明治の元勲、伊藤博文は、日本に初めて近代憲法を誕生させた人として知られています。でも、その伊藤博文が、 1880年(明治13年)、元老院が提出した「日本国国憲按」に反対したことはあまり知られていないと思います。反対の理由は、「日本国国憲按」では、議会の権限が強く、自分たちの思うような日本をつくることができないことにあったのではないかと思います。
それは、当時「国体」について、資料1の文章にみられるような議論があったことでわかります。伊藤博文は”憲法政治は断じて国体を変更するものに非ず、只政体を変更するのみ…”と主張しているのです。伊藤博文にとっては、ヨーロッパ諸国のような立憲主義の国ではなく、”萬世一系の天皇が政治を統御せられる日本”でなければならなかったのだと思います。
それは前頁で取り上げたように、大久保利通が、当時、自らの政府が、”万機宸断ニ出ルと覚る名は有之候得共、其実は、三四の有司、擅(ホシイママ)にする政と言うべし”などという批判を受けているにもかかわらず、そうした批判を”一人として甘心する者無之、何しらぬ者迄訛笑し、外国人迄も種々異論有之由ニ聞え候。大概、是にて其浅深を謀られ、我が為にハ幸に御座候” と受け止めていたこととつながっているのだと思います。”万機宸断ニ出ル”として、”有司専制”を続けることが出来る日本を、薩長藩閥政治家はつくろうとしたのでしょう。
”萬世一系の天皇が政治を統御せられる日本”は、言い換えれば、天皇を抱き込めば「有司専制」が可能な日本ということです。資料1のような、ちょっとした回想文のなかでこそ、伊藤博文の本心が読み取れるような気がします。
資料2は、福島宜三が五代友厚に宛てた書翰です。福島宜三がどういう人物かはよくわかりませんが、文面からかなり親しい間柄であったことが察せられます。「国体」について、自らの考えを披歴しています。
その主張は、自由民権運動に関わる人たちを、”旧来ノ迷夢、尚、未ダ醒メ”ない”空手徒食ノ窮士族輩”であるとし、”昨是今非、更ニ定見ナキノ投機者流ヲシテ、民権ノ自由ノト、唱ヘシムル迄ノ事ト奉存候” と批判しています。
そして、” 彼ノ輩ハ、我日本国ノ国体ニ於テハ、万般ノ権利、皆、我聖天子ヨリ下シ賜ハルモノニシテ、決シテ、之ヲ奪ヒ返スト云フガ如キモノニアラザルコト”がわかっていないというのです。すなわち、”外国ノ治者被治者ト、我国君臣ノ関係トハ”根本的に異なることがわかっていないというわけです。
特に、” 国会開設ノ日ニ至ラバ、政府ハ勿論、恐レ多クモ九重ノ上マデモ、国会ノタメニ左右セラレ、政府ト国会トノ権衡其宜キヲ失ヒ、云フベカラザルノ弊害ヲ現出スル”と書いていることは見逃せません。国会によって、”万機宸断”による政治ができなくなり、”萬世一系の天皇が政治を統御せられる日本”ではなくなるということだと思います。「有司専制」が可能な日本をつくらなければならないと宣言しているに等しいと思います。
当時の藩閥政治家や藩閥政治家と関わる有力実業家は、”万機公論に決す”ることを望んでいなかったのだと思います。極論すれば、公議・公論や世論に左右されることなく、それらを乗り越えることの出来る日本、すなわち天皇を抱き込めば何でもできる「皇国日本」を望んだのだと思います。それが、敗戦に至る日本の歩みを止めることができなかった原因になったのではないかと、私は思うのです。
下記資料1は「憲法制定と欧米人の評論」金子堅太郎(日本青年館)から、資料2は「五代友厚伝記資料 第一巻」日本経営史研究所編(東洋経済新報社)から抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第二章 国体は變換せぬ国憲起草
是余は毎日宮中に出勤し或る日制度取調局に居ると内閣から(内閣と宮内省とは其の頃赤坂御所の一部にあった)伊藤長官が來られて、余の机の前に椅子を引き寄せ腰を掛けられて、「君は憲法政治になつても國体は變換せぬと言ふそうだがさうか」と突然問はれた。「私は左様に考えます」と答へると、「それは間違って居る憲法政治になれば国體は變換するのだ」と論駁された。
佐々木参議官の話
「今度伊藤参議が独逸に於ける憲法政治の取調の結果を内閣で各参議に話すのを聴くと、伊藤の説では憲法政治を行へば国體が變換すると言ふ。依つて吾輩は是は實に由々敷一大事と思ひ、国體は
神武以來チャンと極まつて居る。
然るに其の国體を變換するやうな憲法政治に変へなければならんと云ふことは容易ならざる事であるから、吾輩は反対論を述べた。
所が伊藤の雄辯と学識だから、僕は散々に論破されて議論を続けることが出來なかった。それから帰つて來て、漢学者を呼んで、支那に國體と云ふ字の解釈をしたものはあるかと相談したけれども、明瞭なる答辯がないので困つて居る。ところで君に相談したいのは国体と云ふ文字は欧羅巴・亜米利加では何と云ふ原語であるか。それを聴きたいと思つて手紙を出した譯だ」
と言はれた。
依つて余は佐々木参議に向ひ「國體と云ふ文字は日本特有の政治的名稱であつて欧羅巴・亜米利加の政治学、法律学に日本で謂ふ國體と云ふ文字に適当したもののあることを知りません。
抑々国体と云ふ文字は水戸の烈公が「弘道館記」の碑を建てられた其の文中にあります。それを藤田東湖が解釈して「弘道館記述義」と云ふものを書きまして初めて日本の国体を明瞭に解釈したやうに思ひます。
卽ち
恭惟上古神聖立極垂統天地位焉万物育焉其所以照臨六合統御宇内者未嘗不由斯道也宝祚以之無窮国体以之尊厳
とある。是れ日本は萬世一系の天皇が君臨して政治を統御し給ふに依つて宝祚が無窮で国体が尊厳である。萬世一系の天皇が政治を統御せられることが日本の国体である。
蓋し国体と云ふ文字は日本特有の政治名称であつて欧羅巴・亜米利加にはありません。彼の国には政体と云ふ文字はある。卽ち共和政体又は君主政体と謂ふ。併し日本の国体に適当する文字はありません。又日本に於ても欧米と同じく政体と云ふ文字はある。卽ち、天皇親政の政体之を郡県制度と謂ひ或は幕府政治の政体、之を封建制度と謂ふ。蓋し、時勢と場合に依つて政体は變貼りますけれども国体は變はりません。假令憲法政治になろうとも日本の国体は少しも變はりません。
と答えたという。
その後、明治四十一年二月十一日、憲法発布二十年を祝する園遊会で、伊藤博文が、下記のような演説をしたという。
「皇上陛下が憲法の政治を建てさせられんとするに付いては其の憲法は国体に如何なる関係を及ぼすや否やと云ふの説、當時学者間に於ても種々の議論があつた。然るに我輩は憲法政治は断じて国体を変更するものに非ず、只政体を変更するのみと主張した」と云ふて演説を了られた。(明治41年発行時事評論)
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
四六〇
時下、愈、御安泰御消光可被遊 大賀御事ニ御座候。生モ、其後、時々御左右御伺可申上ノ処、商法会議所ノ改革、参事院ノ諮問等、内外多事、為之、意外ノ不敬相極メ候段、何共無申訳、幸ニ御海容被成下候様、切願ノ至ニ堪ヘズ候。
偖、曾テ鳳眉ニ咫尺(シセキ)シタル際、彼ノ急進党等ノ近状ニ付、意見ノ在ル処ヲ、上陳可仕様被仰聞、早速従事可仕ノ処、前陳ノ通、何角、緊務ニ取紛レ大ニ遷延ニ渉リ候段、又御寛恕被成下度。就テハ、卑見ノ概略ヲ、左ニ筆記シテ、奉仰尊覧条、尊威ヲ冒涜スルノ段ハ 呉々モ御許容ノ程、懇祷ノ至ニ御座候。
第壱 我聖天子ガ、明ニ、来ル明治二十三年ヲ以テ、国会ヲ開設遊バサルベキ旨、御聖勅被為在候ニ付テハ、最早、其遅速ヲ彼是論ジ候ハンハ、臣子ノ分トシテ、恐レ多キ義ニ御座候得バ、更ニ進ンデ、此八年間ニ於テ、十分ノ準備ヲ為シ得ベキカ否ヤノ点ニ、論入可仕候。扨、此条ニ付テハ、生ガ従来ノ持論ト実験ニ依モ、甚ダ以テ、此準備ノ掛念ナルヤニ被存候。何トナレバ、我国当時ノ民権家自由党ナンド、自称致シ候モノゝ中ニ二三ノ有識者ヲ除ケバ、多クハ空手徒食ノ窮士族輩ニシテ、此輩ガ祖先ノ遺物ニヨリテ、今日迄ハ漸クニ其命脈ヲ継ギ来リタルモ、如何セン、旧来ノ迷夢、尚、未ダ醒メズ、為之、自ラ奮ツテ事業ニ着手スルノ念モナク、只々、生計日ニ窮乏ヲ告ゲ来ルニ付テハ、何ガナ、焼眉ノ急ヲ救フベキ策モガナト、此ニ初メテ投機ノ心ヲ萠シ、常ニ世上ニ事アランコトヲ持ツガ如キ姿ヲ現ハセシニヨリ、此ノ如キ場合ヲ奇貨トシテ、亦、私カニ名利ヲ博シ得ント希フ彼ノ二三ノ人々ガ、種々ノ辞柄ヲ設ケテ、右等ノ輩ヲ扇動シ、昨是今非、更ニ定見ナキノ投機者流ヲシテ、民権ノ自由ノト、唱ヘシムル迄ノ事ト奉存候。尤モ、此事ニ付テハ、生モ、決シテ、徒ラニ大言ヲ吐キ候義ニテハ無之、今其一二ノ実験ニ付テ、之ヲ申上候ハンニ、此程彦根地方ニ於テ、急進党ト称スル面々ガ打寄リ、近江自由大懇親会ナルモノヲ開キ候由。右ニ付、新聞紙上ノ広告ヲ一見致候処、其発起人中ニハ、同地銀ノ頭取・取締役ナンドノ姓名モ有之、生モ甚ダ怪訝ノ余リ、右取締ノ某ニ面会仕リ、全体銀行ナルモノハ、政府ヨリ特別ノ保護ヲ辱フシモノナレバ、素ヨリ政府ト其主義ヲ同一ナラシメザルベカラザルハ、論ヲ待タザル義ナルニ、何故ニ、貴殿等ガ、奮ツテ此挙ニ与ミセラレタルモノニヤ、ト問ヒタルニ、始メテ驚キタル姿ニテ、我等ハ、只、当地壮年輩ノ依托ニヨリテ、其発起人トナリタル迄ナリ。又以テ、彼ノ急進ヲ主張スル人々ハ、多クハ定見ナキ壮年輩、若キバ投機者流ニ、外ナラザルヲ証シ得ベキ義ト奉存候。右等ノ事実ニ付テモ、生輩ノ愚考仕候処ニテハ、先ヅ準備第壱ノ策ハ、憂世愛国ヲ自任致居候モノノミ相謀リ、奮ツテ我国ヲ豊富ナラシムルノ術ヲ講ジ、漸次ニ、彼ノ空手徒食ノ輩ヲ減ズルヨリ外、策ナクト奉存候。尤モ、此一事ニ付テハ、生モ、尚、二三ノ持論アレドモ、徒ズラニ枝葉ニ渉ランコトヲ恐レ、暫ラク他日ニ譲リテ、更ニ本論ニ緊要ナル二三ノ論題ニ移リ可申候。
第二 生ハ、当地近傍ノ民権家自由党ナンド申ス人々ガ、平生論議スル処ヲ聞クニ、実ニ抱腹絶倒ノ事ドモ多ク、而カモ、彼ノ輩ガ、日本ニハ、宜ク、日本ノ国会ヲ開カザルベカラズトノ一義ヲ存知セズ、只、口ニ任セテ、立憲政体トハ、斯々ノ組織ヨリ成立スルモノナリ 英ニテハ云々ナリ、日耳曼(ゲルマン)ニテハ斯々ナリト、恰モ政治学ノ論議ヲナスガ如ク、畢竟スルニ、政体ハ国体ノ殊異ナルニ随ツテ、其有様ヲ異ニセザルヲ得ザルノ一大活物ナルコトヲ、悟ラザルモノゝ如ク、立憲政体トサヘ云ヘバ、一概ニ英国モ日本モ、同様ノ政体ヲ施行シ得ベキモノナリ、ト思ヘルニ似タリ。惑ヘルモ、亦甚シト云フベシ。元来、彼ノ輩ハ、我日本国ノ国体ニ於テハ、万般ノ権利、皆、我聖天子ヨリ下シ賜ハルモノニシテ、決シテ、之ヲ奪ヒ返スト云フガ如キモノニアラザルコトヲ、諒知セザルニヨリ、斯クハ五里霧中ニ彷徨シ、遂ニハ、彼ノ国体ノ殊異ナル国々ノ例ヲマデ引証シ来リテ、我国ノ事ヲ論議セントスルニ至リシモノナリト思ハル。実ニ彼ノ輩ヲシテ、外国ノ治者被治者ト、我国君臣ノ関係トハ、自ラ云フベカラザルノ間ニ、深理ノ存スルモノナルコトヲ知ラシメバ、斯ル迷ヒモ起ラザリシモノトス。只管、彼輩ガ心中ヲ憐ムヨリ外無御座候。
第三 彼ノ党ガ、斯ル浅薄ナル論拠ヲ恃ンデ、事ヲ為サントスルモ、到底、其望ヲ達スルノ暁キニ至ツテハ、只烟散霧消ニ帰シ了ルヤ、固ヨリ論ナシト雖モ、如何セン、前段ニ述ブルガ如ク、当時我国ノ実況ニ在テハ、彼ノ投機者流ノ幇助モ、亦、痛ク彼党ノ進歩ヲ刺撃シ、此儘ニ打捨テヲキナバ、或ハ由々敷一大事ヲ惹キ起サンモ、亦知ルベカラザルニヨリ、生ノ愚考スル所ニテハ、何卒シテ、早ク、朝野ノ間ニ人望アル人々ガ奮起シテ、正々ノ論旗ヲ樹テ、抑モ、日本ノ国体ニ於テハ、斯々ノ事実アリ、云々ノ秩序アリテ、決シテ、彼ノ舶載ノ書籍通リニハ為シ得ベカラザルモノナリ、ト云ヘル事実ヲ詳ニ論弁シ、彼輩ヲシテ、速カニ前非ヲ悔悟セシムルコト、最モ緊要ノ務メナリト思ハル。然ラズシテ、恣ニ、彼党ノ勢力ヲ熾ンナラシメバ、意外ノ禍機、此間ニ生ゼンモ、亦知ルバカラズ。元来、我国ハ、遽カニ開進シタルノ国ナレバ、随ツテ、長ヲ取リ短ヲ捨ルノ場合ニ於テモ、十分ニ定見ヲ備ヘ、而シテ後、其良否ヲ採択シタルニアラザレバ、彼ノ舶載ノ書籍中ニ於テモ、或ハ著者ガ某本国ノタメ、若クバ当時ノ時勢ノタメニ、已ムヲ得ザルニ、論弁ヲ費シタルモノモアルベク、又他邦ニ在テハ、有害無益、実ニ懼ルベキノ著述モコレアルベシ。是等ノ書ヲシテ、定見ナキノ我国人ニ読マシメバ、実ニ当時ノ勢ヒ、今更、詮方ナキ次第ナリトハ云ヘ、如何セン、先入師トナルハ、凡常人ノ免ルベカラザルトコロナルニヨリ、我国人中、就中、彼党ニ於テハ、或ハ是等ノ書ニ薫陶セラレ、而カモ、亦之ヲ以テ、其論場ノ小楯ト頼ミ居ルモノモ可有之、旁々、此輩ノ迷夢ヲ醒覚セントスルニハ、先ヅ、早ク、我党中名望アルノ士ヲ出シテ、専ラ我国ノ事実ニヨリ、徐々、彼党ガ無謀ノ論陣ヲ破砕セシムルコト、甚ダ以テ、緊要ノ次第ナリト存ゼラル。偖又、此場合ニ於テハ、政府ノ国是ヲ、確乎不動ノ地位ニ安クコト、又最モ一大要件ナリト思ハル。昨年来、政治社会ニ渙発シタル種々ノ事件中、生輩ヲシテ、実ニ隔靴掻癢ノ歎ヲ抱カシメタルモノ、亦少シトセズ。現ニ、彼ノ開拓使一条ノ如キ、其処置ノ是非ハ、暫ラク別個ノ問題ナレバ、之ヲ論ゼザルモ、彼ノ容易ニ取消達書ヲ頒布セラレタルガ如キ、果シテ、民間囂々ノ声ヲ箝スルガタメトセバ、生輩ハ、悚然トシテ、懼ルゝ処ナキ能ハザルナリ、何トナレバ、政府当時ノ現状ニシテ、既ニ斯ノ如クナリトセバ、国会開設ノ日ニ至ラバ、政府ハ勿論、恐レ多クモ九重ノ上マデモ、国会ノタメニ左右セラレ、政府ト国会トノ権衡其宜キヲ失ヒ、云フベカラザルノ弊害ヲ現出スル、猶、彼ノ米国ノ如キ有様ニ立到リ可申ヤ、ト存ズレバナリ。固ヨリ、斯ノ如キ事ハ、杞憂中ノ杞憂ニテ、決シテ、我国体ヨリ組織セル日本ノ国会ニハ、万々去ルコトノ有間敷義トハ存候得共、元来、朝令暮改ハ、最モ政治社会ノ悪弊ナルノミナラズ、而カモ、今回ノ挙ノ如キハ、只僅ニ、二三新聞記者ノ故アリテ、喋々シタル迄ニテ、其他ハ前段申述候投機者流ガ、取消ヲ達セラレタルニ至テハ、聊カ、憂慮ニ過ギ、実勢ニ暗カリシコトナリ、ト申サゞルヲ得ザルヤニ被存候。
右ノ外、種々開陳可仕義モ有之候得共、要スルニ、我国目下緊要ノ務メハ、只管、富国ノ術ヲ謀ルコト、第一義ナリト申サゞルヲ得ズ。何トナレバ、我国内外ノ近状ヲ見ルモ、彼ノ常ニ東洋ノ好餌ニ垂涎シ、苟モ、其機会アラバ、一搏以テ之レヲ攫取セントスルノ猛鷲(露西亜)ハ、益々、羽翼ヲ伸シテ、其呑噬ヲ逞フセントシ、又常ニ、我国ト唇歯輔車ノ関係ヲ有セル清国ニ於テモ、近来、頼リニ陸海軍備ヲ整ヘ、戦艦兵器ヲ需メ、条理ニ腕力ニ、彼ノ琉球処分ノ正邪ヲ決行シ去ラントスルノ姿アリテ、我レ、若シ、一歩ヲ退ケバ、彼レ将ニ十歩ヲススメメントスル、危急千万ノ時機ニ際会シタルモノナレバ、宜シク、彼レガ、漸次、侵入ノ勢ヲ防禦セザルベカラザルハ、誰人モ皆知ル所ナリトハ云ヘ、如何セン、我国ノ現状ト実力トニ於テ、未ダ、コレガ、十分ノ備ヲナス能ハザルニアラズヤ。又退ヒテ、内地ノ現状ヲ回視スレバ、僅ニ十有余年ノ前ニアツテハ、忠孝節義ノ名ハ山岳ヨリモ重ク、愛国憂世ノ情ハ、河海ヨリモ深ク、之ガタメニハ、死ヲ観ル帰ルガ如ク、栄ヲ捨ル芥ノ如クナリシモ、明治十五年ノ今日ニ至テハ、澆季風ヲ移シ、軽薄俗ヲ為シ、只紛々トシテ、議論ノ聒シキヲ覚ユルノミ。内地ノ近状斯ル場合ニ陥ヒリシモ、只々、前段申述候如ク、所謂、空手ノ徒、瀨惰ノ民多キノ致ス所ナルニ外ナラザレバ、旁々以テ、今日ノ内憂外患ヲ除カントスルノ策ハ、専ラ、国力ヲ豊富ナラシムルノ一事ニアルヤ、生輩ノ信ジテ疑ハザル所ニ御座候。尤モ 此豊国ノ策トハ、如何ナルモノカト、云フニ至テハ、嘗テ卑見ノアル処ヲ筆記シテ、尊覧ヲ煩シタル義モ有之、且ハ本論トハ、自ラ別個ノ問題ナルニヨリ、之ヲ略シヲキ、尚他日二三ノ論ズベキ事件ヲ、併セテ、再応可仰電覧候。
右ハ、生ガ卑見ノ儘ヲ、筆ニ任セテ、列記シタルモノニ御座候得バ、万々誤謬ノ論点モ可有之。何レ、不日拝趨、可仰御高示ト奉存候。乱筆愚文、敬ヲ失スル極メテ多シ。万、御寛恕可被下候。
宜三、恐懼恐懼頓首百拝
二月十六日夜、燈火ニ認ム (福島)宜三
五代友厚様 御侍史
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