日本人として、日本を誇りたい、また、日本の歴史を誇りたい、という気持ちはよく分かります。でも、だからといって、不都合な歴史的事実に眼を閉ざし、歴史を客観的にとらえようとすることなく、日本でしか通用しない歴史を語ることは許されないと思います。
資料1は「えがかれた日清戦争 文学と歴史学のはざまで」小笠原幹夫(星雲社)の中の「福沢諭吉と帝国主義」の一部を抜粋したものですが、見逃すことの出来ない記述がありました。日清戦争を侵略戦争としてではなく、近代化を進めるために不可避の戦争であったとして、肯定的に受け止めるためでしょうが、
”日清戦争の十年前にフランスは、インドシナ半島の完全植民地化をめざし安南(ヴェトナム)を攻略した。清国は宗主権を主張してゆずらず、その結果清仏戦争が起こった。清国は敗退し、フランスが安南を保護国化することを認めた。直接に植民地獲得をめざした軍事行動として、日清戦争よりも権益拡大の意図は明瞭だが、フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。朝鮮が独立国であることを江華条約で明言した日本が、清国の宗主権を否定する行動をとったとしても、国際法上これを制裁する根拠はなかった。”
と書いています。
”フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。”ということで、日清戦争も侵略戦争ではなかったと言いたいのでしょうが、それはあまりにも勝手な解釈、勝手な主張だと思います。”見解はない”という事実認識に問題があると思いますし、何より、ハーグ陸戦条約や赤十字条約、不戦条約その他の国際条約成立の経緯を無視するものではないかと思います。
私は、他国に軍隊を送り戦争をすることは、当時欧米を中心とする先進国においてすでに確立していた市民社会の法と矛盾する側面が多々あり、いろいろなところで多くの犠牲を出してきたこともあって、それらの条約が徐々に成立していったのではないかと思います。また、フランスにたいする安南(ヴェトナム)民衆の激しい反抗は、フランスのヴェトナム攻略が正当なものであったかどうかという判断では、無視されてはならないと思います。
現在の国際法が相互主義を原則にしていることを踏まえると、植民地化された側はもちろん、関係国や国際世論などの判断抜きに、”フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。”などと根拠を示さず断定し、だから、日清戦争も侵略戦争ではなかったというのはいかがなものかと思います。「己の欲せざる所、人に施す勿れ」は、中国,春秋時代の言葉だといいますが、これに類する考え方は、洋の東西を問わず存在するわけで、こうした考え方に基づいて様々な法が整備されてきたを経緯を無視して、侵略する側の判断だけで、侵略戦争を正当化してはならないと思うのです。
”制裁する根拠”がなかったから、日清戦争は侵略戦争ではなかったといえるでしょうか。残念ながら、国際法は現在もなお、ほとんど制裁規定はないのではないでしょうか。さらに、
”あらたな植民地の獲得は、第一次世界大戦の国際条約によって初めて禁止されたが、それ以前は合法であった。”
というのもいかがなものかと思います。植民地獲得禁止の国際法が整っていなかっただけで、”合法”などといえるものではなかったと思います。当時すでに、欧米を中心とする先進国の市民社会は、ハーグ陸戦条約や赤十字条約、不戦条約などの国際法に結びつく国内法を持っていたこと、そしてそれが、一国が他国の領土を武力によって占有することを禁じる現在の国際法に発展したことを無視してはならないと思います。一国が他国の領土を武力によって占有することを認める国際法が存在したことはなかったと思います。したがって、”合法”とは言えないのではないでしょうか。
さらに言えば、朝鮮が独立国であることを江華条約で明言した日本が、朝鮮の主権を侵すような政策を進めたために、李氏朝鮮は日本ではなく、清国やロシアに頼り、国際社会にも訴えたのではないかと思います。「侵略か否か」の判断では、そうした側面も無視されてはならないと思います。
また、”反日歴史家たちは”以下の文章には驚きました。「慰安婦」の問題を論じることが、”珍妙な攻撃材料”であるというのは、どういうことでしょうか。「慰安婦」の問題など論じる必要はないということでしょうか。私は、大学で若者を指導する小笠原幹夫氏が、自ら歴史修正主義者であることを宣言されているように感じ、残念に思いました。こうした文章は、学者や研究者の文章ではないと思います。
福沢諭吉の「脱亜論」に関しては、『福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」』月脚達彦(講談社選書メチエ)に重要な記述が取り上げられていましたので、こちらから抜粋しました(資料2)。福沢諭吉が矛盾したことをいろいろ書いていることはよく知られていますが、それは、福沢諭吉自身の
”「天然の自由民権」論は「正道」であるが、しかし「近年各国において次第に新奇の武器を工夫し、又常備の兵員を増すことも日一日より多」いという無益で愚かな軍備拡張が横行する状況では、敢えて「人為の国権論」という「権道(ケンドウ)」に与(クミ)しなければならない”
と書いていることを踏まえて読めば、かなり理解できるように思います。また、福沢諭吉は、日清戦争前後は、明治政府の政策を追認するかたちで、”「権道(ケンドウ)」に与(クミ)”する記事を書き続けたことも忘れてはならないと思います。その時々の状況に合わせて、明治政府を代弁するかのような文章を多く書いているため、一貫した思想の表現にはなっていないのだと思います。また、”止むを得ざるの場合においては、力を以て其進歩を脅迫するも可なり。”と侵略戦争さえ肯定する考え方を「脱亜論」で示していることは、見逃してはならないと思います。
資料3は同書の「脱亜論」の部分です。著者が三つの部分に分けて解説しているものを、解説抜きで抜粋しました。
福沢諭吉は当初、日本は”アジアの盟主たれ”と主張していたのですが、「脱亜」にきりかえたのは、明治政府の政策との関係があったのではないかと思います。また、
”進歩の道に横たはるに古風老大の政府なるものありて、之を如何ともす可らず。政府を保存せん歟(カ)、文明は決して入る可らず。如何となれば近時の文明は日本の旧套と両立す可らずして、旧套を脱すれば同時に政府も亦廃滅す可ければなり。”
とありますが、明治維新を成し遂げた薩長は尊王攘夷を主張して、開国政策を進めていた幕府を倒したのですから、そこには矛盾がありますが、薩長が開国に転じたので、倒幕の理由など問う必要はない、ということなのでしょうか。
第三の部分は、「アジアの盟主論」では、明治政府と一体となって近代化を進めることが難しいため、朝鮮や中国を徹底的に貶し”悪友”とであるとして、”西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。”と、植民地化することも容認する主張をしているのではないかと思います。だから、中国・朝鮮を蔑視する「自尊他卑」の考え方で、”国民の戦意を煽った”という批判を、否定することはできないと思います。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
福沢諭吉と帝国主義
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たとえば日清戦争についてみれば、清国の朝鮮との間の宗主・朝貢関係は、万国公法上の植民地ないしは保護国の要件をみたしていなかったが、欧米列強は事実上これを黙認していた。したがって清国に既得権があったともいえるが、第三国が清国と朝貢国との間にはいり込んで、権益拡大を企てた場合には、万国公法にはこれを制御する規定はなかった。じじつ、フランスのコーチシナ進出、ロシアのイリ地方への領土拡大、イギリスのビルマ併合などはすべて合法的とみなされていた。とりわけ、日清戦争の十年前にフランスは、インドシナ半島の完全植民地化をめざし安南(ヴェトナム)を攻略した。清国は宗主権を主張してゆずらず、その結果清仏戦争が起こった。清国は敗退し、フランスが安南を保護国化することを認めた。直接に植民地獲得をめざした軍事行動として、日清戦争よりも権益拡大の意図は明瞭だが、フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。朝鮮が独立国であることを江華条約で明言した日本が、清国の宗主権を否定する行動をとったとしても、国際法上これを制裁する根拠はなかった。
日清戦争の開戦時には、イギリスとロシアは戦争に干渉する姿勢を示すが、それは日本の行為が国際法違反だからではなく、自国の利害がそこにからんでいると考えたからである。したがって、朝鮮半島およびその周辺で日本が自国の権益を伸長するために起こした軍事行動は十分に容認しうるものであり、清国領土への進攻も含めて、現在の国際常識に照らして、侵略と判断するとしたら、それは明らかな時代錯誤というものである。「他がみんなやっているからといって免罪されない」という主張は道徳の話としては聞いてもいいが(小学生の道徳ではあるが)、法の運用の話になるとまったく別である。
あらたな植民地の獲得は、第一次世界大戦の国際条約によって初めて禁止されたが、それ以前は合法であった。(日韓併合ののちも、フランスはモロッコを、イギリスはアフリカのリビアを保護国としている。)既得の植民地の放棄、すなわち民族自決権が事実として否定できなくなるのは第二次大戦後である。
十九世紀の後半からニ十世紀の初頭にかけては帝国主義の花ざかりで、平たくいえば、植民地を奪取するくらいの国力がなければ国家として一人前ではないという時代であった。かつて銀幕を彩った『モロッコ』『外人部隊』『アフリカの王女』『地の果てを行く』といった作品は、植民地拡大をめぐるナショナリズムの高揚を背景にしていた。過去における対外進出・膨張政策を”悪”とするのは、一部日本人の勝手な思い込みであって、けっして世界普遍の心情ではない。むしろ過去に植民地を持った国のほとんどは、誇りある来歴として、かつての栄光を子孫に語っている。
福沢諭吉の『脱亜論』は、明治十八年三月十六日の「時事新報」に発表された。読み切りの片々たる小論で、発表当時はさして話題にならなかった。内容があまりにも当たり前すぎるので、反論の余地がなかったのであろう。
ところがこの『脱亜論』なるものが、富田正文氏が、
第二次世界大戦の終わったあとで、私は電話で、福沢諭吉に「脱亜論」という論説があるそうだが、それは『全集』のどこに載っているかと尋ねられたことがある。いまその質問者の名を思い出せないが、「脱亜論」の名が俄(ニワカ)に高くなったのは、そのころから後のことである。
と指摘しているように、近年、反国家の思想を持つひとびとによって槍玉にげられている。批判の理由は、福沢は、アジアをばかにしている、自国独善主義である、「入欧」一辺倒主義である、すなわち明治後の”権力悪”を象徴している、というのである。とんでもない話で、福沢の「脱亜論」がどういう意味をもっていたのか、原文を一読すればそういう誤解が牽強付会であることは分かるはずである。反日歴史家たちは、柄のないところに柄をすげて、革命を起こすためなら、大恩人の福沢先生さえ引きずりおろす、というわけだ。もっとも日本がいまだに絶対主義王政だと信じている人たちは、福沢諭吉にさほど恩を感じていないのかもしれないがーー。ちなみに、最近ではこの革命幻想がなくなったため、反日行動が無目的・愉快犯的になり、自制心がきかなくなって、かえって過激・悪質化している。(「慰安婦」などという珍妙な攻撃材料がでてきたのもそのためであろう。)
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
序章 福沢諭吉の朝鮮論をどう読むか
福沢のアジア盟主論
初めて朝鮮人と出会った1880年の年末から、福沢は『時事小言』の執筆に取りかかる。この著作は福沢がある意味で転向を宣言したものだった。福沢は同書の第一編「内安外競之事」の冒頭で、「天然の自由民権」論は「正道」であるが、しかし「近年各国において次第に新奇の武器を工夫し、又常備の兵員を増すことも日一日より多」いという無益で愚かな軍備拡張が横行する状況では、敢えて「人為の国権論」という「権道(ケンドウ)」に与(クミ)しなければならないとして、次のように宣言する。
他人愚を働けば我も亦(マタ)愚を以て之(コレ)に応ぜざるを得ず。他人暴なれば我亦暴なり。他人権謀術数(ケンボウジュツスウ)を用いれば我亦これを用ゆ。愚なり暴なり又権謀術数なり、力を尽くして之を行ひ、復(マ)た正論を顧るに遑(イトマ)あらず。蓋(ケダ)し編首に云へる人為の国権論は権道なりとは是の謂(イイ)いにして、我輩は権道に従ふ者なり。
仮令(タト)ひ我一家を石室にするも、近隣合壁に木造板屋の粗なるものあるときは、決して安心す可(バカ)らず。故にか火災の防禦を堅固にせんと欲すれば、我家を防ぐに兼て又近隣の為に其予防を設け、万一の時に応援するは勿論、無事の日に其主人に談じて我家に等しき石室を造らしむこと緊要なり。或(アルイ)は時宜に由り強(シイ)て之を造らしむも可なり。又或は事情切迫に及ぶときは、無遠慮に其地面を押領して、我手を以て新築するも可なり。蓋し真実隣家を愛するに非ず。又悪(ニク)むに非ず、唯自家の類焼を恐るればなり。
今西洋の諸国が威勢を以て東洋に迫る其有様は火の蔓延するものに異ならず。然るに東洋諸国殊(コト)に我近隣なる支那朝鮮等の遅鈍にして其勢に当ること能はざるは、木造板屋の火に堪へざるものに等し。故に我日本の武力を以て之に応援するは、単に他の為に非(アラ)ずして自ら為にするものと知る可(ベ)し。武以て之を保護し、文以て之を誘導し、速に我例に傚(ナライ)て近時の文明に入らしめざる可らず。或は止むを得ざるの場合においては、力を以て其進歩を脅迫するも可なり。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「アジア主義」の成立と福沢諭吉
社説「脱亜論」の内容
『時事新報』1885年3月16日社説「脱亜論」第一の部分
世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、到る処、草も木も此風に靡かざるはなし。蓋し西洋の人物、古今に大に異るに非ずと雖(イエ)ども、其挙動の古(イニシエ)に遅鈍にして今に活発なるは、唯交通の利便を利用して勢に乗ずるが故のみ。故に方今東洋に国するものゝ為(タメ)に謀るに、此文明東漸の勢いに激して之を防ぎ了(オワ)る可きの覚悟あれば則ち可なりと雖ども、苟(イヤシク)も世界中の現状を視察して事実に不可なるを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を揚げて共に文明の苦楽を与(トモ)にするの外ある可らざるなり。文明は猶麻疹の流行の如し。目下東京の麻疹は西国長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。此時に当り此流行病の害を悪(ニクミ)て之を防がんとするも、果して其手段ある可きや。我輩断じてその術なきを証す。有害一編の流行病にても尚且(ナオカツ)其勢には激す可らず。況(イワン)や利害相伴(アイトモノ)ふて常に利益多き文明に於てをや。啻(タダ)に之を防がざるのみならず、力(ツト)めて其蔓延を助け、国民をして早く其気風の欲せしむるは智者の事なる可し。
第二の部分
西洋近時の文明が我日本に入りたるは嘉永の開国を発端として、国民漸(ヨウヤ)く其採る可きを知り、漸次に活潑の気風を催(モヨ)ふしたれども、進歩の道に横たはるに古風老大の政府なるものありて、之を如何ともす可らず。政府を保存せん歟(カ)、文明は決して入る可らず。如何となれば近時の文明は日本の旧套と両立す可らずして、旧套を脱すれば同時に政府も亦廃滅す可ければなり。然(シカラ)らば則ち文明を防ぎて其侵入を止めん歟、日本国は独立す可らず。如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さゞればなり。是(ココ)に於てか我日本の士人は国を重しとし政府を軽しとするの大義に基づき、又幸に帝室の神聖尊厳に依頼して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中朝野の別なく一再万事西洋近時の文明を採り、独(ヒト)り日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字に在るのみ。
第三の部分(前半)
我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖も、其国民の精神は既に亜細亜の固陋(コロウ)を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰(ココ)に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ。此二国の人民も古来亜細亜流の政教風俗に養はるゝこと、我日本に異ならずと雖も、其人種の由来を殊(コト)にするか、但(タダ)しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものある歟、日支韓三国相対し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、此二国の者共は一身に就き又一国に関して改進の道を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風旧慣に恋々(レンレン)するの情は百千年の古に異ならず。此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さへ地を払(ハロ)ふて残刻不廉恥を極め、尚傲然(ゴウゼン)として自省の念なき者の如し。我輩を以て此二国を視れば、今の文明東漸の風潮に際し、迚(トテ)も其独立を維持するの道ある可らず。幸にして、其国中に志士の出現して、先づ国事開進の手始めとして、大(オオ)いに其政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先づ政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、若(モ)しも然らざるに於ては、今より数年を出(イ)でずして亡国と為(ナ)り、其国土は世界文明諸国の分割に帰す可きこと一点の疑(ウタガイ)あることなし。如何(イカン)となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら、支韓両国は其伝染の天然に背き、無理に之を避けんとして一室内に閉居し、空気の流通を絶て窒塞(チッソク)するものなればなり。
第三の部分(後半)
輔車脣歯(ホシャシンシ)とは隣国相助くるの喩(タトエ)なれども、今の支那朝鮮は我日本のために一毫(イチゴウ)の援助と為らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接するが為に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの価(アタイ)を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃(タノ)む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の国かと疑ひ支那朝鮮の士人が惑溺(ワクデキ)深くして歌学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本も亦引用五行(インヨウゴギョウ)の国かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩(オオ)はれ、朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計(ハカ)れば枚挙に遑(イトマ)あらず。之を喩(タト)へば比隣(ヒリン)軒を並べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にして然も残忍無情なるときは、稀に其町村内の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜に掩(オオ)はれ湮没(インボツ)するものに異ならず。其影響の事実に現はれて、間接に我外交上の故障を成すことは実に少々ならず、我日本国の一大不幸と云ふ可し。左(サ)れば今日の謀(ハカリゴト)為(ナ)すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧(ムシ)ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者には共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。
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