指す世界、戦後の世界が基礎づけられるべき原則として『四つの自由』を宣言」した。四つ自由とは
、すなわち「言論の自由と表現の自由」「神を崇拝する自由」「欠乏からの自由」「恐怖からの自由」である。
「PWC-115 日本・信仰の自由」は、アメリカが、第二次世界大戦の果てに確立すべきと考えていた”四つの自由”の一つを日本にどう”適用”するか、という重要な議論であった。
「PWC-115」文書の冒頭は、次のような問題提起で始まる。
極端な国家主義から、宗教としての神道を区分することは困難だとの見地に立って、日本において占領軍が信仰の自由を許可すべきか否か(後略)
(「神社新報」昭和五十(1975)年十二月十五日号による。神社新報社)
極端な国家主義と結びついている神道とは、すなわち「国家神道」を指す。当時、アメリカ国務省内部で最大の焦点にとなっていたのは天皇制の取り扱いであったが、「国家神道」は天皇制と結びつき、日本の軍国主義・超国家主義を支える”イデオロギー”として注目されていた。
そもそも「国家神道」とは何か。その言葉の定義については、現在でも専門家の間で解釈が大きく分かれている。島薗進東京大学教授は、「国家神道」という言葉について、「戦前の神社神道が国家と特別の結びつきをもっていたことに限定して用いようとする用法」と、「明治維新から敗戦まで間
、国家が神道的な思想や実践を国民統合の支柱として用いてきた、その総体を指そうとする用法」(島薗進「国家神道」と近代日本の宗教構造」、「宗教研究」329号所収、2001年)、つまり、狭義の前者と広義の後者という二つの定義が存在すると指摘している。
いずれの定義にも共通するのが、戦前の日本において、神道あるいは神道的なものが国家と深く結びついていた、ということである。PWCが問題提起したのはまさにそこにあった。国家と結びつき、軍国主義・超国家主義を支えた「神道」をも、「信仰の自由」の対象として認めるのか──。
それに対する議論は次のようなものであった。
連合国は信教の自由(筆者注:原文はfreedom of religious worship)の原則を約束している。この原則を日本に適用することは、近年の日本の国家主義者たちが、神道の本来の姿である無害な原始的アニミズムの上に、現在国家主義者によって狂信的なまでに、愛国的かつ侵略的な日本の拡大のために利用されている国家主義的天皇崇拝(筆者注:原文はa naitionalistic Emperor-worshiping cult)を上乗せしめてきたという事実により、複雑な情況となっている。
この問題を考察するにあたっては、神道のもっている二つの側面を明かにする必要がある。古神道は、それ自体は我々の利益に対し有害なものではない。しかし、極度に好戦的な国家主義の儀礼(筆者注:原文は the cult of extreme militant nationalism=極度に好戦的な国家主義のカルト)である国家神道は明らかに太平洋地域として、恐らく世界の平和に対する危機の根源の一つである。天皇制度が、それから生じた誤用のために、合衆国においてしばしば非難されているのとちょうど同じように、古神道もその上につぎ木された国家主義的信仰(筆者注:原文はnationalistic cult=国家主義的カルト)のために非難されている。(前掲、「神社神宝」)
PWCは、「国家主義的カルト」は、無害な原始的神道の上に「天皇崇拝」や「狂信的なまでの国家主義(超国家主義)」、「攻撃的な軍国主義」などの要素が加わって生み出された、と分析する。国家神道は世界平和にとっての脅威であると断罪し、マメリカが戦場で目の当たりにした日本軍の”狂気”の源泉がそこにあると考えたのである。
では、具体的に日本の神社の中でどれが”危険”なのか。
PWCは約十万の神社を三つに分類し、その中で初めて「靖国」について言及する。
(a)大多数の神社は、古代的起源にもとづくものであり、地方の守護神が祀られている。それらは地方的な祭りの場であって、厳密に宗教的な神社であると解釈され得る。
(b)天照大御神(The Sun Godess)が祀られている伊勢の大神宮のごとき少数の神社もまた古代的宗教の神社ではあるが、それに国家主義的象徴のメッキが施されている。
(c)靖国(神社)、明治(神宮)、乃木(神社)、東郷(神社)その他の国家的英雄を祀る近代的神社のいくつかは、我々が理解するごとき意味における「宗教」的信仰の場なのではなくして、国家主義的軍国主義的な英雄に対する崇拝および戦闘的国民精神の涵養(カンヨウ)のために祀られた国家主義神社(nationalistic shrine)である。
この最後に挙げた種類の神社は日本政府も「国家神道は宗教ではない。むしろ愛国精神の発露である」と繰返して主張しているのであるから、信教の自由の原則を犯すことなく閉鎖し得るものである。
(前掲 「神社新報」)
PWCの議論において、もっとも”国家主義的”な存在とみなされたのが靖国神社をはじめとする明治以降に作られた新しい神社であった。日本が「国家神道は宗教ではない」と主張していることを逆手にとって、靖国神社は「宗教」ではないからアメリカの掲げる「信仰(信教)の自由」を侵すことなく、靖国神社を「閉鎖」できるとしたのである。
「神社は宗教ではない」という考え方については、明治以来、日本政府が一貫して主張してきたことであった。明治三十三(1900)年、内務省に神社局が設置され、神社とほかの宗教の管轄が切り離されたときをもって、「神社非宗教」が法制度的に確立したとされるが、このとき「神社は宗教にあらず」ということが明確に国家の仕組みとして示され、国民を精神的に統合する中核としての役割が神道に託されたのである。戦前の日本では「敬神崇祖(ケイシンスウソ)」、つまり神を敬い祖先を尊ぶということが、国家理念であり国家神道の観念だと考えられていた。
このことについて阪本是丸國學院大學教授は、以下のように指摘している。「(前略)全国民に『敬神崇祖』の観念を普及・徹底させること、やがてこれが国家および大多数の国民の統一意志となる。その最大の契機が昭和六年の満州事変であり、それ以降の準戦時体制であった。」(「国家神道体制の成立と展開」、前掲、井門富士夫編『占領と日本宗教』所収)。戦争の拡大にともなって、国家をまとめる精神的な役割が国家神道に託されたのである。
皇紀二千六百年にあたる昭和十五(1940)年には、神祇院が創設され、「敬神崇祖」の普及が国家の公式行事となった。「『国家神道』にはじめてイデオロギー・思想が付加」(前掲「国家神道体制の確立と展開」)されたのである。小中学校の児童・生徒にも神社参拝が義務づけられ、一般国民にもそれが奨励された。
PWCは、こうした戦時中の日本国内の”変化”を確実にとらえていた。軍事的拡大に伴って国家と神道の関係が変化していったこと、神道が国家によって”利用”されている部分があることに気づいていたのである。
「靖国閉鎖」に言及したPWCだが、一方で次のような指摘もしている。
国家神道儀礼(筆者注:原文はカルト)の国民への影響力を弱めるためには軍事的敗北と軍隊の動員解除と同時期にこのような神社を容認して置くのが、それを強制的に閉鎖してしまうよりは、むしろより役立つかもしれない。なぜなら、強制的閉鎖は却ってその信仰(筆者注:原文はカルト)を強める傾向となるおそれがあり得るからである。
靖国神社を閉鎖できる、という明快な結論を出しながら、PWCはその閉鎖がもたらす弊害も念頭に置いていた。結論として、PWCは、「国家とのあらゆる結びつきを断った上での存続」という慎重かつ穏健な方向性を示した。
結果だけ見れば、靖国神社の処置はPWCが提言したとおりになったのだが、現実の占領において具体的に採られた政策は、必ずしもPWCの政策提案を直接反映したものではなかった。連合国軍総司令部(GHQ)の政策のもととなったのは、PWCが解散したのちに、政府と軍部の統合的な政策を作るべく設けられた「国務省、陸軍省、海軍省三省調整委員会」(State-War-Navy Coordinating Committee=SWNCC)の諸決定であった。しかし、 SWNCCの文書には靖国神社についての具体的な提言は一切残っていない。靖国を存続させるか否かという議論は、占領下、GHQ内部で”再燃”することになる。